偉人たちの健康診断「文明開化で健康生活を!近代建築を巡る旅」福澤諭吉・北里柴三郎・夏目漱石・森鴎外ら、明治の…



出典:『偉人たちの健康診断「文明開化で健康生活を!近代建築を巡る旅」』の番組情報(EPGから引用)


偉人たちの健康診断「文明開化で健康生活を!近代建築を巡る旅」[字]


スタジオを飛び出し、博物館明治村に残る貴重な建物を巡りながら、福澤諭吉・北里柴三郎・夏目漱石・森鴎外ら、明治の偉人たちと健康の歴史をひも解いていく。


詳細情報

番組内容

明治の文明開化で「健康」の概念がもたらされると、文化人たちの間で健康ブームが巻き起こる。福澤諭吉が健康維持のために目をつけたのはブランコやシーソー!夏目漱石は、丈夫な体を手に入れようと流行のスポーツを手当たりしだい実践。さらに森鴎外は、雑菌を排除して極端な“潔癖生活”を送ることで健康になろうと奮闘。博物館明治村に残る貴重な建物を巡りながら、日本人と健康の意外な歴史をひも解いていく。

出演者

【司会】渡邊あゆみ



『偉人たちの健康診断「文明開化で健康生活を!近代建築を巡る旅」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

偉人たちの健康診断「文明開化で健康生活を!近代建築を巡る旅」
  1. 漱石
  2. 健康
  3. 日本
  4. 当時
  5. 顕微鏡
  6. 諭吉
  7. 鷗外
  8. 運動
  9. 建物
  10. 世界
  11. 細菌
  12. 文豪
  13. スポーツ
  14. ダメ
  15. 明治
  16. 偉人
  17. 明治村
  18. 看護婦
  19. 器具
  20. 健康法


『偉人たちの健康診断「文明開化で健康生活を!近代建築を巡る旅」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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(渡邊)「偉人たちの健康診断」。
博物館 明治村に来ております。

こちらには 60もの明治以来の建築物が
集められているんです。

今日は
これらを訪ねながら 当時の健康や

医療について 解き明かしてまいります。

それでは 早速 見ていきましょう。

文明開化の時代
西洋から入ってきた医療と健康。

それは 明治村に来れば
よ~く分かる?

ここには 当時の最新機器を装備した
医療研究所から…。

町の診療所。 更には…。

あっ…。 これ ちょっと…

健康維持に欠かせない
運動施設までもあるのです。

本日は
これらの建物と深~い関係のある…

「学問のすすめ」でおなじみ 福澤諭吉が
健康のために行っていたのは?

何の声だ?

なんと…

国民的作家…

文豪が…

実は この家の中に。

日本が世界に誇る…

医学を志すきっかけとなった貴重な品が。

北里が使ってた…。
顕微鏡ですね。

顕微鏡で
ミクロの世界を知った衝撃。

そして その衝撃で
人生が変わってしまった人が もう一人。

ダメーッ! こんなところを
素手で触っちゃ絶対に ダメー!

漱石と並ぶ文豪…

それまで見たこともない

細菌のうごめく世界を
知ってしまった文豪は

なんと 極度の潔癖症に。

笑いあり 感動あり。

明治村から紹介します。

♬~

健康のヒントは 歴史にあり。

「偉人たちの健康診断」。

♬~

明治村からお届けする
近代日本の健康診断。

最初にご紹介するのは こちらの建物。

全長36メートルの
大きな平屋建ての木造建築です。

金沢の旧制第四高等学校にあった
この建物。

1917年に建てられ
太平洋戦争後まで使われていました。

実は この建物こそが 日本人と健康を
語るには 欠かせない場所なのです。

中に入ると…。

あ~ こちら 板敷きになっておりまして

そして あちらが
畳敷きというふうになっていて

さまざまな武術が… 道場として
こちら 使われてたんでしょうね。

そう この建物は 学校の武道場。

いわば現在の中学・高校の
体育館のような場所。

同じような建物は 明治・大正時代に
多くの学校に建てられていました。

そして 実はここに

当時の人々の健康に関する考えを
象徴するものがあるのです。

これ…。
これ 何だかお分かりになりますか?

