ファミリーヒストリー 阿川佐和子~祖父は知られざる名建築家 そして父の遺品・父方のルーツは、ある武家の一族…


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出典:『ファミリーヒストリー▽阿川佐和子~祖父は知られざる名建築家 そして父の遺品に』の番組情報(EPGから引用)


ファミリーヒストリー▽阿川佐和子~祖父は知られざる名建築家 そして父の遺品に[解][字]


母方の祖父は戦前に活躍した建築家。頑丈な建物は空襲や原爆に耐え、多くの人命を救っていた。父方のルーツは、ある武家の一族と判明。父の遺品に阿川さんは思わず涙する。


詳細情報

番組内容

阿川佐和子さんの母方の祖父は、戦前に活躍した建築家。耐震性の高い鉄筋コンクリートで学校校舎などを建てていた。番組司会の今田耕司さんが通った小学校も祖父の手によることが判明する。空襲や原爆にも耐え、多くの人命を救った。一方、父方の阿川家は、鎌倉時代の有力な武家の一族だったことが明らかになる。また、見つかった、父で作家の阿川弘之の遺品。そこには、娘へのある思いが。佐和子さんは、涙をこらえきれなかった。

出演者

【ゲスト】阿川佐和子,【司会】今田耕司,池田伸子,【語り】余貴美子



『ファミリーヒストリー▽阿川佐和子~祖父は知られざる名建築家 そして父の遺品に』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

ファミリーヒストリー 阿川佐和子~祖父は知られざる名建築家
  1. 弘之
  2. 佐和子
  3. 昭和
  4. 取材者
  5. 阿川
  6. 甲一
  7. 当時
  8. 作家
  9. 小説
  10. 増田家
  11. 阿川家
  12. 結婚
  13. 現在
  14. 作品
  15. 自分
  16. 秀綱
  17. 鎗造
  18. 増田
  19. 池田
  20. 明治


『ファミリーヒストリー▽阿川佐和子~祖父は知られざる名建築家 そして父の遺品に』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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今夜の
ゲストは…

沖縄以外のところは 大体…。

テレビや雑誌の対談で
巧みに本音を聞き出します。

奈良岡さんの声は 私は好きです。
(奈良岡)いや~

自分の声 あんまり好きじゃないですね。
好きじゃないですか? そうですか?

(奈良岡)
うん 嫌いでもないけど。       (笑い声)

7年前に出版した著書 「聞く力」は
172万部のベストセラーに。

エッセイストとしてだけでなく
小説家としても活躍する阿川さん。

著書は これまでに
80冊を超えています。

父親は 阿川弘之。

文化勲章を受章した
戦後を代表する作家です。

今回のゲストは 阿川佐和子さんです。

どうぞ~。 あ~!
(拍手)

お願いします!
(拍手)

(池田)ようこそ お越し下さいました。
どうぞ こちらの方へ。

いや~。
いや~。

「ファミリーヒストリー」へ ようこそ!
ということで。                  いや

まさか この番組に呼んで頂けることに
なるとは 思ってもいませんでした。

いやぁ もう でも
お父さんが もう すごい作家の方で…。

全然 すごくない。
いや!

でも 阿川さんの本も 175万部ぐらい
売れてるんですね。
「聞く力」。

ええ… ああ いろいろ… はいはい。

もうアナウンサー 全員 読んでます。
あ そうなんですか? 参考に。

多分 読んでます 全員。
参考になりました?

♬~

佐和子の父 作家・阿川弘之。

その戸籍によると
阿川家の本籍地は

山口県美祢市伊佐町河原。

山口県の内陸にある
山あいの農村です。

あら 行ったことないわ。

戸籍に書かれた住所を訪ねました。

そこには現在 阿川家とは
ゆかりのない人が暮らしています。

ここに 昔 阿川さんって
お住まいでしたか?      あった。

(取材者)
あ このうちは?            はい。

すぐ近くで
「阿川果樹園」の看板を見つけました。

(取材者)阿川佐和子さんのご先祖が

この お近くに
お住まいだったみたいなんですけど。

ああ そうですね。
(取材者)こちらの阿川さんとは

ご関係はあったんですか?
ええ まあ…

近くに 佐和子の先祖の墓がありました。

江戸時代に
建てられた墓です。

阿川家は いつから ここで
暮らしていたのでしょうか?

