美の壺スペシャル「TOKYO 1964」建築・デザイン・音楽など新たなジャパンカルチャーを世界に発信…



出典:『美の壺スペシャル「TOKYO 1964」建築・デザイン・音楽など』の番組情報(EPGから引用)


美の壺スペシャル「TOKYO 1964」[字]


1964年の東京オリンピックは、建築・デザイン・音楽など新たなジャパンカルチャーを世界に発信。東京オリンピックによって生まれた、さまざまな遺産の美と技に迫る!


詳細情報

番組内容

日本のデザイン力を世界に示した、エンブレムとポスターはこうして生まれた!▽丹下健三と若き建築家が、世界に発信した日本建築の底力▽理想の「赤」を徹底追求!開会式のブレザーを生み出した職人たち!▽開会を告げる「ファンファーレ」は、箏(こと)の音階がヒント?!▽世界中で使われている「ピクトグラム」の開発秘話▽300人のシェフが挑む世界各国の料理▽洋食界に革命をもたらした、選手村食堂のレシピとは?!

出演者

【出演】草刈正雄,武井壮,萩原智子,廣村正彰,原田維夫,三宅義信,斎藤公男,池田樹生,遠藤謙,【語り】木村多江,千葉繁



『美の壺スペシャル「TOKYO 1964」建築・デザイン・音楽など』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

美の壺スペシャル「TOKYO 1964」建築・デザイン・音楽など
  1. 日本
  2. 選手
  3. 東京オリンピック
  4. ブレザー
  5. 当時
  6. オリンピック
  7. デザイン
  8. 世界
  9. 選手村
  10. 料理
  11. エンブレム
  12. パラリンピック
  13. 金メダル
  14. 参加
  15. 東京
  16. 望月
  17. スポーツ
  18. ファンファーレ
  19. 開会式
  20. 義足


『美の壺スペシャル「TOKYO 1964」建築・デザイン・音楽など』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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♬~

草刈さん 今日は ずいぶん
のんびりですね。

お~い お茶 持ってきて。

えっ 誰も いないんじゃ…。

あっ 来た 来た。

え~ 何ですか? これ。

ねっ すごいでしょ。

お~い 電気つけてくれる?

もしかして スマートスピーカーですか?

あ~ AIって便利だね。

あ~ 楽チン。

そんなに楽ばっかりしていたら
体 なまっちゃいますよ。

極楽 極楽…。

(電子音)

あら?

あ~ 壊れちゃった? これ。

えっ 困ったな これ…。

何だ? これ。

ご先祖様!

ご… ご先祖様?

いよいよ 2020年。

今から50年以上前 この街に大きな変化を
与えたのが 東京オリンピックでした。

♬~(ファンファーレ)

(実況)
「初めて このアジアの地 東洋の日本
日本の首都 東京におきまして

第18回オリンピック大会が
開かれたのであります」。

この時 時代の勢いを反映した
力強いデザインが次々と生まれました。

大会を象徴した 国立代々木競技場。

うわ~ 何年ぶりになるんだろう ここ。

圧倒される空間は 建築家と技術者の
アイデアのたまものでした。

「日本選手団の入場であります。

男子は真っ赤なブレザー
女子も真っ赤なブレザー」。

開会式を彩った 日本選手のブレザー。

一着一着 仕立て職人の誇りが
込められました。

他にも料理や音楽など

東京オリンピックには さまざまな知恵や
技が集まりました。

その思いは 2020年にも
着実に受け継がれています。

どうぞ!

2016年4月に発表された

2020年 東京オリンピック・パラリンピック大会の
「エンブレム」。

大会のシンボルとして
さまざまな場面で使われています。

「組市松紋」と名付けられたエンブレム。

使われている四角形は3種類。

それを組み合わせることで
複雑な形を作り上げているのです。

1964年のエンブレムはというと…。

白地に大きな赤い丸。

金色の文字と五輪のマークという
シンプルなもの。

枠いっぱいに広がる赤い丸と
金色の五輪との僅かな隙間が

緊張感を生み出しています。

デザインしたのは亀倉雄策。

日本で グラフィックデザイナーという
職業を確立したといわれる巨匠です。

オリンピック決定 万歳!

