ファミリーヒストリー「フジコ・ヘミング~母の執念 魂のピアニスト誕生~」日本人の母とスウェーデン人の父との間に…


出典:『ファミリーヒストリー「フジコ・ヘミング~母の執念 魂のピアニスト誕生~」』の番組情報(EPGから引用)


ファミリーヒストリー「フジコ・ヘミング~母の執念 魂のピアニスト誕生~」[解][字]


フジコさんの母は日本人、父はスウェーデン人。両親は戦争中に別居し、母はフジコさんをピアニストにするため懸命に働いた。しかし、成功した姿をみることはなく亡くなる。


詳細情報

番組内容

ピアニスト、フジコ・ヘミングさんは日本人の母とスウェーデン人の父との間に生まれた。ドイツで暮らしていた一家は、第二次世界大戦の前、日本にやってきた。しかしまもなく、両親は不仲になり、父は一人、日本を離れた。戦後、母はフジコさんをピアニストにしようと、女手ひとつで懸命に働く。しかし母は、フジコさんが成功をする姿を見ることなく、亡くなった。フジコさんが弾くピアノの音色と共に壮絶な歳月が浮かび上がる。

出演者

【ゲスト】フジコ・ヘミング,【司会】今田耕司,池田伸子,【語り】余貴美子


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ファミリーヒストリー「フジコ・ヘミング~母の執念 魂のピアニスト
  1. 投網子
  2. フジコ
  3. ピアノ
  4. ジョスタ
  5. 昭和
  6. 当時
  7. 日本
  8. 専平
  9. ドイツ
  10. ピアニスト
  11. ベルリン
  12. 大阪
  13. 明治
  14. クロイツァー
  15. スウェーデン
  16. 写真
  17. 大月家
  18. 東京
  19. 墨インキ
  20. 練習


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♬~

東京にある音楽ホール。

2019年11月。 数奇な運命をたどった
一人のピアニストの演奏を聴くために

大勢の人たちが集まってきました。

ピアニストの名は…

♬~

フジコさんは 遅咲きの60代でブレイク。

80代後半となった今も 世界各地の
ステージに立ち 人々を魅了しています。

彼女は いつしか 魂のピアニストと
呼ばれるようになりました。

フジコさんの母 大月投網子。

昭和2年 ドイツにピアノ留学。

ベルリンで スウェーデン人のデザイナー
ジョスタ・ヘミングと結婚し

フジコさんが生まれました。

母の影響でピアノを始めたフジコさん。

10代の頃 天才少女とうたわれましたが
ピアニストにとって大切な聴力を失い

また一時期 無国籍者となるなど
過酷な人生を歩んできました。

今回のゲストは フジコ・ヘミングさんです。
よろしくお願いします。

ようこそ お越し下さいました。
(拍手)

いやぁ…

さあこれから 「ファミリーヒストリー」
見て頂きますが いかがでしょう。

ドキドキですか?

