歌のあとさき~加藤登紀子~ 特別編 旧満州に生まれ、安保闘争、学園紛争の最中にデビュー以来、激動の時代と…


出典:『歌のあとさき~加藤登紀子~ 特別編 旧満州に生まれ、安保闘争』の番組情報(EPGから引用)


歌のあとさき~加藤登紀子~ 特別編[字]


旧満州に生まれ、安保闘争、学園紛争の最中にデビュー以来、激動の時代と向き合いながら、歌でメッセージを送り続ける加藤登紀子の歌手人生を歌とインタビューで振り返る。


詳細情報

番組内容

大陸からの引き揚げ、シャンソンコンクール優勝、東大生と、異色の経歴で歌手デビューした加藤登紀子。「ひとり寝の子守唄」のヒットでシンガー・ソングライターとして注目を集め、「知床旅情」「百万本のバラ」などの大ヒットで不動の存在となる。その陰には、シャンソン歌手の石井好子、活動家で後に夫となる藤本敏夫、森繁久彌、中島みゆき、宮崎駿ら、異色の才能を放つ人々との運命的な出会いがあった。

出演者

【出演】加藤登紀子,【語り】石澤典夫


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  12. 言葉
  13. 時代
  14. 大ヒット
  15. 知床旅情
  16. 百万本
  17. ロシア
  18. 子守唄
  19. 全部
  20. 翌年


