本能寺の変サミット2020 気鋭の研究者が一堂に会し、「本能寺の変」をめぐる歴史激論バトルを繰り広げる。…


出典:『本能寺の変サミット2020 気鋭の研究者が一堂に会し』の番組情報(EPGから引用)


本能寺の変サミット2020[字]


気鋭の研究者が一堂に会し、「本能寺の変」をめぐる歴史激論バトルを繰り広げる。根強い定説から珍説、新学説まで一挙登場!2020年現在の最新「本能寺の変」決定版!


番組内容

日本史上最大のクーデターともいわれる本能寺の変。明智光秀はなぜ主君・織田信長に謀反したのか?その謎は今も諸説紛々。怨恨(えんこん)説や野望説、共謀説など百家争鳴だ。一方、近年新たな史料の発見により従来の織田信長や明智光秀のイメージが大きく変わりつつある。今回、気鋭の研究者が一堂に会し歴史激論バトルを繰り広げる。根強い定説から珍説、新学説まで一挙登場!2020年現在の最新「本能寺の変」決定版!

出演者

【司会】爆笑問題,【解説】東京大学史料編纂所教授…本郷和人,【コメンテーター】永青文庫理事長…細川護煕,【パネリスト】天理大学准教授…天野忠幸,福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館学芸員…石川美咲ほか


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本能寺の変サミット2020 気鋭の研究者が一堂に会し、「本能寺
  1. 光秀
  2. 信長
  3. 本能寺
  4. 秀吉
  5. 自分
  6. 史料
  7. 義昭
  8. 京都
  9. 細川家
  10. 意見
  11. 怨恨説
  12. 天下
  13. 反対
  14. 謀反
  15. イエズス会
  16. 家臣
  17. 将軍
  18. 状況
  19. 石川
  20. 天下人


『本能寺の変サミット2020 気鋭の研究者が一堂に会し』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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天正10年6月2日未明。
京都・本能寺で 突如 炎が上がった。

僅かな手勢で宿泊していたのは
天下人 織田信長。

その最も信頼する家臣
明智光秀が襲ったのだ。

事件当日 光秀軍は

中国地方で戦う羽柴秀吉の
応援に向かうはずが

突然 軍を本能寺に向けた。

夢にも思っていなかった
光秀の謀反。

手傷を負った信長は 寺に火をかけ
奥へと入り 自刃した。

日本史上最大のクーデターとも言われる
本能寺の変だが

今なお 謎は多く

光秀の動機について
数えきれないほどの説が語られてきた。

一体 真実は何なのか?

そこで 今宵

「本能寺の変」研究の最前線にいる専門家
7人が集結! 名付けて…。

本能寺7の皆さんでございま~す。

(拍手)

大変 有名な方ばっかりなので

研究の上では 大変にすばらしい
メンバーということになると思います。

人間的には どうかと。
いやいや そんなことは…。

それぞれ異なる立場から 説を展開。

「本能寺の変」の謎に 新たな光を当て
真相に迫る。

自分の考えてる秀吉像とは違ってた。

もう この瞬間 負けたと
多分 思ったんじゃないですかね。

自分が今度 信長を殺したのは
こういう理由によるんだと

書いてるんですよ はっきり。
これは すごい話ですよ。 ねえ。

20年以上にわたり 新説を出し続ける
織田・豊臣研究のスペシャリスト…

信長・光秀自筆の手紙など

貴重な史料を
保管する

永青文庫センター長で 熊本大学教授…

大山崎町歴史資料館館長…

安土城考古博物館
学芸員の…

信長を受け継いだのが秀吉だというふうに
よく言われるんですけど

光秀が やってきた動きっていうのも

非常に 秀吉は意識してた。

信長が力を入れて 協力していた
ということの史料が書かれているのは

日本の記録に皆無なんです。

天下人の研究から 新たな信長像や
本能寺の変に光を当てる…

最近 明智光秀に関する著作を
多数出版している若手研究者…

考えなきゃいけないのは 信長と信忠が
京都にそろったっていう状況ですね。

織田信長っていうのはですね ものすごく
効率主義 合理主義者なんですね。

ただ 家臣の心は
全然 わかってないんですね。

わかってない。

更に!

光秀がいたとされている朝倉氏の本拠地

福井県の一乗谷朝倉氏遺跡資料館学芸員…

急に?
何ですか? 何ですか?

なぜ 光秀は
本能寺の変を起こしたのか?

そしてなぜ その天下は
僅か11日で終わってしまったのか?

本能寺の変の裏にあった
「意外な真実」を知る人物が登場!

細川家18代当主 細川護熙さん。

光秀と深い関係にあった
細川家だからこそ

知ることができた
本能寺の変直前の光秀の異変…。

藤孝は どうもちょっと
光秀の様子が おかしいということは

うすうす感づいていたようですね。
思っていた?

で その時に光秀は涙ぐんでいたと。

「本能寺の変サミット」
開幕でございます!

今日は こちらに並んでいる

さまざまな本能寺の変の説というのが
あるんですね。

この のぼりで
バーっと今 立ってますけれどもね。

いろんな動機 これは一体なぜ
本能寺の変というのは

明智光秀が起こしたのか
ということなんですけど

昔からある説から 最新の説まで
これを議論していきたいと

いろんな意見があるということで
今日はもう

その いろんな意見を持ってる先生方が
ここで激論します。

それぞれ違うんですからね 意見がね。
そうなんですよ 激論してもらう。

ふざけんな! っていう。
そこまで けんか腰じゃないです。

楽屋で どなり声が聞こえる。
それは ないです。

それは ここでやってちょうだい。
本番で やるならば。 ね。

それでは早速
1つ目の説からいきたいと思います。

まずは 「怨恨説」。

これ よく言われてる。
そうですね。

一番定番の あれじゃないですか。
定番ですよね。
定番ですね。

いじめられたとか… ね。
いじめられた。

はい この怨恨説
一体 どういう説なんでしょうか。

VTRに まとめてみました。 どうぞ!

これまで通説として長く信じられてきた
「怨恨説」。

映画やドラマなどで 常に描かれてきた
信長による 光秀への暴力的な叱責。

「怨恨説」は 光秀が恨みを募らせて
謀反を起こしたというものだ。

この説の根拠の一つとされているのが
「惟任退治記」。

「本能寺の変」の4か月後
羽柴秀吉が書かせたもので

光秀を「討伐した」という記録である。

この史料には 光秀が謀反を起こした
動機について こう書かれている。

主君・信長を殺害するまでに

積もりに積もった逆意とは何だったのか?

「恨み」の理由に関して

後世の史料で
さまざまに語られているが

中でも 有名なのが…

「徳川家康の饗応役解任をめぐる確執」。

本能寺の変の2週間前 信長は
同盟相手の徳川家康をねぎらうため

安土城に招き
盛大に もてなすことになった。

「饗応役」として その仕切りを
任されたのが 光秀だった。

殿 お味見を。

うまい! さすが京の漬物じゃ。

光秀は 各地から山海の珍味を集め
豪勢な料理の準備に余念がなかった。

しかし…。

御屋形様! 準備は万全で…。

光秀。
はっ。

この たわけが!

(光秀)おやめ下さい。
いかがいたしましたか。

なんだ あの魚は!

