にっぽん!歴史鑑定「鎌倉殿と北条義時」抜擢された理由は頼朝との男色関係?3代・実朝暗殺!黒幕は義時?果して…


出典:『にっぽん!歴史鑑定「鎌倉殿と北条義時」抜擢された理由は』の番組情報(EPGから引用)


[字]にっぽん!歴史鑑定「鎌倉殿と北条義時」


鎌倉幕府執権・北条義時。2代将軍・頼家を支える十三人の合議制。メンバーに抜擢された理由は頼朝との男色関係?3代・実朝暗殺!黒幕は義時?果して義時は悪人?善人?


詳細情報

出演者

【歴史鑑定人】田辺誠一【ナレーター】鈴木順

番組内容1

鎌倉幕府は、源氏の棟梁で鎌倉殿と呼ばれた源頼朝によって開かれ、2代・頼家~3代・実朝へと繋がっていきました。その3人の鎌倉殿に仕え、幕府の実権を握っていったのが鎌倉幕府2代執権・北条義時!後世、血なまぐさい権力闘争を勝ち抜き“腹黒い男”と言われて来ました。

2代将軍・源頼家を支えるために新設された「十三人の合議制」。

番組内容2

そのメンバーに幕府内でも目立たなかった義時が大抜擢された理由は頼朝との男色関係?実の父・北条時政を幕府から追放!そのきっかけとなった権力闘争とは?3代将軍・源実朝暗殺!黒幕は義時だった?その真相とは?果して義時は悪人か?善人か?その素顔に迫ります!

監督・演出

秋山翔太

HP

http://www.bs-tbs.co.jp/kantei

制作

2020年


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にっぽん!歴史鑑定「鎌倉殿と北条義時」抜擢された理由は頼朝と
  1. 義時
  2. 頼朝
  3. 時政
  4. 実朝
  5. 幕府
  6. 頼家
  7. 後鳥羽上皇
  8. 政子
  9. 代将軍
  10. 将軍
  11. 北条氏
  12. 鎌倉
  13. 重忠
  14. 比企氏
  15. 暗殺
  16. 鎌倉幕府
  17. 御家人
  18. 上皇
  19. 家子
  20. 自分


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<鎌倉は 日本初の武家政権>

<鎌倉幕府が開かれた地です>

<幕府は
源氏の棟梁で鎌倉殿と呼ばれた>

<源頼朝によって開かれ>

<2代・頼家
3代・実朝へと>

<つながって
いきました>

<その3人の鎌倉殿に
仕え>

<幕府の実権を
握っていったのが>

2022年の大河ドラマの主役に決まったことで

話題になっていますよね

義時は 頼朝の妻で
尼将軍として有名な

北条政子の弟です

義時は 頼朝が亡くなり

幕府の体制が揺れる中で

政治家としての頭角を現していき

姉・政子とともに
鎌倉幕府をもり立てていった人物

しかし その過程では

血で血を洗う権力闘争が

幕府内で繰り広げられていきました

その すべてを主導していたのが
義時だったといわれ

陰険で腹黒い悪人だった
という評価も

本当に 北条義時は
腹黒い人間だったのか?

そして
いかにして実権を握ったのか?

