英雄たちの選択 幕末の“ラストエンペラー”~孝明天皇 維新への道を決めた選択 開国をめぐる政争の渦中で…


出典:『英雄たちの選択▽幕末の“ラストエンペラー”~孝明天皇 維新への道を決めた選択』の番組情報(EPGから引用)


英雄たちの選択▽幕末の“ラストエンペラー”~孝明天皇 維新への道を決めた選択[字]


江戸時代最後の天皇、孝明天皇。平穏を願った天皇が直面したのは黒船来航にはじまる激動の時代だった。開国をめぐる政争の渦中で、歴史の分岐点となった天皇の選択に迫る!


詳細情報

番組内容

激動の幕末、苦悩の連続を迫られた孝明天皇。ペリー来航で国全体が動揺するなか、「開国」か「攘夷」か、政争の中心にいたのが孝明天皇だった。天皇を巻き込んだ急進派による文久3年(1863)の「大和行幸」計画。そのときの天皇の選択が、長州藩や薩摩藩のその後の運命を決め、明治維新への重要な分岐点となった。ところが孝明天皇は若くして急死。当時から暗殺説がささやかれた。江戸時代最後の天皇、孝明天皇の実像に迫る。

出演者

【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】高橋源一郎,上田紀行,家近良樹,【語り】松重豊


『英雄たちの選択▽幕末の“ラストエンペラー”~孝明天皇 維新への道を決めた選択』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

英雄たちの選択 幕末の“ラストエンペラー”~孝明天皇 維新への道
  1. 天皇
  2. 孝明天皇
  3. 攘夷
  4. 幕府
  5. 薩摩
  6. 長州
  7. 選択
  8. 大和行幸
  9. 朝廷
  10. 御所
  11. 開国
  12. 時代
  13. 自分
  14. 幕末
  15. 公家
  16. 実行
  17. 将軍
  18. 政治
  19. 中川宮
  20. 暗殺


『英雄たちの選択▽幕末の“ラストエンペラー”~孝明天皇 維新への道を決めた選択』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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即位の礼と大嘗祭を終えた
天皇・皇后両陛下が

京都を訪問された。

「令和」という新たな時代。

その代替わりを
およそ160年前の激動の時代に在位した

一人の天皇に報告するためである。

その天皇とは 明治天皇の父 孝明天皇。

江戸時代最後の天皇である。

時代の大きな転換期を生きた
孝明天皇。

その人となりを物語る
直筆の和歌が残されている。

毎年 欠かさず咲く白菊に

いにしえから続く天皇家も

変わらず続いてほしいという思いを重ねて
詠んだという。

しかし 孝明天皇が直面したのは
幕末の動乱であった。

(砲声)

