英雄たちの選択「“奥の細道”への道~松尾芭蕉 五・七・五の革命~」芭蕉=隠密説の真相は?旅を通して芭蕉が到達し…


出典:『英雄たちの選択「“奥の細道”への道~松尾芭蕉 五・七・五の革命~」』の番組情報(EPGから引用)


英雄たちの選択「“奥の細道”への道~松尾芭蕉 五・七・五の革命~」[字]


芭蕉の代表作『奥の細道』。芭蕉=隠密説の真相は?旅を通して芭蕉が到達した新しい俳諧の境地とは?“俳聖”以前の芭蕉に光をあてながら、謎に満ちた名作を徹底解剖!


詳細情報

番組内容

俳諧を一流の文学に高めた“俳聖”松尾芭蕉。だが、実際の芭蕉は江戸で水道工事の請負人をつとめ、さまざまな職業や身分の人々と幅広く交流した俗人でもあった。そんな芭蕉の代表作が『奥の細道』。東北へと旅立った元禄2年は幕府と仙台藩が鋭く対立していた時期。歌枕を巡る他に何か目的があったのか?そして旅を通して芭蕉が到達した新しい俳諧の境地とは?“俳聖”以前の芭蕉に光をあてながら、謎に満ちた名作を徹底解剖!

出演者

【司会】磯田道史,杉浦友紀,【ゲスト】嵐山光三郎,長谷川櫂,佐藤勝明,【語り】松重豊


『英雄たちの選択「“奥の細道”への道~松尾芭蕉 五・七・五の革命~」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

英雄たちの選択「“奥の細道”への道~松尾芭蕉 五・七・五の革命~
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  18. 自分
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  20. 長谷川


『英雄たちの選択「“奥の細道”への道~松尾芭蕉 五・七・五の革命~」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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誰もが知る これらの句

紀行文学の傑作「奥の細道」で
詠まれたものである。

作者は「俳聖」と呼ばれた
松尾芭蕉。

芭蕉は 東北や北陸の
名所旧跡を巡り

人々との出会いや別れ

心に残る風景を
五・七・五に詠み込んでいった。

しかし この「奥の細道」

かねて 謎が ささやかれてきた。

芭蕉が旅をした元禄2年は

幕府と仙台藩の関係が悪化し

奥州は
緊迫した情勢にあった。

その渦中に 芭蕉は

仙台藩の政治と深く関わる土地に
立ち寄っている。

この旅には 名所旧跡を巡るだけでなく

何か ほかの目的が
隠されていたのではないか。

…と 話は伝わってるようです。

同行した門人の曾良は
後に幕府に雇われ

大名の監視や
情報収集を担った人物。

曾良の旅日記には

「奥の細道」には記されていない情報が
詳細に記録されていた。

やっぱり…

謎をはらんだ 2, 400キロ 5か月の旅。

その果てに 芭蕉がたどりついた
俳諧の極意とは。

それまでは…

それを…

…っていうことを初めて証明した…。

数々の名句に彩られた芭蕉の「奥の細道」。

その謎と魅力を徹底解剖する。

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史上の人物の心の内に迫る
「英雄たちの選択」。

今回は 日本人なら誰もが知っている
松尾芭蕉を取り上げます。

磯田さん
実は 俳句にも

深い関わりがあると
聞いています。

これね 僕の黒歴史なんですよ。
「黒歴史」…!

慶應大学俳句会っていうの入ってて
恥ずかしいことに

「南」の 太陽の「陽」で
「南陽」という俳号まで

自分で作っちゃったという…。
あら! 南陽先生。

もう 恥ずかしい歴史があって。

続いたんですか?
続かないよ。 3か月でやめました。

そうだったんですね。
申し訳ありませんでした!

その当時の皆様…。

じゃあ その松尾芭蕉については
磯田さん どんなふうに考えますか?

