偉人たちの健康診断「永井荷風 楽しき寂しきシングルライフ」ストリップ劇場に入り浸り、結婚はせず、一人寂しく…


出典:『偉人たちの健康診断「永井荷風 楽しき寂しきシングルライフ」』の番組情報(EPGから引用)


偉人たちの健康診断「永井荷風 楽しき寂しきシングルライフ」[字]


文化勲章を受章する大作家でありながら、ストリップ劇場に入り浸り、結婚はせず、一人寂しく孤独死をむかえる。奇行の文豪・永井荷風のユニークな人生を健康面で読み解く。


詳細情報

番組内容

結婚はしない。偏屈で人間不信。そんな文豪・永井荷風は、自由気ままで優雅な一人暮らしを続けながら作品を生み出し、79歳で当時としては珍しい孤独死を遂げる。華麗な文体で、色町を舞台に男女の情愛を細やかに描き、大作家へ登り詰めた荷風。文化勲章まで受章した偉大な作家は、なぜひとり暮らしにこだわり続けたのか?生涯書き続けた日記文学の傑作「断腸亭日乗」などの作品から、荷風の人生と病を読み解く。

出演者

【出演】関根勤,カンニング竹山,井森美幸,【解説】柳澤真美子,江田証,【司会】渡邊あゆみ


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偉人たちの健康診断「永井荷風 楽しき寂しきシングルライフ」ストリップ
  1. 荷風
  2. 孤独
  3. 断腸亭日乗
  4. 永井荷風
  5. 自分
  6. 浅草
  7. 肝硬変
  8. 下痢
  9. 症状
  10. 一人
  11. 散歩
  12. 昭和
  13. 日記
  14. 腹痛
  15. 大事
  16. 病気
  17. 毎日
  18. ガス
  19. 荷風先生
  20. 肝臓


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♬~

東京の町をこよなく愛した
文豪 永井荷風。

明治・大正・昭和を
生き抜き

数多くの名作を
生みました。

軽やかで しなやか 時に毒のある文体で
つづられる 「荷風文学」は

時代を超えて 愛読されています。

その時のインタビューが残っています。

にじみ出る
偏屈っぷり。

荷風は さまざまなスキャンダルで
世間をにぎわせた

「お騒がせ作家」でもありました。

文化勲章を受章したあとも

荷風が 連日のように入り浸っていたのは
なんと 浅草のストリップ劇場。

女性に囲まれ ニコニコ顔の荷風先生。

大作家にもかかわらず

ストリップ劇場のために芝居を書き
自ら出演したことも!

散歩が好きで 東京中に出没した荷風先生。
そのスタイルは…。

スーツに 下駄履き。

そして 手にしているのは
なぜか「買い物かご」。

奇妙な姿が 世の物議を醸し

「奇行の文豪」と呼ばれました。

極度の人間不信だったようで

大事なものは 全て革のカバンに詰めて
持ち歩いていたのですが…。

ある日 この大事なカバンを
電車の中に置き忘れ。

中には総額2, 000~3, 000万ともいわれる

預金通帳が入っていました。

現在の5億円相当と言われます。

カバンは無事に届けられたものの

荷風先生が渡したお礼は
たったの5, 000円。

世間では 金持ちのくせに
ケチだといわれる始末。

そんな荷風が 生涯 悩み続けた
原因不明の病がありました。

慢性的な
「下痢」と「腹痛」。

日本人の10人に1人が悩んでいるという
その病の正体とは?

荷風は その最期でも
世間を騒がせました。

当時としては珍しい
「孤独死」を遂げたのです。

前日まで元気だった荷風が
なぜ突然 亡くなったのか?

その真相に 最新医学で迫ります。

♬~

健康のヒントは 歴史にあり。

皆様 こんばんは。
「偉人たちの健康診断」です。

ご一緒して頂くのは こちらの方々。
どうぞ よろしくお願いいたします。

(一同)よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。

さて 文豪 永井荷風の
健康診断をしてまいろう

というわけなんですけれども
ご覧頂いた感じでは どんな…。

ちょっと偏屈っぽくて
孤高の天才って感じですよね。

我が道を行くっていうね。
井森さん どうでしょう。

いや 私 ほとんど初めて聞くような
お名前で

全然 存じてなかったんですけれど
すごいですね。

ちょっと パッと見ただけでも
すごい人だなと思って いろんな意味で。

破天荒さが。 はい。
はい。

今のVTR見た限り 僕が
一番好きなタイプの じいちゃんですね。

あ そうですか。

もう ああいう人 大好きなんですよね。
えたいの知れない。

詳しい方をお招きしています。

市川市文学ミュージアム学芸員の
柳澤真美子さん。

どうぞよろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。

作家であり 文豪という面から見ると
どんな評価ができる方なんでしょう?