「日本に押し寄せる外国勢力は
打ち払うべし」と唱える

過激な攘夷派が台頭。

彼らは 京を舞台に 相次ぐテロを実行。

暴力を武器に政治を動かしていた。

文久3年 攘夷派は

天皇を巻き込んだ ある計画を企てる。

「大和行幸」である。

大和行幸は 表向きは

天皇が 奈良にある
神武天皇陵などを参拝し

攘夷を祈願するというもの。

だが その裏には
恐るべき計画が隠されていた。

それは 行幸先の大和で軍議を開き

攘夷戦争を
天皇がみずから指揮することを

表明するというものだった。

天皇の決断次第では

攘夷実行をためらう幕府を
敵に回す可能性もある。

欧米列強との戦争
そして 幕府との内戦。

かつてない危機が迫っていた。

国の命運を左右する選択を前に

孝明天皇は何を思ったのか。

現代の論客が 熱い議論を交わす。

征夷大将軍って

「夷狄を征伐する」と書いてるだろうと。

何でやらないんだと。

天皇の気持ちを推測する。

そして 混迷する政局の渦中で

孝明天皇に訪れた
突然の死。

当時から ある陰謀が
ささやかれていた。

(杉浦)
「間違いなく」と言い切りましたか。

江戸から明治へのターニングポイントで
苦悩の選択を迫られた孝明天皇。

その知られざる実像に迫る。

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

そのとき 彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。

今回 取り上げるのは

江戸時代最後の天皇となった
孝明天皇です。

幕末といえば 坂本龍馬や西郷さんを

主人公として語られることが
多いんですけれど

今回は 孝明天皇の視点から
幕末を見ていくということなんですね。

幕末ラストエンペラーとでも
いいましょうか

幕末政局の渦の中にいた
まさに渦中の人です。

自分で政治を判断したり

その政治の中心に天皇がなってくる…
渦の中心になってくるっていうのは

実は最近だと 孝明天皇から
昭和天皇の前半までの4代だけですよね。

それ以後は 象徴天皇制ですから。
はい。

今回 注目するのは

孝明天皇の文久3年に迫られた
大和行幸について。

大和行幸って… ちょっと ごめんなさい

私 なじみがないんですけど。
そうです。

かなりの歴史ファンでないと
知らない事件で

実は…

大和行幸時の
孝明天皇の選択っていうのが

実は 長州 薩摩というような

維新の主役になってくる勢力の
動きを決めていくんですよね。

王政復古だとか鳥羽伏見で
決まったみたいな…。

違う 違う 違う…!
もう一歩前の大和行幸 大事ですから。

その辺りを
見ていこうということなんですね。

さあ それでは 早速 孝明天皇の素顔に
まずは迫っていきましょう。

孝明天皇が皇位を継いだのは

弘化3年 16歳のとき。

父 仁孝天皇の急死に伴う
突然の皇位継承だった。

時あたかも時代の激変が
この国を のみ込もうとしていた。

1840年 アヘン戦争が勃発。

隣国 清が

イギリスの圧倒的な軍事力の前に敗北。

港や領土の割譲を強いられていた。

列強の触手は 日本にも伸び始めていた。

孝明天皇が皇位を継いだ年

英仏の軍艦が琉球に来航。

さらに 浦賀や長崎など

日本本土の港にも

相次いで姿を現した。

報告を受けた若き天皇は

朝廷は外交には口を出さないという
慣例を破ってまで

ある命令を幕府に下す。

「異国船来航が
あまりに頻繁なので心配である」。

「海防を強化し

神国の瑕瑾とならぬよう
処置するように」。

外国勢力を打ち払う「攘夷」を命じたのだ。

ところが 幕府の対応は
天皇の意に反するものだった。

嘉永6年
アメリカ艦隊司令長官 ペリーが

4隻の軍艦を率いて浦賀に来航すると

圧倒的な軍事力を前に
幕府は和親条約を締結する。

下田と箱館で 燃料や水を
供給することを認めた この条約を

天皇は事後承認するほかなかった。

それから ひとつきほど後のこと
事件は起きた。

突如 黒い煙が京の都に立ちのぼった。

天皇の住む御所が炎上したのである。

その場に居合わせた公家の日記によれば
当日の様子は次のようなものだった。

贅を尽くした 大和絵の描かれた
ふすまや調度が燃え上がる中

公家たちは口々に 天皇に避難を促した。

5~6人がかりで
板輿の上に乗せられた孝明天皇は

炎に追われるように御所の外に逃れ出た。

このとき 天皇は生まれて初めて
民衆の姿を目の当たりにした。

はだしのまま 供をしていた公家に
草履を与える者。

手おけに水をくんで
焼け出された女官に飲ませる者。

人々の情けを受けながら

一行は ようやく
避難所である 下鴨神社にたどりついた。

歴史学者 家近良樹さんは

このときの経験から 天皇は

攘夷への思いを
強めたのではないかと分析する。

ちょうど この内裏の炎上のあった
嘉永7年にですね 詠んだ

孝明天皇のね 歌があるんですね。
それは…

この土地に住む…

まさに これは民衆のことを考えて

そして
対外危機が迫ってくることを考えてね

合わさった中で出てきた
孝明天皇のですね

やっぱり 苦しみ 悩み

それを
象徴しているような歌だと思いますね。

この年 孝明天皇は
伊勢神宮などの神社に対し

異国船退去の祈祷を繰り返し命じている。

神々の力で 攘夷を実現せんと願ったのだ。

だが 開国への流れは
さらに加速していく。

アメリカ総領事 ハリスは
幕府に通商条約の締結を要求。

外国人が日本に滞在し
通商を行うという

文字どおり 「開国」を求める内容だった。

武力を背景にした
ハリスの強硬な主張を前に

幕府は条約締結しかないと判断。

明くる安政5年2月

老中 堀田正睦が京へ赴き
朝廷に条約締結の許可を求めた。

だが 堀田の予期に反して
孝明天皇は この要請を拒絶した。

「私の代より
開国することになっては

のちのちまでの恥の恥である」。

代々守ってきた鎖国を
自分の代で放棄するなど

天皇には
断じて できなかったのだ。

ところが この年の4月

井伊直弼が大老に就任するや
