英雄たちの選択「秀吉・天下争奪の山城合戦~賤ケ岳の戦い~」琵琶湖の北部・余呉湖の周辺で繰り広げられた合戦の…


出典:『英雄たちの選択「秀吉・天下争奪の山城合戦~賤ケ岳の戦い~」』の番組情報(EPGから引用)


英雄たちの選択「秀吉・天下争奪の山城合戦~賤ケ岳の戦い~」[字]


秀吉にとって、天下取りの運命的な戦いが、賤ケ岳の戦いである。琵琶湖の北部・余呉湖の周辺で繰り広げられた合戦の実像を両軍の山城を紹介しながら浮き彫りにする。


詳細情報

番組内容

本能寺の変のあと、織田家の跡目相続に端を発した羽柴秀吉と柴田勝家の合戦・賤ヶ岳の戦い。近年新たに、秀吉が、弟・秀長に宛てた命令書が発見された。そこには、秀吉の築城の戦略が事細かく記されていたのである。いかに勝家軍の南下をくいとめるか?秀吉は、数多くの山城を築き、一大山城合戦を繰り広げたのである。両軍の山城を比較しながら、なにが勝敗を分けたかを明らかにする。

出演者

【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】千田嘉博,小谷賢,島田久仁彦,【語り】松重豊


『英雄たちの選択「秀吉・天下争奪の山城合戦~賤ケ岳の戦い~」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

英雄たちの選択「秀吉・天下争奪の山城合戦~賤ケ岳の戦い~」
  1. 秀吉
  2. 勝家
  3. 秀吉軍
  4. 惣構
  5. 書状
  6. 合戦
  7. 信長
  8. 賤ヶ岳
  9. 自分
  10. 前線
  11. 勝家軍
  12. 織田家
  13. 信孝
  14. 戦略
  15. 防御
  16. 土塁
  17. 布陣
  18. 玄蕃尾城
  19. 柴田勝家
  20. 秀長


『英雄たちの選択「秀吉・天下争奪の山城合戦~賤ケ岳の戦い~」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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琵琶湖の北に位置する余呉湖。

そこは
天女が舞い降りた羽衣伝説が残る

美しい湖である。

かつて この穏やかな湖の周辺で

血で血を洗う合戦があった。

戦いの主役は

後の天下人
羽柴秀吉と

「鬼柴田」と呼ばれた
猛将 柴田勝家。

「本能寺の変」の直後 2人の重臣が

天下争奪をめぐり 激突した。

だが 戦国合戦の多くが

後世に編さんされた史料に
基づいているため

その実像は明らかではない。

ところが…。

戦いのさなかに書かれた秀吉の書状に

なんと
軍事機密が記録されていたのである。

危ないでしょ だって。

米軍の航空写真に写し出された

謎の防衛ラインが物語る

秀吉の戦略とは…。

一方 山あいに築かれた勝家の山城から
うかがえる

知られざる戦いの真相とは…。

秀吉と勝家。 山城をめぐる戦略とは。

さまざまな分野の専門家が

熱い議論を交わす!

恐らく これは 秀吉が…

青春…!

天下争奪の一大決戦 賤ヶ岳の戦い。

秀吉vs.勝家。

これまでとは異なる視点で
戦いの実像に迫る!

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

そのとき 彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。

今回の主人公は こちらの2人です。

戦国時代の英雄 羽柴秀吉 後の豊臣秀吉。

そして 織田家随一の猛将 柴田勝家。

この2人の直接対決が 賤ヶ岳の戦いです。

この戦いについて
磯田さん どんな印象ですか?

歴史上のね
名将といわれる戦国武将にはね

それぞれね 合戦の代表作があるんですよ。

例えば…

そして…

…だと思いますね。
へえ~! 最高傑作ですか?

この中には…

…が詰まってる。 まず 速度で勝つ秀吉。

あと 輸送の妙も… 早い。

あと 要塞構築の上手さ。
それで 相手側を足止めする。

それと 情報を使うことのうまさ。

この すべての要素が重なって
見事に 敵を打ち破ってるっていうのが

まあ 今回の賤ヶ岳の合戦。

本来だったら
信長を倒したあとにですね

明智光秀が 都の真ん中にいて

四方の敵に攻めてこられるっていうのを…

秀吉にとっては 非常にね…

…という もう本当に 分け目の戦い。

死に物狂いの秀吉の時代です。

じゃあ それを
じっくり見ていきましょう。

まずは 秀吉と勝家。

2人の対決の背景から
見ていきます。

戦国の覇王 信長のもと

全国で死闘を繰り広げた
織田家の武将たち。

中でも優れた家臣たちを評した言葉に
こうある。

「木綿藤吉」とは
羽柴秀吉のこと。

秀吉は 木綿のように

貴重な存在だ
という意味である。

「かかれ柴田」は
柴田勝家を指す。

「かかれ」とは

突撃を命じる
大音声のこと。

戦上手な勝家を評した
言葉である。

下賤の身ながら 知恵と才覚で
出世を果たした秀吉。

対する勝家は 信長の父の代から

織田家に仕える筆頭家老。

2人の差は歴然としていた。

ところが…。

(銃声)

