英雄たちの選択「明治の行方を決めた政変~征韓論危機 伊藤博文の決断~」明治6年、明治政府は崩壊の危機に…


出典:『英雄たちの選択「明治の行方を決めた政変~征韓論危機 伊藤博文の決断~」』の番組情報(EPGから引用)


英雄たちの選択「明治の行方を決めた政変~征韓論危機 伊藤博文の決断~」[字]


明治6年、明治政府は崩壊の危機にあった。征韓論を主張する西郷隆盛と内治優先の大久保利通。キーマンとなったのは伊藤博文。誰よりも近代化ビジョンを持った男の選択は。


詳細情報

番組内容

明治6年、明治政府は朝鮮への使節派遣をめぐって真っ二つに割れた。使節派遣を主張する西郷隆盛と内治優先の立場で反対する大久保利通。その対立の背景には、欧米を視察してきた岩倉使節団と、その留守中に改革を進めてきた留守政府、さらには長州・薩摩と肥前・土佐の主導権争いがからんでいた。政府崩壊の危機の中で、キーマンとなったのが若手官僚だった伊藤博文。誰よりも早く近代化のビジョンを持った男が選んだ道は?

出演者

【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】伊藤之雄,大澤真幸,中野信子,【語り】松重豊


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英雄たちの選択「明治の行方を決めた政変~征韓論危機 伊藤博文の
  1. 伊藤
  2. 大久保
  3. 岩倉
  4. 近代化
  5. 西郷
  6. 留守政府
  7. 日本
  8. 明治
  9. 参議
  10. 自分
  11. 木戸
  12. 閣議
  13. 長州
  14. 非常
  15. 伊藤博文
  16. 三条
  17. 政変
  18. 秘策
  19. イギリス
  20. 意見


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明治6年
明治政府は崩壊の危機にあった。

最大の実力者 西郷隆盛が

対外戦争につながりかねない
朝鮮への使節派遣を主張。

これに対し
盟友・大久保利通は

国内政治優先を主張して
激しく対立。

政府は真っ二つに割れた。

いわゆる…

従来 この問題は
西郷 大久保の対立を軸に語られてきた。

だが 事は そう単純ではなかった。

近代化をめぐる
岩倉使節団と留守政府の対立。

薩摩・長州と 土佐・肥前の主導権争い。

さまざまな要因が危機の背後にあった。

そして 近年の研究によって

キーパーソンとして がぜん
クローズアップされてきた人物がいる。

当時 伊藤は
工部省次官という 一官僚にすぎない。

その彼が 明治日本の行方を左右する
危機の鍵を握っていたというのだ。

手がかりは
政府の重鎮 岩倉具視が残した記録。

この史料を詳細に分析することで

政局の裏側の伊藤の動きが
鮮明に浮かび上がってきた。

スタジオには
さまざまな分野の専門家が集結。

伊藤が果たした役割を読み解く。

…って言ってもいいぐらいの
すごい作戦ですね。

将棋でいえば 妙手っていうか
「この手があったか」みたいなね。

イマジンっていう。

伊藤は すごく はっきり…

…っていうイメージを持ってた。

明治日本の行方を決めた大事件の真相に
新たな視点で迫る。

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

そのとき 彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。

今回 取り上げるのは
「明治6年の政変」です。

いわゆる「征韓論政変」といわれ

征韓派の西郷と
内治派の大久保の対立として

描かれることが多い政変なんですが

今回の主人公は彼らではなくて
伊藤博文なんですよね。

なぜ 今 明治6年の政変

そして 伊藤博文について
取り上げるんでしょうか?

よく 鳥羽・伏見の戦いで
明治政府が出来たと

勘違いされてるんですよ。
はい。

そんな簡単に出来ないんですよ
近代国家って。

明治維新では 実は
鳥羽・伏見は ゴールではなくて

僕にとってはスタートに近い。
つまり 明治国家っていうのは

江戸の… 芋虫みたいな形をしたのが
蝶になるか 蛾になるか

ものすごい 脱皮を繰り返さないと
いけなかったもので。

少なくとも…

で それ… 3回っていうのは

明治6年と14年の政変
そして 明治10年の西南戦争ですよね。

この3回とも
明治政府にとっては大ピンチで。

特に 明治6年の政変は

裏で かなり仕切ってるのが
伊藤さんですよ。

なぜ 伊藤博文に
そんなことができたんでしょうか?

