経済スペシャル 令和×渋沢栄一~日本型経営の源流 2024年度に登場する新紙幣で1万円札の顔になる渋沢栄一…



出典:『経済スペシャル 令和×渋沢栄一~日本型経営の源流』の番組情報(EPGから引用)


経済スペシャル 令和×渋沢栄一~日本型経営の源流[字]


2024年度に登場する新紙幣で1万円札の顔になる渋沢栄一。500社近い企業を起こすなどして「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢を5つの「視点」から再評価する。


詳細情報

番組内容1

GAFAに代表される勝ち組企業が闊歩する現代グローバル社会。「勝てばいい」「儲かればいい」という利益至上主義。しかし、かつて日本で「そうではない」と異を唱えた男がいた。渋沢栄一だ。その渋沢が、2024年度に登場する新紙幣で1万円札の顔になる。500社近い企業を起こすなどして「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢。

番組内容2

その人生をたどりながら、これからの日本経済の指針を考える上での「渋沢資本主義」を5つの「視点」から再評価する。

出演者

【ナビゲーター】小谷真生子

【VTRナレーター】石丸謙二郎



『経済スペシャル 令和×渋沢栄一~日本型経営の源流』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

経済スペシャル 令和×渋沢栄一~日本型経営の源流 2024年度に
  1. 渋沢
  2. 渋沢栄一
  3. 日本
  4. 会社
  5. 自分
  6. 論語
  7. 時代
  8. 企業
  9. 明治
  10. フランス
  11. 経済
  12. 設立
  13. 近代化
  14. 当時
  15. 算盤
  16. 現在
  17. 資本主義
  18. 必要
  19. アメリカ
  20. 万円札


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新元号 令和の発表があった
今年4月。

もう一つのニュースが
日本列島をにぎわせました。

いいですか?
はい。

新たな1万円札の顔に
渋沢栄一が決定。

ところで 渋沢栄一が

どんな人物か ご存じでしょうか?

設立や経営に携わった企業
実に500社。

しかも 多くは 名だたる大手。

ご先祖様がですね この肖像に
使われるということですから

この肖像を見てですね
感謝の思いを持ち…。

見るたびにですね うちの…。

そして 長寿企業。

渋沢は この国に
日本型経営を根づかせた

資本主義の父と呼ばれています。

そして 多くの経営者に
多大な影響を与えてきました。

日本の経営者の中では
最大級の

新1万円札決定に

そこで見つけた

渋沢栄一。

こういうものを考えて いろんな

創設した会社に伝わる渋沢の教え。

500社もの会社を
手がけることができた

その理由とは?

三菱財閥の創業者
岩崎弥太郎との息詰まる対立。

なぜ2人は 激突したのか?

渋沢の貴重な肉声が
残されていました。

渋沢が目指した

更に 全国に数多く残される

その中に意外なものがありました。

笑う渋沢。

この笑顔には
歴史的なドラマがあったのです。

4つの時代を駆け抜けた
財界の巨星。

そして 令和の時代。

彼の偉業は再び
さん然と輝き始めています。

渋沢栄一が作り上げた日本型経営。

その源流を探ります。

今 世界では…。

ITの巨人 GAFAが国家以上に

個人情報を独占し

世界の勝ち組として
君臨しています。

しかし 渋沢は
かつて限られた企業が

事業を独占することに
真っ向から異を唱えていました。

およそ100年前に投げかけたメッセージ。

その渋沢を なぜ
令和という新たな時代に

1万円札の顔としたのでしょうか。

新1万円札の肖像となる渋沢栄一。

麻生財務大臣は
最大の理由を こう話しました。

日本の資本主義
というものを見た場合

やっぱり この方の功績は
極めて大きかったと思いますね。

日本の資本主義の功績。

戦後1万円札の顔となったのは
聖徳太子と福沢諭吉という

政治家や文化人でした。

渋沢は
日本の近代化を支えた…。

その功績が認められ
経済人として初めて

紙幣の顔となるのです。

渋沢の志を受け継ぐ財界人は
どう受け止めているのでしょうか。

僕なんかにしてみると…。

渋沢が作った
東京商工会議所の第21代会頭は…。

こういうのが渋沢栄一の…。

そうなると当然

このように思ったわけであります。

渋沢が目指した
企業のあるべき姿について

書かれた本があります。

『論語と算盤』。

人として行うべき正しい道
道理を説いた

孔子の 『論語』と

経済 すなわち 算盤を
一つにしたタイトル。

その中で 渋沢は

企業の経営者が

このように語っています。

自分の利益と
公益性の両立。

それが
企業の使命だと

渋沢は
訴えています。

『論語と算盤』は
多くの関連本が出版され

企業経営者のバイブルとして
読み継がれてきました。

大きな影響を受けたのが
新浪剛史さんです。

ローソンの再建を担っていたころ

この本に出会い
経営哲学に目覚めたといいます。

彼の 『論語と算盤』には
読み込んだ線がビッシリ。

折に触れ
読み返しているそうです。

ジャーナリストの永野健二さんは

今こそ 渋沢が目指した時代が

到来しつつあるのではないかと
指摘します。

大胆に言えば

欧米のような
利益追求型の資本主義から

社会との協調性が
求められる時代へ。

令和を迎えた現代 渋沢が唱えた
企業のあるべき姿が

再評価されているのです。

渋沢を研究し続けている
論客たちが

知られざる渋沢の
素顔について語り合いました。

対談の舞台は 帝国ホテル。

渋沢栄一は 明治時代

このホテルの開業にも
携わっています。

集まったのは 分野の異なる5人。

多角的に
議論を深めていただきましょう。

日本の現代社会 経済に
各方面で影響を残してる

この渋沢さんなんですけど

1万円札の顔になると
この大抜てき どうですか?

ようやくっていう
ふうに思いました。

それは1万円札が ずっと
福沢諭吉だったじゃないですか。

なんで…。
それに不満があるんですか?