外国から入ってきた運動器具なんです。

当時の人たちは 体を鍛えるために
まあ こうやったり

こうやったりでしょうかね…。

背中 伸びますね はい。

あと どうでしょう…。
まあ 使っていた運動器具ですね。

で これは 日本人の健康に関する
歴史を語る上で 大変重要なものです。

そこには 日本人なら誰もが知ってる
ある偉人が関わっていました。

健康の歴史を語る上で
欠かせない人物といえば…

実は 「健康」という言葉を明治日本に
広めたのも 諭吉と言われています。

幕末。

ペリー来航をきっかけに開国した日本。

250年続いた幕藩体制が揺らぎ

社会も政治も 変革のときを迎えました。

そんな中 諭吉は新しい知識を求め
幕府の使節として 海を渡ります。

アメリカやヨーロッパ各国を巡り
そこで目の当たりにしたのが…

日本の後れに危機感を抱いた諭吉は
必死に未知の文化を学びます。

その一つが 「健康」。

諭吉は 西洋で病気を防ぐための
新しい考え方に出会ったのです。

それは ロンドンの名門校
キングス・カレッジを訪ねた時のこと。

そこで驚きの光景を目にします。

諭吉が目にしたのは
恐らく このような運動でした。

こちらは 19世紀の…

ロープにつかまって グルグル回ったり

鉄棒や雲梯にぶら下がったりしています。

この運動 一体どんな健康効果が
あるのでしょうか。

ロープやブランコなど 揺れを伴う器具は
遠心力に耐えて体を動かすので

体幹が鍛えられます。

一つ一つの器具は
強い力を発揮する無酸素運動ですが

いろいろな器具を 歩きや走りで
つなぐことで 有酸素運動にもなります。

これだけで
バランスの良い運動と言えます。

「そうか。 これは見習うべきだ」。

それは まだ日本にはなかった
最新の西洋の考え方でした。

当時の日本人は 体を動かすことは

生きるための労働や
苦しみを伴う修行と考えていたのです。

帰国後 諭吉は…

こちらは 校内の配置図。

ロンドンでの体験を生かして
運動場を設けました。

そこには 「ブランコ」の文字。

諭吉は ブランコの他に シーソーも設置。

どちらも日本で初めてのことでした。

「ブランコやシーソーなど運動をやれば
健康になって学問も進む」。

そう考えた諭吉は…。

塾の規則として

食後には
運動すべしと定め
徹底させました。

多分やらされる塾生のほうも
ちょっと滑稽というかですね

おかしいなと思いながら やってたのが

最初の実情だったんじゃないかな
というふうには思います。

(都倉)ちょうど江戸でも…

国は戦争だといって
必死になってるけれども…

そういう反骨精神みたいなものが
表れてるような気がします。

諭吉が海外で目にしてきた
さまざまな運動のための器具。

それらは 慶応義塾のみならず

後に明治日本の学校教育の現場にも
取り入れられていきます。

こちらの錦絵。 学校での体操を
描いたものですが

あの球竿を使って 運動しています。

球竿は アメリカから伝えられた
当時 最新の体操器具でした。

もちろん諭吉自身も 運動には
人一倍力を入れていました。

諭吉が使っていた運動器具が大切に
保管されていると聞いて 訪ねてみました。

保管先は 横浜にある慶応義塾の小学校。

資料室の奥にあったのは…

ん…?