私が勝手に思ってるのでは

伊藤は 政府の中で 一番…

要するに こんなふうになるんじゃないか
っていう国家像を

早い段階で
明確に捉えてたからじゃないかと。

つまり…

「完全変態」。
虫に例えれば その設計者で。

だから 伊藤を見ることで
私は 今 近代の日本を

はっきり見えるんじゃないかなと
思うんですよ。

それでは 伊藤博文とは まず
どういった人物だったのか見ていきます。

安政4年…

足軽の子 伊藤博文は
17歳で松下村塾へ入門した。

吉田松陰のもと

幕末に活躍する多くの若者と共に
学んだことで

伊藤は長州藩の若手の人材として
注目されることとなった。

このころの伊藤を評して
松陰は こう書き残している。

「才能は劣り 学問も未熟。

だが 性格は素直で

私は とても
伊藤のことを愛している。

かなりの周旋家になりそうだ」。

文久3年 23歳の伊藤は

その後の人生を大きく開く決断を下す。

仲間4人と
イギリスへの留学を決行したのだ。

まげを切り 洋装に身を固めた
一行の写真が残されている。

伊藤たちは英語を学ぶかたわら

海軍の施設や造船所などを
精力的に見学した。

巨大な機械が稼働する工場や

煙を吐いて走る蒸気機関車などを
目の当たりにした伊藤は

西洋文明を導入しなければ
日本は生き残れないと悟る。

だが 留学は 僅か半年で終わりを告げた。

長州が窮地に陥っていたのである。

当時 長州藩は
外国勢力の打ち払いを掲げ

列強の船を次々と砲撃していた。

元治元年8月

その報復のため
英米仏蘭4か国の艦隊が下関に襲来する。

圧倒的な軍事力を前に 長州の砲台は
ことごとく占拠され 破壊されるのだ。

この危機を前に 急ぎ帰国した伊藤は

通訳として
イギリスとの和平交渉に臨み

賠償金を幕府に肩代わりさせることに
成功する。

そんな伊藤の交渉力に目をつけたのが…

そのころ
長州は 幕府との対立を深めており

武器の購入が急務だった。

だが 幕府は
長崎での取り引きを厳しく監視しており

表立って海外から武器を購入することは
困難だった。

木戸は 伊藤に

それまで対立関係にあった
薩摩藩と交渉し

薩摩名義で イギリスから
武器を購入することを命じる。

この困難な任務を
伊藤は見事にやってのけた。

こうして
長州の外交を担う存在となった伊藤は

イギリスの外交官
アーネスト・サトウたちとの交流を通じ

次第に日本の将来の在り方について
考えを深めていく。

興味深い史料が残されている。

慶応3年 伊藤が木戸に宛てた書簡である。

「幕府に対する恨みといった私情を捨て

公平な議論をしなければ
公論の支持を失ってしまう」。

伊藤博文を研究する
歴史学者・伊藤之雄さんは

この書簡における彼の主張は
次のようなものだという。

全国民の。 それはですね…

だから そういうのは…

木戸は 伊藤の この考えに共鳴。

公議公論に基づく政治体制を目指し

幕府との対決姿勢を強めていく。

慶応4年1月。

薩摩や長州を中心とする新政府軍と
旧幕府軍が

京都郊外の鳥羽・伏見で激突。

新政府軍の勝利によって
明治という新時代が始まった。

薩摩の西郷隆盛や大久保利通

長州の木戸孝允といった

討幕の中心人物が

新政府の政治を
実質的に動かすこととなったのだ。

伊藤は明治2年 木戸の引き立てで
大蔵少輔に就任する。

このとき 伊藤が立案したのが

大蔵省が中心となって
産業を興すというプラン。

伊藤は 中央集権制のもとで
強力に近代化を推進することを目指した。

ところが その前に立ちはだかったのが
大蔵・大久保利通である。

旧薩摩藩との関係の強い大久保にとって
伊藤の改革案は

保守的な薩摩をはじめとする諸藩には

到底 受け入れられない過激なものに
映ったのだ。

この年の9月
伊藤は大蔵省を去り 工部省へ移る。

伊藤は いつしか

大久保に西洋文明を理解させなくては
日本の近代化は難しいと

考えるようになっていた。

絶好の機会がやってきた。

明治4年 不平等条約改正のため

使節を欧米に派遣することが
決定したのだ。

使節団の中心は外務…

伊藤の回想によれば
このとき 2人の間で

次のようなやり取りがあったという。

「岩倉公は
使節団の副使として

私を同行させたいと
懇願された」。

「だが 私には…」。

こうして 実現したのが

薩摩と長州の指導者が共に洋行するという
岩倉使節団である。

「欧米を見れば彼らも近代化の必要を
理解するはずだ」。

果たして 伊藤の思惑は的中した。

舗装された道路沿いに立ち並ぶ
石造りの近代建築。

電信や鉄道などの最新技術。

木戸は その衝撃を
次のように書き残している。

「今の日本が目指す
開化と称するものの多くは

