英雄たちの選択「スカウトされた大王~地方出身!継体天皇の実像~」6世紀はじめ、ヤマト政権に地方出身の大王が…
出典:『英雄たちの選択「スカウトされた大王~地方出身!継体天皇の実像~」』の番組情報(EPGから引用)
英雄たちの選択「スカウトされた大王~地方出身!継体天皇の実像~」[字]
6世紀はじめ、ヤマト政権に地方出身の大王が登場した。継体天皇だ。なぜ地方にいた王族が選ばれたのか?謎に包まれたその実像に迫ると知られざる古代日本が浮かび上がる。
詳細情報
番組内容
まだ日本が倭国と呼ばれていた6世紀はじめ、ヤマト政権にかつてない大王が登場する。地方の王族出身の継体天皇だ。なぜ地方出身の大王が誕生したのか?そこにはカリスマだった雄略天皇死後のヤマトの衰退と地方勢力の台頭があった。新たな大王に選ばれた継体天皇の力の源泉は、地方豪族の後押しと朝鮮半島・百済王との親交、そして戦略物資・鉄の掌握だった。最後にライバルとして登場するのは九州の大豪族。継体天皇の選択は?
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】水谷千秋,松木武彦,萱野稔人,【語り】松重豊
『英雄たちの選択「スカウトされた大王~地方出身!継体天皇の実像~」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

- 継体天皇
- 磐井
- 大和
- 天皇
- 古墳
- 男大迹王
- 選択
- 豪族
- 大王
- 継体
- ヤマト政権
- 地方
- 九州
- 即位
- 朝鮮半島
- 拠点
- 石棺
- 今城塚古墳
- 勢力
- 越前
『英雄たちの選択「スカウトされた大王~地方出身!継体天皇の実像~」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
解析用ソースを読めば、番組内容の簡易チェックくらいはできるかもしれませんが…、やはり番組の面白さは映像や音声がなければ味わえません。ためしに、人気のVOD(ビデオオンデマンド)サービスで、見逃し番組を探してみてはいかがでしょうか?
☆無料で民放各局の動画視聴ができるTVer(ティーバー)!まずはココから!
他にも、無料お試し期間のあるVODサービスが増えてますので、以下バナーから各社のラインナップを調べてみるのもいいかもしれませんね。
大阪・高槻市に 今注目の古墳がある。
今城塚古墳だ。
二重の堀を含めた 全長350mという
巨大な前方後円墳。
堀の外には 長さ50mにわたって
さまざまな埴輪が並ぶ。
武人 力士 巫女など およそ200体。
葬られた人物の権力の大きさを
物語っている。
この古墳の主を 多くの研究者は
継体天皇だと考えている。
6世紀初めの天皇で
聖徳太子の曽祖父にあたる。
実は 継体天皇は 極めて…
出身は 権力の中心 大和から遠い 北陸。
先代天皇との血縁も薄かったのに
大和の豪族たちに 即位を求められたのだ。
一体なぜ 地方の王族が
天皇になれたのか?
また いかなる人物だったのか?
その実像は
長らく謎に包まれていた。
しかし 最新の発掘調査と研究は
その謎を解き明かしつつある。
ヤマト政権が衰退する一方で
急速に力を伸ばす 地方の勢力。
その中で
継体天皇に 求められたものとは…。
スタジオには 気鋭の研究者と論客が集合。
継体天皇とは何者か 語り尽くす。
地方出身!
異色の天皇の出現は
古代日本をどう変えたのか?
その真実に迫る!
♬~
皆さん こんばんは。
こんばんは。
歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。
その時 彼らは 何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。
今日 取り上げるのは こちらの人物です。
継体天皇です。
6世紀前半 26代目の天皇です。
当時 天皇という呼び名は
まだなかったんですが
今回は 後に書かれた「日本書紀」に準じて
継体天皇として紹介していきます。
これは 異色の天皇ですよ。
なぜかっていうと
ご本家天皇ではないんですよ。
分家の しかも 地方にいた皇族
分家皇族から即位された天皇ですよね。
地方出身の大王 大王っていうのは
珍しくてですね 謎が多い。
謎が多いんですね。
その上 ありがたいことあるんですよ。
何でしょう。
継体天皇は 葬られている墓が
まあ 今城塚古墳だと 学者は
そこだろうと 想像してるんですけど
普通 天皇陵は入れません。
会いに行けません。
ところが この今城塚は
現在も 天皇陵に指定されていないので
我々は 自由に この継体天皇の
墓であろうというところを
間近に見ることができる!
つまり
会いに行ける天皇陵なんです。
僕は 19歳の時に 真っ先に行きました
まだ発掘されてない頃。
どうでした? 実際行ってみて。
感動でしたね。
その後 発掘されて
棺おけの破片が出たとか
もう ワクワクですよ。
近年 分かってきたところで
継体天皇の謎の部分っていうのも
お墓の発掘なんかも進んだりしたから
分かってくると思うので
この謎の大王 天皇を
見ていこうということになります!