その人生を見ていくことにしましょう

<2代将軍・源頼家を支えるために新設された>

<十三人の合議制>

<そのメンバーに 幕府内でも目立たなかった
義時が大抜てきされた理由は>

<にあり?>

<実の父・時政を幕府から追放>

<その きっかけとなった
血なまぐさい権力闘争とは?>

<3代将軍・源実朝暗殺>

<黒幕は義時だった?>

<その真相とは?>

<倒幕を掲げ
後鳥羽上皇が起こした>

<承久の乱>

<実は 上皇の本当の狙いは>

<義時追討だった?>

<一体なぜ?>

<その歴史の謎 鑑定します>

<北条義時の人生は>

<実に波乱に満ちていました>

<その人生を大きく変えたのが>

<源頼朝との出会いです>

<北条義時は 現在の
静岡県伊豆の国市にあたる>

<伊豆国田方郡を拠点とした豪族>

<北条時政の次男として>

<長寛元年
1163年に生まれます>

<当時 北条氏は伊豆の在庁官人>

<いわゆる地方の一役人で>

<小規模な武士団にすぎませんでした>

<また 時政には>

<嫡男
宗時がいたため>

<義時は江間の土地を与えられ>

<北条の分家扱いとなります>

<そのため 若い頃は>

<江間小四郎義時と
名乗っていました>

<しかし 運命は大きく変わります>

<義時の姉・政子が>

<源頼朝と恋に落ちたからです>

<政子は 平家に敗れ>

<伊豆で
流人生活を送っていた>

<頼朝と駆け落ち>

<父・時政は渋々 2人の結婚を認め>

<これによって 北条氏は>

<源氏と姻戚関係になりました>

<実は
結婚を認めた裏には>

<政子の駆け落ち以外に>

<時政の
ある戦略があったのだと>

<鎌倉幕府の歴史に詳しい
細川重男さんはいいます>

東伊豆の沿岸部をずっと通ってる

伊東氏というのが
特に勢力が圧倒的に大きかった

時政的には このままいると

北条は いずれ
伊東に のみ込まれてしまうと

それを何とかしなければいかんと その中で

政子が頼朝という
大変よい血筋の人と くっつきたいというから

それは 戦略としては
一つあってもいいだろうっていうのが

一つの決断だったと思います

<頼朝が平家打倒を掲げ 挙兵>

<義時は 父・時政 兄・宗時らとともに>

<頼朝の軍勢に参加することになったのです>

頼朝は挙兵するも 相模の石橋山で

平家方の武将
大庭景親の軍勢に惨敗

敗れた頼朝軍は散り散りになりました

義時は 兄・宗時と別れ

父・時政とともに何とか逃げ延びます

ところが 敗走の途中

兄・宗時が敵に追いつかれ

討ち死にしてしまったのです

兄を失ったのは
義時にとって大きな衝撃でした

しかし この戦いを生き抜いたことで

義時の人生が
大きく切り開かれることになるのです

やがて 義時は頼朝とともに

新たな拠点地に入ります

その地は 鎌倉です

<頼朝は鎌倉に入ると兵集めに奔走>

<地盤を固めていきました>

<その頃の 頼朝と義時の
あるエピソードが残されています>

<頼朝36歳 義時 二十歳のときのこと>

<頼朝が妻・政子の妊娠中に浮気>

<これに端を発した騒動の中で>

<腹を立てた政子の父・時政が>

<勝手に伊豆に帰ってしまったのです>

<慌てたのは 頼朝です>

(頼朝)「義時が まだ鎌倉にいるか捜せ!」

<頼朝が心配したのは
時政が帰ったこと以上に>

<義時が一緒に鎌倉を
出てしまったのではないか>

<ということでした>

(頼朝)「今 義時がいなくなったら困るのだ」

<そんな頼朝の気持ちなど つゆほども知らず>

<ただ いつもどおり鎌倉の
自分の家にいた義時は>

(義時)「お館様 こんな夜更けにお呼び出しとは
一体 何事でしょう?」

(頼朝)「おお~ 義時よ
よくぞ鎌倉にいてくれた」

「その忠義があれば
お前は きっと将来」

「我が子孫を守ってくれるに違いない」

「恩賞を与えよう」

(義時)「えっ あ… ありがたきこと」

<義時は 訳も分からず
家にいただけで褒美をもらったのです>

まあ 義時が頼朝に気に入られていた
ってことが 分かる話ではあるわけですけど

だから 義時にしてみると
家にいただけで何もしてませんから

それで恩賞をもらうって
よく分かんないことでございまして

まあ 義時っつったら
自分で いつも何もしてないんですよね

自分で何もしてないのに
周りで なんか大騒ぎが起こって

で それに義時が巻き込まれていくと

で そんとき 義時は
いつも心の中で どう思ってたかっていうと

もう帰っていいですか? っていうのが

義時の本音だったと思いますよ

<ともあれ 頼朝の信頼を勝ち取った義時>

<どれほど気に入られていたかは>

<義時が与えられた身分からも
分かるといいます>

<頼朝は 御家人を>

<門葉 家子 侍に区分>

<門葉とは 頼朝と血のつながった源氏一門>

<侍は血縁のない一般的な御家人>

<そして 家子は>

<御家人や その子弟の中で>

<頼朝が個人的に親しくしていた者から選んだ>

<側近のこと>

<義時は 頼朝の寝室の
警護を任されたのち>

<家子に抜てきされ>

<頼朝の側近となったのです>

先生 すみません

頼朝の寝室の警護を任されるとは

義時 だいぶ信頼されている気がしますね

そうですね まあ あの

頼朝の家子っていうのは

頼朝の親衛隊というようなものなんです

ですから ええ~
この義時の地位ってのは

ええ~ 頼朝から相当 気に入られてないと

考えられんじゃろうと思いますね 私も

なるほど

当時は 男色なども多かったと思いますが

そういった関係もあったのでしょうか?

