英雄たちの選択「水害と闘った男たち~治水三傑・現代に活かす叡智~」歴史の中から大治水事業に挑戦した3人の英雄…


出典:『英雄たちの選択「水害と闘った男たち~治水三傑・現代に活かす叡智~」』の番組情報(EPGから引用)


英雄たちの選択「水害と闘った男たち~治水三傑・現代に活かす叡智~」[字]


毎年のように日本を襲う想定外の水害。歴史の中から大治水事業に挑戦した3人の英雄をとりあげ、彼らの治水の極意を紹介。現代に活かすべき叡智を令和の日本に問いかける。


詳細情報

番組内容

毎年のように日本を襲う想定外の水害。どうすれば人々の安全と未来を守れるのか?今回、歴史の知恵を防災に活かすべきと唱える磯田道史が、大治水事業に挑戦した3人の英雄を選りすぐり、彼らの遺産を検証する。信玄堤で知られる武田信玄。「利水」の発想で岡山を救った岡山藩士・津田永忠。天竜川の治水に生涯を捧げた金原明善。“三傑”から学ぶ治水の極意を紹介。現代に活かすべき叡智を令和の日本に問いかける。

出演者

【司会】磯田道史,杉浦友紀,【ゲスト】片山善博,大熊孝,飯田泰之,【語り】松重豊


『英雄たちの選択「水害と闘った男たち~治水三傑・現代に活かす叡智~」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

英雄たちの選択「水害と闘った男たち~治水三傑・現代に活かす叡智
  1. 治水
  2. 洪水
  3. 明善
  4. 堤防
  5. 信玄堤
  6. 信玄
  7. 水害
  8. 百間川
  9. 天竜川
  10. 非常
  11. 植林
  12. 本当
  13. 永忠
  14. 災害
  15. 時代
  16. 自然
  17. 歴史
  18. 旭川
  19. 仕組
  20. 自分


『英雄たちの選択「水害と闘った男たち~治水三傑・現代に活かす叡智~」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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去年10月 日本列島を襲った…

千曲川や阿武隈川など

71の河川の堤防が決壊。

ライフラインは寸断され
多くの命が失われた。

全国で9万棟の建物が被害に遭い

避難者は20万人を超えた。

想定外の水害に毎年のように悩まされる
現代の日本。

災害の歴史を
ライフワークとする

磯田道史が
ついに立ち上がった。

今回は 日本の歴史の中から

水害と闘った3人の英雄を選び出し

その叡智を現代に活かす道を探っていく。

名付けて「治水三傑」。

まずは 戦国武将 武田信玄。

その驚くべき治水術を

現地で徹底調査した。

まさに…

…の極意ですね。

自然の地形を巧みに活かし

洪水から
甲斐国を守った秘訣に迫る。

あまり…

江戸時代の岡山藩。

領民を
水害だけでなく

貧困からも救った
武士がいた。

周囲の反発を押し切って進めた新田開発。

危機を乗り越えるリーダーシップとは…。

これを…

…っていうのは 非常に
大切なものだと思うんですね。

さらに時代は明治へ。

「暴れ天竜」と呼ばれた天竜川を

植林によって鎮めようとした男。

地域全体で挑んだ
未来を見据えた「持続可能な治水」とは…。

…ということを やっぱり 金原から

僕は 見ないといけないかなと思って
見てましたね。

水害が頻発する国土に生きる日本人。

先人たちの闘いから
今 何をくみ取れるのか。

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

今日の「英雄たちの選択」ですが

いつもと ちょっと違うテーマで
お送りします。

磯田さん ここ数年
台風による大洪水や大雨

川の堤防が決壊したなど
水害のニュースが

多く聞こえてきますよね。
多いですね。

昔だったら考えられなかったような
国管理の一級河川が

越水したり 決壊したりとか
いうようなことも多くなってきてます。

過去の天災の歴史なんか
私も調べてるんですけど

やっぱり 歴史的に見ても 今

水害頻発期というイメージありますね。
そうですよね。

今回は そうした水害から
人の命や暮らしを守る

いわゆる「治水」をテーマに
お送りしていきます。

これ 実は磯田さんが ぜひ取り上げたいと
言ったテーマなんですよね?

