NHKスペシャル「40人の死は問いかける~大槌町“役場被災”の真実~」なぜ職員は逃げず庁舎に留まったのか…


出典:『NHKスペシャル「40人の死は問いかける~大槌町“役場被災”の真実~」』の番組情報(EPGから引用)


NHKスペシャル「40人の死は問いかける~大槌町“役場被災”の真実~」[字]


町役場の庁舎が津波に飲まれ、町長を含む40人が犠牲となった岩手県大槌町。なぜ職員は逃げず庁舎に留まったのか。9年の時を経て幹部職員たちが初めてあの日の真実を語る


番組内容

東日本大震災で町役場の庁舎が津波に飲まれ、町長を含む40人、町職員のおよそ2割が犠牲となった岩手県大槌町。発災から津波到来までのおよそ35分間、職員たちはなぜ逃げずに庁舎に留まったのか。そこでどんな判断をしたのか、多くが口をつぐんで来た。長期間の交渉を経て、生き残った幹部職員たちが重い口を開き始めた。30人を越える職員への取材を元にあの日の真実に迫る。40人の死が今私たちに問いかけるものとは?

出演者

【語り】広瀬修子


『NHKスペシャル「40人の死は問いかける~大槌町“役場被災”の真実~」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

NHKスペシャル「40人の死は問いかける~大槌町“役場被災”の
  1. 職員
  2. 津波
  3. 庁舎
  4. 高台
  5. 災害対策本部
  6. 町長
  7. 行動
  8. 庁舎前
  9. メートル
  10. 越田
  11. 避難
  12. 平野
  13. 大町
  14. 当時
  15. 屋上
  16. 情報
  17. 町民
  18. 犠牲
  19. 久保
  20. 三浦


『NHKスペシャル「40人の死は問いかける~大槌町“役場被災”の真実~」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


解析用ソースを読めば、番組内容の簡易チェックくらいはできるかもしれませんが…、やはり番組の面白さは映像や音声がなければ味わえません。ためしに、人気のVOD(ビデオオンデマンド)サービスで、見逃し番組を探してみてはいかがでしょうか?

☆無料で民放各局の動画視聴ができるTVer(ティーバー)!まずはココから!