ちょっと考えらんないですよね

大体 あの 義時と頼朝が
そういう関係だったら

政子 また怒り狂って もう

家庭内の大紛争になるわけでございますから

それは あり得ないなと私は思いますけどね

なるほど

先生 ありがとうございました

<やがて 頼朝は
鎌倉を拠点に勢力を伸ばし>

<平家や奥州藤原氏を
次々と滅ぼすと>

<武士の頂点に上り詰めます>

<そして>

<朝廷から征夷大将軍に任じられるのです>

<これにより 一介の田舎武士だった>

<義時達 北条氏は>

<日本初の武家政権の中枢に居並ぶことに>

<このとき
頼朝 46歳>

<義時 30歳>

<頼朝は 御家人達から
鎌倉幕府の棟梁の称号である>

<鎌倉殿と呼ばれるようになりました>

<こうして始まった 武士の世>

<ところが>

<建久10年 1199年>

<頼朝が急死>

<その突然の死に
義時は大きなショックを受けました>

<カリスマであった頼朝の跡を継ぎ>

<2代将軍 鎌倉殿となったのが
頼家>

<しかし まだ18歳と年若く
経験も浅いことから>

<政治が混乱するのでは と>

<幕府内で心配の声が上がるのです>

<そこで ある制度が設けられます>

<です>

<十三人の合議制とは>

<幕府内の有力御家人が13人集まって>

<訴訟に関する会議を開き>

<決定事項を頼家に上申>

<頼家が最終的な決断を下すという制度です>

<選ばれた13人はというと>

<義時の父・北条時政をはじめ>

<流人時代から頼朝を支えてきた>

<比企氏の比企能員>

<石橋山の戦いで
平家方でありながら頼朝を見逃し>

<のちに寝返った 梶原景時>

<さらに
平家打倒の挙兵時から武功を挙げてきた>

<三浦義澄 安達盛長など>

<いずれも頼朝を支え>

<戦や幕政などで目立った活躍をした
御家人達でした>

<そんな中に 義時も>

<37歳の最年少で
選ばれたのです>

<しかし 義時は>

<平家追討軍に加わるも目立った戦績はなく>

<また幕政に
深く関与したわけでもありません>

<では なぜ戦で貢献していなかった義時が>

<若くして選ばれたのでしょうか?>

<それは 義時が頼朝の家子だったことが
関係しているといいます>

まあ 家子は
あの 御家人の中でも

まあ ぶっちゃけ言っちゃうと
エリートってことですから

で 義時が その中でも

専一 専門の「専」に一番の「一」で

ナンバーワンっていう意味ですから

義時は
家子のナンバーワンであったと

義時がメンバーに選ばれたっていう
その理由については

色んな説があるんですけど

義時は 先代の偉大なる頼朝の家子であったと

その家子の代表として入ったと 私は思います

<こうして始まった 十三人の合議制でしたが>

<すぐに ほころびが生じます>

<メンバーの梶原景時が>

<御家人からの信頼を失い 失脚>

<さらに 三浦義澄や安達盛長が>

<病気で相次いで亡くなるのです>

十三人の合議制を始めてから 1年ほどで

3人もメンバーがいなくなってしまったのです

こうして 十三人の合議制は
崩壊の道をたどることになりました

そして このあと 御家人同士の

血で血を洗う権力闘争が激化していきます

2代将軍・頼家をめぐる

北条氏と比企氏の激突です

<鎌倉幕府 2代将軍
源頼家をサポートするために新設した>

<十三人の合議制が崩壊>

<すると 頼家は>

<有力御家人の比企氏を
重用するようになります>

<元々 京の都にいた比企氏は>

<長く頼朝に仕えてきた 有力御家人>

<頼朝の乳母であった 比企尼は>

<頼朝が伊豆に流された際にも>

<生活を援助するなど支え続けました>

<その恩を忘れていなかった
頼朝は>

<嫡男
頼家が生まれると>

<比企氏から
乳母を出させ>

<頼家の養育を
任せました>

<これにより 比企尼の甥である
比企能員が>

<幕政で頭角を現すことに>

<やがて 頼家は>

<比企能員の娘と
結婚>

<嫡男・一幡を
授かりました>

<ですから 頼家が
比企氏を重用するのも当然のこと>

<そのため 北条氏は>

<将軍・頼家の母方の外戚
という立場にありながら>

<比企氏に押されて