随分 古風ですね。

諭吉が行っていた運動は…

餅つきのように
大きく杵を振るのではなく

一定のリズムをとりながら
杵を上下に動かします。

重い杵を使った…

体が引き締まる効果が期待できます。

更に一定のリズムを保ち 呼吸を
止めることなく行う有酸素運動なので

心肺の機能を高めることにも
つながります。

筋力と同時に心肺機能が高まる
という点においては

まさに諭吉がロンドンで見た

女学生のアスレチックと同様の
運動効果と言えます。

諭吉は 健康のために米つきを
毎日欠かさず行い 生涯でなんと…

杵の先は すり減って
継ぎ足してあります。

そして 臼には諭吉直筆の詩が。

臼と杵を「お前さん」と呼ぶほど
愛していました。

福澤諭吉が米をついてるということは
広く知られていて

当時の塾生の中には

朝 「うん! うん!」という声を出しながら
福澤諭吉が米をついてると

書き残している人もいますけれども
実際 その小屋の中まで行って

その姿を見たという人は
非常に限られていたようで

その具体的な姿っていうのは みんな
知らなかったんじゃないかと思います。

独自の健康法を日々続けた諭吉。

年を重ねても引き締まった体を保ち続け

体力と健康には人一倍
自信を持っていたようです。

「私の身長は 173センチ
体重は 70キロ。

10代後半から還暦を過ぎるまで
増減なし」。

諭吉は その考えを自ら実践して
日本に広めたのです。

明治村に移築された こちらの武道場。

武道場は 明治・大正時代
多くの学校に建てられました。

ここでは 運動器具による体操だけでなく
柔道や剣道など

日本古来の武術も行われていました。

江戸時代までは

武士のたしなみとして
行われていた武術を

健康のため スポーツとして
行えるようにしたのが

この明治時代です。

実は 一見 昔ながらの
道場のように見えるこの場所も

武術をスポーツとして安全に行える
工夫がされているのです。

真ん中のほうに行って
ちょっと跳んでみて頂けますか?

真ん中で跳ぶ…。
はい はい はい。

どうぞ。
真ん中で跳ぶ。

あっ… これ ちょっと弾みますね。

そうですね。 実は この畳の下には
スプリングが入っていまして

安全に使うことができるように。

打ちつけても こうなっても
クッションのように こう…。

面白いですよ こうやって。

多分いろんな人が歩いてても
こう感じますね。

かなり揺れるんですけれども
そういった工夫が なされていました。

武術を安全に行えるスポーツに変えた
功労者として

忘れてはいけない偉人がいます。

その人物とは…。

戦で敵を倒すための技術だった柔術を

柔道という形にして
世界的なスポーツにした人物です。

実は 嘉納治五郎には

柔道の創始者にとどまらない

もうひとつの顔がありました。 それは…。

教育者としての顔。

明治日本に「体育」という教科を作り

数々のスポーツを普及させた
偉人でもあるのです。

実は 治五郎が始めて
全国に広げていったことの中には

私たちにとって身近なものも
たくさんあります。

例えば…。

徒競走や障害物競走などは
嘉納が始めました。

そして 年中行事の定番…

サッカー部やボート部
相撲部などの部活動。

これも嘉納が創設し
全国の学校に広がったもの。

明治日本の健康は…

…から始まったのです。

明治の運動といいますと
もう一人ご紹介したい方がいるんです。

その人 こちらのお住まいに
いらっしゃったんですよ。

さあ 一体 誰かといいますと…。

お分かりでしょうか?