事態は急変する。

天皇の許しのないまま
通商条約調印に踏み切ったのだ。

さらに 井伊は反対勢力への大弾圧
安政の大獄を断行。

対象は朝廷にまで及び
公家たちは震え上がった。

一方 これと並行して井伊は
老中を京へ派遣。

孝明天皇に対し 次のように弁明させた。

いずれ鎖国に戻すとの約束に
天皇は次のように返答。

「以前のとおりに
戻されるとのこと。

条約締結の
やむをえざる事情については

疑念は氷解した」。

攘夷を実行しない幕府に
いらだちながらも

井伊の強権政治を前に
天皇は妥協せざるをえなかったのである。

黒船来航で開国を巡り 孝明天皇は
幕府との対立に直面していました。

その孝明天皇といえば
VTRにもありましたけど

一貫して 攘夷にこだわり続けたことで
知られていますが

これ 家近さん 何でそこまで
攘夷にこだわったんでしょうか。

そうですね やっぱり
今の我々の時代というのは

変革というのをね

ものすごく重視するんですけどね

基本的に言いましたらね
江戸時代の社会というのは

もう いかに古いものをね

継続して受け継いでいくかという

そういうのが
一番 価値を置かれてるんですよね。

その中で 天皇にとって
一番大事なことは…

そうするとね 外国人がやって来て
日本に開国を要求するじゃないですか。

そうすると 今までとは全く違う体制に
なる可能性が高いわけですね。

これは 私なんかが
想像できない苦しみだと思いますよ。

むしろ 変化…
変えていったほうが楽ですからね。

(高橋)それね
すごい特徴だと思うんですよ。

ず~っと。 とにかく過去のことを

非常にクローズ 閉じられた空間の中で

教える 徹底して。

この天皇家っていうのは
これで こういうふうに続いてきて

こういうことがあって
これが大事なんだよって。

君は そこに選ばれた
当主になるんだよっていうことを

小さいころから徹底的に
一人だけ教育されるから。

それはね
違った意識を持つようになりますよね。

「日本書紀」なんかを勉強するでしょ。
します。

要するに日本中心の教育なんですよね。
それプラス…。

自分んちだもんね。

プラス 大きな意味で
中華思想的なね 勉強

そのツーセットでしょうね
天皇の教育っちゅうのは。

上田さんは どう考えますか?
(上田)あのね やっぱり

天皇が宗教的権威だ
っていうことで

やっぱり その
黒船が現れた…

最初に
現れたときに

まさに
この孝明天皇は

とにかく祈祷しろっていうふうに
言うわけですよね。

大阪湾に黒船 入ってくる。
あと 若狭も相当近いですからね。

双方から攻められたら
京都なんて ひとたまりもないわけで。

やっぱり その伊勢神宮であるとか
まあ そこら辺から こう…。

あるいは 神武天皇から来ている…

…じゃないかという恐怖感っていうのは

肌身で感じてたんじゃないかなと
思うんですね。

だから 攘夷というのを かたくなに。
もう 攘夷しかないだろうという。

私ね 今 ちょっとお話ししてね
思い出した言葉があって。

…ってあるじゃないですか。
あのね 私ね やっぱり

あのときの攘夷っちゅうのはね
根幹なすのはね

えたいの知れないものがやってくる。

そういうものに対するね 恐怖感。
底知れない恐怖感。

攘夷の最初の原点はそうですね。
その前提にあるのは

我々の社会はいいんだという。
平和な体制なんだというね。

えたいの知れないという感覚は…

例えば 日本という国土そのものを…
国土観にもなるんですけど

神聖なエリアだと考えてるわけですね。
ああ…。

これに対して 動物に近い外国人が
やって来ると

これは穢れてしまうんではないかと。

つまり 生理的に
そういったものを嫌悪する感覚があり…。

「禽獣」っちゅう言葉がありますね。
禽獣に近い。 動物に近いものが

足を踏み入れて 靴が…。
外国人の靴が こう踏んだ瞬間に

何か違うものになるという。
つまり 徳を持って

清らかで平安な状態を保って 祈る…。

そういうふうに祈ってるのが
天皇の仕事で。

その 夷狄が戎服という
えびすの服を着て

国土に足を踏み入れた瞬間
違うものになるという

そういう考えがね やっぱ あるんですよ。
ああ…。

だから 攘夷にこだわっていた。
(高橋)あと もう一つ言っていい?

あのさ 俺 攘夷っていうのは
一種の免疫反応だと思うんですよね。

つまり 天皇って御所から出ないんだよね。
そうですね この時代は。

そうですよね。
ずっと… 全く出ない。

だって さっきの 火事で ようやく

初めて外を目にしたって。
だから 考えたら これは異例なことで。

しかも そういう教育しかされてないから
外を全く知らない。

(上田)そこの… もう

完全に支えられているんだと
思っていたけれども

御所が焼けちゃって 焼け出されることが
あるんだっていうのは

ある種の…
黒船が来て 大砲を撃ち込まれて

焼けちゃえば
こういうふうになるんだって

ある種の先取り感っていうのがね
たぶん あるんじゃないか…。

磯田さんは どう思いますか?
うん あの…。

幕府と孝明天皇の対立っていうのが
なぜ起きたのかっていうと

基本的には 僕…

政治を担当していますから。
黒船に江戸を焼かれたら

幕府の武力の権威は落ちちゃって
もう求心力が保てない。

だから 絶対 開戦したくない
というか できないんですよね。

仮に攘夷をやるとしても
幕府は現実的で

嫌々 外国とつきあって

少しずつ軍事技術の導入をしながらと
こう 考えるわけですよ。

これは現実的対応ですよ。

だけど…

本当に筋を通せって
このタイプですよ。

ですから 「俺 征夷大将軍にしたよな?」と
将軍を。

任命してますもんね。
征夷大将軍って

「夷狄を征伐する」と書いてるだろうと。

何でやらないんだと。
俺 ちゃんと祈ってるのにと 天皇らしく。

現実的な対応ではないんですけど…

これがね やっぱり
背後に対立がありますね。

いずれは攘夷を行うという幕府に
理解を示した孝明天皇ですが

その後 事態は
目まぐるしく動いていきます。

(銃声)