あの魚は 家康様の好物である
鯛でございます。

そうではない。 この悪しきにおいは何だと
聞いておるのだ!

接待の食事に出す魚が
悪臭を放っていたことで 信長が激怒。

光秀は 足蹴にされたという。

信長からの暴力的な叱責は

宣教師 ルイス・フロイスの記録にも
見ることができる。

更に怨恨説には 光秀の右腕と言われた
斎藤利三をめぐるものも。

本能寺の変から遡ること 1か月。

明智家の重臣 斎藤利三は

明智家のために 他の織田家の家臣から
家老の一人を引き抜いた。

これを聞いた信長は
織田家 家臣団の規律を乱すとして激怒!

光秀を呼び 利三の切腹を命じた。

利三をかばう光秀を 信長が激しく叱責。

この時 光秀のプライドをズタズタにする
アクシデントが。

この ばか者めが!

殴ったはずみで…。

附髪 今で言うカツラが
取れてしまったのだ。

光秀は 髪が薄いことを気にして
ふだんから 附髪をつけていたという。

人前で 附髪を落とされるのは

武士にとって この上ない屈辱だった。

情けないのう 光秀。

この事件が起きたのは
本能寺の変の4日前だとされている。

(信長)ハッハッハッハッハ…。

信長の 光秀に対する激しい叱責と
積もり積もった恨み。

これが 光秀が
謀反を起こす原因だったのだろうか?

これは ひどいね。
ねえ まあ 確かに

私たちがドラマとかでね

それこそ いろんな大河ドラマとかでも
そうですけども

信長に いろいろ光秀が
折檻されるようなシーンというのは

よく描かれていました。
よく 扇子で殴られるとかね

あと 激辛カレーを無理やり…。
それ 違います。 それ 去年ですから

あんまり違う例なんですけど。

信長が テープ回してないやろな つって。
うん それも去年話題になりましたけど。

今だったら大変ですよ あれね パワハラで。
いや パワハラどころじゃないですよ。

さあ この怨恨説 賛成か反対か

皆さん 一斉にフリップをお出し下さい。
どうぞ。

はい ということで みんな反対なんだ。
「どちらでもない」が2人。

ええ!? じゃあ 稲葉先生
聞いてみましょうか。 反対。

え~と 今VTRでも示されたものは
全て二次的な史料ばかりで

うん やっぱりあの
フロイスのものも

あの中では 人々は
こう語っているという形で

それは真実というよりも 当時の世評を
書いたものっていう形で。

ですので 史料の成り立ちをしっかりと
検討する必要があると思うんですよね。

柴先生は どうですか?

その怨恨の場っていうのが
例えば 残されている史料を見ますと

人前で行われたと。 みんなが見てる場で
蹴っ飛ばされたとか

まあ そういうことがあると
自分のメンツっていうの ありますよね。

そういったことで
まあ若干は あるかもしれないけど

これが主要因か というと
絶対そうではないと。

藤田さんは 「原因ではない。
考慮すべき史料はある」。

これ どういうことですか?

同時代史料と言いましてね
信長が生きていた頃

あるいは 少し亡くなってから たった頃の
史料ですと

全くですね 根拠のないことは
まずは書きづらいですよね。

ですので 先ほど紹介されていたですね
ものの中にもですね

同時代に近いものがありますので

それは しっかりとですね 検討して
いかなければいけないという意味で

一部は やはり考慮すべき
必要があると。           おおむね反対。

はい。
藤田先生が おっしゃったように

近い時代の史料って
考慮するべきものもある半面で

秀吉が故意に 自分上げ
光秀下げのために

吹聴しているような史料も
存在はするんです。         なるほどね。

さっきの「惟任退治記」なんかは
その典型ですね。

だから 反対っていうよりは
あったかもしれないけど

我々はそれを 何ていうのかな。
知る由がないと。

立証することは できませんというか

歴史学が語るべきものではありません
という形になるんですよね。

後世の人たちが あまりにも
それを言い過ぎたというか。

だからやっぱり 小説でいうのは
全然いいんですよ 面白いから。

だけどやっぱ 学問にはなりにくい。

確かに そう言われてみりゃ
そんなわけないよね。

いやいや ちょっと待って下さい。
急に そっちになった。

何なの さっきまで いや怨恨説!

いや怨恨とか そんな程度のことで
やんないですよ あんなこと。

リスクが大きすぎるもんね。

だから 信長には仕えられないですよ。
そんなに すぐにキレてるようじゃね。

光秀が信長を恨んできたという「怨恨説」。

その根拠となるエピソードのほとんどは
後世の人々が脚色したもの…。

ということで「怨恨説」は おおむね否定
という結果に。

光秀の動機は何だったのか

まあ 言われていたね 恨みの信ぴょう性

怨恨説っていうのを
注目してきたんですけども

ともに注目されている問題が

共謀者はいたのかということなんですね。

やはり これ 光秀を使って 誰かが

信長を暗殺しようとしたんではないか。

これ ちょっとこう
ミステリー的な感じというかね。

怨恨じゃないもんね そうなるとね。
やっぱりね 策略だよね。

イエズス会の宣教師 ルイス・フロイスは
光秀について こう評している。

光秀と何者かが手を組んで
本能寺の変を起こしたとする説は…

中でも 世間に
大きな衝撃を与えたのが…。

キリスト教の布教のため イエズス会は

本能寺の変の33年前から
日本で活動を始めた。

この時 彼らは 次なる目標
中国大陸への進出を果たすため

日本での基盤を固めるべく

信長の天下統一を
経済的に支援していたという。

ところが 信長が
天下を ほぼ手中に収め

天下人として
振る舞うようになると

しだいに イエズス会にとって

コントロールできない
存在になっていく。

ルイス・フロイスは

イエズス会を震かんさせた
信長の言動を こう記している。

信長は あろうことか

絶対的な存在である
キリスト教の神ですら否定し

自分は それよりも上の存在だと
言いだしたのだ。

神を冒涜する 信長の存在を
許してはならない。

イエズス会は 信長に次ぐ実力者だった
光秀に近づき

共謀して 信長を暗殺したのだろうか。

ほお~!
これも またね。

これは ちょっと 陰謀論的な。

ちょっとこう ストーリーとしては
面白い感じですよね。  面白いね。

何かこう 興味を持たせる感じの。 ねえ?

さあ この説についての
皆さんのお考え お出し下さい。 どうぞ。

う~わ これは全員が はっきりと反対。
あ~ そうなんだ。

イエズス会の影響力って
当時 どれぐらいあったんですか?