豊北町の阿川は 伊佐町から北西へ
およそ40キロ

日本海に面した集落です。

ここでは 「阿川」という文字が
あちこちで見られます。

失礼いたします~。

(取材者)今日は
よろしくお願いいたします。     どうぞ。

武士だったって聞いてないです。

鎌倉時代
家来を伴って 阿川へやって来た秀綱。

この小高い丘の上で暮らしていました。

「阿川」とは
湿地を流れる川のことだといいます。

秀綱は
この地を干拓し 村をつくりました。

阿川秀綱の流れをくむ
阿川一族の本家筋が見つかりました。

失礼いたします~。

俊一郎さんの家には
代々 家系図が受け継がれてきました。

(俊一郎)あ!

「秀綱 長州 阿川を領地とし
初めて阿川氏を称した」

と書かれています。

実は 阿川一族は
もとは佐々木姓でした。

秀綱の祖父 佐々木定綱は

源頼朝の
側近の一人で

源平の合戦で
活躍した武将です。

佐々木氏は
現在の滋賀県近江八幡市から出た一族。

近江佐々木氏として知られています。

近江佐々木氏の氏神…

神社に残る佐々木一族の系図を
見せてもらいました。

(取材者)
あ こちらが 近江佐々木氏の系図ですか。

神社の系図にも…
阿川家の祖 秀綱の名前がありました。

秀綱と書かれてますね。
ねえ!

山口で見つかった阿川家の系図を
見てもらいました。

神社に残されてある系図と
阿川家に残されてある系図が

ぴったしと こう
合うということは

これは間違いなしに
証拠になるっちゅうか。

もう はっきり
これで もう 分かりますね。

実は この佐々木氏は

平安時代中期に在位した

宇多天皇の流れをくむ

一族だといいます。

何? えっ?
宇多天皇って…。

定綱たち佐々木一族が
源平の合戦で活躍したため

鎌倉幕府から 全国各地に
領地を与えられます。

現在の中国・四国地方の
広い範囲も

佐々木氏が
治めることになりました。

鎌倉時代の初めに
阿川の地にやって来たのが秀綱。

地名から「阿川」と名乗ります。

それから およそ800年。

現在 山口県内には
多くの阿川姓の人が暮らしています。

ところが この阿川には…。

(取材者)ない? ほんとですか。
ないです。 はい。

失礼します~。

(取材者)いらっしゃいません。
はい。

なぜ 現在
阿川には 阿川姓の家がないのか。

毛利ね。

戦国時代 佐和子の先祖は

阿川から この伊佐町河原へ
移り住むことになったのです。

はぁ~ スケール でかっ!     いやいや。
いやいや いかがですか?

でも 武士の出っていうこと自体が
驚きです。
うん!

農民だって聞いてましたからね。
全然 違いました。

「うちは そんな偉い家の出ではないんだよ
お前らぁ!」とかいって。

すごい出でしたよ。
「だから俺は下品だ!」とか。

偉そうなんですか。
偉そうに言ってました。

いや もう源氏ですよ。
もう源平で活躍されて…。     遠すぎる。

いや ほんとに そこからの
武士ですからね。         そうですよね。

だからもう
エリートですよ ほんとに。       そう?

だから あの 戦国時代に衰退して…。

やっぱ 違う毛利が入ってきたから
もう いれないってなったんですね。

もう逃げてったんですかねぇ。
そうですね。 バラバラに もう…。

父が生きてたら 何て言うだろう。
ほんとですね!                  ねえ。

だって 聞かされてたのは…。
急に いばり始めちゃっても私が困るから。

阿川家が 長年 暮らしてきた…

ここで 明治3年に生まれたのが…

甲一の生い立ちを知る手がかりが
佐和子の実家で見つかりました。

行ったんですか?