不満です。 5千円とか 千円は
コロコロ変わるのに

なんで福沢諭吉は
変わらないんだと。

ただ福沢諭吉は 思想面で

日本の近代化に
貢献した人なんです。

で 実践面で
誰がいちばん 貢献したのか。

渋沢栄一だと思ってるんです。

なので 思想面の貢献者から
実践面の貢献者に変わる

っていうのは 私は
自然の流れだと思っていました。

それは 何かというと
明治維新のころであれば

欧米列強に追いつくために
殖産興業をして

新しい産業を作っていかなければ
いけないといった

そういったテーマが
社会全体で

共有されていたわけですけれども
今の令和の時代でも

ある程度
出来上がった産業というものが

だいぶ 飽和状態にあって
社会全体が

ややもすると衰退状態になる中

新しい産業を作っていかなければ
いけないという

そういった
時代の気分というものが

日本だけでなく 世界中で
共有されてるんじゃないかな

というふうに捉えています。

遅い!
日本のこれまでのお札って

ずっと ものすごく古い
聖徳太子も含めて

国の政治に関わった人たち。

あるいは その思想とか
文学者だったり

あるいは 科学の特定の分野の
いわゆる文化の人に

焦点が当てられてきた。
でも お金に関わる

経済に関わるっていうのに
なかなか目が向けられなかった。

それは やっぱり
日本の経済とか社会が

国際社会から見ても
安定した地位に

まだなってないと
思ってたのかなと。

でも やっとここで みんなに
自慢してもいいのかなと。

そういう時代がきたのかな
というふうにも思っています。

そのとき
候補になってたんですけど

彼 髭がなかったんですよね。
髭がなかった?

なので 髭がないと
偽造されるっていうんで

候補から外されちゃったんですよ。

歴史学者の本郷さんによると

かつて渋沢は
政治家の伊藤博文と

紙幣の顔を競ったことが
あるといいます。

しかし 当時は
偽造防止技術が発展しておらず

髭があったほうが
偽造されにくいという理由で

伊藤博文に
軍配が上がったのです。

本当は 渋沢栄一さんは
もっと前に1万円札になっても

おかしくなかったんです。
今となって やっぱり

やっと注目されてきた 渋沢さん。

注目は ずっと
されてたんでしょうけど

でも これで みんな
そういう渋沢っていう方の

偉大な功績に 日本中の人が
ふれることになる。

そういうことですよね。

赤レンガに緑の屋根のレトロな駅舎。

一見 東京駅にそっくりです。

こちらが本物。

比べてみると
とてもよく似ています。

この
うり二つの駅舎があるのは…。

東京駅から電車でおよそ1時間半。

渋沢栄一のふるさと
埼玉県深谷市。

この街は今 渋沢が
新1万円札に決まったのを受け

たいへんな盛り上がりを
見せています。

こちらの店で売り出したのは

渋沢の写真をプリントしたTシャツやグッズ。

カフェの新メニューには
渋沢のラテアートが楽しめるカフェオレ。

渋沢フィーバーに沸いています。

市民のテンションも急上昇。

誇りです 自慢ですね。

では なぜ この街の駅舎は
東京駅にそっくりなのでしょうか。

実は 開業当時の東京駅は

渋沢が深谷市に設立した
煉瓦工場の煉瓦で

造られていたのです。

その縁で 1996年
総工費35億円をかけ

深谷駅を東京駅そっくりにリニューアル。

深谷市民にとって 渋沢栄一は
大いなる誇りなのです。

1万円札の
新しい顔に決まった 渋沢栄一。

ここは 渋沢栄一のふるさと
埼玉県深谷市にある記念館です。

館内には およそ
150点の資料が展示され

渋沢栄一の偉大な足跡を
今に伝えています。

渋沢栄一は
幕末から 明治 大正 昭和と

4つの時代を駆け抜けました。

生まれは農民。
そこから どのようにして

実業に
目覚めていったのでしょうか。

深谷市は農業が盛ん。

ねぎの生産量は日本一を誇ります。

この町で
1840年に渋沢は生まれました。

生誕の地には 家督を継いだ

渋沢の妹夫婦が建てた家が
残されています。

晩年 渋沢は年に数回は帰郷し

この家に
寝泊まりをしていたといいます。

今では
市の史跡となっている建物。

学芸員に案内してもらいました。

母屋の いちばん奥の部屋を
渋沢は使っていたそうです。

そこには ある特徴が…。

玄関の土間に飾られていたのは

渋沢が大切にしていたという言葉。

生涯をかけて極めようとしたのが
論語の教え。

貴重な品が保存されていました。

(スタッフ)箱に入ってる…。
そうです 箱入りなんですね。

実業家引退の年に出版した
『論語と算盤』。

道徳を論語
経済を算盤と言い換え

2つの一致が重要とする
渋沢の思想が詰まっています。

実は 初版本が見つかっておらず

もし見つかれば
極めて価値があるそうです。

道徳と経済の一致を目指し

日本の資本主義を確立した渋沢。

地元 深谷で
小学校の元教師が

渋沢栄一の生涯を研究して

油絵に描いています。

この絵とともに渋沢の人生を
ひもといていきましょう。

渋沢の父は勤勉な農民で

論語をそらんじるほどでした。

渋沢は
5歳から学問の手ほどきを受け

7歳になると従兄弟から
論語を習い始めます。

更に もう一人 渋沢の人格形成に
多大な影響を与えたのは…。

だから お母さんが 人のため
世のために尽くしなさい

そういう教育を
してたと思うんですよね。

そこにやっぱり
論語っていうものは入ってくる。

他人の幸せを考えることができる。

そういう人間が
できてきたんじゃないでしょうか。

渋沢の母は慈悲深く
近所の病弱な人に

食事や
着るものの世話までしていました。

渋沢の実家は
ただの農家とは違い

農作物で商売も営む
いわゆる農商。

手がけていたのは
着物などの染料となる 藍。

農家から藍を買い入れ
染物屋に売っていました。

渋沢は 14歳のとき
実業家への一歩を踏み出します。

父の代わりに 藍を作る農家と
取り引きを始めると…。

ある方法を使って
商売を繁盛させるのです。

そのとき使っていたものが
残されていました。

相撲番付になぞらえた
藍玉製造農家の番付。

渋沢少年は
番付で農家の競争心をあおり

品質のいい藍玉を
手に入れていたのです。

そうですね。

うちは 水の与え方が
こんなんだったよ とか。

大関や関脇の上位の人から聞いた
下位の人たちは

刺激もあったでしょうし

楽しかったんじゃないか
と思いますね。

やがて渋沢は
時代の波にのまれていきます。

アメリカのペリー率いる

開国による自由貿易で経済が混乱。

天皇を尊び 外国を排除する
尊王攘夷運動が巻き起こります。

その影響を受けた 若き渋沢は

ふるさとを飛び出し
更に倒幕へと情熱を燃え広げます。

そして 仲間たちと
命がけの暴挙を企てるのです。

ところが 決行の直前

京都の倒幕派が
挙兵に失敗したことを知り

急遽 計画を取りやめることに。

これが渋沢の
最初のターニングポイントとなります。

渋沢は
幕府から身を隠そうと京都へ。

そこで
ある話を持ちかけられます。

徳川御三卿の一つ…。

後に将軍となる
慶喜に仕えていた平岡は

渋沢に
こんな提案をするのです。

慶喜に仕えて
幕府を内部から変えようと

努力してはどうか というのです。

一橋家に仕えれば
幕府の追っ手から逃れられる。

命には代えられない。

渋沢は

青年期の渋沢。

この変節ともいえる
行動の背景には

何があったのでしょうか?