万歳! 万歳! 万歳!

このころの日本は 戦後の復興から
高度成長へと向かうさなか。

街はエネルギーに あふれていました。

そんな時代に
エンブレムのコンペが行われました。

オリンピックの「顔」とも言える
エンブレムは

日本のデザイン力を世界に示す
絶好の機会。

亀倉がイメージしたのは
日本らしさの象徴 「太陽」でした。

さらに赤と組み合わせた
もう一つの色 「金」。

ヒントとなったのは
戦国時代の ある物でした。

豊臣秀吉の陣羽織です。

亀倉は 日本の伝統的な美意識と
モダンデザインの融合を目指しました。

エンブレムのコンペには6人が参加。

いずれも当時の
トップデザイナーばかりです。

亀倉の作品が インパクトという面で
群を抜き 満場一致で選ばれました。

2020年 東京オリンピック・
パラリンピック大会の

デザインに携わっている廣村正彰さん。

亀倉は 大会公式ポスターも手がけます。

最初のポスターは エンブレム。

続く3枚は 写真を使いました。

聖火ランナーをテーマにしたポスター。

夕暮れの中 聖火の炎が
印象的に浮かび上がります。

陸上選手に実際に走ってもらい
リアルな姿を写真に収めました。

薄暗い中でも人物を際立たせるため
フラッシュなど新しい技術を取り入れ

これまでにない表現をねらいました。

こちらは競泳の躍動感を表現した
ポスター。

水しぶきの一つ一つまで捉えています。

僕が とても やっぱり注目したいのは
この切り方なんですよね。

選手が こんなに上にあって
ずっと手前が開けている。

普通だったら センターに
入れちゃうんですよね。

それも手を伸ばした状態で
ギリギリでカットして

上もギリギリでカットして
下をど~んと出してるという

このダイナミズムの表し方というか
デザインの妙ですよね。

すばらしいレイアウトだったと
思いますね。

そして ポスターの中で
最も話題となったのが…。

短距離走のスタート直後の瞬間を
切り取ったポスター。

暗闇を背景に 力強く飛び出した選手たち。

競い合う6人全員の顔が見えるように
重なり合う奇跡の瞬間。

♬~

これは国立競技場で 何度もスタートを
繰り返して撮影されたものです。

その時の様子を
亀倉本人は こう語っていました。

それで しょうがないんで もう…

本当にね 50何枚かな
40何枚か撮ったうちの

たった1枚なんですよ。
あとは全部 僕は気に入らなかった。

これだけ それもね
この本当に隅っこ切ったんですよ。

だから すごく写真は荒れてるんですよ。

♬~

このポスターは高く評価され
世界に日本のデザイン力を伝えました。

今日 最初のツボは…

東京・港区にある…

外国からの要人を迎える施設です。

ここに 1964年の東京オリンピック
組織委員会が置かれていました。

亀倉雄策をはじめとしたデザイナーたちが
集まった部署もありました。

中には その後のデザイン界をリードする
若手の姿も。

「シンボル部会」という部署に
最年少のメンバーとして呼ばれたのが

版画家の原田維夫さんです。

当時は イラストレーターとして
活躍していました。

シンボル部会が デザインしたのが…

競技や施設などを絵文字で表したもの。

誰にでも分かりやすく意味を伝えるのが
役目です。

例えば体操は…。

軽やかに脚を振り上げた瞬間。

日本の女子が金メダルを取ることになる
バレーボールは…。

レシーブをする姿。

原田さんのチームが担当したのは
案内所やシャワー 食堂など

施設を表すピクトグラムでした。

これは その制作の様子を
原田さんが版画にしたもの。

自分と… やったのと そっくりだなと
思うのは これですよね。

で これですよね。

そういうのは 絶対みんな
これ やるんですよ。

これも そう これも そう。

救護室なんか
どうしても こうなっちゃうんですよ。

メンバーから出た さまざまな
アイデアをもとに まとめていきました。

荷物の一時預かりは カバンと鍵を
デフォルメしたデザインに。

中でも苦労したのは サウナなど
日本では まだ普及していなかった施設。

さらに みんなを悩ませたのは
今では おなじみとなった…

こちらのピクトグラムです。

(原田)難しいのは トイレ。
みんな苦戦して。

男女があって
大小があるじゃないですか。

それを考えていくとね 煮詰まっていって
おかしくなっていくんですよ。

原田さんは 自分が提案したデザインを
今でも鮮明に覚えています。

これで こういうふうにして
なるんじゃないかと…。

分からないではないでしょ? ね?