(取材者)あの
NHKの「ファミリーヒストリー」…。

一番下の弟。

作家・阿川弘之が
生前 多くの作品を書いた書斎です。

知らないわ。
弘之が

父・甲一のことを小説に書こうと
聞き取り取材をした時のノート。

結局 作品にはならず
引き出しの中で眠っていました。

「甲一は…」。

「次に 大阪へ勉強に行った。
その資金は働いて自分でためた」。

明治22年 甲一は 19歳で
関西法律学校に入学します。

当時の甲一の写真が見つかりました。

甲一は 3年間 ここで法律を学びます。

関西法律学校の創設者の一人…

…の姿があります。

甲一が学んだ教師でもありました。

その後の甲一について
聞いているのが…

やはりね…

甲一は 23歳で 事業を始めようと
ロシアのウラジオストクへ渡ります。

そして 独学でロシア語を習得。

シベリア鉄道の工事を
請け負うことに成功します。

なぜ 甲一は
工事を請け負うことができたのか?

「ファミリーヒストリー」の者です。
どうも。

当時のロシアの事情に詳しい…

明治37年 日露戦争が勃発します。

甲一は 志願して
ロシア語の通訳官として従軍します。

配属されたのは 陸軍騎兵旅団 第14連隊。

旅団長は 小説「坂の上の雲」で知られる
秋山好古でした。

甲一の任務は 捕りょを尋問し
ロシア軍の情報を聞き出すことでした。

翌年 日露戦争が終わっても
甲一は 日本に戻りませんでした。

中国の長春で
「阿川工程局」という会社を設立します。

阿川工程局は 長春の大通りに
面していました。

長春駅から すぐ近くの一等地です。

事業は成功。 甲一は…

しかし 大正9年 50歳になると 甲一は
経営の第一線を あっさり退いて帰国。

広島で 隠居暮らしを始めます。

その年
妻・キミとの間に

生まれたのが
弘之。

後の佐和子の
父です。

これ? 女の子かと思った。
(池田)かわいらしい。

弘之は 地元の名門…

中学時代の弘之のことをつづった
同級生の手記が

同窓会の事務局に残されていました。

昭和12年 軍事教練で
演習場へ出かけた時のこと。

「ふざけて歩いていた私は途中で転び
飯盒の蓋が開いて

おかずが全部
路上に散乱してしまった」。

「昼食時 阿川君は 自分のぶんを
半分 私に分けて呉れた」。

(池田)これは うれしい。 ほんとか?
ハハハハッ!