これがね
子どものころ思ってた人物像と

大人になって
歴史資料を読み始めてから

一番 落差が大きい人物ですね。
面白いですよ。

子どものころは
句だけしか読んでないから…

…と思ってたんですけど
実際の芭蕉を見ると

さすがに元禄の人で…

魅力的な俗な部分も持った人だ
っていうのが分かってきて。

何せ あの人 伊賀の人で

忍者 隠密説まで出るじゃないですか。

そうなんですか?
あるんですよ。

ひと言で言うと 謎多き男なんです。
そうなんですね。

では 謎多き芭蕉が 江戸で
その地位を築くまでをご覧ください。

江戸時代 津藩の大名 藤堂家が治める
伊賀上野で

松尾芭蕉は育った。

農家の次男だったため
10代で武家奉公に出た芭蕉。

藩の侍大将の息子で
藤堂家の一族だった

良忠の世話を担った。

当時 良忠が熱中していたのが「俳諧」。

「蝉吟」という俳号を
持つほどだった。

武家や商人の間で流行していた俳諧は

現在の俳句とは異なり

五・七・五を詠むと
ほかの人物が 七・七とつなげていく

連句だった。

例えば…。

…と発句を詠むと…。

…と返す。

さらに
別の人が…。

これを 通常は36句
多いときは100句も連ねていった。

芭蕉もまた 蝉吟の相手をしながら
俳諧の魅力に取りつかれていった。

晩年に 当時を回想して こう語っている。

「仏の教えを学ぶわけでもなく

俗世で職に就くわけでもなく

若いころから俳諧に没頭し

その道一筋につながれた この身の
無能無才を恥じるだけである」。

仕えていた良忠が亡くなって
6年後

芭蕉は 伊賀上野を離れ

29歳で江戸に向かったと伝わる。

長年奉公した藤堂家は
時の幕府老中の親戚筋にあたり

江戸でも 一目置かれていた。

芭蕉は そのつてを利用したのか

商業の一等地 日本橋に居を構え

新人俳諧師としての一歩を
踏み出した。

その一方で 芭蕉は
もう一つ 意外な役割を担うことになる。

江戸の重要なインフラだった上水道。

中でも
人々の生活を支えていたのが

神田上水だった。

延宝8年に行われた神田上水の工事。

その触書に 当時の芭蕉の俳号

「桃青」の名が見える。

「上水道の浚渫工事があるので

契約している町は

桃青に連絡するように」。

芭蕉は なんと
水道工事の請負人だったのだ。

町触からは
人員や杭などの道具の手配だけでなく

工事中の断水の通達まで

芭蕉が取りしきっていたことが
うかがえる。

長年 芭蕉を研究してきた…

俳諧師が 個人で 水道工事を
請け負ったことに注目している。

しかも 大成功じゃないですか。

江戸で人脈を広げた芭蕉は

武士や医者の息子 魚問屋の主人など

さまざまな職業 家柄の弟子を
持つようになった。

芭蕉が催す句会は いつも大盛況だった。

ところが 37歳のとき 突如 芭蕉は

日本橋から 江戸の外れにあった
深川に隠棲する。

その理由は よく分かっていないが

みずからの句を高めるために

あえて わびしい環境に
身を置いたともいわれる。

そして ここ深川で
芭蕉の才能が開花した。

あの誰もが知る名句も
ここで生まれた。

カエルが飛び込む音に
着想した一句。

実は それまでにない
革新的な句であった。

例えば 和歌では…。

「カエル」は
「山吹」の下で「鳴く」のが

古典の常識であり

俳諧も
そのルールに縛られていた。

さらに 仕掛けも必要だった。

例えば 当時の俳壇の主流派
貞門の人々が詠んだ句。

「二本」と「日本」の
掛詞

だじゃれである。

正月の鏡餅の白さを

姿を映す鏡に
見立てている。

俳諧とは こうした仕掛けを
入れて楽しむ

言葉遊びのようなものだった。

何気ない日常の風景を詠んだ
芭蕉。

それは
古典も仕掛けも使わない

常識外れの句であった。

しかし この句の発想が

俳諧を「言葉遊び」から「文学」へと
飛躍させていったのである。

松尾芭蕉が独自の世界を切り開くまでを
ご覧いただきましたが

俳人でもいらっしゃる長谷川 櫂さんは

この芭蕉を
どんな人物だとお考えですか?