皮膚上のものにすぎない」。

一方の大久保も こう記す。

「英米仏などの開化は
日本とは段違いで

はるかに及ばない」。

これは 帰国後にまとめられた
使節団の報告書。

次のような記述がある。

「議会は必ず
上下両院を分かつこと。

一つの議会のみで
立法局としている国はない」。

大久保がたどりついた結論
それは議会制だった。

西洋の進歩の源は
国民の力の結集にあると悟ったのだ。

伊藤と大久保は
使節団を通じて急速に接近する。

2人は近代化に向け
目指すべき方向を共有したのである。

こうして 伊藤は 下級武士出身から

一気に 明治新政府で頭角を現し始めます。

中野さん
それにしても すごい出世ですよね。

そうですね。
まあ 痛快ですよね 一種ね。

吉田松陰が
「彼は才は劣るけれども 才能は…」。

まあ 「頭は良くないけれども」って
言ってるわけですよね。

「だけども 性格が
すごく僕は好きなんだ」というふうに

言いますよね。

社会が変化しないときには
その人の家柄とか

才能 学歴とか そういうところで

人を判断するんだけれども

基準が変わる時代って
何を基準にしていいか分からない。

そういうときに 人柄っていうのを
最後に見ることになると思うんですけど。

それを彼は持ってたというのが

大きな武器だったんじゃ
ないでしょうかね。

頭がいい人
才気煥発であるというよりも

どこか
人たらしのようなところがある人が

成功するっていう傾向があると
思うんですが

そんな人だったんじゃないかと思います。

この人はね 私が思うには

革命家ってね 2種類っていうか

アイデアリストっていうか
理想主義者と

リアリスト
現実主義者と

2種類の
タイプがいて

大体ね 起こるのは

理想主義者がですね 何かやるんです。

で 大体 失敗するんですよね。
その失敗した夢をですね

あと 現実主義者が
部分的に拾い集めて革命にする。

伊藤の場合は その両面がある
希有な例だと思うんですね。

つまり…

そういう こう… 何ていうか
実践感覚みたいなのが非常にある。

そういうのは非常に珍しいですね。

人なつっこくて
いろんな人から 耳学問をして

そういう直感を働かして

本質を見抜く力があると。

それから イギリスから戻ってですね
アーネスト・サトウなんかと

しゃべりながら
アメリカの独立戦争の話をしたりですね。

そういう情報などを仕入れて
自分のビジョンを作っていくという。

私が思うに あんなすごい人は

私の周りには今までかつて
会ったことがないと思いますね。

それぐらい すごい人だと…。

それとね
話せば分かると思っているようで

自分を受け入れてもらえるんじゃないか
といって

どんどん人に会いにいって
交渉を始めるんですよ。

だから さっき松陰が
周旋家って言ってたけど

あれ 幕末の用例だと…

非常に極めて 交渉能力が高い。

例えば…

…という非常な 自立心を持ってる。

きっと この辺りが 岩倉具視なんていう
日本最高の人目利きからすると

見つけたって感じだったと思いますね。
ああ…。

その後 伊藤は岩倉使節団で
欧米諸国を歴訪します。

大澤さん この教科書でもおなじみの
岩倉使節団ですけれど

大久保や木戸に与えた影響って

どんなものだったんでしょうか?
これはですね…

…って言っちゃなんですけど
そんな感じが ちょっとしますね。

大久保は これ 出かけてったことでね

いろいろ
ものの見方が変わってきたりですね

ビジョンを持ったりとか
はっきり 前向きになりましたけども

木戸の場合はね ちょっと こう…
圧倒されちゃってる感じしますね。

で 長州藩の中心は 木戸なんですけどね…

伊藤自身は あんまり 自分は長州藩だ
ってことに こだわらないんですよね。

こだわらないからこそ
どの藩からも信頼されて

長州藩のリーダーみたいに
なるわけですけど。

もともと 大久保と伊藤は
あまり 反りが良くなかったのに…

…みたいなことをやってるわけですよ。

そこがまた
伊藤の器の大きいとこですけどね。

自分とうまくいってない人を
あえて こだわりを捨てて

さっと入れちゃうっていうようなことは
やっぱり 非凡な人なんですよね。

例えば 誰かに対して
思い入れが深いということは

憎しみも深いということなんですね
脳の中で。

同じだけの熱量を持って
人を好きになるし

嫌いになってしまうということが
起こりうる。

どちらかといえば 人は

理の部分っていうのは 情に引っ張られる
ということが起こるんですけれども。

この伊藤は そうではないんですよね。

伊藤さん ちなみに 大久保にとっては

岩倉使節団って
どんな影響があったんでしょうか?