はい。 永井荷風は もう生活が
まずスキャンダラスなんですけれども

実は 作家としても すごい方でして。

作家以外にも 翻訳家だったりとか
評論家だったりとか

いろんな面で活躍されてる方なんですね。

あの 森 鷗外や夏目漱石にも
認められている すごい方なんですね。

そうなんですか。

何か 単なる変わった おじいちゃんでは
ないぞというところが

ちょっと 今日お話しできればなと思って。

さあ それでは早速 文豪 永井荷風の
健康診断をしてまいりましょう。

世を騒がせた奇行の文豪 永井荷風は

明治12年12月3日 東京で生まれました。

父は 内務官僚を務めたエリート。

長男の荷風に 自分と同じエリートの道を
歩ませようと 厳しく接しました。

荷風は
父に 強い反発を感じていたといいます。

荷風は こんなことを
書き残しています。

「私は 殆ど 父の膝に抱かれた事がない」。

荷風は 厳しい父の
言うがままに人生を歩み始めていました。

幼い頃から病弱だった荷風は
15歳の時 入院しています。

病名は 「瘰癧」。

結核菌に侵され 首のリンパ節が
数珠状に腫れる病です。

病床で 荷風は ひたすら読書をしました。

「水滸伝」や「西遊記」 「太平記」などの
古典文学を読みふけったといいます。

この時 荷風は 文学という
自由な世界があることを知ったのです。

次第に 学業に身が入らなくなり
放蕩の限りを尽くすようになります。

17歳の頃から 遊郭 吉原に入り浸り。

二十歳の頃には なんと落語家に弟子入り。

やがて 自由を求めた荷風は
小説家を目指し

原稿用紙に向かうようになります。

(雷鳴)

思いどおりにならない長男に
父は 烈火のごとく怒ったといいます。

将来を案じた父は
荷風を留学させることにしました。

23歳の荷風は
アメリカ そしてフランスへ渡ります。

大学で語学を学び
日本公使館や日系の銀行で働きました。

帰国した荷風は 30歳で
慶應義塾大学教授の職を得ます。

ようやく落ち着いたと 安心した
父の言いつけで 32歳の9月に結婚。

ところが…。

その僅か3か月後
荷風の人生に 大きな転機が訪れます。

あの厳しかった父が 脳いっ血で
突然 亡くなってしまったのです。

長男の荷風には
ばく大な財産が転がり込んできました。

うるさい父は もう いない。
お金もある。 自由もある。

解き放たれた荷風が
まず やったことは…。

父の勧めで結婚した女性と 離婚。

父の死から 僅か1か月後のことでした。

翌年 新橋の芸者と再婚。

しかし
これも 半年ほどで別れてしまいます。

更に 36歳で 慶應義塾大学教授という
安定した仕事まで捨ててしまったのです。

家族も捨て 仕事も捨てた荷風は
どんな暮らしをしていたのでしょうか?

その暮らしぶりは 37歳から書き始めた
日記に 詳細に記されています。

それは 死後 「断腸亭日乗」として
出版されました。

荷風39歳。 大正8年の記述。

元日から 朝食は
クロワッサンとショコラ。

そして 好きな本を
読みふける。

自由気ままな
独身生活。

翌年 40歳になった荷風は

遺産として受け継いだ家を売り払い

麻布に 新居を建てます。

ペンキ塗りだから 「偏奇館」。

人を食ったような名前の家で
面倒な人づきあいを避け

自由気ままに
1人暮らしを楽しむことにしたのです。

趣味は 庭の「ガーデニング」。

とりわけ荷風は 一人 庭掃除をする時間が
好きだったといいます。

日課は 「散歩」。

ぶらぶらと町を歩き回るのが
大好きでした。

荷風が履いていた下駄。

鼻緒の辺りには 指の跡が残っています。

すり切れた下駄の歯から

どれだけ
歩いたかが分かろうというもの。

荷風は 来る日も来る日も
一人 散歩を楽しみました。

そんな日々を送りながら
名作を次々と書き上げます。

芸者の世界を赤裸々に描いた
「腕くらべ」。

金銭欲 名誉欲に凝り固まった
人間の醜悪さを

文明批判と共に映し出した 「おかめ笹」。

最先端のモダンな街 銀座のカフェーで
働く女給を描いた 「つゆのあとさき」。

来る日も来る日も
偏奇館で たった一人 原稿に向かう毎日。

自由気ままと言えば
確かに そのとおりですが

寂しくはなかったのでしょうか?