開国を推し進めていた井伊直弼が

水戸藩浪士らの手によって暗殺された。

世に言う…

時の最高指導者が
江戸城の目と鼻の先で惨殺されたことで

幕府の威信は地に落ちた。

失地回復を図る幕府が打ち出したのが

朝廷と幕府が提携することで

政局を安定させる…

そのために幕府は
孝明天皇の妹 和宮の

将軍 家茂への輿入れを要請。

明くる文久元年 和宮は江戸へ下り

朝廷と幕府が手を携える体制が
確立した。

ところが これに反発したのが

開国を進める幕府を断じて認めない…

急進的な浪士たちが 続々と京に集結。

幕府の出先機関の襲撃や
要人の暗殺といった

倒幕に向けた武装蜂起を企て 動き出した。

京に 不穏な空気が立ち込める中

孝明天皇への接近を図る勢力があった。

文久2年 島津久光は

1, 000人の軍隊を率いて上洛した。

朝廷に取り入り その権威を背景に

幕府政治に参画しようとしたのだ。

一方 この接近は
天皇にとっても 渡りに船だった。

上洛した久光に対し
孝明天皇は こう命じた。

「京に滞在し
浪士共の蜂起を抑えるように」。

攘夷の実現を目指す浪士たちを

天皇は なぜ
取り締まろうとしたのか。

歴史学者 町田明広さんは こう分析する。

一番 押さえとかなきゃいけないのは…

そこに この浪士たちがですね

幕府を やれ倒せだの何だの
というのはですね…

反逆者なわけですよね。

そこに 1, 000人のですね 藩兵という
薩摩藩の武力というかですね

これが 一番頼りになったということだと
思いますね。

久光は すぐに行動を起こした。

それを示す貴重な品が残されている。

生々しい刃こぼれの残る 一振りの刀。

あの寺田屋事件で使われた刀だ。

久光は 伏見 寺田屋で
尊王攘夷派を粛清させた。

京での武装蜂起は未然に防がれ
孝明天皇は安堵した。

ところが…。

その年の8月 予期せぬ事件が起きた。

久光の行列を横切ったイギリス人を
薩摩藩士が切り捨てた 生麦事件である。

イギリスの報復に備えるため
久光は 急きょ 薩摩へと帰国した。

そして 薩摩不在の京では
尊王攘夷派が再び勢いを取り戻す。

公武合体のために働いた
公家の家臣から

京都奉行所の与力までを標的に

テロの嵐が吹き荒れた。

この情勢の中
急速に朝廷に接近したのが

藩を挙げて攘夷を掲げる長州藩だった。

…といった弁舌に秀でた藩士が

三条実美ら公家を次々と取り込んでいく。

朝廷の主導権は完全に長州派に握られた。

この年の11月
三条実美は勅使として江戸へ向かい

幕府に こう通告した。

対応を迫られた 将軍 家茂は

明くる文久3年3月 上洛する。

実に229年ぶりという将軍の上洛。

これに合わせて 天皇の周囲では
ある計画が進められていた。

京都市北区…

3月11日 孝明天皇は この神社を訪れた。

…と伝えられております。

天皇みずから神社に赴き
攘夷祈願を行うのは

極めて異例のことである。

この行幸で 人々は さらに
前代未聞の光景を目の当たりにした。

中央に描かれているのは
孝明天皇が乗る…

その前後を将軍 家茂をはじめ
武士たちが警護しながら

神社へ向けて進んでいく。

天皇が将軍を従えて行幸し
攘夷を祈願する。

これは ほかならぬ
長州藩によって仕組まれたものだった。

さらに 家茂は
尊攘派に押し切られる形で

5月10日をもって
攘夷を実行すると約束する。

猶予は3週間足らずであった。

孝明天皇の望む攘夷へ。

時代は急速に旋回していった。

天皇の周囲で
幕末の二大勢力 薩摩と長州が

それぞれ
行動を起こしていくわけですけれど

磯田さん この薩摩と長州
そして 孝明天皇

この関係性って
どういうふうに見ますか?