それは もう 完全にですね
世界観が変わったと思いますね。

だから やっぱり…

使節団から帰ってきて
明治6年の政変が終わってから…

…というのを出してるんですけど。

そこで 大久保が言ってるのは
日本の場合はですね…

それからですね 日本人の権利をですね
抑制していると

こう言ってるんです。 だから

イギリスのような そういう
才能を束縛しなくて

権利を抑制しない国にならないと
同じような島国なんだけど

もう全然 差があるんだというふうに
大久保は言ってるんです。

20年先 30年先か 50年先になるか
そういうのを じっくりと

作っていかなきゃならないっていうのが
大久保の考えで

そういうふうに
大久保が変わってしまったという。

伊藤レベルというか 伊藤はですね

直感的にイギリスはいいと
思ってましたけども

具体的に見てきたと。

恐らく…

岩倉使節団を通じて 大久保や岩倉と
新たな国の形を共有した伊藤ですが

そのころ 日本国内は
大変なことになっていました。

明治6年9月

伊藤は 2年近くに及ぶ視察を終え
帰国した。

待ち受けていたのは思わぬ事態だった。

長州の政治力が大きく後退していたのだ。

使節団不在の間 政権を担ったのが

いわゆる
留守政府である。

太政大臣は
三条実美。

参議は 筆頭の西郷隆盛を除いて

板垣退助や大隈重信をはじめ

ことごとく
旧土佐藩 旧肥前佐賀藩の出身だ。

しかも…

実は 使節団は 留守政府との間で
次のような約束を交わしていた。

ところが 留守政府は その約束に反して…

…など
大規模な改革を

次々と
打ち出していく。

これらを すべて実行すれば
国の財政は破綻する。

長州出身の大蔵・井上 馨は
その阻止に動くが

江藤らとの主導権争いに敗れ
大蔵を辞任。

さらに 陸軍大輔の職にあった山県有朋が
汚職事件に巻き込まれ 失脚したことで

長州の政治力は一気に低下した。

そんなタイミングで勃発したのが…

きっかけは
国交を求める日本の現地公館に

朝鮮側が張り出した掲示だった。

「近年 日本人は
制度や衣服 風俗を西洋風に改め

昔からの法を変えようとしている。

さながら
無法の国というべきである」。

明治6年8月 この問題をめぐって

留守政府で閣議が開かれた。

閣議を主導したのは
参議・西郷隆盛だった。

これに 板垣 江藤ら
土佐肥前出身の参議が賛同

閣議は西郷派遣に大きく傾いていく。

8月17日 太政大臣・三条は

岩倉たち帰国後に
再び評議することを条件に

西郷派遣を決定した。

一見 平和的に見える使節派遣。

だが
後に西郷が政府に提出した文書からは

これが極めて危険な計画だったことが
読み取れる。

「朝鮮側が暴挙に出た場合

初めて その罪を問うべきである」。

緊張状態にある朝鮮に乗り込んだ西郷が
殺されれば 開戦の絶好の口実となる。

使節派遣は 対外戦争をも視野に入れた
計画だったのだ。

ひとたび開戦となれば
膨大な戦費がかかり

国内の近代化どころでは
なくなってしまう。

伊藤は状況を打開するため
ひそかに動きだした。

東京 国立国会図書館。

このときの伊藤の動きを示す
貴重な記録が残っていた。

当時のいきさつを後世に伝えるため
岩倉家がまとめた文書である。

帰国から2週間後の9月27日

伊藤から岩倉に宛てた書簡に
注目すべき記述があった。

「朝鮮問題の解決は

大久保さんでなければ
成功は難しい」。

「参議就任のこと
いま一度ぐらいではなく

百度でも
ご説諭すべきです」。

征韓論阻止のためには

大久保を参議にして
戦ってもらうしかない。

伊藤は そのために岩倉を動かそうとした。

2日後 岩倉は伊藤に こう返信している。

「けさ 大久保の所に出向き
百方 懇談した」。

2人の策は功を奏した。

岩倉に対し
大久保は ついに こう表明した。

「命がけで
参議就任をお引き受けする」。

岩倉 大久保 そして 伊藤。

西郷の派遣阻止に向け
3人の戦いが始まった。

欧米から帰国した伊藤たちが
直面したのは 留守政府との対立でした。

もう一度 この留守政府について
おさらいしてみましょう。

太政大臣・三条実美のもと

参議に選ばれているのが

薩摩からは西郷だけです。

板垣退助 後藤象二郎は 土佐出身。

そして 大隈 江藤 大木喬任 3人が

肥前出身です。

磯田さん 肥前出身者が多い印象ですね。
多いですね。

留守の間に どんどん
肥前出身の参議が人事を動かされて

増えてきてるわけですから
大変なことですね。

なぜ 肥前かってことですけど
この時期 西洋を知っているのは

幕臣か肥前の人が多いわけですね。

ところがですよ
あとで維新革命には参加しているので

佐賀には焦りがあるわけですよね。

最後のほうで 敵を… 掃討戦をやるときに
最新式の兵器をひいてきて

佐賀は やっつけて
戦線を突破したというだけであって。

薩摩や長州からしたら

「俺たちは 仲間 たくさん殺して
必死の思いで この革命を始めたんだ」と。

「あとから来たやつが偉そうにするな」
という気分はあったと思うんですよね。

使節団側としては やっぱり

「俺たちのほうが主導権を握ってるのに」
っていう気持ちは

あったんじゃないだろうかと思います。

「俺たちは見ているし 上だ」
っていうふうに感じるところは

恐らく 無意識にはあっただろう…。
はい。

そうすると これはですね…
ここは やっぱり ちょっと

性差があるところといって差し支えないと
思うんですが…

これをなくすと
何か こう 生まれてきた意味が

なくなっちゃうような感じがするんですね
非常に不安で。

自分にとって立場を得るということは

女から見るとばかばかしいと思えるような
争いでも

さも本当に自分の存在を懸けたような
争いである場合があって

非常に激化しやすいんですね。

行政とか学問の世界で
初めてやった人とか

自分が主導権を握ってますってことは
とっても評価されるんですけども

この事績こそが
社会に承認されるための装置なので

これは絶対に譲れないということが
起こりやすいんですよね。

もう一つはですね
ほかの 留守政府のですね…

一度も行ったことがないんですから。

そうすると
人から聞いて近代化を進める。

外国から機械や技術や新しい制度を
導入していれば

日本も西洋に追いつけると
思っているんですけど

それが…

そんな単純なものじゃないんだと…

とっても難しい仕事が
これからあるんだと。

ただね あんまり 留守政府を責めるのも
気の毒な感じも僕はしますね。

というのは もともとね…

やっぱりね こういうのは…

止めたら終わりなんですよね。

だから どんどん
手を打っていかなきゃいけない。

ただ もちろん 手を打つと
大抵 失敗だったり

やりすぎだったりするんですけれども…

ですから 留守政府が
この間に やりすぎてしまって

使節団が頭にきたっていうのは
ありますけれども

留守政府が
何もしないでいられる状況じゃないので。

ですから これは
しかたがないところもあるんですよね。

それは もう 誰がやったって…
俺がやらなくたって

西洋化ができればいいじゃないかと。

そこを ちょっと 僕は…
分かるんですけど 使節団の意見も。

ちょっと 留守政府にね
弁護してあげたいところがあって。

政治は生き物なんで

そんな 何も動かさないっていう約束自体
ちょっと無理だと思う。

近代化は もちろんですね
決まった徴兵令とか

廃藩置県の仕事は どんどん進めている。
それはいいんですけれども。

新しい参議を任命するとか

ああいうのはですね 約束違反なんですね。

そして 使節団組と留守政府の対立で
最大の焦点となったのが

西郷の朝鮮への派遣ですよね。

対外戦争の危険があるにもかかわらず

なぜ 留守政府は
このような決定をしたんでしょうか?