他にも、無料お試し期間のあるVODサービスが増えてますので、各社のラインナップを調べてみるといいかもしれませんね。


これは 東日本大震災の1年前に撮られた
町役場の職員たちの写真です。

行政機関として 最大規模の津波犠牲者を
出した岩手県大町。

あの日 職員の生死は
大きく分かれました。

三陸沿岸の大町を
襲った

高さ10メートルを超える
大津波。

町の中心部を直撃し 人口の1割近く
1, 286人が犠牲になりました。

浸水した市街地の様子が
至近距離で捉えられていました。

この町の被害の象徴となった
役場庁舎です。

2階まで 津波にのみ込まれます。

間一髪 屋上に逃れた職員たち。

しかし 多くは逃げ遅れ

被災地で唯一 自治体の長が亡くなります。

加藤宏暉町長です。

犠牲となったのは 町長を含む40人。

全職員のおよそ2割に上りました。

職員の多くを失ったことで
役場の機能が低下し

町民の生活再建にも 支障を来しました。

災害対応の要となるはずの町役場。

なぜ 多くの職員が命を落としたのか。

これまで
明かされてこなかったことがあります。

庁舎があったのは 海岸から程近く。

すぐそばには 海抜34メートルの
高台がありました。

町の防災計画では 職員が
高台の中央公民館に移動して

災害に対応することも想定していました。

ところが 地震から津波が来るまでの
およそ35分間

職員たちは 庁舎にとどまっていたのです。

その間 一体 何があったのか。

生き残った人たちは あの日の出来事に
触れることができずにきました。

私たちは 当時の幹部にも
取材を重ねました。

なぜ 職員の命を守れなかったのか。

災害対応の責任者たちは
教訓を伝えたいと

重い口を開きました。

40人の死が問いかけるものは何か。

職員たちが 初めて語る
役場被災の真実です。

去年1月 津波被害の爪痕を残す
役場の庁舎が取り壊されました。

見ることがつらいという町民の声に
配慮したためです。

一方 ここで起きたことが
一層分からなくなるのではないか。

そう懸念する声も上がりました。

津波で 夫を亡くした前川壽子さんです。

前川正志さん。

あの日 庁舎で命を落としました。

夫の最期について
町に問い合わせてきましたが

今も詳しい説明はありません。

毎朝 夫に語りかける壽子さん。

ずっと知りたいと
思ってきたことがあります。

震災後 町では 2度にわたって
職員のあの日の対応を検証しています。

報告書は 職員の危機意識が欠けていたと
結論づけました。

しかし 初動の対応について

誰が どう判断したのか
不明確なままでした。

報告書を機に 津波に対する認識や行動が
不十分だったと

厳しい批判にさらされます。

生き残った職員たちは
ますます口を閉ざしていきました。

何しゃべっても…

犠牲になった40人のうち 28人が庁舎で

11人が それ以外の場所で
亡くなりました。

その後 1人が
震災が原因で 命を絶っています。

しかし 津波が到達するまでの
およそ35分間の職員たちの行動は

詳しく分かっていません。

実は 町では 職員の聞き取りを
内部で続けていました。

私たちは 500ページに及ぶその記録を
情報公開請求で手に入れました。

こうした資料をはじめ
30人を超える職員に 取材を重ねた結果

35分間の全体像が見えてきました。

3月11日。

岩手で 最大震度6弱の地震が起き
揺れが3分以上続きました。

大町役場の建物は 本庁舎のほか
東棟と西棟

そして 裏庁舎と呼ばれる
木造の庁舎がありました。

あの日 ここで働いていたのは 100人ほど。

揺れの直後 職員たちの生死を左右する
最初の分かれ目がありました。

いち早く動き出した人たちがいます。

裏庁舎にいた福祉課の職員です。

当時 福祉課の班長だった
越田由美子さんです。

揺れが収まると
職員の誰かが避難を呼びかけ

十数人が庁舎から飛び出しました。

越田さんは
町民に声をかけながら走りました。

向かったのは 海抜34メートルの
高台にある 中央公民館。

越田さんの行動には 理由がありました。

災害時の職員の業務を定めた
地域防災計画です。

震度5弱以上の場合などに

災害対策本部を設置すると定めています。

町長を本部長とし

町民の安全を守る目的で
組織される災害時の体制です。

越田さんが思い出したのは

防災計画で定められた
災害対策本部の設置場所です。

原則は 町役場ですが

もう一つ
中央公民館が指定されていました。

…と見込まれた場合

中央公民館に
本部を置くことになっていました。

