アナザーストーリーズ「新日鉄釜石ラグビー7連覇 東北で起きた2つの奇跡」ラグビーワールドカップにもつながる…


出典:『アナザーストーリーズ「新日鉄釜石ラグビー7連覇 東北で起きた2つの奇跡」』の番組情報(EPGから引用)


アナザーストーリーズ「新日鉄釜石ラグビー7連覇 東北で起きた2つの奇跡」[字]


松尾雄治らが明かす7連覇の舞台裏。東北の雑草集団はいかにして最強に?引退の日、松尾が仲間にかけた言葉とは?去年のラグビーワールドカップにもつながる奇跡の物語!


詳細情報

番組内容

今も語り継がれる、新日鉄釜石ラグビー部79年から85年の日本選手権7連覇!前人未到の偉業を成し遂げたのはラグビーのエリート集団ではなかった。選手の多くが東北や北海道の高校から集められた、いわば雑草集団。そこに明治大学で活躍していた天才司令塔・松尾雄治も加わり、奇跡が起きる。そしてもう一つの奇跡。東日本大震災で被害を受けた釜石が、ラグビーワールドカップの開催地に!その裏にどんなドラマがあったのか?

出演者

【司会】松嶋菜々子,【語り】濱田岳


『アナザーストーリーズ「新日鉄釜石ラグビー7連覇 東北で起きた2つの奇跡」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

アナザーストーリーズ「新日鉄釜石ラグビー7連覇 東北で起きた2つ
  1. 松尾
  2. 釜石
  3. 実況
  4. トライ
  5. パス
  6. 市口
  7. チーム
  8. 練習
  9. 連覇
  10. ワールドカップ
  11. 奇跡
  12. 試合
  13. 最後
  14. 部員
  15. 気持
  16. 大漁旗
  17. 一番
  18. プレー
  19. ラグビー
  20. 一人


『アナザーストーリーズ「新日鉄釜石ラグビー7連覇 東北で起きた2つの奇跡」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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(歓声)

日本中が熱狂した…

(実況)つながった~! 手で とった~!
(歓声)

かつて これに負けないほどの
盛り上がりを見せた

伝説的なラグビーチームの
快進撃があった。

(実況)そして今度は 松尾が右サイド。

抜けました。 さあ 抜けました。
サイドステップ。 うまい。

松尾 独壇場。 トライ!

(歓声)

1979年
東北の小さな町の社会人チームが

日本一をかけた戦いで

大学ナンバーワンチームを粉砕。

それから 85年まで

並みいる強豪校を退け

前人未到の
日本選手権7連覇を成し遂げたのだ。

このチームこそ…

選手は東北や北海道の高校から寄せ集めた
いわば 雑草集団だった。

製鉄所で汗にまみれて働き
夜の僅かな時間で猛練習。

そこに 都会から やって来た

天才プレーヤーが加わり

絶妙なアンサンブルを奏でた。

もう ほんと見ててね
涙出そうになるぐらい

すごいプレーするわけよ。

そして彼らの本拠地 釜石では後に
もう一つの奇跡が…。

あの東日本大震災を乗り越えて
ワールドカップ開催を実現したのだ。

♬~

過去から未来へと つながれた
奇跡のパスのリレーとは?

♬~

それは 東北の小さな町の
ラガーマンたちが起こした 奇跡でした。

運命の分岐点は…。

舞台は 6万5, 000人もの観客で
埋め尽くされた旧国立競技場。

新日鉄釜石ラグビー部が 日本選手権で
前人未到の7連覇を果たしたのです。

けれど 彼らは最初から
スター軍団だったわけではありません。

そんな彼らが どのようにして
最強のチームに変貌したのか?