まず キリスト教を重視
非常に信長が力を入れて

協力していたっていうことの
史料が書かれているのは

日本の記録に皆無なんです。

で 全部 イエズス会とか

キリスト教系の西洋の史料に
書かれてあるんですね。

で その史料は
日本で どれだけ信者を得ましたよ。

どんな成績をあげましたよ。
いいことばっか 書きますよね。

教会を建てましたよという

すごい いいこと尽くしの
報告を書かないと評価されない。

となると それを本気にしていいのかなと。

天野先生 その辺は?
(天野)織田信長っていうのはですね

外国とですね
貿易をしたいということになっても

キリスト教勢力だけではなくてですね

日本国内でも
例えば 法華宗なんかだとですね

種子島とかまで行けますし

禅宗だとですね
琉球への つながりもありますので

この キリスト教勢力だけに頼りきって
という こういう見方というのは

ちょっと 当時の東アジアの国際関係とか
貿易の実態から見ても

ちょっと ありえないんじゃないかなと
思います。

更に イエズス会の重要人物の一人
オルガンティーノが安土にいたが

本能寺の変が起きたことを知り

明智軍を恐れて
慌てて逃げ出した
という。

光秀が イエズス会と
共謀していたとすると

オルガンティーノの動きは
説明がつかない。

そこで 「本能寺の変サミット2020」。

イエズス会共謀説は
根拠となる史料が乏しく

7人の専門家は いずれも否定
という結論だった。

他に何か説あるんですか? 共謀者。
普通に出てくるのが

小説家の先生方が よく言われるのが
徳川家康が黒幕じゃないか。  なるほど。

ちょっと この説について
ご意見ある方 いらっしゃいます?

家康は 堺にいた時にですね
本能寺の変 知るんですが

そのあとですね 自分の領国へ帰る時に

伊賀越えという
危険なルートを通るんですね。

で もしですよ
これが明智と通じてんなら

何で そんな危険なルートを通るんだと。
で その危険なルートの中で

多くの軍勢を 家康 失ってんですね。
ああ そうなんだ。

で そういった存在が
果たして共謀するかという

やはり 家康に関しては疑問があります。
なるほどね はい。

太田さん ここまではですね
通説とされてきた

いわゆる怨恨説とか 共謀説というのを
見てきたんですけども

どれも…。
全部 潰れましたね。

はい 真相には程遠い感じで。
全部 潰れました。

かなり皆さん これだけの人たちが
集まってんですけど

番組は ここからですね?
そうです。      本郷先生。

ここから意見が分かれてくる。
だと思うんですよ はい。

さあ ということで 次は こちらの説です。

「鞆幕府推戴説」。

厳重に保管されている
この神社の御神体は…。

室町幕府 最後の将軍 足利義昭。

広島と足利義昭
そして 本能寺の変をつなぐ説こそ…。

本能寺の変の9年前 足利義昭は
信長に敗れ 京都から追放され

室町幕府は滅亡したとされてきたが…。

義昭は
広島県の港町 鞆の浦に移り住み

毛利氏の庇護の下 将軍として
「鞆幕府」と呼ばれる勢力の中心にいて

再起を図っていたというのだ。

港から程近い 小松寺。

ここは 室町初代将軍・足利尊氏が
京都で幕府を開く直前

戦勝祈願のために
立ち寄ったとされる寺だ。

再び 上洛を果たし
幕府復興をもくろむ 義昭にとって

鞆の浦は 縁起のいい場所だった。

更に 鞆の浦は
海流が 満潮時に ちょうどぶつかる

瀬戸内海屈指の交通の要衝。

四国・九州から
人 物 そして情報が集まり

戦略的にも有利な場所だった。

義昭は 京都から広島に逃れ

信長と敵対する西国の大大名
毛利氏などと 手を組むことで

打倒信長を画策していたのだ。

鞆の浦に 何度も足を運び
調査研究している藤田さんは…。

その 言ってみれば
中心に来たというように

考えてもらったらいいと思います。
つまり…

直接ですね 情報を まあ
キャッチボールできるということが

あったんだと思いますね。

光秀が 鞆の浦の義昭に近づき

再び 義昭を京都で将軍に復帰させるため
本能寺の変を引き起こしたとするのが

「鞆幕府推戴説」なのだ。

義昭の野望と
光秀の深いつながりを示す証拠が

この 本能寺の変から
10日後に書かれた

光秀自筆の書状。

秀吉との最終決戦 山崎の戦いを控え

信長と敵対していた勢力に
協力を求めるために送った書状の一つだ。

そこには こう書かれている。

信長亡き後 「主君の命令」を意味する
「上意」が使われる人物は

義昭の他に考えられない。

義昭の入洛 つまり
京の都に再び戻り

室町幕府を再興する
件について

光秀自身 既に

承諾していると
読める手紙。

室町幕府の復興という
大義のため

光秀は 本能寺の変を
引き起こしたのだろうか?

はい。
ということなんですけど はい。

さあ この「鞆幕府推戴説」 どう思うか
皆さん フリップをお出し下さい。

どうぞ。 おっ。

割れました。
これ 割れましたね。 はい。

これ まあ
ロケにも行って頂いた 藤田先生。

この光秀のクーデターなんですが
まあ どんなクーデターも

また その 歴史的に見てもですね
古今東西 そうなんですが

正統性を確保してないような
そんな いいかげんなものは

あっという間に滅んでしまいます。

まあ 光秀についてはですね
いくつかの要因があるんですが

もう これは やっていけないと。

更には 義昭の方から近づいてくる
ということもあると

もう すごく悩んだと思いますが
その中で

まあ 錦の御旗と言いましょうか
正統性は しっかり確保してないと

当然 旧勢力が ついてきませんので

そういう意味でもですね 言ってみれば
謀反の正統性という意味で

義昭は絡んできてると。

もちろん 義昭が
やれと言ったから やるなんて

とてもじゃないけど できません。

稲葉先生                  (稲葉)はい。
この説は どうでしょう。

近畿地方周辺の
世俗で 有力な大名が

将軍を担いで 京都に入って
京都の天下の政権をするというのは

戦国時代の
オーソドックスな形なんですよ。

それは応仁の乱後 定着している形。
信長も それで京都に来たわけ。

なので 光秀が信長を倒したあとに

将軍は やっぱり鞆の浦にいる義昭なので
彼を京都に呼び返して

そこで新しい天下を始めてっていうのは

僕は 自然に理解できることじゃないかな
というふうに思います。

ただ 義昭が どこまで光秀を首謀者的に
操ったかということについては

僕は分からないと
思っていますけれども。

福島先生 え~ 反対の意見ですね。
(福島)はい。

本能寺の変が起こったあとの
問題だろうと。

その時には
いろんな勢力を 光秀としては

使えるものは使ってしまおう
ということだと思います。

本能寺の変以前の段階で どこまで
その義昭等が関わってたかというのは

なかなか難しいとこじゃないのかなと
思ってます。

「義昭の入洛について
承諾している」

という
光秀の書状から

光秀が 義昭を
担ごうとしていたことについては

意見が一致。

しかし 福島さんは この書状が
本能寺の変の10日後

山崎の戦いの直前に
書かれていることから

光秀が 変を起こしたあとに
自らを正当化するため

義昭の権威を
利用しようとしたにすぎず

義昭のために変を起こしたわけでは
ないと指摘した。

どうですか藤田先生 その反論に関して。
(藤田)はい。

その 困った時点というのがありますよね。

で 例えば6月の まあ 9日10日とか
まあ そこの辺りになると

かなり危なくなるわけですが そこで
もう わらをもすがる気持ちでですね

鞆の浦に 急使を立てるということを
してもですね 間に合わないですよ。

それに もし 着いたとしても
いきなりですね

「僕は信長を倒しましたから どうぞ
味方になって下さい」と言っても

すぐに それを信じるかどうか
という問題もありますしね。

当然ですね 複雑な 背後には
人間関係があったり 要因があると。

そこの構造を明らかにするというのが
我々の仕事であるということで

そんな単純なものではない。

単純ではないと。
そうです。

その構造を明らかにしたい
ということです。           なるほどね。

「鞆幕府推戴説」。

義昭と光秀に つながりがあった
ということに関しては

おおむね
意見の一致を見たものの

それが 本能寺の変の
前か後かに関しては

意見が分かれる
という結果になった。

一方 光秀と将軍・義昭の
深いつながりをうかがわせる

新たな史料が発見された。

2017年に出てきた
「針薬方」という この史料。

細川家の家老 米田家に残されていた

光秀本人が語った話を記録した 新史料だ。

史料には
永禄9年のものと書かれているが

それが確かならば
光秀に関する 最も古い史料となる。

この「針薬方」の中に
石川さんは 重要な発見をしたという。

大発見をしました。
えっ!?