41歳の頃の小説 「雨瀟瀟」の中で
荷風は こう言っています。

孤独こそが 創作の泉。

そのために 自ら孤独を
求めたというのです。

孤独で寂しさを感じることが
創作につながる…。

そんな荷風の考え方を
心理学者は こう分析します。

偉大な作品を創り出した人々の
かなりの割合が

ほとんどの時間を 人生 孤独に過ごしたと
言えるんじゃないでしょうか。

やっぱり 作品を作るにあたって…

それは こんな実験でも実証されています。

アメリカ・イリノイ大学で行われた
実験です。

5人の人が 集団で会議をした場合と

それぞれが
個別に考えた場合の

アイデアの
量と質を比較。

すると 一人で考えた方が
アイデアの数も多く

その質も高かったと
いうのです。

創作のために 自ら孤独の中に身を置く。

そんな荷風の創作スタイルは

心理学的にも 理にかなったものと
言えるのかもしれません。

更に 孤独感を より高める効果があったと
考えられるものがあります。

荷風は日々 多くの人が集う銀座や浅草へ
散歩に出かけました。

晩年の荷風が通っていた
浅草のそば屋です。

荷風は 一つの店が気に入ると
毎日のように通い詰めました。

しかも 同じ時間に来て
同じ席に座ったといいます。

頼むのも いつも同じ「かしわ南蛮」。

こうした行動は 孤独を感じる上で
極めて効果的だといいます。

人が にぎやかなところで
いろんな景色があったり

いろんな人の風景が
見えたりするところで

初めて 人はね 孤独になれて
自分と向き合うことができるんですね。

人混みに身を置くことで
より深く 孤独を感じる。

そうした効果を 荷風は
体験的に知っていたのかもしれません。

そんな荷風が
57歳で発表した傑作が…

主人公は 自らと重なり合う老作家と
玉の井という町で生きる娼婦。

老作家は 小説の構想を練りながら
玉の井を散歩していました。

にわか雨の降る 夏の夕方。

老作家は お雪という娼婦と出会います。

何度も通ううちに
二人は いつしか なじみの仲に。

しかし ある日の夕方。

お雪は 客と娼婦という関係を壊す
ひと言を発します。

この ひと言で 老作家は夢から覚めます。

お雪を その気にさせたことに責任を感じ
玉の井を訪ねることをやめたのです。

久しぶりに 老作家が玉の井を訪れると
町から お雪は消えていました。

たくましく生きながらも
どこか 哀愁を漂わせる女性を

荷風は 艶のある文体で描き出しました。

孤独から生まれる作品の数々。

永井荷風は
まさに 「孤高の文学者」だったのです。

う~ん! 何かこう
いろんな感想を持ちますね。
はい。

破天荒な部分も持ちつつ
ちょっと違う 少し 何でしょう

闇の部分みたいなとこもあるんだなと
思って 見てました。

僕も 何か一人 結構 意外と
もう 一人の時も多いから

結構 わちゃわちゃしたとこで
一人でいる時 結構ありますよね。

暇な時とかに だから 簡単に言うと
あえて ファミレス行ってみたりとか

あと 一人で飲みに行ってみたりとか
結構 多いから

意外と 何か気持ちは分かるような
気がしますよね。

私も 日曜日の百貨店とか行くと
孤独だなって思う時がある。

うわ~! みたいな。

何か でも それもそれで ちょっと
楽しみながら 見ている自分もいたり。

だから ちょっと何か
その荷風の気持ちというか

ちょっと何か 分かるような気もしますね。

何か ずっと以前に そのアイドルのね。
(竹山)ずっと以前に アイドル…。

あの… アイドルで 継続中です はい。

簡単に言うと 「誰のものでもありません」
って おっしゃってて。      キャッチフレーズ。

個を楽しまれているのかなというところも
おありでしたけれども 今の心境は?