2人の運命を変える大事件が起こった。

明智光秀の謀反により
信長が討ち取られた

「本能寺の変」である。

そのとき 織田軍は

それぞれの
方面軍に分かれ 全国に展開。

毛利と対峙していた
中国方面軍の秀吉。

一方 勝家は
北陸で上杉と死闘を繰り広げていた。

そこで 本能寺の変が勃発。

逆臣 光秀を討伐するため

一刻も早く 京へ戻ることが

武将たちの急務となった。

このとき ぬきんでたのが秀吉である。

毛利との講和に成功した秀吉は

すぐさま上洛の途に就き 京へ引き返した。

世に言う…

秀吉軍は 京の郊外 山崎で光秀軍を撃破。

本能寺の変から
僅か11日後の出来事である。

弔い合戦に 見事勝利した秀吉。

これまでの序列は崩れた。

6月27日 信長ゆかりの清洲城に
織田家の重臣が集まり

後継者問題や領地配分を決める
「清洲会議」が開かれた。

結果 光秀を討ち果たした秀吉は
領地を拡大。

従来の播磨に加え

畿内を中心に
新しく3か国を手にした。

一方 勝家は 越前 加賀のほか

秀吉の かつての居城 長浜城を獲得。

それに配下の武将の領地を加えると

ようやく
秀吉の勢力に拮抗しうるものとなる。

琵琶湖の北に位置する 勝家の玄蕃尾城。

この城から秀吉に対抗する勝家の

なみなみならぬ思惑が読み取れるという。

城郭考古学者 千田嘉博さんが訪ねた。

おお~!

いよいよ こう 入っていくところがですね
これ 土橋ですね。

この向こう側に見えてるのが…

この賤ヶ岳の戦いに関わった
いろんな お城ですね

砦っていうのがありますが…

中へ入っていきます。

で ここに門があったわけですよね。
ものすごい大きな これ…

両側とも土塁です。

もう あの… すべてのですね

それぞれの辺をですね…

注目されるのが
下を見ていただきますと

これもそうですし
これもそうですね。

こっちも これも これも
そうなんですけども

なんとですね…

…が残ってるんです。
臨時の砦というよりは

まるで居城のようなですね…

玄蕃尾城は 北陸から近江に向かう玄関口。

そこは 秀吉に対する
勝家の攻めの拠点でもあった。

…になっていたということを
まさに示しているのが

玄蕃尾城だと思います。

このお城を築くことで…

これが…

このあと…

勝家は 信長の妹 お市の方と
婚姻関係を結ぶ。

織田家の一門衆に名を連ねたのである。

それに対し 今度は 秀吉が仕掛ける。

秀吉は 京 大徳寺で…

「参列者は3, 000人。

見物する人々は
貴賤雲霞の如し」とある。

織田家の家臣としては…

これにより 秀吉は

丹羽長秀 池田恒興など

織田家の有力武将たちを
味方につけることに成功。

勝家を大きく上回る
勢力圏を形成した。

秀吉は さらに勢力拡大を図り
周辺の大名たちに書状を送り

信長の次男 信雄を織田家の後継者となす。

勝家の背後を脅かす上杉や

一向一揆の総本山 本願寺も

味方に引き込むことに成功。

本願寺に宛てた
秀吉の書状に こうある。

「勝家の加賀で一揆を起こし
目覚ましい働きをすれば

加賀一国を
本願寺に与えるであろう」と。

一方 勝家は…。

信長の三男
信孝をはじめ

織田家重臣
滝川一益や

周辺大名に
書状を送り

反秀吉勢力の結集を
画策した。

勝家は 将軍 足利義昭にも接触を図る。

もともと 義昭は 主君 信長が追放した
織田家の宿敵であった。

毛利に宛てた義昭の書状に こうある。

「勝家と手を結び

秀吉軍を
挟み撃ちにすることを

急ぐべきである」。

そして 12月初旬。

近江への道は 雪に閉ざされ

北陸…

秀吉は 5万の大軍勢で
勝家方の城 長浜城を包囲。

続いて…

いずれも
秀吉の前に あっけなく降伏した。

さらに 秀吉は
勝家にくみする滝川一益の北伊勢に侵攻。

時に 天正11年2月

現在の暦の3月にあたる。

いよいよ 雪どけの季節の到来。

それは 勝家軍の襲来を意味していた。

決戦の地は 琵琶湖の北の賤ヶ岳周辺。

いよいよ 天下分け目の戦いが

幕を開けようとしていたのである。

それにしても 合戦に至るまでに

ありとあらゆる駆け引きがあったんですね
小谷さん。

秀吉も勝家もですね

信長傘下の
有力武将なだけあってですね

私は 両者とも
甲乙つけ難い

人物であったんじゃ
ないかというふうに思います。

ただ 私個人の
印象としては

勝家のほうはですね

剛直な武人というイメージでありまして

武人に よくありがちなのは やっぱり
政治に疎いというところでありまして。

そこは やっぱり…

…だったんじゃないかなというふうに
思います。

それに対して 秀吉のほうは

やっぱり 政治的な才覚というものが
ありましたので。

信長亡きあと 要は 秀吉というのは

勝家ですとか
ほかの信長の元家臣たちに対して 常に

一歩リードすることができたんじゃないか
というふうに思います。

島田さんは
交渉のプロでいらっしゃいますけれど

2人の この駆け引き
どのようにご覧になりましたか?