急に?
はい。 え 何ですか 何ですか?

(石川)私が びっくりしたのは ここです。

(石川)…っていうふうに出てきました。

はい。
これが大発見なんです。

それが大発見?
我々には 全然分かんないんですけど。

石川さんが注目した薬
「セイソ散」。

これは 当時 高度な
医学を誇っていた

朝倉家秘伝の
薬だという。

「光秀は それを伝授されていて
人に教えた」と

「針薬方」には書かれている。

(石川)刀傷に効く薬なんですね。
まあ 最先端の医学です。

戦乱の世の中には ものすごい
重宝された薬でしょうね きっとね。

(石川)そうです。
新しい分野の医療です。

それを 他の人にもお伝えするぐらい
もう 医学に長けていた。

なので 光秀の職業 こうだったんじゃ
ないか説っていうことで。

お医者さん。
医者みたいな。

医者みたいな。
…ことをやっていたんじゃないかと。

へ~ これ大発見?   (石川)大発見です。
うわ~…。

光秀は 中年の
途中入社組のような感じでですね

越前で どうも朝倉氏に仕えていたのか

まあ 食客だったのか
よく分からないんですけれども

そこから 歴史上に登場していって

それ以前は 恐らく
浪人だったんではないのかというのが

一般的だったんですが

今の大きな発見によってですね 単なる
浪人ではなかったんではないかと。

立場は分からないけれども
恐らくは 幕府や京都との接点が

若い頃に やっぱり あると考える方が
自然じゃないかなということで

かなり大きな発見だと思います。

石川さん だから そのね発見は
すごいじゃないですか。     大発見だね。

やっぱり 明智光秀っていうのは

ぽっと出の
訳分かんないやつではなくて

周りに朝倉義景だったり
旧来的な人脈を こう背景にして

前半生 生きてきた人なんだということが
最近 ここが言いたかったです。

なるほどね。
ほんとは。 薬作ってるだけじゃない。

そう考えると
その ちょっとした思いつきで

何か クーデターを
起こすみたいなこととは

ちょっと やっぱりね。
そうかもね。

そういう人物とは思えない感じも
してきますよね。

いろいろ策略を練って 練ってという。

確かに その感情だけでね
ぱ~っと こう動くような

さすがに そういうことは しないんじゃ
ないかという気もしてきましたね。

教育って大きいですもんね。
ねえ。

セイソ散っていうのが
大河ドラマに出てきたら

私のことを思い出して下さい。
(笑い)

出てくるのかなぁ?     出すべきだよね。
出てくるのかなセイソ散。

光秀は 朝倉家に信頼され

秘伝を伝えられるほどの身分だったと
考えられる。

義昭とのつながりのある
朝倉家からの信頼。

それは 光秀の前半生や
義昭のつながりをひもとくうえで

重要な発見だ。

続いては…

光秀は 信長の行った革新的な構造改革に
反発し 変を起こしたというのだ。

一体どんな改革なのか?

世は戦国時代。

自分たちの城や領地を いかに守り
拡大するか…。

大名たちによる限られた土地の奪い合いは
100年近くも続いていた。

そうした時代を終わらせるべく
信長が打ち出した

領地や城に関する 全く新しい思想がある。

「預治思想」だ。

土地は あまねく天のもの。

それを 人が「預けられ 治める」…。

この「預治思想」こそ
信長の革命的思想だという。

土地は全て 天から「天下人」たる信長に
与えられたものであり

各大名は その土地を預かっているだけ。

そうすることで 争いのもとだった
土地の奪い合いはなくなる。

預治思想は 秀吉・家康に受け継がれ
幕藩体制の礎となっていく。

本能寺の変の2年前 天正8年。

信長は 大和一帯を支配する筒井順慶に
居城一つを残して

他の大和一帯の城を全て破壊する
「一国城割」を命じた。

領地や城の管理といった
従来の各大名の権限を 信長は奪い

自らが直接差配。

それまでの権力者とは
一線を画す命令だった。

そして天正8年を機に
光秀や秀吉など

家臣の領地で 石高を調べる
検地を次々行い

領地管理を
徹底させていく。

更に 長年自らに仕えてきた宿老に対し
見ず知らずの土地にうつす

「国替え」も命じた。

「城割」 「検地」 「国替え」。

全ては 天下人を中心とした
強力な集権国家にするためのもの。

まさに 国の形を劇的に変える
構造改革を推し進めようとしていたのだ。

そして 光秀も
例外ではなかった。

江戸時代にまとめられた
「明智軍記」によれば

光秀の領国である
丹波・近江を召し上げ

いまだ敵国である 出雲・石見への
国替えを命じられたという。

丹波の地は 光秀が4年もの歳月をかけ
苦労して平定した領地だ。

新しい国の形を目指して
信長が進めた構造改革。

だが 旧来の常識に縛られる
家臣たちにとっては

あまりにも革新的すぎた。

そんな信長への反発こそが

光秀の本能寺の変の
引き金になったのだろうか?

「構造改革反発説」 賛成か反対か 皆さん
一斉にフリップをお出し下さい どうぞ。

割れました。
これ割れましたね はい。

これ あの… 検地っていうとね
ぱっと浮かぶのは 太閤検地ね。

秀吉のアイデアって すごいな
刀狩りと太閤検地ですよね。

実は やっぱり それは信長の

その もとの発想を
受け継いだってことなんですね。

おっしゃるように 信長は天下人として
新しい支配を

少なくとも 本能寺の変の
2年ぐらい前からですね

押しつけていくと。 かなり重臣たちも
理念には賛成だけれども

実際にやるとなると
かなり しんどいという

そういう非常に この軋轢に悩む
というような状況があったことは

間違いないと思います。

で 光秀についてはですね
まあ 国替えが待っているとかですね

そういう このまま放っていくとですね

もう 自分は歴史の舞台から事実上
下りなくちゃいけないというような

非常に厳しい状況に置かれていくと
そういう私は理解をしています。

なるほどね。 はい。

福島先生 反対の意見ですね。

信長というのは やはり どこまで
ビジョンを持ってたかっていうのが

もうひとつ 分からないということと

それが あの 現場の下で働いてる
武将たちの方が

地域社会との葛藤の中でですね
そういう新しいビジョンを

見つけていくんじゃないかと。

そういうところに光秀の特徴が
あるんじゃないかと私は思っております。

なるほどね。
今ね 福島さんが言われたことの

具体的な中身っていうのが…

ちょっと
難しいんですけど。

ちょっと簡単に説明して下さい。

田んぼと畑を実測して
そこに 一定の米の量を
掛け算する。

それで 田んぼと畑の
石高っていうものを
算出して

それを足し算すると
村の規模が

数字で表現できる
ようになるんですね。

100石につき
いざ戦争という時には

6人
兵隊を連れていく。

200石だったら 12人
こういう客観的な
数字のもとで

軍事動員をする
こういうシステム
っていうのは

信長自身じゃなくて 光秀や勝家や
秀吉の支配していた

周辺の地域から
生まれてくるっていうことになりますね。

(本郷)だけど
そしたら光秀と それから秀吉と

勝家が 同じにやってるってことは

まさに それは それを統一する

信長ビジョンが
あったっていうことになりません?