現実を見ながら どういうふうに
現実が動いているのか。

その遠い現実の先を見ながら

自分の立ち位置というか
取るべき道を選んでいる

というふうに考えます。

非常にしなやかな人だ
というふうに思いますよね。

エゴがない人だなと。

渋沢栄一さんって
『論語と算盤』でも

自分の本分
社会の中における

自分の役割
といったフレーズが

出てきていたと
思うんですけれども

あまり 自分の立ち位置
っていうものに

固執していないのかなと。

それよりは 本当に自分が成したい
志のためであれば

自分は どういった
立ち位置でも構わない。

そういった人なのかなと思います。

人から見れば 変節に
見えるのかもしれないですが

彼の中では
一本 筋が通ったものが

あるんじゃないかな
というふうに見ていて思います。

研究すると どうなんですか?

渋沢栄一の目的は
倒幕じゃないんです。

倒幕じゃない?
はい。

渋沢栄一の目的は
強く繁栄した日本をつくって

欧米列強から 植民地にされない
国をつくるっていうのが

彼の志なんです。
なるほど ということは

尊王攘夷の思想を持っても
幕府についても一緒。

なるほど。
で 一橋家に仕えたのは

そうしないと
殺されちゃうからっていう

単純な理由だったんですけれども
ただ倒幕が目的であれば

仕えないんです。 要するに

もっと志が高いので 手段なんです
仕える 仕えないなんて。

だから仕えて。
で 一橋慶喜って

実は 徳川家康以来の英傑
といわれた人物だったんです。

この人物なら
幕府を倒さなくても

幕府の改革が
できるんじゃないのか。

こういうふうに考えたんです。
だから仕えたんです。

仕え続けたんです。
やっぱ若いときの渋沢栄一に

そんな 後の渋沢栄一の哲学を
求めちゃだめですよ。

逆に そのほうがね
渋沢栄一っていう人は

ホントに偉人の中の偉人だ
みたいに考えちゃうと

なんか1万円札
使えないじゃないですか。

生前 渋沢栄一は
『論語と算盤』という本を書き

経済活動に道徳心は大切だと
訴えていました。

しかし こんな一面も。

実は渋沢
私生活では堅物ではなく

女性関係には
奔放な面もありました。

ある日
渋沢の会社で事件が起こり

部下は 渋沢がいると思われる
女性の家へ。

「取り次ぎを頼む」と言うと
中から…。

それは 紛れもない

渋沢の2人目の妻 兼子は
こう話していたといいます。

奥様 うまいこと
おっしゃったものですね。

次のターニングポイントは 27歳。

フランスへの旅立ち。

そこで渋沢は 資本主義に出会い

日本を変える知恵を
手に入れるのです。

24歳で
一橋家に仕えた渋沢栄一は

優れた商才を発揮します。

僅か1年半で
藩の財政を扱う勘定組頭に。

領内の年貢米などの販路を開拓。

一橋家の財政を潤しました。

そこに大きなターニングポイントが。

すると フランス皇帝 ナポレオン三世から

幕府の使節団を
パリ万博に招待したいという話が

舞い込みました。

幕府はこれを機に
慶喜の弟である15歳の昭武を

フランスに留学させます。

その一団に渋沢も加わったのです。

1867年 大いなる好奇心を胸に
フランスへ旅立ちます。

そして 想像の域を
はるかに超えた社会を

目の当たりにするのです。

フランスで渋沢が
出会ったのは資本主義。

当時 フランスでは
皇帝 ナポレオン三世の

産業を興して貧乏をなくす
という考えの下

フランス資本主義が開花していました。

この写真は 当時のパリ。

近代的な街並みが目を引きます。

一方 当時の江戸がこちら。

あまりにも大きな文明の格差に
渋沢は衝撃を受けました。

更に銀行家 フリュリ・エラールと出会い

資本主義の仕組みを学びます。

そのとき
渋沢が感じていたこととは…。

商業っていうのは これは
AからBへ モノを動かして

そこで利潤を得る。 だから…。

強く感銘を受けた渋沢。

フランスで学んだ資本主義は

渋沢にとって
羅針盤となったのです。

フランスで何を学んだんですか?

