アナザーストーリーズ「太宰治心中~死に焦がれた作家の生き方~」愛人と玉川上水に消えた!死に魅了されながら懸命に…


出典:『アナザーストーリーズ「太宰治心中~死に焦がれた作家の生き方~」』の番組情報(EPGから引用)


アナザーストーリーズ「太宰治心中~死に焦がれた作家の生き方~」[字]


「恥の多い生涯を送ってきました」天才作家・太宰治が愛人と玉川上水に消えた!死に魅了されながら懸命に生きようとした男の心中事件の真相とは?日本文学史の謎に迫る!


詳細情報

番組内容

『人間失格』が発行部数1200万部を突破。誰もが知る作家・太宰治。死して70年以上経った今も若者から支持を集め、映画など幅広いジャンルで取り上げられる。生涯で何度も自殺・心中未遂を繰り返した太宰は昭和23年6月、愛人・山崎富栄とついに玉川上水で命を絶った。なぜ太宰は死に焦がれたのか?太宰の言葉はなぜ時代を超えて我々の心に響くのか?…親友・檀一雄、師匠・井伏鱒二、愛人の三者三様の視点で見つめる。

出演者

【司会】松嶋菜々子,【出演】又吉直樹,猪瀬直樹,松本侑子,【語り】濱田岳


『アナザーストーリーズ「太宰治心中~死に焦がれた作家の生き方~」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

アナザーストーリーズ「太宰治心中~死に焦がれた作家の生き方~」
  1. 太宰
  2. 富栄
  3. 井伏
  4. 太宰治
  5. 作家
  6. 小説
  7. 自分
  8. 作品
  9. 心中
  10. 愛人
  11. 悪人
  12. 女性
  13. 初代
  14. 檀一雄
  15. 斜陽
  16. 心中未遂
  17. 二人
  18. 文学
  19. 気持
  20. 結婚


『アナザーストーリーズ「太宰治心中~死に焦がれた作家の生き方~」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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「斜陽」 その他 独自な作品で知られた

小説家 太宰治氏は

6月13日 山崎富栄さんと共に
消息を絶ちました。

作家・太宰治は

38歳で 愛人と心中した。

♬~

その小説を読んだ時

まるで 自分のことが書いてあると
思った人も

多いのではないでしょうか?

好きな人も 嫌いな人も
なぜか 心をざわつかせる

不思議な作家です。

その太宰が どのように亡くなったか
ご存じですよね?

そう 心中です。

太宰治は 愛人と共に
人知れず 玉川上水に入り

それから6日後 遺体で発見されました。

「人間失格」「斜陽」
「走れメロス」。

数々の名作を残した作家は なぜ
死なねばならなかったのでしょうか?

今日は 日本文学史に刻まれた
最もショッキングな事件のひとつ

太宰治心中事件の真相を探ります。

人間はね

恋と革命のために生まれてきたんだ。

作家・太宰治。

人の弱さや不安に寄り添う言葉で

多くの読者をとりこにしてきた。

太宰の文学を読んでると
なんか 勝手に

「自分だけが 太宰の理解者だ」みたいに。

本当は嫌だけど 惹かれちゃうみたいな。

気になる ほっとけないみたいなところが。

だが 人間・太宰治は

決して 理想的な人物とはいえなかった。

酒に溺れ

借金にまみれ

更に
薬物中毒に。

芥川賞欲しさに 懇願したかと思えば

落選すれば 逆恨み。

関わる者たちに 迷惑をかけ続け

最後は 愛人と心中を遂げた。

狂言自殺とまで
言っていいのかっていうのは

僕は ちょっと疑問ですけどね。

死ぬ気がなかったんじゃないか
っていうのは でも…

分からんでもないというか。

当時を知る3人の人物。

そして…

既に世を去った3人の視点から

太宰治という
不可解かつ魅力的な人物の

最期を読み解く。

運命の分岐点は…

1948年6月13日 深夜。

東京・三鷹の玉川上水で

太宰治が 愛人・山崎富栄と
入水自殺した時です。

実は 太宰が自殺しようとしたのは

この時が初めてではありませんでした。

1929年 二十歳で 初めての自殺未遂。

翌年 またも自殺未遂。

1935年 三度目の未遂。

1937年 妻と心中未遂。

そして 1948年
ついに 太宰は亡くなりました。

太宰は なぜ こんなにも
死を願ったのでしょうか?