その後…

当時 夢中になって読んだのが

白樺派を代表する作家
志賀直哉の作品でした。

そして自分も 小説を書くようになります。

16歳で初めて書いた作品について
後に こう つづっています。

「大甘の
フィクションで

今 誰かに読まれたら
さぞ閉口だろう」。

その 読まれたら困るという作品が
今回 広島大学で見つかりました。

阿川弘之さんの最初の小説が
載っています。

うわ~ 最初。
(池田)最初の。

弘之が 文芸部の文集に
初めて書いた小説

「白き花」。

ペンネームを
「吾川みのる」としています。

へえ~ ペンネームまで作ったんだ。

中国の大連を旅する日本人の青年が

白系ロシア人の女性と
ひと夏の恋をする物語。

「そして
意味深いものでは

なかったろうか」。

「小説家になりたい」と考えた弘之。

東京で下宿生活を始めた弘之が
足しげく通った家があります。

それは 高校時代 文芸部の講演会に
講師として招いた哲学者

谷川徹三の自宅でした。

谷川俊太郎さんの 詩人の…。

徹三の長男で 日本を代表する詩人
谷川俊太郎さん 88歳。

そんなとこまで行ったの。

俊太郎さんは
数多くの詩集や童話 絵本を出版。

脚本や作詞も手がけてきました。

この方は すばらしい人ですよ。 この方は。

え~? え~?
ヘヘッ。

昭和16年12月8日
弘之が下宿で寝ていると…。

「本8日未明
米英軍と戦闘状態に入れり」。

太平洋戦争が勃発。

翌年 どうせ戦争に
行くならと

陸軍ではなく 海軍を志願した
弘之。

後に その理由を
こう語っています。

これは…

昭和19年 海軍中尉となり
中国の揚子江方面へ。

通信部特務班に配属されます。

え~ 当時…

昭和20年8月
弘之は そのまま終戦を迎えます。

しかし 海軍の仲間や大学の同級生など
多くの友人を失いました。

打ちひしがれて生まれ故郷の広島へ戻ると
街は 原爆で焼き尽くされていました。

爆心地から2キロの実家は全焼。

それでも家族は助かり
知り合いの家に身を寄せていました。

弘之が帰ってきた日のことを
覚えています。

その時の体験を 弘之は
すぐに小説に書き上げます。

そして 原稿を見てもらおうと

東京の谷川徹三の家に向かいました。

とにかく…

弘之から原稿を手渡されると

徹三は 一人
奥の部屋に籠もり読みました。

徹三が創刊に関わった雑誌 「世界」。
その昭和21年9月号に

弘之の小説 「年年歳歳」が掲載されます。

戦地から ふるさと広島に戻った主人公。

「死んだら死んだと…」。

こうして弘之は 26歳で
作家としてデビューしました。

間もなく 一人の女性を紹介されます。

女性の名は 増田みよ。
後に 佐和子の母となる人でした。

いかがでしたでしょうか?
いやぁ… はい。

お父さんの人柄が。
でも 結構…。

まぁ 父の人柄は
重々 知ってるんですけれどもね。

そうでしょうね。
本も出してますからね。

なんか 「恨みつらみがない純粋な」
っていうのは

ちょっと どうかなと思いますけれども。
そこは 家族にも見せないね。

でも 「潜在意識が きれいな人」っていう
なかなか表現として初めて聞きましたね。

きれいっていうか 曲がったことが…。

要するに 割に合理主義的なところも
ありましたから

理にかなわないことに対しては
反発してましたし。

でも 割に こう
まっしぐらっていうか…。

まっすぐな方なんですね。
まっすぐなんですね。

「私の責任で日本が負けました」って。
本当に負けて申し訳ございませんが…。

みんな プッと笑ったって。
…というぐらい まっすぐ。

佐和子の母 旧姓・増田みよ。

佐和子にとって
もう一つの大切なルーツ

母方・増田家の歴史に迫ります。

都内に住む…

佐和子のいとこに当たります。

隆さんの家には 父親の坦さんが

生前 自ら調べてまとめた
家系図が残されています。

(隆)最初が この「吉田」なんですが…。

(取材者)最初は
吉田さんとおっしゃったんですね。

初代として
天和2年1682年に亡くなった

吉田惣市の名が書かれています。

(隆)3代目で増田の名前に
なってるんですね。

うちの先祖は
江戸の幕府の旗本っていうか

御家人だったよっていうのは
聞いていました。

(取材者)御家人で
どんな お仕事っていうのは?

そこまでは ちょっとよく分からない
っていうか 聞いてないですね。

今回 国立公文書館で
ある資料が見つかりました。

足を使った…。
信じられない。 探偵団みたいね。

慶応2年に書かれた
増田家の「由緒書」です。

由緒書って言うの。
由緒書。

佐和子の曽祖父
鎗造の兄 安太郎が

増田家の来歴を書き
幕府に提出したもの。

増田家の本国は
伊豆と書かれています。

まあ 温暖なところで。

佐和子の
11代前に当たる
初代・吉田惣市は

台徳院こと
第2代将軍
徳川秀忠の時代に

「掃除ノ者」を
務めていたと
書かれています。

2代目も 掃除ノ者。

3代目の時
姓を増田と改め

やはり 掃除ノ者を
務めていました。

失礼いたします。

「掃除ノ者」とは
どんな仕事をしていたのか。

江戸幕府の役職に詳しい…

(取材者)文字通り…?