この辺りから 大名の一部が
天皇と結び付いて やり始めるんですよ。

はっきり言うと…

…と 僕は呼んでるんですけど。

水戸藩 薩摩藩 長州藩。

やりすぎ猛烈藩が やっぱり…

どうして必要かっていうと

やっぱり 天皇は
軍事力を持ってないわけですよね。

強制力がない。 寸鉄を帯びずといいます。

1センチの鉄も ナイフも持ってないと。

そうすると…

みんな 尊んでくれるけれども

ふにゃふにゃで
強制力がなくて柔らかいと。

そうするとですよ…

そうしたら 有力な大名…
こうやって頼まれもしないのに

猛烈に政局に絡んでこようとする
この3つの藩のうち

どれかを使うしかないわけですね。

やっぱり 天皇って
自分で政治権力を持ってないから…

だから そのときに
僕は 何か

ちょっと
思うんですけれどもね…

…っていうことが
ちょっと意識的になってきていて。

だから その… 天皇は
政治に関わらないんだといいながら…

…自分はっていう その共犯性が

ここら辺から相当出てきてるような…。

それからね 今… 先ほど
VTRに出てましたけど

将軍のね 徳川家茂がね

京都にね 行ったっていうのはね
大きいと思いますね。

なぜか 言いましたら…

それは今までなかったんですよ。
ええ。

そうすると 参内して
天皇に あいさつするということはね

要するに…

だから それは大きかったと思いますよ。

だから それは皮肉なことに
家茂将軍が京都に行って

多くの大名が付き従ったがゆえに
起こってきたね…。

これは だから
歴史の皮肉というんですかね

幕府が考えていたよりも
全く思いもかけない

大名の… 天皇の臣下化に
つながったというね。

つまり結局 政治ってイメージなんですよ
最終的に。

確かに幕府は弱ってたけど

まだ軍隊も 金も 権力も
持ってたんですね。

ところが非常に弱体だと思ってた天皇を
ある意味 見くびってね

あの… 単なるしるしだからと
思ったときに

気が付いたら…

(高橋)だから ある意味
非常に劇的な瞬間で。

だから 逆に家茂も含めて

「あれ? 何で こんなことに
なっちゃったんだろう?」って。

「あれ? おかしいな?」って
どこかで思ったんじゃないのかな。

それはね でも 流れなんでしょうね。
(高橋)流れですね。

あと ここで
ものすごく重要なことがね…

つまり 「私が この国を代表して

祈願をするんですよ」と
「攘夷のためにね」っていう。

そこ… それを なおかつ
後ろに将軍を従えてやっちゃった。

つまり 自分が持ってる…

…だというのを まさに見せた。

これはね 何か その…

…だったと思うんですよね。

本当にね 政治舞台の幕が
上がったと言っていいですよ。

天皇の再登場。

天皇が政治の舞台に上がる幕が
グーッと上がった瞬間で

もうはっきり違います ここからは。

さあ いよいよ
孝明天皇に選択の時が訪れます。

攘夷決行の期日とされた…

(砲声)