世界的に
日本人の中で一番有名な人かもしれない。

俳句っていうのは
やはり その…

当時の文学の主流
っていうのは和歌なんですが

和歌と肩を並べる
日本の大きな文学に

仕立て上げた
という方だと思いますね。

ただ あまりにも その仕事が大きいから

神格化してしまう
見てしまうところがあるんだけども

何も 聖人君子みたいな人がですね
偉大な仕事をできるはずがなくて。

むしろ
俗っぽい いろんな側面を持っている

そういう人こそ やるわけで。

だから まあ 世界の偉人を見ても
大抵 俗にまみれてて

その中で泥から はすが咲くみたいに
いい仕事をやると。

…ということは
忘れちゃならないかなと思いますね。

自分では「幻住庵記」で

「無能無才で俳諧一筋の人生」と
言ってますけれども

実は そんなことない。

そして 門人が

学者タイプから
放浪者まで

いろんな門人
抱えてるんですけれども

それをまとめることができた。

つまり ある種
人たらしみたいなところもあって。

統率者として
大きかったんじゃないでしょうかね。

嵐山さん 実は 著書の中で

水道工事に携わっていたことに
注目されているんですよね。

水道工事を始めたのが
34から37歳 4年間ですね。

町年寄という

つまり
相当 力のある人が

束ねて
やるんですけども

芭蕉が それを代行した
ということですね。

ですから あの
伊賀上野でね

つまり 蝉吟という
息子に仕えて

一生懸命 仕事をした芭蕉を見ていた

親心でしょうね。 だから

どうにか 江戸に出して
仕事を作ってやろうという気持ちが

あったんだと思いますね。

水道工事ができるっていうのが
僕は ちょっと驚くんですよ。

水道工事の難しさっていうのは

まず あのときの…

水平であるかどうかを

本当に僅かな高低差で水を流すんです。

あと もう一つ 人を集めるのには

労賃を払う。
この計算技術が必要になるので

基本的には 帳面をつけて
それに計算を行って

技術者と労働力を
集めるところができないと

絶対に請け負わせないので。

それが少なくともできる男であったのは
間違いない。

芭蕉は できていた?
ええ。

すごいときは 数百人束ねて。
で 計算ができて。

しかも 一番大事なのは信用です。

だから 俳諧の席で 信用を得て
きちんとした人だといって。

それから 水道は機密事項ですからね。

このとき 江戸に行ったのが
僕 よかったと思うんですよね。

「天才の時代」とも 僕は思うんですけど

文芸だったら…

あるいは 武士だったら
大石内蔵助が討ち入れるのは…

だから
こういう文芸をやろうとしても

もし 京都や大坂なら 競合相手は
強いのが いっぱいいたはずなんです。

芭蕉は絶頂期にあって

「芭蕉」っていうより「桃青」ですね 当時は。
「桃」の「青い」。

「桃青独吟二十歌仙」っていう。

もう… 弟子筋は一流でしょ みんな。

それで
それも出して すごい絶頂のときに

深川に隠棲するわけですよね。

日本橋から 実業の世界を捨てて

隅田川を越えて
深川へ移ったっていうのは

やっぱり 一種の文学的な覚悟を
示してると思うんですよ。

西行が
出家してしまうわけですよね。

あれと同じで 一種の出家的な行動。

「出家」っていうのは仏道に修行する
っていうことではなくて

西行の場合は 歌を一生懸命やる。

芭蕉の場合は 俳諧に専念する。

だから その… 僕から見ると

やはり 文学的な一種の
「やるぞ!」っていう 何か

専念宣言みたいなものだったんじゃ
ないかなと思うんですね。

そんな時代を生きた芭蕉が詠んだ

「古池や蛙飛こむ水のおと」
という句は

これ どういう所が具体的に
新しかったんでしょうか? 長谷川さん。

これは 出来たときのことが
記録に残っていて

それが その「古池や」って
最初から詠んだんじゃなくて

「蛙飛こむ水のおと」が先に出来て

しばらく ぼうっと考えてたら
「古池」っていうことを思いついて

「古池」っていうのを上に置いたんだ
っていうことが書いてあってですね。

ということは…

で それまでは 俳句っていうのは
ほとんど 言葉遊びの世界で。

それに もう みんな
飽き飽きしてたんですね。

本来 俳諧は 言葉遊びですから
仕掛けが必要なんです。

「笑いの文学」ですから。

そのためには 大抵 掛詞を使うか

見立てるか とんち的な発想でいくか。

まあ ここには 古典のパロディーとかも
入るんですけどね。

で そういうものがあって 句は成り立つ。

たぶん 芭蕉も それまでは
そういう句をずっと作ってきています。

で 深川に移ったころ 例えば

「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」
っていう句が出来るんですね。

「あっ あんな枯枝に烏がとまっている」
っていう。

つまり
全く仕掛けなく成り立っていて。

そこまで…
それまでになかった句なんですよね。

だから 仕掛け なくても