その鍵を握る人物が 第1の視点。

7連覇の土台を作り上げた男…

彼は どのチームもやっていなかった
革新的な方法で強化を進めます。

しかし その道のりは 山あり谷あり…。

理想を追い求めた男たちの
アナザーストーリーです。

東京から電車を乗り継ぐこと5時間。

三陸の沿岸部に位置する…

人口およそ3万の この小さな町が

7連覇を果たした新日鉄釜石ラグビー部の
本拠地だった。

運命の歯車が動きだしたのは
連覇の始まる15年前の 1964年。

一人の男が
新日鉄の前身 富士製鉄に入社する。

後にラグビー部を率い 衝突を
繰り返しながらチームを変えていく。

彼らは
愚直に理想を追い求めた。

市口が やって来た
1960年代。

釜石製鉄所は
年間100万トンもの鉄を生産。

高度経済成長期の日本を支える花形産業。

東北中から 若者が集まった。

そこへ 京都大学工学部出身の市口が…

市口は…

実のところ その力を期待されての
釜石赴任だったという。

いろんな いわゆる…

しかし いきなり壁に ぶつかる。

当時 創部5年目を迎えた
釜石ラグビー部は…。

部員 僅か22人。

人数不足で試合形式の
練習もできない…。

全国制覇など
夢のまた夢だった。

そこで市口は まず人材確保に乗り出した。

高校の有望な選手は
名門大学や大手企業に とられてしまう…。

市口は 無名でも伸びしろのありそうな
高校生を探し歩いた。

そんな中 見つけた一人が…

後に日本代表となる和田だが

市口に口説かれなければ
別の仕事に就く予定だったという。

正直言うと ラグビーを社会人で
するつもりが全くなくてですね。

5年後 市口がキャプテン兼
監督を務める頃には

部員数はギリギリ紅白戦ができる
31人まで増えた。

俺が鍛えて 絶対に強くする。

理想に燃える市口だったが
事は そう簡単ではない。

彼らは皆 製鉄所の社員。

朝の8時から夕方までは普通に働き
練習は そのあとだ。

時間は足らず 仕事の疲労も重なってくる。

しかもグラウンドは
寒風が吹きすさぶ厳しい環境だった。

グラウンドが よく見える位置にある
一軒の理容室。

ラグビー部の厳しい練習を
当時から ずっと見てきた。

釜石でも ここは寒いですね。

ほんとに もう
手が かじかむでしょうし

体から湯気が立つからね。 吐く息も。

もうすごいですね。

かわいそうになりましたね。

どう見ても
強くなれる環境とは言えなかった。

しかし 市口は…。

理想を説いては
部員たちと

度々 衝突した。

状況を打破する
何か抜本的な改革が必要だった。

そんな時に偶然 見つけたのが…。

これです。

ラグビー発祥の地 イギリスの教則本。

ラグビーの基本を解説した本で

技術的なポイントが
分かりやすく書かれていた。

最新の技術を学べば
短時間の練習でも強くなれる!

部員たちに読んで研究するよう
伝えたが…。

市口は しつこかった。

海外の資料を買い集め 自ら翻訳。

部員たちに読ませていった。

練習も 心拍数の目標値を決めるなど
科学的になっていく。

彼らが学んでいた技術の中には
こんなものも。

ワールドカップで話題となった
あの オフロードパスだ。

なんと 50年も前に
練習していたのだ!

更に 厳しい寒さへの対策として
ユニークな練習も取り入れた。

その時に温まる方法として パスを使った
そういう鬼ごっこに似たようなものを

やろうやないかということで。

全員参加で パスしながら鬼ごっこ…。

苦肉の策として生まれた練習が
思わぬ副産物に つながる。

それまでスクラム要員として

パスの技術など ほとんど
求められなかったフォワードも

パス回しに加わり
画期的なプレースタイルが生まれた。

パスは
釜石の伝統的な練習法になっていく。

そして その効果は徐々に現れてくる。

1970年 市口は監督に専任。

このシーズン 釜石は
初の社会人チャンピオンになった。

そして迎えた 初めての日本選手権。

相手は エース宿沢を擁する 早稲田大学。

彼らを倒せば 悲願の日本一に手が届く。

(ホイッスル)

しかし…。

(歓声)

