逆転人生「甘さが人気 ブランドねぎ誕生 日系人が壮絶な奮闘」荒れ地を手作業で開墾!?大雪に病害…


出典:『逆転人生「甘さが人気 ブランドねぎ誕生 日系人が壮絶な奮闘」』の番組情報(EPGから引用)


逆転人生「甘さが人気 ブランドねぎ誕生 日系人が壮絶な奮闘」[字]


シェフも賞賛!甘さが人気のブランドねぎ。生産者はもともと出稼ぎに来た日系ブラジル人。荒れ地を手作業で開墾!?大雪に病害…逆境を何度も跳ね返す逆転パワーの源は?


詳細情報

番組内容

主人公の斎藤俊男さんは、日系ブラジル人2世として生まれた。出稼ぎのため来日したが、あこがれの祖国で一旗あげるため起業。しかし「外国人の壁」に直面し、なかなか信用を得られなかったという。農業ビジネスを志すも、当初、簡単には農地を貸してもらえず。その後ねぎ栽培が軌道にのった後も、風評被害にあうなど壮絶などん底の連続だった。ブラジルに渡り、ゼロから森を開墾した日系人たちの魂を受け継いだ熱き男の逆転劇。

出演者

【司会】山里亮太,杉浦友紀,【ゲスト】斎藤俊男,【出演】デーブ・スペクター,高橋みなみ,アンジェロ・イシ,【語り】平野正人


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逆転人生「甘さが人気 ブランドねぎ誕生 日系人が壮絶な奮闘」
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  15. 祖国
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  18. ハウス
  19. リーマン
  20. 仕事


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こちらは 千葉・舞浜にある
大型リゾートホテルの厨房です。

全国から よりすぐりの食材を仕入れる
総料理長が

特に ほれ込む食材があります。

それが こちらの…

このねぎと出会ったことで
ある人気メニューが生まれました。

たっぷりのねぎを煮込んで作る
クリームスープです。

お客さんの反応は?

首都圏でチェーン展開する…

このブランドねぎを なんと年間を通じて
仕入れているそうです。

今や 全国1, 200店舗のスーパーと

500店舗の飲食店に流通。

生産元の農業法人を立ち上げたのが…

現在は日本国籍を取得しましたが

もともと ブラジルから出稼ぎに来た…

祖国で成功を収めたい。

ジャパニーズドリームの実現を
農業に かけました。

ところが…。

農地を貸してもらえず
たどりついたのは ひどい…

大きな重機などを買えず なんと…

栽培が軌道に乗っても

度重なる病害や 記録的な大雪など

次々とアクシデントに見舞われました。

(斎藤)また借金だなと。

壮絶な逆境を何度も はね返してきた

主人公の…

その源泉は じつは
あなたの中にも眠っているんですよ!

♬~

私が生まれ育ったブラジルには

現在 およそ200万人の日系人がいると
言われています。

集団移住が行われたのは
明治時代の末期から昭和40年代まで。

不況で働き口がなかった若者など
およそ 25万人が海を渡りました。

昭和14年に
移住した私の父も

異国の地で必死に
生き抜いてきた苦労人。

そのせいか 私には
とても厳しい父親でした。

道行く人には 必ず挨拶をする。

義理人情を重んじる。

(かしわ手)

おろそかにすると
鉄拳が飛んでくることもありました。

時代が変わっても
父の中の日本のイメージは戦前のまま。

移住したことで
時計が止まっていたのです。

なるほど!

大学を卒業した私は
憧れの日本に やって来ました。

いわゆる出稼ぎ労働者として
地方の町工場で働くことにしたのです。

当時はバブル全盛期。

日本人たちの生活を見て
私は目ん玉が飛び出るかと思いました。

(スタジオ 笑い声)

更に ショックを受けた
出来事がありました。

(斎藤)えっ 20万?

私は ひとつき分の給料を貸しました。

日本人 すばらしい人だってね
お父さんの教えがありますから。

しかし数日後
彼は黙って姿を消したのです。

激しい失望に駆られた私。

一方で
心を慰めてくれる出来事もありました。

職場の同僚が 日本語の単語カードを
作ってくれたんです。

(高橋)え~ 優しい!