句は成り立つ。

もっと言っちゃえば…

…っていうことを
初めて証明したんですよね。

たぶん これ 最初は
そんな確信的にやったんではなくて

偶発的だったと思うんですけども。

それが この「古池や」のころになると

かなり確信を持って そういう句を詠める。

やっぱり 古典の伝統にない
空想の句かもと思っていて。

みんな想像できるんですよ
この「蛙飛こむ水のおと」。

だけど 本当に自分は
蛙が古い池に飛び込んだのを

見たことがあるかっていうと
なかったので

カエルが…
飼ってみたこともあるんですよ。

子どものころですよ。 本当に考えた…。

ただね 変温動物なので
人とか犬猫とか蛇に追われないかぎり

そう簡単には飛び込まないだろう
ってことは思うの 僕は。

そうするとね 芭蕉が幻視してるのは

「飛こむ水のおと」っていうのも…

だから「飛こむ水のおと」っていうのもね

みんな この句によって
飛び込む音があるっていうふうに

日本人は みんな思ってるけど実際には…。
違う 違う 違う。

す~っと入るんですよね。

お尻からね 何か ゆっくりね
草を伝って入るのは 何度か見た。

自主的に。 まあ いいや!
次 いきましょう。

そんな芭蕉は
旅を糧に 句を詠んでいきます。

代表作「奥の細道」を読み解きます。

深川で俳諧一筋の日々を送った芭蕉。

その一方
故郷 伊賀上野へ帰る旅路でも

句作りに励んだ。

貞享元年

蕉風と呼ばれる みずからの俳諧を
追求するきっかけとなった…

その3年後 伊勢に詣で
明石まで足を延ばし

半生を振り返った…

さらに 翌年 信州 更科で
中秋の名月を見物した…

芭蕉は
旅の成果を紀行文にまとめていった。

そして 元禄2年3月27日

芭蕉は
訪れたことのない奥州へ向け出発する。

作品「奥の細道」に結実する旅である。

江戸 深川を出て
日光東照宮を参拝

仙台藩領を通って

かつて 多くの歌人が
歌に詠み込んだ名勝

歌枕を中心に巡る。

その後 日本海沿いを通って
岐阜 大垣を目指す

全長2, 400キロ
5か月にわたる壮大な旅である。

芭蕉は門人の曾良と共に
2人で旅立った。

奥州… そこには
私がまだ見たことがない歌枕が

あちこちにある。

しかも 今年は 敬愛する西行法師の
五百回忌にあたる年だ。

いにしえの歌人たちが
多くの歌を残した奥州に出向き

その旅路をたどることで

新たな俳諧の境地に至ることが
できるのではないか。

旅を通して
俳諧のさらなる高みを目指した芭蕉。

しかし この「奥の細道」の旅には

研究者たちの間で
さまざまな謎が指摘されてきた。

芭蕉たちが向かった
日光東照宮と仙台藩領。

当時 この地域は
緊迫した情勢にあった。

仙台藩 伊達家は
外様大名ながら62万石の大藩。

幕府にとって脅威となりうる
存在だった。

幕府は その力をそぐため

元禄元年 仙台藩に
日光東照宮の修繕工事を命じた。

伊達家が 莫大な費用の負担を
強いられたことを示す

史料が残っている。

「日光東照宮の
普請のために

藩士たちの
給与は

3割以上が
削減された」。

藩内では幕府への不満がくすぶり

一つ間違えば
謀反も起こりかねない状況だった。

なぜ 芭蕉は あえて
この時期に日光と奥州への旅に出たのか。

芭蕉は 仙台藩領に入ると

それまで頻繁に開いていた句会を
一度も開くことなく

歌枕も足早に過ぎ去った。

平泉に至っては
僅か2~3時間の滞在だった。

その一方
「道を間違えた」と書きながら訪ねたのが

石巻の港。

ここは
仙台藩の貿易の拠点で

江戸で流通する米は

この港から搬出されたものが
多くを占めていた。

さらに 当初
訪ねる予定になかった

国境近くの山にも
立ち寄っている。

この小黒崎という山は
仙台藩にとって重要な土地だった。

この辺だったような話です。

実は ここは当時 仙台藩の金山だった。

今では その坑道跡が
僅かに残るばかりである。

「奥の細道」の謎を研究する
岡本 聡さんは

旅の背後に 仙台藩の情勢に関心を持つ
幕府がいたのではないかと考えている。

…というふうに私は認識しております。

…だろうというふうにも考えております。

「奥の細道」の旅と 幕府とのつながりを
さらに疑わせるのが

同行者 曾良の存在である。

曾良は 後に
幕府の巡見使随員となり

大名の監視や情報収集を担った
人物だった。

曾良が残した旅の日記。

ここには
移動にかかった時間や

天候の変化
手紙のやり取りなど

「奥の細道」には
書かれていない情報が

事細かに記されていた。

芭蕉たちの旅に秘められた謎。

2人が 緊迫した時期に
日光や仙台藩領へ出向いたのは

幕府に有益な情報を
手に入れようしていたからなのか。

芭蕉の「奥の細道」は
果たして どんな旅だったのか。

「奥の細道」には 句を詠む以外にも

何か ほかの目的があったのでは
という説をご紹介しましたが

国文学の立場からいうと
佐藤さん これは どうなんでしょうか?