あんまり納得しない?

最終的には 男女の区別だけに絞った
田中一光のアイデアに決まりました。

完成後 シンボル部会は
ピクトグラムの著作権を放棄。

後の国際大会などでも ピクトグラムが
広く使われるようになったのです。

東京2020!

そして 2020年 東京オリンピック・
パラリンピック大会のための

競技ピクトグラムが発表されました。

オリンピックとパラリンピック
全部で 73種類。

今回のピクトグラムをデザインしたのが
廣村正彰さん。

田中一光の弟子に当たります。

64年の全体イメージは そのままに

今の時代に合わせたデザインを
模索したといいます。

例えば バスケットボールというのは

64年の場合には
ドリブルをしてるんですね。

ですけども今回のでは
ダンクシュートをしてると。

何か そういう現代性というのが表せる。

そういう時 そのウィルチェアーの
車いすは

ものすごい「ハの字」になっていて

もっともっと アスリートたちの動き
というか

躍動感を どのように最大限 引き出すか
ということも心がけて作りました。

先駆者たちの思いが
2020年にも引き継がれています。

1964年の東京オリンピックと
パラリンピックには

他にも面白いエピソードが たくさん!

4つのミニコーナーで紹介していきます。

こちらの漆塗りの箱は
金メダルのケースです。

こうしたアイテムには
日本の伝統工芸の技が生かされました。

メダルのひもは西陣織。

表彰式でメダルを運んだお盆も
漆塗りでした。

中には芸術家 岡本太郎が
デザインしたものも。

選手と役員 全員に配られた
参加記念メダル。

陸上と水泳をモチーフにしています。

入場券は エンブレムの赤い丸を生かした
デザイン。

競技ピクトグラムが用いられ
会場や開始時刻も絵で分かるように。

そして当時 ひときわ人気を博したのが…。

オリンピックの記念貨幣。

1, 000円と100円の2種類です。

日本で最初に記念貨幣が発行されたのが

1964年の東京オリンピックの時
だったのです。

ご先祖様 僕は 100年後の未来にいる
孫の 孫の… つまり子孫なんだよ。

え~っ。

実は今度 学校で運動会があるんだけど
僕 全然 運動が だめで…。

かけっこも 綱引きも 玉入れも…。

あ… そうなの?

それも これも ご先祖様のせいなんだよ。

えっ 僕?

ご先祖様が運動嫌いだったから

うちの家族は みんな運動嫌いに
なっちゃったんだよ。

いや そんなこと言われても…。

今年の運動会も きっと…。

分かった。 なんとかする。
なんとかするから!

本当? 本当に? やった!

じゃあ ここに行ってみてよ。

困ったな これ…。

ん?

えっ なになに?