そうですね 2人とも全く
駆け引きの能力という点では

全く変わりがないと。

非常に優秀であるなと
思います。

ただ 信長という絶対的な
カリスマが欠けたあと

今後 どういう世界に
していくのかという

グランドデザインの
持ち方が 2人では

全然 違ったんじゃないかなと
思うんです。

例えば…

…っていうもののグランドデザインを
描いたと思います。

将来像ですね。

その辺りの違いというのが

そのあとの結果に 変わってくると。

いやあ しかし 秀吉は この時点では

日本の… 京都 大坂の間。

要するに 碁盤でいったら
「天元」っていわれるような

真ん中の 守りにくい所にいるわけですね。

そうすると 最低でも
牙をむいてきてる敵は

北陸と東海方面。
濃尾平野に 2正面ありますよね。

この裏側に
雑賀衆だとか

紀伊半島の連中
っていうのが…

これで
3方面ありますよね。

さらに 毛利の国境が
なんとか

維持できてるんですけど
そこには

さっき出てきたように
足利義昭がいて

この国境線も
安定していないと。

まあ これは…

そういう場所もね 関係してくるんですね。

さあ 千田さんには 今回も
現地の山城を取材していただきました。

もう「英雄たちの選択」ファンはね

この時を いつも待っていると思うんです。
そうそう…! 待ってますからね!

今回は 勝家の拠点

玄蕃尾城が 先ほど
紹介されましたけれど

実際に行ってみて
いかがでしたか?

この玄蕃尾城っていう
お城ですけども

どうもですね
ほかのお城と比べますと

柴田勝家は
その賤ヶ岳の合戦のときに

慌てて造ったっていうことではなくて…。
ないですね! あれ見たら。

ねえ! そうでしょう! そうでしょう!

そうそう! もう あらかじめ
恐らく 清洲会議で長浜を手に入れたと。

そうすると
長浜だけ ぽつんとあったら

どうせ 秀吉
攻めてくるだろうということもあるので

とにかく北陸と そこを結ぶ…

その北国街道の いちばんの峠を
押さえるんだっていうので

かなり前から造っていて
守備隊も置いていてっていうですね

そういった意味では もう…

あれ 何か
立派な建物 建てようっていう

礎石の意思が感じられるから

ある種の見せつけ城みたいな感じも
ありますよね あれね。      はい!

だから その秀吉に対して すごい
軍事的なプレッシャーっていうのか

もう いつでも やれるぞ! っていう…。
プレゼンスがあるぞ!

ここ いるぞ! みたいな…。
そういうお城だったと思います。

千田さんにはですね
玄蕃尾城のほかにも

秀吉と勝家軍が築いた山城群を
回っていただいていますが

それは いかがでしたか? 千田さん。
いや これがですね

あの賤ヶ岳の戦いに関わる両軍の造った
砦跡がですね

むちゃくちゃ よく残ってるんですよ!
ほうほう ほうほう…!

しかも 歩いてみると

柴田方の造った砦と 羽柴方の造った砦が
ものすごく この…。

近い?
うん 近いのと

実は 造り方に違いがあるんですよ。
ええ~!

力の入れ度合いに差があるんですよ。

で これも やっぱり 両方のやっぱり…
勝家と秀吉っていうのは

どう考えてたかっていうのを
ものすごく よく示してると思います。

見よう!見よう!
見ましょう。

滋賀県長浜市。

長浜城歴史博物館には

賤ヶ岳の戦い
合戦のさなかに書かれた

秀吉の書状が残されている。

(太田)秀吉がですね
弟の秀長に宛てた書状で

賤ヶ岳合戦の16~17日前に
秀吉が秀長に対して

どういうふうに戦闘を行うべきか

あるいは どういうふうに…

書状には 7項目からなる秀吉の指示が
事細かに記されている。

これは「どんな細かいことでも
注進してこい」と。

つまり「秀吉に報告せい」と。

比較的 ここまで細かく
指示を出してるっていうのは

珍しいかもしれませんね。

こうやって…

重要な機密事項が記された
この書状の分析が進むことで

知られざる秀吉の戦略が
明らかになったのである。

急ぎ南下し 近江へ進出した。

総勢2万といわれている。

勝家は 玄蕃尾城に本陣を構え

別所山などに各部隊を展開。

前線の拠点となる行市山には

勝家の甥 佐久間盛政が陣を構え

秀吉軍に対峙した。

一方 秀吉が前線に到着したのが
勝家から遅れること5日後。

秀吉軍 およそ5万といわれている。

北の勝家軍に対し

南の秀吉軍の布陣は こうである。

東野山 堂木山を前線とし

周辺の山々に
砦を築いた。

秀吉は 木之本に
本陣を構えた。

勝家の配下 前田利家が布陣した
別所山砦。

勝家側の戦略が
顕著に読み解ける

砦跡だという。

見えてきましたですね~!

