先人たちの底力 知恵泉「家康をつくった“三方ヶ原の戦い”失敗こそ成功への指針」戦国最強の武田信玄に大惨敗した…


出典:『先人たちの底力 知恵泉「家康をつくった“三方ヶ原の戦い”失敗こそ成功への指針」』の番組情報(EPGから引用)


先人たちの底力 知恵泉「家康をつくった“三方ヶ原の戦い”失敗こそ成功への指針」[字]


徳川家康を天下人にした戦いは関ヶ原の戦いではなく、それまでの戦いに鍵がある!その戦いに2回にわたって迫る。今回は戦国最強の武田信玄に大惨敗した「三方ヶ原の戦い」


番組内容

徳川家康を天下人にした戦いと言えば、誰もが、「関ヶ原の戦い」を挙げるだろう。しかし江戸時代の軍学者・頼山陽は、家康の天下取りの決め手は、関ヶ原ではなく、それまでの戦いにこそ、成功の鍵があるという。その戦いに2回シリーズで迫る。今回は、戦国最強の武田信玄に大惨敗した「三方ヶ原の戦い」。家康の生涯最大の危機と言われたこの敗戦。家康は、すべての点で優れていた信玄を師と仰ぎ、学び、天下人に至る糧とした!

出演者

【出演】日本ラグビーフットボール協会会長…森重隆,中井美穂,歴史家・作家…加来耕三,【司会】新井秀和


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先人たちの底力 知恵泉「家康をつくった“三方ヶ原の戦い”失敗こ
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  2. 信玄
  3. 浜松城
  4. 家臣
  5. 信玄軍
  6. 失敗
  7. 家康軍
  8. 自分
  9. 三河
  10. 三方ヶ原
  11. 知恵
  12. 信長
  13. 本当
  14. リサーチ
  15. 武田信玄
  16. チーム
  17. ラグビー
  18. 軍勢
  19. 天下人
  20. ワールドカップ


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あ~あ… 本当に
何やっても駄目な時ってありますよね。

何かいい知恵ないかな~。

失敗ばかり。

こんばんは~。 あら どうしました?

先生 何か一人
困った子どもみたいな人がいます。

いますね。
すいません! いらっしゃいませ。

どうしたんですか? 大丈夫ですか?
ちょっと最近 私 失敗続きで…。

そんなにね 悩むことはないですよ。
そうですか?

歴史上の人物を見ても大失敗したがゆえに
天下を取った人もいる。

ほう。
一番大きい失敗をして なおかつ

一番成功したのは
徳川家康だと思いますね。

家康って 立派な人っていうイメージしか
正直ないんですよね。

家康が失敗したっていう証拠っていうか
あるんですか?

ありますね。
おっ!

これですね!
「しかめの図」ともいうんですけどね。

言われなければ これが家康だと
気付かないですね。

恐らく…

はあ~。

今日は 失敗しても天下人になった
家康の知恵 学んでいきましょうか。

(一同)はい。

今回の主人公は
動乱の戦国時代に終止符を打ち

天下を統一した
ご存じ…

家康を天下人にした戦いといえば
関ヶ原の戦いですよね。

しかし 実は
江戸時代の軍学者 頼 山陽によると

家康の天下取りの決め手は
関ヶ原ではなく

それ以前の戦いにあった
というのです。

その一つが 三方ヶ原の戦い。

元亀3年 血気盛んな31歳の徳川家康が

戦国最強といわれた武田信玄と
直接 対決した戦いです。

3万の軍勢を率いた武田信玄に対し

家康軍は その3分の1の
1万1千。

経験豊富な信玄の前に

家康は数時間で
あっけなく惨敗してしまいます。

命からがら逃げ帰った家康。

兵力 知力ともにかなわない信玄に
対決を挑んだ理由とは?

そこには…

今回 一緒に家康の知恵を
ひもといてくれるのは…

日本ラグビー界の
いわば 総指揮者として

あのラグビーワールドカップを
成功に導きました。

1970年代 新日鉄釜石で
選手兼監督として大活躍した森さん。

高校時代からラグビーを始め

明治大学卒業後
新日鉄釜石を日本一に導き

黄金時代を支えました。

現役引退後 地元 福岡高校ラグビー部の
監督に就任します。

前へ前へ ボール。

一方 90年代
日本ラグビー界の人気は低迷。

ニュージーランドに大敗すると
ますますファンが離れていきました。

2015年 日本ラグビーフットボール協会
副会長に抜てきされた森さん。

その年のワールドカップでは 日本が

なんと 優勝候補 南アフリカに
番狂わせの勝利。

その4年後 森さんは
日本でのワールドカップ開幕の年に

会長に就任。

日本は ついにベスト8にまで
のし上がったのです。

負け続きだった日本ラグビーに
勝利をもたらした森さんと

負け戦から天下人になった家康の知恵を
読み解いていきましょう。

こんばんは。

こんばんは!        どうも。
いらっしゃいませ。   いやいや。

お待ちしておりました。
どうも ありがとうございます。

いらっしゃいませ。  こんばんは。 すごい。
どうも こんにちは。

何か先生 森さんって
家康と ちょっと似てません?