これは ナポレオン三世の
経済政策を学びました。

どういうことかといいますと
ナポレオン三世って

実は フランスを近代化した
立役者であるって

今 いわれてるんですね。
どういうことかといいますと

ナポレオン三世って
近代国家として初めて

経済を成長させるための
総合的な政策をもって

それをきちんと実行した
政府の責任者だったって

いわれてるんです。
現代の我々って

政府が景気対策 経済対策やるの

当たり前だと
思ってるじゃないですか。

これは そのころ
当たり前じゃなかったんです。

初めて ナポレオン三世が
それを実行したんです。

これが比較的うまくいきまして
ナポレオン三世の治世前半の

フランスの経済成長率は
当時のヨーロッパ ナンバーワンだったんです。

で これ
何やったのかっていいますと

まず 金融の整備。
お金が回らないと

景気ってよくなんないよね
経済よくなんないよね。

で 次が インフラの整備。
人とモノが回らないと

経済よくなんないよね。

で 3つ目が人材の育成。

お金と人とモノを回せる人が
育たないと

経済ってよくなんないよね。
この3本立てをやるんです。

で 実は渋沢栄一が日本に
帰ってきてやったことの中心は

この3つなんですよ。
なるほど。

どうですかね もし守屋先生が
言われてるみたいに

フランスだっていうところに

すごく目を開かれた
っていうことであるとすると

当時の日本っていうのは
やっぱり アメリカの影響を

すごく強く
受けてるわけじゃないですか。

ところが フランスの影響を強く
受けてたっていうことになると

すごくおもしろいですね。
おもしろいですね。

やっぱり日本の外に出ることで
日本をある意味

相対化して見ることができた
というのもあると思いますし。

おそらく 当時の日本から
フランスに行くっていうのは

今の感覚でいうと
月に行くくらいの

遠い感覚だったんじゃないかなと。

そう思うと なおさら
自分たちの環境っていうものが

必ずしも当たり前のものではない
っていうことに

気付くことに
つながったんじゃないですかね。

ところで
幕末 パリ行きが決まったとき

こんなエピソードが残されています。

燕尾服の古着とボロ靴で フランスへ。

そこで おしゃれな文化に
感化された渋沢は

思い切って
まげを切り落としました。

こちらは
まげを落とした渋沢の写真です。

ずいぶんと雰囲気が変わりますね。

そして シルクハットにネクタイ
燕尾服の渋沢です。

手には 武士の魂ともいえる
刀ではなく

ステッキを握っています

その後 日本で待つ妻 千代に

まげのない姿の写真を
送ったところ 返信には

「なさけない姿」との厳しい指摘が。

内心 渋沢もそう思っていたのか
こんな手紙を送っています。

1年10か月にわたって
海外事情を学び

1868年 渋沢は帰国します。

そこで目の当たりにしたのは

幕府が崩壊し
様変わりした日本でした。

最後の将軍となった慶喜は
江戸城を追われ

大半の財産も没収されて…。

徳川ゆかりの地 静岡で
謹慎していました。

渋沢は 慶喜の下で

フランスで学んだことを
実践しようと考えます。

20代の青年 渋沢は 日本に
資本主義を根づかせるという

偉業に取り組みます。

渋沢は静岡藩と地元の有志から
資金を集め

資本を合わせる合本によって
商法会所という

日本で最初の
近代的な株式会社を作りました。

そして 農家への肥料の
貸し付けなどで利益を得て

1年に満たないうちに
8万5, 000両。

今でいう およそ6, 000万円を
稼ぎ出したのです。

その手腕が
明治新政府の耳に入り

大蔵省は
渋沢をヘッドハンティングしようと

東京に呼び出します。

しかし 渋沢は辞退しようと
心に決めていました。

かたくなに考えれば
一応 自分は徳川慶喜という人を

主人と仰いだんだから。
だから慶喜が そうやって

世を捨てざるを得ない。
それで 慶喜を それこそ捨てて

自分だけ 陽のあたるところに
行くっていうのは忍びない。

これは 逆にいうと
渋沢っていう人が

人間的にいいやつだな
っていう気がしますけどね。

説得に乗り出したのは
財務のトップ 大蔵卿の大隈重信。

固辞する渋沢に
大隈は げきを飛ばします。

渋沢は…。

日本のためにと
渋沢は大蔵省に飛び込みます。

このとき フランスで学んだことを
生かし始めた渋沢は

新しい貨幣制度として
円を定め

税金の制度や
銀行条例など

日本の近代化に向けた
インフラ整備を

着々と進めていきます。

そして 大蔵省に入って4年。

大蔵省の次官だった井上馨の下

渋沢は実質ナンバー2にまで
上り詰めるのです。

大蔵省時代に渋沢が記した
書籍があります。

明治4年に大蔵省から刊行された
『立会略則』。

株式会社制度の知識を広め

商工業を発展させようという

渋沢の意欲が盛り込まれています。

日本経済の土台づくりに
まい進する渋沢。

そこに一人の男が立ち塞がります。

大久保利通。

西郷隆盛 木戸孝允と並んで
維新の三傑と称され

明治政府で
絶大な権力を持っていました。

大久保は大蔵卿になると

莫大な軍事予算を盛り込もうと
指示を出します。

渋沢は
財政の健全化が損なわれると

激しい論戦を繰り広げますが

大久保が折れることは
ありませんでした。

国権論者たちとの対立の末
大蔵省を辞めた渋沢。

向かった先は東京 兜町。

渋沢が描く日本の産業発展のため
第一歩を踏み出すのです。

33歳という若さでした。

こちらは東京 日本橋にある
みずほ銀行 兜町支店。

ご覧のように

このあとは なぜ 渋沢は
500社もの設立に関わったのか。

その秘密に迫ります。

明治の末で
そのころ 法人組織は

1万2, 000ぐらい…。

彼は その中で
400~500 作ったわけですよ。

30社に1社ぐらいは
彼の作った会社なんですよ。

3つ目の視点は こちら。

渋沢栄一の原点

実業家としての歩みは
この会社から始まりました。

第一国立銀行は
後に第一銀行となり

その後 合併を繰り返し

現在の みずほフィナンシャルグループと
なりました。

そのトップを務める