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シンガー・ソングライター 加藤登紀子。

デビューから半世紀
時代のメッセージを歌に込めてきました。

自分の歌を探し求める葛藤の中で

人生の大きな決断をします。

母となり 新たに芽生えた歌への思い。

さまざまな出会いの中で
自分の歌を見つけ歌ってきました。

あんなに迷い迷いして
何かに ぶつかって

どんでん返しだったり
その全部が自分の心の中に

ひたひたと あふれるように
存在してくれてるという。

加藤登紀子の
歌手人生を

数々の名曲と共に
たどります。

東洋のパリと呼ばれた街 ハルビン。

1943年 加藤登紀子は

3人きょうだいの末っ子として

この街に生まれました。

敗戦となり 2歳8か月の時に
日本へ引き揚げてきた加藤は

小学校 中学校時代を
京都 東京で過ごします。

高校を卒業すると 東京大学へ進学。

折しも大学は 学園紛争のさなかで
加藤も 他の学生と共にデモに参加

音楽とは無縁の生活を送っていました。

ところが 大学3年の時
加藤は シャンソンコンクールに出場。

副賞のヨーロッパ旅行が目当てでした。

しかし 結果は屈辱の4位。

とっても
しゃくに障ったんですけれども…

フランス語をしゃべれるように
発音とか勉強して

シャンソンを やっぱり
ちゃんとやりました。

私は もう
歌いたいなあと思ってました。

歌手になりたいと思ってましたね。

翌年 再挑戦したシャンソンコンクールで
見事優勝。

歌手デビューが決まり
期待に胸を膨らませていました。

ところが…。

で こんな感じのはどうか
あんな感じのはどうかと

あらゆるアイデアを レコード会社の人が考えて
トライしたんですね。

だけど この10曲のうちに
シャンソンが入ってないんですよね。

「あら?」と思って。

1966年 加藤は シャンソンとは程遠い
ムード歌謡路線の

「誰も誰も知らない」でデビュー。

しかし 全く注目されませんでした。

これから
知ってもらわなきゃいけないのに

デビュー盤が
「誰も誰も知らない」だったというのは

運命の皮肉だと思いますけれども。

何か シャンソンコンクール受けて
シャンソン歌手になったつもりが

全然 そうじゃなかった。

第2弾は 同じ 満州帰りの人たちに
応援してもらおうと

ロシア民謡調の曲 「赤い風船」に決まります。

うたごえ運動が盛んな時代
この歌は 多くの人々の共感を得て

レコード大賞 新人賞 受賞という
快挙を成し遂げたのです。

♬~

加藤がデビューした 1960年代

日本は 激しい学生運動の嵐が
吹き荒れていました。

1968年 東大の学生が無期限ストを打ち
卒業式粉砕を叫ぶ中

加藤は 式をボイコットして
座りこみに参加。

その様子が週刊誌で報じられます。

大学時代 歌手になるまでは
デモに行ってました。

それで 歌手になる時に
これを最後にして

私は 私の人生に踏み出す
という決心をしてたんですけど

やっぱり 一番懐かしいっていうか
私の場所は あそこだっていう

あれが 私の場所なのにっていうね
感じがあって。

だから 卒業という時に
選択を迫られた時に

ああ~っていう もう ああ~っていう
こっちに行きたいっていう…。

この時の記事を見て

是非 会いたいと
連絡をしてきた人物がいました。

全学連副委員長で 後に夫となる…

当時 社会的メッセージを歌に込めることで
学生たちは 団結を深めていました。

藤本は 加藤に呼びかけます。

「あなたはね 歌をね
政治に利用しようとしてるのね」って。

…って言ったら
この子は 乗ってこないなと。

それで 「ああ もう これで 私たち
二度と会う必要なくなっちゃったし

今日は 何もなかったことにして
飲みましょう」っつって

そしたら 3日後に彼が

個人的に 2人だけで会おうっていう
電話をくれました。

うれしかったですね~。

しかし 2人が つきあい始めて
半年が過ぎた頃

学生運動の指導者だった藤本は逮捕され
8か月 獄中の人となります。

1969年 東大安田講堂に機動隊が突入。

激動の時代の中で 加藤は
歌手としても悩んでいました。

悩む加藤のもとに届いた 藤本の手紙
そこに 答えを見つけます。

東京拘置所の まあ 1人部屋ですね。

椅子 兼 トイレみたいなのが1つある。

そこに パッと蓋をね 毎朝 開けて
そうすると…

…っていうのが こう書いてあって
それで まあ この歌詞のヒントが。

ねずみが一緒に
歌ってくれるでしょっていう

独りぼっちでいるっていう彼の姿と
そこに ねずみ君がいるっていう

それが ちょっとヒントになりました。

出来上がった歌
