歴史秘話ヒストリア「弘前城 北のお城の400年」戦国~江戸時代の築城当時の状態を、ほぼそのまま今に伝える…


出典:『歴史秘話ヒストリア「弘前城 北のお城の400年」』の番組情報(EPGから引用)


歴史秘話ヒストリア「弘前城 北のお城の400年」[字]


青森・弘前城。400年前の姿をとどめる貴重な名城だ。美しいだけではないその正体が、現在すすむ修理によって浮び上がってきた。(今年の弘前さくらまつりは中止です。)


番組内容

青森県の弘前城。戦国~江戸時代の築城当時の状態を、ほぼそのまま今に伝える貴重な城だ。現在、天守をまるごと移動する「曳屋(ひきや)」修理が進む中、秘められた構造や「堅固な城」としての側面が明らかになってきた。その手がかりは「イカ」!? 北の名城の、当時の国際情勢にもつながる壮大な秘話を紹介する。(今年の弘前さくらまつりは中止です。弘前公園は現在立ち入りできません。)

出演者

【キャスター】渡邊佐和子


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歴史秘話ヒストリア「弘前城 北のお城の400年」戦国~江戸
  1. 弘前城
  2. 天守
  3. 菊池
  4. 幕府
  5. ロシア
  6. 弘前藩
  7. 場所
  8. 日本
  9. 内山
  10. 本丸
  11. 当時
  12. アイヌ民族
  13. イカ形角石
  14. 蝦夷地
  15. 元藩士
  16. 弘前
  17. 江戸時代
  18. 再建
  19. 石垣
  20. 理由


『歴史秘話ヒストリア「弘前城 北のお城の400年」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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♬~

そう うたわれます。

北国・青森にある…

≪はい チーズ。

今日は このお城の
知られざる歴史絵巻を ひもときます。

♬~

今 弘前城で
歴史的工事が進んでいます。

天守を解体せずに移動する…

それに伴う調査で
築城の際の驚くべき技術が明らかに。

天守の下から見つかった
不思議な形の石です。

(砲声)

天守が建てられた頃 日本は
北からの脅威に直面していました。

ロシアです。

「火龍」と申す…

北の砦・弘前城が背負った宿命

そして 悲劇とは…。

有名な…

既に 99回を
数えました。

こしてけらあ!

