にっぽん!歴史鑑定「秀吉 中国大返しの真実」本能寺の変で亡くなった主君・織田信長の仇を討つため、備中高松城から…


出典:『にっぽん!歴史鑑定「秀吉 中国大返しの真実」本能寺の変で亡くなった主君』の番組情報(EPGから引用)


[字]にっぽん!歴史鑑定『秀吉 中国大返しの真実』


本能寺の変で亡くなった主君・織田信長の仇を討つため、備中高松城から2万の軍勢を率いて200Kmを8日で駆け戻った豊臣秀吉。その成功の鍵となった策略など徹底検証!


詳細情報

出演者

【歴史鑑定人】田辺誠一

【ナレーター】鈴木順

番組内容

神業とも言われる豊臣秀吉の「中国大返し」。本能寺の変で亡くなった主君・織田信長の仇を討つため、備中高松城から2万の軍勢を率いて200Kmを8日で駆け戻ったスピード行軍は、いかにして成し遂げられたのか?毛利軍との戦の最中だったのに、なぜすぐに和睦を成立させることができたのか?そして、信長の死を知った毛利軍が、秀吉軍を追撃しなかった理由とは?「中国大返し」の成功のカギとなった秀吉の策略など、徹底検証!

HP

http://www.bs-tbs.co.jp/kantei

監督・演出

木村吉孝

音楽

蓮花「夢ヒラリ」

制作

2018年


『にっぽん!歴史鑑定「秀吉 中国大返しの真実」本能寺の変で亡くなった主君』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

にっぽん!歴史鑑定「秀吉 中国大返しの真実」本能寺の変で亡く
  1. 秀吉
  2. 信長
  3. 京都
  4. 光秀
  5. 備中高松城
  6. 本能寺
  7. 毛利方
  8. km
  9. 中国大返
  10. 秀吉軍
  11. 追撃
  12. 軍勢
  13. 信孝
  14. 天王山
  15. 姫路城
  16. 毛利
  17. 行軍
  18. 織田信長
  19. 成功
  20. 味方


『にっぽん!歴史鑑定「秀吉 中国大返しの真実」本能寺の変で亡くなった主君』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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<戦国の歴史を大きく変えた
本能寺の変が起こります>

<天下取りを目前にしていた織田信長が>

<家臣 明智光秀の謀反に遭い
自害したのです>

<そんな主君の仇を討ったのは…>

<ご存じ 豊臣秀吉>

<しかし 神業ともいわれる
このときの秀吉の強行軍>

<中国大返しには
今なお 多くの謎が残っています>

<備中高松城で
毛利軍との戦のさなかだった秀吉>

<なぜ ほかの織田家の家臣達よりも早く>

<京都に戻ることができたのか?>

<備中高松城から
決戦の地 山崎まで>

<およそ200kmを8日間で走破>

<重い武具を装備しながら
スピード移動を可能にした秘策とは?>

<実験で徹底検証!>

<さらに 定説を覆す 新たな説も>

<中国大返し成功の裏には>

<秀吉の巧みな情報操作と
人心掌握術があった?>

<非常時に主君を支えた家臣達>

<黒田官兵衛と石田三成の働きとは?>

<その歴史の謎 鑑定します!>

う~ん そうですよね

中国大返し…

なぜ 秀吉は 誰よりも早く

京都に向かうことができたのか?

いや なぜなんでしょうか?