影が薄くなってゆくのです>

<そんな中>

<頼家が病に倒れます>

このまま一幡が次の将軍になれば

ますます比企が強くなってしまう

<焦った時政が動きます>

<将軍・頼家の
病気回復祈願をするため と>

<比企能員を自分の館に呼び出し
殺害>

<さらに 幕府の軍勢に比企氏の館を襲撃させ>

<比企氏を滅亡させるのです>

<このとき 幕府側の大将に任じられたのが>

<義時でした>

<義時は 父の策略に加担し>

<まだ幼い一幡を
その手で討ち取ったというのです>

<そのため 義時も父と同様に>

<比企氏をだまし討ちにした>

<腹黒い武士だったとも
いわれますが…>

まあ 私が思うには
義時は幕府軍の大将の一人ではあるんですよ

まあ 史料によっては 義時が自ら

一幡を討ち取ったというふうに

書いているものも見受けられるんですけども

一連の陰謀を仕組んだのは

あくまでも やっぱ時政であって

義時は時政の駒の一つとして

動いただけというふうに
考えればいいと思います

<私欲に駆られた父・時政は>

<さらなる謀略をめぐらせます>

<頼家を
将軍職から引きずり下ろし>

<伊豆・修禅寺に追放するのです>

<3代将軍となったのは>

<頼家の弟で
まだ12歳だった実朝でした>

<父・時政は将軍・実朝を補佐する>

<執権に>

<北条氏は名実ともに>

<幕府ナンバーツーの
地位を得たのです>

しかし その翌年の夏のことでした

(水の音)

修禅寺にいた頼家は入浴中に

刺客に襲われ 殺害されてしまうのです

刀で刺されたあと 急所をおさえられながら

ひもで首を絞められるという

壮絶な最期でした

実は この暗殺も

義時の父
時政が企てたことと考えられています

他の御家人達に担がれ

頼家が
北条氏討伐へと走らぬよう

先手を打ったのだと

いや~ 恐ろしいです

血のつながった孫を暗殺するなんて

しかし 因果応報

今度は 時政が追放されることになります

<義時が父・時政と激突!>

<親子の熾烈な争い
その訳とは?>

<謀略によって
ライバル・比企氏を滅亡させ>

<2代将軍だった源頼家までも
暗殺した 北条時政は>

<新たな鎌倉殿
実朝の執権として>

<幕府の実権を
握るようになりました>

<ところが>

<その時政が
今度は幕府から追放されることとなるのです>

<手を下したのは 何と息子の義時でした>

<なぜ 義時は実の父を
追放することになったのでしょうか?>

<絶大な権力を握った時政でしたが>

<幕府内には
まだ目障りな有力御家人がいました>

<武蔵国の御家人で>

<幕府に
強い忠誠心を持っていた>

<畠山重忠です>

<時政は 武蔵国を支配下に置いて>

<北条氏の権力を
より強固なものにしたいと考えていました>

<そのため
後妻である牧の方との間にもうけた>

<娘の夫・平賀朝雅を武蔵国の国司に据え>

<その後見人となりました>

<しかし 朝雅が京の警護を命じられ上洛>

<その隙に武蔵国の御家人達が
反旗を翻すのではと恐れます>

<畠山重忠は 武蔵国の最有力御家人>

<重忠を潰せば 憂いは断てる>

<父・時政は そう考えました>

<そして…>

<時政は 畠山重忠に
ありもしない謀反の疑いをかけ>

<義時に その討伐を命じるのです>

<ところが…>

重忠に 何の怒りがあって
謀反など起こしましょうか

謀反が 誠かどうか
確かめてからでも遅くないのでは

<これまで 父に従ってきた義時が>

<討伐をやめるよう いさめたのです>

あの 畠山重忠も 実は

北条時政の娘を
嫁にもらってまして

で 時政にとっては
まあ だから 重忠だって

娘婿なわけですよ
義時にとっては 重忠は

義理の兄弟ということに
なるわけですね

まあ 義時自身もですね
重忠とは大変 交流が深くて

仲がよかったわけですわ

まあ 義時は 畠山重忠が
鎌倉幕府に尽くしてるっていうのは

知ってましたから
そんな 重忠が突然

反乱を起こすかいなっていうふうに

疑問に思っておったということだと
思いますけどね

<しかし 父・時政は…>

お前が
そのような心配をする必要はない

早う 重忠を成敗せい!