長州藩は 下関海峡で
アメリカ船を突如 砲撃。

ついに攘夷の火ぶたが切られた。

しかし 列強との軍事力の差は歴然だった。

砲撃から20日後 アメリカの軍艦が報復。

長州の軍艦や砲台に
壊滅的な打撃を与えた。

このとき 長州にとって
計算外だったことがあった。

長州以外どの藩も
攘夷を実行しなかったのである。

孤立した窮状を打開するため

長州は朝廷を動かし
ある秘策を打ち出した。

「大和行幸」である。

孝明天皇が攘夷祈願のため
大和の神武天皇陵などに行幸し

そこで
親征の軍議を開くという計画だった。

今度の大和親征 大和行幸
というのはですね…

…ということなんですね。

長州藩にとってみるとですね

自分たちだけでは攘夷が実行できないと。
続く藩がないと。

そういう中で天皇の権威
まあ 天皇を引っ張り出すことによって

攘夷実行を各藩に強制していくというか
促していくとか

そういう手段として考えられた

極めて巧妙なというかですね
奇策ではあるんですけれども。

大和行幸の詔が発せられた。

出発は およそ ひとつき後。

このときの孝明天皇の心のうちに
分け入ってみよう。

朕の天皇としての務めは
皇統と民の安寧を守ること。

そのために
攘夷は必ず果たさねばならない。

大和行幸で
改めて それを示すべきではないか。

幕府は 口では攘夷を行うと言うが

相変わらず
異国人と交際しているようだ。

朕みずから
神武天皇のもとで誓いを立てることで

国を一つに
まとめることができるのではないか。

幕府や諸藩も性根を据えて
真剣に攘夷に取り組むようになるはずだ。

一方 このとき
大和行幸を中止に追い込むべく

ひそかに動き出していた勢力があった。

薩摩藩である。

早くから異国の脅威と接していた薩摩は
攘夷の危険性を痛感していた。

島津久光は
京都藩邸に使者を送り 工作を開始した。

これは本国 薩摩と

京の連絡役を務めていた藩士の
覚書である。

薩摩は どう動いたのだろうか。

行幸の詔が出た8月13日。

薩摩藩士 高崎正風は
まず会津藩邸を訪れ 連携を図った。

尊攘派から主導権を奪い取るため

京都守護職を務める
会津900人の兵力を当てにしたのだ。

御所を舞台にした大胆不敵な政変計画。

会津藩の回答は次のようなものだった。

「中川宮が決意されたのであれば
いかようにでも ご尽力する」。

…は 孝明天皇が兄とも慕う皇族。

公武合体派の重鎮で

このとき 薩摩と共に
政変計画に動いていた。

高崎は中川宮のもとを訪れ
計画の全貌を告げた。

「中川宮ら同志が参内した後

御所のすべての門の出入りを
厳重に差し止め

過激派公卿を退職
逼塞せしめる」。

いわば御所封鎖計画である。

これに賛同した中川宮は
孝明天皇のもとへ参内。

天皇の判断を仰いだ。

ここは薩摩 会津の計画を認め
大和行幸は中止すべきかもしれない。

長州と結託した公家たちの願いは

朕が陣頭に立ち 攘夷親征を行うこと。

それは これまでの幕府との関係を
大きく変えることになる。

それに近頃の尊王攘夷派のふるまいは
手に負えぬ。

身分の卑しい者たちが
御所周辺に入り込み

朝廷での評議をほしいままにしている。

政変によって これらを
一掃してもらうという手もあろう。

これは 天皇が薩摩の島津久光に宛てた
直筆の書簡。

そこには こう記されていた。

「朕の存意は いささかも貫徹せず」。

尊攘派が牛耳る朝廷では
天皇の意見は何一つ通らないというのだ。

尊王攘夷派の勢いに任せ
大和行幸をこのまま行うか?

あるいは 政変計画を認め
行幸は取りやめるか?

孝明天皇に選択の時が迫っていた。

孝明天皇は
いよいよ選択を迫られました。

皆さんが孝明天皇の立場だったら

どちらを選びますか。

まず 高橋さんは
いかがでしょうか?

あの… 2の「政変計画を承認」です。

これはね 本当に この…

孝明天皇らしい考え方というか…

…っていう意識があるんで。

今 そのとき…

これ 「保守」か「革命」なんだよね。

…っていうのが この天皇イズム。
ええ。

これが この2, 000年続いてきた
天皇イズムの中にある考え。

これが やっぱり
徹底してたたき込まれているから

「2」以外にありえないです。
分かりました。

家近さんは どちらを選びますか?
面白くない選択ですけど 「2番」ですね。

「面白くない」。
まあ あの…。

どういうことか言いましたらね
孝明天皇は 京都は出たくないんですよ。

京都がね すべてなんですよ
ワールドなんですよ。

この天皇は 本来はね 私が
資料から見てるかぎりでいえばですね

酒好きのね お優しいね
本来ならば 酒を飲んでですね

そして 和歌でも詠んでですね
人生を終わられる

天皇だったと思うんですけどね。

何しろ幕末のね
ああいう激動の時期に

なまじっか天皇であったためにですね
この天皇の本来の個性とは全く違って

いわゆる英雄的な役割をですね
求められて。

その中でね 自分でも「危ないな」

「これは ちょっと行きすぎだな」っちゅう
気持ちがあって

「どっかで歯止めをかけないといけない」
というような気持ちがあったんですよね。

そういうときに
中川宮とか薩摩藩を介してね

ストップの声が出てきたんで
まあ ほっとしたでしょうね。

だから「2」… やむをえず
「2」しかなかったと私は思います。

そうなんですね。
上田さんは どちらを選びますか?

僕は あえて
1番の「大和行幸 実行」という。

「実行」。
「1番」。 過激派のほうですね はい。

やっぱりね 孝明天皇 攘夷が
なぜ成し遂げられないのかというと

もう 国の中がバラバラだからですよ。

あっちでは開国だ。
こっちでは攘夷だ。

こっちでは公武合体だ。
こっちでは尊王だっていうふうに

こう言っとるわけじゃないですか。

だから そこを全部の力を結集して
まさに その…

…と思うんですよね。

自分が行幸したらですね
それは長州だけじゃなくて

ほかの藩だって さすがに そんな
神武天皇の所の行幸っていったらば

それは行かざるをえないでしょう。

一か八かですね。
一か八か。 でね こうすると だから

じゃあ 戦争になっちゃうじゃんって
みんな思いますよね。

だけど そこは なかなか日本人なんで
鷹揚にですね…

…じゃないかと。
なるほど。

さあ 磯田さんは どちらを選びますか?