ああ これ 見事に
堀と この土塁ですね。

ここは ちょうど屈曲していて

横矢を狙っているとこですね。

え~っと これを見るとですね

まさに主戦場ですね。

ははあ~…。

で 僅かに 土塁は高まりがありますが。

別所山砦は 四角形に築かれた曲輪に

周囲に堀を築いただけの
シンプルな構造である。

一体 なぜか。

いわゆる こういう陣のときの本陣ですね
大将がいる所が ここだっていうですね

そういう囲いっていうのは
しっかり造っているんですが。

ここで戦うってよりは 本当に…

そして 強く 相手に見せかけることが
できればいいっていうですね

そんな感じの これ… 陣ですよね。

これに対し 秀吉軍は

勝家とは全く異なる戦略に基づいた砦を
築いた。

千田さんは
秀吉軍の前線を守る

東野山城を訪ねた。

いやあ…
東野山城ですけども。

敵が もし攻めてきたら
もう 絶対やっつけるぞっていうですね。

このお城は。

どっから行きます? どっから行きます?
(取材者)もう そのまま…。

いっぱい あるんですけど!
例えば ここですよ。

ここの所 ちょうどですね
土塁が低くなっていて。

出入り口の跡なんですけども
これ 見ていただきますと

ちょうど ここで 土塁が 90度 曲がって

その手前側に堀があると。

正面のみならず横に延びた土塁の上からも
敵を攻撃することができる。

「横矢がけ」である。

勝家軍の砦とは異なり
秀吉軍の築いた砦群は

いくつもの曲輪に守られた
堅固な軍事要塞であった。

両軍の砦の違いは 何を意味しているのか。

この羽柴方の砦っていうのは
いずれもですね

非常に 強固に造っていて…

羽柴方の砦群と
柴田方の砦群っていうのは

大きな差があります。

そこから見えてくる
秀吉の戦略っていうことで言いますと

「専守防衛」と言ったらいいでしょうか。

…っていうのが
非常によく見えてくると思います。

勝家は 周囲を
秀吉にくみした大名に囲まれている。

勝家が 近江へ進出するためには

琵琶湖の東側を南下せざるをえない。

一方 秀吉軍は万難を排して

その南下を食い止めるというのが

この合戦における
両軍の基本戦略と考えられる。

さらに 秀吉の書状には

勝敗を左右する
ある重要な言葉が記されていた。

「惣構え」の文字である。

「惣構えの堀から
外へ鉄砲を放つことは

言うに及ばず」。

「草刈りの者に
至るまで

一人も惣構えの外へ
出してはならない」。

この「惣構え」とは 何を意味するのか。

それを ひもとく鍵となるのが

昭和24年 米軍が撮影した航空写真である。

ここに 東西に引かれた 一本の線が
写し出されている。

これが「惣構え」の痕跡とみられる。

先祖代々 地元に暮らす…

幼いころ
惣構えの痕跡を見た記憶があるという。

高さ1mほどの土塁は 昭和30年代まで
この地に残されていたという。

…といわれてます。

つまり 秀吉が築いた惣構えとは

東野山から堂木山を縦断し

街道を遮断した
東西500mに及ぶ

大規模な土塁の長城であったと
考えられる。

賤ヶ岳合戦っていうのは
もちろん…

…ということが
さらには

こういうことが
ここから読み取れて

惣構え つまり平地に置かれた
バリケードですね…

…っていうことが
この文書を分析することで

初めて分かってきたということですね。

惣構えで
鉄壁の防御ラインを築いた秀吉軍。

勝家軍は その突破を試みるが
それを果たせず…

ところが 思わぬ方向から
敵が出現したのである。

北伊勢の滝川一益が
秀吉軍の背後 美濃に進出。

すでに降伏したはずの信孝も
これに呼応した。

このままでは 秀吉軍は

勝家と 信孝・一益連合軍に
挟撃されてしまう。

秀吉に危機が迫っていた。

さあ 現地へ行かれた千田さんに 改めて

両軍の布陣について
解説をしていただきたいと思います。

お願いします。 このボードを使って。
ボードを使って ご説明いたします。

柴田勝家はですね
玄蕃尾城を後方の拠点にしまして

この北国街道沿いの山の中にですね

それぞれ この軍勢が布陣して
こういう形で隊形を整えておりました。

それに対してですね
秀吉側の軍勢でありますが

まあ この北国街道をですね

柴田軍が南下するのを なんとしても
これは食い止めるということで

ここの尾根筋にですね

まず 前線の軍勢が
展開をしました。

これだけですと 一重のというんですかね
ラインだけになりますので

実は 羽柴軍というのは 後方はですね
賤ヶ岳などにもですね

それぞれ後方の砦をですね 非常に こう
奥深く造って 守っていて

北国街道を 物理的に惣構え
土塁と堀の防塁線で

完全に封鎖するというですね。

まあ こういうふうにして
柴田軍を迎え撃ったという

こういう形であります。

さすがに あの惣構えを見せられると
なかなか やっぱり

攻められないということで まあ お互い
ちょっと どうしたものかと。

とりあえずは静観するという状況だった
というふうに思います。

しかし あれ 何で あんな
シンプルだったんでしょう?