第一銀行の社史を拝見しました。

これが渋沢栄一翁の肖像ですね。

社史のトップは渋沢栄一。

明治6年
第一国立銀行設立時は33歳。

そのとき 目指していたものとは。

そもそも

そのためには

そういう思いがあったわけですね。

渋沢は銀行の開業にあたり
世間に訴えました。

銀行を中心に
金が流れるインフラを作り

企業は そこから資金を調達して

成長していく。

この仕組みこそが
日本の近代化につながる。

文明開化のさなか

日本の新たな姿を
思い描いていたのです。

当時は
まだ日本銀行がなかった時代。

渋沢率いる第一国立銀行が
日本初の銀行紙幣を発行します。

もちろん このとき渋沢は
遠い未来に

自分が紙幣の顔になるとは
思いもしなかったことでしょう。

晩年の貴重な肉声が
残されています。

渋沢が考えた合本主義とは

近代化に必要な資金や

人材を広く集め

その力が合わさることで

次々に会社がおこり 産業が育ち

社会全体が豊かになるというもの。

その目は地方にも向けられます。

多くの地方銀行の設立を指揮。

日本全国に
銀行を軸とした

金融インフラを
根付かせていくのです。

そして 自らも実業家として

破竹の勢いで会社を作り始めます。

銀行ができれば
紙幣を印刷する紙が必要。

そこで設立したのが
現在の王子製紙です。

交通網の整備も進めました。

関東では JR東日本
関西では 京阪電気鉄道など。

電車を動かすためには電気が必要。

東京電力を作り
更に東京ガスも設立しました。

こうして 設立に関わった会社は
実に500社にも上っていくのです。

新浪さんは 渋沢の
経営者としての すごみを

こう話します。

そして

だから 僕は

西南戦争の よくとしの明治11年。

38歳の渋沢は 世の商工業者の
力を結集しようと動きます。

その背景にあったのは…。

当時 日本は不平等条約によって

自主的に関税率を決めることも
できませんでした。

明治政府は外国に使節団を送り
交渉を行うものの

まったく相手にされずに
終わっていました。

そこで イギリスの駐日公使 パークスに
抗議をすると

こう返されたのです。

外国との交渉には
国民の総意が必要と気付いた

大蔵卿の大隈重信と
内務卿の伊藤博文は

実業界の代表として
渋沢に声をかけました。

そこで渋沢は 日本初の経済団体
現在の東京商工会議所を設立。

そして 商工業者を取りまとめ
意見を発信。

この動きは全国に広がり

日本の商工業の発展に
つながったのです。

設立から140年余りがたった
東京商工会議所。

現在 8万件以上の会員がいます。

渋沢が500社もの設立に
携わることができたのは

社会的な信用も大きかったと
三村さんは語ります。

実業家としての実績とともに
リーダーとしての活躍によって

渋沢は絶大な信用を身につけます。

その渋沢を中心に
民間の力や資金が集まり

モノづくりの国 日本の歯車は
回り出すのです。

商工会議所の設立と
時を同じくして

38歳の渋沢は
合本主義を推し進める

更なる仕掛けを作ります。

日本初の公的な証券取引所。

現在の

会社が発行する株式に値段をつけ
売り買いを行うことで

投資家から広く資金を
集められるようになりました。

そして 今や東京証券取引所に
上場する会社は3, 600あまり。

令和となった今年も
多くの会社が上場。

資金を調達して
更なる飛躍に挑んでいます。

渋沢栄一には
こんなエピソードが残されています。

明治5年
大蔵省の役人だったときのこと。

この男が自宅を訪ねてきます。

当時 明治政府の参議だった
西郷隆盛。

西郷は渋沢より13歳年上。
立場も ずっと上です。

この2人が 対じした理由とは?

渋沢の自宅を訪ねてきた西郷隆盛。

それは陸奥国 相馬藩士からの
頼みを伝えるためでした。

相馬藩では 江戸時代
収益が多く出た年には

その余剰金を次の施策に回す
という法律を作っていました。

西郷は 今後も その法律を

藩で存続させてやってほしいと
申し出たのです。

渋沢は
それはよい法律だとしたうえで

上役である西郷に
こう切り出しました。

痛いところを突かれた西郷は
とぼけたふりをして…。

「オイドンは今日
何しに来申し上げたかな」と

言いながら帰っていったそうです。

相手がどんなに偉い人であっても
ずばっと思ったことを口にする。

そういう人だったんですね。

ひと口に500社と言いますが

ひと月に1社ずつ作っていっても
40年以上かかります。

その業種も多種多様です。

鉄道会社があれば
陶器やガラスの会社

鉄鋼 運送用機器

薬品などの化学会社の
創設にも関わっています。

いったい なぜ 渋沢栄一は

これほど多くの会社の創設に
関わることができたのでしょうか。

日本を代表する大手総合建設会社
清水建設。

こちらは渋沢栄一が
設立した会社ではありません。

ところが…。

御社の社是…。

清水建設の社是は 渋沢栄一の
『論語と算盤』そのもの。

いったい なぜ 『論語と算盤』が
社是になったのでしょうか。

その理由を記した資料が

清水建設の倉庫に
残されていました。

渋沢栄一の原点
第一国立銀行の建設中の写真。

あの社屋を施工したのが清水組。

現在の清水建設だったのです。

建てたのは二代目 喜助。

洋館の上に天守閣を築く
奇抜な建築スタイル。

庶民から文明開化の象徴と
仰ぎ見られた この建物を

渋沢は いたく気に入り
つきあいが始まったといいます。

渋沢は清水建設に
現在の東京証券取引所など

多くの建設を依頼。

30年にわたり 相談役を続けます。

77歳の喜寿には 清水建設から
洋風の茶室の寄贈を受けます。

渋沢は この茶室を
たいそう気に入り

外国から客人が来ると
ここで もてなしました。

こうした深い関わりの中で

清水建設の社是は
『論語と算盤』になったのです。

こちらは大阪の企業
東洋紡の社内研修。

講師が社員に教えていたのは…。

この額の文は 渋沢栄一が
実際に書かれたものです。

右から順理則裕と読みます。

東洋紡の社員で この言葉と意味を
知らない人はいないそうです。

これ言えなかったら
どうなるんですか?