こうした親切を支えにして
私は日本で働き続けました。

来日から2年。

ある程度 日本語が話せた私は

ブラジル人労働者と日本企業の通訳を
頼まれるようになりました。

そこで意外なことを言われたのです。

それは 日系ブラジル人を
企業に派遣する会社を

つくったらというアドバイスでした。

当時 工場などは
なかなか日本人の若者を獲得できず

人手不足だったのです。

憧れの祖国で起業し 成功を収める。

私の頭の中は ジャパニーズドリームで
いっぱいになりました。

そして すぐに資本金を蓄えるため
転職を決めたのです。

その仕事が…。

私は すこぶる報酬が高かった
送電用鉄塔の作業員になりました。

当時 妻のおなかの中には
初めての子どもがいました。

それでも迷わず
危険な現場で働き

2年間で 300万円を
ためたんです。

間もなく私は 埼玉の自宅アパートで
事業をスタート。

数年前に入国管理法が改正。

日系人の在留資格が緩和されて

来日者が
急増していました。

このビジネスは 彼らの支えにもなれると
はりきって営業に向かったんです。

ところが…。

外国人が経営者だ
というだけで怪しまれ

なかなか
契約してもらえません。

資金が底をつき
金融機関に融資を頼んでも

同じ理由で断られてしまいました。

あっという間に八方塞がりになった私。

そんな時 頭に思い浮かんだのは
父親からの教えでした。

私は少年時代から
その言葉を固く信じて

武道の練習を続け
全国大会出場も果たしていたんです。

(高橋)すご~い。

その後 諦めずに打開策を
考え続けていると…

あるアイデアを思いつきました。

外国人の子どもは日本の保育園などに
なかなか なじめず

親たちが仕事を休みがちだと
聞いていました。

在日ブラジル人向けの保育所があれば

労働者だけでなく派遣先の企業も
安心できると思ったのです。

起業から2年後
私は妻の協力も得て保育所を開設。

更に 私が自ら車を運転して
労働者の送迎も行い

彼らの寮も
つくりました。

(山里 高橋)ええ~!

会社として信用が得られる体制を
整えれば

外国人という壁も乗り越えられるはずだ。

間もなく 工場などからの受注が
次々と舞い込みました。

派遣労働者は 400人を超え

在日ブラジル人の小さなコミュニティーが
出来るまでになったのです。

私は自分への ご褒美にと 高級車も購入。

祖国で成功を収めたと
得意になっていました。

ところが 予想外の出来事が起きたのです。

2008年
リーマン・ブラザーズが経営破綻し

金融不安が世界中に広がりました。

そんな…。

突然の「派遣切り」。

瞬く間に取引先は
⅓になりました。

私が祖国に来て抱いた
ジャパニーズドリーム。

その実現が あっという間に
遠のいてしまったのです。

来日したら それまで抱いてた
祖国のイメージとは

もう全く違ったわけですよね。
(斎藤)全然 違うんですね。

頭にも そういうのは全然。

これ 違う国じゃないかと。
あっ 来た時に。

もうね 空港に着いたら髪の毛が金髪
みんなジーンズ買ってて

更に そのジーンズ
一回 破れたりとかして

女性が もう みんな
ミニスカート 当時。

だから 「あれ? 違うんじゃないかな」と。

飛行機 着いた場所 あの聞いてた日本と
あまりにも違いすぎて。  そうですよね。

デーブさん ギャップとか感じました?

若大将の映画 大好きで
加山雄三さん大好きで

日本行けば加山さんみたいな人
いっぱい いると思ったら…

そりゃそうですよ。
(笑い声)

たかみなは どうですか 芸能界に入って
ギャップ感じたこととかあります?

そうですね これ言ったら甘いって
思われちゃうかもしれないんですけど

オーディションに受かったら
すぐ芸能人だと思ってたんですけど

なかなか受け入れてもらえなかった
っていうのはありましたね。

ちょっと大変な思いは
してたんだ その時に。

そうですね。
はあ~ なるほどな。

知ってるの? デーブさん。
(高橋)うれしい。

(笑い声)

これはデーブさん 今日 相当調子いいぞ。

(高橋)いっぱい出てきますね。

やばい デーブさん
今のギャグ使われるかもしれない。

なぜかっていうと斎藤さんが
めっちゃツボに はまってました。

「アイタカッタか。 なるほど」。
(笑い声)