まあ 早速 見ていきますが
まずは なぜ 地方にいて
大王に選ばれることになったのか?
継体天皇誕生までを見ていきます。
まだ日本が 倭国と呼ばれていた
6世紀初め。
ヤマト政権は 大きな危機の中にあった。
「日本書紀」には
こう記されている。
「武烈天皇が 崩御した。
ところが 天皇には
息子も身近な親類もおらず
後継者候補が
いなくなってしまった」。
政権の中心である 天皇になる人がいない。
まさに ヤマト政権崩壊の危機である。
そんな危機が起きた理由は
武烈天皇の4代前
雄略天皇の時代にあった。
「日本書紀」には こう記されている。
「雄略天皇は
誤って人を殺すことが
多かった。
人々は
大悪の天皇である
と言った」。
雄略天皇は 自らが天皇になるため
ライバルを次々と殺していった。
そのため 後継者候補は
極端に少なくなり
武烈天皇の代で ついに跡継ぎが
いなくなってしまったのだ。
ヤマト政権を支える 有力豪族
大伴金村 物部麁鹿火は
後継者探しに奔走する。
そこで ある人物の名があがった。
「男大迹王は
皇位を継承なさるべき方である」。
2人が白羽の矢を立てた
男大迹王とは
亡くなった武烈天皇とは
はるかに遠縁の人物だった。
武烈天皇の5世代上
応神天皇の代に分かれた家系の
5代目。
更に そのプロフィールも
極めて異色だった。
まず 生まれたのは
大和から離れた 近江の北部。
その後 更に離れた越前に移り
その地を治めていた。
年齢は 57歳。
当時としては 高齢であった。
なぜ こんな異例尽くしの男大迹王が
後継者に選ばれたのか。
琵琶湖の西岸に位置する 滋賀県高島市。
男大迹王の故郷にあたる
この地の調査から
跡継ぎに選ばれた理由の一つが
浮かび上がってきた。
これは 男大迹王の父
彦主人王の墓とされる 田中王塚古墳。
5世紀後半の築造と見られる。
高島市教育委員会の白井忠雄さんは
この古墳の特徴から
男大迹王の一族について
分かることがあるという。
ここ高島では
70基もの古墳が 相次いで作られた。
田中王塚古墳は その中で最大。
白井さんは ここから
男大迹王の家系が
近江の有力豪族だったことが
分かるという。
「日本書紀」によると
近江で生まれた男大迹王は
その後 母親の故郷 越前を治めたという。
近江と越前の豪族を従える王に
成長していたことが想像される。
更に 男大迹王を
支えていたと考えられるのが
尾張の大豪族 尾張連だ。
当時 尾張では
東海地域最大級の断夫山古墳をはじめ
巨大な古墳が数多く作られていた。
その尾張の大豪族の娘を
男大迹王は 妃にしていたのだ。
近江 越前 尾張。
広大な地域の豪族たちに
支えられていたことこそ
男大迹王が ヤマト政権の
新たな主に選ばれた
理由と考えられる。
男大迹王の力の源は
それだけではなかった。
それを示すのが
故郷 高島にある鴨稲荷山古墳だ。
男大迹王の親族が葬られたとされる
石の棺 石棺の中から
注目すべき品が発見されている。
これが冠で これが靴でね…。
これは 石棺に納められていた
副葬品を復元したもの。
金で飾られた靴や冠だ。
これらは 朝鮮半島から
もたらされた可能性が高いという。
考古学者の高田貫太さんは
こうした朝鮮半島とのつながりも
後継者に選ばれた理由だと
考えている。
実は 朝鮮半島には
男大迹王と密接な関係を持つ人物がいた。
朝鮮半島 西側の国
百済の武寧王だ。
武寧王は 北の強国
高句麗の攻撃を撃退し
20年以上にわたって
王として君臨した
古代朝鮮の実力者。
その武寧王が 男大迹王に
贈ったとされる品が残されている。
和歌山県の隅田八幡神社に伝えられてきた
国宝 人物画像鏡。
この鏡の背面に
興味深い銘文が刻まれている。
贈り主の名は 斯麻。
武寧王のことである。
男大迹王の長寿を願って
この銅鏡を贈るとある。
贈った年は 西暦の503年。
男大迹王が後継者に選ばれる前だ。
つまり 男大迹王は
即位前から 百済の武寧王と
つながりを持っていたと考えられるのだ。
「日本書紀」には 「地方にいた王族」
とだけ記されている 男大迹王。
しかし その実像は 各地の豪族と
朝鮮半島の百済に支えられる
大実力者だったのだ。
今回も
さまざまな分野の専門家の皆さんに
お越し頂いています。
皆さん よろしくお願いいたします。
(一同)よろしくお願いいたします。
さあ あの 継体天皇を 水谷千秋さんは
35年 研究されているということで
今日お越し頂いていますが
水谷さんは この継体天皇の印象
どのように感じていますか?