柴田軍の。

それがですね たぶん
勝家の戦略を示している

その読み解く手掛かりだというふうに
思うんですけども

どう考えてもですね
こういったところを守って

こう…
秀吉の軍勢が攻め上がってくるのを

食い止めようなんていう感じでは
ないんですよね。

できればですね
野戦に自信のある勝家は

ここから出てきてもらってですね
やっつけたいと。

それで あんまり…

(千田)本当 そうですよね。
羽柴方から見ると

あっ 堀もないじゃん
っていうふうにですね…。

…をしようかな
ということだったんですかね。

その可能性はありますよね。

こういう考えがあるかもしれないですね。
あえてなんですね。

このときに重要なのが…

よく昔 南下すると 京都に行こうぜ
みたいな話になると思うんですが

このとき 恐らく
京都というよりはですね

一度
自分が清洲会議で手に入れたはずの…

これが実は
秀吉に包囲され とられてますよね。

特に清洲会議で決められた
自分の立場の象徴だったはずですから…

で やはり 自分自身が ずっと今まで

最家臣としてですね 最大の家臣として
織田家を支えてきてて

それで まあ 織田が持っている領国を
守るんだということが

恐らく 自分の第一の目的でしょうし

清洲会議で決定したはずの 自分の
居城であるはずの織田の象徴である長浜。

これを秀吉にとられたということで
ここで秀吉とぶつかっておくことで

何かしら 自分の権力といいますか
地位の再構築というのと

あわよくば秀吉を排除したいということを
考えていたんじゃないかなと思いますね。

そうでしょう。 この時代…

もう頼むに足る大将じゃないと。

こんな大将をやってたって
…のところ仕えてたって

「領地とられても
奪還してもらえないんだったら

秀吉のほうがいいじゃないか」に
なるわけですよね。

ただでさえ 主君の敵討ちの光秀を
さっさと討ったのは秀吉で。

そのうえ 分けてもらった領地を
秀吉にとられて

奪還できない勝家ということに
なりますとですね…。

信用がなくなってしまうんですね。
信用がなくなる。

磯田さん いかがですか?
この布陣を見て。

いやあ これ見てね
勝家 もうちょっとね…。

これ思うんですけれども
どんな陸戦でも海戦でも

こういうふうに布陣されたら

大抵 こっち側へ戦力を向けて
潰すべきなんですよ。

そうすると ここ がら空きになるので
いい要塞をですね

もっとすごいのを ここ 造っといてですね
こっちにもこっちにも。

それで 秀吉より すごいようなのを
ここに造っといて もう通せんぼして

自分の北ノ庄だとか福井に
入れないようにしておいて

この権現坂ですよ。 この権現坂が
どういったってね 決勝点ですよ。

だから ここをね とるように
この辺をね やって。

で どんどん こっち側からやっつけると。

そしたら もう いくら こんなすごい

堀 久太郎が
大軍をここに置いてたとしても

使えないんですから。 ここ攻められたら。
もうボロボロにされますよ。

だから こう… どういうんですかね
勝家からすると

こっち側からの右からのアッパーカットを
食わせるという… 食らわせるという

こういう作戦をしなきゃ
いけないんですけど

それに合わせた要塞構築をやってる形跡が
ないですね。

要は こんな所で
戦わざるをえなくなっちゃったので

これは 明らかに秀吉の作戦勝ちですよ
最初から。

もう じゃあ この地で戦うことは
完全に 秀吉に…。

有利な戦いですよ。

さあ あの余呉湖周辺で布陣した
この秀吉軍の戦略を見るうえで

重要となるのが
先ほど VTRでも紹介しました

秀吉の書状ですよね。 こちらです。

出てまいりました。

前線にいる弟 秀長に宛てた
秀吉の指示書ということなんですけれど。

磯田さん この書状は
どう見たらいいんでしょうか?