はい。 この隠密説について

かつて 正面から取り上げる研究者は
ほとんどいなかったんですけれども

最近では
歴史の研究成果を取り入れながら

芭蕉の もう一つの面を
明らかにしようという。

ただ 直接的な…
芭蕉が その隠密だという証拠は

まあ ゼロです 今のところ。

隠密で もし あったとすると

あれだけの作品を残した人が
そういうことであったとすると

逆に 面白いなとは思っています。

「隠密」っていうと変に考えるけど…

「公務」…。
うん。

芭蕉は 西行のあとを行きたいっていう
気持ちが分かりますね。

実際 行くわけですけども
個人で行けないですよ。

第一… つまり 白河の関までは
幕府のあれでは行けるけど

伊達藩に入ったら もう

そこで どうなるか
分からないわけですね。

歴史学者の目から見ても
明らかに普通の人物とはいえないのは

曾良なんですよ。 なぜかっていうと

彼は 幕府巡見使っていう… 後にですよ

大名の内情を探るチームの
随員っていうか用人なんですよ。

日本中の武士の中で
そんな役目に就いてる人って

本当に少ないんですよ
一握りなんですね。
一握りなの。

だから
この人と一緒に旅してること自体で

やっぱり…

芭蕉が 隠密や… ましてや
忍者っていう証拠はないんだけど

ただ 僕 気になるのが…

「それで
名前をあげると 非常に便利である」。

へえ~!
…って書いてあるんで

通常 こういう姿で回るんですよね。

それと 当時の大名は 幕府に対して

知ったことを上申して あれするのが
奉公と考えられてたので。

藤堂家なんて 一番 幕府に
いろいろ情報を上げるための家ですから

疑う研究者を
非難する気には なれないです 私も。

芭蕉が 隠密や忍者だったら
どれほど面白いだろうと思うんですけど。

例えば 旅行の供にですね
どういう人を選ぶかっていうと

やっぱり実務能力ですよね。

自分は 俳句 作っときたいわけですよ
ずっと。

だから 僕が連れていくとすると
事務的なこと…

次にどこに泊まるとか お金がいくらとか
そういう計算 全部やってくれる人を

まず 選ぶだろうなと。
それには 曾良は うってつけ。

そういう能力があったからこそ
そういう役も

仰せつかったかなというふうに思う。
(嵐山)だって 西行だって…

西行だって
歌のためだけに行くわけじゃないから…。

行って 全部 兵が何人いるってのは
西行だって調べてるわけ。

だから かつての連歌師だって
全国を回っていた連歌師は…。

(佐藤)連歌師は そうです。 はい。
みんな そういうことする。

つまり 伝統があるわけですね。
で 行って 旅して

旅先で いろんなことを調べて
情報を回すっていうのは

悪いことじゃないわけですよ。

だから 芭蕉が隠密をしたからっていって
「奥の細道」が下がるわけじゃない…。

5か月に及ぶ旅の行程を記した
「奥の細道」。

それは たび重なる推敲を経て完成した
文学作品だった。

残された草稿からは
芭蕉が試行錯誤する姿が浮かび上がる。

例えば
平泉で詠んだ2句。

1句目は
全面的に書き換えた。

2句目に至っては
なんと削除してしまった。

朱で 一言一句 細かく修正し

何度も手を加えていった。

芭蕉が題字を書いた最終稿が
完成したのは

旅から5年後のことだった。

芭蕉は「奥の細道」で
何を伝えようとしたのか。

作品に描かれた旅の軌跡を
たどってみよう。

元禄2年3月27日

住み慣れた深川の芭蕉庵を離れ 旅立つ。

過ぎゆく春と自分を重ね

友人たちとの別れを

鳥や魚の様子に例えながら
嘆いた。

旅立ちの心情を
重々しく詠んで始まった

「奥の細道」の旅。

梅雨晴れの日に
平泉を訪ねた芭蕉。

そこは かつて
栄華を極めた

奥州藤原氏の都だった。

しかし 都は跡形もなくなっていた。

「目の前には
ただ 夏草が生い茂る」。

芭蕉は 夢と消えてしまった
在りし日の武士たちに心を寄せた。

梅雨も明けるころ
山形の立石寺に立ち寄った。

もう 蝉も鳴き始めている。

蝉の声が
鳴り響いているのに

「閑さや」とは どういうことか。

蝉が鳴いていること
現実とは

違うレベルの静かさだ
っていうことを

まず思ったほうがいいと。
そうすると それは やっぱり

心の世界だろうっていうことに
なるわけです。

テラスが 空中に張り出しててですね
そこに立つと

空の真ん中に立ったような気分に
なれるんですよね。

そういう場所で 恐らく 詠んだ。

岩に しみ入るように
しんしんと鳴く蝉の声を聞きながら…

そういう句ではないかと思うんですね。

立石寺を後にし 最上川を下り

出羽三山を目指す。

その一つ 月山の山頂で 一泊した芭蕉は

月と出会った。

「雲は崩れ果て 月が出た。
月山は 変わらずにそびえ立つ」。

山を下りてゆくと
広大な庄内平野が広がる。

太陽が沈もうとしていた。

「最上川が 暑い夏の一日を
海に流し入れたようだ。

夜は涼しくなる」。

7月4日 越後国。

荒海に隔てられた佐渡島に思いをはせた。

立石寺の その「閑さや」の句から

越後路の「荒海や」の句まで

本当に 月と太陽と天の川が
並んでるんだけども

まさに 不易流行
っていうことをですね

句の形で やはり
示してるんじゃないかと思いますね。

「絶えず移ろうように見えるこの世も
宇宙から見れば永遠不変である」。

「不易流行」という世界観を得て
芭蕉の旅は 日本海に沿って続けられた。

旅の終着点 岐阜 大垣。

「蛤が