会議って 別に 論理的に正しいことを
決められる装置じゃないんですよね。

…っていう
すごい名前の理論がありますけど。

時間いっぱいまで
みんなが意見をためていくと。

最後に投げた そのゴミが
ゴミ箱からあふれる。

そのあふれた意見に決まることが多い。
ああ~…。

最後に 発言力のあった人の
意見になることが結構あるので。

その人の立場とか
発言した人の立場とかも鑑みられて

決まることがあるので。

はっきり言うとね 留守政府はね まだね

近代的外交っていうのが
分かってないんですよ。

近代的外交っていうのが…
ちょっと 分かりやすく言えば

基本的にはね
国家と国家は 一応 対等なんですよね。

そういうやり方はね ヨーロッパというか
欧米の基本的なやり方ですけど

留守政府側はね
まだ 古いタイプのやり方。

一番 分かりやすいのはね…

例えば 中華帝国が 一番偉かったり。

そういう秩序の中で
お互いを見てるわけ。

日本は ここで近代化しちゃって

いきなり この地域で 俺 エリート
っていう感じなんですよ。

そうするとね 俺のほうが ちょっと…
上から目線になっちゃうのね。

朝鮮のほうから見るとね 逆なんですよ。

自分たちのほうが よっぽど
上から目線で見るべきであって

自分たちのほうが
この東アジア地域ではね

一番の先進国ぐらいの気持ち
あるわけですよ。

でも こういう感覚をね やっぱ
乗り越えなければいけないんですよ。

で 使節団は本来
もともと 条約改正のために行ってて

全然 相手にされなくて 体でね

近代外交って違うんだっていうことを
分かってきてるでしょ。

だから やっぱり これはね とっても

征韓論の方向に向かっていくわけには
いかないっていうふうに思うのは

無理もないと思うんですよね。

もう一つはですね…

士族に
なんとか生きる道を与えたいという。

そういうふうに
情愛はいいんですけども

万一 戦争になったら
どうするんだという

何か 突き詰めたものが どうもですね…

そういう合理性が
なかったような気がします。

士族にとっては このときの…
私も たくさん 史料を読みますが

期待が大きいわけですよ。

…が裏にあるわけですよ。

その魅力っていうのは

その空気が
分かってる人たちにとってみると

取りつかれたら あれですね。
危険な話ですよ。

さあ いよいよ 伊藤に
選択の時が訪れます。

岩倉使節団帰国後
初めての閣議が開かれた。

メンバーは
太政大臣・三条と右大臣・岩倉。

留守政府側の参議には 西郷を筆頭に

土佐の板垣・後藤
肥前の江藤・大隈らが顔を連ねる。

使節団側の参議は 大久保 一人。

木戸は 帰国後 体調がすぐれず
欠席していた。

閣議の様子は 次のようなものだった。

岩倉と三条が 朝鮮に西郷を派遣するのは
延期すべきだと主張。

ほとんどの参議は これに同意した。

8月の閣議で西郷派遣を決めた三条だが

岩倉に説得され 考えを変えていたのだ。

三条が意見を翻したことで

留守政府の参議も
派遣延期で妥協しようとした。

しかし これには西郷が納得しない。

派遣は すでに決まったことであると

あくまで即時派遣に固執し
強硬に反論した。

さきの閣議で西郷派遣を認めた手前

留守政府の参議も
延期論を捨てざるをえない。

明くる15日 閣議が再び開かれ

そこで ついに決着がつく。

三条太政大臣が またもや考えを変え

西郷の即時派遣を決定したのだ。

この決定を受け

岩倉と大久保 そして 木戸が
辞意を表明する。

慌てた三条は
西郷に派遣の撤回を求めるが

西郷は頑として受け入れない。

板挟みとなって追い詰められた三条は
極度のストレスで倒れ

一時 意識不明の状態となった。

この間 閣議に参加できない伊藤は
この政局を不安とともに見守っていた。

その脳裏に
一体 どのような考えが去来していたのか。

伊藤の心の内に分け入ってみよう。

岩倉さんや大久保さんに続いて
木戸さんまで お辞めになるとは…。

この先 どうやって
日本の近代化を進めればよいのだ。

こうなったら
留守政府の参議たちと手を携えて

改革を行うしか道はないか。

彼らとて 近代化自体には前向きなはず。