早稲田はスピーディーな展開で
水色のジャージの釜石を振り回す。

完敗だった。

どうしても やっぱりフォワード。

そこで市口は
また常識外れの戦略を思いつく。

名付けて…

身長180センチ 体重85キロの
大型フォワードを そろえる。

その彼らを 「走れる」集団に
鍛え上げようというのだ。

翌年 入社してきたのが…

2人は この「走れる巨漢」という

矛盾を はらんだスローガンの下

毎日 しごき抜かれた。

もうほんとに悲惨でしたね。

昔 あのタックルマシンって あれ
70キロだか80キロぐらいあるのかな。

もう 一日一日 精いっぱい生きてくしか
なかったって感じですけどね。

溶接が仕事の洞口は 自らの手で
こんなものまで造り上げた。

常識外れの練習で

走れてスクラムも押せる選手が
育っていく。

特に洞口だとか瀬川だとかですね
ああいうのは

矛盾の中の一番の矛盾で
入ってきてる選手なんですけどね。

そうです そうです そうです。

パスで展開し 巨漢も走りまくる。

最後に必要なのは
戦術眼に たけた司令塔だった。

(実況)さて 松尾が ねらいます。

そこで目を付けたのが…

明治大学を初の日本一に導いた
人気選手だった。

試合の展開を読み
ひらめきで攻撃を組み立てていく。

誰もが認める 天才プレーヤー。

全国の企業が
こぞって松尾の獲得に動いていた。

どうも~。 こんにちは~。

釜石も なんとか松尾を獲得しようと
秘策を練った。

もう カンカン照りのね 日に

大きな真っ黒な傘持って 長靴履いて。

俺は ほんとにね 危ないと思ったもんね。

「何だろう この人は?」。

東京の成城学園で生まれ育った松尾。

釜石に呼ぶため
こんな言葉で くすぐったという。

「新日鉄… 新日本製鐵って会社はね
日本で一番大きい会社なんだよ」。

「君はな 岩手県ってな 知ってるか。
日本で一番大きい県なんだよ」って。

「はあ… あっ そうすか。 へえ~」って。

それで 「なにしろな 全国の大学生の中で
誰を一番に とりたいかっていって

みんなでな 会議したんだよ」。

一番ばっかり並べてきてさ。

「この人 変だぜ」。

どうやら
あの名物監督の入れ知恵だったらしい。

「松尾はね 少し変わってるから
何でもかんでも一番って言えばね

そうですか そうですかって
食いついてくる」って言うんだよね。

最後に言ったのがさ…

それには まいったね。

松尾は数ある選択肢の中から
最も印象的だった釜石に決めた。

これで市口の理想を実現する
最後の1ピースが そろった。

そして 1977年1月。

釜石は 再び日本選手権に進出。

相手は 71年に敗れ去ったスター軍団…

だが 松尾が加わった釜石は
確かな進化を遂げていた。

巨漢のフォワードが
軽量の早稲田を蹴散らして

突進 また突進。

持ち前のパスラグビーで
次々にトライを奪う。

市口が指導して13年 釜石は

初のラグビー日本一に輝いた。

だんだん だんだん それが…

この2年後
いよいよ語り継がれる7連覇が始まる。

しかし それを達成するまでには
更なる波乱のドラマが待ち受けていた。

市口の指導の下 めきめきと
頭角を現した新日鉄釜石ラグビー部。

しかし それだけでは 7連覇という偉業は
達成されなかったでしょう。

第2の視点は…

あの日 胴上げをされていた男…

しかし 7連覇が かかった
最後の場面。

大きな試練が
彼を待ち受けていました。

その時 エースが下した決断とは…。

(実況)松尾が右サイド。
抜けました。 さあ 抜けました。

サイドステップ。 うまい。

松尾 独壇場。 トライ!