これは 私は2の「政変計画を承認する」。
大和へは行けない。

つまり そもそも天皇は都にいて
神々に祈るのが本分で。

あれ お参りならいいんですけど
実際 入ってきてる情報によれば

大和へ行ったら そのまま…

…っていうことを
幕府が聞くはずはないので…

…って言ったわけですよ。
そうすると これは

長州系過激浪人たちと一緒に

南北朝ごっこをすることに
なりかねないわけですよ。

それに巻き込まれたら
日本 大乱ですよね。

これは たぶん 誰の幸せにも
ならないだろうというのが

やっぱり 当然…
理の当然じゃないかと思うんですよね。

「2」ということですね。 さあ それでは
孝明天皇の選択を ご覧ください。

孝明天皇は 中川宮に密勅を下した。

天皇は 薩摩 会津の政変計画に
ゴーサインを出した。

これにより 世に言う…

…の幕が切って落とされた。

中川宮をはじめとする
政変の中心人物が ひそかに参内。

早朝4時ごろには

会津藩兵を中心とする兵力が
御所の門を固めた。

公家たちは 「正論」「暴論」の
2つのグループに分けられ

「暴論」 すなわち
長州と結託した尊攘派公家は

一歩たりとも御所に入れない
警護が敷かれた。

次いで 中川宮を中心に朝議が開かれる。

尊攘派には過酷な処分が下された。

三条実美ら7名の公家は官位を剥奪。

長州藩は それまで担当していた
御所の警備から外され

共に長州へ落ち延びていった。

尊王攘夷派は 都から一掃されたのである。

この政変は
幕末政局の大きな転換点となった。

長州藩は これを機に
武力闘争に かじを切る。

明くる…

京都で 会津 薩摩と激突。

長州が御所に向けて発砲したことに
孝明天皇は激怒。

その後
二度にわたる長州征討を幕府に命じた。

ところが
慶応2年の第二次長州征討において

最新兵器を装備した長州に 幕府が敗北。

その権威は地に落ちた。

一方 政変の筋書きを書いた
薩摩藩の存在感は増大。

幕末政治の
キープレーヤーにのし上がっていく。

慶応3年12月9日。

薩摩藩は御所を舞台に
再度 クーデターを実行。

「王政復古の大号令」が発せられ

天皇中心の中央集権国家が誕生した。

孝明天皇の選択に端を発した
一連の動きが

明治維新への道筋を決めたのだ。

しかし 孝明天皇自身は
新たな時代を見ることなく

慶応2年12月 36歳で この世を去った。

公式発表は 天然痘による病死。

だが 政治の渦中にいた
天皇の早すぎる死については

当時から あるうわさが
ささやかれていた。

…は こう記す。

「消息通の日本人によれば

天皇は毒殺されたのだという」。

多くの歴史小説を手がける作家
中村彰彦さんも

暗殺説を主張する 一人である。

中村さんが有力な根拠とするのが…

孝明天皇の侍医が残した日記をもとに
子孫が発表したものだ。

これによれば 天然痘の患者は

発熱 発疹など
5段階を経て 快方に向かう。

孝明天皇も
そのとおりに順調に回復していた。

ところが…。

突然うめきだして のたうち回って…
という症状。

それで みんな
びっくりして集まるんですけど

もう そのときには
もう 全く手の付けようがない。

血液が漏れるというんじゃなくて
吹き出す。

…って書いてあるんですね。

図らずも 江戸時代最後の天皇となった
孝明天皇。

その死の真相については
論争は 今も決着していない。

孝明天皇の選択は政変計画を承認し

尊攘派を朝廷から追放することでした。

まあ 思い切った選択をしたと
思うんですけれど。

こういう変革のときっていうのは
まあ 革命のときでもいいですけど

必ず原理主義的な立場の人と

まあ リアリズムの人が出てきてですね…

攘夷… まあ 目指しているところは…

ただ その前で
ストップをかけたっていうことで

逆に 国内に目が向いて いわば…

つまり 外へ向かって
振り向けるんじゃなくて

その力が
結局 内側に振り向くことになって

幕府と非幕府側に分かれて
明治維新になっていくっていう

プロセスが始まったので
まあ 結局 後者のほうへ

ここで かじを切ったっていうことで
よかったと思います…。

この人は ヒューマンマグネット
って言葉ありますけどね

人間磁石っていう。

いろんな人が
こう 引き付けられて

もう 次から次へと来る。

ところが 結果的には
この人のご意向は全然実現しなくて

まあ 幕府と朝廷が
ちゃんと並び立っていくというところも

まあ そうはならないし
あと 攘夷の部分も そうはならない。

とてつもなく 何か 皮肉な運命の方
なんじゃないかなと思いますよね。

皮肉な運命…。
磯田さんは この政変の影響って

どういうふうに考えますか?
これは もう 絶大。

まず 薩摩に与えた影響ですが
これは もう 背後に天皇を背負って

天皇の声を代弁する形をとっていきゃ
何でもできそうだっていう…

薩摩は。
天皇の味を覚えたんですか。

それと もう一つがね 天皇を使ったら

どうやって動かせばいいのかと
背後にいて…

要するに 天皇が どんなお考えを
持っているかは関係ないんですよ。

天皇が箱の中に納まっているので
その箱の鍵と 箱を持っているやつが

天皇の力を利用できるということに
気付いちゃったんですよ これで。 ええ。

しかも 天皇はね
基本的には

一般の人間には
分からないんですよ

天皇が本当に何考えてるか。

「宸翰」というね
あれが見れるのも

ごく一部の人間ですからね。

しかも それも本当に
天皇が書いたかどうか分からないでしょ。

だから 要するに…

そういう中で…

そのルーツがね
これ 禁門の変のときのね

この一連の騒ぎの中で
出てくるんじゃないでしょうかね。 うん。

さあ その孝明天皇がですね
30代半ばという若さで亡くなったあと

その息子が跡を継ぎ 明治天皇となって
新しい時代を迎えるんですが

2人の肖像を こう 今 見比べてみると
イメージが全く違いますね。

もう 一見して違いますよね。
役割が がらっと変わってる。

明治天皇は西洋服どころか
まあ 軍服を着て 馬にも乗り

政治軍事の中心にいるわけですよね。

で 孝明天皇のお姿というのは
神主さんに近くて

神仏へのご祈願を行っていたという。

孝明天皇の死後 まあ 天皇の在り方が
急激に こう 変わったことも

暗殺が疑われた理由の
一つだとされていますけど

これについては 皆さん
どうお考えでしょうか。 高橋さんは?