4代目 八兵衛の時に
増田家の役職は

「小普請方手代」
に変わり

その後 幕末まで
代々

同じ仕事を
続けています。

増田家が 下谷車坂下

現在の上野駅の すぐ近くで
暮らしていたことも分かりました。

ここから 江戸城内へ
通っていたのです。

しかし 江戸幕府が倒れると
御家人たちは 職を失います。

(銃声)

その後 増田家が移り住んだ場所が

静岡県掛川市の図書館で分かりました。

これは 現在の掛川市
横須賀町の明治初めの地図です。

(木佐森)こちらになります。

(取材者)
ここに 「増田鐘三郎」とありますね。

増田鐘三郎は
佐和子の曽祖父・鎗造の兄で

増田家最後の御家人でした。

これが この 今…

明治の初め
増田家が暮らした横須賀町です。

家は 横須賀城の跡地の中に
建っていました。

明治8年 佐和子の曽祖父
鎗造は陸軍に入隊します。

鎗造が 自ら書いた履歴書が
残っています。

配属されたのは
名古屋鎮台の第6連隊。

明治10年
「九州地方へ出張」

「熊本県下の諸所を
転戦した」と
書かれています。

(白石)そして この
西南戦争では 激戦である…

西南戦争に従軍した鎗造は
あることに たけていました。

これは 鎗造が
軍の射撃大会で優勝した時の賞状。

400ヤード およそ
360メートルの距離で

50発のうち 48発を
命中させています。

西南戦争のあと
鎗造は 仙台鎮台に配属され

宮城や福島など 東北各地で勤務します。

明治21年 福島県の桑折町で
生まれたのが 清。

後の佐和子の祖父です。

福島で
生まれたのか。

清は 父の転勤に
伴い

福島 宮城 青森の
学校で学びました。

そして 成績優秀だった清は…

学んだのは 頑丈な建物を造るための
構造建築学でした。

学生時代 清が描いた
邸宅の設計図が

東京大学に
残されていました。

当時の日本では珍しい
鉄筋コンクリート造りの洋館です。

大正2年に卒業すると

清は 大阪を拠点に 西日本各地で
建築家として活動します。

大正7年 30歳の時
奈良県出身のたまと結婚。

増田 清に注目する人がいます。

日本の近代建築史を研究する…

(取材者)増田 清さんについて
お聞きしたいんですけれども。

清が設計した小学校です。

地震や火災に
耐えられるよう

当時としては画期的な手法で
頑丈に造られていました。

壁を 「耐震壁」と言いまして…

清の設計の特徴は 天井の梁が
アーチ型に造られていること。

見た目が美しいだけでなく

建物全体を頑丈にする効果がありました。

(川島)これは…

(川島)そういうことを考えますと…

ちなみに 今田耕司さんが
通った当時の

生魂小学校の校舎も

増田 清が設計したものでした。

えっ! 生魂小学校。
(池田)え~ ご縁がありますね。

清が設計したもので
今も残る数少ない建物の一つが

大阪の心斎橋にあります。

大正13年に建てられた 三木楽器本店。

構造は 鉄筋コンクリートです。

1階は当時のまま 広いショールーム。

吹き抜けの階段を上ると
今は倉庫となった最上階。

天井は やはりアーチ型です。