共に日本を変えていく方法もあるはずだ。

しかし それは 西郷さんの朝鮮派遣を
受け入れることにもつながる。

もし 朝鮮で西郷さんが殺されて
戦争となれば

国内の近代化どころでは
なくなってしまう。

それに このまま
留守政府の面々と共に歩んだとして

私の目指す近代化は
本当に実現するだろうか。

確かに 鉄道や工場など
うわべの近代化は可能だろう。

だが 民衆の意見を政治に生かす仕組みを
作り上げなければ

そんなものは 所詮 張りぼてにすぎない。

木戸さんがご病気の今
長州の政治力は なきに等しい。

頼みの綱は 大久保さんと岩倉さんだけだ。

新たな国のビジョンを共有している
あの方々のもとでなければ

日本の真の近代化は不可能。

ここは あくまで
お二人を支えて 逆転の策を探るべきだ。

だが 待てよ…。

朝鮮派遣という決定を
ひっくり返したら

西郷さんは 恐らく辞表をたたきつけて
国へ帰るだろう。

新政府に不満を持っている士族と
結びつきでもしたら

内乱になる可能性もある。

そうなれば
近代化どころではなくなってしまう。

このまま 留守政府側が進める
西郷の朝鮮派遣を認めるか。

それとも 岩倉・大久保とともに
逆転への賭けに出るか。

伊藤に選択の時が来た。

伊藤は いよいよ選択を迫られました。

留守政府のもとで
近代化を進めるか。

それとも 辞表を出した
岩倉・大久保を

あくまでも支え
復権させたうえで

共に近代化を進めるのか。

まず 中野さん どちらを選びますか?

はい。 2の
「岩倉・大久保を支える」を選びます。

…というふうに判断したと思います。

声の大きい人というのは
この場合は 西郷ですね。

ゴミ箱からあふれる意見をいつも言う人が
西郷だということになると これは…

…っていう判断をしたと思います。

グランドビジョンがあるわけですよね。
伊藤なりの。

そのビジョンに この組織では

追いつけないというふうに思ったと
思います。

一方で 大久保は いろんな意味で
合理的に考えられる人なので

相性は意外と悪くない。

新しいものを受け入れる素地の
ある人であって

困難であっても
道を切り開いていこうという決意が

できるんじゃないかなと思います。

これは もう 2ですね。

岩倉を支えるっていう。
それしかないと思いますけれども。

矛盾というのは
どういうことかっていうと

これはね 基本的には…

いわば 士族が自己否定してかなきゃ
いけないっていうプロセスなんですね。

そのために 明治維新は 何段階かの
ロケット… 何ていいますかね

切り離すようにやってくんですけど
例えばね この例だと

先ほども
ちょっと話題になってましたけど…

つまり 戦いってことに
アイデンティティーのある

そういう人たちのために
やっているわけです。

だから どうしてもね
西郷たちには まだ

日本人のためと思いつつも どこか…

そういうものの中で
動いているところがあるんですよ。

それを 完全に脱していかなくちゃ
いけないんですね。

ですから これは どうしても
岩倉・大久保を支えてですね

あとは どうやって
政府の決定を覆すかってことが

問題だとは思いますけど
そこだと思いますね。

最後に伊藤さん どちらを選びますか?

私はですね 2のですね
岩倉・大久保をですね

支えるということです はい。

私はですね
もう一つ 付け加えるならば

近代化のお金を
どこから捻出するのかという。

それは結局 秩禄処分を
推進していくしかないので

簡単に言えばですね 秩禄処分でですね
31万5, 000家の士族をですね 処分すると。

10分の1ぐらいにですね
リストラしていくわけですね。

だから そのお金で 結局
近代化とか軍事力とかに

近代兵器にお金を回すという。

だから…

恐らく 伊藤は
いろんな条件を考えた結果

恐らく間違いなく 2のですね
岩倉・大久保を支えるという方針を

確信を持ってですね
とったんじゃないかと思います。

磯田さん 岩倉・大久保を支えると
皆さん言ってますが

これ 留守政府と共に近代化を進める
という選択肢は

この時点ではなかったんでしょうか?