「ひとり寝の子守唄」。

加藤は 多くの人に
聴いてもらおうと

新曲キャンペーンの合間に
この歌を歌い続けました。

やがて この歌の評判が広がり

レコードとして発売されることが
決まります。

とっても個人的な歌なので

レコーディングをすることになるとは
夢にも思わなかったです。

ああいうふうに世の中が こう騒然と
分裂している時だからこそ

そういうこととは関係なく
底の底で 人々が求めてるもの

ここに届く曲が欲しかったっていうのは
ありましたね。

加藤登紀子の思いは
多くの人の心に届き 大ヒット。

葛藤の中で生まれた この歌で

シンガーソングライターとしての第一歩を
踏み出すことになったのです。

♬~

♬~

♬「ララララ…」

♬「ララララ…」

♬~

「ひとり寝の子守唄」が大ヒットした
翌年の1970年

加藤登紀子は 次のヒット曲を生み出そうと
曲作りに必死でした。

まあ 「ひとり寝の子守唄」が
ヒットしたとなると

もう その路線でいこう
ということになってね

私も頑張りました 3枚までは。

「帰りたい帰れない」
「別れの数え唄」って

自分のオリジナルで
その路線ですね

「ひとり寝の子守唄」の次に
こう つながるような。

しかし なかなか納得のいく曲を
作ることができません。

そんな娘を見かねた母が 声をかけます。

「何か あなた つい この間
昨日 おとといぐらいの感じでね

急に 詩を作りだして
曲を作りだしたような人がね…」。

「だから そんなこと頑張るよりも

世の中には いっぱい
いい歌があるんだから

そういう歌を歌ったら どうなの?」
っていう ひと言を言ってくれたんですね。

母の言葉に背中を押された加藤は
アルバム 「日本哀歌集」を作ります。

高度経済成長で
明るい希望があふれる時代に

あえて 人々の嘆きや悲しみが込められた
曲を集めました。

その中に 北海道の情景を歌った
「知床旅情」がありました。

加藤は あるコンサートで 偶然にも
この歌の作者・森繁久彌と出会います。

とってもパワフルな曲が
いっぱい世の中に あふれている時に

私が たった一人で
その 火が消えちゃうような

「ひとり寝の子守唄」を歌ったステージに
森繁さんがいて

その舞台の袖で
私を抱きしめてくれたんですね。

「君は 僕の心と同じ心で歌うね」って。

それがね もう なんという
奇遇だろうかと思いますけれども

森繁さんが 満州の引き揚げで
私も満州の引き揚げで

で その ひと言おっしゃったのが

「あんたは 赤ん坊だから
何にも覚えてないだろう。

でも あんたの声は
あの満州のツンドラのね…」。

…と 言って下さったことがあって。

その ひと言は もう とても深いですね。

森繁久彌と出会った 翌年

加藤は 「知床旅情」を
シングルレコードのB面曲として発表。

すると この歌が 一気に注目を集めます。

厳しい北の大地の情景を
哀愁ある声で歌う この曲に

人々は 郷愁の思いを重ねたのです。

「知床旅情」は
半年後には ミリオン・ヒット。

加藤は 2度目のレコード大賞 歌唱賞を受賞

「紅白歌合戦」に 初出場を果たしました。

ほんとに これが響いたんですね。
思いがけなく。

ああ すごい出会いですね。
音楽… 曲との出会い。

♬~

「知床旅情」大ヒットの翌年
週刊誌に 衝撃的な記事が掲載されます。

収監されていた藤本敏夫との 獄中結婚。

本当は… どうしようと思いました。

だけど 決断して 結婚して
出産しようっていう。

なので 歌手としては その時

もう ここでね
ピリオドにしたいと言ったんですよ。

そしたら 石井好子さんがね

「歌手を辞めますなんていうことをね

世の中の人に
発表する必要はないのよ」って。

「休業してね あとのことは
何も心配しなくていいから」って。

石井のアドバイスを受け 1972年7月

日比谷野外音楽堂でのコンサートを最後に
加藤は 活動を休止します。

そして この年の暮れ 長女を出産。
母となった喜びを かみしめていました。

出産して もう3か月後ぐらいですね。

ある人のコンサートに行った時に
もう体がね もうドキドキしちゃって

ワクワク ドキドキしちゃって。
絶対 歌いたいからって。

その時に 結婚前の加藤登紀子と

違う私ですっていうふうに
言いたかったから

ものすごく一生懸命 曲を作ったの。

あんなに曲作るの
大変だと思ってたのにね。

今は 自分のためだから
うれしくて うれしくてね。

母となり 1年後に活動を再開した加藤は
精力的にアルバムを制作。

2年後には 夫も戻り

プライベートでも
充実した日々を過ごしていました。

そんな ある日 加藤は
テレビから流れる歌に くぎづけになります。

中島みゆきの「時代」でした。