「聖火の入場であります。

初めて このアジアの地 東洋の日本
日本の首都 東京におきまして

第18回オリンピック大会が
開かれたのであります」。

1964年10月10日
東京オリンピックの開会式。

選手たちは 国や地域ごとに
おそろいの服を着て入場しました。

「そして いよいよ開催国 しんがりは
94番目 日本選手団の入場であります。

男子は真っ赤なブレザー
女子も真っ赤なブレザー。

女子は白のプリーツスカート
男子は白ズボンであります」。

選手たちの このいでたちは
強烈に人々の印象に残りました。

「開催国 日本の意志と力を
振りまくようであります」。

あ ここだ ここだ。 ほら。

ここに
ちゃんと書いてあるんですよ 名前が。

赤いブレザーを着て 入場行進した一人
三宅義信さん。

「さあ この一差し どうでしょうか。
どうか。

挙がりそうです。 挙がった。
挙がりました。

三宅 見事に優勝の一瞬です」。

三宅さんは開会式の2日後
日本に金メダル第1号をもたらしました。

やったるぞ~というような形のね…

山梨県の南部を流れる富士川。

そのほとりにある町の資料館。

真ん中に置かれていたのは
開会式の赤いブレザー。

今も鮮やかな赤。 3つボタンの
ブリティッシュスタイルです。

胸には 日の丸と五輪のマークが
縫い付けられています。

ボタンも東京オリンピックのために
デザインされました。

実は この町はブレザーをデザインした
望月靖之さんの出身地。

望月さんは 1952年のヘルシンキ大会から
日本代表のブレザーを手がけました。

当時のブレザーは「紺色」でした。

東京・千代田区にある生地メーカー。

望月さんのブレザー作りに協力しました。

赤いブレザーの誕生には
秩父宮から望月さんへ

あるアドバイスがあったといいます。

秩父宮様の方から…

もう一つ お話があったのが…

…というようなお話をいただいたと。

以来 望月さんは「日本の色」を探し
さまざまな研究者や文献を当たりました。

ある時 歌舞伎に
「我が日之本の国は」

という せりふが
あることに注目します。

そんな折 オリンピックが決定。

自国開催こそ
赤いブレザーを実現させたいと

望月さんたちは動き始めます。

生地メーカーは 色彩研究所を設立。

望月さんの理想とする色を
どう表現するか 研究を重ねました。

サンプルが出来上がると
国立競技場に持ち込んで

現場での見栄えのテストも
行ったといいます。

望月さんたちが たどりついたのは
「黄色みがかった赤」でした。

いよいよ ブレザーの選考会。

そこには8色ものブレザーがありました。
その結果…。

「赤」のブレザーが選ばれました。

ブレザーは「赤」に決定。

しかし 400着以上のブレザーを
どう作るのか 次の課題にぶつかりました。

望月さんは 日本中のテーラーに
声をかけていきます。

こちらの仕立てられたテーラーさんは
これ ペンポケットになります。

一方 こちらのテーラーさんは
ペンさしの他に

チケットポケットといわれる
こういったポケットが付けられてます。

ここは もう各テーラーさんが
手慣れた方法で。

こちら 襟の裏なんですけれども
中に立体感を出す「芯地」があります。

それを全部 手縫いで付けてます。

仕立ての違いは
各地の職人が腕を振るった証しです。

今も注文服を作り続ける
一軒の店があります。

ここはメルボルンから5つの大会の

オリンピックブレザーを
仕立ててきました。

これが2つだけ残ってる

東京オリンピックの時の
支給された糸です。

普通 なかなか赤い洋服というのは
ないので 今 使わないで残してある。

まだ ちゃんと いい糸だから
使えるんですね。

東京オリンピックの時は
中学生だった菊池さん。

店には8人ほどの職人がいて

オリンピック前は
総出で作業したといいます。

このミシンは 東京オリンピックの頃から
使っているもの。

こうして あの赤いブレザーも
職人が一着ずつ 手作りで仕上げました。

今だったら そんなに名誉に
感じないかもしれない。

多くの人たちの思いが込められた
赤いブレザー。

今日 二つ目のツボは…

オリンピック東京大会の開会を
宣言します。

1964年の開会式。

中でも人々の記憶に刻まれたのが
この音楽。

♬~

東京オリンピックのファンファーレを
演奏したトランペットが

陸上自衛隊の展示室に残されています。

日本の管楽器メーカーが 当時の
トランペットの最高級モデルをもとに

ファンファーレ用に
改良を加えたものです。

ファンファーレを演奏したのは

陸上自衛隊の音楽隊に所属する
トランペット奏者たちでした。

♬~

客席で演奏に聴き入る一人の男性。

川越英清さん。

音楽隊の一員として
あの日 ファンファーレを演奏しました。

ターン タタタ タタタタタ ターン
タタタタタタ

次が ターン タンタンタン タンタン…
そこが なかなか難しい。

多くの人に東京オリンピックの記憶として
刻まれた このメロディー。

一般からの公募で選ばれた曲でした。

曲が生まれたのは長野県諏訪市。

ここは地元のアマチュアオーケストラの
練習場です。

作曲者は ここで指揮者を務めていました。

当時 オルゴールを製作する会社に
勤めていました。

今井さんの曲は 414もの応募の中から
選ばれました。

今井さんをよく知る 会長の武井勇二さん。

これはオリンピックのファンファーレ曲に
選ばれた当時の今井さんの映像。

曲が生まれたヒントについて
語っています。

箏は演奏する曲によって 基準となる弦の
セッティングが異なります。

♬~

あのファンファーレ曲は 箏の
あるセッティングの音階と

非常に似ているそうです。

このファンファーレはですね…

♬~

13音からなる箏の楽調子。

オリンピックファンファーレは…。

♬~(ファンファーレ)