「吾輩は猫である」でおなじみ 文豪…

東京都文京区に建てられていた
39坪余りの この建物は

当時の典型的な中流家庭の住宅。

36歳の漱石が 家族6人で
この家で過ごしていた日々は

「吾輩は猫である」に登場する
苦沙弥先生一家の姿として

小説で描かれています。

病弱で 事あるごとに健康に気遣う
苦沙弥先生は 漱石自身の姿だったのです。

そんな漱石 実は

さまざまな運動で健康になろうとした
「健康法マニア」でもありました。

…など 数々の名作を生み出した…

国民的作家として知られている漱石は

晩年 自分の体について
こんな言葉を残しています。

漱石は 持病の胃潰瘍の悪化に加え

糖尿病の診断もされていました。

文豪は常に 病と闘い続ける生活を
送っていたのです。

そのころから胃炎に悩み始め

27歳で肺結核を疑われ

更に 30代には神経衰弱と診断。

晩年は 糖尿病を発症するなど まさに…

文豪といえば 虚弱体質。

まさに そのイメージの
先駆けでもあった漱石。

しかし だからこそ
漱石自身は 誰よりも健康を気遣い…

…しようとしていた人でもありました。

ここにある漱石文庫には 漱石の蔵書や
日記 書簡などが保管されています。

その中に 彼の健康法の手がかりとなる
貴重な資料があります。

漱石が記した身体測定の記録。

体重と肺活量 そして呼吸した際の胸囲。

「指極」とは 両腕を伸ばした状態で
左右の中指までの長さを測ったもの。

漱石は これらを
半年ごとに記録していました。

この身体測定の記録で 自分の健康状態を
常々チェックしていた漱石。

そして いよいよ虚弱体質を抜け出すべく
健康法に目覚めることになるのです。

それが…。

漱石の書簡やエッセーには

スポーツに関する言葉が
頻繁に記されています。

実際に漱石は 文明開化で新たに
入ってきた さまざまなスポーツを

健康法として実践していたと
考えられるのです。

まず 学生時代に同級生と行っていた…

なんと東京から横浜まで こいでいました。

次に水泳と 友人 正岡子規に
教えてもらったと言われる野球。

そして 鉄棒を使った…

更に30代半ば
イギリス・ロンドンに留学した時には

自転車にも乗っていました。

最新のスポーツで
健康維持をしようとしていた漱石。

しかし 次から次へと
いろんなスポーツを実践するものの

どうやら…

しかし 健康法に関する探究心だけは
とどまることのない漱石。

42歳
小説「それから」を連載していたころ

新たな健康法を試し始めます。 それは…。

漱石の日記には
ある言葉が記されています。

…とは 欧米で考案された
輸入品のトレーニング器具。

この器具を購入し
筋力トレーニングを行っていたのです。

今もありますけども
こういうふうに引っ張ったりとか

スプリングであったり
ゴムであったりするんですけど

そういうものを…

もしくは こうやってみたり。
そうして…

漱石が エキザーサイサーで行っていた
トレーニングは

ロープを使って体幹を鍛える
トレーニング法の原型となるもの。

このトレーニング法は
アスリートのエクササイズから

脳梗塞のリハビリまで
幅広く行われています。

エキザーサイサーを開発したのが…

ギリシャ彫刻の肉体の再現を試み

解剖学を用いた肉体作りを理論化。

サンドウの筋力トレーニング法は

明治31年 講道館柔道の創始者
嘉納治五郎が紹介。

漱石のみならず 高村光太郎や
作家の長塚 節など

多くの文化人がサンドウのトレーニングを
行っていました。

果たして サンドウのように

ギリシャ彫刻のような肉体を
目指していたかどうかは不明ですが

トレーニング器具を使って
自宅で筋力トレーニングを始めた漱石。

しかし…。

購入から僅か2日で

漱石が筋力トレーニングをした形跡が
全くなくなります。

この健康法も すぐにやめてしまった漱石。

文豪は 新しい物好きで飽きっぽい

江戸っ子の性分を
引き継いでいたのかもしれません。

こちらは漱石が「吾輩は猫である」をはじめ
数々の名作を生み出した書斎です。

今でこそ 日本を代表する大作家
文豪 夏目漱石なんですが

作家デビューのきっかけは 猫。

この家に住み着いた黒猫がきっかけで

「吾輩は猫である」が書かれたと
言われております。

漱石 ともかく
この猫を溺愛していたようですね。

しかし 猫が住み着いたのは
漱石の猫愛だけではなく

この家の造りそのものに
秘密があったようなんです。

そのことが分かるのが こちらです。
この部屋の隅に

この小さな窓のような
戸がついています。

これ 掃除用の
掃き出し窓なんですね。

この家には いくつか
こうした窓がありまして

猫が自由気ままに あちこちの部屋
行き来することができたようです。

気付けば そっと傍らに猫がいる。
そんな気ままな猫の姿に

漱石は 癒やされたんでしょうね。

漱石が猫から受けていた
癒やしの効果は

現代では アニマルセラピー
として知られています。

かわいい~。
かわいい?