その始まりは 元サムライたちの苦闘と

熱き城への思い。

400年の歴史を持つ 北の城。

その数奇な運命に迫ります。

♬~

「歴史秘話ヒストリア」。
今夜も どうぞ おつきあい下さい。

今回 ご紹介するのは
青森県津軽地方にある お城…

城が出来たのは およそ400年前。

戦国大名の津軽為信と
息子・信枚の2代がかりで

築かれました。

天守は 初め

五重の屋根を持つ
立派さだったようですが

早くに焼失。

現在の天守は 二代目。

江戸時代の終わりに
再建されたものです。

弘前城とは どのようなお城なのか。

城のつくりを じっくり見ていくと

美しき北国の城の 知られざる
築城のいきさつまで見えてきました。

青森・津軽地方の中心
弘前。

市街地にそびえる
弘前城は

この地域の歴史そのものです。

日本で 江戸時代以前の天守を持つ
12の城の一つ。

東北では唯一です。

城門や櫓が 築城当時のまま残され

重要文化財の建造物は 9棟に上ります。

失礼します。
(千田)どうもです。

弘前城の特徴を 城郭考古学の専門家
千田嘉博さんに教えてもらいましょう。

江戸時代の弘前城の絵図。

ここから分かるのは
城の「かたい守り」です。

まず注目すべきは 堀。

お殿様のいる本丸を
何重にも囲んでいます。

織田信長や豊臣秀吉の時代に現れた

城郭の特徴です。

例えば 外堀と最初の門を破っても

中堀と第2の門が。

そこを突破しても
内堀と次の門がというように

本丸へ
近づくためには

いくつもの堀や橋
そして 門を

突破しなければなりませんでした。

なかでも 千田さんが注目しているのが

本丸の手前に設けられた
「馬出し」。

この場所があると 効果的に
敵を迎え撃つことができます。

敵が攻め込んできたら
馬出しに引きつけ

天守から
不意打ちします。

「横矢」という
戦術です。

更に 敵を押し戻したら

追い打ちをかける拠点にもなります。

もう一つ 弘前城の守りのかたさが分かる
場所があります。

高さ20mほどの崖。

城の西側 数キロにわたって
続いています。

(小石川)…と言ってもいいと思います。

天下人の築城技術を取り入れ
地形も利用した 弘前城。

しかし 弱点がありました。

遮るものがない 「南側」です。

その場所に行ってみると…。

つまり 手薄な南側に 33ものお寺を集め

いわば 「出城」としたのです。

更に禅林街には 「土塁」と「枡形」

つまり クランク状の出入り口が

設けられていました。

その跡は 今も見られます。

もし 敵が弘前城をめざして

禅林街のそばを通っても

土塁と枡形に隠され

こちらの兵力を悟られません。

状況しだいでは
奇襲をかけることもできました。

もし 敵が
禅林街自体に攻めてきても

土塁と枡形が
城壁代わりとなり

大軍でも
防ぐことができました。

それにしても…

その理由 江戸時代に描かれた
津軽地方の絵図から分かります。

津軽半島の先端などに
同じ地名が いくつもあります。

「狄村」。

当時 アイヌ民族の集落が
あったことを示す地名です。

日本列島の北に暮らしていた
アイヌ民族。

徳川幕府が日本を支配する頃には

生活圏を
脅かされるようになっていました。

(兵たちのおたけび)

追い詰められたアイヌ民族が蜂起し
何度か戦いも起こっていました。

長年 弘前藩を研究してきた…

弘前城のつくりは

幕府の アイヌ民族に対する
備えだったと見ています。

例えば 徳川家康のブレーンとして
知られる僧 天海は…。

当時 徳川幕府は
始まったばかり。

脅威となるものを
見過ごしにはできませんでした。

しかも 幕府にとって 更に深い理由も。

いまだ不安定だった 西日本への警戒です。

ある意味では…

幕府が天下を掌握し続けるため

北の まさに 「かなめ」となった弘前城。

(雷鳴)

しかし このことが 弘前の人々に
苦しい闘いを強いることになるのです。

弘前城は現在 その長い歴史の中でも
極めて珍しい状態になっています。

それは 天守が…

横へ移動していること。

今 弘前城は 石垣修理の真っ最中。

天守の下の石垣が ゆがみ
崩れる危険があったからです。

そこで5年前 石垣を積み直すため

天守を解体せず そのまま移す

「曳屋」が行われました。

先ほど お伝えしたとおり

この天守は 再建された二代目。

今回の大修理では
その再建時に施された

特殊な技術が明らかになりました。

それは なんと…

弘前城と イカ。

そこには 天守再建をめぐる

壮大な歴史ドラマがありました。

(雷鳴)

落雷で天守が炎上。

城の火薬庫に 火が回ります。

(爆発音)

初代の天守は 完全に失われました。

当然 天守を再建したい弘前藩。

それには 幕府の許可が必要です。

しかし 幕府は許しませんでした。

ところが
それから200年近くたった 1808年。

9代藩主 津軽寧親の時
一転 幕府の許しが出ます。

「願いのとおり 天守を再建せよ」。

そこには 幕末日本と弘前藩を揺るがす
時代のうねりがありました。

17世紀 ロシアが
クロテンを求めて極東へ進出。

カムチャッカ半島の領有を宣言します。

更に今度は ラッコを追って
南下を始めました。

理由は その毛皮。

ロシアでは
高級品として珍重され

国の専売品でした。

国の収入の3分の1を

毛皮が占めたことも
ありました。

こうした動きを警戒した幕府は

18世紀後半から
蝦夷地 今の北海道周辺を調査。

ロシアへの備えが
重要な国家課題となります。

そして 1806年9月
事態が動きます。

(砲声)