こうやって びっくりして
みゆきさんの顔を見て

「うわっ すごい人が出てきたな」って。
もう 魅了されちゃったんですよね。

歌も すばらしかったし
あの その 何か こう

伝わってくる強さがね 激しいものが
みゆきさんの中にありましたね。

中島みゆきに 特別な才能を感じた加藤は
楽曲を依頼します。

そして 中島が作った歌が
「この空を飛べたら」。

これまで見たこともない言葉の使い方に
加藤は驚かされます。

みゆきさんのは すごく
ズバッと風景に入っていくんですね。

それは やっぱり
どうにもならない歴史の中をね

人は たたきつけられながらも
笑ったりしながら生きていくみたいなね。

言葉の1つの歌に こう
たくさん言葉が込められている。

言葉の使い方としては
シャンソンに近いかな。

語る… 語るんですね。
自分の言葉で語る。

伝えたいことを
とどのつまりまで伝わるように

ここは避けて きれい事にする
ということはない。 ズバッと語る。

オリジナル曲を書くという意味で

すごく みゆきさんと会えたことは
刺激でした。

♬~

1980年代初め 40歳という節目を前に

加藤登紀子は
芝居を取り入れた音楽会や

映画への出演など
活動の幅を広げていきます。

音楽の世界でも 当時
デジタルサウンドで隆盛を極めていた

YMOの坂本龍一とコラボするなど
新たなジャンルに挑みます。

新しい その ミュージシャンと出会いたい
っていうのが すごくあって。

だから ちょうど40になる頃に
一大決心で

もちろん 全曲 書き下ろしの曲で
全部 打ち込みっていう 当時のね

ロックっぽい曲とか いっぱい作って
アルバムを作ったのよね。

もう 私は
新しいスタイルの歌手になるんだって。

しかし 新しい加藤登紀子を表現した
アルバムの評判は

芳しいものではありませんでした。

私のデビューの頃から
応援してくれてた人たちは

「お前 何やってんだ」と
「みんな 登紀子節を待ってるぜ」と

「『知床旅情』みたいなやつ
みんな待ってるんじゃないの」って。

「何か 分かんないけど
がちゃがちゃ がちゃがちゃ

ロックっぽい曲をやって
お前 何やってんだ」みたいな

結構ね 冷ややかだったんですよ。

で 「やっぱり駄目なのかな~」とか
思ってたんですけど

そのアルバムの中に
「最後のダンスパーティ」っていうのの中に

「難破船」っていう曲がありました。

「難破船」は 加藤の20代の頃の
失恋を描いた作品でした。

しかし 自分で歌いながら

歌の世界と
実年齢のギャップに 違和感を覚えます。

この何か 胸寂しい感じっていうのをね
どうしたものかなと思ってた時に

私のところにいるよりも この曲は

もっと外に出た方が
きっといいっていうふうに思って。

当時 世の中はアイドル全盛時代。

その中で 抜群な歌唱力で
ミステリアスな雰囲気を持つ中森明菜は

異彩を放っていました。

そういう明菜さんが とても好きで
ちょっと親しくなったという。

直接 この「難破船」っていう曲を
明菜さんに

「あなたが歌った方がいいと思う」って
渡しました。

加藤のオファーを受け 中森明菜が

物憂げな雰囲気で歌った「難破船」は
瞬く間に大ヒット。

ソングライター・加藤登紀子の才能が
認められた瞬間でもありました。

♬~

加藤登紀子の代表曲 「百万本のバラ」。

この歌の生まれ故郷 ロシアは

加藤にとって
とても ゆかりの深い場所でした。

1943年 ロシア文化が薫る街
ハルビンで生まれた加藤は

引き揚げ後
ハルビンの話を聞きながら育ちました。

中学生の時 両親が
東京で ロシアレストランを開店。

そこには
ロシアの文化や音楽があふれていました。

ロシア人たちが
そのお店で仕事をしていたんです。

毎日毎日 彼らは歌ってましたね。

誰かが1人 歌い始めると

次の2節目から
ブワーッて5部合唱ぐらいになるの。

ああ こんなふうに
生活の中に音楽が生きてる

すごいなあって思いましたね。

ロシアの音楽は
私の原点だなと思いますね。

ある日 加藤は 一枚のLPと出会います。

兄が ロシアで買ってきた
「百万本のバラ」でした。

で 「ふ~ん いいねえ」って言って
聴いていて

ロシア語の意味を
日本語に置き換えてみたら

あっという間に 「百万本のバラ」の
日本語の詩が出来たんですよね。

「あっ いいなあ」と思って
それで弾き語りで ちょっと歌っていた。

すると コンサートで
多くのリクエストが届くようになり

加藤は この曲を
B面曲としてレコーディング。

歌は ファンの間に
徐々に浸透していきました。

1988年 ニューヨークのカーネギーホールで
コンサートを開いた時のことです。

「百万本のバラ」を歌う様子が