はい そうですね。

今日は ドンと来い!という。 ねぇ。
そうですね。

過去は受け入れるということですから。

♬~

まずは フジコさんの母方 大月家の
歴史をたどるため 大阪に向かいます。

遠縁にあたる…

長年 大月家の歴史を調べてきました。

親戚への聞き込みや 墓などを巡り
30年近くかけて完成した家系図。

それによると
健太郎さんとフジコさんは

4代前の高祖父 大月仁喜太という
人物でつながっていました。

現在遡れる大月家の一番古い戸籍に
仁喜太の名前がありました。

住所は 岡山県賀陽郡
日羽村とあります。

岡山市から 30キロ。

戸籍にあった 岡山県賀陽郡日羽村は

現在の 岡山県総社市日羽。
山あいにある町です。

江戸末期の日羽付近の地図を写した
写真が見つかりました。

大月仁喜太は 比較的大きな土地を
所有していたと思われます。

失礼いたします。
は~い どうぞ。

大月本家の現在の当主…

博視さんは 現在93歳。

江戸期に書かれた古文書を
数多く保存しています。

天保十三年 奉行所に提出された文書です。

その中に 大月仁喜太の名前がありました。

仁喜太は 年貢の徴収 上納などを行う
村の代表者の一人でした。

仁喜太から明治11年
12歳で家督を継いだのが 庫次郎。

後に専平と名を変えた
フジコの祖父です。

大阪に暮らす…

昭和39年
専平の孫と結婚して 56年。

大月家を守ってきました。

40代前半の 大月専平の写真がありました。

長男が記した専平に関するメモが
写真と一緒に保管されていました。

「印刷インキ工業史」という本の中に
功労者として

専平の人生が紹介されていました。

「明治10年代の末期

当時のインテリ青少年を風靡した
民権自由の思想に憧れて…」。

岡山市で生まれた犬養は
明治8年 二十歳の時に上京。

慶應義塾に学びながら
新聞記者として活躍します。

岡山市内にある犬養木堂記念館には

犬養 毅に関する歴史資料が
保存されています。

同じ頃 10代半ばだった大月専平は
実家の農業を継がず 東京に向かいます。

岡山県立記録資料館の館長を務める…

「大隈邸に出入りしているうち

当時の政党関係の新聞発行者にも
よく会ったので

新聞の墨インキが

ほとんど舶来で
あることを知った」。

当時 犬養と交流のあった大隈重信。

専平は 大隈邸に出入りする中で

政党の機関誌を
手に取るようになったのです。

すると専平は 新聞紙面を印刷する
インキについて 興味を持ちます。

当時 舶来の墨インキは
品切れになることが多く

印刷業者は不便していました。

日本の墨インキは
植物油を使用し 値段が高く

印刷する時の質に 問題がありました。

そこで専平は
機械油から墨インキを作る方法を研究

生産することに成功したのです。

明治29年創業
印刷インキの老舗メーカーです。

明治20年代の半ば 大月専平は

大阪の北梅田町に
墨インキ工場を立ち上げます。

大月専平製産商店。
もうすぐ 30歳になるという頃でした。

専平が生産に成功した墨インキは
大阪毎日新聞の印刷に使用され

事業は大成功します。

そんな明治36年
専平の次女として生まれたのが

フジコの母 投網子です。

しかし 大正元年9月。
専平は病に倒れ 早世します。 享年 47。

新聞に出した
葬儀の案内には

跡取りとして 当時
僅か1歳の長男の名が

記されていました。

フジコの母 投網子が9歳の時のことです。

へぇ~。

明治36年 大阪・淀川区中津に生まれた

後のフジコの母 投網子。

裕福な大月家には ピアノがあり
幼い頃から慣れ親しんでいました。

大月専平の家督を継いだ
皎太郎の長女…

大金持ちやったから