でも斎藤さんと共通感 覚えます。

やっぱり同じ日系人でもブラジル行っても
アメリカ行っても 苦労が似てるし

父親 家族が持ってきた価値観
っていうものは そのまんまなんですよ。

VTRでもね 絶対に諦めるなという言葉が
出ていましたけど

お父さんの教え
他にも じつはあるんです。

こちら。

頑固一徹 しっかりした お父さんからの
教えって感じしますけども。

やっぱり子どもの時から
ずっと そういう教えがあったから

自分も日本へ来て
商売できたんじゃないかなと。

日本の文化って分からなければ やっぱり
商売も成り立たないと思いますよ。

アンジェロさん こうした教えは
日系ブラジル人の間では

大事にされていることなんでしょうか?
もちろん そうです。

ブラジルでの やり方とかというのも
しっかり吸収しつつも

しかし もう まさに
タイムスリップじゃないけど

今の日本にはないくらいの…

それを しっかりと応用していく
ということなんですよね。

へえ~!
斎藤さんの支えになったのは

あの お父様の教えだけではなくてですね
VTRにもありましたけど この単語カード。

同僚の存在も
非常に大きかったんですよね。

今日は こちらの実物
持ってきて頂きました。

え~!? すごい 手作り!

わあ~ すてき!
手作りだわ。

(斎藤)後ろに音読み訓読みがあって。
(高橋)ほんとだ~!

これ でも何が すごいって

似てる形の漢字を並べてくれてるんですね
間違えないように。

(斎藤)そうですよね。
読み方とか あと書き方。

「売る」って文字と あと「読む」っていう字。
(高橋)ほんとですね!

パッと見た感じね。
(高橋)似てる。

間違っちゃいそうなやつを
ちゃんと並べて。 こまやかな。

(斎藤)そういうとこは やっぱり…

日本人の こういうとこって
すごいんです

こういうことに憧れてるんです
っていうのを聞く度に

僕らが今 果たして
それが自分たちが できてるだろうか。

ちょっと 胸チクチクするよね。
はい。 自分を見つめ直します。

でも どうですか 日本人って みんな親切
だというふうに聞いてたじゃないですか。

それでも なんかこう あたった…
外国人の壁というのは感じられました?

やはり自分も ある会社に
大手の会社だけども

私は こういう技術があるから できたら
正社員として雇ってもらいたいと。

はっきり もう言われたんですよね…

はあ~ やっぱ その壁は高いんですね。

アンジェロさん やはり この外国人の壁を
感じる日系人の方って多いんでしょうか?

それは もう いろいろなね
言葉の壁 心の壁などを

彼らは感じてきたわけですけど
まあ 自虐的なジョークで

出稼ぎで来た日系ブラジル人が
自分は日本に来る時に

すごく祖父母から聞いていた
日本は もうハイテクの国だ

ロボットが いっぱい そこら辺にいる
だろうと思い込んでた。 全然いなかった。

で 自分が ずっと働いてる
工場のラインで

休憩時間にトイレに行って
鏡を見たら ひらめいたんだと。

あっ なるほど ロボットって
ここでは自分のことなんだとね。

随分 皮肉なジョークですね それは。
(アンジェロ)でも 結構リアル。

そういうことだったんですね。

それでも ようやくビジネスを…。

軌道に乗ったところで
リーマン・ショック。

そうですね 10年で会社は成長してきて

ほんとに天国のとこまで行って
そこから急に地獄。

確かに。

このリーマン・ショックのあと たくさんの
ブラジル人の方 帰国されてますよね。

一緒に帰ろうっていう気持ちには
ならなかったんですか?