東洋紡は渋沢が設立に関わった
500社のうちの一つ。

日本を代表する繊維会社です。

当社の歴代の社長の
肖像画が飾られていて。

歴代の社長の肖像画が
飾られている部屋。

その いちばん奥にあったのが…。

渋沢栄一の
ひときわ大きい写真でした。

明治15年 42歳のとき。

渋沢は 東洋紡のルーツである
大阪紡績の創設に

力を尽くします。

衣食住の衣を満たすために

海外に負けない国産の繊維を作る。

その取り組みは
日本の近代工業化をけん引。

紡績は 明治時代の
主要産業となるのです。

役員会議室には 渋沢直筆の書が
掲げられています。

順理則裕 渋沢の座右の銘でした。

これが順理。

東洋紡は 繊維会社の枠を超え

社会の課題を解決しようと

新たな事業に
積極的に取り組んできました。

その指針となったのが…。

渋沢の言葉
順理則裕だったのです。

今それを我々も
役員室にずっと置いてですね。

議論しながら
この文字を見てですね。

東洋紡は 創業から130年以上もの
歴史を重ねています。

実は渋沢が作った会社には

長寿企業が驚くほど多いとか。

渋沢が実業界を引退してから
100年以上がたつのに

6割以上もの企業が
長生きしているというのです。

日本を代表する高級ホテル
帝国ホテルも その一つ。

明治維新後
近代化を進める日本は

外国の高官などを接待する

いわゆる 鹿鳴館外交を展開。

しかし おもてなしをするための
宿泊施設がありませんでした。

明治23年 50歳。

渋沢は
この問題の解決に動きます。

政財界に働きかけ
迎賓館を兼ねた

日本初の本格的グランドホテル

帝国ホテルの誕生へ
導いたのです。

渋沢は初代会長を務め
実に69歳まで会長職を続けました。

しっかり130年 続けてこれたのは
やはり初代会長の思想であり

いろいろな物事に取り組む
姿勢っていうんですかね。

お客様を
お迎えするうえでの姿勢を

しっかり残してくれ それが

DNAとして しっかり
引き継がれてきたことが…。

私も この立場になりましてから
もう5年 6年になりますけど

何かあればですね
社史を読み返しては

渋沢栄一会長が
残した言葉ですとか功績を

次の経営のいろんな課題を
決定するうえでですね

参考にいたしている
しだいでございます。

帝国ホテルの誇りと感じる
言葉があるといいます。

それは
渋沢がホテルマンたちにかけた言葉。

一生
日本を懐かしく思えるサービスを。

渋沢の言葉をかみしめながら

帝国ホテルは
来年 創業130年を迎えます。

渋沢栄一が作った会社を
一つ一つ見てみると

広義の意味での
インフラにあたるものが

多いと思うんですよね。
例えば銀行であるだとか。

あとは情報を伝達するための製紙。

あと損害保険もあれば
鉄道もあり

また証券取引所もありますよね。
これ広義の意味の

インフラにあたるものだと
思うんですけれども

それぐらい その明治維新の
日本っていうのは

殖産興業していくうえで
整えていかなければいけない

インフラがたくさんあったと。

そういった まっさらな キャンバスを
埋めていったら

結果的に500という数に
なったんじゃないかなと。

もう手本が
ヨーロッパにありましたので

基本的には やっぱり
それを持ってくるという形で

もう ガンガン会社が作れたと。
何やろうかなじゃなくて

やることは もう決まってるので。

それをやっていったというのは
確かだと思います。

やっぱり それをやるための人材を
まず どうやって確保するか。

そうか。
だから たくさん その

自分と同じような考えを
持った人を集めてくる。

あるいは集まってくる。
そして その人たちに

ある程度の責任も
あるいは その積極性を

更に先を託すようにやると同時に
更に その

更に その下を支える人たち
若者ですね を養成していく。

この 人のネットワークと
教育の回り方が

非常に うまくいったんだと
思います。

それから もう一つは
東京だけじゃなくて

あるいは大阪だけじゃなくって
地方ですね。

地方にも同じようなシステムを
会社を作りながら

同じように人材育成も考えてると。

だから 東京だけで500社は たぶん
無理だろうと思いますけども

これが やっぱり地方にも
広がっていくということも

考えたら やっぱり500社は
必要だったんじゃないでしょうか。

そうですね やっぱり
俯瞰で物を見るってことが

すごく よくできた人で。
だから なんか

もちろん財閥系の人たちが
社会貢献 何も考えてなかった

なんてことは
絶対 言わないですけれども

そうじゃないけれども やっぱり
Aの会社で もうけたら

じゃあ Bの会社
Bの会社で もうけたら

その もうけでCの会社。
Cの会社… Dの会社ってやって。

やっぱり
何が足りないかっていうのを

ざ~っと見ていくわけでしょ。

そのために何が必要か
っていったら人材だ

ということになるとドシャドシャ
学問に対しても お金を援助する。

そういうような形が
トータルでできた人なんでしょうね。

そんな渋沢にも
相容れない男がいました。

三菱財閥の創業者 岩崎弥太郎。

2人の確執は 国家を揺るがす
戦いに 発展するのです。

渋沢栄一には その考え方を巡って
対立したライバルがいました。

三菱財閥の創業者
岩崎弥太郎です。

2人の対立は
明治経済史上に有名な

ある戦いを巻き起こします。

4つ目の視点は
なぜ岩崎弥太郎と対立したのか。

高知県安芸市に生まれた
岩崎弥太郎。

その生家が今も残されています。

弥太郎は
土佐藩の地下浪人という

非常に低い身分の
貧しい家庭に生まれました。

しかし 明治3年 大阪で

後の三菱財閥につながる
海運事業を興し

明治政府とパイプを築いて

東洋の海上王と
呼ばれるまでになったのです。

三菱財閥の創始者
岩崎弥太郎の経営手腕について

長年 研究している
杉山里枝さんは こう分析します。

社長専制主義っていうのが
一つ 特徴として

三菱の特徴として
言えると思うんですけども

それが いちばん端的に
表れているっていうのが

弥太郎の人物像というところに
あると思いますね。

リーダーシップをとって
一つの会社をまとめていく。

非常に豪快な人であった
ということはいわれてはいますね。

では 弥太郎と渋沢栄一は
なぜ対立したのか?

大きく違うのは
やはり独占主義であるか

合本主義であるか
っていうところですよね。

渋沢が唱えた合本主義は

多くの人々から出資を募り

資本を合わせて
会社を運営していくやり方。

利益が出ると
出資者などに還元します。

一方 弥太郎の独占主義とは

社長が専制的に経営を行い
利益は自身の会社。

もしくは グループで
独占するというものでした。

考え方の違いで対立していた2人。

しかし ある日 弥太郎は
渋沢に会談を申し入れます。

時は明治11年。

屋形船で芸者と
宴会を楽しんだ2人は その後

向島の料亭で酒をくみかわします。

実は弥太郎は
渋沢の商才を認めており

取り込もうと考えていたのです。

しかし 渋沢が
合本主義の持論を展開すると…。

いやいや 合本主義は理想論だ。

利益が独占できるからこそ
働きがいがある。

君と僕が手を握れば
日本の実業界は思うがままだ。

弥太郎の発言に渋沢は猛反発。

そのまま出ていってしまいました。

その後 渋沢は
地方資産家から資本を集めて

海運会社を作り
岩崎弥太郎に戦いを挑みます。

壮絶な運賃値下げ合戦が
繰り広げられました。

両陣営とも大きな赤字を抱え

倒産の危機に陥っても
一歩も譲りません。

実は 渋沢の背後には
大蔵卿を務めた井上馨が。

弥太郎の背後には
総理大臣まで務めた

大隈重信がついていたとも
いわれています。

事態を重く見た政府は
仲介に乗り出し

値下げ合戦をやめるよう
協定を結ばせます。

しかし すぐに協定は決裂。

2人の戦いは
国家を巻き込みながら

3年にわたって続くのです。

この騒動は 健康を損ねた弥太郎が
51歳で他界したことで

終止符が打たれます。

その後 渋沢が作った海運会社は
三菱と合併。

現在の日本郵船が生まれました。

渋沢栄一の合本主義と
岩崎弥太郎の独占主義。

この2つの異なる考え方は
その後の日本の実業界に

どのような影響を
及ぼしていくのでしょうか。

やろうとしている方向というか
考え方に

やっぱり大きな差があると。

岩崎弥太郎は
政府の国の方針にしたがって

ついていったらば
自分の会社も利益が得られると。

それは結局 最終的に
国を富ませることになるし

社会を富ませることになる
という考え方で。

そして 自分たち あるいは
岩崎のトップダウンでやっていく。

一方で渋沢のほうは
国の政策よりは もう少し民の力。

人の小さな力を寄せ集めていって
それを集めて

みんなで話し合いながら…
会社の方針を決めていくと。

そういうことが最終的に
社会の公益になるんだと。

王子製紙をたてたあとですね

王子製紙の工場を
完全にオープンにしてですね

日本の近代化というのは
こういうものだと。

ぜひ みんな見に来てくれ
というふうにオープンにしたんですね。

普通であれば
自分たちだけで囲い込んで

企業秘密として
保ちたいものじゃないですか。

だけど
世の中に広く知ってほしいと。

そういうふうに世の中に
そういった必要なインフラを

どんどん どんどん
整えていくっていう意思が

非常に
強かった人なんじゃないかと。

あの時代に そういう2人が
いてくれたっていうことが

日本の経済の
多様性をちゃんと担保できた

ってことじゃないですかね。

このあとは
現代の勝ち組とされるGAFAと

令和時代の渋沢イズムを巡って激論。

そして 今も受け継がれる
渋沢の心とは…。

GAFAとは アメリカを代表する
巨大IT企業4社。

現代の勝ち組の象徴です。

そのGAFAと渋沢栄一の違いから
何が見えるのか。

論客たちが意見を戦わせます。

朝倉さん そこで気になるのは
今の時代は どっちなのか。

例えばGAFAとか ああいうの
アップル アマゾン グーグル フェイスブックなど

大手IT関係の企業は
個人情報 独占してるし

だいたい1人の経営者が
創立者が

ずっと権力を
握ってきたんですけど。

それは みんなのものなんですか?
ひとりのものなんですか?