応神天皇から 5代目にあたるっていう
極めて遠い 傍系の出身。
まあ お父さんも
おじいさんも
ひいおじいさんも
天皇ではなかったって
いいますね。
まあ 普通であれば
まあ 天皇にはなれないような
人だと思うんですけれども…。
確かに あの家系図が
Vにも出てきましたけど
遠い親戚という印象ですよね。
まあ それにしても
こうした 地方出身のですね
遠い傍系王族の継体が
即位できた背景っていうのは
彼の いろんな政治力や 経済力などが
あったんではないかなというように
考えています。
そうなんですね。
あの松木武彦さんは 古代の考古学が
ご専門でいらっしゃいますが…。
少し前まではね
あの継体っていうのは
これ 後に付けられた 中国風の
おくり名なんですけれども
まあ 体を継ぐということで
何か こう 中継ぎみたいな感じの…。
だから あの~ 古来 強力な天皇には…
考古学の方から言うとね やっぱり…
古墳のフォーメーションが
変わるとかですね。
だから この時期に社会を
もうごろっと
変えてしまうようなことがあって
それが継体の即位だったんじゃないか。
皇族。 まあ地方に行けば
貴い種と書いて 貴種ですよね。
貴種が地方に下って
そうすると 地方の豪族たちが やっぱり
貴種とつながりを求めるわけですよ。
これ あの… 頼朝を擁立した
北条氏のような感じでね。
それで 俺も ワシもということで
継体のもとに つながろうとする
地方豪族が たくさん…
そういうのをバックに引き連れて
実力をつけていたような。
何か そういうイメージに
最近はなってきてるようですね。
あの~ 萱野さんは
政治哲学が ご専門ですが…。
ヤマト政権から見たら…
分家とはいえ それこそ
正統な系列を持つ人がいて
更に 広域的な勢力を
もう既に持ってるわけですよね。
政府というかですね
国が統一されてないところで
豪族同士の
地方豪族との関係というのは
中央と地方というよりは
ある種の外交関係でもあるわけですよ。
だから できるだけ早く 仲よくなって
取り込まないといけないというふうに
思うと思うんですよね。
やっぱり 彼の実力というものを
なかなか 無視できないものが
あったんだろうというふうに思うんです。
百済の武寧王との 個人的な
友好関係があったみたいなことも
ありましたけれども
これだけの この継体の
国際的な交流というかですね
そういうのが
どのようにして形成されたのか。
これは 想像も入るんですけれども
若い頃…
うん 僕も それ疑いますね。
見てる可能性ありますね。
そこで 武寧王と
親しくなったりとかですね
そうしたことがあったんではないかな
ということを考えたりもします。
何かね 皇族の中でね すごいね
今で言うと 何て言うかな
明治維新以降だったら
洋行するのが早くて…
そういう家系をイメージするね。
そうですか。
ほいで しかも 人脈的には
越前とか近江とか尾張が
映ってるかもしれませんけど
もう ローマで言うと 属州の人たち。
で しかも そこが
ものすごく天皇家の中では
どこよりも大陸の文化を
きちっとやっていると。
なので そういう ちょっと…
で ちょっと 周辺部にいる
主流ではない 一番ハイカラな皇族…。
生まれが近江で そのあと 越前の地を
治めていたっていうところから
ハイカラな感じが
伝わるということなんですね。
あの~ この継体天皇が
大王に選ばれた当時
後継者が大和には
いなかったということなんですけれど
松木さん これ当時の大和の状況って
どういうところにあったんでしょうか。
大和 それから河内も含めて
伝統的な王家の周辺は
もう これは 雄略というね
織田信長みたいな
ああいうカリスマ的な君主で
お膝元で たくさんの鉄製の
よろいかぶとを作って
矢じりも作って
それを地方の有力者に
こう 配給していってですね。
列島全域で軍備を整えて
仮想敵国の高句麗に
対じするというような
そういうシステムを
とっているわけですね。
ところが…
そういう体制が
完全に もう崩壊してるわけです。
後継者がいなくなって
本当に… 伝統的な王家には もう
ひ弱な御曹司しか残っていないという
感じですよね。
だから あの~ 物部とかですね
それから大伴とかいった大豪族も
誰を軸にして
勢力を こう 巻き返したらいいのかも
分かんないような
そんな状態になっていたんだろうな
というような…。
雄略が亡くなったあと
天皇陵や 全国の古墳も
だんだん小さくなっていきますよね。
まあ そのこと自体 大王の力
ヤマト政権の力そのものも
衰弱していたっていうことが
言えると思います。
乱れた状況の中で 継体天皇に
求められたことって何だった…?