やっぱり自分だけだったら帰ってもいいと
思ったかもしれないんですけども

でも まだ社員がいたり 家族がいたり
学校も やっぱり子どもたちもいたし

そこが私 ほっとくはいかないと思って。

やっぱり 責任っていうか
できるとこまでは頑張ろうと。

リーマン・ショックから
4か月。

結局 430人いた労働者のうち…

在日ブラジル人たちは
次々と帰国を余儀なくされました。

私の生活も崩壊寸前。

労働者たちの寮や
スポーツ施設を整備するため

4億円の借金を
していたのです。

日本への滞在を希望する仲間のために
何か仕事を見つけなければいけない。

途方に暮れていた時
あるものに目が留まったんです。

それは…

農家の後継者不足が深刻で
あちこちに ありました。

これを借りて みんなで農業をすれば
食べていけるのではないか。

すぐに失業中の労働者たちを集めました。

私は農業については
ズブの素人。

関係者との つながりも
全くありません。

再び…

それでも6人が ついていくと
言ってくれたのです。

♬~

早速 私は農地を貸してもらおうと
耕作放棄地の地主たちを訪ねました。

はい。
(2人)こんにちは。

ところが…。

今思えば 意地悪ではなく

先祖代々の土地を見知らぬ素人に貸すのが
不安だったのだと思います。

以前 別の外国人に土地を貸して
荒らされたという

苦い過去もあるようでした。

それでも地元を回り続けていると
ある土地に行き着いたんです。

草や木が伸び放題。

以前は植木屋さんが
借りていましたが倒産し

放置されたままでした。

でも ひどい荒れようだからこそ
可能性があるかもしれない。

私は早速6人の仲間と
開墾を始めました。

大きな重機はなく 木は手作業で
切り倒すしかありませんでした。

深く張った根を抜くのは
一日がかりの重労働。

瞬く間に体は悲鳴を上げました。

うわ~ これ 時間かかるな~! 大変!

昔みたいね。

お父さんの教えですか?

私の胸には 日系ブラジル人たちの
歴史が刻まれていました。

当初は ほとんどの人が
農場の雇われ労働者。

低賃金で…

しかし その後 農家として独立し

ゼロから森を開墾。

成功を収めた人が
数多くいたのです。

私たちは3か月間
ひたすら荒れ地を開墾し続けました。

(高橋)3か月ですか!?
すごい!

ようやく畑らしくなってくると

自慢だった愛車を売って
小さな耕うん機などを購入。

キャベツやブロッコリー
ねぎなどを植えてみました。

当然 素人同然の私たちが育てても…

でも その野菜が意外な評価を受けました。

更に私たちの姿を見て 栽培のしかたを
指導してくれる農家も出てきました。

伊藤嘉昌さんも 後に私の
協力者になってくれました。

地元の農家たちは 一体
何を感じてくれたのか?

教わった技術を実践するうちに
特に ねぎの品質が大きく向上。

市場でも評価を受けるほどのレベルに
なりました。

手応えを感じた私は
一度は破れたジャパニーズドリームを

再び掲げることにしました。

ねぎを専門に生産する
農業法人を立ち上げ

祖国で成功を収めてみせる。

ところが…。

幸い 埼玉にある私の畑に
大きな被害はありませんでした。

しかし 放射性物質の危険があるのでは
ないかという風評が広がり

ねぎが全く売れなくなったのです。

私の夢は またしても
振り出しに戻ってしまったのです。

いや すごい。 ほんと すごい。

やればできる。
だって我々のね もとをたどれば

日本人っていうのは あんな状況でも
これだけ できたじゃないかっていう

その「やればできる」の基準値が
ものすごいハードル高いから

いろんな困難でも
越えさせちゃうんですね。

やっぱり頑張らないと
あの時は ほんとに…

(斎藤)…っていうとこまでいって

何かやらないと 待ってても結局
お金が入らないじゃないですか。

そうか しかも仲間もいますしね。
もちろん そうですよね。

たくさんの方々の人生を背負ってる
決断なわけじゃないですか。

それを ご自身が まだ農業の
知識だったり経験がない中で

「やります 農業に変えます」
っていうふうに言うのって

すごい力がいること
なんじゃないかなって。

自分 ここに偉そうに
立ってるかもしれないんですけども

やはり皆様の力があったからこそ
私たちも ここまで来たと思うんですよね。

その引っ張る力が すごくないですか。
だって たかみなも言ってもね

大きなグループの総監督として…。
全然 比にならないです。

たかみなが ほんとにもう ぶっ倒れる
寸前ぐらい全力で頑張ってる姿を見て

サボれないなと思って頑張った子たちも
いたんじゃない? 後輩とかで。

「あっ やんなきゃいけないんだ」って
思ってくれたのかなって思うと

6人の その従業員の残った方々
ついていくっていうのは やっぱり

社長が自ら やってたっていうのは
大きいですよね。    納得ですよね。

あれ 遡れば もともと日系人が

海外 ブラジルやハワイに移民したのは
貧しかったから。

農業しかないんですよ 仕事はですね。

で いちご畑とか
いろんな成功者が出てきたんですよ。

ある種の なんかこう…

日系1世の移民たちが日本から
100年以上前にブラジルに渡って

そこで まずは農業からスタートした。

日本で今度は斎藤さんという
移民の第1世代が

リスタートの方法として農業をやっている
というのは 感じるものがありますね。

この決断に至るには
納得の流れがあったということですね。

つながりがある感じがしますよね。

できますか? デーブさん
3か月間ね 手作業で開墾ですよ。

(笑い声)
それが できないって話してんの!