また そんな太宰に
なぜ 女性たちは惹かれたのでしょうか?

第1の視点は…

太宰と死を共にした 山崎富栄。

太宰と富栄が出会ったのは
死の1年3か月前。

このわずかな間に 何があったのか?

富栄は 太宰との暮らしを
日記につづっていました。

愛人の目に映った太宰治。

最後の日々を探る
アナザーストーリーです。

太宰を愛してやまない この男が
心中の現場を訪れた。

芥川賞作家で お笑い芸人の…

ここですね。

太宰が心中した場所ですよね。

なぜ 太宰は死んだんでしょうね。

僕は あそこから
また面白い 笑えるような小説を

ねえ… 体調が良くなっていれば
書けてたんじゃないかなとも思いますし。

う~ん。

1948年6月13日。

太宰治 本名・津島修治は

山崎富栄と この場所から
玉川上水に入水した。

当時 ここは 自殺の名所。

水深は 今より はるかに深く
川底は 粘土質の土で

はまると はい上がることが
できなかったからだ。

心中相手の山崎富栄は 当時28歳。

太宰を死なせた悪女として

「酒場の女」「知能も低く」

「魅力もない」と
さんざんたたかれた。

しかし 本当の富栄は
どんな女性だったのか?

女性の視点から
太宰と富栄のことを調べ尽くした

作家・松本侑子は
それは 全て 誤ったイメージだという。

私は ほんとにね 実際にね
富栄さんを知る人に

会って
話を聞かなくてはいけないと思って。

例えば いとこさんとか

あるいは 戦時中に
お見合い結婚した相手の妹さんとか

いろんな方に話を聞いたんですけど
皆さんね…

そんな山崎富栄は
なぜ 太宰治と心中したのか?