ほかの職員たちは どう行動したのか。

大町の平野公三町長です。

当時 総務課主幹で
防災担当の実務責任者でした。

平野さんは 地震発生時
東棟2階の総務課にいました。

築50年を超えた庁舎 財源が乏しく
耐震補強が行われていませんでした。

地震直後の庁舎の様子が
写真に残されていました。

蛍光灯が落ち 書類も散乱しています。

撮影したのは 当時 新人職員だった
三浦義章さんです。

総務課で広報担当だった三浦さんは

被害の状況を記録するよう言われました。

平野さんたち東棟の職員は
急いで外に出ます。

庁舎前に 30人ほどが
一時的に退避しました。

平野さんは 防災担当として

災害対策本部を
高台に移す規定は認識していました。

この時 福祉課の越田さんたちと
違う行動を取った平野さん。

庁舎前にとどまったのは なぜなのか。

建物に不安は残るものの
外との連絡を取る上では

庁舎近くにいることが
望ましいという認識でした。

災害対策本部は 一旦 庁舎前に
設置されることになったのです。

本部は立ち上がったものの
その後 新たな困難に直面します。

地震の大きさや被害の状況が分からず
庁舎前にとどまり続ける職員たち。

庁舎の通信機器が使えず

頼みの携帯電話も
なかなか つながらない状況に陥ります。

気象庁は この時 既に
大津波警報を発表していました。

町の消防は それを受けて
避難を呼びかけます。

このころ ラジオからも
新たな情報が流れてきます。

岩手県に3メートルの津波が来るという
気象庁の予想です。

この情報の受け取り方が
職員によって分かれていました。

高台に避難した越田さんです。

津波は 3メートルを超えると感じていた
越田さん。

過去の記憶が よぎっていました。

1960年のチリ地震津波。

三陸沿岸に最大で
高さ5メートルの津波が押し寄せました。

大町の役場近くに住んでいた
越田さんは 当時小学生。

庁舎が浸水する様子を
目の当たりにしていたのです。

一方 庁舎前にいた職員の多くは
この情報を別の形で受け取っていました。

当時 副町長だった 東梅政昭さんです。

東梅さんは 災害対策本部で
町長に次ぐ 副本部長でした。

東梅さんの頭に浮かんだのは
6.4メートルの防潮堤。

過去の津波の高さをもとに
つくられました。

これを越えることはないと思ったのです。

更に 東梅さんには

過去の津波の記憶が
越田さんとは逆に働きました。

東日本大震災の1年前

チリでマグニチュード8.8の地震が起き
大津波警報が出ました。

しかし 大町に来た津波は
1.5メートルを越えず

役場庁舎は浸水しませんでした。

町の記録によると
庁舎前にいた職員の中には

防潮堤を越える 大きな津波が来るという
認識がない人がいました。

津波自体が来ると
思っていない人もいたのです。

災害対策本部は 避難指示などの具体策を
打ち出せずにいました。

東梅さんの後ろを通り過ぎる町長の姿。

その後 町長は庁舎の前にある

井戸水の手押しポンプを
のぞき込んでいました。

水がポンプから吹き出す様子を
観察していたとみられています。

災害対策本部で指揮を執る立場にあった
町長と幹部たち。

この時 何を考え どう行動していたのか。

教育長だった 伊藤正治さんです。

災害対策本部の副本部長だった伊藤さん。

地震発生時 教育長室のある
高台の中央公民館から

庁舎前に駆けつけました。

情報がない中で とっさに取った行動は

自ら庁舎の2階にある潮位計を
見に行くことでした。

そこに町長もいたのです。

温厚な人柄で 職員や町民から
慕われていたという 加藤町長。

先頭に立ってリードするよりも
周りの意見を大切にしてきました。

平時では よいとされる姿勢が

災害時に必要な リーダーシップの不在に
つながったのではないか。

現場の職員たちは 上からの指示が
下りてこないことに 戸惑っていました。

地域整備課の久保晴紀さんです。

課のあった 木造の裏庁舎にいました。

久保さんは 災害対策本部の

地域整備部に組み込まれ

道路や河川などの
調査にあたることに
なっていました。

庁舎前に変化がありました。

議会事務局で課長職にあった
赤崎仁一さんです。

この時 椅子や机を出した赤崎さん。

幹部の災害対応を促そうとしていました。

しかし 幹部会議は開かれないまま
時が過ぎていきます。

岩手県庁との通信が途絶え
公式な情報も届きません。

そのころ 新たなニュースが
飛び込んできました。

職員の携帯電話のワンセグ放送に

隣接する釜石へ 津波が到達する様子が
映し出されたのです。