(解説)うまいですねえ。

天才司令塔…

彼の活躍なしに
あの奇跡は成し得なかった。

(実況)優勝が決まりました。
松尾監督 最後の胴上げ。

前人未到の7連覇達成を最後に

現役を引退した松尾。

有終の美を飾ったはずなのに
その表情に 笑顔はなかった。

その真相を 今回 明かしてくれた。

恥ずかしい。 ほんとに もう
ラグビープレーヤーとして恥ずかしい。

あんなに試合に勝って
うれしいはずなのに

自分の心は ほんと恥ずかしい気持ちでね
あの… いましたよ。

今も恥じ入る
その理由とは。

松尾が釜石に加入したのは
連覇が始まる3年前の 1976年。

チームに合流した松尾。

すぐに驚かされたことがあった。

何が一番すごかった… 僕の心を打ったか
っていうのは やっぱり

ラグビーに対する情熱ですよね
ラグビー部員の。

高校生で みんな
ラグビーが大好きっていうか

うまくなりたい 強くなりたい

そういう気持ちが
ものすごくある人たちで。

松尾は部員たちに 自分の持つ
戦い方のセオリーを伝え始めた。

ひらめきの男は 意外にも
決まりごとを大切にする男だった。

(松尾)相手のチームは
こう走ってディフェンスに来ます。

ここへ来たら ここでパスをする。

こっちへ行ったら こう走る。

ほんとは 1人がやろうとしたことに
みんなが反応しなきゃいけないんだけど

みんなが経験不足だし
僕のラグビーは そういう意味ではね…

部員たちは スター選手のおごりを
感じさせない松尾のことを信頼していく。

明治大学の先輩で
釜石でも一緒にプレーした…

もう一つ 松尾がチームから
信頼を得た理由があったという。

やっぱ 彼が一番すごいのは
とにかく練習を

全国で チームで
一番やらなきゃ勝てないっていう

なんか うそみたいな哲学が
あったからですね。

「いや もうちょっとやりましょうや」と。
「もういいじゃない もういいって もう」。

練習が好きだったですね。

「戦術の基本を たたき込み
どのチームよりも練習する」。

加入して早々に日本一を勝ち取った理由は
そこにあったのだ。

だが翌年 チームに衝撃が走る。

松尾が 椎間板ヘルニアを悪化させ 入院。

再起不能と
言われたのだ。

ここのね ヘルニアの。 結構な傷だよ。

でっかく切ったのよ。
すごい結構 大手術だった。

入院は 8か月間にも及んだ。

この年 チームは
社会人大会の準決勝で敗れ去る。

2年目で こんなことになって

やっぱり ほんとに申し訳ないという
気持ちも出てきてね。

それまでは もう全然 俺が俺がでね。

だが 松尾は もはやチームにとって
欠かせない仲間だった。

部員たちは 黙々と練習を続け

松尾の完全復活を待ち続けた。

優しい気持ちもなかった僕に

やっぱり優しい気持ちを
持たしてくれたり

僕自身がやれることは みんなね
なにしろ恩返しをしようという。

僕は もう 体が動かなくなるまでね
釜石でプレーヤーとしてやろうと

そう決めたんですね。

松尾は 腰に爆弾を抱えたまま
釜石のために戦い続ける決意を固めた。

♬~

そして 厳しいリハビリを経た 1979年。

この年から釜石は
深紅のジャージを身にまとう。

燃え盛る溶鉱炉をイメージした赤。

相手を欺くサインプレーから
とどめのトライ。

これでV1…。

ここから
釜石のビクトリーロードが始まる。

翌年は 松尾の母校 明治に大差で完勝。

(実況)永岡 戻した。

振り切った 振り切った。

飛び込んだ。 トライ!

次の年は
ロースコアだったが 同志社に勝利。

(解説)危ない。
(実況)ああ インターセプト。

(実況)トライ!

いつしか 観客席では

地元釜石から持ち込まれた
大漁旗が振られるようになった。

(解説)いいゲームでしたね。

(実況)さあ 抜けました。
サイドステップ。 うまい。

松尾 独壇場。 トライ!

(実況)
釜石の応援の一つの特徴になりました。

(解説)釜石独特の応援団ですね。

(実況)つないでいます。 トライ!