だって 見てください

これ 本能寺の変が起きたときに

織田家家臣が
どこにいたかという図なのですが

それぞれ 各地に散らばっているんですよね

筆頭家老の柴田勝家は

信長から 北陸制圧を命じられていて

越後で 上杉景勝と戦っていました

京都までは およそ300kmと
かなり遠くにいました

そして 関東制圧を命じられた滝川一益は

上野国 今の群馬で 北条氏と対じしていました

いや 滝川 これ 一番遠くにいますよね

そして 京都に一番近い 大坂にいたのが

織田信長の三男 信孝と家臣の丹羽長秀で

共に四国を攻める準備をしていました

で 秀吉 このときは
羽柴秀吉と名乗っていた頃ですが

ここです 京都から およそ200km離れた

現在の岡山県岡山市にいたんです

信長に 中国攻めを命じられ

毛利方の備中高松城で城攻めの真っ最中

落城寸前まで追い込んでいました

こうして見ると

信長の三男 信孝と丹羽長秀が

真っ先に 京都に
仇討ちに向かえるのでは

と思ってしまいますが

誰よりも早く 京都に向かったのは
秀吉でした

う~ん 早速 調べていくことにしましょう

<織田信長の死を一番早く知ったのは>

<京都に近い大坂で
四国攻めの戦の準備中だった>

<信長の三男 信孝と丹羽長秀でした>

<本能寺の変が起こった その日に
信長の死を伝え聞いていました>

<にもかかわらず…>

<京都へ向かえなかったのは
なぜなのか?>

<戦国史に詳しい
小和田哲男さんによると>

このとき 織田信孝にしても
丹羽長秀にしてもですね

特に 箝口令 敷かなかったんですね

ですから 信長の死を知った兵士達が

もう パニックに陥って
皆 逃げ出しちゃった

まあ ですから
あだ討ちに向かうどころではなくて

むしろ もう 守りを固めるので
精いっぱいだったわけです

<柴田勝家は
京都から およそ300km離れた越後で>

<上杉攻めを行っていました>

<勝家が信長の死を知ったのは>

<本能寺の変から数日がたった
6月5日から7日の間>

<勝家は すぐに
自国越前の北ノ庄城に戻り>

<明智光秀討伐の準備を
進めるのですが>

<やはり 出陣できずにいました>

これは 勝家の失敗点なんですけれども

まあ 上杉に追撃される心配を
残してしまったことですね

実は 光秀が景勝に事前にね

本能寺の変の計画を伝えていた
ともいわれてるんです

<信長が死ねば 勝家は
戦どころではなくなると分かっていたのか>

<上杉軍が追撃の態勢を整えていたため>

<勝家は 動くに動けなくなって
しまったのです>

<北条氏が治める関東を
ほぼ制圧しつつあった滝川一益が>

<本能寺の変を知ったのは>

<6月7日から9日の間といわれています>

<しかし 時を同じくして>

<北条氏も 信長が死んだという情報を入手>

<反撃してきたのです>

<そのため 一益は>

<京都に 仇討ちに行くことが
できませんでした>

<では 中国地方を制圧するため>

<毛利方の備中高松城を攻めていた
秀吉はというと>

<信長の死を知ったのは
なんと 本能寺の変の翌日 3日の夜でした>

<京都から200kmも離れた場所で>

<なぜ
そんなにも早く知ることができたのか?>

<秀吉は 本能寺の変が起きることを
知っていたからともいわれていますが…>

まあ よく言われますけれども
それはないです

というのは まあ 秀吉があまりにもね

早く戻ってきたということから生まれた
俗説だと思います

明智光秀は このとき
まあ 信長を討ったから

和平交渉に応じるなというね
内容の密書を

毛利に送っていたわけですけれども

その密書を届ける使いの者が

秀吉の陣所に迷い込んでしまってね
捕まったということで

むしろ 秀吉のほうに
早く情報が伝わってしまった

というふうにいわれています

<このとき 秀吉は>

<毛利方 清水宗治の居城
備中高松城を水攻めにし>

<落城寸前まで追い込んでいました>

<その作戦は こうです>

<城の周りを
全長3km 高さ7mもの堤でぐるりと囲み>

<その中に 近くの川の水を引き入れ>

<城を水没させてしまおうというものでした>

<さらに 城を完全に孤立させるため>

<周辺の警備も厳重に固めます>

<すると 光秀が
毛利方に送った密使が>

<その警備網に引っ掛かってしまったのです>

(密使)なぜ こんなところに?