いや そうですね あの
まあ それも楽しみつつですけど

だから いつも思うのが

孤独と自由って 何か
同じようで ちょっと違うんですよね。

だから 孤独って言うと
ちょっと さみしいけど

自由って思うと
「あっ 楽しめる!」みたいな。

でも 作家という人にとっての孤独
これは どうなんでしょうね。

そうですね 人生の意味は
悲しさとか寂しさとか

孤独の中にこそ あるんだということを
言ってますので

本当に
孤独を愛した作家だったと思いますね。

でも 植田先生
はい。              孤独っていうのと

健康を 孤独によって まあ
病んでしまうことも あるわけでしょう。

あるんですね。 まあ孤独を楽しむっていう
余裕があればいいんですけれども

でも 孤独って
今 世界中で注目されていて

肥満とかタバコに次ぐ 健康阻害要因って
言われていまして。

ある大学の研究では…

イギリスでは
孤独担当大臣というのが できて

イギリスでは 4.9兆円
孤独による社会的損失があると。

病気になったり 認知症のリスクが
上がったり 自殺したりということで。

でも この人 じゃあ どうかっていうと
結構 長生きしてますよね?

長生きですね。
昭和34年に 79歳で亡くなってるので。

やっぱり あれじゃないですか
歩き回ったのがいいんじゃないですか。

そう そこが大事で。
だって太ってないもん。

孤独を感じても 長生きできる!

永井荷風流の 「孤独との
上手なつきあい方」を見てみましょう。

え~ 第1条 「老後は
キョウイクとキョウヨウが大事」。

はい どういうことかっていうと
実は 「今日行くところと 今日の用事」。

(関根)あ そういうことなんですか。
これ ちょっと…。

(関根)要するに あれですよね
目的があるってことですよね。

これは 荷風は
どうだったということですか?

荷風は 毎日のように浅草に
もう 60~70代から通ってまして

踊り子さんたちと
楽しく お話をしてたりとか

そういう記録が残ってますね。

ちゃんと用事を作ってたということ。
そうですね。

2番目に 「行きつけの店を持つ」
ということですけれど

これも 言ってみれば 「今日行く」。

「今日 あの店に行って お昼を食べよう」
ということになるわけですね。

そうなりますね。

(井森)家に居たら
何にも起こんないわけじゃないですか。

外に行ったら 何か刺激的なことがね
あったりするから

いいかもしれないですよね。
(柳澤)はい そうですね。

先生 どうですか
健康的な意味合いで。

自分の居場所というのがある
というのは 強いですよね。

適度に お酒を飲む人の方が

アルツハイマー型の認知症のリスクが
低いっていう

アメリカの報告 あるんですけど

結局は お酒の効用よりは
自分の店があって

そこに行くと 常連さんがいて
いろんな話ができるっていうのが

功を奏してると思うんですね。
そういう意味では行きつけの店がある

そこに行けば 自分の居場所がある
それは すごく大きいと思います。

さあ それから大事なこと。
第3条 「お金はあっても節約」。

(関根)この辺はね~。
(竹山)本当のお金持ちの人だ。

本当の金持ちは こうです。
節約しますもんね。

これは言えるんですね?
はい もう お金持ちですね。

さっき 何かケチなんじゃないか
という話も…。

はい。 よくケチって
言われちゃうんですけども

荷風先生が尊敬していた
森 鷗外さんに対して

記念館を設立するよっていう時には
当時としては ばく大な金額の

5万円をですね ポンと寄付してるという
エピソードも残ってるので。

そうですか。
(柳澤)はい。

とても お金を大事に使ってた方かなと
思いますね。

使いどころが分かってた。
(関根)すばらしい。

じゃ それにならって3か条。
ええ。

さあ 続きましては 荷風が生涯悩まされた
ある病を見てまいりましょう。

荷風は 「断腸亭日乗」と題された
日記を残しました。

37歳から 死ぬまでの42年間
一日も休まず 書き続けられた

日記文学の最高峰と言われます。

時代の空気に流されることなく
鋭い言葉でつづられた 「断腸亭日乗」。

自ら 「最大の業績」と言っています。

そこに刻まれているのは 情報統制された
新聞には 決して掲載されない

人々の 生の思い。

日中戦争が泥沼化し 米も配給制となって
人々の生活が統制され始めた頃…。

太平洋戦争が始まります。

戦争の真っただ中に 世の中を徹底批判。

「『断腸亭日乗』が人目に触れれば
ただではすまない」。

外出する時は 靴箱に隠していました。

危うい思いまでして 「断腸亭日乗」を
書き続けたのは なぜなのでしょうか?