ふたと身に分かれるように

晩秋の今 私も 親しい人々と
別れようとしている」。

出発したときの句と比べると

最後の句には
大きな変化があるという。

「行春や」の句は やはり
中国の漢詩を思わせるような

荘重な重々しいスタイルで
詠まれているのに対して

「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」
っていうのは

いかにも軽々とした気持ちで
詠まれてる。

だから その悲しい別れを詠むにも

軽く詠めるように
なったっていうことですよね

芭蕉が その時点で。

俳句の作り方として捉えると…

そのもともとには 重い人生

この時間に押し流されていく世界を
どう生きていくかっていう

芭蕉の重大なテーマがあるわけだから
もともとは重いわけですよ。

重いのを いかに軽く詠んでいくか。

この境地が
「軽み」だと思うんですね。

「重く苦しい人生も
宇宙から見れば些末なもの」。

この「軽み」の境地こそ
芭蕉の俳諧の到達点となった。

長谷川さんは この「奥の細道」を通して

芭蕉の どんなところがすごいと
注目されていますか?

あのね 芭蕉の「奥の細道」というと

ただの紀行文と思ってる人が大半で。

「そのとおり行けば たどれるんだろう」と
思ってるんだけど

全然 これは行けないんですよね。

だから 要するに あれは もう
最初から もうきっぱりと割り切って…

…であると思ったほうがよろしくて。

じゃあ その… どういう観点から
練りに練ってるかっていうと

一つは 構成の精神ですよね。

どういうふうに並べれば 効果的になるか。

で なかっただろうと思われることも
付け加えているところがあって。

新潟の西の外れに
市振っていう所があるんですが

その市振で 遊女… 2人の遊女と一緒に
同じ宿に泊まったと。

「一家で遊女もねたり萩と月」
っていう句も残してるんだけども

これは曾良の記録には
全く残ってなくて。

つまり 芭蕉が 構成上 必要であると。

出会いとか別れを描くうえで

市振の巻が ぜひ必要だというので
作った文章。

フィクションなんですね。
フィクション。

事実ではあるけど
フィクションになってる。

そこが 腕ですわな。
(長谷川)そのとおりですね。

女っ気が足りないから
コンパニオンがいたことにしようと。

だから
いなかった遊女が出てくるんですね。

だから 最初
「行春や鳥啼魚の目は泪」で

「行春や」で始まって…。

「行秋ぞ」で終わるというね。

何か月かの間に軽くなって

「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」にまで
なってしまったんです。

だから ここの旅のどこかで 芭蕉自身が
すごく変化しているというふうに

見なくちゃいけないんだろうと
思うんですね。

嵐山さんは どの句に注目していますか?

この場合の「の声」は何かと言うと
いろんな論争があったんだけど。

(嵐山)良忠公に対する思いから

どうしても行かなきゃいけないっていう
芭蕉の思いがね

この句に入ってるんですよね。

ですから その立石寺っていうのは
石段 上ってくんですよ 暑い中をね。

で 蝉の声 ジ~ジ~… 聞きながらね

「ああ… 芭蕉さんは ここで蝉吟のことを
思い出していたんだな」ってことをね…。

それを考えながらいくとね こちらまで
胸に迫ってくるようなね 句ですね。

この句は とても好きな句です。

流れ続ける時間 本当に「無常」ですよね。

「無常」ってのは
本来悲しいってことではないけれども

でも… すべてに死が待ってると思えば
悲しいわけですけれども

ただ 逆に考えると…

彼の 芭蕉の
この旅で見つけた不易流行観は

こういった あらゆる生命への…
もう彼らは つまり 自分たちも含めて

この限りない時間の中で

ほんの僅かな人生
与えられているにすぎないんだけども

その中で必死に生きている。
そのことを 瞬間瞬間を捉えようと…。

やっぱり 時間 空間 時空の中を

すべてのものが流れていく
っていうことに対する…

それは
人も あらゆる生き物もっていうことの

自覚… 実感の哲学を
やっぱり「奥の細道」で得ていった過程が

僕は 芭蕉芸術の根幹にあるっていうか
核にあるものだと思いますね。

そうすると そこに
「軽み」っていうものが生まれてきて。

人間の… 娑婆の中に
まみれて生きてると

その 人が死んだり 別れたり
生まれたりすることに

一喜一憂せざるをえないんだけども

広大な宇宙の高みからね
人間界を眺めてると

結局 何も変わらないんだっていう

ある意味で恐ろしい人生観に たどりつく。

それが 僕は「軽み」だろうと思うんですね。

まずね 「軽み」はね もう達人の域ですよ。
そうなんです そうなんです…。

(嵐山)「軽み」っていうのはね 要するに…

そうです おっしゃるとおりです。
そのとおりです そのとおりです。

ですから これは大事なんですよね。

これは 別に俳句じゃなくても
あらゆる文芸でも。

(佐藤)あらゆることが そうですね。
芭蕉の言葉だと…

「高く悟りて俗に帰れ」。
「俗に帰れ」っていうんですね。

だから 本当に
日頃の勉強が大事なんです。

いろいろ考えることも大事だし
想像力 空想力 使って

でも それを言葉にするときは
分かりやすくなんですよね。

しかも 日常的な…
小さな虫を取り上げてもいいし。

(長谷川)要するに「軽み」っていうのは
一体 何か?