ヒモで結ばれていた
二人の遺体が見つかり

太宰は 他の場所に運ばれたが
富栄の遺体だけが残されていた。

たたずんでいるのは 富栄の父・晴弘。

山崎晴弘は 日本初の美容学校を創立し

富栄は その令嬢として
将来を期待されていた。

子どもの頃から
大変な英才教育をなさっていて

厳しい指導をね なさってるんですね。

目隠しをして 髪結いをするとか
左手だけで 日本髪を結いなさいとか。

と同時に また…

アテネ・フランセで フランス語。

…も習わせてます。

富栄が 太宰と出会ったのは
敗戦から2年後。

富栄の日記に
その日のことが記されていた。

「三月二十七日。

今野さんの御紹介で御目にかかる」。

「私の一番弱いところ…」

太宰が 仕事場として通っていたのは

三鷹駅近くの小料理屋「千草」。

その目の前に下宿していた富栄は

太宰と頻繁に会うようになった。

太宰の小説を読んで
太宰に心酔していくんですよ。

太宰のファンって 私も含めて
どうしても…

どうして 私の
この孤独とか 寂しい気持ちとか

誰にも分かってもらえない
疎外感みたいなものを…

富栄は 戦時中に 見合い結婚をしたが

夫婦生活は わずか12日間。

夫は召集され 行方不明になっていた。

更に 実家の美容学校も 空襲で焼かれた。

ですから 富栄さん自身が
深い喪失感があったっていうことですね。

そんな富栄の心に 太宰の言葉が刺さった。

死と恋愛。

それは 太宰の人生に絡む
キーワードだ。

太宰は 以前にも

二度の心中未遂を起こしていた。

一度目は 太宰 21歳の時。

相手は 17歳の銀座のカフェの女給。

鎌倉で薬物による心中を図り

女性は亡くなり 太宰だけが生き残った。

太宰について調べ尽くし

その伝記を書いた作家・猪瀬直樹。

この棚全体が 太宰治に関連する
参考文献を全部集めて

ここに収納してるわけですね。

なぜ そこまで こだわるのか。

やっぱり 気になるんだよね やっぱりね。

変な人だなっていうのあるからね。

猪瀬は 最初の心中事件の現場にも
足を運んだ。

僕も見てみたけど あそこの

あの江の島の近くの海岸なんですけど
大きな岩があるんですね。

その岩の上で 鎮静剤を飲んで
鎮痛剤を飲んで

その女給は
もう苦しんで もう苦しんでいるわけ

最後に息切れちゃうんですよね。

だから…

企画を また次に もう一回やろう。
自殺未遂 何回もやって

それで それを 企画にして売り出そう
っていう そういう人ですよね。

小説「道化の華」に
太宰は 最初の心中未遂を書いた。

二度目の心中未遂は 太宰 28歳。

相手は…

この体験も
「姥捨」などの作品にした。

その後 太宰が
見合い結婚したのが

生涯の伴侶となる美知子。

太宰との間に
3人の子をもうける。

生活が安定した太宰は
作風も明るくなり

「走れメロス」などの名作を生み出した。

ところが 太宰は
またも愛人をつくる。

資産家の令嬢・太田静子。

戦後の代表作といわれる「斜陽」は

この静子の日記をもとに
書いたものだとされる。

なぜ 太宰の作品の背後には
常に 女性の存在があるのだろうか?

太宰の実家は 青森県の大地主。

だが 6男に生まれた太宰は

母が病弱だったため
叔母や子守役の女中に育てられた。

どうしてもね 女性に対して…

そういう 潜在的な不安みたいなものを
子どもの時から持っていて。

母性愛を求めるようなところがあった
男性ですね。

そんな太宰を受け止めようとしたのが
富栄だ。

富栄さんはね 戦後

今のお金で 1, 400万円くらいのお金を
数年でためるんですね。

それを 全部 太宰に貢いじゃったんです。

富栄は 美容学校を再建するために
貯金をしていたが

全て 太宰のために 使い果たしてしまう。

初めて会ってから4か月後

太宰が 心中の話を切り出した。

7月に 僕と一緒に死んでほしいって
太宰は頼んでるんですね。

なんでね 昭和22年の7月に
死のうって言ったか

これは 明白に理由があって。

戦死公報で 夫の死が判明し
富栄は 公に 「未亡人」となった。

死へのいざないを どう受け止めたのか。

富栄さんはね
一緒に死んでほしいと頼まれたのは

奥さんでもない もう一人の恋人の
「斜陽」の人の太田静子さんでもない

この私が選ばれたんだという。

富栄さんもね
そういう気持ちだったんですね。

富栄は 日記の中で
ひそかに両親にわびた。

奥さんに対しては ほんとに申し訳ないと。

遠慮する気持ちでおられました。

一方の静子さんに対しては
ライバル心を持ってたようですね。

そんな富栄に 追い打ちをかけた出来事。

もう一人の愛人・静子が
太宰の子を産んだ。

「泣きました。
顔がはれるくらい泣きました。

わびしすぎました」。

太宰は 富栄に
静子とは会わないことを約束し

子どもの養育費を毎月送った。

その後 富栄は 美容師の仕事を辞めて
太宰を世話することに専念した。

肺結核を患っていた
太宰の看護をしながら

作家としての創作活動を助けた。

太宰が富栄に支えられて書いたのが
あの「人間失格」。

又吉は 死の間際に書かれた
「人間失格」にも

太宰の 新たな挑戦があったという。

その 「人間失格」を書く時に…

…置くっていうのは
これは新しいんじゃないか。

新しい試みじゃないかっていう実験が
一つ あったっていう。

それが まあ新味やと
新しいんやというふうに言ってたと。

で それを見て みんなが
嫌なやつだなと思ってるから

それは太宰の想定した読み方になってて。

そういうものが
作家の手を離れたところに

「人間失格」の魅力があるのかなぁとは
僕は思ってて。

死の1か月前 太宰は最後の作品
「グッド・バイ」に取りかかった。

そこで 波紋が起きた。

朝日新聞に連載した この作品。

主人公が愛人たちと手を切るために

ニセモノの妻を仕立てて嘘をつく
という物語だ。

だが 最初に登場する愛人は…。

美容室の先生で
三十歳前後の
戦争未亡人。

まるで 富栄だ。

そりゃもちろん
ショックだったと思いますよ。

富栄さんもね 洗濯もして よく気が利いて
彼に尽くしてますから。

死を前にして 太宰は
富栄と別れようとしていたのか。

それをうかがわせる記述が
富栄の日記にもある。

太宰は こう言った。

「随分な人です」。

その相手とは…。

女子大のお嬢様で 父君は医者
つまり ブルジョア。

果たして この女性は実在したのか?