これね 非常に優れたあの秀吉の

自分たちがこんなに守ってても

負けるパターンに対する対策が
よくできている。

「草刈りをやるのでも

このラインから向こう側に
出ないこと」って書いています。

もっと怖いのが
この前線にいる人たちが

秀吉のご褒美がもらいたいから
手柄を立てようとして出ちゃう。

で 出ちゃったところで「しめた!」…。

袋だたきにする。 死亡。

そうすると ここを守るやつがいない。
突破。

これを想定してますよね ちゃんとね。
そうなんですね。

「絶対に出てはいけない」。
ええ 「いけない」と。

あと感心するのが
戦争じゃないんですけど

ここに塩津って所があるんですが
見てみると

情報封鎖指令というのが
あるんですよ。

この塩津の町も ちゃんと

この戦線よりも向こう側を
ちゃんと見張っといて

旅人や何やらが
みんな こっち側に

秀吉が この むしろ… 秀吉が
どこにいるとかいうような情報が

向こう側に漏れないようにすると。
旅人 足止めみたいな。

そうすると この塀よりも向こう
こちら側で起きている秀吉軍の動きを

向こうに知らせないように指示している。
これは よくできてますよね。

普通はですね こういうのって
大体 戦後に 後日談で書かれますよね。

今の戦争でも そうだと思うんですけど
基本的に こういう…

それを わざわざ こういう形で
残しているというのは 逆に…

そういう読みまでできてしまうぐらい
不思議な…。

でも よくできすぎてるぐらいの
書状戦略だと思いますね。

今 島田さんもおっしゃったように
大変危ないという。

まあ 今に残っているのも
不思議なんですけれども

普通は 焼却処分とか 捨てたほうが
いいような内容の文書ですよね。

だから ちょっと不可解ですね
これが残っているというのが。

いや これ やっぱり
秀吉が抱えてた戦場が広かったことと

口頭で人間に伝えさせるよりは
やっぱり あんまり秀長 あの…

その場で お兄ちゃんに ちゃんと
指示してもらわないと

不安があったんでしょうね。
だから 弟へ

ちゃんと このとおりやれば
大丈夫なんだと。

何せ…

お兄ちゃんが「こうしときゃ大丈夫だから。
これさえしとけば大丈夫だ」という

手紙ですよね たぶんね。

秀吉に敵対する

信長の三男 信孝と
滝川一益が

突如 美濃で挙兵。

前面には勝家軍。
その背後で挙兵した信孝・一益連合軍。

秀吉軍は
両軍に挟み撃ちにされた格好になる。

まず ここは
防御に徹することはどうであろうか。

秀吉の書状にも こう記してある。

「惣構えから先へ

一人の足軽も
出さずに

守りに
徹しさえすれば

敵は動きが
とれなくなるであろう」。

秀吉軍にとって防御に徹することこそが
最善の策ではないだろうか。

下手に動けば 両軍の均衡は崩れ
惣構えを突破される可能性もある。

こんな項目も記されていた。

「もし敵が 五日 十日と
攻めかけてきたとしても

相手の様子をうかがいながら
ゆうゆうと合戦に及ぶべきである」。

防御に徹していれば
勝家軍も攻めあぐね

長期の滞陣となり
兵糧も枯渇する。

いずれ勝家軍は
北陸へ撤退せざるをえなくなるだろう。

一方 秀吉には 別の選択肢もあった。

軍を二手に分け
敵を各個撃破するという戦略である。

秀吉の書状に こうある。

「秀吉みずから兵を率いて播磨へ向かう。

その間 前線の秀長より
注進がくれば

姫路から
引き返そうと思うが

日数は
かかるであろう。

だが 秀吉が
姫路に滞在する間は

決して
出撃してはならぬ」。

まだ これ
4月の3日の段階ですけれども

自分は
播磨のほうに…

これはですね やっぱり 毛利がですね

もしかすると
攻めてくるっていうことも

あるかもしれないっていうことで。

秀吉は 勝家だけでなく

周囲を
敵に囲まれている。

敵の動向に気を配り

それに対応しなければ
ならなかったのである。

あくまでも防御に徹するべきか。

それとも 軍を二手に分け
それぞれの敵を討伐すべきか。

秀吉に選択の時が近づいていた。

新たな敵の出現で
挟撃の危機に迫られた秀吉の選択です。

このまま防御に徹するか

それとも
軍を分け 分散し 敵を討ちに行くべきか。

皆さんだったら どちらを選択しますか。

小谷さんは どちらにしますか?