かわいい。

さまざまな健康効果が
医学的にも分かってきています。

もちろん 猫に癒やしを感じていた文豪は
漱石だけではありません。

その一人が 漱石のまな弟子…

漱石の「吾輩は猫である」に感動したのが
きっかけで 弟子入りした百閒は…

その猫との思い出を書いた
「ノラや」が 百閒の代表作。

子猫の時に 家に迷い込んできた野良猫を
溺愛したことが つづられています。

ところが 飼い始めてから
1年半たったころ

猫が突然いなくなってしまいます。

そこで百閒がとった行動は…。

尋ね猫の新聞折り込み広告を作成。

その数 なんと…

更には 外国人向けのチラシも。

子ども用に書いた手作りチラシまで
作りました。

ここまでしても
猫は戻ってきませんでした。

ショックのあまり百閒は
仕事も手につかなくなり

ついには寝込んでしまうまでに。

やがて百閒は 猫がいなくなったという
現実と向き合うかのように

猫との思い出を徐々に書き始めます。

こうして出来たのが
代表作「ノラや」だったのです。

百閒は 「ノラや」を書くことで

猫を失った悲しみを
癒やそうとしたのかもしれません。

更に 猫だけではありません。

犬をかわいがっていた偉人もいます。

上野にある この銅像。
ご存じ…

足元には 愛犬が
チョコンと寄り添っています。

お散歩中の姿でしょうか。

実は 現存する西郷の肖像画には
ほとんど 犬が一緒に描かれています。

西郷は なんと生涯で…

…ほどの犬好き。

護身用に番犬も飼っていました。

そんな西郷の犬への溺愛ぶりがよく分かる
エピソードが残っています。

ある日 書生たちが西郷を訪ねると…。

あれ? 門の前に番犬がいないぞ。

犬を番犬として
外で飼うのが当たり前の時代

座敷犬として かわいがっていたのです。

これには皆 困惑。

更には…。

犬と共にうなぎ屋に現れた西郷。

うなぎが出されると
真っ先に犬に与えます。

それを見た店主は…。

うなぎは 犬の餌ではない…!

…と憤慨したそうです。

こんなにも溺愛された犬ですが

実は 西郷の健康の
良きパートナーでもありました。

それは…

医師から肥満を指摘され
運動するよう言われた西郷は

1日およそ8キロの距離を
犬と共にウォーキングしていたのです。

この銅像は もしかしたら…。

犬と一緒にダイエットに励んでいる姿
だったのかもしれません。

さて 明治村を巡る近代日本の健康診断。

続いては
明治時代の病院を見てみましょう。

こちらは 明治30年代に
長野県木曽郡に建てられた

清水医院という町の診療所。

一見 洋風な建物ですが
実は 江戸時代の蔵を改造したもの。

当時の町の病院は
薬を保管する際の湿気対策として

建物を土蔵造りにすることが
多かったのです。

中をのぞくと…

待合室は 畳敷き。

ふすまを見て頂くと
力強い墨書があるんですけれども

これは 「養生訓」が
書かれているんですね。

これは
不老不死を願ったりですとか

患者さんの健康を気遣うような
そんな言葉が書かれたものになります。

きっと待合で これを眺めながら
治らなくちゃとか…。  そうですね。

大丈夫かなとか思いながら
診察を待つわけですよね。

そして奥には 洋風の診察室。

レトロな感じの… 消毒。
消毒ですね。

昔は こうね 近所の内科 小児科へ行くと
煮沸のがありましたし

こういうのも
ちょっと懐かしい雰囲気ですよね。

往診バッグがありますね。

あっ こちらは…。 これは…?