それとも 小説同様 太宰の嘘だったのか?

富栄は…。

結局 太宰と富栄は別れることはなかった。

「皆さん さようなら。

父上様 母上様
ご苦労ばかりおかけしました」。

その夜 二人は玉川上水に入水した。

太宰治の情死。

それは 世間を騒がせた
大スキャンダルでした。

しかし 太宰は以前から何度も
人生のどん底を経験していました。

そんな どうしようもない太宰に

救いの手を差し伸べた人物がいます。

それが 第2の視点。

太宰が師と仰いだ作家…

井伏は 太宰の学生時代から親交があり

心中した玉川上水の現場にも駆けつけ
捜索に加わっていました。

太宰を救おうとした恩師 井伏鱒二が見た
アナザーストーリーです。

太宰と富栄が入水した翌日。

妻・美知子や
友人などに宛てた遺書が見つかった。

「あなたをきらいになったから
死ぬのでは無いのです。

小説を書くのがいやになったからです」。

「みんないやしい
欲張りばかり。
井伏さんは」。

現存する記事は
途中で文章が切れている。

だが 遺書には続きがあった。

「井伏さんは悪人です」。

恩師 井伏鱒二。

太宰は中学の頃に
井伏の「山椒魚」を愛読していた。

井伏の随筆に
太宰との出会いが書かれている。

「はじめ 彼は弘前在住の頃
私に手紙をくれた。

東京へ出てくると また手紙をくれた」。

太宰は東京帝大入学を機に
半ば強引に井伏に弟子入りした。

ここから 井伏と太宰の
18年にわたる腐れ縁が始まる。

新聞社の文芸担当 鵜飼哲夫は
井伏と太宰の師弟関係を調べている。

井伏にとって 弟子・太宰とは…。

井伏さんにとっては やっぱり

ちょっと困った弟子
という感じなんじゃないんですか?