いや それはもう これの立て直しですよ。
だから有能な人で
それと よく 話 聞いてくれる。
出来がよくて
みんなの話を聞いて ムチャをしない人。
要するに これまでの軍人 武闘派
あの… 肉食 ティラノサウルスのような
大王たちではなくて
もうちょっと草食系に寄った
ちゃんとした人っていうのが
やっぱり
求められてたんじゃないですかね。
う~ん 興味深いですが…。
さあ 即位した継体天皇でしたが
政治の中心地 大和には
すぐには入りませんでした。
なぜなのか 迫ります。
遠く離れた越前の地から
武烈天皇の後継者に選ばれた
継体天皇。
しかしなぜか
政権の本拠地である
大和に入ることはなかった。
最初に宮を築いたのは
琵琶湖から流れる淀川のほとり。
河内国 樟葉宮だ。
継体天皇は ここで即位し
およそ5年
過ごすことになる。
その後も 筒城宮 弟国宮と
相次いで宮を築くが
いずれも大和ではなかった。
一体 どうしてなのだろうか。
「日本書紀」には こう記されている。
「継体天皇は
内心 自分が選ばれたことに
疑いを持っていた」。
これは 即位に反対する勢力がいると
考えていたとも読み取れる。
実は このころ
政権の中心地だった大和の豪族たちは
大きく東西の2つの勢力に分かれていた。
継体天皇を推挙した
大伴 物部といった豪族は
大和盆地の東側に基盤を持っていた。
一方 西側は 彼らとは一線を画す巨大豪族
葛城氏の拠点となっていた。
全長200m近い大型の古墳が連なる
馬見古墳群。
これらは 葛城氏が築いたものといわれる。
継体天皇の10代前 仁徳天皇の頃から
天皇の妃を出し続けており
彼らが 新参者の即位に反対し
継体天皇の大和入りを阻んでいたとも
考えられるのだ。
一方 近年の発掘からは 継体天皇が
あえて大和に入らなかったという説も
浮かび上がっている。
それを示す手がかりが
継体天皇の最初の拠点
樟葉宮に近い
大阪府交野市にある。
平成になって
本格的発掘調査が行われた森遺跡。
そこからは 継体天皇が
即位した頃に稼働していたとされる
鍛冶工房の跡が見つかっている。
鉄を加工する鍛冶炉。
炉に風を送る
鞴の一部も見つかっている。
交野市教育委員会の真鍋成史さんは
この森遺跡の発掘に携わった。
この辺りはですね
古墳時代の鉄器を加工していた遺跡が
東西 約2km 南北500mぐらいの範囲で
どこを掘っても 鉄器の加工をした跡が
出てくるという遺跡です。
特に この場所では 6世紀に入ってから
鉄器を集中的に行ってたという
場所であります。
当時 倭国に製鉄技術はなく
朝鮮半島から輸入した鉄の地金を加工して
使っていた。
いわば 戦略物資である
鉄器生産の中心地が
継体天皇の最初の拠点
樟葉宮の近くにあったのだ。
この交野 樟葉宮のある すぐ近くの
交野で行われてるいうことは
やはり継体の戦略というんですか
そういうことも関連してる可能性が
非常に高いのではないかと
推定されるわけです。
その後 継体天皇は拠点を移し
2つの宮を築いたが
いずれも淀川水系にあった。
淀川は 大阪湾に注いでおり
そこから瀬戸内海を通じ
九州から朝鮮半島につながる。
南部の伽耶は
倭国が輸入する鉄の産地だった。
つまり 継体天皇は
戦略物資である鉄の輸入ルートと
加工の場を
共に 手中に収めていたのだ。
西暦526年
継体天皇は ようやく大和に入り
奈良盆地南東部に 磐余玉穂宮を置いて
名実ともに 大和の大王となった。
即位から実に
20年近くも後のことであった。
継体天皇が即位してからの動きを
見てみましょう。
初めに入ったのは 河内の樟葉宮。
そして 次が山城の筒城宮。
そして その次が弟国宮。
これらは
いずれも淀川の近くに集中しています。
いや~ 絶妙なところですね。
宮が3つ出来た地域
っていうのは
京都と大阪の境に
なるんですけれども
もう これは 豊臣秀吉だって
天下取りに一番重要な時は
ここに拠点 置いたんですね
宝寺城という。
あそこへ陣取ると
四方八方 どこへも行けますし
それと そもそも奥さんや
自分たちの拠点は
越前や尾張ですから
この辺は
兵隊が強いところですから
呼べば すぐに来ますし
だから ちょっとこう
大和のところから こう
扉が開いたとこですよね
大和の国だとか河内を
こう のぞくように
この扉の開いたところから安全地帯から
政権を担ってたっていう感じに
見えますよね。
今ですね 大和に入れなかった
もしくは あえて入らなかったと
2つを紹介したんですけど
萱野さん どうでしょう。
根本にあったのは 入れなかったって
ことだろうなと思いますよね。
それは あの… まだまだ
自分の正統性に対して
どこまで この大和の豪族たちが
同意してるかっていうのが
見えなかったんじゃないかなと
思うんですよね。
不用意に そこの場所に行ってしまえば
あいつは 何だっていうことになって
あの~
いろんなトラブルとか 巻き込まれたり
命が狙われかねなかったりするという
可能性もあったと思いますので
私 それでいくとですね
ちょっと疑問があって
何で じゃあ その樟葉宮から
また その鉄の生産の拠点の近くであった
樟葉宮から