(青木)こちらは
体重計になるものなんですけれども。

ちょうど この清水医院というのが
建てられましたのが

明治の30年代ということもあって
こういった 実は 体重計というのも

明治の30年代に
使われていたものになります。

でも外の人は
つまり ここへ来るまで

体重なんて… 量りようも
ないんじゃないですか 当時の人は。

一般の方は このお医者さまに来て
初めてこの体重計を見るというような。

こちらのほうに おいでになられて
西洋医学の真新しさというのをね

身にしみて感じられたのでは
ないでしょうか。   そうだったんですね。

次に訪れるのは 日本の医学の発展に
欠かせない建物 北里研究所。

細菌学者 北里柴三郎が

伝染病研究のために設立した
研究施設です。

ドイツのバロック建築を模した この洋館。

シンボルとなっているのが

月けい樹の枝葉に破傷風菌を
組み合わせたマークです。

この研究所は 1980年に
明治村に移築されるまで

世界の医学界のトップをひた走る
研究所でした。

この研究所を率いた 北里柴三郎は

世界初となる破傷風菌の培養や

人類を 1, 500年もの間 脅かした病魔
ペスト菌の発見など

数々の病原菌の発見と画期的な治療法で
世界の医学界を驚かせました。

その功績から…

…にもなった
日本が誇る偉人です。

建物の2階に
上がってまいりましたけれども

わっ この広い空間は…。

そうですね こちらは
実験室に当たるところになります。

理科の実験室っぽいですけど。

この実験室には
北里が世界で名をはせることとなった

貴重な器具が保管されています。

北里が発明した 酸素を嫌う菌だけを
培養できる装置です。

この「亀の子シャーレー」と
いわれる器具で

世界初の破傷風菌の培養に
成功した北里は

ノーベル賞候補になったのです。

更に ここには 医学の発展を語る上で

大変重要なコレクションも
展示されています。

こちらのほうには 顕微鏡がございます。

見ますと これ 18世紀のものだとか…
これもイギリスで 18世紀。

そして江戸時代 これ 日本で作られて

細工が日本的な…。

(青木)日本は鎖国時代がありましたので

長崎のほうから
もたらされたものになります。

そして これ 19世紀の半ばになって
ドイツ イギリス。

北里が使ってた頃っていうと大体…?

(青木)恐らく この辺りということに
なるんですけれども。         明治後期。

やはり19世紀後半になりますと 顕微鏡の
性能もだんだん上がってまいります。

そういった時に 病気と微生物の因果関係
というのを明らかになさいます。

非常に当時としても高価なもの

特化された所にしかないもの
ということで

当時は貴重品と言ってもいいと思います。

世界的な細菌学の権威として知られる
北里柴三郎。

実は 学者として歩みだす
きっかけとなったのは

こうした顕微鏡との出会いでした。

現在の熊本県で
庄屋の長男として生まれた柴三郎。

江戸から明治へ 少年時代は
激動の時期を過ごしました。

武士という身分がなくなる中

柴三郎少年が夢みていたのは
天下国家を守る軍人になること。

しかし…。

家を継がないなら医者として身を立てろ。

軍人を嫌っていた父は
柴三郎を医者にしようと

熊本に開校されることになった
西洋医学の学校に入学させたのです。

「なんで よりによって医者なんかに…」。

学問をするならまだしも

医者は 柴三郎にとって
最もなりたくない職業でした。

その理由は…。

おい! 大丈夫か?