ひどい水害を見たときに 治水の歴史
これは やらなきゃいけないと思いました。

だから 歴史番組で取り上げて
治水と日本人っていう問題を

やっぱり ちょっと
やってみたいなと思っておりました。

さあ 今回
治水の歴史をひもとくにあたってですね

こちらの3人を取り上げます。

そして 明治時代に
静岡県 天竜川の治水に生涯をささげた…

これね 私ね 「維新三傑」ならぬ…

「治水三傑」?
なるべくね 全国的に見て…

総合治水をやった人。

山とか川とか海とか総合でやった人を
ちょっと 取り上げようと。

3人が
それぞれ行った治水を見ていくと

地域や時代は ばらけてますんで
現代に役立つ知恵や工夫が

探していけるんじゃないか
ということなんですね。

さあ まず最初に ご覧いただくのが

武田信玄の治水術です。

どのようなものなのか
私 山梨県に行ってまいりました。

戦国最強とうたわれ
数々のライバルを打ち負かした

猛将…

しかし 領国 甲斐の統治は
一筋縄ではいかなかった。

四方を山に囲まれた甲斐国は

急流河川が幾重にも流れる日本屈指の…

独立心の強い豪族が河川の流域に割拠し

信玄の支配をも脅かしていた。

武田家の領国経営に詳しい
西川広平さんは

信玄の甲斐統一の決め手は
治水事業にあったと指摘する。

そういったような意図があった。

治水を通して国をまとめ上げた信玄。

その原点が甲府盆地北部に築いた…

信玄堤を 全国の治水行政に携わった

和田一範さんが案内してくれた。

おお~! 広い川ですね。

ええ~! 広大ですね これは。

そして ここが
いわゆる信玄堤として知られる所です。

ここが信玄堤と呼ばれるとこなんですね。
ええ。

信玄堤は
南アルプスから流れ来る急流河川から

甲府盆地を守るために造られた
およそ3kmに及ぶ堤防。

戦国時代に信玄が造った
「本土手」と呼ばれる堤防が

その原型と伝えられている。

信玄堤は 現在

釜無川と御勅使川という2つの河川を
受け止める

甲府盆地の治水の要である。

しかし 信玄の時代は 今と異なり

川が縦横無尽に盆地に流れ込み

信玄堤だけでは対処できなかったと
考えられている。

実は 江戸時代に書かれた
「甲斐国志」という史料には

信玄堤のほかにも
さまざまな治水施設が

甲府盆地に存在したと記されている。

その一つが
信玄堤から7km離れた

御勅使川上流に残っていた。

「石積出」っていうんですけどもね。
「石積出」?

非常に大きな石垣ですよね。
はい。

高さ7m 幅15m 奥行き80mにも及ぶ

まるで城壁のような巨大な石の固まり。

当時 いくつもの流路を持つ
御勅使川が

釜無川に
ぶつかることで

広範囲の洪水が
起きていると考えられた。

洪水が起こりやすい川の合流点を
1か所にまとめ上げるため

この石積出を
谷間に築いたともいわれている。

…ということで
暴れていたということですね。

暴れちゃってから抑えると大変ですから
一番根元 重要な要の地点を まず抑える。

石積出によって
向きを変えられた川は

「高岩」と呼ばれる断崖に
激突。

ここで 一旦
勢いを弱めた川を

下流の信玄堤が受け止め

甲府盆地への浸水を
防いでいたのだ。

信玄堤が途切れる釜無川の下流域にも

工夫が凝らされた。

ここでは 「霞堤」という

隙間の空いた堤防が活躍した。

今も 霞堤の跡を見ることができる。

洪水時には 隙間から ゆっくりと
水があふれ出すことで

水の勢いを逃がし
堤防の決壊を防いでいた。

そして 洪水が収まれば

自然と 水が
川へ戻ってゆく仕組みになっていた。

それに対して人々の生活は…

洪水が来たら逃げるとか。

…工夫というのが この霞堤の極意ですね。

「水をもって水を制す」。
ユニークな信玄流治水術。

川と人々との共存を支えていたのは
こうした建造物だけに とどまらなかった。

これは 信玄が
堤防脇に新たな開拓地を造ろうと

住民を募集した朱印状。

「信玄堤のそばに家を作れば

税金を一切免除する。

そのかわり 住民に
堤防の修理や洪水への対応を義務づける」。

いわば
治水ニュータウンを作り上げたのだ。

このとき出来た竜王河原宿
という地区には

今も信玄堤へと続く細長い区画が
残されている。

代々 この地に住む大森さんは

家々から信玄堤へと延びる この細い道は
地域の誇りだと言う。

今 通ってきた道は
どういう道なんですか?

この道はですね
この土地の古い年寄りの方々は

これをね 「早駆け道」というんだなんてね。
「早駆け道」?