暗殺ですよ 間違いなく。
「間違いなく」と言い切りましたか。

読めば読むほど 暗殺したに違いない。

もうね 孝明天皇じゃ駄目なんですよ。

彼は さっき言ったように
そもそも まあ あの…

幕府と一緒にやる派だったし…

つまり これが 逆に言うと…

でもね 孝明天皇って まだ若いんで

これ ほっといたら
あと30年か40年ぐらい生きちゃうでしょ。

とすると…

(高橋)…っていうのが
実は最大の問題だったと思うんですよ。

だから これは 当時 やっぱり
みんな 疑ったんじゃないですか?

あまりにも できすぎてるから。
なので あった説です。     あった説。

私はね まあ 絶対って 100%
物事は断定できないんですけどね…

(家近)なぜか 言いましたら
天然痘というのはね

実は 初め
ちょっと治るとき あるんですよ。

一回 治ったように見えてね そのあと
やっぱ 急激におかしくなる 体調が。

それが天然痘という病気らしいんですよ。

容体が急変したからね
毒殺… 殺されたっちゅうのは

やっぱり 物書きの先生方の世界でね
やっぱり それ 面白いですからね。

でも まあ はっきり言って…

岩倉具視の当時のいろんなものを
読んだけど 嘆いてますよ。

だからね
まあ 物語としては面白いんですけども

現実的な真実としては
私は まずないと思いますね。

だけど そう言うとね 嫌われるんですよ。
(笑い声)

磯田さんは どう思いますか? じゃあ。
僕? えっとね

暗殺はね 僕はね…

嫌疑は まだ消えてないと考えていて

確かに学会主流では否定済みなんです
この話は。

しかしね この関係の
御所のお医者さんの子孫たちが

非公式な場で たくさん

いや あれは毒殺だよって
言ってたっていうのが多いの 本当に。

何で 表に出るところでは
皆 言わないんだけど

裏に入ると うちではそう言ってますと。

一番悩まされる こういう はっきり証拠が
出ないものっていうのは。

まあ 暗殺されたのか
本当に病死なのかは分からないけど

歴史の中から消されていると思うんですよ
この人。

だって あまりにも無名じゃないですか。

我々 孝明天皇のことを
一般人が どれだけ知ってて

あと 歴史の勉強の中で

どれだけ この人に対して言及されないか
明治以降にね。

っていうことは つまり 長州…
明治政府の

後世の明治政府の中心の構成員である
長州にとっては

だって 裏切ったわけでしょ。
朝敵にされちゃった その張本人。

薩摩にとっては
開国 開国ってしたいのに

この人が攘夷 攘夷って言ってる。

だから まあ 毒殺もしたくなるし。

あと 病死したにしても
誰も思い出したくない人になる。

だから 黙殺されていくというか。

だから いずれにしても
殺された天皇だと思いますね。

歴史から殺された天皇。

さあ 今回は 幕末を
孝明天皇の視点で見てきましたけれど

家近さん いかがですか?

孝明天皇っちゅうのは ある意味では
幕末の最も重要なキーパーソンですよ。

そっからね
近代天皇制の在り方とかもね

逆に いろんなことで考えられると
思うんですね。

幕末からね 明治にかけて
これは はっきり言えるんですけどね…

自分は間違いを犯す 悩んでいるという。

それで…

そういう存在 そういう時代がね
幕末なんですよ。

そこから なぜ あのね 明治のね
やがて二・二六事件につながるような

それから 1945年
特攻なんかにつながるような

ああいう国になっていったか
っちゅうのは

そこには
連続面と非連続面があるんですよ。

それは そういうことを
解明するためにはね やっぱり

私は
きちんとした史実の解明というものが

やっぱり求められると思います。

非常に興味深いテーマでしたね。

磯田さんは今回
この幕末を孝明天皇で見てきて

どんなことを思いましたか?
これは…

近代天皇バージョン1っていうのがあって
それは…

4代やったわけですね
昭和天皇の前半まで。

モダン天皇バージョン2っつうのは

まあ 象徴で ご公務もするってことで…

…って言っていいかもしれない。

これがバージョン2ですよね。

それで 我々 ひょっとすると
継承の… 皇位継承の問題で

前のバージョン2を受け継ぎながら
女性 女系天皇に

踏み込むとかいうような議論が
起きてますよね どうかっていうのを。

そうすると
近代モダン天皇のバージョン3を

どうするかって問題になる。

しかも 憲法には 「天皇の地位は

国民の総意に基づく」と書いてあるので

憲法で 僕ら… 指示されているんですよ。

「天皇は国民が考える問題」と
憲法で決められているんですよ。

だから そういうことを思うとき
こうやって 先ほども出ましたけど

天皇に関する史実を検証し
議論することの必要というのは

つくづく思いましたね。

今日は皆さん ありがとうございました。

ありがとうございました。


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