移らなきゃいけなかったのか。
というのは 少し 何でだろうな
ちょっと謎だなと思うんですよね。
まあ転々としているというように
見えますけれども
まあ移ったからといって
前の宮を捨ててしまうわけではなくて
むしろ
拠点が拡大していくっていうように
まあ とった方がいいんじゃないかな
っていうふうに思いますね。
この… 継体という人物は
実業家の気質があったと思うんですよね。
だから 維新の人物像に例えると
ちょっと坂本龍馬みたいな…
経済と…。 坂本龍馬 はいはい…。
実業家的リーダーだったと思うんですね。
拠点を移していくのも
やっぱり これは背景には
一番 こう もうけが上がるところに
拠点を広げていってですね
もうビジネスで
私は 継体は動く人だったと思うわけです。
ところがこれ 大和の側から見ると
特に 旧勢力を支えてきた
豪族たちから見ると
継体は 鉄を押さえてますので
やっぱり それ欲しいわけですよね。
彼ら 豪族たちが
まあ 「三顧の礼」で大王に迎えると。
で 継体は あえて入る意思は
あんまりなかったんじゃないかなと。
頼まれたから
まあしょうがねえなということで
満を持して 大和入りしたように
想像してます。
僕はね これ 考えあるんですよ ある程度。
僕ね 20年長いように見えてね
そのぐらい 実は 大きく変える時
必要なんですよ。
雄略天皇以来の もうすっごい軍事的な
功臣たちがいるわけ…
大和の国には
すごい大家来たちがいるわけですよ。
そこへ 「えっ 5世も前にしか
天皇はいないの?」っていうのが
入っていったら 操り人形ですよ。
そういう人たちが…。
下手すると 命まで奪われる。
操り人形にならない天皇になるためには
その人たちが 20年間のうちに
どんどん死んでくはずです。
ほいで 来て下さい来て下さいって
言うなら ああ 行きましょう。
で そこで何をやるかっていうと
継体コンビナートですよ。
もうすっごい鉄のやつを作って
そこで 20年間かけて
すっごい鉄器でもった
軍も作るわけですよ。
そんな大和平野の真ん中で
のんびり暮らしてる者からすると
この男と戦ったら
絶対負けるみたいなのを
もう剣なんかでも
すごいの いっぱい持ってて
それを分かった時点で
そういう意識になって
あ~ さすが大王って
20年たってから入る。
そしたら本当に 自分の王朝になりますよ。
ほう~。
恐らく それをやったんだと思う。
自分の価値を高めるために
あえて入らなかったっていうのは
そのとおりだと思いますよね。
それこそ 人間誰でも
自分がいなかったところに行くと
やっぱ立場 弱くなる…
それだけで 立場が弱くなりますから
大王として迎えるんだったら
向こうから会いに来いよという形で
距離を取ることによって価値を高めていた
ということはあると思います。
即位から20年たって
ようやく大和に入った継体天皇でしたが
その先には
大きな選択が待ち構えていました。
ようやく大和入りした継体天皇。
倭国の大王として
混乱する国の立て直しを行うことになる。
しかし その前には
大きな問題が立ちはだかっていた。
舞台は九州。
一体 何が起こっていたのだろうか。
それを示すのが
現在の福岡県八女市にある
北部九州最大の古墳
岩戸山古墳である。
墳丘の長さは 138m。 高さ およそ20m。
6世紀前半の古墳としては
全国有数の規模を誇る。
この古墳の主は 筑紫君磐井。
継体天皇と同じ時代 北部九州一帯に
勢力を誇ったとされる豪族だ。
磐井の根拠地は 現在の福岡県八女市。
八女古墳群と呼ばれる
300もの古墳が点在し
岩戸山古墳は その中心に位置していた。
考古学者の柳澤一男さんは
長年 磐井の研究を続けている。
磐井の力を示すのは
古墳の大きさだけではない。
この時代 古墳の周りには
埴輪が置かれることが多かったが
この岩戸山古墳に置かれたのは
石で作られた人馬。
石人石馬と呼ばれるものだった。
現在 置かれているのは
実物よりサイズが小さいが
このように
古墳の周りに配置されていたとされる。
岩戸山古墳の隣の資料館には
石人石馬の実物が展示されている。
これをですね もし そのまま立った人物で
現在の人となぞらえればですね
大体 高さが2m50ぐらい。
石で作られた兵士の頭。
鞍を置いた馬。
そして 高さ2mにもなる盾。
岩戸山古墳からは
石製品が100点以上も見つかっている。
北部九州を掌握した磐井は
大量の石人石馬を並べ
自らの威厳を誇示するほどになっていた。
そんな磐井の勢力は
九州だけに
とどまらなかった。
朝鮮半島とも
結び付いていたのだ。
岩戸山古墳に程近い古墳では
伽耶系の耳飾りが。
更に 磐井と関係が深かった
久留米の古墳では
新羅系の土器が見つかっている。
衰えたヤマト政権の立て直しを図る
継体天皇。
九州で自立の動きを示す磐井に
どう向き合うべきか。
その脳内に分け入ってみよう。
磐井の力は 日に日に増す一方だ。
九州をまとめるだけでなく
海の向こうの新羅とも結び付いている。
このまま勢力拡大を認めれば
大和から自立しかねない。
いや もしかしたら
大和に攻め込んでくるかもしれない。
どうしたらいいのか?