♬~(箏)

最初の5つの音が 箏の楽調子と一致。

曲全体も楽調子をもとに
作曲されていました。

ねらいどおり 日本的なメロディーが
世界に響きました。

♬~(ファンファーレ)

1964年 オリンピックに続き
東京でパラリンピックが開催されました。

「パラリンピック」という名称が
公式に使われたのは東京大会から。

「昭和39年11月8日 織田フィールドには
参加22か国の国旗が翻り

パラリンピックの開会式が始まりました」。

378人の選手が参加しました。

当時は 車いすの競技が ほとんどでした。

選手の移動には 車いすのまま乗車できる
特別に設計されたリフト付きバスが活躍。

パラリンピックに合わせて
新しく作られました。

選手村は オリンピックで使われた
代々木の選手村を

パラリンピック用に改修。

当時の日本では ほとんど見かけることが
なかったスロープも作られました。

日本における スポーツと
障がいのある人との関係が

変わるきっかけとなったのです。

ごめんください。

よいしょ。

これは イマイチだな。

あの… すいません。

あ~ いらっしゃい。 どうぞ どうぞ。

こちらへ。
何か ご用ですかね?

ええ あの… 実は子孫が…。
子孫?

いえいえ 孫の運動会に
出ることになりまして

少し スポーツで体を動かそうと
思いまして…。

スポーツで 世界を目指したい?

だったら これを試してみなさい。

これ あの… さっき「イマイチ」って
言ってたやつじゃないですか。

いや まあまあ まあまあ… この辺りから
スタートするのが いいんじゃないのかね。

私 あの… スポーツで ちょっと速く
走りたいなと思って…。

何? 世界一 速く走りたい?