そうですね…。

留守政府の近代化っていうのも
やってみたことは

我々は 現実
見ることはなかったんですけれども。

やったら 随分
今と違う形の近代化だったでしょうね。

やっぱり ある程度…

残ってても できたでしょうけど 例えば

西郷の どっちかというと…

そうすると そんな政府の中では

伊藤は あんまり居心地は
良くないでしょうね イギリスを見てきたね。

僕は やっぱり 伊藤さんとしては

2の「岩倉・大久保を支える」
じゃないですかね。

それでは 伊藤の選択をご覧ください。

伊藤の選択は あくまで
岩倉と大久保を支えることだった。

だが そのためには
すでに使節派遣でまとまった閣議決定を

ひっくり返す必要がある。

果たして 伊藤はどう動いたのか。

そのことをうかがわせる記述が
大久保の日記に存在した。

三条が倒れた2日後の10月19日。

大久保は次のように記している。

「ほかに挽回の策なしといえども

只 一の秘策あり」。

「一の秘策」。

伊藤之雄さんによれば
それは次のようなものだったという。

三条太政大臣が病気で倒れて
意識を失いますので…

太政大臣としての実権を振るって
使節派遣…

要するに 征韓というのをですね
やめさせるということですね。

太政大臣代理は 天皇を助けて
全権をもって実施するということで

別に 内閣で
どっちが多数ということには

あまり拘束されずにできると。

秘策は次のような形で実現した。

10月20日 明治天皇が岩倉邸を訪れ
岩倉に じきじきに こう伝えた。

岩倉を
太政大臣代理にする

という秘策。

伊藤さんは
その裏側で伊藤博文が動いていたという。

その根拠の一つが

大久保が日記に「一の秘策」と記す
その前日の記述。

この日
大久保宅を訪問した伊藤は

さらに その後
岩倉邸にも回っている。

両者の間で

秘策の根回しを
行っていたというのだ。

10月23日
岩倉は閣議で決まった西郷派遣案と

みずからの腹案である派遣延期案を
上奏する。

天皇の答えは すでに決まっていた。

西郷の派遣は
中止され

それを受けて
征韓派の参議5人は辞職した。

征韓論をめぐる対立は
使節団側の勝利に終わったのだ。

政変後 伊藤は工部に就任。

産業を興し
民力を育てることに手腕を発揮した。

その一つが…

当時 生野銀山は
採掘技術の限界から

産出量が
激減していたが

伊藤率いる工部省は

西洋の技術を導入することで
増産を図った。

これは 鉱山で使われた機械の設計図。

ボイラーやポンプ

掘り出した鉱石から金属を抽出するための
機械などが描かれている。

鉱山から港までは新たな道が整備され

精錬された銀を積んだ馬車が行き交った。

これは 日本初めての
産業道路ともいうべきものだった。

政変から12年後の明治18年。

伊藤は 初代内閣総理大臣に就任する。

明治23年には
第一回帝国議会が開かれた。

そこでは
貴族院と衆議院という二院制がとられ

近代国家の枠組みが整えられた。

その後 伊藤は みずから 政党を結成。

国民の声を国政に反映させることに
力を注いだ。

岩倉使節団で育んだ夢を
伊藤は終生追い続けたのである。

伊藤の選択は
岩倉・大久保を動かして

閣議決定を逆転する
という秘策でした。

伊藤さん 「一の秘策」について

伊藤博文が どんな役割を果たしたのか
詳しく教えていただけますか?