そこが藤田さんの考えとの
分かれ目だと思うんですよね。

それは 信長のビジョンのもとで
やってたことだっていう考え方と

光秀たちには独自性があって
自立性があったっていう。

どうですか? 藤田先生。

信長自身が 軍役っていうんですけど
さっき おっしゃったようにね。

100石につき何人っていうふうに
デジタル表示化させるっていう方針は

私は これは信長から
指令が出てると思うんです。

それ 最初の発想がってこと?
(藤田)そういうことですね。

それで 何でかというと
何で秀吉が いきなりですね

本能寺の変のあと 3年後にですね
あれだけのことができる。

つまり 近畿地方を
はるかに超える領域でですね

統一といいましょうか
一定の領域支配をして

更には 近世的なですね 知行制を
始められるっていうのはですね

やっぱり それは師匠がいたというように
見なければですね

いきなりは ないというようには
思ってます。

確かに 世の中の変革期で
大本の思想を まずつくる時代の人と

それを行動に移して 国をとっていく人と
そのあと 治めていく人と

誰が 一番偉いのかなんて
分からないもんね。

それこそ ビジネスの本で創業と守成は
どっちが難しいのかみたいな

話になるじゃないですか
分かんないですよ ほんとに分かんない。

漫才ブームの頃はね セント・ルイスさん
田園調布に家が建つ

この人たちが まず切り開いて
で B&Bが道をつくって

その上を ツービートが
ロールス・ロイスで走ったっていう

そういう よくね 我々…。
よく言われましたね。

駆け出しの頃 よく…。
誰が一番すごいのか。

確かに だから そういう…
で どこで切り取るかによって

皆さん すごいわけじゃないですか
セント・ルイスさんも すごいし

B&Bさんも ツービートさんも
みんな すごかった。

で その人たちがいないと 後の人たちは
生まれてないって考えるとね。

革新的な構造改革は
信長の命令によって行われたのか?

あるいは 光秀ら
家臣たちの独自性だったのか?

その立場の違いによって
サミットの見解は分かれるという結果に。

革命家 信長と 旧来型の家臣 光秀。

そうした従来の評価は
近年 大きく変わってきている。

実は 光秀の方が信長よりも
優れていたのではないかと考える

研究者も増えつつあるのだ。

光秀と親交のあった
京都・吉田神社の神官 吉田兼見は

日記の中で こう記している。

坂本城とは 安土城の4年前に
建築が始まった光秀の城。

信長よりも早く 光秀は 荘厳な天守を
既に築いていた可能性があるのだ。

更に 城だけでなく
家臣たちを統率するための規律も

時代を先取りしたものだったと
いわれている。

明智軍のルールを明文化したものだ。

当時の軍は さまざまな出自の者で
構成された いわば寄せ集め。

「家中軍法」では 細かな規律が定められ

戦場での雑談や
抜け駆けの禁止などが徹底された。

その あまりの革新性に
「家中軍法」は 江戸時代に作られた

偽の文書ではないかと考える研究者も
いるほどだ。

一方 革命家といわれてきた
信長の人物像にも 近年 大きな変化が。

…は 新たな信長像を
提唱している。

…というふうに考えています。

朝廷が執り行う儀式には
多額の資金が必要で

それを援助するのは
伝統的に幕府の役割だった。

しかし 室町将軍…

朝廷を支えていたという。

更に…。

天下静謐っていうのが 信長の
スローガンだったと思いますので

それが第一で それを乱す勢力を
排除するといいますか

それが 信長の軍事行動の大前提。

その結果として 天下人となったという
ことにすぎないんじゃないかと思います。

信長にとって 戦の目的は
天下統一ではなく

各地で起こる戦いを鎮め
朝廷を中心とした

伝統的な秩序を守ることだった。

つまり 信長は
次の時代をつくった革命家ではなく

旧体制を重んじる
最後の戦国大名ともいうべき

保守的な人物だった可能性が
あるというのだ。

従来のイメージを覆す
信長と光秀の人物像。

ここから 本能寺の変の真相に関して
新たな説が見えてくる。 それが…。

信長の暴走を止めるために
本能寺の変を起こしたとする説。

天正8年 10年余り続いた
石山本願寺との戦いが終わり

信長は 畿内全域を平定。

京都周辺は まさしく天下静謐となった。
しかし…。

信長は なおも
戦いをやめることはなかった。

全国各地の 自らに従わない勢力に対して
兵を送り

武力で押し潰そうとしたのだ。

信長の行動は
武力しか解決策を持たない

旧来の戦国大名と
なんら変わりのないものだった。

室町時代の将軍が
地方の大名たちに及ぼすような…

稲葉さんは この時の信長を
「戦争の自動機械」と表現している。

既に中国地方での毛利との戦いは
6年に及び

北陸の上杉とも戦いは続いていた。

長引く戦と 拡大する戦線。
織田家臣団は 疲弊しつつあった。

そんな中で 信長は更なる戦を決定する。

天正10年 四国攻めだ。

あのまま
四国出兵になっていった場合には

相当 泥沼の戦争に
突っ込んでいくことになったという…。

終わりの見えない戦の日々。

そんな信長の暴走に
最も大きな危機感を持っていたのが

家臣 光秀だったのだ。

織田家の有力者たちが
任された地域を見ると

秀吉の中国地方 柴田勝家の
北陸地方に対して

光秀は 信長の膝元 畿内周辺を
任されていた。

更に 光秀と
軍事行動を共にする大名を含めると

それらは 京をぐるりと
包囲していたのが分かる。

戦争の自動機械と化した信長の暴走。

それを止められるのは 畿内を任され
軍事的ナンバー2だった

光秀しかいなかったのである。

本能寺の変の動機に関して
決定的なことが書かれた史料がある。

永青文庫に所蔵されている…

光秀直筆の書状だ。

本能寺の変の7日後 関係の深かった大名
細川藤孝に向けて

光秀自身が筆をとった。

そこに書かれている動機こそ

信長暴走阻止説の
大きな根拠になっているという。

本当に 光秀は信長の暴走を止めるために
本能寺の変を起こしたのだろうか?