そもそも
押しかけ弟子みたいなものですしね。

で とにかく 事件を起こすし
後始末 全部 井伏ですから。

あげくの果てに 「井伏さんは悪人です」
って書かれるわけですから。

なぜ 井伏は太宰に「悪人」と書かれたのか。

師匠と弟子 二人の間に何があったのか。

二人が出会った昭和の初め

東京には 多くの文学志望の青年が
集まっていた。

作家が有名人になり始めた時ですから。

そうすると 今の…

今 お笑い芸人目指すために
いっぱい いるでしょ。

瞬間芸とか いろんなことやってですね
目立とうとするでしょ。

それなんですね。

現代のお笑い芸人や ユーチューバーに
近かったという文学青年。

その中で 太宰には特別な悩みがあった。

お金持ちなんですよね。 裕福な家で。

…って言われやすいじゃないですか。

お前 黙っとけみたいになりますよね。

みんなの苦しみは
みんなによって肯定されるけど…

悩める太宰は 井伏にとって
なんとも面倒な弟子だった。

新聞社の入社試験を受けて落ちた太宰は
突然失踪。

慌てた井伏は 新聞で こう呼びかけた。

「どうか頼む 太宰君 帰ってくれ。

今日も 私は 三浦半島へ
君を捜しに行って帰ってきたところだ」。

太宰は3日後 帰ってくると…。

「首をつって死のうとしたが
ヒモが切れた」と言った。

その後 太宰が薬物中毒になると…。

「私は太宰に『僕の一生のお願いだから
どうか入院してくれ。

命がなくなると小説が書けなくなるぞ
恐ろしいことだぞ』と強く言った」。

「すると 太宰は ふいに座を立って
隣の部屋に隠れた」。

「ふすまの向こう側から
絞り出すような声で

涕泣するのが聞こえてきた」。

井伏と太宰は 水と油みたいな

相いれない世界の世界観を
抱えて生きてるわけで。

つまり 身過ぎ世過ぎでもいいから
なんとか 原稿料を

乏しいところで
お金をもらってやってる時に

人に迷惑をかけるっていうのが
勝手に寄りかかってくるわけですから。

太宰が内縁の妻
初代を離別したあと

女学校の教師 美知子との結婚を

取り持ったのも井伏だった。

この時 太宰は井伏に
結婚誓約書を出して

再出発を誓った。

「結婚は 家庭は 努力であると思います。

厳粛な努力であると信じます。

再び破婚を繰り返した時には

私を完全の狂人として棄てて下さい」。

しばらくの間
太宰のトラブルから解放された井伏。

その後 陸軍に徴用され
シンガポールに向かう途上で

開戦を知ることになる。

一方 肺を患い徴兵を免れた太宰は
どう戦争と向き合っていたのか。

太宰と戦争の関係について詳しい
滝口明祥。

戦時下にあって
太宰は特別な作家だったという。

戦争が激しくなってくると

もう小説書くのをやめる作家っていうのも
だんだん出てくるんですけれども

そういう中で 太宰っていうのは
ほんとに例外的に ずっと…

青年たちには
非常によく読まれていたと思います。

太宰は戦争を賛美もせず
表立って反対もせず

精力的に作品を書き続け

太宰流のやり方で
時代にあらがっていた。

敗戦とともに アメリカから
民主主義がもたらされると

太宰は世の中の変化にも違和感を覚えた。

やっぱり 一番頭にきたのは 戦争中は
みんな戦争万歳って言ってたのが

一転 民主主義万歳ってなってしまう。

そういう迎合主義っていうのは

彼はどうしても
認めることができなかった。

太宰が新しい戦後文学として
世に問うた「斜陽」。

戦後の新体制の中で没落した