この際 磐井と手を組むのはどうか。
大和と九州が手を携えて
新しい政権を作るのだ。
昔の大和は 各地の大豪族が
力を合わせて政権を支えてきたのだから
それもできるのではないか。
いや 待て。
それでは なかなか国がまとまらない。
各地の豪族の勝手な振る舞いは許さず
大和の我々が中心になって
国造りを進めねばならぬ。
磐井の存在を許す限り
我々の思う国造りはできない。
大和の威厳を
倭国各地の豪族に知らしめる必要がある。
その見せしめとして
磐井は滅ぼさなければならないのだ。
しかし 磐井は強い。
もし勝てなければ
各地の豪族も勝手に動き出すに違いない。
それでは 国がバラバラになってしまう。
う~む…。
継体天皇は 選択を迫られていた。
継体天皇の前に 九州の有力豪族
磐井が登場したわけですが。
大体 北九州の豪族たちっちゅうのは
もう独自に朝鮮半島と関係を持って
独自の外交やら経済関係を
持ってるわけですね。
それは もう 白村江…
白村江の戦いぐらいまで全然変わらない。
だから そんなに ヤマトの王権に密着して
参加しているという意識は
ない人たちも 結構あるわけですよね。
先ほど ビデオに出てきた
磐井の墓の周りに建てられていた
石人の中で 兵士の像がありましたよね。
あの兵士がかぶってる かぶとは
あれはですね…
とういうことはね…
新羅兵とか いたかもしれない。
いたかもしれない。
そうすると これは
迂闊には 手は出せんぞというようなね。
だんだん だんだん
この九州の勢力が独立
自立化し始めていった。
一方で ヤマト政権は
雄略が亡くなってからは
混迷していくわけですね。
まあ 九州の独立国のようなものが
出来てしまう
そういう恐れを抱きながらも まあ…
では 選択にまいりましょう。
継体天皇は 九州で
自立する動きを見せていた磐井と
どう向き合うべきか 選択に迫られます。
選択1は 磐井と手を組む。
選択2は 磐井を滅ぼすというものです。
もし 皆さんが
継体天皇の立場だったら
どちらを選択するでしょうか。
まず 萱野さんは
どちらを選びますか?
え~ 私は 2の「磐井を滅ぼす」です。
この時点で。
その段階 その状態で
それこそ 九州の自立性が高まるように
見て見ぬふりをするというかですね
そこに何も介入しなかったら どんどん
求心力が下がっていってしまって
九州地方だけじゃなくて
中国地方とか四国とか
どんどん どんどん 多分 独立性を
高めていくことになると思います。
なので そういった中で…
戦争を行えば
人々を まず集めることができますし
天皇の権威を高めることもできますし
一気に 求心力 高まります。
松木さんは どちらを選びますか?
ん~ 迷いますけど
しかし まあ これは「磐井を滅ぼす」
以外には ないんじゃないですかね。
新羅とつながった
磐井に敵対することによって
倭のオフィシャルな外交の相手は
百済ということを
東アジアに対して
宣言することにもなりますので。
そういう意味でも その方が
長い目で見ると安定するというように
恐らく継体は決断したんじゃないかなあ。
さあ 水谷さんは どちらを選びますか?
まあ やっぱり「磐井を滅ぼす」という
選択になるかと思うんですけれども
この選択っていうのは
まあ 特に継体というよりは
彼を押し立てた
大伴や物部といったですね
ヤマト政権の豪族たちにとっては もう
それしかありえない選択であったと。
彼らとしては やっぱり
中央豪族が中心となって
大王を支えてですね
ヤマト政権を運営していくというですね
そういう体制を やっぱり
彼らは推進していきたいですから。
皆さん「滅ぼす」という
選択をしましたけれど
磐井と手を組むという選択は
考えにくいんでしょうか?