これは 昭和20年3月の
大阪大空襲後の写真。

三木楽器本店は
焼けずに残っています。

空襲の時 近所の人たちが
この建物に避難して助かりました。

(取材者)焼夷弾が?
はい。

避難した一人…

浅井さんたちが逃げ込んだのは
地下の倉庫でした。

広島にも
清が設計した建物が残っています。

広島平和記念公園の中に建つ…

今は 公園を訪れる人たちの
休憩所として使われています。

レストハウスは
もとは 昭和4年に

呉服店として
建てられた
3階建てのビル。

戦時中の広島を舞台にした映画

「この世界の片隅に」でも描かれています。

(池田)象徴的なんですね 町の。
そうですね。

昭和20年8月6日
広島に原爆が投下されます。

レストハウスは 爆心地から

僅か170メートルの至近距離に
ありましたが

屋根と壁の一部が崩れただけでした。

え~! 周り
何にもないやん。

地下室は
今も 当時のまま残されています。

原爆が投下された その時
たまたま ここで働いていた人がいます。

(野村)「そこらじゅう 全部燃えて…」。

当時47歳だった 野村英三さん。

爆心地から 一番近い距離にいて
助かった人として知られています。

地下にいたため
原爆の閃光を浴びなかった英三さん。

英三さんの息子 英夫さんです。

これは あの 父親の
原爆のことを書いた手記なんです。

(英夫)はい こっからが。 はい。

(取材者)
ここですね 「原子爆弾の投下」と。

「大地震のように
足下が揺れて

戸棚が ひっくり
返ったようで

棚の書類も
皆 落ちた」。

「そんな中
頭にコツンと

小石のようなものが
当たって

軽いケガを
負っただけで
済みました」。

母方の祖父というのは
もう私が 子どもの頃には

自分で建築した 渋谷の家に
老夫婦で住んでいたんです。

そこには ちょくちょく
遊びに行ってて 現実にもう

ほとんど隠居状態に
近かったと思いますから。
その時は。

私は その祖父が
それほどまでに 全国に

今田さんの小学校まで
造ってたなんてこと…。

いやぁ ビックリしましたよ。
ほんとに知らなかったんで。

まさか天王寺って出てきたから
近いなぁ思てたら…。

あのイクタマっていう人文字の
1人 俺ですからね 多分。

いや ビックリしましたよ。

でも すごい まぁね 爆心地とか
空襲の跡 見たら

ほんとに 見事に その建物しか
残ってないですもんね。

おじいさんの。
おじいちゃん偉いと思って。

あそこの三木楽器で 何人の方が
助かったかっていうことですよ。

見事に
何にもなかったですからね 周り。

でも もう 祖父自身は
ほんとに地味な 穏やかな人で。

片や 阿川の私の父は どなってるとこしか
ほとんど見たことないみたいな

機嫌が悪いのしか見たことないから。

だから おじいちゃん おばあちゃんの
うちに行くと 穏やかな気持ちになって。

私の理想の男は おじいちゃんって
母の方のね。

おじいちゃんって
思ってたんですけどもね。
穏やかな方。

伊豆からの出身でっていうね。
はい はい。

そこから その お城の御家人?