荷風は こう語っています。

荷風が目にした現実を ありのまま
後世に残したいという思いでした。

「断腸亭日乗」は まず手帳に下書きし

上質な和紙に清書されています。

自分の死後 世に出す作品として
書いたのです。

タイトルは
庭に咲いていた

大好きな
断腸花から 名付けたと

言われています。

しかし 健康という視点から見ると

もうひとつの意味が
込められていたようなのです。

荷風は 若い頃から
「持病」に悩んでいました。

「断腸亭日乗」には
その症状が詳細に記されています。

大正12年 43歳の日記です。

腹痛や下痢の症状は 晩年の76歳まで
「断腸亭日乗」に 繰り返し登場します。

しかし 病名は
どこにも書かれていません。

病気ではないのに
下痢や便秘が続く症状は

原因が はっきりしないことから
「過敏性腸症候群」と呼ばれます。

現在 その患者数は およそ1, 200万人。

なんと 10人に1人が苦しんでいます。

近年の研究で
その原因が明らかになってきました。

それは…!

小腸内細菌増殖症という
病気なんですけども

本来ですね 小腸の中は
非常に菌が少ないんですね。

正常であれば…

ところが
小腸内細菌増殖症の患者の場合…

小腸で細菌が増殖すると ガスを発生。

腹痛や下痢 便秘といった
不調が起きてしまうのです。

更に 小腸内細菌増殖症の症状には
逆流性食道炎もあります。

小腸で ガスが大量に発生しますと
ガスが 胃の中に逆流します。

胃酸も一緒に
食道の方に逆流するんですね。

で 食道が荒れるのが
逆流性食道炎です。

63歳の荷風の日記には 「胃酸過多」

つまり
逆流性食道炎の記述があります。

腹痛 下痢 胃酸過多の
3つの症状から

荷風の小腸内で細菌が増殖していたと
考えられるのです。

小腸内細菌増殖症が分かったのは
2000年代以降のこと。

その存在すら知られていなかった
荷風の時代には

効果的な治療法は ありませんでした。

それどころか 荷風は

腹痛や下痢を悪化させるような
食生活を送っていたようなのです。

それが クロワッサン。

荷風は フランスで知ったクロワッサンを
気に入り 毎朝 食べていました。

実は 小麦と米に含まれる糖質には
違いがあります。

米に比べ 小麦の糖質は
小腸で吸収されにくく

同時に 細菌によって
ガスを発生させやすい特徴があります。

こちらは 食品別に 体内での水素ガスの
発生量を比較したもの。

米は ほとんどガスを発生させないのに

小麦は 大量のガスを発生させることが
分かります。

つまり 小腸内細菌増殖症の人にとって
小麦は避けるべき食品なのです。

ふだんから 腹痛や下痢に
苦しんでいたにもかかわらず

毎日のように パン食を続けていた荷風。

症状は 悪化する一方だったと
考えられます。

日記を書きながらも
おなかが痛くて たまらない。

荷風は その苦しみを 「断腸亭」という
タイトルに反映させたのかもしれません。

炎の中 荷風が これだけはと
守り続けたのが…。

そのカバンが 残されています。

荷風は 何よりも大事にしていた
「断腸亭日乗」をこれに入れ

偏奇館を飛び出したのです。

「これだけは なんとしても後世に残す」。

荷風は 「断腸亭日乗」を
最後まで守り続けたのです。

大事にしてたんですねえ。

あの 留学の経験があるから
もう 俯瞰で見てたんでしょうね。

バカみたいなこと やってるなと。

でも 42年間 日記書いてるんですよ。
どうです?            すごいですよね。

生活が決まってたんじゃないですか。
毎日 日記書くって

どっか ちゃんと日記書く時間がないと
意外と書けないじゃないですか。

だから ちゃんと 自分のローテーションが
決まってるというか。

(井森)ねえ。
もうルーティンになってたみたいな。

それを
ちゃんと送ってたんじゃないですかね。

この「断腸亭日乗」自体は

文学作品として見ると
日記ではありますよね 個人の。

文学作品として見ると いかがでしょう?

そうですね まず
あのお話に出てたとおり

その 日々のことを
歴史の中で こぼれてしまいそうな

例えば 女性のファッションだったりとか
生活用品だったりとか

そういったところが
まず記されているところが

すばらしい点ですね。

さあ それからですね 日記の中に
下痢とか腹痛ってありました その辺り

彼が抱えていたと思われる病気について
ここから見ていこうと思います。

消化器系の病気に お詳しい方を
お招きしています。 江田 証さんです。

よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。

過敏性腸症候群。
これは聞いたことありますよね?