私は 防御に徹するほうを選びたいと
思います。

まあ 当面の秀吉の最大の敵というのは
柴田勝家であると。

これは もう間違いはない。
で その勝家に対して

もう鉄壁の防御の守りを
敷いているということでありまして

普通でしたら これを維持するというのは
当然の成り行きだというふうに思います。

もう一つは やっぱり その
前田利家などが布陣してるですね…。

あっ どうもありがとうございます。

…になってるわけですよ。

ですから ここで 秀吉の本隊が
抜けちゃうと 相手から見えますので

守りが手薄になったと。
攻めるなら今だということで

バ~ッと襲いかかってこられる危険性が
ありますので

やはり その陣を固く守っておく
ということが

私は いちばん この段階では
重要だというふうに思います。

島田さん いかがでしょうか?
私はですね

「軍を二手に分ける」。
この選択を選びます。

どうしてでしょう?
これはですね

もともと
この賤ヶ岳の戦いの目的というのが

清洲会議で一度決まってるはずの
織田家の跡目ですよね。

今後の その未来をどうするのか。

で ここで…

今 その信孝が
まあ 滝川と一緒にですね

蜂起して 再度 こちらに
刃を向いてきているという点では

今 いちばん たたくにはいい時期だと。

ただ これ 大事なのは 三男 信孝を
殺してしまってはいけないんです。

それで 基本的に
信孝の首根っこもつかみますが

彼を担ぎ出そうとしている勝家の
首根っこも つかむことになりますので

正当性という意味では
自分が2人 持っていると。

信雄と信孝を持っているというのが

まあ 今後を戦う… 特に
織田家の中での主導権を取りたいんだ。

自分こそが今後のリーダーだと
言いたいのであれば

こちらの戦略のほうが 恐らく
現実的だったんじゃないかなと思います。

ということは
2人は意見が分かれましたが

千田さんは どうしますか?
はい。

私は「防御に徹する」を選びたいと
思います。

このとき 秀吉はですね
多方面に敵を抱えていましたし

確かに
あの織田信孝とかですね 滝川一益が

南から来る可能性というのはあって

それをたたくというのは
効果的だと思うのですが

その一度にですね 多方面の敵と戦って
兵力を分散して

万が一 負けてしまうと…

本当にリスクは高い
っていうことだと思うんですね。

で 逆にですね ここで
あの柴田勝家を抑え込んでしまう

防御に徹して
南下させないということになれば

長浜城を失った勝家は ついにですね

秀吉に屈して
国に帰らざるをえなかったというですね

まあ これは本当に 秀吉にとっては
これで正当性というのか

「勝負あった」ということに持ち込めると
思うんですね。

で そんなことでいいますと やはりですね
秀吉としては

防御に徹するというのが
よかったというふうに思います。

さあ それでは
秀吉の選択に迫ってまいりましょう。

秀吉 対 勝家
最初で最後の直接対決が始まります。

天正11年4月の中頃。

秀吉は 軍を二手に分け

信孝・一益連合軍を討つべく

岐阜へ向かった。

秀吉不在の前線は 弟 秀長が担った。

ところが…。

(雷鳴)