これね 磐井と手を組むと
かなり向こう側に譲歩しないといけない
局面になっちゃうと思うんですよ。
はい。
つまり 磐井と仲よくしようって言うと
向こう側は いいですよ。
だから 伽耶からの
朝鮮半島の鉄でも何でも
出してあげますよって
送ってくれますよね。
だけど そうやって時間を稼ぐ間に
新羅との関係を深めて
新羅で軍事力を高めたり
あるいは 新羅軍が
どんどん いろいろ やって来て
それで 婚姻関係 結んでですね
磐井が新羅王と親戚になったりですね
そういうこと
十分に考えられるわけですよ。
そうするとですよ
何かあったら 海渡って
新羅軍が入ってくるわけですよ。
これは国ですからね。
だから かなりね たちが悪いですよ。
速やかに やっぱり行くべきですね。
では 継体天皇の選択を見ていきましょう。
継体天皇が葬られたと考えられる
大阪 今城塚古墳。
墳丘の長さは 磐井の墓の1.4倍。
当時 最大級の古墳だ。
ここで
彼の選択にまつわるものが発見された。
それは 今 古墳の隣にある
今城塚古代歴史館に収められている。
特別館長の森田克行さんは
今城塚古墳で数多く出土した
円筒埴輪に注目した。
特異なのは この口の所にですね…
私は これは 大型輸送船をモチーフにして
描かれているもんだろうと。
継体天皇の選択は 「磐井を滅ぼす」だった。
「日本書紀」によれば 継体天皇は
およそ6万人もの兵を動員して
磐井との戦いに乗り出した。
大将軍 物部麁鹿火率いる軍勢が
磐井の軍と 筑紫の御井郡で激突。
両軍は 砂ぼこりが舞う中で
勝利を得ようと必死に戦ったという。
結果は 大和軍の圧勝だった。
「天皇の命にしたがわず
無礼であった磐井を
物部らは殺した」。
「官軍の怒りは収まらず
石人の手を打ちおり
石馬の頭を打ち落とした」。
これですね。
この部分が 全部そうです。
割れてます。
硬いものですからね…
今城塚古墳からは
戦いのあと 継体天皇の力が
全国に及んでいたことを示すものが
発見されている。
これは
今城塚古墳から見つかった 石棺の破片。
3種類の石が見つかっており
継体天皇を含めて
3人が埋葬されたと考えられる。
森田克行さんは 中でも この石が
継体天皇のひつぎに使われたと
考えている。
一番左側のものが
阿蘇ピンク石ということで
この小さい方の破片に 赤い顔料が
ついているのが見えるかと思いますけど
水銀朱といいますけども
これで 神聖な色だということで
しばしば
石棺には塗布されるものであります。
阿蘇ピンク石と呼ばれる この石は
今城塚古墳から遠く離れた
九州で採られた石だ。
なぜ この石を使ったのだろうか。
阿蘇ピンク石の産地である
熊本県宇土市。
宇土市でピンク石を研究してきた
高木恭二さんに案内して頂いた。
これ割ると こんな感じで。
今は ちょっと 水分含んでますので
ちょっと色がくすんでますけど
これは 馬門石というふうに
いってるんですけど
阿蘇山の9万年前の爆発 その時に
火口から噴出した火砕流が流れ出て
堆積したものが石になって。
阿蘇ピンク石は
ここでは馬門石と呼ばれている。
高木さんは 継体天皇が自らのひつぎに
わざわざ馬門石を使った理由を
考えたという。
「我々は あんな遠い所の勢力とも
つながりがあり
そこの人たちは
あんな重い7~8tもあるものを
自分とこに運んできてくれるんだ」。
気合い入れて行くぞ!
(一同)オ~!
馬門石で作られた石棺は どうやって
宇土から大和まで運ばれたのか。
2005年 高木さんが発起人となり
石棺を熊本から大阪まで運ぶ
実験航海が行われた。
道のりは およそ1, 000km。
1か月かけ 延べ1, 000人以上が
関わった。
高木さんは この実験航海を行う中で
継体天皇の もう一つのねらいに
気付いたという。
(一同)そ~れ!
そういうことも含めて…
(掛け声)
磐井を倒し ヤマト政権の立て直しに
成功した継体天皇。
「日本書紀」では 磐井を倒して3年後の
531年 世を去ったとされる。
今城塚古墳では
発掘の結果 200体もの埴輪が
50mにわたって並んでいたことが
分かっている。
継体天皇の葬儀のありさまを
再現したものだ。
遺体が安置された建物。
祈りをささげる巫女。
よろいを着た武人。
強大な権力を手にした大王を送る
厳かな儀式のありさまを伝えている。
地方からスカウトされ
衰えたヤマトの力を復活させた継体天皇。
今 その実像に
新たな光が当てられている。
はい 継体天皇は
「磐井を滅ぼす」という選択をしました。
水谷さん いかがでしょう。
そうですね。
まあ 継体っていう人は 大和入りは
急がなかったわけですね 20年かけて。
ただ 大和入りした翌年に
磐井の乱が起きてるんですね。
そこの辺りは なかなか こう
勇猛果断というかですね
決断力があるようにも思うんです。
勝利した後 九州北部各地にですね
ヤマト政権の直轄地 屯倉ですね
屯倉が たくさん作られていくわけです。
これ でも 吉備も北九州も
豪族の強いのがいたとこが
みんな屯倉っていう 直轄 位一様ですよ。
ヤマトの王権を入れてですね。
もう このあとは…
あの~ 先ほどですね 継体天皇の足跡を
今に伝えるものとして
今城塚古墳と そこで見つかった馬門石。
そうだ そうだ。
実は今日 その馬門石で作った石棺を
ご用意しました!