掃除…?
掃除ノ者。     そう。

今度はもう 台風あとのメンテナンス。
中のもっと…。

だから ほんとに
きちんきちんとした性格だった。

きちんきちんと片づけて
きれいにする性格が

増田家だったのかしら。
建築家に通ずるところがありますよね。

ほんとですね 建物に。
その血は受けてないわねぇ 私は。

はぁ… 父に似て悲しい。

似てたんですね 実は。
うん 似てるみたい。 はい。

昭和2年
清の次女として生まれたのが みよ。

後の佐和子の母です。

その8年後 清たち一家は
東京に移り住みます。

清は 大学時代の友人に招かれ
大手建設会社・安藤組で

取締役技師として
働くことになりました。

家は 永田町。

首相官邸のすぐそばに
ありました。

みよは 自宅から近い
永田町小学校に転校します。

(取材者)こんにちは。

みよの同級生が見つかりました。

(取材者)みよさんのお友達。

ちょっと こんなのが
見つかったんですけれど。

近所に住んでいた道子さんは

よく みよの家に
遊びに行ったと言います。

昭和11年2月 自宅のすぐ近くで
ある大事件が起きます。

陸軍の青年将校らが
首相官邸などを襲撃したのです。

その時の話を
みよから聞いているのが

長年 阿川家で
お手伝いさんとして働いている…

みよは 姉と一緒に
親戚の家に避難させられました。

そして昭和20年 東京女子大学に入学し
国語科で学びます。

昭和23年の国語科の卒業写真です。

成績優秀だった みよは
卒業式では総代も務めました。

当時の みよの親友…

学生時代から みよが
よく訪ねていた場所があります。

遠戚に当たる哲学者
谷川徹三の家でした。

実は 徹三の妻の姉と
みよのおじが

結婚していたのです。

そんな中 みよが谷川家で出会ったのが

作家としてデビューしたばかりの
阿川弘之でした。

これが
間違いのもとでした。

みよは 真摯に文学に取り組む弘之に
ひかれていきます。

間違いでしたね これがね。

昭和24年 2人は結婚。
弘之28歳 みよ21歳でした。

この路地の奥にあった 粗末なバラックで
2人は暮らし始めます。

は~ そこまでの。

隙間風が吹き込む あばら家で始まった
新婚生活。

このころ 弘之は
ささいなことで 癇癪を起こし

みよに当たるようになります。
かわいそうな みよちゃん。

ハハハ 先生。

よく我慢しはったなあ。

まだ終戦間もない当時

弘之は 世間の風潮に
いらだちを覚えていました。

まっすぐな人やから。

人々は 手のひらを返したように

戦前とは言うことを
すっかり変えていました。

どうしても書いておきたいことがある。

長男の尚之が生まれても

弘之は 発表できる当てもない小説を
書き続けます。                 すごい。

昭和27年 その作品が やっと世に出ます。
「春の城」。

主人公は 戦争に行くことが
「自分達若者の 光栄ある義務だ」と

海軍を志願します。

しかし 戦後
「悪い事をしたのは

日本だけ」だった
ように言われ

挫折感を味わいます。

昭和28年 弘之は「春の城」で
読売文学賞を受賞。

作家の佐藤春夫や 評論家の
福田恆存たちと 同時受賞でした。

こうして弘之は 作家として
世に認められたのです。

うん 谷川さんの家が
出会いだったんですね。 ねえ。

お母さんが ちょっと どっちかというと
お父さんに。       どうなんですかねぇ。

あの 好きやったみたいですからね
それは。

いや でも その後に
もうほんとに 癇癪持ちでしたからね。

母も 泣かされることが
あまりにも多いので

子どもとしても
母が かわいそうで

「どうして結婚したの あんな人と!」って
言ったらね

「だって 分かんなかったんだもん」
なんて

それで母はね
「最初 会って おつきあいしてる頃は

よく笑う人だと思った」と。

「だから結婚するまでは ずっと
笑ってばっかりいる人だと思ってたら

結婚したら 怒ってばっかりいる人に
なった」って言って。

で 「分かんなかったのよ」って言って。
21で結婚してましたもんね。

やっぱダメだな 早いのは。 ねぇ。
急に自信を持たないで下さい。

でも父は まあ もちろん今見てると
それこそ ほんとに

戦後の人の心の変わりようって
いうものに

ものすごくイライラしたんだなぁって
いうことは

今 思って分かることは
ありますけれども。

でも お父様
1人で それを書き残し

この時 ためながらも
発信して残してきたっていうのは

逆に すごいパワーですよ。

でも そのストレスを全部
家族に ぶつけてましたからね。

昭和28年
弘之が 読売文学賞を受賞した年

長女の佐和子が生まれます。

宝物じゃないか。

間もなく 一家は中野区の鷺宮団地に
引っ越しました。

そうか 賞取ったし。
その家が 今も 残されています。

そうなんですよ この公団住宅