ピアノがある…。

(深瀬)これ これ。

明治時代 大阪に暮らす個人宅で
高価なピアノを所有していたのは

20人から30人程度と言われています。

昭和初期に撮られた
一枚の写真が見つかりました。

背後に見えるのが
大月家が経営するインキの工場。

煙突が そびえ立っています。

創業者の大月専平亡きあとも
妻や親族によって 事業は継承され

会社は順調でした。
は~ すごっ。

投網子は 竹を割ったような性格。

思ったことは 何でも言ってしまうという
行動力あふれる女性に成長していきます。

投網子は 大阪の学校でピアノを学びます。

当時の記録が残っていました。

(取材者)メンデルスゾーン。
(大梶)そうですね。

大正8年に行われた
演奏会のパンフレットに

投網子の名が
ありました。

へ~ すごっ。

記念写真には
当時17歳の投網子が写っています。

更に投網子は
ピアノ演奏の技術を高めたいと

音楽教育の最高峰
東京音楽学校への進学を目指します。

受験のため1年間勉強し
翌 大正11年 合格を果たします。

器楽部ピアノ科に進みました。

投網子は 日本最古の洋式音楽ホール
奏楽堂での演奏会に出演するなど

ピアノの練習に没頭します。

成績表も残っていました。

実技だけでなく 学科も優秀な学生でした。

大正15年 投網子は
厳しい試験を乗り越え

無事 4年で卒業します。

昭和2年に発行された 「現代音楽大観」。

当時 活躍していた音楽家が
紹介されています。

そこに 投網子の履歴が
詳しく書かれていました。

…と あります。

間もなく投網子は
音楽留学する決断をします。

昭和2年 実家から援助を受けて
向かったのは ドイツ・ベルリン。

24歳の時でした。

今から93年前。 投網子はホッホシューレ。
現在のベルリン芸術大学に学びます。

師事したのは ロシア出身で
20世紀を代表するピアニストの一人…

後にクロイツァーは ユダヤ人である
という理由で ドイツを追われ

日本に移り住みました。

東京音楽学校などで指導し

日本の音楽界に
多大な貢献をすることになります。

東京にある フジコさんの自宅です。

♬~

ここに フジコさんが大切にしている
ピアノがあります。

母・投網子が ドイツ留学時代に買い
船便で日本に持ち帰りました。

きれい。

当時 最高のピアノの一つと言われた
ブリュートナー社製です。

ピアニストで ピアノ研究家でもある
松原 聡さんは

製造番号から 何年につくられた
ピアノであるか 分かると言います。

投網子の買ったブリュートナーピアノに
あった 製造番号を写した写真です。

番号は 66374とありました。

左の数字は製造された年。

右の数字が その年のうちにつくられた
ピアノの番号です。

投網子のピアノの番号は
66374。

よって 1905年
明治38年に製造された

ピアノと特定できました。

そう 中古 中古で。
ふ~ん。

昭和7年に 日本の音楽雑誌に掲載された
広告です。

ブリュートナーのピアノは
定価 4, 300円。

今の価格にして およそ1, 000万円以上。

中古でも 500万円以上になります。

高級品だ。

戦前の日本の音楽史を研究する…

留学中のベルリンで
投網子は 一人の男性に出会います。

7歳年下のスウェーデン人…

後のフジコさんの父です。

美術学校で学びながら
映画のポスターなど

デザインの仕事をしていました。

二人は恋に落ちます。

そして 留学して4年目の1931年8月22日
投網子はジョスタと結婚。

ベルリン市に提出した結婚証明書が
残っていました。

投網子 28歳。
ジョスタ 21歳の時です。

(2人)え~!?