信玄堤に万一のことがあったら
これは もう 夜中でも何でも

いち早く ここの住民が
駆けつけれるようにということでね

こういう道が それぞれの区画の脇に
作ってあるんです。

竜王河原宿の人々が守ってきた信玄堤。

春になると ここから威勢の良い掛け声が
聞こえてくる。

(掛け声)

「おみゆきさん」という祭り。

甲府盆地に点在する神社から

みこしを担いできた男たちが

信玄堤を踏み固めながら治水を祈願する。

(掛け声)

信玄は
平安時代に起源を持つこの祭りに

ばく大な費用を注ぎ

甲府盆地全体を巻き込む

一大治水パレードへと発展させたという。

水害に対する…

…災いを防ごうとした
という意味では

今の治水 防災にも
つながる部分っていうのは

この時代から考えられてたんではないかと
思いますね。

「川を治める者が国を治める」。

治水を通して甲斐を強国にした信玄が
今も山梨を守っている。

武田信玄の治水術
ご覧いただきましたが

実際に行ってみて
私 面白いなと思ったのが

やはり 「洪水と共存する」。

水に打ち勝つんではなくて

水と一緒に生きるっていう考え方は
面白いなと思って。

何か やっぱり
あのころの治水っていうのは

完全に 水に 土木力で打ち勝つって
難しいですから。

「柔道」?
自然の力を… そう 柔道。

利用して いなすとか
自然の物体にぶつけるとか

水と水をぶつけて弱めるとか。

戦に勝つ信玄の名前とともに
この甲州流の治水術っていうのは

全国に普及していったんだなという感じは
しましたね。

片山さんは 元鳥取県知事として
現代の行政の視点から

戦国時代の信玄の治水術は
どのように映りましたか?

今 学ぶべきことが
とっても多いと思いますね。

今は
どちらかというと

土木の資機材なんかも
非常に発達しましたから。

だから 自然を変えることが
できるわけです。

岩盤 取り除くとかですね
トンネル 掘るとか。

その結果 本来ならば 自然と共生して

あまり…

非常に面白い仕組みだなって思ったのが

竜王河原地区。
この地区の統治のしかたというのは

一定の義務を負わせる代わりに
恩恵を与えると。

やはり こういった
治水とか洪水時対応というのは

緊急で対応する人員が
絶対 必要なんですね。

その人たちが
我が事として

その堤を守り環境を改善していく。

この仕組みって 近年
さまざまな行政の中で

大いに注目されているんですよね。

例えば
公園の中にお店を出していいですよと。

そのかわり
公園をきれいにしたり掃除したり

そういうサービスをしてください。

例えば その公園にお店を出してる人は

公園がきれいになって魅力的になって
安全であって

それによって お客さんが来ると
自分の商売も もうかるわけですね。

この竜王河原地区の場合も この堤を
しっかりと守って洪水対応をすることで

自分の住んでいる場所が守られる。

だからこそ 一生懸命 我が事として
洪水対応に関わっていく。

何か すごく現代的な仕組みだなって
思っちゃうんですよね。

大熊さんは
河川工学と土木史をご専門に

日本各地の河川で
研究をされていらっしゃいますが

信玄堤 どのように ご覧になりましたか?

信玄の やっぱり
すばらしいところは

地形と地質を
ちゃんと深く読み解いて

それで
急流の御勅使川を

堤防にぶつけたら
堤防が壊れちゃうから

自然の高岩の所にぶつけるっていう

この ひらめきが すごいと思いますね。

それから…

魚にですか?
はい。

洪水のとき
魚は どこに逃げるんだろう。

大体 大きな石の下とか何かに
隠れてるんだけれども

霞堤の所は 水が
ほとんど流れないですから

あそこに行くんですね。
行くでしょうね。

それで それを私が分かったのは

あるとき…

洪水の最中に。
「何してるの?」って言ったら

投網を打って 魚を取っちゃう
っていうことなんですけど

要するに そこに魚が
逃げてきているという そういう意味で…

川に 今は
近づいてはいけないとは思いますけど

そういうことをしてる人もいたんですね
そのときはね。

昔は みんな 洪水のときは
みんな 近づいてましたよ。

一番 なぜ近づくかっていうのは
流木が流れてきて

それを取って 薪にしてたわけですから

洪水時ほど… みんな
川に近づいていたというのが実態ですね。

そうなんですね。
今は 近づいちゃいけません…。

今は 絶対 近づいちゃ駄目です! 本当に。

磯田さん 皆さんのお話 聞いて
いかがですか?