<結局 義時は大軍を率いて>

<重忠を攻めることになりました>

<武蔵国の二俣川で 幕府軍は>

<重忠軍と激突>

<130騎あまりと兵力に劣っていた>

<重忠軍を殲滅するのです>

<父の命令どおり
重忠を討った義時でしたが…>

<重忠の首を見て 涙に暮れ>

<鎌倉に戻ると
父・時政を激しく糾弾したといいます>

謀反など嘘だ! あんな わずかな兵で
謀反など起こせるはずがない!

父上の讒言によって殺されたなら

重忠が かわいそうでならない!

<邪魔になる勢力を
次々と排除していく>

<父・時政に>

<初めて憤りをあらわにした 義時>

<しかし
父の暴走は止まりませんでした>

<牧の方とともに 実の孫である>

<将軍・実朝を暗殺し>

<娘婿の平賀朝雅を>

<新たな将軍にしようと
画策するのです>

<この陰謀に気づいたのが
姉の政子でした>

<息子・実朝の危機と>

<政子から助けを求められた義時は>

<すぐに 実朝を
自分の屋敷に かくまいます>

<そして 父・時政と 牧の方を>

<鎌倉から追放>

<将軍暗殺計画を未然に防ぐのです>

<さらに 義時は 京の都にいた>

<朝雅も殺害させたといいます>

<2代将軍のみならず>

<3代将軍まで
手にかけようとした父に>

<義時の怒りが爆発>

<追放することを決断したのです>

<こののち 義時が>

<鎌倉幕府2代執権となりました>

<義時 43歳でした>

ついに 義時が動きましたね

頼朝が お前は きっと将来

我が子孫を守ってくれるに
違いないと

言っていましたが
本当に そうなりました

それにしても 実の父親を追放して

自ら 幕府の執権に就任しましたが

腹黒いというイメージは
今のところないですよね

正義を貫き 幕府ナンバーツーの
地位に就いたという感じがします

義時の父・時政が
いなくなったことで

幕府の権力闘争は
いったん 終息しました

義時は執権として
政治の実権は握っていたものの

しっかりと 3代将軍・実朝を
もり立てていきました

しかし 思いもよらない悲劇が
襲いかかるのです

<暗殺された2代将軍
頼家の忘れ形見を担いだ>

<謀反の計画が噂されます>

<計画に関与しているのは>

<3代将軍・実朝の側近で>

<軍事を統括する侍所のトップ>

<別当を務める 和田義盛の
一族だというのです>

<嫌疑をかけられた数名が
幕府に捕らえられました>

<義盛は 頼朝の頃から
源氏に仕えてきた御家人の長老で>

<十三人の合議制の
メンバーでもあった実力者>

<そんな和田一族の中に>

<幕府転覆を狙う者がいたことに
衝撃が走ります>

<すると なぜか義時が>

<謀反計画に関与していない
義盛を挑発>

<これに怒った義盛は
義時の館を襲撃しました>

<世に言う 和田合戦です>

<義盛は
幕府への反逆者として討ち取られ>

<和田氏は滅亡>

<これによって 義時は
義盛が就いていた>

<侍所 別当に就任>

<政治だけでなく
軍事の権限も>

<掌握したことで
北条氏の権力は>

<より強固なものと
なりました>

<こうした状況から
実は この和田合戦は>

<義時が仕組んだのではとも
いわれています>

<義時が
侍所 別当の地位を得たいがために>

<父・時政のように計画した陰謀だと>

<しかし 細川さんは
義時による陰謀の可能性は>

<低いと考えています>

和田一族が
この クーデター計画に

加わっていたのは間違いなくて

義時としては
このような大規模な反乱を

起こさせるわけにはいかないと

で その大将として
みんなに持ち上げられていくであろう

人間っていったら和田義盛だと
だったら ここで

和田を叩くしかないだろうっていう
腹くくって

挑発 挑発 挑発を繰り返して

和田義盛を
追い詰めていったというのが

まあ 事実だと思います

<義時は 不安分子を排除し>

<北条氏の権限を強めることで>

<これまで以上に
将軍・実朝を支えていこうと>

<考えていたのです>

<ところが…>

<将軍・実朝が 右大臣の位を授かり>

<鶴岡八幡宮で行われた
祝賀の儀でのこと>

<1千騎もの護衛をつけ
将軍・実朝は>

<鶴岡八幡宮へと向かいました>

<そして>

<無事に 儀式は終了>

<本殿から出てきた実朝が>

<石段を下りていきました>

<すると…>

<突如 飛び出してきた一人の男に>

<斬り殺されてしまったのです>

<このとき
実朝 まだ28歳>

<護衛の武士が駆けつけたときには>

<すでに 犯人は実朝の首を
持ち去っていたといいます>

<その犯人とは 鶴岡八幡宮を統括する>

<長官を務める 公暁>

<2代将軍
頼家の子で>

<実朝の甥に
あたる人物でした>

<父・頼家から
将軍の座を奪う形となった>

<実朝を逆恨みして
一人 犯行に及んだというのですが…>

<その裏には 公暁を操った>

<黒幕がいたともいわれています>

<最も怪しいとされるのが 義時です>

<一体 なぜか?>

<実は 実朝は将軍としての
自らの権威づけのために>

<朝廷から
高い官位をもらい続けていました>

<さらに 将軍就任のよくとしには>

<京の公家・坊門家から
正室を めとっています>

<坊門家は朝廷で
実権を握っていた>

<後鳥羽上皇の
母親の血筋>

<つまり 実朝は上皇と
姻戚関係を結んだことになります>

<そして
上皇と共通の趣味である和歌で>

<関係を深めていったのです>

<そんな中 将軍・実朝は>

<義時のいる政所の>

<改革に乗り出します>

<政所の別当を5人から9人に増やし>

<後鳥羽上皇の近臣など>

<朝廷寄りの者達を置くことで>

<北条氏を含めた御家人の力を>

<弱めようとしたのです>

<義時は そうした行動を起こす
実朝に危機感を覚え>

<暗殺を企てたというのですが…>

あっ 先生

真相は どうなのでしょうか?

義時が実朝を暗殺するっていうのは

ちょっと考えがたいと
私は思ってますね

そう考えられる根拠は何でしょうか?