でも まだ逆転してませんからね。
そうなんですよね。

逆転したつもりで聞いてましたけども。
そうなんです。

その後 斎藤さんは
ねぎの栽培を軌道に乗せ

農業ビジネスで成功するという
ジャパニーズドリームを抱きます。

その実現のために考えたのが

「独自ブランド化」
ということだったんです。

ちょっと こちら ご覧下さい。

それまでは市場に収穫物を
おさめていました。

販路は確保されているなどの
メリットはあるんですけれど

手数料がいるなど
市場のルールもありますよね。

で 斎藤さんは…。

独自に小売店と取り引きすれば
手数料がないほか

自分で価格を交渉できるなどの
利点があると考えました。

しかし 直接 大手スーパーなどと
取り引きしてもらうためには

より高品質な ねぎを 大量かつ安定的に

生産する必要があったんです。

斎藤さん これ 利点あるのは
分かるんですけどリスクもありますよね。

(斎藤)もちろん リスクはありますね。

いつも自分自身は 自分は できると。

もう 「負ける」っていう選択を
頭に入れない。

風評被害の損害は深刻でしたが

東京電力からの賠償金などで賄い
なんとか事業を続けていました。

そんな中 私は会社の未来をかけて

ねぎの独自ブランド化を
進めることにしたのです。

私が まず取り組んだのは

安定的に大量の ねぎを
生産する体制づくり。

かつては 農地1つ借りるのに
苦戦してきた私たち。

しかし このころは貸してくれる
地主さんが次々に見つかりました。

じつは 地域に理解を広げられた
きっかけも父親の教えにあったんです。

農業を始めた当初から 私たちは

ゴミ拾いや草刈りなどの行事に
積極的に参加してきました。

特に力がいる作業は
うちの若者たちが重宝されたんです。

後継者不足が続く中
地域の担い手として

少しずつ受け入れられる
ようになったのです。

農地を広げるのと同時に
私は品質の改良にも取り組んでいました。

独自ブランドとして認めてもらうには

なんといっても 味が勝負です。

違うものを作って…

私は各地で開かれる肥料の展示会に
足を運び ヒントを探しました。

そこで見つけた
サンゴの粉や納豆菌 アミノ酸など

いいと聞いたものは
片っ端から試してみました。

そうした努力の結果…。

以前より甘みが増し 肉厚になったんです。

出荷の仕組みにも 一工夫。

皮むき 選別から梱包までができる
工場をつくり

即日配送できるように
したのです。

こうした努力が実り
外食チェーンなどと契約が成立。

しかし ねらいの本丸は 大量の受注が
見込める大手スーパーとの年間契約。

そのためには大きなハードルが
1つ残っていたのです。

私たちにとって
ネックになったのは

春や夏に出荷する
ねぎの栽培でした。

冬の寒さの中 ハウスなどで
ねぎを成長させるのは難しい作業。

そのノウハウが なかったのです。

それでも私は借金をして
たくさんのハウスを建て

冬場の栽培に挑みました。

すごいな~。

ハウスでは温度管理や水分調節に
細心の注意が必要。

その塩梅が分からず
何度も病原菌が繁殖しました。

ねぎが次々に枯れてしまったんです。

そんな時 またしても
自然の猛威に襲われました。

私の畑がある地域は
積雪65センチ。

記録的大雪でした。

急いでハウスに駆けつけると
信じられない光景が広がっていました。

これまでも
リーマン・ショックでの派遣切りと

原発事故の風評被害で

積み上げたものが
ゼロになりました。

その度に 父からの教えや
日系ブラジル人たちの歴史を思い出し

自分で自分を奮い立たせてきたのです。

しかし この大雪の時は
全く違う形で逆境に立ち向かいました。

ある農家との間に
強い絆が出来ていたのです。

彼自身も大雪で大きな被害を受け
大変な状況。

それでも私を励まし

ハウスでの温度管理や
水分調節のコツを教えてくれました。

父親が しつこいほど口にしていた

日本人の心根の すばらしさ。

時代は変わっても受け継がれているのだと
実感しました。

翌年 私たちは冬場の栽培を成功させ

一年中 安定した量を
出荷できるようになりました。

すると チェーン展開するスーパーとの
年間契約が次々と成立したのです。

栽培を始めて 10年。

今や出荷量は…

すごいな!
(高橋)すごい!