この情報を受けてもなお
現場は逡巡していました。

その後 消防署が再び避難を呼びかけます。

大にも津波が迫っていました。

副町長の東梅さん。

頭に浮かんだのは 現場で
災害対応にあたる人たちのことでした。

この時点で ようやく避難を
意識し始めた職員がいました。

防災担当だった平野さんです。

住民が避難する姿を目にし

総務課長に相談しました。

総務課長は 高台への移動を
大声で呼びかけたといいます。

避難準備を始める職員もいました。

一方 木造庁舎の地域整備課では

およそ10人の職員が なお
待機を続けていました。

上からの指示を待っていた
久保晴紀さんです。

久保さんは
避難者に対応する仕事を任され

高台に向かいます。

不安を感じた久保さん。

同じ課の同僚へ連絡を取ろうとします。

その直後 久保さんが見たのは
信じられない光景でした。

庁舎前の職員たちも

町じゅうから 異様な土煙が上がるのを
目にします。

職員の一人が「津波だ!」と
叫び声を上げます。

とっさに 庁舎の中へ
逃げ込むしかありませんでした。

三浦さんは 2階へ駆け上がります。

庁舎に押し寄せる津波に

夢中で シャッターを切り続けました。

その直後 三浦さんは
流れ込んできた津波にのまれます。

庁舎に駆け込んだ職員の多くは
屋上を目指しました。

しかし 登る手段は はしごしかなく

1人ずつ登るしかありませんでした。

ここから 15人が屋上にたどりつきます。

屋上の職員は 同僚が流されていく姿を
目の当たりにしました。

助け…。

平野さんが目撃したのは
地域整備課のあった木造庁舎。

久保さんが無線で呼びかけた
同僚たちは

建物ごと流されました。

庁舎の2階
三浦さんは 溺れかけていました。

窓から外へ脱出した三浦さんは

屋上にいた職員たちに引き上げられ
助かりました。

大町の役場職員は
庁舎にいた28人が命を落としました。

外出先から戻る途中などで
亡くなった人

その後 命を絶った人も合わせて
40人が犠牲となりました。

屋上に逃れた平野さん。

失った同僚のことが
頭から離れないといいます。

ごめんなさいだ…。

あの日 庁舎から すぐに高台へ避難した
越田由美子さんです。

自分が取った行動に
複雑な思いを抱いてきました。

そのひと言で…

全職員の およそ2割が亡くなった大町。

町長を含む 14人の幹部のうち
8人が命を落としました。

そのことが 町の再建に
大きな支障を来します。

40近い避難所を限られた職員で運営。

り災証明の発行が遅れ

避難生活を続ける町民に
十分な支援が行き届かなくなりました。

負担が集中した職員の多くは
心身に不調を来し

離職する人も相次ぎました。

多くの犠牲者を出した役場の被災が
突きつけたものとは何か。

生き残った職員たちは
9年間 問い続けてきました。

防災の実務責任者だった平野公三さん。

災害対策本部を高台に設置すべきだったと
悔やんでいます。

「役場庁舎が
本部として使用に耐えない時」

高台に移るとした規定。

文言の曖昧さが判断を遅らせたと
痛感しています。

副本部長だった伊藤正治さんです。

危機のさなか 組織の一員として
どう行動すべきだったのか

教訓を手記に つづっています。

赤崎仁一さんは

災害時に 公務員の命を守る意識が
全体として希薄だったのではないかと

感じています。

♬~

(チャイム)

震災後 町は 地域防災計画を
大きく見直しました。

津波に関する警報が発表されれば

直ちに災害対策本部を
高台へ移すと決めました。

更に 職員の避難など

当時はなかった安全確保の規定も
明記したのです。

震災から9年。

町は 新たな取り組みを進めています。

津波で亡くなった職員 一人一人の
最期の状況を詳しく調べ

遺族に伝えようというものです。

津波にのまれながら生き延びた
三浦義章さんです。

長い間 震災の記憶に
さいなまれてきました。

今 あの日と
正面から向き合おうとしています。

東日本大震災が発生し

そして 当時の町長 更に多くの職員の方が
犠牲になったわけですね。

平野さんは 震災の4年後
大町の町長になりました。

訪れたのは
津波被害のリスクが高い静岡県。

自治体の職員に向け
自らの経験をもとに 講演を行いました。

我々の失敗というのは こうあります。

災害を自分ごととして
学んでこなかったこと。

そして 自分たちの「危険」や「危機」を

気にしてこなかったことが
大きな原因であろうと思います。

東日本大震災の被災地が
今 私たちに問いかける重い課題です。

♬~


関連記事