あんまり これまで 信玄がやるまで
ほかに例がなかったと思うんですよ。

僕 歴史上 見てても

「大きな池を造った」は
たくさん古代から出てくるの。

だけど水害時に… もう恐ろしいでしょ?
あの濁水が ぶわ~っと出るの。

あれを巨大構築物で
なんとか流路をコントロールしようとか

本当に 成功させるっていうのは
なかなかなくて それに挑んだと。

だんだん この時期 国衆であったり
または守護のような そういう まあ…

これまでの旧制度に
あぐらをかいてたグループから

だんだんと 武田家が
一番典型かもしれないですけれども…

そうすると
戦国大名同士 一番重要なのは…

つまり しょっちゅう 洪水で飢えて
死んじゃうような国だとですね

みんな 逃散して
逃げて どっか行っちゃうんですね。

こういうのは経済学とか財政学で
「足による投票」っていうんですけれども。

良い所を目指して みんな足で動いちゃう
っていう状態なので

どうやって住み良い所にするかって

いろんな土地で戦国大名が
いろんなことを考えた結果

むしろですね…

僕は増えてると思うんです。

公共の誕生。 やっぱり なまじ…

川さんって もう 戦国時代までは

僕は自由で どこでも流れるよ
っていうのが川なんですよ。

ラッパ状に もう好き勝手に流れる。
そっか。 まあ 自由ですよね。

どこが川か分からない。
だけど ここにいなさいと。

本当 いつもは いるんですよ。
でも 時々 牙むくんですよね。
そっか…。

逆に10年に1度ぐらいの氾濫は

肥料を置いていってくれるから
いいんだと。

「花泥」って言葉が
あるんですよね。

だから ある意味 洪水歓迎なんですよ。
へえ~。

あの… 完全に川っていうのは

堤防で水を
来なくするもんではないわけですよね。

だから…

その辺りも じゃあ
ちょっと念頭に入れながら

続いて見ていこうと思うんですけれど
信玄に続いては こちらの人物です。

江戸時代前期の元禄のころ
度重なる水害に苦しんでいた

岡山藩の治水インフラを完成させた

岡山藩士 津田永忠です。

今回は 磯田さんがロケに。
地元ですからね。

これ 見せたくて
しょうがなかったんですよ。

岡山市の中心部に

津田永忠が生涯を懸けて造ったものが
残されている。

いやあ 見たかった! これなんですよ。

何の変哲もないように
見えるかもしれませんが

これが もう 本当に…

この地元 岡山の人たちの命を
守り続けたものなんですよ。

ふだんは あまり水が流れていない…

全長 約13kmの この人工河川が

おととし 岡山市街を洪水から守った。

今も記憶に新しい西日本豪雨。

岡山の平野部を
3日間にわたる集中豪雨が襲い

平成最大規模の水害をもたらした。

市街地を流れる旭川は 水位が急激に上昇。

下流部では
氾濫も危ぶまれる事態となった。

このとき
市の中心部から4kmほど北で

旭川から分流する百間川が

放水路として機能した。

水を海へ流すことで…

江戸時代前期に開削された百間川。

築造を指揮した
岡山藩士 津田永忠は

城下のインフラを
一手に引き受けた

土木の名人だった。

なぜ 永忠は

この巨大な放水路を
造ったのか。

局地的な豪雨によって

城下1, 400軒余りの家屋が被害に遭い

156人が犠牲になった。

前代未聞の水害に
時の藩主 池田光政は…

…と嘆いたという。

甚大な被害を招いた原因は
岡山城の造りにあった。

旭川を堀として
利用していたため

激流があふれ出し
大洪水となって

藩士や領民が暮らす城下を
襲ったのである。

旭川の氾濫から城下を守るために
造られたのが百間川だった。

では どのようにして
旭川の水を百間川へ導いたのか。

その要となる仕掛けが 分流部にある。

洪水の取り入れ口として
旭川の堤防を切り下げ 造られたのが

百間川の入り口だ。

その左右に築かれた 丸みのある石積みが
巻石である。

強度の高い岡山産の花こう岩が使われ

永忠が造った当時の姿で
受け継がれている。

永忠の治水を
土木技術史の視点から研究する

岡山大学の口輝久さんは

巻石の効果は大きいという。

この丸い方が水に強いと。

よう考えたもんですね。
ねえ 本当に。

実は おととしの西日本豪雨のときも

改修工事を終えたばかりの

この巻石が活躍した。

百間川に流れた

最大で
毎秒1, 200トンもの濁流に耐え抜き

市街地の浸水被害は軽減されたという。

…と思うんですよ。

ふだん 武士
何にもしてないように見えるわけですよ。

だけど いざ 民百姓が
水で殺されそうになると

何かできる政権と
できない政権っていうんでは

侍そのものの価値が
違ってくるわけですよ。

津田永忠は
洪水から人々を守るだけでなく

さらに その先も見据えていた。

洪水によって
田畑を失った農民たちは困窮し

およそ8万人が飢えに苦しんだ。

永忠は 農村を復興し
藩と領民を救うために

大規模な新田開発が必要だと痛感する。

そこで 当時 広大な干潟が広がっていた
百間川下流域を干拓し

水田に変えるという
大胆な計画を打ち立てた。

ところが
そんな大事業は不可能だと

藩の重臣たちは猛反発。

開発に要する工事費用は
半額までしか出せないと突き放した。

それでも 永忠は
残りの資金 銀500貫目

現在の10億円にもなる大金を

大坂や京都の豪商から
自分の名義で借り

工事費用を調達した。

「永忠は 私利私欲のために
新田開発を行おうとしている」。

そんな周囲からの誹謗中傷に
こう反論した。

「名誉が欲しいなら
新田開発には挑まない。

天道 天下へのご奉公と
思うだけである」。

難事業だった…

永忠は 巧みな技術を使って
成功に導いた。

まず 干拓のため
海水の侵入を防ぐ必要があった。

そこで築いたのが 干潟を囲む

およそ12kmの堤防だった。

しかし 海より低い干拓地を

堤防で囲ってしまうと

百間川に流れてきた水や

水田を潤した農業用水を

海へ排水することができない。

そのため 永忠は 巻石でも使われた
強固な花こう岩で水門を造り

海と接する百間川の河口一帯に並べた。

木製の板によって開け閉めができる門。

海の水位が河口より高い満潮には

門を閉めて
海水が水田に侵入しないようにし

海の水位が下がる干潮に合わせて

門を開き たまった水を排水した。

門を通して 水を管理することで
新田開発が可能となった。

百間川の治水を
農地の拡大に結び付けたのである。

こうして
江戸時代最大規模の沖新田が生まれ

岡山藩と領民を窮地から救った。

♬~

今も開閉式の水門のシステムは継承され

百間川流域の水田地帯を守り続けている。

まさに この…

もう はっきり防災対策をやったり
治水をやろうと思うと…

…ってことが
ある種の必要だと思いますよね。

300年以上
岡山の人々を守ってきた百間川。

その静かな たたずまいの中に

信念を貫いた武士 津田永忠の記憶が
刻まれている。

もう いかにやられてきたかっていうと
岡山の人が。

僕が子どものころ これ
僕の家にあった古文書で

これ
「よしみち」って 僕の先祖なんですけど

ここ 水 濡れてますよね。
ちょっと色が違いますもんね。

これ 洪水だというのが分かったのが
これ ページめくってたら

「この古文書は大洪水の際に流出したり
泥に埋まりました」って…。

泥 付いたのばっかり。
う~ん…!

ここも 「磯田殿」って書いてたら…
ここまで泥 来てますでしょ。

ほお~! 本当ですね。

岡山は災害が少ない所って
前 いわれてたんですけど

僕は もう
違和感があったのは これを見てたから。

こんなに水害に遭った痕が残ってるのに

自然が少ない県なんて
よく言えるなというふうに思ってたんで。

その面でも歴史は大事だと。
そうですね。

片山さんも あそこを通るたびに
百間川 不思議だなって思ってたと。

私も岡山県の出身で。
高校の先輩。

あっ 高校の先輩!