あっ そうですか。

フジコさんの父 ジョスタ・ゲオルギ・ヘミングは

母のシグナ 妹・グレダと共に幼い頃

スウェーデンから ドイツに移り住みました。

こんな写真 どっから来たの?
私 見てない。

ジョスタは 映画会社の美術部に勤務。

マレーネ・ディートリヒ主演の 「上海特急」の
ポスターなどを手がけるデザイナーでした。

だから やり手でしょう。
21歳で これ…。

21歳ぐらいですから。
任せられるってね。

そんなジョスタが
二十歳の時に出会ったのが

日本人留学生 大月投網子です。

ベルリンで 投網子とジョスタが暮らした
アパートは 当時のまま残っています。

やっぱすごいな ヨーロッパは。
残ってるね。

二人の新婚生活が書かれた
昭和6年の雑誌記事がありました。

投網子の東京音楽学校時代の同級生で
ベルリンに留学していた

声楽家の
奥田良三によって
書かれたものです。

なんか 私を抱いてくれ…
お守りしてくれたって。

「トアと自分のための日記」と題された

昭和6年 1931年2月の
ジョスタの日記です。

情熱的。

ジョスタは 7歳年上の投網子に甘え
頼りにしていました。

間もなく フジコがベルリンで誕生します。

すると 投網子とジョスタは
日本で暮らすことを決めます。

当時ドイツは ナチスが台頭。

ヨーロッパに きな臭さが
漂い始めていた頃でした。

昭和7年7月。 投網子はジョスタと
乳飲み子のフジコを連れ

5年ぶりに 日本に帰国します。

音楽雑誌に
凱旋さながらの報道もされるほど

国際結婚は まだ物珍しい時代でした。

来日4か月後の昭和7年11月

投網子の後押しで
ジョスタの個展が開かれました。

デッサン29点 ポスター62点が
展示されます。

翌 昭和8年に 投網子はジョスタの作品を
まとめたカタログを出版します。

ジョスタの言葉です。

カタログには ジョスタがデザインした
日本郵船。

明治チョコレートの広告が載っています。

東京にある 独立美術協会。

当時 脚光を浴びていた画家たちが
主催する展覧会に

ジョスタが応募していたことが
分かりました。

タイトルは 「アフリカの屋根」。

近現代美術の専門家 山田 論さんに
ジョスタの作品を見てもらいました。

昭和9年には 弟のウルフが生まれます。

ところが 家族の間に
不穏な空気が流れ始めます。

ジョスタに思うように
仕事の依頼が増えなかったのです。

投網子は 生活費を稼ぐため

子育てをしながら
ピアノの教師を始めます。

擦れ違うようになり 夫婦は
言い争うようになっていきました。

昭和11年の新聞に 「幸福の夢破れた
国際愛」という見出しで

ジョスタの女性問題が報じられ
投網子のコメントが掲載されます。

そんなことが記事になるの?

「投網子さん語る」って
書いてあるよ。

「国際愛の破局双曲線」と
見出しが躍った雑誌記事には

当時 日本で活躍していた
クロイツァーが…

…と忠告したことが
紹介されています。

ジョスタは 家に戻りますが

しばらくすると 再び家を空けることが
多くなっていきます。

昭和12年7月 日中戦争が始まり

人々の生活の中に
戦争の影が さし込んできます。

外国人であるジョスタは
警察から監視されるようになります。

何か御用でしょうか?

外国人は油断ならんのでな…。

待って下さい!