上流階級の一家の 死と再生を描いた。

どん底から新しい自分を
見いだそうとするヒロインは

こう 心に刻む。

だが この自信作にケチがついた。

文壇の大御所 志賀直哉が
「斜陽」を批判したのだ。

「斜陽」に登場する貴族の女性の言葉遣いに
文句をつけられた太宰は

随筆「如是我聞」で
志賀直哉に かみついた。

これを知って
太宰を止めようとしたのが
井伏だった。

そういうのは やめた方がいいって
井伏が忠告していたんですけど。

そういうのも ますます
反発するきっかけになって

どんどん二人の関係は
離れていったってことですね。

太宰が死んだ年に書いた「手帖」。

この中に 井伏に対する太宰の気持ちが
赤裸々に記されていた。

「井伏鱒二 ヤメロという
足をひっぱるという

ひとのうしろで どさくさまぎれに
ポイントをかせいでいる

卑怯 なぜ やめろというのか」。

師の井伏までが自分を分かってくれず
志賀直哉など 旧体制の側についた。

そう思い込んだ太宰は 井伏をこう断じた。

「ヤキモチ焼き 悪人」。

遺書に 最後に1行
「井伏さんは悪人です」と。

実は自分は悪人ですと

悪人だと思われてるねっていうことは
あるんですね。

自分… 太宰治は 実は悪人だと
思われてるけれども

実は逆説だから 悪でもあり 善でもある
みたいなのが自分だと。

二人とも悪漢なんですけど
違うよねっていうことを

太宰治は言いたかったと思いますね。

一方 鵜飼は
井伏を悪人呼ばわりした裏側には

罪悪感があったと考えている。

これから結婚はね
大切にしていくって言ったのに

彼は それを
しなかったっていう自覚がある。

やっぱりその…
ものすごい大きかったと思います。

太宰は 妻・美知子との結婚に際し
井伏に更生を誓ったが

現実には 二人の愛人がいた。

井伏に顔向けできない気持ちが 逆に

「悪人」呼ばわりする形で
表現されたのかもしれない。

太宰の死後
多くを語ろうとしなかった井伏。

だが晩年 自分を困らせ続けた
弟子の思い出を語った貴重な映像がある。

太宰は そりゃもう
言われなくっても書いてたもの。

いつでも書いてた。

さもなきゃ飲みに行ってるか。

好きだったんだな ありゃ 小説が。

♬~

さまざまな葛藤の末に
心中という結末に至った太宰治。

ベストセラー作家としての印象が強い
太宰ですが

実は 大きな文学賞は
一つも もらっていません。

第一回の芥川賞では
候補になるも 落選。

第二回では候補にすらならず

三回目以降は 当時の規定で
選考対象からも外されています。

第3の視点は 太宰の身を焦がす思いを
間近に見た親友。

作家の檀一雄です。

檀は太宰の死に接し
こう語りました。

苦楽を共にした友 檀一雄だけが知る
アナザーストーリーです。

「死んだ太宰には会いたくない」。

そう言って 檀一雄は
現場に行こうとはしなかった。

「小説を書くのが
いやになったからです」。

檀は 太宰の死の真相について
思いを巡らせた。

太宰は 文学のために死を選んだ。

それは どういうことなのか?

太宰治と檀一雄。

出会いは 太宰23歳 檀21歳。

東京帝大の先輩と後輩だった。

檀が出会った時
太宰は内縁の妻・初代と暮らしていた。

にもかかわらず
太宰は 毎日 酒と女に溺れ

薬物中毒になり 薬を買うために
多額の借金を抱え込んでいた。

太宰は… やっぱ普通は 太宰と友達に
なりたくないと思いますよ。 誰でも。

檀一雄ぐらいじゃ…
檀一雄ぐらいなんじゃないの?