第3条目のところで
こう言ってるんですね。

自分が今度 信長を殺したのは
こういう理由によるんだと

書いてるんですよ はっきり。

自分の息子や細川忠興
自分たちの息子の世代に

権力を譲り渡す
早く委譲させるというのが

信長を殺した理由なのであって

50日か100日のうちに
近畿地方は
押さえるから

そしたら
そのあとは

忠興たちに
畿内の支配権を譲る。

他に私利私欲はないんだということを
明確に書いている。

信長の権力行使 ストップさせて
次の世代に代替わりさせる。

それを 文字どおり読めば
それが理由なんです。

彼が書き残した たった一つのですね。

おっしゃったようにですね
天下を取りたいとかですね

そんなイメージじゃないんですね。

自分がそういう 言ってみれば
クーデターではあるんだけれども

あるべき国家社会に返したらですね
あとは次の世代に譲って

自分は身を引く
事実上の引退宣言ですよね。

そんな野望を持って
やったことではないと。

あるべき社会のためにやったんだ
というですね

自分が追い込まれてるにもかかわらず
あんなに淡々と書けるっていうのは

ちょっと 自分が中心になって 天下を
取りにいくというイメージでは読みにくい。

そういう史料だと思いますよね。

逆にいうと だから そこまでしてでも
信長の時代にはしたくないっていう

思いも ちょっと透けて見えるというかね。
(藤田)それはある。

「信長暴走阻止説」。

本能寺の変 7日後 直筆の書状に
書かれていたのが本心なら

光秀は 天下取りではなく
信長の時代を終わらせるために

謀反を起こした可能性が高いが

その真意は
更なる研究を待つ必要がありそうだ。

さあ 本能寺の変を起こす
動機に関してなんですけれどもね

近年 新発見が
そちらでもあったそうですね。

それが こちら。

2014年 歴史界を揺るがす
驚きの発見があった。

岡山県林原美術館で所蔵されていた
「石谷家文書」だ。

明智光秀の重臣 斎藤利三と 土佐の大名
長宗我部元親らが やりとりした

膨大な数の手紙。

これにより
注目を集めることになったのが…。

長宗我部元親とは
四国統一を目指していた戦国大名。

元親は 信長と同盟関係にあり

その取り次ぎを務めていたのが
光秀だった。

戦いで勝ち取った土地は
自分のものにしてよいという

信長からのお墨付きをもらい
敵対する三好家と戦い続けた元親は

四国統一目前だった。

ところが
状況は一変する。

本能寺の変の前年 天正9年

信長は突然 長宗我部ではなく
三好家と接近。

元親が戦いで勝ち取った四国の一部を
三好家に返上するよう要求したのだ。

「石谷家文書」 翌天正10年1月の手紙には
緊迫の事態の状況が こう書かれている。

手のひらを返すように 突如
領地を奪われる立場となった元親のため

光秀は 信長との間を取り持ち
奔走していたのだ。

「石谷家文書」からは

その結果 ようやく たどりついた
妥協案を記した書状が見つかっている。

本能寺の変10日前 元親から
光秀の重臣 斎藤利三に出された手紙だ。

「信長との間を 終始
取り計らってくれたことは忘れない」。

領土の返上を渋っていた元親を説得し

信長の命令に従わせることに
成功した光秀。

ところが…。

信長は 情け容赦ない決定を下す。

長宗我部を滅ぼす。
(光秀)ご冗談を…。

わしは本気じゃ。
お待ち下さい!

いま一度 元親殿を説得させて下さい!
(信長)知らんわ。

しかし…。
黙れ!

わしは お前の意見など聞いてはおらん。

(信長)分かったな。

光秀の尽力むなしく 四国出兵が決まる。

信長の三男 信孝と 丹羽長秀による
元親討伐軍。

四国に向けて出兵する まさにその日
6月2日未明

光秀は本能寺の変を
決行したのである。

四国をめぐる 信長の手のひら返し。

これが光秀に 本能寺の変を
起こさせたのだろうか?

四国説というね まあ 比較的
新しい説だそうですけども

この説について
皆さん どう思われますか?

お出し下さい どうぞ。

うわぁ! これは
賛成が一気に増えましたね。

反対は 稲葉さんと石川さんだけで
あとは賛成

藤田さんに至っては 大賛成。

すごいですね この四国説。

ではまず 天野先生。

信長はですね

この毛利輝元を
真正面から たたくため

羽柴秀吉を派遣しているんですけども

横っ腹からはですね
この毛利輝元をたたくためにですね

瀬戸内海の制海権を
なんとかして取りたいと。

信長にするとですね
長宗我部であろうと

三好であろうと かまわないんですね。

それは信長の ある種
非常に効率的な考え方なんですけども

光秀の面目は丸つぶれというのは
非常に大きな問題だったと思われます。

この場合 メンツが潰されたってことが
最大の…。

メンツが潰されたっていうことも
大きな問題だし

やっぱり 秀吉との出世競争ということも
あるんじゃないかっていう人もいますね。

ナンバー2とナンバー3を
大体 明智と それから秀吉とが

争ってるっていうような構図で 皆さん
考えていらっしゃるみたいなので。

そうなると これで四国説っていうのは
決定的に秀吉がナンバー2になる

ということで やっぱり光秀としては
耐えられんということがあるわけですね。

秀吉にいかずに 信長にいくんですね。

うん だから秀吉を重んじる信長憎し
という形になっちゃうのかもしれない。

信長というのは いろんな武将たちを
割と競わせてるところが

あったりするので 多分 その武将たちとの
いろんな いがみ合ってるものがですね

いつの間にか
信長に向かってくるんじゃないかという。

なるほどね。

その 秀吉方もですね
先ほどもありましたように

この瀬戸内海地域で
力を得ようとするとですね

単に陸戦だけじゃどうにもならない。

やはり 水軍 海賊をですね
味方につけなければいけない。

東瀬戸内海で力を持っていた淡路水軍
もっといえば 三好氏の勢力を

使わなければ どうにもならないと。

四国における いってみれば
生き残りを懸けた戦国大名同士の争いが

織田家の実力者 二人のですね
派閥抗争に

どうしても リンクせざるをえない。

お互いに生き残りを
懸けなくちゃいけないと。

「石谷家文書」の発見により
一躍有力な説となった「四国説」。

長宗我部と三好という
四国の戦国大名同士の争いに加え

元親の取り次ぎ役である光秀

そして 三好の水軍を取り込もうとする
秀吉という

織田政権内の派閥抗争も
背景に見えてくるという。

かなり複雑な話になってきましたけどね。

この場合は
計画的ってことになるんですかね?

そうですね 計画的でしょうね。

四国の問題は
計画的なとこもあると思うんですが

もう一つ 考えなきゃいけないのは

信長と信忠が
京都にそろったという状況ですね。

これ 計画されてたのかというと 実は
信忠は最初 家康と一緒に

畿内の観光に行く予定だったんですね。
それが 信長が京都に来るんで

信長を待つという状況になってるんで
この 要するに信長と信忠がそろった

という状況を やっぱり
考慮しないといけないんじゃないのかと。

これはチャンスだと思ったということね。

本能寺の変が起こった…

2人を同時に討たなければ
謀反は成功とはいえなかった。

ところが 当初 信長と別行動を
とるはずだった信忠が予定を変更。

2人が急きょ 京で兵力も持たずに
とどまることになったのだ。

これが決定したのは
本能寺の変が起こる僅か3日前。

確かに この瞬間 光秀にとって
変を決行するうえで

かつてない好条件が そろっていたのだ。

全体通して どんな感じですか?