だったら こちらだ。 こちらのマシン。

これは あのカリブ海の有名な選手が
あの世界記録も出した…

あの選手が使ってる とんでもない
マシンなんだから これ。

私は そんな…。
まず お立ちになって お立ちになって。

世界記録を
出したいわけじゃないんですよ。

まあまあ まあまあ…
これ 肩に ひもをかけてね

腰をかがめて ドーンとスタートする。

ここ 本当に大丈夫かい…。
世界記録も間違いなしですわな これ。

2020年の大会に向けて
多くの施設が建設されています。

その一つが…

大きなカーブを描いている屋根。

屋根の下は
ひさしのように張り出しています。

中に入ると…。

ここにも木が ふんだんに使われています。

屋根を支えているのも木材。

世界最大級およそ90メートルの
木製アーチの梁です。

有明体操競技場に 構造設計アドバイザー
として参加した斎藤公男さん。

それを解決したのは…。

弓道でした。

「張弦梁」と呼ばれる この方法。

カーブが緩やかな梁は
重さで横に開こうとします。

そこで弓の弦のようにケーブルで引っ張り
力のバランスを保つのです。

なだらかな木の梁を生かしたデザインを
技術で支える。

三つ目のツボは…

「3, 800億円の巨費と5年の歳月をかけた
東海道新幹線も

オリンピックを目指して走り出しました」。

オリンピックを控えた東京では 新幹線や
モノレール 高速道路などの工事が

急ピッチで進められました。

そこには当時
最先端の技術が投入されました。

64年大会のシンボル的な存在だった
施設が…

緩やかなカーブを描く屋根の造形は
世界からも高く評価されました。

斎藤公男さんは この競技場の建設にも
参加していました。

設計したのは丹下健三。

その後 世界を舞台に活躍することになる
建築家です。

丹下が この競技場に込めたのは
日本の建築の力を世界に示すこと。

当時 構造設計チームの最年少として
参加したのが斎藤さんでした。

丹下の声かけに スタッフたちから
多くのアイデアが集まりました。

その中に 丹下が可能性を感じた模型が
ありました。

それが こちら。

しかし たくさんの観客が利用するため
大きな出入り口が必要でした。

そこで考えたのが 左右にずらしてできた
ところを出入り口にするという案です。

「二つ巴」という
家紋にも見られるデザイン。

原宿からの人の流れと
渋谷からの人の流れを

うまく建物の中に飲み込みながら

で 全体が建築の流れの中に
空間として捉えると。

しかし この大空間を どのように支えるか
という問題が 立ちはだかります。

そこで丹下が目をつけたのが「つり橋」。

当時 東洋一のつり橋
若戸大橋が完成しました。

その「つり構造」を世界で初めて
巨大な建築に生かそうとしたのです。

建物の真ん中に つり橋と同じように
ケーブルを渡し

そこから さらに両側に
天井を張っていきます。

工事では巨大な柱と柱の間
126メートルにケーブルを渡し

それを37本 束ね合わせて
1本のメインケーブルにします。

丹下のイメージした
つり構造による屋根の形。

それは建築家や構造設計家たちの
試行錯誤で生まれた

世界に類を見ないプロジェクトでした。

完成した大屋根の優美な曲線。

寺の屋根にも似た
緩やかなカーブを描いています。

1964年10月。

代々木競技場は 東京オリンピックの
水泳会場となりました。

ここで数多くの名勝負が繰り広げられ
いくつもの世界記録が生まれました。

うわ~ すご~い 広い!

うわ~ 何年ぶりになるんだろう ここ。

元競泳選手の萩原智子さん。

わあ すごい。

世界で活躍してきた萩原さん。

ジュニア時代に 代々木競技場で
泳いだことを鮮明に記憶しています。

2020年 代々木競技場は
ハンドボールなどの会場として

オリンピック・パラリンピックを迎えます。

今も色あせない斬新な空間。

再び ここに世界の注目が集まります。

東京オリンピックは 日本の航空技術を
世界に披露した大会でもありました。

航空自衛隊の「ブルーインパルス」。

歴代のオリンピックで初めて
飛行機で空に五輪を描くことが決定。

時速460キロで お互いを目視で確認する
という高度な技でした。

そして快晴のもと迎えた開会式。

「大空には色鮮やかに 五輪のマークが
ジェット機によって描かれました。

人呼んで
アクロバットチームと申します。

えり抜きのパイロットたちによりまして

鮮やかに五輪のマークが
秋の大空に描かれました」。

なるほど 運動会で金メダルを取りたいと。

うん お安いご用ですな。

私は 地球上で最強の動物を決める
大会でも優勝してますからな。

ほら ほら。
よろしくお願い致します。

まずは足腰の強化から始めましょう。

それじゃ この…「金メダリスト
育成マシン」をつけてください。

これを 肩を… つけてみてください。
何ですか これ。

これは「金メダリスト育成マシン」です。

重い。
重い。

それじゃ これで スクワット50回!

絶対 無理ですよ そんなもん これ。

オリンピックで金メダルを取るなら
これぐらいは やらないと。

いや オリンピックじゃないんですよ。
それじゃ開始!

はい 1 はい 腰を落として はい。
もっと深く はい。

こう ここまで。 はい ここまで。
スピードアップ はい!