兄ちゃん…。

かわいがっていた弟が 原因不明の
はやり病にかかった時の

医師の対応にありました。

その病は 幕末から明治初期にかけて
猛威を振るった病 コレラ。

コレラ菌を病原体とし

発症すると おう吐と下痢による

脱水症状を引き起こし

数時間で死に至ることのある感染症です。

猛烈な おう吐と下痢で苦しむ弟。

しかし医師は 治療することなく…

当時は それが
一般的なコレラの対処法でした。

兄ちゃん…。

なすすべもなく死に至った弟。

「なにが医者だ…。
なんて情けない稼業なんだ…!」。

そんな思いからか 医学校に行っても

医師となるための勉強には
全く興味が湧きませんでした。

その姿に疑問を持った外国人教師は…。

「一体 君は
医者になるつもりがあるのか?」。

「語学を習うならまだしも

医学みたいな役に立たないものを学ぶのは
真っ平ごめんですよ」。

ところが ある出来事がきっかけで
柴三郎の考えは 大きく変わります。

それこそが…。

当時 日本ではまだ珍しかった
顕微鏡を使った実習で

人間の体の仕組みを調べた時のこと。

初めて見る人体のミクロの世界に
どぎもを抜かれた柴三郎に

外国人教師は こう語ったといいます。

「ミクロの世界で
人間の体を知ることは…」。

「西洋医学を究めれば

これまでに治せなかった未知の病を
治せるかもしれない」。

この出来事があってから一転
柴三郎は 医師を志すようになります。

顕微鏡の衝撃と恩師の言葉が

後に 世界に名をなす北里柴三郎の
出発点だったのです。

まさに人生を変えた顕微鏡。

実は 皆さんご存じの あの偉人も
顕微鏡で人生が変わってしまった一人。

その人物とは…。

本名 森 林太郎。

「舞姫」 「高瀬舟」などで知られる
文豪 鷗外。

文学者と同時に…

ひげを蓄えた そのお顔は

いかにも質実剛健な
明治男のようにも見えますが

その実像は…。

ん…? なっ!? ダ ダ ダメじゃないか!

野菜に皮が~!

皮には さ… 細菌が~!

あ~っ! ダメ ダメ ダメ ダメ ダメ!

ダメーッ! こんなところを
素手で触っちゃ絶対に ダメー!

もう~っ!

鷗外は なんと…

一体なぜ そうなってしまったのか。

それは 1887年 鷗外 25歳。

当時 最先端の衛生学を学ぶため
ベルリンに留学した時のことでした。

同じく留学生としてドイツにいた
北里柴三郎の紹介で

コレラ菌を発見したノーベル賞学者
コッホのもとで学ぶことになった鷗外。

「林太郎 これを見てみなさい」。

鷗外は コッホから試験管に入った液体を
顕微鏡で観察するよう言われます。

それは…

そして 顕微鏡をのぞいてみると…。

ギャーッ! なっ… な 何だ!?
このウジャウジャしたものは!

うぅ~っ 気持ち悪いぃ~! うぅ…。

なんと そこには これまで見たことのない
小さな生物がひしめき合っていたのです。

コレラ菌や赤痢菌 チフス菌などの
細菌でした。

はっきりとした細菌の姿を
初めて目にした鷗外。

あまりの気持ち悪さに
大きなショックを受けるのです。

鷗外が ドイツで使っていた顕微鏡は
当時 最新の顕微鏡で…

一方 明治初期に日本で
一般的に使われていた顕微鏡の倍率は

最大でも…

この倍率の違い。 200倍の顕微鏡では
よく分からないものが

1, 000倍で見てみると…

鮮明にその姿を捉えることができます。

ちなみに これは…

改めて 日本の街の衛生状態に
がく然とします。

当時の日本は 下水の整備どころか
雑然とした街なかを

ふん尿が入った たるが行き来する
というありさまでした。

庶民が暮らす長屋は
トイレと井戸が隣接し

ひとたび大雨が降ると
ふん尿が井戸に混入する状態でした。

「細菌は 絶対退治しなければダメだ!

それには 消毒だ!
徹底的に消毒して一掃してやる~!」。

すっかり潔癖症人間となった鷗外は

新聞や雑誌を通じ
公衆衛生の提言を行います。

特に力を入れたのが
日常生活での消毒です。

室内の消毒はもちろん
病人や排せつ物 玩具

果ては書籍まで ありとあらゆるものを
消毒することを勧めました。

また 子どもたちの衛生教育も
徹底していました。

あぁ~。 アンヌ子
ハンカチで手を拭いちゃ絶対にダメ!

これで拭いて。

え~? なぜ? パッパ。

ハンカチは 一日中持ち歩いてるでしょ。

何度も何度も手を拭くでしょう。

だから ハンカチには ちっちゃい細菌が
い~っぱい ついているんだ。

だから ダメ! 分かった?

そして こんなことも…。

今日は 外食にしようか。
何が食べたい?