ああ…

クソッ… ああ…

<城攻めの奇策のおかげで>

<思いもかけず
信長の死を早く知った秀吉でしたが…>

<草履取りから
自分を取り立ててくれた信長を>

<父のように慕っていた秀吉>

<われを忘れ ただただ泣き崩れました>

<そんな秀吉の目を覚まさせたのは>

<軍師 黒田官兵衛の
こんなひと言だったといいます>

<そのことばで
冷静さを取り戻した秀吉は>

<主君の仇 明智光秀を討ち>

<天下を取るという野望をたぎらせるのです>

<そして すぐさま 箝口令を敷きます>

<事件を知った一部の家臣達には
口止めをし>

<信長の死は極秘事項としました>

<当然 毛利方にも情報が漏れないよう徹底>

<備前から備中への道を封鎖しました>

<そして 交渉が始まっていた
毛利との和睦を急ぎます>

<信長の死を知った その夜>

<毛利方の交渉人 安国寺恵瓊を呼び出し>

<それまでの条件を
次のように緩める旨を伝えます>

<備中 美作 伯耆の3国を>

<割譲するよう求めていましたが>

<割譲するのは 美作だけで>

<備中と伯耆の領土は
折半でよいと譲歩したのです>

<さらに
備中高松城主の清水宗治が切腹すれば>

<城にこもっている 5000人の兵士達の命は
保証すると約束しました>

一般的には 急にね
講和条件 緩めれば

おかしいと思うかもしれないんですが

もう このときの講和交渉というのは
かなり前から進んでまして

どっちも暗礁に乗り上げてたんですね

ですから 秀吉のほうから
まあ ちょっと条件を緩めるよと言われれば

毛利側は むしろ喜んで
それに応じてきたという

そんな印象はあります

清水宗治は 殺したくはないけれども

織田方が それを強く望んでるならば

まあ これも やむなしと
ここで和平がね 保たれるならば

それもいいかなという
そんな判断ですね

<こうして
毛利とのスピード講和が実現>

<秀吉が信長の死を知ってから
数時間後のことでした>

そして その日のうちに

備中高松城城主
清水宗治は

水上に浮かぶ舟の上で自刃

その見事な最期に 秀吉は

「武士の鑑」 そう言って
褒めたたえたといいます

しかし その直後のことでした

秀吉の嘘がばれます

なんと 毛利方が
信長の死を知ってしまうのです

秀吉が恐れたのは 毛利軍の追撃です

実は このとき 毛利方の武将
吉川元春と小早川隆景が

1万5000の兵を引き連れ
援軍に駆けつけていたのです

ほかの地域で戦っていた織田家家臣達も

追撃や反撃に遭っていましたからね~

信長の死を知った吉川は…

そう訴えました

いや まあ そりゃそうですよね
チャンスですもんね

ところが 小早川が こう 反論しました

結局 小早川の主張が通り

毛利方の軍勢は
秀吉を追撃することはありませんでした

<さらに 毛利軍が
秀吉を追撃しなかったのには こんな理由も>

<和睦の1カ月ほど前のこと>

<総大将 毛利輝元が
家臣に宛てた書状には こんなことが…>

<武器 弾薬を使い果たしていたのなら>

<追撃どころでないのも当然>

<ところが
これもまた 秀吉の策によるものでした>

これは 秀吉はですね

瀬戸内海を支配する村上水軍を
もう かなり前から調略してます

ですから 毛利の武器の補給路を
あらかじめ断っていたんですね

<元々 村上水軍は 毛利方の水軍で>

<因島 来島 能島の三家に分かれていました>

<そのうちの来島村上家は>

<すでに 毛利を裏切り
信長側についていましたが>

<秀吉は このとき 能島村上家を調略>

<手中に収めていたのです>

秀吉は まあ
瀬戸内海の制海権を掌握するために

村上水軍の能島村上家の村上武吉
これに対して

信長に忠義を尽くすようにという

まあ そういう趣旨の手紙を
送ってたんですね

あらかじめ 瀬戸内海を支配する
毛利方の村上水軍を寝返らせ

武器 弾薬の補給路を断っていたとは…

いや 小和田先生
秀吉 さすがに抜かりはないですね

そうですね まあ 秀吉には

状況判断力 先を見据える力
っていうのは かなりありました

だからこそ 本能寺の変という
不測の事態に対しても 素早く行動し

決断することができたんですね

なるほど
それと気持ちの切り替えも早かったですよね

信長の死を知って
茫然自失してしまっても

軍師である黒田官兵衛のことばで
ハッと われに返り

気持ちをすぐに立て直せる

その辺りも すごいなと思いました