今の経済形態は
どっちなんですか?

例えば今 お話に挙がった
GAFAと渋沢栄一の共通点

っていうところから考えると
そういった世の中に必要な

インフラを整えようとする。
そうした事業をしている

って意味で言うと共通する部分が
あると思うんですね。

データっていうのは
これからの時代における

ある種のインフラで こういったものが
融通されるような

世界を作っていこう
という点においては

GAFAが
取り組んでいる内容というのは

非常に渋沢栄一が
取り組んでいた内容に

共通する部分があると思います。

一方ですね 渋沢栄一との
違いという点に関していうと

今 お話にもあったとおり
渋沢栄一っていうのは

自分自身 自分の利益のために

すべてのものを
囲い込もうとはしない。

別に人材だって自分のところで
飼い殺しにしようとは思わないし。

企業 事業だって自分たちの中で
囲い込もうとしない。

財閥を必要としていなかった
わけですよね。

そういう意味でいうと
自分の立ち位置 ポジション

っていうところに関していうと
極めて なんて言いますか

しなやかというか こだわりのない
人だったというふうに思います。

それは ひょっとしたら今の時代
そういった

囲い込むといった方針をとる方も
いると思いますし

同時に そういった立ち位置を
気にしない。

もっと世の中のために
どういったものが必要なのか。

そのために こういった活動を
していこうよって思う人も

いますし そこは
分かれるところなんでしょうね。

渋沢栄一は第一国立銀行の
頭取を長くやりました。

その株主募集布告
っていうのがありまして

そこに こういうことが
書いてあるんですね。

要はいろんな人の 懐の中に
小銭が たくさんあると。

そういうのを集めて 大きな
お金にして投資することで

要するに企業というのは

非常によくなっていくんだ
というのがあるんです。

GAFAって情報を
ある種 お金ではなくて

いろんな人が持っている情報を
薄く集めて

それをまとめてビジネスに
使ってるわけじゃないですか。

昔は お金を薄く集めることで
力になっていたのが

今は情報を薄く集めることで
力になってるんです。

だけど渋沢栄一は その結果を
皆さんにちゃんと還元したんです。

GAFAの場合は
集めた情報から得た利益を

本当に皆さんに還元しているのか
そこから 新たなものが

本当に出ているのか。
というところが

私は ちょっと違うところじゃ
ないかというふうに思っています。

マネージメントの父と呼ばれ

現代の経営学を確立したとされる
世界的経営学者

ピーター・ドラッカー。

彼は自著 『マネジメント』の序文で
渋沢のことを こう書いています。

今 渋沢栄一は世界で
かなり評価が高いです。

例えば ロンドン大学の先生とか
ハーバードの先生が

渋沢栄一の研究論文を
書いてるんです。

これは数年前から CSR
企業の社会的責任みたいのが

世界で非常に話題になりました。

その大本は渋沢栄一なんです
簡単に言うと。

ドラッカーが言ってるのも 企業の
社会的責任って言ってるんですね。

要は企業というのは社会的に
果たすべき使命があると。

その使命を果たす責任があるんだ
こういうことを

最初に唱えたのが
渋沢栄一だよね。

ドラッカーは そういう
評価をしているわけです。

これが ようやくCSRという形で

現代 同じことが
言われるようになった。

150年前 先に
それを予言していたというか。

あるべき姿では こういうものだ
って言ったのが

渋沢栄一なんじゃないでしょうか。

日本は
どうなっていたのでしょうか。

日本というのはヨーロッパ以外の
主要地域で

ほぼ唯一 第二次世界大戦前に

自力で近代化を
果たしてる国なんです。

これは渋沢栄一が
いたからなんですね。

渋沢栄一だけは近代化の基本には
経済があると。

ここに厚みがないと近代化は
できないっていうふうに考えて。

日本の実業界を設計し
自分で運営し

そして 無私のプレーヤーとして
いろんなことをやっていった。

こういう人は他の国に
基本的には出ないんです。

分厚い経済界がないと
近代化って絶対できないんです。

これは渋沢栄一が
いたからなんです。

だけど それはね
ちょっと歴史研究者とすると

ちょっと やっぱ
反論したくなるんですけども

要するに商人っていうのは
道徳をきちんと守ってるんですよ。

商人たちの商人道徳をきちんと
発揮できるような人たちの

代表例が渋沢なんですよ。

ただですね これ明治って実は

商業道徳が ぐちゃぐちゃに
なっちゃったんです。

渋沢栄一が明治35年に
欧米を歴訪した際に

イギリスの商工会議所の会員から

「日本の商人は
本当に信用できない」と。

「いんちきばっかりやりやがる」
って苦情を受けるんですね。

渋沢栄一 真っ青になって
日本に帰ってから

慌てて 『論語と算盤』って
唱え始めるんです。

要は伝統的な社会に資本主義とか
近代化 入れると

これは拝金主義になるんです。
お金のインパクトが強すぎちゃって

どうしても お金 お金って
なっていくんですね。

渋沢栄一は
そこで うまくバランスをとって

健全に経済界を発展させた。

こういう位置づけになると
私は思っています。

もしも渋沢栄一がいなかったら
もう少し他の商人っていうのは

目先のお金が
簡単に作れそうなものに

飛びついてしまったんじゃ
ないかなと。

もちろん渋沢栄一も
その事業を成功させることで

何かしら大きなリターンを
得ようということは

考えていたはずですけれども
ただ同時に

これは世の中に必要なものなんだ
っていう強い信念があったから

目先の長い赤字状態にも
耐えうることが

できたんじゃないかな
というふうに思っています。

全国に数多くある渋沢栄一の銅像。

いずれも偉人としての
威厳をたたえていますが

一橋大学の銅像だけは
まるで違います。

なぜか満面の笑みを
見せているのです。

この笑顔が意味するものとは
なんなのか?