勝利を重ねるに従って
大漁旗の数は どんどん増えていった。

釜石の勝利は 小さな港町にとって
誇りとなっていく。

やがて彼らは 「北の鉄人」
と呼ばれるようになる。

その人気は いつしか
全国区となっていった。

職場の人たちが

「おらの職場から あいつが出てんだぞ」
「あれは俺の職場のやつだ」とかね

そういうことだけに
喜びを我々は持ってね

勝つという喜びをね やっぱり
みんなで分かち合おうという

そういうことにだけ
頑張ったってことですよね。

5連覇をかけた1982年から
松尾は 選手兼監督に就任。

そのころには 共に練習に打ち込んだ
若い仲間が次々に才能を開花していた。

スピードと ひたむきさが身上の…

スクラムが強く 走れる男…

予想以上の成長を見せる若手を見て
松尾の中には 一つの確信が生まれる。

そういう気持ちを
ずっとね 思ってたから。

監督になった時は
それを ずっと言い続けてね きましたよ。

その松尾の考えが
見事に現れたプレーがある。

V7の年の 社会人大会決勝。

それは 松尾のパスから始まった。

パスが次々と つながる。

90mを 延べ13人でつないだ このプレー。

…と称された。

実は松尾は このシーズンが終わったら
現役を退くことを仲間に告げていた。

だが 日本選手権の8日前
松尾はアクシデントに見舞われる。

社会人大会で痛めた足首が
突然悪化して 入院。

診断は…

激痛で歩くこともままならない。

ゴムホースみたいなのがさ
足首から出てて

ドレーンっていうんだけど 出ててね。

うみが どんどん どんどん出てて
それでもう点滴やって

足 上へ上げて そのまま寝てるだけで
もう全然ダメですね。

もうほんとに
ああ 終わったなっていう感じですね。

お医者さんも…

…って言われて。

困ったなと思ったけれども
もう監督だったからね。

キャプテンの洞口っていうのに
「俺は できない」と。

監督の自分が
足手まといになるわけにはいかない。

考えたことは ただ一つ。

絶対に もう調子の悪いベテランは外して
調子のいい新人を使う。

調子のいい若手を使う。
それだけが 頭をよぎって よぎって。

(観客たち)釜石! 釜石!

そして 迎えた日本選手権当日。

対戦相手は 3年連続大学ナンバーワン。

大学ラグビー史上最強の呼び声高い
同志社大学。

平尾誠二 大八木淳史という
現役の日本代表を擁し

打倒釜石に燃えていた。

キックオフ1時間前。

釜石がウォーミングアップを開始した。

そこに 松尾の姿はなかった。

病院からスタジアムに直行した松尾は
ロッカールームにいた。

キャプテンの洞口から チームには
お前が必要だと言われていたのだ。

洞口が もう どうしてもね
「なんとか松尾 試合…」。

…と言うわけ。
で お医者さんに

「先生 なんとかなんねえか」って言ったら
う~んって言ってね。

当日 グラウンドへ行った時に

ドレーンを抜いて すぐ止めて
そこで注射を打って

それでいこうということになったわけ。

8年間 松尾と一緒にプレーしてきた…

あの日のことを鮮明に覚えている。

傷口のところを見たけども

大丈夫かなと思いながらも
かなり ひどかったよ。

普通はできないね。
絶対できないと思うな。

試合を前に松尾が絞り出した言葉を
坂下は生涯 忘れないという。

あまり言いたくないような言葉やね。

取っときたいような。

その時の音声が 残されている。

(松尾)いやあ ほんとに みんな
1年間 ほんとありがとな。

ほんとに 最後まで頑張ってこうぜ。
(部員たちの掛け声)

(松尾)頑張るからよ。
(部員たちの掛け声)

もう やっぱり みんな
その瞬間に燃えるっていうか

ほんと気持ちが入ったもんね
あの ひと言で。

絶対 勝たなきゃなんないって。

自分の信念を曲げ
本調子でないのを承知で

松尾はグラウンドに立った。

(実況)
その左足のくるぶしに まだ縫わない
傷痕が残っているはずです。

テーピングをして出場です。

さあ いよいよ始まります。

開始早々 釜石は先制トライを許した。

(実況)入った トライ。 見事なトライ。

このトライ 実は松尾のミスだった。

だって 動けないっていうのは
もう最初のプレーで明らかなんですよ。

同志社のフルバック 綾城っていうのかな
あれ 入ってきた時

追いつけないんだ 俺が。 ほんとは 僕が
絶対あそこで止めなきゃいけないのが

もう追いつけなくてさ。

更に同志社は
前半24分にもトライを畳みかける。

だが 前半34分 傷ついた松尾が
天才のひらめきを見せる。

敵をギリギリまで引き付け 飛ばしパス。

(実況)入った。 トライ!

前半を1点差で終えた。

「松尾に余力を…」。

みんなは 一人のために。

後半 フォワードがスクラムを押しまくる。

(実況)ああ やはり崩されました。

釜石が
ものすごいプレッシャーをかけました。

(実況)入りました!

後半5分 ついに逆転。

そして後半18分 松尾の鋭いステップが
相手ディフェンスを切り裂いた。

(解説)ああ 回した。 回しましたね。

(実況)松尾 抜ける。 回す。

トライ!

同志社を突き放す 値千金のトライ。

もうほとんど
あの試合 僕 走ってないんです。

走ったの2~3回 しか走ってなくて。

一人は みんなのために。

最後のトライも 松尾のパスからだった。

(実況)回します。 松尾が回します。

入るか? 入った。 トライ!