全国1, 200店舗のスーパーに加え
500店舗の飲食店に ねぎを送っています。

農業法人の従業員は 40人に増えました。

そのうち日系ブラジル人は 25人。

地元の人たちとの関係も
少しずつ深まっています。

このねぎが甘いのは きっと肥料や
栽培技術のせいだけじゃない。

一本一本に日系ブラジル人の魂が
息づいていると感じています。

(拍手)

すばらしい。
(アンジェロ)ブラボー!

(高橋)ちょっと感動しちゃいましたね。

ほんとに何度も何度も困難が
襲ってくるのに それを越えて

そして チャレンジし続けた結果
ああいう形で実を結んでいくっていう。

ねぎ食べたいなって思いました。
(デーブ)めげないところが立派ですよね。

もちろんブラジルから引き継いだものや
お父様の教えもあっても やっぱり

斎藤さんご自身の前向きさ
明るさ ポジティブさが

語ってると思うんですよね。

最初はね 農地1つ
貸してもらうこともできなかった。

それが徐々に徐々に
この本気度を見て みんなが地域が

少しずつ つながってったっていうのは
ほんとに すごいですね。

やっぱり そこも地元の人の感謝
っていうのもあるんですよね。

信頼や つながりを築くために 何か
努力してることとかってあったりします?

なかなか お話しできてないなって
いうふうに思っていたメンバーとは

1対1で ごはんに行ったりしてました。
あんだけ たくさんいるのに?

そうですね。 ちょっと口数
少なかったりする子とかを。

デーブさん あります?
信頼に つながるような… 築くためって。

ですよね。

(デーブ)結構 楽なんですよ。

今日のV 送りますんで
もう一回ちゃんと見て。   (笑い声)

さあ ここで斎藤さんのねぎを
皆さんに味わって頂きましょう。

皆さん 前へ どうぞ。
(高橋)うれしい。

正直 今日 いつか食べれるかなと思って。

シンプルだね これ。

ねぎだけを焼く ねぎ串で
食べて頂きますので。

ちょっと どうぞ どうぞ。
じゃあ たかみな。            1本ずつ。

(高橋)香りが良くないですか? すごく。
いいですか いいですか。

デーブさんも いいよ。

いただきます。 あっ いい香り。
熱いですよ。

(斎藤)中から…。
そう。 中からギュッと。

(デーブ)あっ 甘い。
おいしい!

ものすごく甘いです。

甘っ!

甘い!
何これ!?

何も つけてない状態で?
うまみが もう。

これ何も もちろん足してないですよね。
何もないですね。 ただの ねぎ焼いただけ。

これ あのVTRの中で 生でも
食べてらっしゃったじゃないですか。

これ 生でもいけるんですか?
(斎藤)大丈夫ですよ。

(ねぎを食べる音)
いい音。

(高橋)おいしい おいしい。 みずみずしい。
あっ みずみずしい。 甘い。

これは さすがに生ですから。
(斎藤)初めは甘いんですけども

あとが その からみ
ガーってくるんですよね。

(笑い声)

(デーブ)おいしい ほんとに。

私は 在日ブラジル人が通う学校も
運営しています。

現在は
小学生から高校生までの59人が在籍。

学習のベースは
ブラジルのカリキュラムです。

その一方で 日本語や日本文化についても
しっかり教えています。

日本人との間には まだまだ高い壁がある。

でも2つの国を よく知る人材が育てば
その現実が変わっていくと信じています。

おいしい。
おいしい。

こちらは 送迎の担当として働いている…

私が日本に来たばかりの頃

単語カードを
作ってくれた人です。

10年前に再会した時
彼は体調を崩したことで仕事をなくし

苦しい生活を送っていました。

今度は私が支える番だと
会社に誘ったんです。

学校には農業の授業もあり
私も子どもたちに向き合っています。

少しずつですが
生きるうえで大事なことも

伝えていこうと思っています。

私が日本に やって来て 今年で30年。

父の教えを守って精進し

もっと大きな花を咲かせてみせます。

♬~


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