伊藤博文が考えたという史料は
残ってないんですけれども

経過から見てですね 伊藤が
中心になっているんじゃないかと

まず推定されます。

10月21日にですね

もう一回 閣議 開けということを
副島なんかが言うわけですけれども

岩倉が ぐらぐらっとするんですね。

その岩倉に対して…

…っていうことを 伊藤が
恐らく言ってるんだと思います。

そのあと 岩倉は もう ぐらぐらせずに
最終的な上奏をするんですね。

岩倉と大久保がいて
ただフォローしてるだけみたいに見えるけど

そうじゃないんですよね。

…って言ってもいいぐらいの
すごい作戦ですね。

僕がね これはすごいなと思うのは
何ていうか

将棋でいえば 妙手っていうか
「この手があったか」みたいなね。

というのは 普通ね
決まっちゃってるわけだから。

太平洋戦争のときなんか かなり
非合理的な決定でも

決まっちゃったら
動かないじゃないですか。

だから それと同じで
ほとんど動かないわけです。

だから ある意味で
非常に例外的なことだと思います。

日本の歴史の中で。

閣議の意思決定について
ちょっと申しておきますと…

その三条が倒れてしまって…

全体の状況を考えながら
決めてもいいんですね。

それが当時の太政官制の規則なんです。

それから もう一つですね…

直筆の回答を書くのは
非常に異例のことなんですね。

そこでは…

天皇の意見を変えちゃったわけですよ。

だから 非常にアクロバティックな方法で
天皇に根回しをして

天皇の意見を変えてしまう。

そうすると 空気による決定っていう
日本人の論理なんだけど

それを 何ていうか
例外的な方法だけれども

なんとか 日本人に納得させる方法で
逆転させるっていうね

なかなかの奇策ですね。

制度の抜け穴とか

ここをすればルールハックできるよね
っていうところを

結構 正確に見通すことができる能力を
持っていて。

これは やっぱり
彼の非凡さだと思いますし

うまく生きた策なんじゃないですかね。
この秘策っていうのは。

伊藤の「一の秘策」について 磯田さんは
どういうふうに評価しますか?

それは見事な方策ですよ。

この段で 自分たちが
徳川慶喜にしてやったこととかが

自分にやられてると思ったら

自分の政敵であるところの
伊藤や大久保に

もう 強硬尾行でいいですよ。
多量の兵士を… 憲兵をつけて

後ろ側から行動観察と
威圧をしなきゃいけなかったのに

彼 やっぱり 自分の政局の力で…

これをやらなきゃ勝てない局面で

幕末に幾度となく相手側にやったことを
西郷は やらず…。

これが敗着ですよね 将棋でいうと。

大久保と木戸はですね
この時期にですね 軍人を集めて

長州系 それから 薩摩系の軍人と
会ってるんですね。

ということは やっぱり
クーデターを警戒…

そういうことを警戒してるんだと
思いますね。

クーデター… それを言いがかりにして
逮捕しちゃってもよかったわけで。

これ 後に 西郷は…

…と言ってるので。

相手側は やったと言ってるわけですよね。
糾弾してるんですね 暗にね。

逆に 僕は 三条を
岩倉や伊藤が脅してた可能性は

史料に残らないところで
やっぱり 考えますね。

あるいは 本当に
自然に倒れたかどうかということも

実は あらゆる可能性 含めて
政治史は検証しないといけないと。

本当に あれは
自然にストレスで倒れたかどうか。

この辺は 史料に残らなきゃ
僕ら歴史家は 表では言えないけど

初めて 僕は人前で言ったんだけど
このことについて。

伊藤と大久保は 政変に勝利し

その後 彼らの手で
近代化が進められたわけですけれど

これは どう評価されますか? 伊藤さん。

とりあえずですね
ドイツをモデルにして

長期的には
イギリスをモデルにするという。

それから 西洋のですね
ものまねだけじゃなくて

日本の実情と合わせながら
進めていくという

非常に堅実なやり方で
近代化が進められて

それが 一応 成功していったのでですね
植民地にならなかったんだと思います。

だから 西郷的なことをやってれば

現代のどこかの発展途上国のような感じに
なってしまって。

あの時代ですから ひょっとしたら
列強の圧迫が非常に強くなってきて

植民地化されていく可能性も
あると思います。

この人が やっぱり いなければ

日本の工業製品がトップレベルだと
評価されることも

恐らく なかったんじゃないかと思うし。

富国強兵 殖産興業を
やっぱり この人は 立て役者として

けん引していったんだなというふうに
思うんですよね。

ただ その反面 無駄なものは
どうしても切り捨てちゃうっていう

マインドセットに
向かっちゃったのかなっていうところは

あるのかなと思うんですね。

切り捨てられた人たちの反乱が

西南戦争であったのではないかと
思いますけど。

この2つの戦いっていうのが
この時期に現れたのは

やっぱり象徴的で。 目に見えない…

にわかには役に立たないかもしれない
価値の部分というのを

日本人は どうやって扱ったらいいのかな
っていうのは

まだ 今も… 現在も解決されてないんじゃ
ないかなと思います。

最後に 磯田さん この明治6年の政変を

伊藤博文を中心に見てきましたけれども。

政変で伊藤が勝ったことでですね

明治日本って
伊藤が目指す姿の国になっていきました。

どうしてだろうと思うんですけど
やっぱり 冒頭で言ったように

伊藤は すごく はっきり

どういう国になりたいのかっていう
イメージを持ってたと。

僕は思うんですけど 現代の日本は

考えないといけないことだと思いますね。

将来っていったら
すぐ 今 不安とか思うんだけど

不安になる前に

自分たちは 本当は どういう将来や
どういう国になりたいのかを 望むかの

イメージ自身を やっぱり

我々自身 問いかけないかんな
というのが

この政治過程を見てて
すごく思いましたよね。

現代は 伊藤の時代よりも
もっと 時代の流れが速いので

脱皮回数なんていうのは
ものすごい量で必要になりますよね。

ですから 将来像を
地域のレベルでも 家族のレベルでも

どんなふうに持つのかということを
大事にすると。

伊藤は 良くないところも
たくさんありますけど

将来に対するイメージをはっきり持つ。
イマジンっていう。

これは非常に大事なことで

僕らが考えないといけないことかなと
思いましたね。

今日は 皆さん ありがとうございました。


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