今までの説より 全然面白いですね。
いやいや まあ いろんな説があるからね。

いろんな偶然 もちろん偶然もあり
計画的なものもあり

そういう条件が全部そろった時に
ガッと動くっていう決意を

明智光秀がしたんだなと思うと
なんか そのね

ひと言 怨恨であるとか計画であるとか
どれかに決めちゃうんじゃなくて

その条件が ある瞬間 パッとそろう時が
もしかしたら あるんじゃないですか?

ある種 必然みたいな感じにも
思えてくるというね。

近年 発見された一次史料により

四国をめぐる さまざまな対立構造
複雑な背景が見えてきたことで

現時点では
かなり説得力のある説といえそうだ。

四国説の中で浮き彫りになった
光秀と秀吉による

織田家臣団のナンバー2争い。

ここから まことしやかに
ささやかれている説が…。

本能寺の変直後の光秀について
日記に書き残しているのが

吉田兼見。

本能寺の変 当日の
兼見の日記。

兼見だけでなく 京都の多くの勢力が

光秀を謀反人として扱うことは
なかったようだ。

その後 安土城に入城した
光秀の下に

朝廷からの勅使として
兼見は謁見に行っている。

これは 朝廷が光秀を次の天下人として
認めた可能性を示している。

本能寺の変後 光秀の動きは
順調に見えた。 しかし…。

それを打ち砕いたのが…

本能寺から
200キロ以上も離れていた秀吉が

すぐさま 毛利との講和を結び

光秀を倒すべく 京へ とって返したのだ。

変から僅か11日後…

本能寺の変で 最も得をした人物は誰か?

天下人の道を歩みだした
ほかならぬ秀吉である。

なぜ秀吉は こんなにも早く
変の情報を知り 移動できたのか?

秀吉の場合は あれですよね
あまりにも中国大返しっていうのが

うまくいきすぎてるから…。
すごいスピードだったってことですよね。

前もって知ってたんじゃないかっていう
説になるんですよね。

福島先生は どうですか? 何か…。

なぜ秀吉が 備中高松城で

信長が死んだっていうことを
すぐ信じたかということは

実は 意外と難しい問題だなと思ってます。
もうちょっと時間かかるだろうと。

安土城なんかにもですね
本能寺の変が伝わった時に

すぐに みんな信じなかったというふうに
言われてますので

それは やっぱり
そういうことから考えるとですね

なぜ すぐ秀吉は
手を打つことができたのかというのは

ちょっとこう なかなか
難しいとこだなと思ってます。

だって 今みたいにね
電話もネットもない時代にね。

その辺が 秀吉の面白さって
捉えてますよね 今はね。
はあ はあ。

そうやって パッと行動に移すところがね。

確かにですね 秀吉が何であんなに早く
つまり2日の未明にですね

起こった事実を 史料によると 早いのでは
3日の晩とか 4日の朝にですね知って

もう 即ですね 毛利氏と講和を結んで
即動くと。

普通は それが本当なんかいということで
周りに問い合わせたりしますよね。

一つ間違えば 秀吉の方が
謀反人になっちゃうわけです。

もし主君が生きていたら ということで
かなりの確信ということは

これは確実だと思います。
これは光秀のために言っておきますが

光秀自身が ボーッとしてたわけでは
なくってですね

それなりに勝算があったと。

しかし まさか一番遠いところでですね
モタモタするはず あるいは

毛利氏に のまれるはずだった秀吉が
何で帰ってこれるんだと。

猛スピードで戻ってきた
くるっていうのが想定外。

それが やっぱ一番
歴史を動かしていくと。

しかもですね 普通の考えでいうならば
光秀をやっつけるんだけれども

それは 自分のお世話になっている
織田家の誰かを立てて

言ってみれば 大坂があるわけですから
大坂に帰って

みんなと話し合いながら
包囲網を狭めていくというのが

普通の考えでしょう?

で 光秀もその考えでいたので
淀城というですね

言ってみれば 大坂から
京都に上ってくるところの

主要街道上にある淀城の改修に
余念がなかったわけですよ。

ところが なんと秀吉は
大坂城に入らず

自分が一番初めに
帰ってきちゃう。

ということは
秀吉が 天下を狙ってるということを

光秀が いやがおうでも
知らされてしまったわけです。

自分の考えている秀吉像とは違ってた。
違ったと。

この瞬間 負けたと
多分 思ったんじゃないですかね。

これは 歴史家じゃなくて
私の私見というか あれですけれども

秀吉っていうのは 結局
今 光秀と競い合う状況にあるのは

自分だっていうのは分かってるし 光秀を
結構 自分が追い込んでるっていうのも

分かってると思うんですよ。
そうなると 中国攻めで

備中に行ってる時に
もしかしたら こいつ

何かするんちゃうか? っていうことは
思ってたから 危機管理をしていて

危機管理の予測は
してたんじゃないかなと。

想定内だったってことですか。
想定内で その想定も含めてやっていた

動いて…。
黒幕じゃなくって 自分の危機管理で

しかも そこで
もし殺されて 明智の天下になったら

柴田よりも 誰よりも自分が
一番やられるはずですから 明智から。

それやったら その前に光秀を討つのが
一番 自分を守る手だということも

分かっていたんじゃないかなというのが
私の想像です。

なるほどね。
確かに そっちの方が らしいよね。

陰謀というよりは やっぱり秀吉は

そこまで知恵者だったという
考え方の方が。

いろんなシミュレーションというかね。

だからこそ 天下取ったわけですからね。

本能寺の変が
秀吉の陰謀である可能性は低いが

秀吉が 光秀の謀反を何かしら察知し

周到に準備していたのではという点は
ほぼ全員が同意となった。

さあ それでは ここで
スペシャルオブザーバーの登場です。

はい よろしく…。
いやいや お前じゃないから。

ほらほら すごい方がいらっしゃいました。

こちら お座り下さい。
(拍手)

元総理じゃない。
元総理大臣 細川護煕さんでございます。

ようこそ。

光秀と
深い関係のあった 細川家の末えいだ。

「記録を大事に」という教えを
代々守り続け

鎌倉時代からの文書を保存する
永青文庫には

6万もの貴重な史料が収蔵されている。

光秀は なぜ
三日天下に終わってしまったのか?

そして 秀吉は
事前に どこまで知っていたのか?

実は 細川家が鍵を握っていた。

今夜 貴重な史料とともに
細川家の秘話を語る。

明智光秀 今日のテーマなんですけれども
その本能人の変 企てているのは

細川親子は いつ知ったんですか?
本能寺の変をですか?