気性の激しい投網子は
警察官に 猛烈に抗議したといいます。

当時 内務省警保局は
外国人の状況を 徹底的に調べていました。

戦時下の外国人について研究している…

そりゃそうやな 当時は。

昭和13年 ジョスタは
妻と2人の子を残し

スウェーデンに帰国します。

日本に来て 7年目のことです。

ジョスタがスウェーデンから送ってきた
手紙が 何通か残されています。

しかし 投網子や子どもたちが

その後 ジョスタと共に暮らすことは
ありませんでした。

投網子は ジョスタと別れ

幼い子どもたちを一人で育てていく
決意をしたのです。

スウェーデンの首都 ストックホルムから
およそ200キロにある オレブロの町。

ここにある大学の芸術学部で
学部長をしている フジコさんの妹

エヴァ・ゲオルギ・ヘミングさんを
訪ねました。

ジョスタは スウェーデンで再婚。
1960年 エヴァさんが生まれました。

ジョスタは 日本に残してきた家族のことを
エヴァさんに話していました。

戦後 テレビや映画で外国人役として
活躍してきた俳優の 大月ウルフさん。

フジコさんの3歳下の弟です。

ウルフさんには 父・ジョスタの記憶が
全くありません。

ウルフさんが大切に保管している
父の描いた絵があります。

母・投網子をモデルにした絵です。

1986年 ジョスタは75歳で亡くなりました。

日本に戻ることは
一度もありませんでした。

うん。

昭和13年 35歳の時
ジョスタと別れた投網子は

女手一つで 子どもたちを育てるため

ピアノを教えに歩きます。

投網子にとって 6歳年上の姉

吉乃一家との交流は 心許せる時間でした。

おばさん。

東京・三鷹の吉乃の家を
投網子は 度々訪ねました。

こんにちは。 お邪魔いたします。

どうぞ よろしくお願いいたします。

孫の道乃さんは
吉乃が戦前に描いた

一枚の びょうぶ絵を
見せてくれました。

お~ 大作。

♬~

投網子は フジコが5歳の頃に
何気なく弾いたピアノの音色に驚きます。

そして ピアノを教えるようになりました。

投網子のレッスンはスパルタ式でした。

ニャオ。

投網子は フジコが通う小学校の同級生や
知り合いの子どもたちに

ピアノを教えました。

生活をしていくため 必死に働きます。

後に 投網子にピアノを習った…

投網子から 連日厳しいレッスンを受けた
フジコ。

8歳の時 NHKのラジオ番組で
ショパンの即興曲を演奏したところ

天才少女と反響を呼びました。

投網子は 大阪の実家に援助を頼み

フジコを 外国人の子どもたちも通う

青山学院緑岡小学校に入学させます。

いじめられないようにとの
願いからでした。

こんにちは。 「ファミリーヒストリー」で
お邪魔いたします。

青山学院緑岡小学校で
フジコの同級生だった…

忘れられないエピソードがあります。

毎日 ピアノを教えに行っていた
投網子は

帰宅するのが
夜遅くになることもありました。

♬~

既に寝床に入っていたフジコは
隣の部屋から聞こえてくる

投網子の奏でるピアノの音を聴くのが
大好きでした。

フジコが小学校5年生になった ある日

投網子は 恩師・クロイツァーのところへ
連れていきます。

ユダヤ人であるクロイツァーは
ドイツを追われ

当時 都内で暮らしていました。

投網子は フジコの才能を伸ばすために

レッスンをしてくれるように
頼み込みます。

それも タダ同然で。

この時のことを フジコは
自伝の中で記しています。

♬~

フジコが弾いたのは
ショパンの「子犬のワルツ」。

クロイツァーは フジコの演奏に感心。

「世界中を魅了する
ピアニストになるだろう」と言い

無償で
指導してくれることになったのです。

♬~

昭和16年12月に始まった太平洋戦争は
年を追うごとに戦局が悪化していきます。

当時 一家は 渋谷に暮らしていました。

昭和20年に入ると
空襲は激しくなっていきました。

4月 投網子は 渋谷にあった家を離れ

亡き父 専平の故郷
岡山に疎開することにします。

投網子が大切にしていた
あのブリュートナーのピアノは

三鷹に住んでいた姉
吉乃の家に預けることにしました。

1か月後の昭和20年5月。

渋谷一帯を焼い弾が襲い
住んでいた家は焼失。

それでも投網子のピアノは
難を逃れることができたのです。

疎開先の家近くには
かつて 日美小学校がありました。

戦後 日美小学校などを統合して
創立された…

倉庫に 当時の学校日誌が
保管されていました。

ええと ここですね。

日美小学校には
地元の名士によって寄付された

国産のグランドピアノがありました。

投網子は 学校に掛け合いました。

このピアノで フジコが早朝と夕方

練習ができるように頼んだのです。

すごいね 戦争中。

大阪に住んでいたフジコのいとこ
深瀬美津子さんも

投網子一家と同じ家で
疎開生活を送っていました。

すごいな。

♬~

フジコは毎日 小学校のピアノで
練習を続けました。

当時10歳だった加藤淑子さんは
小学校の隣に住んでいました。

ピアノを練習するフジコの姿を
今でも よく覚えています。

フジコが弾いていたピアノは 今も
総社市立昭和小学校で使われています。

平成9年 廃棄寸前だったピアノを
地域の人々の呼びかけによって修理し

再び使用するようになったのです。

どんな音色がするのか。

6年生の坪井美夏帆さんに
ピアノを弾いてもらいました。

♬~

保存が決まったあと

戦時中に フジコが練習で弾いていた
ピアノであることが分かり

地域の人は 驚いたといいます。

(取材者)どんな気持ちで?