生まれ育ちましてね。
百間川より ちょっと東側なんですけど。

何で ここに
この不要な川があるんだろうかと。

旭川が せっかくあるのに。
で 何も使ってない土地ですから

もったいないなあと思ってたんですけどね
やっぱり 今にして思えば

本当に 先見の明があったんだなと
思いますよね。

津田永忠

「田原用水」という用水路も
造られたんですよ。

私の卒業した小学校

そこの校庭と校舎の間を
通ってるんです その用水路が。

どうやって じゃあ 高低差を

きちっと
つけたんだろうかっていうのは…

ずら~っと。
そうすると凸凹があると分かりますよね。

ちょっと そこ掘らなきゃいけないとか。
それで そうやって何回もやって

なだらかに東から西に
水が流れるようにしたっていうのを

子どものときから
じいさんに聞いてましてね。

面白いですね。

しかし それには経費と労働力も
大変な量が必要だったと思うんですけど

この辺り 飯田さん どのように…。

借金を ばく大にこさえてでもやるべき
プロジェクトなんだというふうに説得した。

まあ この決断
非常に重いんですけれども

その一方で これを…

…っていうのは
非常に大切なものだと思うんですね。

個人の名義で お金を借りたという話
出てきましたけども

これ 商人だって ばかじゃないですから

これ 新田開発して返せるなっていう
感覚を得たんだと思うんですね。

それは きっと 熱意と もう一つは

非常に論理的なプレゼンテーションの
能力がないと

できなかったんじゃないかなと思います。

これね 治水だけだと
出費ばっかりでマイナスなんですけど

これ 新田開発とセットになってるんで

あの新田 大きくて 小さい大名だったら
いくつも 全部の領地にあたるような

ものすごい… 何万石ってやつなんですよ。
だから 造っちゃうと あとでペイできる。

でも それは成功したらですよ。

この人 やっぱりね
ものすごい はっきりしてるんですよ。

そもそも 取り立てられたきっかけが
殿様の寝ずの番をしていて

「おい 今 何時だ?」って
夜中に起こされたら

「自分は居眠りをしていたから
分からない」って答えたんですよ。

そしたら 「こいつは うそはつかない」。
目付に使うには一番いいっていうと

次から次に 本当のこと言うんですよ。

上司が 会議の最中で雑談を始めたら
万石取りの家老たちに向かって

「ここは おしゃべりする所じゃないです」
って ちびのときから言ってた。

すごいですね! ただ それに任せる殿様が
いたからできた。

元禄ぐらいまでは
そういう… はっきりしてるんです。

正義感が強いんですね。
平和になっていって

人間が秀才ばかりになると もう駄目です。

こういう人材は弾かれて成功しなくなる。

大熊さん この津田永忠の治水が
今も有効的に使われてるのは

どうしてだと思いますか?