日本中に ニュースとして流れると

この歌は 一気に広がっていき

100万枚を超える大ヒットとなったのです。

翌年には この歌で「紅白歌合戦」に出場。

加藤登紀子にとって
生涯歌い続ける大切な歌となりました。

生まれてから
どういうふうに生きてきたのか

どういう巡り会いがあって
今 私が ここにいるのか。

何か全部が 「百万本のバラ」に
つながるような気がしたんですね。

♬~

時代を超え 大ヒットとなった
「百万本のバラ」。

加藤登紀子の代表曲となった
この歌が収められた アルバム「MY STORY」で

加藤は また
新たな出会いをすることになります。

1992年公開の 映画「紅の豚」。

世界大恐慌時代の
イタリア アドリア海を舞台に

賞金稼ぎで生きる
豚の姿をした退役軍人の物語です。

この映画の監督・宮崎 駿から 加藤に
声優としての出演依頼が来たのです。

ある日 宮崎 駿さんから

ジーナというね
女性の声をやってくれと。

で フランス語で「さくらんぼの実る頃」を歌う
という お話がありました。

私 宮崎さんのアニメが大好きだったので
もう とっても興奮しましたけれども。

加藤が演じた役は
ホテルを経営する歌手で

飛行機乗りたち
憧れのマドンナ マダム・ジーナ。

宮崎さんって 私のこと全部
知ってるんじゃないかと思いました。

「紅の豚」の中で
ジーナという人の周りに

いろんな人種が混じり合った
あそこの あの…

バルカン半島のね ああいう雰囲気が

私が 中学時代に感じた
ロシアの人たちの中でも

みんな亡命して 自分の故郷から
離れちゃってるような人たちですよね。

で その「紅の豚」の中にも

みんな それぞれ
自分が どっかから来たんだけど

自分のアイデンティティーは
自分で支えるしかないみたいな感じの

ああいう人たちを目の前にした時の

私の こう たまらない
たまらないっていう

これをね ジーナに
言わせてるわけですよね。

「みんな いい子ね」って。

宮崎 駿が
この映画のエンディングテーマに選んだ曲が

このアルバムの中の
「時には昔の話を」でした。

宮崎は 加藤の曲について
著書の中で こう語っています。

「あの1行が 僕は好きでね」って。

みんな 「紅の豚」の中も夢にいっぱい

20世紀を生き始めた青春ですよね
飛行機乗り。

それが戦争で みんな死んでしまってね

どんなに ひどい結果になったとしても

自分たちの中に輝くものは
ずっとあるっていう。

何か そういうようなことが「紅の豚」の
「俺たちは虚しくないぜ」っていう

何か ラストテーマにして頂いて
すごく うれしかったですね。

♬~

加藤登紀子。 デビューから半世紀

絶えず 新たなことに挑戦を続けながら
歌の道を歩んできました。

そんな加藤が デビュー6年目から
続けているコンサートがあります。

観客と一緒に 酒を飲みながら歌う
「ほろ酔いコンサート」です。

「知床旅情」がヒットして やっと
一人前の歌手になろうとした頃に

私の周りにいた新聞記者の人たちが
「お前が そのね れっきとした 何か…」。

「ステージの上にいて
きれいな服を着てっていうような

そういうんじゃなくて お前は その辺で

街の真ん中でとか 道路でとか
みんなで車座でとか

そういうのが おときだろうが」っていう。

そこで考えたのが ヌードショーの殿堂
日劇ミュージックホールで

ショーの終わったあとの 夜10時から行う
お酒付きの深夜のコンサートでした。

「私も酔っ払わないと歌えないわ」って
言って

私もグッと飲んで それから もう…
もう何が起こるか分からないような

すごい全部の歌を こう みんな
お芝居にしちゃうようなね

皆 上がってきて
何か 抱きついてくれる人もいるし

キスしてくれる人もいるし 相手役を
やってくれる人もいるし みたいな

面白かったんですよ。 それで

毎年 お酒付きのコンサートを
必ずやろうということで

「ほろ酔いコンサート」っていうのが
始まり。

「ほろ酔いコンサート」が始まった頃
加藤が作った歌があります。

「あなたに捧げる歌」。

何か お礼したいなあと思ってね

アンコールの時に アドリブで作ったのが
「あなたに捧げる歌」だったんですよ。

私の気持ちが一番 こう
リラックスしてあふれ出すっていうか

これだったわねっていうような
出会うことだったわね。

もう一瞬でいいから出会いたい。
もう二度と会わなくてもいいけど

この一瞬の出会いを
もう100%忘れたくない。

この歌を 今 コンサートの最後に
必ず歌おうと思ってるんです。

♬~

♬「ラララ…」

♬~


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