それを俳句に当てはめていったときには

俳句を軽くするってことに
なるわけですね。

そのときに
先生が おっしゃった その仕掛け。

これが やっぱり
引っ掛かってくるわけですよね。

で 仕掛けの最たるものは何かっていうと
古典でしょう。

で 古典を踏まえるか踏まえないか
っていうのは

芭蕉の晩年の最大のテーマになって

芭蕉は その古典を外そうとするわけです。

その 大坂で亡くなる直前にですね

「秋深き隣は何をする人ぞ」っていうの
詠んでるんですけども

これは あの 杜甫のね
古典を踏まえてるんだけども

それを知ってなくても
これ 分かるでしょう。

だから…

そういう詠み方に 僕は

たどりついたんじゃないかなと
思いますね。

だから 最後の名吟っていうと
やはり この「秋深き」を

僕は挙げたいなと思います。

この「軽み」あったからこそ
僕は普及したと思ってるんですよ。

「軽み」ってのは ある程度
現実から離れないといけないんですよね。

現実っつうのは これまでに詠まれた
漢詩だとか和歌だとか

僕らからすると 歴史の… 史料の実証の

こんな証拠があるっていう
堅い古文書なんですよ。

だけど 古文書は古文書のままだと
広がってもいけないし

世の中の理解ができないので
ある程度 僕は

「軽み」をテレビでやらなくてはいけないと
思ってるんだけど。

そうです そうです! 最たるものですよ。

「重い」っつったら もう仕事こないよ。
もう そういうことなんですよ。

「軽み」をやってらした?
「軽み」をやりたい。

危険なんですよ。
「軽み」ほど危険なものはない。

う~ん 広がるけれど…。
誤解さえも生じる。

その濃淡によって
また違いそうですもんね。

一つの問題は

芭蕉の場合「高く悟りて」の部分が
あったんですけども

その「軽く」の半分のほうだけが
こう 普及していくと

何が起こるかっていうと

「ただごと句」の氾濫なんです。

五・七・五に詠んではみたけど
「えっ だから 何なの?」っていう句が…

本当に そういうのが多いんです。

元禄の後半になると
今度は反動のように

また 難解に戻りつつある動きも
出てくるんですよね。

芭蕉の晩年っていうのは
ちょうど そこの端境期にあって。

結局 「俺のやろうとしていることが
なかなか理解されない」という

そういうジレンマが
きっとあったでしょうね。

旅に生きた芭蕉は

元禄7年 大坂で病に倒れ
この句を最後に息を引き取った。

享年51。

それから8年後

当時の俳諧事情を記した
「花見車」という本に

芭蕉は こう紹介されている。

芭蕉が「奥の細道」の旅を終えた岐阜。

〽 的を射ぬく音の時々聞こえくる

芭蕉の弟子が ここで立ち上げた
俳諧の流派 美濃派の句会。

江戸時代から
300年以上の伝統を受け継いでいる。

芭蕉の死後 一部の商人や武士の
たしなみだった俳諧は

庶民にまで広まった。

各地に残る
江戸時代の美濃派の句集からは

身分や職業を問わず
女性や子どもも含め

多くの人々が
俳諧を楽しんでいたことがうかがえる。

山口に住む
ある女性の句。

「名月を眺める人々の
話し声が

川の向かい側からも
聞こえるほど

にぎやかだ」。

人々は ささやかな日常に着想を得て
句作りに励んだ。

美濃派では 今も
五・七・五を詠み 七・七で返す

連句の形式を続けている。

この日 詠まれていたのは 恋の句。

「彫り込んだ」。
≪「彫り込んだ」。

「君のイニシャル」。
≪「君のイニシャル」。

「この辺り」。

≪「恋の極みは」。

≪「恋の極みは片思ひこそ」。

大野鵠士さんは
美濃派四十一代目の宗匠にあたる。

こういう その…

共同でいろんなことをやっていく
文芸の世界っていうのは

そういったことを分け隔てなくね
いろんな人が一緒に集まって。

芭蕉の故郷 伊賀上野に

芭蕉直筆の書が残されている。

「自然」。

「奥の細道」の旅を終えた芭蕉が
時を置かずして書いたと伝わる。

「奥の細道」の体験も踏まえて

たどりついた精神とも
いえるかもしれません。

中国の老子や荘子が説いた
「無為自然」を踏まえたものだという。

作為を捨て
物事のありのままの姿を肯定すること。

芭蕉の教えは
日本人が俳句に親しむ礎となり

今日まで生き続けている。

芭蕉によって 俳句は すごい広がりを
見せたということなんですけれど。

最近 注目しているのが

「花見車」っていう
元禄15年の俳書なんですけれども

俳諧が荒れて みんな
つまらないと やめようといったときに

芭蕉が 新しいやり方を打ち出したんだと。

で それは 意味深長で麗しい。

つまり 端正で含蓄豊かという。

もっと大事なのは
そこで その著者の轍士は