大雨により 揖斐川が氾濫。

岐阜城への道は閉ざされていたのである。

秀吉は 岐阜城からおよそ20km離れた

大垣城にとどまり 敵の出方をうかがった。

その4日後…。

秀吉の不在を知った勝家軍が
突如 動き始めたのである。

勝家方の猛将 佐久間盛政が
惣構えを避け

ひそかに尾根伝いに迂回。

秀吉軍の中ほどにある大岩山砦に
突如 攻撃を開始。

「中入り」と呼ばれる戦術であった。

思わぬ敵の奇襲攻撃。 奮戦する秀吉軍。

だが…。

このとき 秀吉方の有力大名
中川清秀が討ち死に。

記録には
「清秀のほか 六百余人が戦死」とある。

秀吉軍にとって大打撃であった。

勢いに乗った
盛政軍は

岩崎山砦も
陥落させた。

勝家本隊は前進。

惣構えに
一気に猛攻をかける。

惣構えを突破しようと攻め立てる勝家。

秀吉軍が崩れるのは
もはや時間の問題に見えた。

だが 秀吉は
こうした不測の事態に備えていた。

「前線の秀長より注進がくれば
すぐに引き返す」。

「秀吉が戻るまでは

勝手に
出撃してはならない」。

揖斐川の氾濫により…

秀長から注進を受けた秀吉は

作戦どおり すぐさま兵をまとめ
前線の木之本を目指した。

大垣から およそ52km。

その道のりを
僅か5時間で駆け抜けたという。

木之本へ
たどりついた秀吉。

勝家軍は
いまだ惣構えを突破できていない。

秀吉は 敵中で孤立した盛政軍を追撃。
そのときである。

勝家方の武将 前田利家が
突如 陣地を放棄したのである。

秀吉に調略されていた武将たちが
勝家に見切りをつけた瞬間であった。

これにより…

その僅か2日後
秀吉軍は 勝家の居城 北ノ庄城を包囲。

勝家は 信長の妹 お市の方と共に
自刃して果てた。

勝敗は決した。

戦い直後に書かれた毛利宛ての書状で

秀吉は
こう豪語している。

「東は北条
北は上杉まで

すでに
秀吉に従っている。

毛利が秀吉に
従うことになれば

日本は 源 頼朝公以来

一つに
まとまることであろう」。

猛将 柴田勝家を下したことで
天下人の後継者となった秀吉。

賤ヶ岳の戦いこそ まさに秀吉にとっての
天下分け目の決戦であった。

結局 戦いは秀吉の大勝利となりました。
皆さんに

勝敗を決した戦いのポイントについて
伺いたいんですけれど。

この戦いは最初から秀吉優位に
進んでおりましたので。

逆に その柴田側から見た場合
どうやって これを

ひっくり返すかというところがポイントに
なってくるかというふうに思います。

で 一つ ありえるとしたら
秀吉軍をつり出してですね

あの狭隘な北国街道でたたくと。

狭いですもんね あそこは。
そうです。

ただし つり出しには
乗ってこなかったということで

次に出てくるのが
あの佐久間がやりましたですね

奇襲作戦。
あれ自体 有効に見えましたけど。

あれはとてもいい作戦だったというふうに
思いますけれども。

ただ あの…

というのは?
結局…

もし挟撃がうまくいってれば なんとか

あの前線は崩壊したんじゃないかと。

いや これがね 小兵力で
こっち側に奇襲をかけるんですよ。

これ 指で
つついてるぐらいの話なんですよ。

もっとね アッパーカットでね
もうガッツリ出てきていいんですよ。

グーパンチになっていないんですね。
ガ~ンとやってね もう こんなの

死のうが何しようが もう とにかくね

崩壊して この辺に出現させるわけですよ。

そしたら もう逃げますよ これ 絶対。

ケチっちゃダメなんですよ。
もう ばくちなので

もう賭けなきゃダメなんです そこは。
そうです。

もう 古今東西
挟撃されたほうは間違いなく混乱します。

その混乱に乗じて相手を倒すんです。

実際に この別所山の砦ですね

あの利家たちが布陣していた場所に
行ってみますと

実は この場所というのは まさにですね
絶好の場所にありまして。

…というのがよく分かります。

つまり 利家というのはですね

まあ 最終的に 激戦…
どっちに勝つか負けるかというときに

もう戦場から撤退していくというですね

決断をしちゃった
ってことになるんですが

やっぱり こういう要の場所に…

やっぱり こういう
大事な場所にはですね

絶対 勝家についていきますという

そういう武将を配置しとかないと
やっぱり いけなかったというですね…。

その点でも やっぱり…

…というところがあったんじゃないか
というふうに思いました。

島田さん いかがでしょう?
そうですね。 1つは…

何のために そもそもこれをやったのか。

で 2つ目は…

1つ目に関しては やはり この迂回作戦。

佐久間にやらせた迂回作戦に

自分自身も一緒に来ればよかったんです。

もともとの目的は…

…であったとしたら
横から「うっしっし…」と来てですよ

そのまま 南へ行って戦わずして そのまま
長浜に行ったっていいわけですよ。

逆に言うと。 そうしてしまえば
本来の目的は果たせたわけで

逆に 長浜を落としたうえで

「とり戻したぜ」っていって
「さあ どうすんだ? 秀吉君」というのも

一つのやり方だったかもしれません。

2つ目は やはり よくいわれていますが

柴田勝家自身は とてもいい人だった。
いい人すぎたとよくいわれています。

よく 自分の領民からも
すごく慕われていたというような話も

聞いたことあるんですが。
大体ですね 今でも そうなんですが

どこかで 私は 紛争調停をするときでも…

で 弱いです 実際は。
やっぱり どこか ちょっと

この人 悪いなと思うようなところが
あるから それが面白いんですが

いい人すぎる方って
大体 そのまま消えていっちゃう。

しかし あの… すごく
個人的な意見なんですけど

秀吉 早くないですか?
早いですね!

帰ってくるの。 どういうことですか?
52kmの距離を5時間?

恐らく 勝家軍の動きを…
あんまり記録には残ってないけど

狼煙か何かで早く知るということと

それと…

この辺はね 分からないですよ。

でも「中国の大返し」だとか
いろんなときに

軍を早く動かせる特別な… 彼は
方法を持ってた可能性がある。

機動力があれば
相手を包囲 殲滅することもできますし。

何か違う地点にいて
また戻ってくることもできますし

戦いの基本だというふうに
基本の要素だというふうに思います。

いや それはね…

F=パワー。 フォースは 要するに…

あの打撃力というのは。

仕事でも そうですよ。

実は 速度の速いことっていうのは
拙いとか拙速とかいうけど

拙速上等なんですよ。

拙速ほど 拙く速いことほど
強いものは本当はないんです。

競合している者の戦いは。

日本人は時々「拙速になるので…」って
「完璧にするまでやらない」とかって。

あれはダメですよ。
学びました 今。

しかも 勝家にとっては
相当 恐怖ですよね。

「早っ!」みたいな。
「もう帰ってきたんかい!」みたいな。

さあ その秀吉と勝家の戦いを
見てきましたが

賤ヶ岳の戦いとは
どういった意味付けの合戦だったのか。

千田さんは どう思いますか?
はい。

戦国時代 たくさんの合戦があって
その中に お城を攻めるというときに

お城の周りに… 「付城」といいますが

包囲するお城を造って攻めるというのは
まあ よくされていました。

しかし こういう野外の合戦で

両軍の主力が激突するというところで…

秀吉が
こういったお城を使って いかにですね

有利に戦いを進めるかということを
まあ 発明したというのか

それを見事に実現したのが この
賤ヶ岳の合戦だというふうに思います。

まあ すごい男だよね。 それまでね…

だけど この一回にかぎっては

もう 自分の 秀吉の
親衛隊の部下たちが七本槍となって。

それで敵の陣を しかも…

これは
すごいですよ。 でも このあとダメですよ。

家康には 長久手の戦いで

コテンパンにやられ… あの派遣軍が。

小田原の戦いも
城攻めが上手なはずの秀吉は

講和で城を開かせないといけなかったと。

あとは もう朝鮮へ攻めて

ああいうことになっちゃうわけで。

秀吉にとっては まあ
最後の青春の戦いというか

唯一の野戦の輝かしい戦
というものですよね。

皆さん 今日は 本当に楽しい

賤ヶ岳の戦いのね
語り合いになりました。

ありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。


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