北条氏にとって
頼朝と政子の間にできた

実朝っていうのは
最大の権力基盤なわけですよ

言ってみりゃ 玉
だから それを義時が

暗殺しちゃうっていうことは

ちょっとありえないでしょ それは

っていうふうに私は思いますね

まあ 個人的には
私は公暁が勝手に暴走して

実朝 暗殺しちゃったというのが

一番 可能性が大きいんじゃ
ないかしらって思ってますね

<将軍・実朝には
跡継ぎがいませんでした>

<そこで 幕府は
次の将軍候補探しに焦ります>

<目を付けたのは
後鳥羽上皇の皇子>

<4代将軍になってもらいたいと
朝廷に願い出ます>

<というのも
実朝が亡くなる前の年>

<上洛した政子が
後鳥羽上皇の乳母と>

<将軍後継問題について
話し合っていました>

<その会談で 万が一
源氏の血が途絶えた場合には>

<上皇の皇子を
鎌倉幕府将軍にするという>

<密約を交わしていたのです>

<そのため 事は円滑に進む
そう思っていました>

<ところが 後鳥羽上皇が
皇子を送ることを先送りに>

<幕府と朝廷の間に
大きな緊張が走ります>

<そして ついには…>

<承久の乱 勃発!>

<後鳥羽上皇の標的は
義時 ただ一人だった?>

<一体 なぜ?>

<鎌倉幕府2代執権
北条義時と>

<その姉・政子が
実権を握る鎌倉幕府は>

<3代将軍・源実朝の暗殺を受けて>

<後鳥羽上皇の皇子を
次の将軍にしてもらえるよう>

<朝廷に願い出ました>

<しかし その話は上皇の判断で
先送りとなってしまうのです>

<さらに 上皇は
焦る幕府の弱みに つけ込んで>

<寵愛していた白拍子が持つ所領を
管理する地頭を>

<罷免するよう 院宣を出すのです>

<地頭の罷免は
幕府の権威を揺るがす重大事>

<義時は…>

頼朝公が恩賞として
任命なされた地頭を

大した罪もないのに
解任することはできぬ

<後鳥羽上皇の要求を突っぱね>

<御家人を守る態度を見せたのです>

<そして 1千騎の兵を上洛させて
この回答を上皇に伝え>

<皇子を次の将軍にできないのなら>

<他の子を出すよう求めます>

<後鳥羽上皇は
摂政関白の子であればと>

<義時の要求に応えました>

<こうして
頼朝の遠縁にあたる摂関家>

<ことが決定>

<まだ2歳の三寅が4代将軍となります>

<その後見人となった政子は>

<以後 尼将軍と
呼ばれるようになりました>

<(義時)これで 幕府と朝廷の関係も
良好になるだろう>

<そう思っていた義時でしたが…>

<何と 後鳥羽上皇が
幕府に対して兵を挙げるのです>

<承久の乱の
始まりです>

<後鳥羽上皇は
諸国の守護 地頭に向け>

<何と こんな宣旨を出します>

<鎌倉幕府執権・北条義時 追討>

<上皇が 義時一人を名指しして
追討を命じたわけとは?>

まあ 後鳥羽上皇としては あの

自分の院宣 拒否して

露骨に抵抗した義時がいるかぎり

武士達を自分に従わせることは

できないというふうに

まあ 考えたんじゃないですか

これは まあ 間違いないと思いますよ

また 後鳥羽上皇は

この 義時追討の宣旨っていうものを

天皇の名によって出すことによって

幕府が義時派と 反義時派に分裂して