昭和20年 フジコは疎開先の岡山で
終戦を知りました。

13歳の時のことです。

うん。
ね。

昭和21年 フジコが14歳の時につけていた
絵日記です。

母・投網子のピアノで
連日 練習していたことが描かれています。

絵日記には
クロイツァーも登場しています。

戦後 東京に戻ったフジコは母の指示で

クロイツァーのところへ
レッスンに通っていました。

戦前 時に援助してくれていた

大阪の投網子の実家は 空襲により焼失。

一家の生活は
更に苦しくなっていきました。

それでも投網子は フジコに
ピアノを続けさせました。

しかし 16歳になったフジコに
つらい出来事が起こります。

中耳炎をこじらせ
右耳の聴力を失ったのです。

♬~

それでもフジコは 聞こえる左耳を頼りに
ピアノを続けました。

母と同じ 東京芸術大学に進み

22歳の時には NHK・毎日音楽コンクールで
2位入賞を果たします。

フジコは いつしか
母と同じように

ドイツに留学してみたいと
思うようになります。

ところが フジコが
ドイツへの留学の手続きをしたところ

思わぬことが分かります。

無国籍者となっていたのです。

戦後の混乱の中 国籍選択の手続きを
していなかったためでした。

渡航費用は 投網子が貯金をはたき
工面しました。

昭和36年 フジコは29歳で
ベルリンに渡ります。

投網子は 仕送りも続けました。

1ドル 360円の時代に
毎月 100ドルを送金しました。

フジコがドイツに旅立ったあとも
投網子は 必死にピアノを教えました。

児玉須賀子さんの家には
週1回 教えにやって来ました。

チャンスを求めて ベルリンから
ウィーンへと拠点を変えたフジコ。

日本を出て8年目の昭和44年
やっと好運をつかみます。

世界的な指揮者 レナード・バーンスタインらの
目に留まり

ウィーンで ピアノリサイタルを
開くことになったのです。

街の中に
ポスターも貼り出されました。

しかし フジコに悲劇が襲います。

リサイタル直前に
高熱を出してしまったのです。

その知らせを聞いた母・投網子。

娘の不運に がく然とします。

失意の中 スウェーデンに渡ったフジコは
父と再会します。

更に 左耳を回復させるための
治療を受けます。

その後 再びドイツに向かいました。

このころを振り返った
雑誌のインタビュー記事です。

フジコに 大きなチャンスは
巡ってきませんでした。

ピアノ教師として
生計を立てるしかありませんでした。

昭和44年 母・投網子は渋谷の家を売り
劇団の稽古場だった建物を買います。

その自宅で 投網子は
時折 日本に戻るフジコに

小さなコンサートを開かせました。

♬~

これは 平成3年に開いた時の映像です。

♬~

娘の演奏に耳を傾ける
母・投網子の姿です。

この時フジコは 日本を離れて30年目。

投網子は 88歳となっていました。

コンサートを聴きに行っていた 岡村麻代さん。

投網子の言葉を よく覚えています。

コンサートから2年後。

ドイツに住むフジコのアパートに
投網子から 国際電話が入ります。

ママ 元気? どうしたの?

「しっかり やりなさい」。

それが フジコが最後に聞いた
母・投網子の声でした。

平成5年 投網子は90歳で亡くなります。

最期の日まで 娘・フジコの才能を信じ
成功することを願っていました。

ベルリン 寒そう。

母の死から2年後の平成7年。

フジコさんは 生活の拠点を
日本に移すことを決意。

母が愛した部屋で暮らし始めます。

その3年後 フジコさんは
時々立ち寄っていた自宅近くの教会で

何気なく置かれてあった冊子を
手に取ります。

そこには こう書かれていました。

平成11年2月 苦難に満ちたピアニスト
フジコ・ヘミングさんの人生を描いた

ドキュメンタリーが放送され
大変な反響を呼びます。

フジコさんのコンサートのチケットは
たちまち ソールドアウト。

60代で フジコ旋風を巻き起こしたのです。

♬~

ピアニストで エッセイストでもある…

母・投網子が信じた 娘・フジコの才能が
ついに花開いたのです。

80代となった今も 会場は常に満員。

昨年 行ったコンサートは
国内外で 62を数えました。

あ ごめんなさい。

フジコさんの演奏は 今も

世界中の人々の心に
響き続けています。


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