更に優しいまなざし
そこに秘められた思いに迫ります。

青い目の人形を
優しく見つめる渋沢。

このまなざしには
深い事情がありました。

日露戦争後
日本の軍事力が増す中

アメリカは日本への警戒を強めます。

日本人に対する
人種差別が起こり

アメリカから日本人移民を
排除する動きが強まりました。

経済界のリーダーである渋沢は
この事態を憂い

日米関係の修復に全力を挙げます。

しかし 大正13年 アメリカで
日本人移民を排除する法律が成立。

渋沢は よほどがっかりしたのか
めったに吐かない弱音を

講演会で もらします。

そんなとき
アメリカから1万2, 000体もの

青い目の人形が
贈られてきたのです。

渋沢は この人形に励まされ

日米の懸け橋にしようと動きます。

全国の子どもたちに
青い目の人形を配り

お礼に アメリカには
日本人形を贈りました。

当時 渋沢87歳。

平和を心から願う男の一枚の写真。

こちらに渋沢栄一の貴重な音声が
残されています。

渋沢の晩年の肉声です。

つまり公益の追求によって
利益を生み出す。

渋沢の哲学は かつての
日本型経営の源流でした。

そして 今 企業の社会的責任を
追求する渋沢の経営哲学は

日本のみならず
世界に広がっています。

最後の視点は
改めて問いましょう。

実業界をけん引する一方で

渋沢は 社会事業に
深く関わってきました。

日本屈指の名門
聖路加国際病院や

日本赤十字社。

更に教育の分野では
現在の一橋大学の

設立にも尽力しました。

さまざまな功績をたたえ
全国にある渋沢の銅像の中でも

一橋大学の銅像は
ひときわユニークです。

にっこり笑っています。

いったい なぜ笑顔なのでしょう?

渋沢栄一の やしゃごにあたる
渋沢健さんに聞いてみました。

この笑顔 どっかで
見たことあるなと思って

資料を調べてみたらですね
渋沢栄一が

渡米実業団 1909年ですね。

3か月間ぐらいかけて
アメリカを横断して

民間外交を行った
企画がありました。

当時69歳。

渋沢は英語が話せませんでしたが
臆することなく

アメリカの人々と交流を図り
慕われていたといいます。

笑顔っていうものは
共通言語だなって

渋沢栄一も わかってたんじゃ
ないかと思うんですね。

あの笑顔っていうのは やっぱし
コミュニケーターであったと思うんです。

でなければ 500社の会社
作れないと思います。

だから そういうことなのかな
っていうふうに 想像ですけどね。

思いましたね。

500もの会社を作った渋沢。

それをなしえた
最大の武器こそが

民間外交で見せた 人なつこい
笑顔だったのかもしれません。

晩年 渋沢は
これまで 自らが築いてきた

国家の礎を託すべき
人材の育成に力を注ぎます。

その舞台となったのが
現在の渋沢栄一記念財団。

これですか。
そうですね。

これが うちの財団の前身
竜門社の歩みをですね

紹介した展示のコーナーになります。

渋沢栄一が深川福住町という所に
住んでいたときに

そこにいた書生さんたちが作った
今風に言うと

勉強サークルから出発するんですね。

渋沢は46歳のとき
現在の江東区福住に自宅を構え

集まった青年たちは渋沢が唱える
経済と道徳の融合を学びました。

そして 実業界に旅立ち
渋沢の考えを

日本経済に
深く浸透させていったのです。

竜門社は
多くの経済人を輩出しました。

渋沢は二松学舎大学の
舎長も務めました。

その付属中学を訪ねると…。

之を好む者は
之を楽しむ者に如かず。

子曰わく 之を知る者は
之を好む者に如かず。

之を好む者は…。

生徒たちが朗読するのは論語。

渋沢は この学校で
論語教育に力を入れました。

結構 教科書とかもらったときは
難しそうだったんですけど

習ってみると結構 身の回りで
役立ったりとかするので。

心の助けっていうか
結構なります。

まあ 論語は楽しいです。
どういうところが?

考えさせられる文章も
多くあるんで。

渋沢が愛した論語の心が

令和の今も
脈々と受け継がれています。

渋沢が関わった社会事業は
600にも上るといわれています。

その原点は…。

明治5年に
当時の東京府が作った施設。

病人や老人
身寄りのない子どもなど

困窮者の保護をしていました。

渋沢は施設の立ち上げから
支援を始め

明治9年 36歳の若さで
施設を率いるようになると

亡くなるまで
その務めを果たしました。

一時 養育院の廃止論が
議論されたときには

東京府のトップに こう直訴しました。

社会全体が
幸せになることを願った渋沢。

思えば渋沢の母も 病弱な人に
手を差しのべた人でした。

その慈悲の心が 渋沢に

受け継がれていたに
違いありません。

晩年には 行くところどころ

彼を慕う大勢の人々が
集まりました。

江戸から明治 大正 昭和と

4つの時代を生き抜いた渋沢栄一。

永遠の眠りにつきます。
91歳でした。

渋沢の棺は 東京 北区の自宅から
港区 青山の葬儀場まで

車で運ばれました。

その道沿いには2万人近い人々が。

渋沢が作った会社の従業員や家族
学校の生徒

いや それだけではありません。

渋沢を敬愛する人々が
どこまでもどこまでも列を作り

感謝の気持ちを伝えていたのです。

それは一人の実業家との
別れの光景というには

あまりにも壮大なものでした。

もし 渋沢が今の時代に
生きていたら。

ようやく君らも わかったかって
おっしゃるんじゃないですかね。

ようやく わかったかと。

ようやく ようやく その大事さが
わかったかと。

怒りまくるんじゃないですかね。

渋沢栄一が現代にいたらね
だって俺のいた

明治の初期なんて もっと
これより大変だったんだぞと。

自分たちは いつ諸外国に
征服されるかも わからない。

なんの資源も日本にはない。

外国に比べれば はるかに劣る。
そういうことを考えりゃ

今の人たちがね そんな状況にね
絶望してね

どうのこうのっていうのは
とんでもないです そんなのは。

こういうふうに
必ず言ったと思うんですよね。

なぜ 今 渋沢栄一なのか。

見えてきたのは 社会全体を
豊かにしようとした

渋沢の大きな心。

そして 人々を引きつける
人間的な魅力でした。

この国に根付いた日本型の経営。
その根底を流れているのは…。

人々の幸せを誰よりも願い
実現しようとした

渋沢栄一の
情熱だったのかもしれません。


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