内戦を起こして潰し合うがいいと

それを狙ってたっていうのも
いえると思います

<義時追討の宣旨は
鎌倉にも届きました>

いや~っ まさか 名指しされるとは
思わなかったでしょうし

義時さん 大丈夫ですか?

大丈夫なわけがなかろう!

何ということだ

まさか 上皇さまが
わしを直接 狙ってくるとは

もはや これまでか

相手は 2万の大軍 恐ろしいですよね

慌て おびえる 北条義時

まさに 窮地に陥った義時を

あのお方が救うのです

<追討の宣旨に おびえる義時>

<その窮地を救った
意外な人物とは?>

<鎌倉幕府2代執権・北条義時は>

<後鳥羽上皇に名指しで>

<追討の宣旨を出され
ひどく おびえていました>

<(義時)もはや これまでか>

<その宣旨に鎌倉中が動揺>

<御家人達が ぞくぞくと
北条の屋敷に集まってきたのです>

<すると そんな御家人達の前に>

<義時の姉・北条政子が現れ>

<語り始めました>

(政子)
皆 心を一つにして聞きなさい

これが最後の言葉です

頼朝殿の恩は
山より高く 海より深い

3代にわたる源氏将軍の恩顧に

報いるべきです

<この政子の演説が御家人達を鼓舞し>

<朝廷との戦いを決断させました>

<そして その日のうちに義時を交え>

<軍議が開かれたのです>

<多くの味方を得た義時は
奮い立ちました>

<義時は 19万の幕府軍を派遣すると>

<上皇軍を見事 蹴散らしたのです>

<承久の乱ののち
義時は 乱に加担した>

<公家や御家人を次々と処刑>

<首謀者であった
後鳥羽上皇まで>

<隠岐へ流してしまいます>

反乱の中心であった 上皇に

京都に いてもらうわけには
いかないっていう判断で

義時が やったこと 義時としては

かなり恐れは あったはずです

このまま 島で
亡くなってしまった場合に

怨霊になってしまうかもしれない

そしたら 幕府が たたられてしまう
自分も たたられてしまう

そういうことを覚悟して
義時は やったと

乗り越えていくだけの成長を

承久の乱で 義時は遂げたと

<後鳥羽上皇側に勝ったことで>

<幕府の支配権は
西国にまで及びました>

<義時は 東国から>

<全国の統治者となったのです>

<そして そののちも
幕府の執権として>

<政務に励んだ義時でしたが…>

<承久の乱から3年後の6月>

<突如 病に倒れ>

<亡くなるのです>

<62歳でした>

望もうと 望まないとにかかわらず

権力闘争の場にいる

何もしていないのに
周りの騒動に巻き込まれる

義時は本当に そういった人生でした

それは 初めての武家政権となった
鎌倉時代に生き

北条氏の一員として
その中枢にいたから

きっと
逃れられない運命だったのでしょう

あまり 目立たなかった男
義時は

執権 北条氏による政治体制を
盤石なものとし

それは
しっかりと息子に受け継がれました

そして その後 義時の子孫達が

代々 執権を継いで

北条氏が幕府の実権を

握り続けていくのです

100年先まで


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