(歓声)

(ホイッスル)
(実況)
ノーサイドの笛です。 ノーサイドです。

新日鉄釜石の7年連続
8回目の優勝が決まりました。

松尾監督 最後の胴上げ。

31対17。

それは松尾と 仲間たちとの絆で達成した
7連覇だった。

しかし松尾は 80分間グラウンドに
立ち続けた自分自身に

苦い思いを拭えなかった。

恥ずかしい。 ほんとに もう
ラグビープレーヤーとして恥ずかしい。

今まで何年も何年もね

調子の悪いベテランよりも
調子のいい若手を使うっていうね

あの言葉は何だったんだって。

試合に勝って うれしいはずなのに

自分の心は ほんと恥ずかしい気持ちでね
あの… いましたよ。

こうして 日本のスポーツ史に
釜石の1つ目の奇跡が刻まれた。

奇跡の7連覇達成。

しかし その後 ラグビー部は
次々と苦難に見舞われます。

新日鉄は経営合理化を進め
チームも成績が伸びず

ついに廃部へと
追いやられてしまうのです。

そんな釜石が 再び脚光を浴びたのが
去年のラグビーワールドカップ開催。

この間 何があったのでしょうか。

第3の視点は…

あの7連覇の日 テレビに かじりついて
見ていた当時高校生の…

その年
憧れの「北の鉄人」に仲間入りした彼は

釜石ラグビーにとっての
受難の時代を経験した後…

ワールドカップ招致のリーダーとなって
釜石での開催を実現させるのです。

「不可能」と言われた招致に挑んだ
男と仲間たちのアナザーストーリー。

2019年。

ラグビーワールドカップの
開催場所の一つとなった釜石。

会場がつくられた場所は
東日本大震災で甚大な被害を受けた

鵜住居地区だった。

ここでワールドカップを開催しようという
声があがったのは

震災から僅か4か月後。

その時は 誰にとっても
夢物語にすぎなかった。

招致のリーダーを務めたのは
7連覇の遺伝子を受け継いだ男。

釜石で起きた
2度目の奇跡の物語。

1985年 松尾が
引退した直後に入社した

桜庭吉彦。

しかし それは苦難の始まりだった。

入社して4年後
不況による経営合理化が進み

釜石のシンボルだった
高炉の火が消えた。

そしてラグビー部の成績も低迷。

優勝から遠ざかり
釜石ラグビーは崖っぷちに立たされる。

2001年 新日鉄釜石ラグビー部は

ついに 廃部が決まる。

釜石ラグビーの歴史に終止符が打たれる

誰もが そう思ったやさき…。

「釜石シーウェイブス」が誕生した。

V7で勇気をもらった釜石の市民や
地元企業が手をあげ

地域のクラブチームに
生まれ変わったのだ。

そこには かつてと同じように
大漁旗で応援してくれる

市民の姿があった。

桜庭は現役引退後
チームディレクターとなり

地域に愛されるクラブづくりに励んだ。

しかし 2011年。

あの 東日本大震災に見舞われる。

釜石の町も 津波に襲われた。

死者 行方不明者は 1, 000人以上。

信じられないような被害だった。

シーウェイブスの選手たちは
この事態に立ち向かう。

外国人選手も支援物資を運ぶ
ボランティアを買って出た。

自らも津波に流された 森 闘志也。

車に閉じ込められた人を救出した。

結構おっきな声で
「誰かいないか!」つって

結構 叫んだんですけど
誰も来なかったので

もう これは俺が
行くしかねえんじゃねえかということで。

運転席側のドアを素手でですね
殴りにいったらば

パリパリパリンって
全部 こう割れたんですね。

で ここにいた車の何台かは
ガラスを割って 人を出してあげたと。

変わり果てた 釜石の姿。

その惨状に立ち上がったのが
あのV7の戦士たちだった。

(松尾)大漁旗で国立競技場が
いっぱいになった。

その日のことを 今でも覚えております。

完全復興するまで スクラム釜石は
活動を続けてまいります。

震災から2か月後…

全国に復興支援を呼びかけたのだ。

その一環で開かれた
トークイベントでのことだった。

松尾のパスを受け取ってくれたのは

かつて 日本選手権で
しのぎを削ったライバル

今は亡き 平尾誠二だった。

平尾くんと話した時に

実はさ 釜石でワールドカップあったら

釜石でやんねえかな
なんてことを言ったんだよね。

そしたら 平尾がさ…