1935年 芥川賞が創設され 太宰の作品…

芥川龍之介に憧れて 小説家になった太宰。

その名を冠した賞が欲しかった。
借金返済のために賞金も欲しかった。

だが
第一回の受賞者は
石川達三。

太宰は ものの見事に落選した。

しかも 選考委員だった川端康成に
こんなことを書かれた。

乱れた私生活を
批判された。

太宰は激怒し ただちに川端に反撃。

「大悪党だと思った」。

「刺す」。

檀一雄が言ってるんですけどね…

津島美知子さんという
後に奥さんになった方も

針で刺されたのを
鉄棒で殴られたように思うっていうのが

太宰の性格だって言ってて。
そうすると 太宰っていうのは つまり

それだけ人から何か言われることに
すごい弱いんですよね。

太宰は 第二回芥川賞に
すがるような望みをかけた。

こちらになります。

2015年 その証拠が見つかった。

選考委員の一人 佐藤春夫に送った手紙だ。

これが 尋常なものではない。

はい ここまでです。

手紙の趣旨は…。

あっ ここですね。

「第二回の芥川賞は 私に下さいまするよう
伏して懇願申しあげます。

私は きっと よい作家になれます」。

(河野)かなり自信を持ってると思います。

ただ そうかと思いますと
ここなんかは え~っと…。

「今度の芥川賞も 私の前を
素通りするようでございましたなら

私は再び五里霧中に
さまよわなければなりません」。

「私を助けて下さい。

佐藤さん 私を忘れないで下さい。

私を見殺しにしないで下さい」。

これで終わりではなかった。

太宰は 6日後 2通目を出した。

こちらも1メートルある。

これは2通目。

「物質の苦しみが かさなり かさなり

死ぬことばかりを考えております」。

読んだ佐藤は…。

…ということで 弟を仲介して

済生会病院というところに
入院させています。

(取材者)あっ 実際 それで入院…?
はい それで 実際 入院しています。

望みをかけた
第二回芥川賞

太宰は
候補にすらならず。

この時 檀は太宰から 書き上げたばかりの
作品集を託されていた。

その題名は
まだ20代でありながら 「晩年」。

檀は 「晩年」が太宰の遺書として
書かれたことに気付いていた。

太宰に代わって出版社に持ち込み
校正まで行った。

最初の心中未遂を描いた
「道化の華」などが含まれる この作品集。

第三回芥川賞への期待がかかったが…。

太宰は 選考対象から外された。

太宰は知らなかったが
当時の内規で

一度候補になった者は
選考対象になれなかった。

結局 太宰は
芥川賞を手にすることはなかった。

太宰の文学にとって
それが かえってよかったと

鵜飼は考えている。

太宰っていうのは
その後のいろんな挫折を経て…

…って思いがあったから

もしとってたら
鼻高々で なんとも いやったらしい

もう天才幻想に彩られた

ちょっと違う作家に
なってたかもしれないですね。

直後に 太宰にとって大きな事件が起こる。

内縁の妻・初代の不倫が発覚した。

ショックを受けた太宰は

そこから1年半
ほとんど小説を書けなくなってしまう。

追い詰められ
初代と薬物による心中を図るが 失敗。

生き残ったあと 初代を離別。

そして再びペンを執り

初代との心中未遂を
小説「姥捨」に書いた。

檀は 太宰の再起を見て…。

「太宰は 奥さんが事を起こして
そのショックが壮烈にきて

そのショックで
立ち直ったんじゃないかと思うんです」。

檀一雄は
やっぱり太宰の苦悶っていうのは

それまでは
抽象的な苦悶だったんじゃないかと。

でも 初代の不義密通っていうことと
向き合った時の苦悩っていうのは…

まさに具体的な苦悶なんですよね。

つまり
それまでは自分の顔ばっかり見てて

自分の苦悩に狂いすぎていて
他の人も苦悩してるっていうことが

見えなかったわけ。 でも…

初代っていうものを
初めて太宰が 自分以外の他者を

小説の中で書こうとしたっていうのが
「姥捨」という作品で

ストレートに 人の気持ちっていうものが
出てくる小説になる。

その後 檀は 日中戦争で召集され
太宰のもとを離れた。

文壇に復帰したのは 太宰の死後だ。

太宰は 身を刻むように小説を書き続け

1948年6月13日

自ら命を絶った。

檀は 太宰の死の真相を
「文学のための死」だと結論づけた。

その意味について 今を生きるこの3人が
自分なりの解釈を示している。

やっぱり 太宰にとってはね

自分の文学の完成ですよね。

自殺未遂とか 心中未遂をして

そういう苦しみの経験を
たくさんの文学に書いていて…

…っていう
そういう思いがあったと思います。

僕たちって その お笑い芸人でいうと

なんか ふだん普通に過ごしてて

嫌な思いしたり
変なトラブルに巻き込まれて

それを あとでお話しして
なんか それが 笑いになったり

自分の嫌な体験が
笑いになったりっていう。

最初は その順番なんですよ。

それをいったん覚えてしまうと…

…のかなと思いますね。

それを何回も何回も起こして
それを書くわけですよ。

次の小説のネタになるっていう
素材になるっていうね。

ただ いずれにしろ…

作品という形で
文学は残りますから

結局 何が残ったかが

最終的な評価なんでしょうね。

太宰治は 14年間の作家生活で

およそ150の作品を この世に残した。

太宰治の死から
もう70年以上がたとうとしています。

だらしなく ふがいなく
頼りにならない死にたがり。

こんなにも弱い人間なのに

なぜ今も 太宰の作品は
読む者の心を打つのでしょうか?

それは 私たち自身の中にもある
どうしようもない弱さや不安に

太宰治だけは
いつでも寄り添ってくれると

感じるからかもしれません。

太宰の作品は
今 どう読まれているのだろうか?

誰もが思うような
人生で一度は思うような変なこととかを

共感させてもらえるんですよ。

「この人のこと分かってあげられるのは
私だけなんです」みたいな

ちょっと ある種
ダメ男に尽くしちゃう女子みたいな。

実際 今 ああいう男の人がいたら
嫌なんです すごく。

恋愛対象としては 絶対嫌なんですけど

でも ああいう弱さを持っていながら
弱いところをさらけ出してるところが

隠さないで前面に出して… 俺は弱いけど
弱いのを守ってほしいみたいな

女性にすがりついてるような感じが
まあ悪くはないというか。


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