黒船来航の50年ほど前

はるか北で ロシアによる武力攻撃が
行われたのです。

日本は惨敗しました。

ロシアの博物館には

この時 日本から奪った品が

今も収蔵されています。

そこにあるのは どれも旧式の武器ばかり。

一方 ロシアの武器は
強力でした。

戦闘の詳細を記した 日本側の資料です。

扱いは極秘。

敗北の事実を隠したい
幕府の意図が うかがえます。

「ヲロシヤの方より海中に

火龍と申すものを仕掛け」ということで

これを爆発によって
火の玉によってですね…

日本では
到底 お目にかかれないような

新兵器が出現してると。

脅威は はるか北の地だけではありません。

当時 日本近くを航行した
ロシア軍艦の航路図を見ると…。

日本海を北上しながら

津軽海峡を探った様子が うかがえます。

更に 海上から見えた地形や集落を
詳しく記録。

弘前城に程近い 岩木山の姿もあります。

この時の 弘前藩の動きが分かる
資料があります。

幕府に さまざまな理由を挙げ

天守再建を願い出ています。

その内容を 更に丹念に読むと…。

「本丸の
土地が高い場所からは

領内の海と
浜が見えます」。

天守を建てれば 海岸が見渡せるので
沿岸警備に有利だと述べています。

(スタッフ)3層目?
(小石川)はい。

(小石川)実際はですね…

弘前城と海の間には

岩木山や
白神山地もあります。

この時期 弘前藩は…

そこには
藩の抱えていた苦悩がありました。

ロシアの影が迫る中 19世紀に入り
幕府は 蝦夷地を直轄地とします。

その警備を担当させられたのが
弘前藩でした。

負担は 弘前藩を苦しめます。

蝦夷地に赴いた弘前藩士の数は

10年間で 4, 000人以上。

冬の蝦夷地は

寒さに慣れた津軽のサムライでも
過酷な場所でした。

知床半島に向かった藩士たちは

1年余りで 8割以上
およそ100人が亡くなります。

厳しい状況にあった弘前藩。

藩士たちの折れそうな心を支えるものが
必要でした。

…と考えることはできると思います。

場所は 本丸の南東です。

しかし ここに天守を建てるには

解決しなければならない
問題がありました。

実は 弘前城の本丸に 水がたまりやすく
もろい箇所がありました。

絵図を見ると 天守のすぐ北側に

「石垣の築きかけ」と記された
場所があります。

地盤がやわらかく
石垣の石積みが進まないという意味です。

この問題を克服するための
新技術と考えられるもの。

それが こちら。

このイカ形角石を よく見ると
2か所の穴があります。

実は 柱を立てるための穴でした。

…という天守を支える重要な柱です。

柱を 2本とも のせるため

石は 細長く削られました。

ちなみに とがっている部分は

天守台の角にあたります。

普通 お城では これらの柱は
別々の石に のっています。

その場合 地盤が弱いと

柱は それぞれ動くことに。

しかし イカ形角石なら…。

更なる ひと工夫も…。

(スタッフ)あっ これ
すっごい重いですね これ。

実際に どのように使われたのか
再現してもらいました。

ここに はめ込みます。

これを はめ込むことで
この石と この石が連結されまして

こういうふうに 一体になります。

そうすると…

チキリによって
イカ形角石と隣り合う石が

がっちり 固定されます。

イカ形角石で 四隅を固めたため

弘前城の天守台は これまでにないほど
強固なものとなりました。

最新技術で建てられた 弘前城天守。

時代の荒波と闘った
弘前藩士たちの心を伝えています。

「北の守り」の務めを
黙々と担い続けてきた弘前城。

しかし 歴史の流れが
それを突如として消し去ります。

江戸時代を
北から支えた弘前城は

徳川幕府に幕を下ろした
「明治維新」によって

役目を終えました。

そのころの弘前城の写真です。

何か 気付きませんか?

そう 桜の木がありません。

当時は 松が多かったそうです。

松の城が
どうして 桜の城になったのでしょうか?