まずですね…

ここは 百間川は
350年ぐらいですか

うまく分流してる
っていうのは

これはね やっぱり
画期的なことだと…。

普通はですね
どっちかに土砂が堆積して

どっちかが 河床が
どんどん下がっていって

うまく
分流できなくなるんですよ。

これを やっぱり津田が

この地形地質を
ちゃんと見抜いたっていうところが

武田信玄と同じですよ。

当然 土砂が出ますので。

ほっとけば だんだん だんだん 堆積して
使えなくなっちゃうわけですよね。

このインフラのメンテナンスって

ついつい削ってしまいがちな
予算なんです。

なぜかというと
橋の修繕費用をけちって

次の年に橋落ちるかっていったら
そんなことはない。

だから 削りやすいって
思っちゃいがちなんですよね。

それを しっかりとですね 予算をかけて
メンテナンスし続けてっていう

その後の岡山のすごさっていうのを
感じますよね。

恐らく…

今 それがね
やっぱり薄れてると思いますよね。

その中でね 私 気になりますのはね
図書館ってありますよね 公共図書館。

ここがね やっぱり 地域の情報の拠点に
もっと なってもらいたいなと。

特に災害の歴史なんかは どこでも
収集… 整理しませんから。

磯田家は ちゃんと さっきね 収集…
保存されてるのは例外的ですよね。

こういうのを 地域ごとに
やってもらいたいなと思いますよね。

さあ それでは 治水三傑。
最後の一人にまいりましょう。

明治時代前期

静岡県の天竜川の治水に挑んだ実業家

金原明善です。

今年 九十七回忌となる
ある人物の法要が催されていた。

男の名は 金原明善。

明治から大正にかけ

天竜川の治水に尽力した
実業家である。

江戸時代「暴れ天竜」と
恐れられた天竜川。

全長213km。

長野県の諏訪湖から
浜松平野へと流れる

急流河川だ。

天竜川流域は 江戸後期の100年だけでも

50回近くの洪水に見舞われ

そのたびに多くの命が失われた。

溺死者の魂を鎮める供養塔が
川沿いの至る所に残されている。

天保3年。
浜松の名主の家に生まれた明善は

幼い頃から 村が水に沈むさまを
幾度となく目の当たりにしてきた。

明善が 洪水から
村人たちをかくまったという屋根裏部屋。

子孫の利幸さんに案内してもらった。

ここが 明善の子どものときからあった
2階ですね。

この所には やはり
ここは非常に洪水が多かったんで

村の人たちが
ここへ逃げてくるというような所なんで。

「洪水から村人たちを救いたい」。

明治時代の幕開けとともに
明善は動きだした。

明治7年。 天竜川の治水を目的に

今のNPOに近い 治河協力社を結成する。

そして みずからの財産を元手に
大規模な堤防工事を行いたいと

明治政府に訴え出た。

金原家の全財産を売り払い
工事費に充てるという明善に

国内行政を管轄した
内務卿 大久保利通も困惑した。

しかし…。

明善の熱意に打たれた大久保は
以後 天竜川の治水事業を明善に一任し

政府から支援金を出すとまで約束する。

早速 明善は
最新の測量機器を買いそろえ

欧米の建築技術を取り入れた
近代的な堤防工事を計画した。

ところが 明善の治水計画に
反発の声が上がり始めた。

「公共事業は
地域全体で話し合って行うべきだ」と

流域の村々が
治河協力社への参加を要求したのである。

しかし 明善は
村々の加入をかたくなに拒み続け

ついに治河協力社を解散させてしまった。

明治の企業家に詳しい…

明善は 多くの村々が加わることで

方針がまとまらなくなることを
危惧したという。

村々の協力を拒んだ明善は 地域から孤立。

政府からの支援金も絶たれ

近代的な堤防を建設する夢は
ついえてしまう。

しかし 明善は全く別の角度から
治水に迫ることを思い立つ。

目を付けたのは
当時 乱伐が進んでいた山だった。

近頃 森がしきりに盗伐され
青い山が はげ山へと姿を変えている。

雨が降れば 山から土砂が流れて
川にたまり 堤防が決壊しやすくなる。

治水と植林とは
方法は異なるが

その目的は 同じではないか。

明善は 山の木々が水を蓄える力で

天竜川を鎮めようとしたのである。

早速 見よう見まねで