「数年後には これが

誰の流儀ということもなくて
国々に広まった」と書いているんですよね。

つまり もう 芭蕉流だってことも
みんな 分かんないままに

そういうふうに なっていった。

その意味で 芭蕉は やっぱり 本当に…

意味深長で 優美であるっていうこと。
それを具体的に言うとですね

心の世界を描いているってことだと
思うんだけど

「古池」の句がなくて それを展開させた
「奥の細道」がなければですね

つまり 言葉遊びの時代が…

俳句は 言葉遊びだと
だじゃれであるというのが

ずっと今まで続いているかもしれない。

そしたら みんな
飽いてしまったかもしれないし。

だから そういう意味で
俳句が 今 みんな… 皆さんに

非常に親しまれて詠まれてるっていう根拠
土台を作り上げたのは

やっぱり
芭蕉じゃないかなと思うんですね。

今 「奥の細道」を歩くとね

本当に いろんな人がね 若い人とかね
みんな歩いてますね。

中にはね 芭蕉の格好して歩いている人も
いるんですよ。

びっくりしちゃってね。
これ 何だろうなと思うと

つまり…

芭蕉が あの「細道」でした

俳句というワクチンが
日本人に打たれちゃったから

もう みんな 日本人は
「夏草や」っていうと

「兵どもが夢の跡」って もう みんな…。

「古池や」ってくれば
「蛙飛こむ水のおと」って

みんな 日本人に入ってるでしょ。

そういうふうに 言葉の魂っていうのを
芭蕉が発したものがね

今 みんな… すごいことですよ。
今の我々に入ってきてる。

今 大きな新聞には 大抵

週に一回
俳句と短歌の欄がありますよね。

あれって
外国の方が見て驚くそうですよね。

「日本人は みんな詩人なのか」と言って

「こんなに たくさんの詩人がいるのか」
と言って 驚くそうで…。

やっぱり その… みんなが

どんなことを詠んでもいいんだ
っていうことを作ったのは

芭蕉の仕掛け なくたって…
もちろん あったっていいんですよ。

「あってもなくても 句は成り立つぞ」って
あそこだったと思うんですよね。

その大本は
やっぱり 芭蕉だろうと思うんですよね。

俳句って短いですよね。

そうすると 短いのに分かるっていうのは
どういうことなのかというと

やっぱり 他者他人と 同じ土台や体験や

相手は どう考えるだろうということが
ないと

やっぱり 分かってもらえない。 つまり…

私 「俳句とは何ですか?」って
いったことに対する

夏目漱石の答えに
感動したことがあるんですよ。

要するに
詠まれてないことを

イメージを… 広がるように
イメージさせるのがいいと。

そう考えると…

特に共感性ですよね。 共感性… 鍵。

これ なかなか大事なことで。

さっき 「隣は何をする人ぞ」っていうのは
他者理解なんですよ。

いつも
隣の人は どうだったかっていうことを

芭蕉は
持ちつつ亡くなっていくわけですけど…。

他者のことを思わなくては
生きていけない時代が

ひょっとすると今かもしれませんし。
確かに。

他者理解 共感力みたいなところは
今 求められている部分ですよね。

で そこで 南陽先生。
えっ まさか?

まさかの一句を。 という 今…。
ここ 先生いっぱいいるんですよ。

カンペで出てるんで。
カンペ? カンペ?

あえて 俳人の長谷川さんの横で
横で!
書いていただいております。

何か どっかの番組みたいに
直されるかもしれないけど。

じゃあ 何か こんなのを作ってみました。
はい お願いします。

ほう!     あのね テレビの箱の上にね
冬蜂がね 死んでるんですよ。

だけど テレビの熱で
あったまってる感じなんですけど

僕 「英雄たち」の「英雄」って
所詮 冬蜂で

絶対 死ぬんですよ。

何か その死骸に対して ぬくめて…
まあ 生き返りはしないんですけど

何か ぬくめる共感性とか
大事だなと思いながら

ぬくめてみたら… 自分たち自身が
冬蜂かもしれないみたいなことは

考えながら まあ
やってるっていうので。

これ 出来たようになったけど
絶対 長谷川さんに怒られそう こんな…。

「テレビ板」としたほうがいいかな
今は薄いから。

ああ 薄いから「板」か! やられた…!

でも 何か こう
一瞬 ドキッとする句ですね。

誰も褒めない。
誰も褒めない…。

誰も褒めない!
嵐山さんから見て いかがですか?

駄目でしょう。
「駄目でしょう」って…。

やっぱ 駄目か!

きょうは 芭蕉の世界を 皆さんで
語ることができて非常に光栄でした。

皆さん ありがとうございました。

(一同)ありがとうございました。


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