まあ 秀吉は このとき 瞬時に
信長の死後の周辺状況を分析して

まあ 光秀との戦いに至るプログラムをですね
組み立てることができました

まあ ですから すぐ
安国寺恵瓊を呼んで講和交渉を急がせた

そのときから 秀吉の中国大返しは
もう 始まっていたといえると思います

まさに そのとおりですよね

あっ 先生 ありがとうございました

6月5日 吉川元春と小早川隆景の軍勢は
撤退を開始

それを見届けた秀吉は

翌6日 およそ2万の軍勢を率い
200km先の京都へ

8日間の怒とうの行軍が始まります

<織田信長の死から4日がたった
天正10年6月6日>

<羽柴秀吉は
毛利軍が撤退を始めたのを見届けると…>

<2万の軍勢を率い
備中高松城から京都を目指し>

<200kmの大移動を開始>

<秀吉の神業ともいわれる大強行軍>

<中国大返しが始まりました>

<備中高松城を後にした秀吉軍は>

<西国街道を通り 22km離れた備前沼城へ>

<実は 西国街道は
援軍として来るはずだった信長のために>

<秀吉が事前に整備していたため>

<行軍は 比較的 楽でした>

<向かう備前沼城は 秀吉の家臣>

<宇喜多直家の居城>

<待ち受ける宇喜多も
また 準備に抜かりがありませんでした>

<秀吉達が 夜でも移動しやすいようにと
街道沿いに たいまつをたき…>

<城に着いたときに
すぐに食事が取れるよう>

<支度を調えておきました>

<こうして
順調なスタートを切った秀吉軍でしたが>

<この先が大変でした>

<沼城で仮眠を取った一行は>

<翌朝早くに出発します>

<向かうは およそ70km先にある>

<秀吉の居城の一つ 姫路城>

<その途中には 西国街道 最大の難所>

<船坂峠が待ち受けていました>

<谷が深く
道幅が4mに満たないところもあり…>

<2万もの軍勢が重装備で>

<しかも 多くの武器 弾薬や
食料を運びながら越えるのは>

<かなりの困難を極めました>

<さらに…>

姫路城までの行軍では
ちょうど まあ

暴風雨に襲われた
という記録もありまして

また 道筋の河川が

まあ 相次いで
増水したともいわれてるんです

ですから そのため秀吉は
氾濫した川近くの農民を雇って

まあ いわゆる 人間の鎖を作らせて

その肩にすがって 川を渡らせた
というエピソードも残っています

いや~ すごいですよね

谷が深くて 道の狭い峠に さらに暴風雨

氾濫した川渡りですか…

こちら 沼城を6月7日早朝に出て

70km先の姫路城に着いたのは

翌日 8日の早朝だった
といわれていますから

まあ 仮に 早朝5時に出て
翌朝5時に着いたとして

24時間で70kmの距離ですから

これ 1時間に およそ3km弱
進み続けたことになります

前の日は 仮眠しか取っていないですからね
さすがに 途中で休憩もしたでしょう

そう考えると もっと速く
時速3キロ以上で進んだということになります

しかもですね 当時の鎧などの装備は

重さが なんと
30kgから50kgあったといいますから

中学生の子ども一人 背負って
丸1日という感じでしょうか

いや~ しかし
本当にそんなことができるのか?

ちょっと 実験してみましょう

<備前沼城から姫路城まで>

<およそ70kmを一昼夜で駆け抜けたという>

<秀吉の強行軍>

<一体 どれほど過酷なものだったのか?>

<スポーツジムで
検証させてもらいました>

<協力してくれたのは 体力自慢の三神さん>

<まずは
当時の足軽の装備を想定し>

<2つで重さ およそ30kgになるリュックを
身につけてもらいました>

重いっす 背縮みそうっす

<そして ランニングマシンを使って
検証開始!>

<時速3キロから>

<これは 24時間休みなく
行軍を続けたと想定したときの速度>

まだ 全然大丈夫です

<しかし 実際の道のりには
難所といわれる峠も含まれます>

<そこで 傾斜をつけ
速度を時速4キロに>

<このペースだと
24時間中 6時間ほど休めますが…>

傾斜つくと だいぶ 足にきますね

<やはり 重装備で峠道を進むのは>

<大変だったと思われます>

<さらに 途中 走ったケースを想定し
時速8キロに>

いや だいぶ… だいぶ ふくらはぎが

ふくらはぎと足の裏 きてます

まだ 20分の1っすもんね? 長いっすね

<まだ 行軍は始まったばかり>

<かなりきつそうです>

(ボタンを操作する)