実際にですね 過敏性腸症候群の
患者さんを調べますとですね

その84%に 小腸内で細菌が増えている
というふうなことが分かってきまして。

…というふうなことが
最近 話題となっています。

で 今 食べ物 気になりません?
ねえ。 荷風が愛した朝ごはん。

先ほど出ていましたけれど ちょっと
こちらで 皆さんに見て頂きましょう。

はい さすがフランス帰りの
クロワッサン それからショコラ。

これが リンゴのコンフィチュール。

コンフィチュール
フランス語でジャムです。

(関根)ああ 甘く煮たようなやつですね。

いや これはハイカラですね
当時としては。               おしゃれ。

(竹山)すごく いいですよね。
(関根)ねえ。

何か こういうものを
食べていたということ。

(柳澤)また この
リンゴのコンフィチュールなんかは

「断腸亭日乗」の中に 自分で作ってる
様子が出てきたりするので

はい なかなか面白いなと思います。
こんなハイカラなものをね。

(一同)え~!?
3つとも?

(江田)実は このクロワッサンの中に
入っている この小麦ですね。

フルクタンという糖質があるんですけども
これは 食べるとですね

小腸の中の菌の 格好の餌となりまして

急激に発酵を起こしまして
ガスをワッと作るんですね。

リンゴの中に入っている 果糖

ショコラの中に入っている
牛乳が含まれてますね。

牛乳の中に含まれてる
乳糖というのはですね

同じような急激な発酵を起こすので
控えた方がいい食事の中に入るんですね。

じゃ 荷風さんは三大ダメだったんだ。

最悪な ごはんですよね。
ねえ。

他にも 過敏性腸症候群の方が
避けるべき食品があります。

大豆をはじめとする豆類
しいたけなどの きのこ類

たまねぎや ニンニク
そして ヨーグルト。

これらを避けるだけで
症状は かなり改善するといいます。

このプログラムというのはですね
3週間 これをやりますと

大体75%の患者さんの症状が
楽になるというようにですね

アメリカ消化器病学会の機関誌でですね
発表されております。

ということは
治るというふうに考えていいですか?

ええ 食事で大きく改善します。
(竹山)食事で。

一度は
医療機関に受診して頂いて

医師の指導の下で始められると
いいと思います。

やはり ちゃんと自分の病気が何かを
まず診断して頂くってことですね。

荷風さんが
例えば お米とお魚 食べてれば

あんなに頻繁には
起こんなかったってことですか?

症状が それほど
ひどくならなかったと思います。

そりゃあ 下痢だの腹痛って
書いちゃいますね 日記に 朝から。

で 今 ここに昭和17年から23年の
「断腸亭日乗」があるんですけれども

この付箋が付いているところが 全て

「おなかが痛い」とか 「下痢をした」と
書いてあるところなんですね。 はい。

で この中で不思議なことに
昭和20年付近の ここなんですけども

ここだけ 何もないんですね。

ってことは おなかの調子が良かった
ということでしょうか。

(柳澤)そうなんですね。
どういうことでしょう?

食生活 変わったんですか?

ごはんと魚 食べてたのかな
その時。                    戦争?

(柳澤)そうなんです。
入らないんだ。

戦争で これが入ってこなかったんだ。
(柳澤)そう 手に入らないんです。

こういったことが
荷風の小腸にとっては

逆に良かったという関係が
あるかもしれません。

だから 荷風さん それが原因で
良くなったんだというのが

分かんなかったんでしょうね。
(江田)そうですね。

さあ 戦争を生き抜いた永井荷風。

その晩年は
どのようなものだったのでしょうか。

昭和20年8月15日 終戦。

戦争が終わっても 荷風の時代を見つめる
目は ブレることがありませんでした。

偏奇館を失った荷風は いとこや
知り合いの家を 転々とする生活を続け

千葉の市川に 落ち着きました。

荷風愛用の七輪が残されています。

面倒くさがりの荷風は
七輪を畳の部屋に持ち込んで 煮炊き。

火事を心配した大家に
追い出されたこともありました。

平和が訪れると 荷風は
再び散歩を楽しむようになります。

通っていたのは 浅草。

浅草に出来たばかりのストリップ劇場に
入り浸りになります。

その様子は 面白おかしく
マスコミで報じられました。

そんな話題の荷風先生の一日を

写真学校の学生が追いかけて撮った
貴重な写真が残っています。

朝 市川の自宅を出るところから
撮影を開始。

浅草に向かう 京成電車の中で…。

(シャッター音)