その陰にあったのは
元サムライたちの決意と苦闘。

(馬のいななき)

1871年の廃藩置県のあと
弘前城から 藩主の津軽家が去りました。

その3年後 弘前城の様子を記した

アメリカ人教師の記録が
残されています。

「地方の城は
中央政府に引き継がれ

多くが荒れたままです。

駐屯する兵士たちの宿舎となり

古くからの調度品や装飾品は

失われてしまいました」。

弘前城は 軍の所有地となります。

しかし ほとんど手入れもされず
荒れるに任せたままでした。

弘前城のため
行動を起こしたのが…

この時 城は 蛇の住みかになるほど
荒れ果てていました。

栄えある姿を取り戻したい。

嘆く中で 菊池は考えます。

実は このころ 菊池が
関心を寄せていたものがありました。

樹木です。

菊池は リンゴ栽培などを学び

元藩士たちの
新しい なりわいにしようとしていました。

実は その中にあったのが桜です。

弘前城の桜を 40年近く手入れしている…

菊池は 果樹栽培を研究する中で
桜を思いついたと考えています。

私財をなげうって
桜の苗木を購入した菊池。

天守が見える場所を中心に

菊池は 1, 000本の桜を植樹しました。

ところが…。

ある日 菊池が目にしたのは
植えたばかりの桜の 無残な姿でした。

1, 000本のうち 無事なものは数本のみ。

なぜ こんなことが…。

よ~し!

こしてけらあ!

無礼者め!

桜を荒らしたのは
多くが弘前藩士だった者でした。

弘前城を誇りとする元藩士たちの中には
桜を軽薄と怒る者もいたのです。

しかし 菊池の試みに
心を動かされた者もいました。

菊池さん…。

内山…。

菊池と同じく
城の荒廃に心を痛め

数は少ないながら 桜を植えていました。

多くの元藩士たちの怒りに
どう 向き合えばよいのか。

思案に暮れる内山…。

それから しばらくたった 1894年。

(砲声)

日本と 当時の中国・清との間で
戦争が勃発。

青森出身の兵士も
多数 出征し

多くの戦死者を出しました。

すると 戦没将兵を慰霊する動きが
県内各地で起こります。

内山は 行動に出ました。

いや~ ご苦労さんです。

こりゃあ 内山さん どうもどうも。

この桜で 津軽の出征兵士たちには

戦の疲れば
忘れてもらいてえもんですな。

んだ。 まったくです。

ハッハッハッハッ!

戦争が終わった年
内山は 弘前市の慰霊事業として

桜の木 100本を植えます。

この植樹に
以前は桜に怒った元藩士たちは…。

更に8年後
日露戦争の前後にも 再び植樹。

内山と菊池は 1, 000本を超える桜を
弘前城内に植えていきました。

菊池や内山が植えた明治・大正の桜は
今も 弘前城を彩っています。

♬~

♬~

今年 弘前さくらまつりは
中止となりました。

実は4年前 その「さくらまつり」の
貴重な映像が見つかりました。

大正時代 この催しが始まって
すぐの頃の様子。

人々の笑顔が あふれます。

♬~

どんな苦難があったとしても

弘前の人々は 城を愛し
桜を愛してきました。

さくらまつりが始まった 1918年。

かつて 1, 000本の桜を植えた
菊池楯衛は

この世を去ります。

曽祖父ゆかりの桜を見に
よく城に来るそうです。

菊池さんが 決まって最後に訪れる
一本の巨樹があります。

折られたり 抜かれたりした
最初の1, 000本のうち

現代まで生き残った桜。

日本で最も古い
ソメイヨシノの一つです。

よく おじい様が頑張って

そのころ こういうことを
されてくれたなっていう気持ちと

誇らしげな子孫の気持ちですね。

で また 今に引き継いで下さってる
樹木医さんの桜守の方

そういう方たちの ご努力

ほんとに 愛情込めて見守って下さってる
っていう お力を感じます。

ありがたいことです。
感謝しております。

♬~

北国・青森の弘前城。

これからも 人々に愛され続ける
日本一の桜の城です。

♬~


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