おすし!

おすしは 絶対ダメ~。

え… なぜ?

おすしは 生の魚でしょ。
生の魚には おなかを痛~くする

サルモネラや コレラ菌がいるんだ~。

鷗外は なま物は決して口にせず
細菌を殺すために 食材はすべて加熱。

更に たとえ火を通しても
細菌が残っているかもしれないと…

…という徹底ぶり。

生で食べても問題がないはずの果物ですら
加熱していたんです。

普通は 熱を加えないもの

例えば果物とか何かでも
加えたというところ

それは やっぱり…

鷗外さんとしては…

細菌が あらゆる病の原因と
考えられていた明治時代。

鷗外は 自分の対策に
絶対の自信を持っていました。

「加熱と抗菌が
何より大事!」。

そんな鷗外の…

調理手順が焼くだけという
シンプルなことや

皮さえむけば 細菌など存在しない
完璧な食品 というのが理由でした。

うまい! 最高だ! ほほほほほほっ!

鷗外にとって焼き芋を食べる時が何よりも
安心できる時だったのかもしれません。

明治村からお届けしてきた
近代日本の医療と健康の歴史。

最後に訪れるのは…

1890年 ドイツの大学病院を模して
東京・渋谷に建てられた

当時最新の病院です。

ここには 赤十字社の活動の歴史を
象徴するものが 展示されています。

まず目を引くのは あちら
看護師さんの制服ですよね。

当時は 白じゃなくて こういう

紺というんでしょうかね…
色だったんですね。

そして こちらには 野外に救護活動に
赴く時の担架ですね… 置かれています。

更には こちら 野外で組み立てることの
できるベッドでしょうか。

看護用の
治療のベッドが置かれています。

これも 医療器具ですよね。

外科の機械なんかも
コンパクトにこうなってるので

これを持って野外で
治療も行っていたのかもしれませんね。

この病院が
院内での治療だけではなくて

救護活動に赴くための
拠点だったことも分かります。

日本に看護師が生まれたのは 明治10年。

明治政府軍と
西郷隆盛率いる士族が戦った

西南戦争がきっかけでした。

この時 政府軍 西郷軍を問わず
看護に当たった救護団体の活動が

日本赤十字社のもとになっています。

やがて その看護師たちが
世界に羽ばたく時がやって来ます。

♬~

13名の看護婦が海を渡り
フランス・パリへと赴きました。

医療で日本の国際的地位を
向上させることを目指して

派遣された一行は…

軍人と一般市民 合わせて1, 500万人以上の
死者を出したと言われる

未曽有の世界大戦。

戦車や飛行機 毒ガスなどの
新兵器による殺戮で 看護婦たちは

それまで目にしたことのない重傷患者を
目の当たりにします。

日本から最新の医療器具を持ち込み

万全の態勢で救護に臨もうとしていた
看護婦たち。 しかし…。

日本の看護婦のところにだけは
行きたくない。

遠い極東から来た
言葉も通じない看護婦たちは

なかなか兵たちに
受け入れてもらえませんでした。

「治療もままならない中
何か自分たちにできることはないか」。

彼女たちは 考えます。

そして 行ったのは…

浴衣を縫うこと。

血まみれで送られてくる
兵たちのために

せめて清潔な着替えを
用意しようとしたのです。

そんな彼女たちの思いは 次第に
兵たちに受け入れられていきます。

そして ついには
博愛の精神と看護技術で

戦時病院の模範とまで
言われるようになり

5万4, 900人もの患者の救護を
行ったのです。

(鐘の音)

現在 フランスで書店を営む
ジビエさん一家。

当時…

日本の看護婦さんとお医者さんに
感謝の気持ちで いっぱいです。

あの時の看護がなければ
父は間違いなく死んでいたでしょう。

もしそうなら 私たちは
ここに存在していないのです。

パリで多くの人々の命を救った
13名の看護婦たち。

西洋から入ってきた医療の精神は

国境を越え 再び日本から世界へと
羽ばたいていったのでした。


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