さらに さらにアップ! はい さらに。
跳び上がってもいい。

オリンピック開幕後
毎日 繰り広げられた熱戦。

世界各国から やって来た選手は
5, 000人にも上りました。

そんな選手たちを支えたのが食事です。

選手村の食堂では
料理人が全国から集まり

世界各国の選手をもてなすために
さまざまなレシピが考案されました。

こちらは石川県加賀市にある
とある洋食店。

この店のこだわりが このカレー。

実は これ
東京オリンピックの選手村食堂で

出されたカレーを再現したもの。

選手村の料理人に抜てきされ
そこでカレーを作ったのが 横山 保さん。

今も息子の修さんが受け継いでいます。

当時 保さんは28歳。

選手村には同じように
全国から若い料理人が集まっていました。

カレーはルーから作るため
時間も手間もかかります。

コンロで炒めては オーブンに入れ

それを7回も繰り返すことで
香り高いカレールーに。

どの国の人でも食べられるよう
辛さは控えめだったそうです。

こうして1時間
コンロの前に立ちっぱなしで作ります。

最後の仕上げに一工夫が。

塩を加えるのは選手村食堂の料理長だった
村上信夫のアイデアでした。

村上は よく選手のいる食堂に
顔を出していました。

ある日 料理を残す選手たちがいることに
気付きます。

そこで塩を足すよう指示したといいます。

横山さんのように
全国から集まった料理人たちは

その後 地元に帰り 選手村で学んだ
洋食の技術を広めていきました。

四つ目のツボは…

東京オリンピックの選手村食堂には
4人の料理長がいました。

村上信夫をはじめ そうそうたるメンバー。

彼らにとっても選手村食堂の運営は
未知の世界でした。

選手や関係者を含め 7, 200人もの食事を
提供しなければなりません。

料理長のリーダー的な役割を務めたのが
馬場 久。

食材に関する
馬場のメモが残されていました。

そこには 選手村では1人
6, 000キロカロリー必要だとあります。

しかも選手村には
世界各国の人々がやって来ます。

どんな料理がいいのか…
それが課題でした。

福岡市にある料理の専門学校。

料理長の馬場は
ここで特別講師をしていました。

にんにくと たまねぎ入れて
2分間 炒める。

あ~ いい匂い。

これだけでも うまそう。

今 彼らが作っている料理。

1964年の選手村で ふるまわれた
という料理です。

ちょっと とろみついてきたよ。
何でだろうね。

やっぱ お米とかジャガイモが
入っとるけじゃない。

あ でんぷん?
でんぷん でんぷん。        なるほどね。

できたのは アルゼンチンの家庭料理
「牛肉の煮込み」。

みんな 作るのも食べるのも初めてです。

どうやって再現したのでしょう?

実は この学校に選手村食堂のレシピが
残されていました。

当時 馬場たちが まとめたもの。

これをもとに全国から集まった
料理人たちに作り方を伝えました。

しかし アルゼンチンやグアテマラ
パナマなど

当時の日本では あまり知られていない
料理ばかりでした。

そういうふうにして それをレシピに
仕立てていったというふうに

聞いておりますね。

今まで自分たちが全く見たこともない
料理ですからね。

レシピ化していくという
大変なご苦労があったと思いますね。

その数 27種類。

当時 料理人にとって作り方は 師匠から
盗んで覚えるものと言われていました。

そんな時代に レシピを作ること自体
革新的なこと。

しかも どんな料理人でも作れるように

分かりやすく
伝えなければなりませんでした。

心を込めた おもてなしの料理。

その思いは 時代を超えて
受け継がれています。

色鮮やかな着物。

さまざまな模様の中には…。

五輪のマークが。

これは表彰式でメダルを運ぶ女性たちが
着ていた振り袖。

依頼を受けた百貨店が
それぞれ工夫を凝らして仕立てました。

これを着たのは 表彰式でメダルを運ぶ
ボランティアの女性たちでした。

小池和子さんは 男子マラソンの表彰式で
金メダルを運ぶ大役を任されました。

(小池)アベベちゃんも有名な人だったし

日本の旗が はためいたのは
あの瞬間だけ。

東京オリンピックではね。

かえって そのために
ドラマチックでしたね。

先生 運動会は玉入れもあるんですけど
それも なんとか できませんかね?

なるほど。 それじゃ 次は
このボールを使ってみましょう。

お願いします。

このボールを まず右手で持って
背中の後ろを通して投げて 左手で取る。

そして さらに この左で持ったボールを
後ろで投げて 右手で取る。

それなら僕も できるかもしれません。

これぐらいコントロールできないと

球を思ったところに投げるなんて
できませんからな。

それじゃ どうぞ。

あ~ 強い 強い 強い 強い… あ~。

あ~っ!

あ… 取れた! 取れましたよ!