杉や ひのきの植林を始めた明善。

しかし 還暦間近のその行動を
初めは多くの人々があざ笑った。

天竜川から林道を進むこと2時間。

130年前に明善が植えた杉が
今も残っているという。

この木が 金原明善が

初めに この神妻の地へ植えた
杉の木です。

樹齢は130年ぐらいで
初代の木ということで ここにあります。

かつては
流域の人々との連携を拒んだ明善。

今回は 地域が一丸となって
治山治水を実現すると心に決めていた。

明善は まず
山あいに住む貧しい人々に賃金を支払い

植林という新たな仕事を与えた。

さらに丸太を運ぶ運輸会社
木材を加工する製材所

資金を回すための銀行を
次々と設立。

林業を起点に 新たな事業と雇用を
生み出していったのである。

こうして
流域の人々の心をつかんだ明善は

17年で680万本以上の植林に成功。

東京ドームの450倍の広さの森林が
生まれ

後に「天竜美林」と呼ばれるようになった。

そういう仕組みを作り上げたことが

持続可能な治水事業につながった

大きな要因だというふうに思います。

明善が植林を始めてから40年近くたった
大正11年6月。

歩くこともままならなくなった
91歳の明善は

最後に もう一度 山を見たいと
仲間たちに頼んだ。

昔の はげ山だった所が…
すばらしいと思わないですか。

死ぬときには それを見たいと。

見てから死にたいと思うのは
分かりますよ。

明善が植えた杉や ひのきは

見違えるほど大きく育ち

人々を見下ろしていた。

明善を笑う者など
もう どこにもいなかった。

大正から昭和へ。

山々に緑が戻るとともに
天竜川の洪水も次第に減少していった。

明善が夢みた ダムなどの
近代的な治水施設にも支えられ

昭和20年を最後に

浜松では
天竜川の大規模な氾濫はなくなった。

明善は今も天竜川のほとりで
人々の暮らしを静かに見守っている。

天竜川沿いに暮らす人々のため

一人で 私財をなげうって
治水に立ち上がった

金原の行動力と強い意志。
磯田さん どう思いましたか?

…っていうのは 何なんだろうという。

この時代の人の 実は 財産というのは…

やっぱり この時代は
まだ 共同体が生きてます。

…っていう視点ですし…

…っていうのがあったんですよね。

僕は 今 実は
この令和の世の中を見ていて

一番心配しているのは それで

「今だけ」「自分だけ」で いろんなことが

ちょっと まずいことが
起き始めちゃあしないかと。

これが やっぱり あの…

…ということを やっぱり

金原から 僕は見ないといけないかなと
思って 見てましたね。

いつか来る…
いつ来るか分からないけれども

そのときのために 治水 頑張りましょう
お金をかけましょうっていっても

正直 なかなか 「おお そうだ!」って
乗ってくれる人ばかりではない。

みんな 今日が大切なんですよね。

金原の仕組みが非常に機能したのは

これ 治山 植林事業に雇用され

徐々に今度は 木が育つと
木材を販売して暮らしが立つ。

ある意味…

これ 非常に重要な仕組みだと
思うんですね。

洪水を防ぐっていうときに
川だけを見て

川だけを 何か こう いじろうとか
ダムを造ろうということではなくて…

…が とても大事だと思いますよね。

今 実はですね 植林をした所も…
中国山地なんかもそうなんですけども

植林をした所もね
山が 結構 荒れてるんですよね。

植林をしたのはいいけれども
間伐とか その手入れを怠ってしまうと

土が むき出しになって
雨が降ると土砂が流れるという

同じことになっちゃうんです。
はげ山と似たようなことに。

で 私 鳥取県の知事を
やってましたときにね

企業の皆さんが
ちょっと協力してくれませんかと。

お金だけ出してくれじゃなくて

○○銀行の一つの区域にして
手入れをしてくれませんかと。

そういう制度を作ったら

結構 企業の皆さんが

その企業の
社会貢献ということで

結構参加していただきましてね
地元の銀行だとか。

それは 社員の研修とかにも
なるんですよね。

実地研修にも。

大熊さん どう思いますか?
共同体で守ることって

どうやったら
守り続けることができるんでしょうか?