(シャッター音)

(シャッター音)

(シャッター音)

今でいう パパラッチ。

荷風先生 相当 嫌だったのか

帽子で 顔を隠しながら
こちらを にらんでいます。

デパートの前で 新聞を買う姿。

街灯の柱で かくれんぼ。

(シャッター音)

撮り続ける学生に 堪忍袋の緒が切れ

「ばか野郎 交番へ行くか!」と
どなったそうです。

戦後の荷風は
いくつかの短編小説を発表しただけ。

残された日課は 浅草での散歩。

いつもの そば屋で
いつもの かしわ南蛮を 昼に食べる。

そんな毎日が続いた ある日。

昭和34年3月1日 荷風79歳。

この日が
浅草を訪れた最後の日になりました。

この日 荷風は 毎日通っていた
浅草のそば屋で倒れたのです。

お手洗いに 立たれたらしいんですけども
そこで バタンという大きな音がして

店の者が 見に行ったら
荷風先生が倒れてるというのでですね

その時の女将とですね
若い男の衆でですね 助け出しまして

そのまま タクシーでですね 市川の自宅まで
お送りしたという 話を伺ってます。

意識は あるものの
力が入らなかったようです。

それも 1週間ほどで回復。
病院にも行きませんでした。

その後
浅草までの遠出はしなかったものの

家の近所を散歩するまでには
回復したようです。

書かれているのは
天気と 毎日 大黒屋へ行っていたこと。

大黒屋とは
荷風の家の近所にあった 料理屋。

毎日 この店で かつ丼を食べるのが
新たな日課になりました。

79歳にして 食欲旺盛だったようです。

浅草で倒れてから2か月。

そのニュースは
突然 飛び込んできました。

「作家の永井荷風さんが 4月30日の朝

千葉県市川市の自宅で
胃潰瘍のため 亡くなりました。

荷風さんは 親類づきあいや
文壇との交際もなく

孤独の生活に生きてきました。

日本の文学界に
独自の境地を守り続けながら

79歳の生涯を 静かに閉じました」。

その死は
世間に衝撃を与えました。

誰にも みとられない孤独死は

奇行の文豪がたどった最期として
大きなニュースとなったのです。

当時の診断では 死因は
「胃かいようで吐血」とされています。

しかし そこには大きな疑問があります。

死の11日前の「四月十九日 大黒屋 昼飯」。

つまり かつ丼を食べたと書かれています。

更に 死の前日の29日にも
かつ丼を食べたという

お店の人の証言が残っています。

吐血するほどの胃潰瘍なら

前日に
かつ丼を食べることなどありえません。

調べてみると 常日頃 悩んでいた

腹痛や下痢が関係していた可能性が
浮かび上がってきました。

荷風の場合はですね…

「肝硬変」 それは肝臓が萎縮し
硬くなって 機能を失ってゆく病気。

通常 ウイルスやアルコールなどが
原因とされますが

近年の研究で
小腸内細菌増殖症もまた

肝硬変の原因になることが
明らかになっています。

小腸で増殖した細菌は

エンドトキシンという毒素を作ります。

この毒素が 肝臓へ達し
肝炎を引き起こすことが分かっています。

そして 肝硬変へと進行してしまうのです。

小腸内細菌増殖症が持病だった 荷風。

小腸内の毒素で 肝硬変となり
死に至ったと考えられるのです。

2か月前
荷風が 浅草で倒れたのは…

合併症の一つ 肝性脳症による
意識障害と考えられます。

本来 肝臓で分解されるアンモニアが

肝臓が機能しなくなることで
分解されなくなります。

そして 体じゅうに広がり 脳にまで達して
意識障害を引き起こすのです。

荷風が
突然 吐血したのも…

肝硬変の合併症
食道静脈瘤の破裂と考えられます。

肝臓が機能しなくなると 肝臓へつながる
血管で 血液の流れが滞ります。

すると 血液は 食道の静脈へ
逆流してしまいます。

そして 静脈瘤をつくります。

この静脈瘤が破裂して大出血。
吐血してしまうのです。

荷風の死因は 肝硬変の合併症である
食道静脈瘤が破裂し 吐血。

その出血性ショックで亡くなったと
診断できそうです。

肝臓は 沈黙の臓器。

肝硬変の症状は なかなか現れてきません。

荷風も気付かないまま
病状は進行。 急逝したのです。

昭和34年 79歳の荷風 最後の日記です。

「四月廿六日。 日曜日。 晴。
四月廿七日。 陰。 また雨。

四月廿八日。 晴。
四月廿九日。 祭日。 陰」。