<検証開始から1時間経過>

小走りになると やっぱり こう 足きますね

で 砂利道ってなると

相当 足の強さがないと
厳しいのかなって思います

<三神さん ありがとうございました>

<峠もある70kmの道のりを
一昼夜で重装備の兵士が進むのが>

<どれほど大変か よ~く分かりました>

<実は 秀吉は
兵士の負担を少しでも減らすため>

<ある策を講じていたようで>

このとき 海路を利用したんではないか
という説があるんですね

秀吉は まあ
村上水軍を味方に付けていますので

まあ 騎馬隊や足軽隊は陸路を
駆け抜けたわけでしょうけれども

まあ 物資を運ぶ輜重部隊
いわゆる 小荷駄隊というのは

まあ 海路を行った
というふうにいわれています

まあ 言い伝えによりますと
備前の牛窓から播磨の佐古志まで

あるいは 備前の片上津から
播磨の赤穂御崎までを海路で行った

まあ そんな史料もあるんですね

<重い武具や物資を海路で運ぶことで>

<兵士達を身軽にし
大軍勢の移動のスピードを上げた秀吉>

<さらに 近年
中国大返し 強行軍成功の謎を解く>

<新たな説も浮上しているのです>

<注目されたのは
秀吉が書いた1通の手紙でした>

<本能寺の変を知った>

<織田家家臣 中川清秀の手紙に対する
秀吉の返書です>

<問題は その手紙の文面に出てくる
日付と内容>

<秀吉は 6月5日に…>

(秀吉)「今 野殿まで来ている」

<…と書いているのです>

<野殿とは 備中高松城から7kmの場所>

<この書状が正しければ
出発日の定説が覆るということに>

えっ? ということは
備中高松城を出たのは

6月6日ではなく
1日早い 6月5日になりますよね

だとすると
かなり 余裕も出てくるかと思うのですが

その辺り
ちょっと 先生に聞いてみましょう

あっ 小和田先生 すみません
はい 何でしょうか?

茨木城主である中川清秀宛ての
秀吉の書状によると

秀吉は 6日ではなく

5日には
備中高松城を出ていたようなのですが

これ 実際は どうなんでしょうか?

この6日出発という通説はですね

まあ 小瀬甫庵が書いた
「太閤記」によるものでして

6月6日に備中高松城を引き払い

沼城に移動したというふうに
書かれていたんですね

ただ まあ その移動行程が
不自然であるということから

まあ これ もしかしたら 「太閤記」の内容は

誇張表現なのではないか
と考える人もおりました

なるほど そうですよね

神業なんていわれるほどの
かなりの強行軍ですよね

そうですね まあ そこで
近年 この中川清秀宛ての書状の

6月5日に「野殿にいる」という記述が
注目されましてね

まあ 5日の時点で
備中高松城から野殿まで退却し

沼城へ向かったのでは
という新説があるんです

そうだったんですね 5日といえば

毛利軍が撤退した日ですよね?

この日に
みずからも陣を引いたとするならば

これも 毛利の追撃の余裕がないことを
知っていたからこそといえますよね?