すごい。 すごい! すごい身体能力だ。

これならオリンピックで
金メダルも夢じゃありませんよ。

いや… そうですか?
うん。

お~ お~ お~。
お~ お~ お~。

1964年10月21日に行われた男子マラソン。

世界レベルの走りに
沿道は多くの声援で埋め尽くされました。

中でも日本の円谷幸吉選手の3位入賞は
人々の記憶に残ったシーンの一つ。

「円谷 円谷 最後の頑張りに期待します。

日本の名誉を懸けて
今 ゴールインしました。

今 30メーターと縮めたが
今 円谷 見事に日の丸を掲げます。

日の丸が揚がります。
日本の円谷…

あらゆる力を使い果たしました。
日本の円谷」。

その姿は大きな感動を与えました。

ここは日本のスポーツの歴史を彩った
アイテムが展示されているミュージアム。

その奥に 貴重なシューズが
保存されています。

こちらが円谷選手が履いていたもの。

白い革製のマラソンシューズです。

靴にカラフルなデザインが用いられたのは
このころから。

場所によって靴底の厚みを変えるという
当時としては画期的なもの。

作ったのは神戸のシューズーメーカーの
創業者 鬼塚喜八郎。

競技用シューズの開発に
力を入れていました。

当時 オリンピックやアジア大会で
活躍した君原健二選手も

鬼塚とシューズの開発に取り組んだ一人。

こちらが君原選手の
布製のマラソンシューズ。

この靴の最大の特徴は…。

この小さな穴です。

ある時 鬼塚は
「走るたびに足にマメができる」と

選手から聞きました。

シューズの中を冷やせば
マメができにくいのではないか…。

そこで シューズに穴を開けたのです。

こうすれば足を踏み込むたびに

ふいごのように空気が出はいりする
仕組みだとか。

今日 最後のツボは…

オリンピックに続いて開催される
パラリンピック。

回を重ねるごとに関心も高まっています。

こちらは東京・江東区のランニング施設。

もう1回 帰りも
ジョグしてもらってもいい?

選手の足元には義足が。

池田樹生さんは パラ陸上400メートル走の
日本記録保持者です。

この日の練習には 義肢装具士と

義足メーカーのスタッフも
参加していました。

若干の推進力のサポートみたいのを
感じるんですけど。

推進というのは 前に足が出やすい?
それとも体が前に行くような?

どちらかというと 義足が前に行くから
体も自然とスムーズに…。

選手の感想を聞き取っているのは
義足エンジニアの遠藤 謙さん。

5年前 遠藤さんは競技用の義足を作る
ベンチャー企業を設立。

以前はアメリカの大学で
ロボットや義足の研究をしていました。

競技用の義足は カーボン製の板バネの
登場で飛躍的に向上しました。

板バネは着地の力を吸収し それを
地面を蹴る時の力に変えてくれます。

選手の意見を反映させ 設計するのが
遠藤さんの役目です。

選手にとって
こうしたエンジニアの存在は

大きな支えになるといいます。

競技用の義足を
もっと多くの人たちに使ってほしい。

そこで遠藤さんたちは毎月

誰でも参加できる
体験イベントを開催しています。

クララが立ったじゃないですけど
初めて板バネ履く。

もともと陸上をしていたという
会社員の小川仁政さん。

おっ…。
気をつけてください。

ちょっと やわらかいかな。
やわらかいか。

ちょっと長くて硬いです。
こっちの方がいいと思います。

ちょっと硬すぎたら言ってください。
最初だけ気をつけて。

いよいよ 走る楽しさを
体験してもらいます。

イベントでは
走り方のレクチャーが行われます。

まずは競技用の義足に慣れてもらうこと。

慣れてきたら
あとは楽しみながら体を動かします。

スポーツの楽しみは
さまざまな形で広がっています。

はい。

草刈さん 珍しいですね ジャージ姿。

いやいや 最近 何だかね…

最近 何だか運動するのが
楽しくなりましてね。

ジョギングでもと思いまして。

スポーツする草刈さん
かっこいいですよ!

そうですか? いや それほどでも…。

ご先祖様 ご先祖様!

見て! 僕 1等賞 取ったんだよ!

あ~ そうか。 よかった よかった。

これからも運動は楽しく続けるんだよ。

さてと 僕も金メダルを目指して頑張るぞ。

♬~


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