「断腸亭日乗」は
死の前日で終わっています。

自由を求め たった一人 明治 大正 昭和の
激動を生き抜いた 永井荷風。

その最期まで こだわっていたのは
「断腸亭日乗」を書き続けることでした。

何か やっぱり最後まで見ても
魅力ある人ですね。

自分で作品とか作って
好きなこと やって

こういう人生だと 本当は羨ましいな
というのは ちょっとあったりはしますね。

まあ ぽっくりじゃないですか。
79歳まで ある程度 生きて。

だから やっぱりいいですよね。

でも あの倒れた時にね
帰ってきて大丈夫だったからって

お医者さん行ってないんですね。
そうなんですね。

まだ60代の頃に 既に自分で
遺書を書いていましたので

もう いつ死を迎えても大丈夫なように

ご準備されていたところもあるかと
思いますね。

そういう意味では ちょっと
こう終活みたいなのも

しっかりしてたってことに
なるんですかね 今で言う。

肝硬変が やっぱり良くないっていうのは
こういう形だとは思いませんでしたけど。

ただ まあ 肝硬変の方の7割が

この食道静脈瘤を合併してるって
言われてますので

肝硬変だったら いつ そういうことが
あっても おかしくないって。

肝硬変になる前に 予防 予防で

肝硬変に
ならないようにしようというのが

今の医学の考え方では
あるんですけれども。

負の連鎖なんですね 病気って。
そう。 みんな つながってるんですよね。

はい 今日は 永井荷風の健康診断を
してまいりました。 いかがでした?

最後まで かっこよく生きたっていう
感じがしますね。

だから 僕も将来ね 孤独になった時に

これは 自分で好んで作った孤独なんだと
思い込むようにしたいと思います。

覚悟の上の 孤独と。
(関根)そうです。

いろんな顔を持ってて とにかくブレずに
生き抜いてた人なんだなと思って

すごい楽しい人でした 見てて。

是非 本当は
会って 話聞きたい人でしたよね。

ねえ そうですよね。
「先生 どうなんですか? こういう時

こういう時
どうしたんですか?」って言ったら

多分 僕らが思ってない ふざけた答えが
返ってくると思うんですよ。

「それだけですか」とか…。

ちょっと
しゃべってみたかったですよね。

もっとこう 今のテレビ時代に生きてて
頂きたかったような感じの人ですけどね。

ありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。

永井荷風の傑作「東綺譚」の
舞台となった町 墨田区東向島。

ここは かつて玉の井と呼ばれた私娼街。

荷風は この町を何度も歩いています。

一部は 戦争で焼けたものの
その名残は 今も残っています。

(高木)こういう建物が特徴的で
全体に 丸みを帯びているんですね。

それで しかも 窓がこう入っていると。

こういう建物が
いろんなところにあったわけです。

荷風が描いた 玉の井の地図。

路地の入り組んだ この町を
荷風は 「迷宮」と呼びました。

荷風が歩いた路地。

曲がりくねった細い道は
確かに迷宮のよう。

この狭い路地に 所狭しと店が並び
女性たちが 春をひさいでいたのです。

荷風は 風情あるこの町と
そこで生きる女性たちに 心惹かれ

「東綺譚」を書き上げました。

東京・三ノ輪の浄閑寺。

ここも 荷風が
散歩の途中で 何度も訪れた場所です。

吉原に程近い この寺。

弔う者もなく 亡くなった遊女たちが
投げ込まれたことから

「投げ込み寺」とも呼ばれました。

♬~

無縁仏となった遊女たちが眠る
すぐ横に

小さな 永井荷風の碑があります。

荷風は 「断腸亭日乗」に
こんな言葉を残していました。

みとられることなく
亡くなった 遊女たち。

その傍らに
自らの墓を建てることを

荷風は 望んだのです。

荷風の死後 その意思を受けた
友人たちが 昭和38年 分骨。

この地に 荷風の碑を建てました。

生涯にわたって 社会の片隅で生きる
女性たちを愛した 永井荷風。

社会から こぼれ落ちた人たちへの
まなざしを忘れてはいけない。

それが 荷風が 生涯持ち続けた
思いだったのかもしれません。

疾きこと風のごとく


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