本当に来たんですか? やった~!
いや~ これです これです これです。
今日 お借りしました 特別に。
磯田さん 是非 前まで行って下さい。
これね 凝灰岩っていう
この火山灰とかが沈んだやつで
出来るんですけど
色が ちょっと赤みがかってるのが
ポイントなんですよ。
あの… 石の質自体だったら 兵庫・高砂の
竜山石とかでもいいんですけど
やっぱり「死と再生」っていう
棺おけ赤いのが珍重されたんですね。
ところが それはね
阿蘇の宇土半島まで行かないと
手に入らない。
これを運ぶのに ものすごい労力かかる。
いいなあ。
あっ 中も ちゃんと…。
中も開いてるよ。 ここ。 どうぞ どうぞ…。
あ~ 本当だ。
本当に馬門石で作っているんだ。
ハハハハ みんな いいなって…。
でも さっき 磯田さんが ちょっと
手を差し伸べた時に思ったんですけど
何かこう 不思議と このピンクが
人肌みたいな色みというか
すごく不思議な色合いですね。
やはり貴重なもの…。
貴重です 貴重です。
この形の石棺ですよね。
今城塚からは
部分しか出てないんだけども
恐らく こういう形に復元される
これ 家形石棺というんですよ。
家形石棺は 基本的に 横穴式石室と
セットになる石棺なんですよね。
考古学的に見ると…
それまでは 竪穴式石室なんですよ。
古墳の高い一番上に
王を葬るっていうのは
これ 日本の本当に土俗的なやり方で。
朝鮮半島の諸国は
もう そんなこと やってないんです。
継体は それを やめちゃって
国際的スタンダードのお葬式を
初めて取り入れたことが確実な
大王なんですよね。
…という意味で合理的だったし
そういうことが この石棺には
とてもよく示されている。
今日は 継体天皇について
見てきましたけれど
萱野さん いかがでしたか?
極端な話かもしれませんけど
もし継体天皇がいなければ
この国に 天皇という存在は
今なかったかもしれないなとさえ
思いますよね。
血統を継いで
新しい基盤 作ったわけですよ。
これによって それこそ
天皇を中心とした国造りの基盤が出来た。
その存在が外から来た人っていうところが
また象徴的ですよね。
私たちの社会って
これ 日本だけじゃなくてですね…
やっぱ あるんですよね。
…という大きな事例なんだろうな
というふうに思いますね。
地方の出身で まあ 応神から5代という
適度な貴公子なんだけれども
しかし やっぱり地方の
しかも それも あの 海を越えて
交流が盛んな地方で育ってですね
そういう経済的合理性を
身につけた人ですよね。
雄略も英雄的なんだけれども 雄略以上に
偉大な大王だったんじゃないかな
というように 今日 改めてね
そういう認識を強めましたね。
継体という人は
まあ 中央豪族の上に立っている…
そして 磐井と戦ってですね
外交一元化を果たしたと。
その結果 百済との関係もですね
強化されていきますし
さまざまな大陸の文化もですね
一点にヤマト政権に入ってくると。
まあ だからこそ その後も ずっと
ヤマト政権が続いていけた
というように思います。
磯田さん 今日は
継体天皇を取り上げましたけれど
何か この国 この土地の
ターニングポイントになるような。
そりゃあそうですよ。 僕ね…
700~800年のターニングポイントかなと
思うんですよ。 我々は小学校では
中央集権化というのは律令制度だと。
天智天皇と天武天皇の
手柄になってるんですけど
ああいう改革が可能な前提条件は
武でもって 雄略天皇が
文や その制度でもって 恐らく
継体天皇が作ったと考えるのが正しくて。
それ以後 鎌倉 南北朝までの
700~800年間っていうのが
もう中央集権の時代。
極めて強い中央集権を作った。
そういうことじゃないかなと。
しかも これ 会いに行ける…
古墳に会いに行ける天皇ですんで
是非 行ってみて下さい 今城塚とか。
今日は 皆さん ありがとうございました。
♬~
- 関連記事
-
- 英雄たちの選択「国難に打ち勝つ!幕末の三英傑」老中・阿部正弘、長州の高杉晋作、薩摩の小松帯刀…(05/20)
- 英雄たちの選択「織田信長・逆境が生んだカリスマ」桶狭間の戦い、上洛作戦、姉川の戦いに着目。ピンチをチャンス…(05/13)
- 英雄たちの選択「スカウトされた大王~地方出身!継体天皇の実像~」6世紀はじめ、ヤマト政権に地方出身の大王が…(04/22)
- 英雄たちの選択「新発見!秀吉・中国大返し~これが幻の高速移動システムだ!~」天正10年、光秀謀反の本能寺の変…(04/08)
- 英雄たちの選択「心理分析 明智光秀~なぜ信長を討ったのか?~」本能寺の変を起こした光秀の心の闇。謀反へと至る…(04/01)