残ってるんですよ。

2階が 父・弘之の書斎でした。

当時 同じ団地に住み
仲が良かった 幼なじみがいます。

その幼なじみ
作家の内藤啓子さんを訪ねました。

ちなみに 内藤さんの父は
童謡「サッちゃん」の作詞で知られる

作家の阪田寛夫さんです。

まんまですね。
まんまです。

当時 佐和子が表紙を飾った雑誌です。

小学校入学前から
こうしてモデルを務めていました。

このころも 弘之の癇癪は続いていました。

(池田)え~!? そんな。

弘之は 佐和子が幼い時から
厳しく言い聞かせます。

そんな弘之を黙って支えたのが
母の みよです。

アメリカで暮らす佐和子の弟 知之さん。

苦労する母 みよの姿を覚えています。

生活面だけではなく
弘之の作家活動も支えました。

もう とにかくね…

弘之は 昭和40年に「山本五十六」を発表。

その後も 「米内光政」 「井上成美」など
海軍を題材にした作品を書き

作家としての地位を 不動のものとします。

昭和47年 慶應義塾大学に入学した佐和子。

将来を こう夢みていました。

ところが昭和56年 28歳の時
大きな転機が訪れます。

父と一緒に撮った
雑誌の広告写真が

テレビ局のプロデューサーの目に
留まります。

♬~

海外リポーターに起用されたのです。

おいしい おいしいです
おいしいです。

その後も 飾らない人柄が人気を呼び

ニュースやバラエティーなど
さまざまな番組で活躍します。

そして評判となったのが
雑誌「週刊文春」での対談。

26年にわたって 1, 300人を超える
ゲストから 本音を引き出してきました。

弟の淳之さんは
こうした佐和子の活躍は

「父・弘之のもとで
鍛えられたおかげだ」と言います。

なるほど。 いかがでしたか。
弟ながら あっぱれじゃ!

いやぁ すごい説得力でした。
弘之道場で培った この聞く力。

追い出されたら大変と思うから

今の父は どこで機嫌がいいのか悪いのか
というのを こう推し量りながら こう…。

だから そこを どう生き残るかの
手だてだけは

確かに 訓練させられたところは
ありますね。
いや 確かにね。

社会に出た時に
少々 理不尽なことがあっても

父に比べたらっていう。
あ それは ほんとに思いました。

民放の「TVタックル」っていう番組で

阿川さん どうして そう
平気な顔してるんですかって。

まあ 私に どなり声が届いたら
ちょっと怖いけども

ここで けんかしてたら

「はいはい はいはいはいはい
は~いはいはい」って言って

もっと盛り上がればいいのになっていう
そんなことじゃ驚かないですよね。

でも今日 ご自身の「ファミリーヒストリー」
ご覧になって いかがですか。

母の方も そうですけれどもね

まあ どうして結婚しちゃったんだろうと
思いますけれども

いろんな意味では
つながってるところが

あったんだろうなと思って。
もう 運命というか。

晩年は もう ほんとに父は
なんか自分がヨレヨレしながら

心配するのは 母のことばっかりで。

「お前は大丈夫なのか? お前の心臓は
大丈夫なのか? 大丈夫なのか?」

とか何とか言ってね
やたらに触りたがるから

愛してるんだなと思ったりしてね。

「ファミリーヒストリー」って
すごいですね。
いや すごいなあ。

もう 父母だけじゃなく

やっぱり どういう
自分の血のつながった人たちが

どんなことと たたかいながら

こう生きて
家族を養ってきたかっていうのだけで

十分に ありがたいことだと思いますね。

昭和43年 弘之の小説を原作にしたドラマ
「あひるの学校」が放送されます。

脚本を担当した人が
北海道 富良野で暮らしています。

倉本 聰さんです。

倉本さんは 当時34歳でした。

その後 公私にわたって
弘之と長く交流を続けた倉本さん。

弘之は 一貫して
戦争の意味を問い続けていたと言います。

戦後間もなく 26歳で作家としてデビュー。

以来 数多くの名作を生み出し
平成11年 文化勲章を受章しました。

弘之を陰で支え続けた 妻のみよさん。

現在は 自宅で静かに暮らしています。

テレビに出演する一方 エッセーや
小説を書いている 佐和子さん。

数多くの著作の裏側では
こんなことが ありました。

佐和子さんの弟 知之さんです。

平成27年 弘之は亡くなります。
94歳でした。

おいの範夫さんです。

弘之が病院で
亡くなる少し前

こんな姿を
目にしていました。

これが その時の佐和子さんの本です。

弘之は 既に出版された佐和子さんの本に
こうして手を入れていたのです。

阿川佐和子さんの「ファミリーヒストリー」。

激動の時代を 信念を貫いて生きた
家族の歳月がありました。

いや この番組で
泣くまいと思って来たんだけど

つけまつげ 取れちゃうじゃない。


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