ただ まあ 追撃の可能性は
ゼロではないわけですので

まあ このときの
だから 秀吉の決断っていうのは

やっぱり あっぱれといえますね

なるほど そうだったんですね

この まあ 新しい説ですけれども

まあ 私はですね
本隊は残っていた可能性がある

で 秀吉本人というか
まあ 周りの何人かがね

先に野殿のほうまで

移動していたというふうな
そんな理解してます

ですから
まあ こういう 新しい史料の読み方

そして 新説というのは
今後 さらに 検討を加えられてね

実際の状況は どうだったのかというのが
明らかになってくるといいですね

分かりました
先生 ありがとうございました

う~ん…
中国大返し そのスピード行軍の謎は

まだまだ 解明の余地がありそうですよね

秀吉軍が 早く 京都に戻れた理由
ほかにも 何かないですかね…

えっ? あっ 秀吉

こんなことも? はあ~

<中国大返し 成功の裏で
66億円もの大金を大盤振る舞い?>

<一体 何のために?>

<本能寺の変で命を落とした主君
織田信長の仇を討つため>

<備中高松城から京都まで
200kmの道のりを>

<8日で駆け抜けたという>

<羽柴秀吉の中国大返し>

<その成功の裏には
秀吉のこんな知略が>

<備中高松城を出発し 姫路城まで>

<2日で92kmを走破した兵士達でしたが>

<まだ道半ば>

<京都までは 100km以上残っていました>

<秀吉に ある懸念がよぎります>

<(秀吉)こやつらもだいぶ疲弊している>

<そろそろ
逃げ出す者も現れるのではないか?>

<そこで 秀吉は>

<姫路城に着くと
皆に信長の死を知らせ…>

<この行軍は 信長の仇である
明智光秀を討ち取るためであると>

<兵士達の士気を上げたのです>

<さらに 城にあった兵糧米 8万5000石と>

<金800枚 銀750貫文>

<現在の価値にして およそ66億円相当を>

<すべて兵士達に分け与えたのです>

<また 現存する秀吉の書状によると…>

(秀吉)「163人いる中間と小者らに」

「1人当たり5斗与えよ」

<中間と小者とは 身分が低く>

<食料や武器 弾薬のような
荷物を運ぶ者達のこと>

<そうした者達にも 1人当たり5斗>

<つまり 半年分の米にあたる
高い報酬を与えたのです>

<そして 翌日からの行軍に備え>

<ここで 1日 ゆっくりと休ませることに>

<すると そこへ 1人の僧侶がやって来て
こう言うのです>

それを聞いた秀吉は…

そうか

そう言って
取り合わなかったといいます

いや これ
一体どういうことかといいますと

つまり 秀吉は
光秀を見事討つことができれば

その先には 天下人としての道がある

そうなれば
何も姫路城に帰ってくる必要はない

城など どこにでも造れる

だから 帰ってこられないのは
むしろ吉日

自分が勝って
天下を取るということだと言うのです

いや~ 秀吉 かなりポジティブですよね

<みなぎる自信と天下取りの野望>

<しかし 行く手に待つのは
光秀側に寝返る心配のある武将達>

<秀吉 どうする?>

<中国大返し成功のため
秀吉は こんな策も講じていました>

<姫路城を後にした秀吉軍は>

<およそ100km先の富田へ向かうのですが>

<その際 摂津国を通ることになります>

<そこにいるのは…>

<茨木城主 中川清秀と>

<高槻城主 高山右近>

<かつて 織田信長に対して
謀反を起こした武将>

<荒木村重の重臣達でした>

<秀吉は…>

やつらが信長様の死を知ったならば

反旗を翻すかもしれぬ

<そこで 秀吉は
彼らにこんな書状を送るのです>

(秀吉)「上様は難を逃れ 無事である」

このとき 光秀はですね

信長の遺体を見つけることが
できずにいました

もし 首をさらすことができていたら

こんな嘘は
すぐばれちゃったんでしょうけれども

まあ そういうあれがなかったんで
信じてしまったようですね

<情報を操作することで
裏切りの芽を摘んだ秀吉は>

<安心して進軍することができたのです>

<秀吉は 家臣にも恵まれていました>

<事務管理能力にたけていた石田三成は>

<このとき 後方支援を担当>

<食料や武器などの物資の調達や
人手の手配などを>

<迅速かつ的確に行いました>

<これにより スムーズな移動が可能に>

<また 黒田官兵衛は
軍師としての優れた才覚を発揮します>

<それが この毛利家の旗>

<兵庫を過ぎた辺りから
隊列の先頭に この旗を持たせ>

<毛利方が
秀吉軍に加わったと思わせたのです>

官兵衛は 備中高松城で
毛利との和議が成立して

秀吉軍が撤退する際に

普通ならばね 隆景

「何で?」というふうに
思うかもしれませんけれども

たぶんね もう 小早川隆景のほうは