今の段階では
なかなか難しい時代になってるのかな

っていうふうに思いますね。

…っていう言葉があるんですけども。

本家は 大体 まあ

明治末期ぐらいまで立地した家を
本家と言えばいいんでしょうけれども

あんまり災害に遭わない所に
立地してるんですよね。

その後 分家として出ていったところは

災害に弱い所に
みんな住んでいるっていう構造で

基本的に 今の災害は分家の災害で

みんな 被害を受けているっていう
状況ですかね。

だから
そういう中でどうしていくのかと。

私は やっぱり 早急にですね 少々…

破堤さえしなければ… 越流すると

床下浸水なんかは
あるかもしれないけれども

破堤すると どんと流れてきて

泥も いっぱい流れてきて
大被害になるんで

越流しても破堤しないような堤防造り

これは 今の技術で
比較的簡単にできるはずです。

お金も そうかかりません。

とはいえですね こう… 例えばですよ。

この堤防は
川の氾濫を止めることはできないけれど

完全に壊れることはないですって
言われたら

果たして 納得できるのかなっていうのが
実は ちょっと ずっと引っかかっていて。

まさの あの…
この「ゼロリスク信仰」というのが

日本の社会といい 教育といい
どの分野も かなり むしばんでいると。

日本って 完璧なプランAというのを
目指すがあまり

最初のプランが失敗したときのプランBを
考えない傾向があるんですね。

つまり 失敗したときは こうしますって
トラブルシュートを考えると

じゃあ 失敗するつもりなのか
っていうふうに言われてしまう。

堤防も同じで まさに あの…

絶対に越流もさせない
100%守り切る堤防なんて…。

無理です。
無理ですので

それであれば 越えてしまって
水が漏れるけれども 壊れない堤防。

こういったものを目指していくことが
必要ですし やっぱり その…

絶対っていうことは ありえないんだ
っていうのが もう 重要だし

これは共有していかなきゃならない
知識なんじゃないかなと思いますね。

片山さん いかがですか?

そういう意味で 私は
今日の武田信玄の堤の造り方なんて

すごい やっぱ参考になると思いますよね。

絶対っていうことは あれは
ちょっと 脇に置いてるわけですよね。

で あるときには
もう ある程度 水が入ります。

だけど 堤防が切れたときのような
あんな濁流ではありません。

じ~っと入ってきて

で まあ 何時間かすれば
す~っと去りますというようなですね

あれ 本当に叡智だと思いますよね。

そういうことを みんなで

こういうことあるよっていうことを
共有して

でも とんでもないことにはなりませんよ
っていう そういう安心感も得て

合意を形成する。
とっても難しいと思いますけど

でも それが賢明なんではないかなと
思いますよね。

私自身も今 皆さんのお話 聞いていて
すごい ああ そうかもなって思ったのは

今すぐの対策みたいなことに どうしても
目がいきがちなんですけれど

それこそ 金原がやっていたような
小さいことだけれど

ちょっとずつ 木を こう 植えていったら
最終的に何百年後かに

それが ちゃんと治水のシステムとして
成り立ってるっていう。

私が生きてる時代には かなわないものも
見なきゃいけないんだなっていうのは

すごく思いましたね。

この3人見てて やっぱり

「転ばぬ先の杖」に
僕はね 尽きると思うんですよ。

よくね 洪水対策をするときに

洪水に遭わない地域の人たちが
考えがちなのが

いや 自分の所は洪水に遭わないのに

なんで そんな大きなお金をかけるんだ
って言うんですよ。

だけど
一回 災害 洪水なんかが起きると

復旧対策費って
ものすごいものについて

結局は水害に遭わない人たちの身にも

降りかかってくるので。

自分が見えてないところ
起きてもないことに

想像力を巡らせられるっていうのが
僕は 人間のすばらしさと思うし

治水っていうのは やっぱり
ほかの動物と違う 人間の

予測して危険が避けられる
すばらしい点の歴史だと思うんです。

皆さん 今日は
ありがとうございました。


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