それはもう
その時にしか知らなかったと思いますね。

ただ その前にですね 藤孝は

どうも ちょっと
光秀の様子がおかしいということは

うすうす感づいていたようですね。

で 忠告もしたと。
やめとけと。

ええ 危ないことは
やめておいた方がいい…

危ないことはと言ったかどうか
分かりませんが。

同じようなことが
忠興の場合にもあってですね

光秀が 忠興に向かって
いかにも話したそうだったと。

その時に 光秀は
涙ぐんでいたということで

その時から やはり光秀は 何かもう
腹をくくっていたんじゃないかと。

それ どれぐらい前なんですか?
どのくらい前か分かりません。

本能寺の前としか書いてありません。
はあ~ ますます計画的な感じが…。

ただ はっきりと分かったのは
やはり 本能寺の変の時でしょう。

本能寺の変の直後から

光秀は 味方になってくれる
織田家 家臣団を取り込むべく

各所に書状を送り 援軍を頼んでいる。

敵対勢力 その中でも
最大のライバルである秀吉を制すれば

謀反は成功するはずだった。

光秀が最も頼りにしていたのが
細川藤孝と忠興親子だった。

藤孝は 光秀が信長と出会う前からの
長いつきあいで

当時 光秀の与力大名として
軍事行動を共にする間柄だった。

更に息子の忠興は
光秀の三女 たまが嫁いだ相手。

つまり 娘婿。

光秀は当然 彼らの援軍を
得られると思っていた。

ところが…。

本能寺の変を知ると細川親子は
信長の喪に服すとして出家。

光秀とは組まない
という意思を表明した。

更に 娘婿の忠興は たまを離縁。

幽閉してしまったのだ。

思いも寄らない細川親子の反応を
光秀は どう受け止めたのか。

本能寺の変の7日後
光秀が細川家に送った…

細川親子の出家に対し
抗議しながらも

今からでも
丹後から京に出てきて

味方してほしいと
強く要請している。

にもかかわらず
細川家が動くことはなかった。

細川家の この判断によって
光秀の運命は決まった。

秀吉による
中国大返し。

それでも もし秀吉の通り道にある丹波で
細川が迎え討てば

秀吉の足止めができたかもしれない。

しかし 細川は動かず

実に 3倍の軍勢を引き連れた秀吉は
光秀を撃破。

こうして秀吉は 信長の後継者の地位を
たぐり寄せた。

光秀に くみしなかった細川家に
秀吉が送った文書が残っている。

花押の上に 秀吉の血判。

今に残る唯一の秀吉の血判状だ。

細川家によって 400年以上
大切に保管されてきた。

秀吉は書く。

細川家は なぜ動かなかったのか?

そして 秀吉の
「比類なき頼もしさ」という言葉に

どんな思いが込められているのだろうか?

はい これは すごい話ですよ。
すごいですね。

本能寺の変っていうのが

成功していたか 失敗していたかっていう
かなり大きなキーポイントが

細川家ということになると
思うんですけれども。

細川家は情報収集能力というのが
すごく高かったそうですね。

いろんなところに そういう情報網
情報ネットワークというのを持ってた。

今みたいに 情報を大事にしない
記録を大事にしないで

すぐ シュレッダーだっていう話とは
全然違うんです。

ハハハ 早いですからね
すぐ シュレッダーですからね 今は。

本能寺の変の時も 3時間半後に
本能寺の変から 3時間半後には

第一報が届くわけです。
3時間半後に?

3時間半後に。
それは 早田道鬼斎というですね

修験道の者が
第一報をもたらすわけですけども

今はマラソンが 42kmで2時間何分ですか。

それから考えても この人が出たら
オリンピック間違いなし。

「いだてん」ですよ もう。
(細川)ほんとに。

秀吉からの 「頼りになった」みたいな…。
(稲葉)血判起請文 血判。

あれがあるってことは 前もって秀吉が…。

動かないでいてくれたことが
比類のなき頼もしさだったという

国語的に訳せば それまでなんですが

そこに込められてる秀吉の
気持ちっていうのが どういうもので…。

どの瞬間に それを思ったかがね。

そう そこに
いろいろな仮説を立てる余地があって

あれを材料にして
いろいろな仮説を立てて

いろんな可能性を
楽しんで考えるっていう自由は

僕らにもあると思いますよ。
なるほどね。

やっぱ秀吉の人格とか そういうものが
こいつが きっと天下取るだろうと

判断したってことなんですか?
いや それはね 判断してないんです。

秀吉に味方するとは言わない。 最後まで
そこは言わなかったというのは

なんていうのか まだその…
関東には家康もいるし

まだ 西日本には毛利もいるし
柴田もいれば 滝川一益もいれば

みんな いるわけですね。 だからそれは
天下がどうなるかっていうことは

まだ その時点では分からないわけですね。

だから そこは極めて慎重なんですよ。
なるほど。

そこ 頭いいですね 確かにね。

ただ その織田さんのところの
謀反は許さないっていうことで

光秀側には つかないってことだけ。
織田家に忠誠を誓ってる。

それしか言ってないんですよね。

結構 冷静に先の先まで考えていた…。
割と目立たないように

自分が前面に出ないように でも実は
裏で全部 操っているような…。

キングメーカー的な。
キングメーカー。

自分は出ちゃったみたいな。
いやいや それは…。

出ちゃいましたね。
いつの間にか出ちゃったみたいな。

おっちょこちょい的な。
おっちょこちょいじゃないですよ。

総理大臣じゃないですか
何が おっちょこちょいなんだよ。

はい ということで 今日は細川さん
貴重なお話 ありがとうございました。

(拍手)

さあ 「本能寺の変サミット」
さまざまなポイントで

見てきたわけですけれどもね
最後に皆さん

本能寺の変の歴史的意味は。

ちょっと大きい話になりますが
国家の在り方というのはですね

中世的なというか 戦国時代的なですね
将軍と戦国大名たちがいて

その領地を 安堵していくというですね
その 守ってやるというか

そういう 長年続いた在り方ではなくて
江戸時代につながっていくような

原理がですね
そこから始まっていくということで

決定的に中世が終わり
近世が始まっていくというですね

そういう方向性が
明らかになっていったという意味では

非常に大きな転換だったというように
見ています。

鞆から 義昭を呼び寄せて

そして 将軍のいる
天下の秩序というものを

畿内で再構築したあとに その先がね
もし光秀が そこまで

細川が協力して できていたとしたら

どういう展望が光秀に
どこまで あったかっていうことが

政治史上の 僕は意味があるというふうに
考えてますね。

歴史って なかなか難しいのは

今の価値観から見ると いやぁ これは
カッとしたんじゃないかとかさ

人間的に見たくなるけど こうやって
深く皆さんの話を聞いてると

あっ こんだけ考えて 根回し…。

細川さんのところも
そうやって先を読んで

諜報活動してっていう
その中にいた 一人の武将がですよ

そんな いっときの
いじめられた私怨でですよ

やるわけないなっていうのは
なんか 話してるうちに

どんどん そういうふうに
思えてきましたね。

もしかしたら
ほんとに思ってることってのは

誰も口にしてないんじゃないかっていう。
そこが また本郷先生

歴史の面白いとこですよね。
そうですね。

想像が広がりますよね。
だって もしかしたら秀吉は

明智が 先 いってくれたって
思った可能性もあるわけでしょ。

世の中を見るのが うまい人が

最終的に
天下を取っていくのかなっていうね。

さあ このサミットをきっかけに
2020年 これまでの明智光秀の人物像を

もう一度 見直し
真実の光秀とは どんな人間だったのか

見直す時がきたのではないでしょうか。

これにて 「本能寺の変サミット」
閉幕でございます。

皆さん 今日はありがとうございました。

(拍手)


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