ある程度 察しがついていて

これは まあ ちょっと
秀吉に協力しといたほうが

毛利家のためになるかなと思って
貸したんだと思います

<旗を見て
毛利が味方に付いたと勘違いした武将達が>

<次々と秀吉側に加わったといいます>

<こうした家臣達の働きもあり>

<6月11日 秀吉軍は尼崎に到着>

<秀吉は 大坂城にいた
信長の三男 信孝と丹羽長秀に>

<尼崎まで来たことを伝えますが>

<信孝を光秀討伐の総大将に立てることは
しませんでした>

本来ならですね
息子である信孝が総大将になって

あだを討つんでしょうけれども

ただ 信孝を総大将にしてしまったら

自分は その下の
駒でしかなくなっちゃいます

これまでとは 何ら変わらない
というふうに考えたんでしょうね

また 信孝には当時
兵が4000ぐらいしかいませんでした

で さらに突然
お父さんとお兄さん 殺されて

どうやったらいいか
どうしたらいいかっていうのが分からずに

結局 何日か過ごしてしまいましたので

このように光秀を討つ気迫が
ちょっと なかった

ですから 秀吉の上には
立てなかったというふうに考えてます

<6月12日 富田に到着した秀吉は>

<池田恒興 中川清秀 高山右近らと>

<軍議を開きます>

<明智光秀を討ち 天下人となるために>

一方の光秀は
どうしていたかといいますと

本能寺の変を起こした
6月2日から4日までの間に

居城であった坂本城に入って
近江を平定

6月5日には 信長の居城 安土城と
秀吉の長浜城を占拠

さらに 丹羽長秀の佐和山城も
おさえています

もちろん 光秀も
味方の結束を強めていました

娘のガラシャを嫁がせていた
丹後宮津城の細川忠興や

大和郡山城の筒井順慶に
参戦を呼びかけているのです

その一方で 朝廷を味方に付けようと
朝廷工作も行います

朝廷から京都の経営を任せるといわれ

信長の後継者は自分だと認められたと
思っていたようなのですが

8日 秀吉の大返しの知らせを
受けるのです

本来ならば
そこで戦への備えを急ぐところなのですが

光秀はなんと 朝廷に献金するなど

さらなる朝廷工作に励んでいるのです

朝廷を味方に付ければ
武将達もなびくと思ったのか

秀吉は まだまだ京都には来ないと
思っていたのか…

<秀吉と光秀 ついに激突!>

<しかし 光秀側に大誤算が?>

<備中高松城を出発してから>

<多くの武将達を味方に付けた
秀吉の軍勢は>

<4万に膨らんでいました>

<一方 明智光秀は>

<織田信長への謀反に成功するも>

<参戦を呼びかけていた武将達が>

<味方に付かないという誤算に苦しみます>

<細川忠興は
光秀のために動かなかっただけでなく>

<正室に迎えていた光秀の娘 ガラシャを>

<謀反人の娘として
丹後の山中に幽閉してしまいます>

<筒井順慶は 一度は参戦に応じるも>

<秀吉側に寝返り
居城にこもってしまいました>

<結果 光秀の軍勢は 1万5000>

<秀吉の軍勢の半分にも及びませんでした>

<決戦の地は 京都から程近い
天王山のふもと 山崎>

<劣勢で迎え撃つことになった光秀には
策がありました>

<それは 天王山の地の利を生かす作戦>

<川が迫る天王山のふもとには>

<当時 馬がやっとすれ違える程度の
細い道しかなく>

<光秀は
そこに秀吉の大軍をおびき寄せて>

<天王山に配置した兵に急襲させて
撃破しようと考えていました>

<ただ この作戦は 逆に 秀吉軍に
天王山を取られるようなことがあれば>

<成功しません>

<しかし 秀吉もまた>

<天王山が勝負の分かれ目になると
分かっていました>

<そこで この辺りの地理に明るい
中川清秀に>

<天王山の奪取を命じます>

<中川は敵に気付かれぬよう>

<たいまつなしで
前日の夜に山に分け入り>

<光秀軍より先に
天王山を占拠したのです>

<これで 光秀軍は勝機を失いました>

<そして ついに両軍が激突>

<わずか数時間で
秀吉軍の圧勝に終わりました>

<光秀は命からがら逃げ出すも>

<落ち武者狩りの竹やりで重傷を負い>

<その後 自刃し 果てたのです>

三日天下と
やゆされることになった明智光秀

その一方 主君 信長の仇討ちを
見事 遂げた秀吉は

天下取りに ぐっと近づきました

すべては 中国大返しという神業を
やってのけたことにありました

その成功の秘訣は 情報操作など

優れた知略
巧みな人心掌握術や

有能な家臣の存在

そして
大胆な行動力と決断力

何をするにも
スピードの速さに驚かされました

秀吉 天下人となるべき
人物だったというのが

よく分かりました


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