「そりゃそうですよ!」。

もう ラグビー王国 釜石だなんてね

そういうふうに
言ってくれるようになって

それが みんなで バーッと
こうなっちゃったわけよ。

大学卒業後 神戸製鋼に入社した平尾は…

被災地にとって何が励ましになるのか
よく分かっていたのだ。

釜石でワールドカップができないか。

スクラム釜石は震災から4か月後…

しかし その話を聞いた桜庭は…。

しかし 桜庭たちが
被災した子どもたちを招いて

ラグビー教室を開いた時…。

子どもたちが笑顔になるのを見て
心境に変化が表れる。

震災で真っ暗になった この釜石を
何か その…

そういう人たちの
力になりたいと思ったことが

大きなきっかけだったと思います。

桜庭は ワールドカップ招致の先頭に立つ
アンバサダーに就任。

自身も3度 ワールドカップの舞台に立ち
そのすばらしさを知っていた。

地元を巡り 釜石でワールドカップを
開催する意義を伝えて回った。

その熱意は 釜石市民にも伝わっていく。

津波で両親を亡くした廣田も
影響を受けた一人だ。

V7っていう時代があって

そのあと 釜石シーウェイブスっていう
クラブチームがあり

そこからワールドカップ。

そこを その力を持っている町。

しかし 壊滅的な被害を受けた町には
会場となるスタジアムもない。

そんなところへ
ワールドカップの視察団が やって来た。

廣田は その日
生涯忘れられない体験をする。

釜石は被災して
線路はない 道路も分断されてる。

何もない状況の中で

盛り土をした ここが
ラグビー場になるであろうところに

うちの息子も含め10人ぐらいの方で
大漁旗を振って お出迎えしたんですよ。

その時に皆さんが 「ブラボー」って

「君たちの思いは分かったよ」って。

言葉は通じなくても
きっと思いは通じたんだなって。

そして迎えた…

釜石鵜住居復興スタジアム。

(歓声)

全国12の会場の1つに
人口およそ3万の釜石が選ばれた。

机の下で小さくガッツポーズをして
よかったというふうに思いました。

同時に…

翌年 スタジアムの建設予定地が

津波にのまれた小中学校の跡地に
正式決定した。

2017年から 急ピッチで工事が進められる。

その現場には
V7戦士の一人 石山次郎もいた。

「北の鉄人」が 釜石の人たちと共に
一つの夢に向かう…。

そして…

ついに釜石で
ワールドカップが開催された。

東北の小さな町に
世界中からファンが集まった。

桜庭は 1万4, 000人を超える観客を
会場で迎えた。

♬~

会場には たくさんの市民が。

そして 子どもたちも招待されていた。

スタンドでは
大漁旗が大きく振られていた。

あのV7から 時を経て…。

釜石は再び ラグビーの町として
その名をとどろかせた。

東北の小さな町の男たちが起こした
奇跡の7連覇から35年。

さまざまな人々が
それぞれの思いを込めて パスをつなぎ

釜石でもワールドカップを開催するという
もう一つの奇跡を生み出しました。

この思いのこもったパスは

これから先の未来へ
確実に つながれていくことでしょう。

釜石で開催されたワールドカップには
もう一つ 小さな奇跡の物語がある。

実は 釜石では
もう1試合が行われる予定だった。

しかし…。

当日は 台風一過で晴天となった。

これは その時の駅前の映像。

試合もないのに
人々が自然に集まってきた。

そして
ボランティアが用意していた大漁旗を

次々と手に取り始めたのだ。

よかったらどうぞと言ったら
「あっ いいんですか」

「私もやりますよ」 「私もやります」って。

ワーッと集まってきて

一気に旗がなくなるっていうのは 本当に
胸が ぐっと熱くなった瞬間でしたね。

すばらしい!

そして キックオフの時刻。

会場の外で 100本の大漁旗が
力強く振られた。

試合ができなかった両チーム
そして 釜石にも敬意を表して。

更に この日 もう一つ奇跡が起きる。

試合ができなかったカナダの選手たちが
泥かきを買って出てくれたのだ。

思いのこもったパスが また一つ。

釜石の物語は
未来へと続いていく。


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