私も思いましたよ それ。
ねえ!

言われたことあります?
いや ないですよ。

まあ それにしてもね
去年のラグビーワールドカップ

大変な盛り上がりでしたけれども。

まさか こんなになるとは思わなかった。
あっ そうですか?

選手たちは ベスト8行ってやるみたいな。

本当 大丈夫かなと 軽々しく言って
みたいなところありましたよ。

そんな中でベスト8を成し遂げたのは
なぜなんですか?

合宿をですね 年間やっぱり
240日 寝食共にしてるんですよね。

やっぱり 心一つっていうか
思いに向かって

ジェイミー…
ジェイミーって監督ですけども

ジェイミーが いっぱい引っ張った
ところじゃないかなと思いますね。

こんな盛り上がっていくなんて
思いもしなかったですし

一戦一戦 選手の一人一人の顔が
見えてくるというか

キャラクターが出てくるので
やっぱり愛しちゃいますよね あんな。

すごかったですね 本当。
キャラぞろいですよね また。

当事者としても びっくりした…。
あ~ そうですか。

さあ 今日はね 徳川家康の知恵を
読み解いていこうと思うんですけれども

加来さん
この よく見る家康ではなくて

今回は こちら この「顰像」。

はい。 我々が学生の時は…

最悪の状況を形に残すっていうことは
ありえないといわれたんですね。

最近の論文では 一世代あとじゃないか
というふうにも

いわれてきたんですけども まあ 私は
やはり 家康らしいなという気がしますね。

彼がやっても おかしくないなと。
そのぐらい…

さあ 今日はね その失敗をプラスに変えた
家康の知恵を見ていくわけなんですが

用意したメニュー こちらでございます。

ほう。
高野豆腐って失敗なんですか?

そうなんですよ。   へえ~ 知らなかった。
こちらなんですけどね。

諸説あるんですけれども
高野山のね 宿坊の料理担当の僧侶が

豆腐を外で凍らせてしまって… で
それを調理して食べたら おいしい

ということで生まれたのが
高野豆腐ということで。       なるほど。

ある意味 失敗から生まれた
「高野豆腐DEカツ!」と。

いいじゃないですか おいしそうだし。
本当ですか?          はい おいしそう。

ちょっと メニューで褒められるの
久々だなと思って。

ちょっと甘かったかな。

では 失敗から学んだ
家康 最初の知恵を見てまいりましょうか。

今の愛知県
三河の松平家に生まれた家康は

幼い頃から過酷な運命に翻弄されます。

三河は 西は織田家 東は今川家という

強大な勢力の間に挟まれた弱小国。

当時 松平家は今川家の傘下にあり

家康は 8歳から12年もの間
今川家の人質となります。

しかし とらわれの身でありながら
家康は

いずれ 故郷 三河を統治したい
という思いを募らせていたのです。

そんな中 家康に大きな転機が訪れます。

永禄3年 桶狭間の戦いで
今川義元が織田信長に敗れたのです。

家康は これを機に三河に戻り 独立。

更に 今川の領土だった遠江

今の静岡県の西部地方にまで
勢力を広げます。

元亀元年 29歳の時には
堅固な浜松城を築いて 本拠としました。

そして
今川を倒した織田信長と同盟を結び

信長の天下取りに
積極的に協力していきます。

しかし 多くの戦国武将たちが
領地拡大をもくろむ中

三河の隣国
甲斐の武田信玄が動き始めます。

その時 信玄は
天下統一を目指していた節があり

将軍 足利義昭と連携
信長を討ち滅ぼそうとしていました。

そのためには 同盟者の家康を
まず たたき潰さねばなりません。

家康と戦わずに西に進めば

信長との間で挟み撃ちにされる危険性が
あったからです。

元亀3年10月 信玄は出陣。

およそ3万の軍勢で
家康の領地へ侵攻を始めます。

武田信玄は その人望と統率力によって
多くの合戦を勝ち抜いてきた名将。

風林火山を旗印とした信玄軍は
戦国最強と恐れられていました。

この時 信玄は52歳の大ベテラン。

一方 家康は経験値の低い 31歳の若手。

兵力 経験ともに 差は歴然でした。

信玄は 二手に分かれ
数日の間に 三河と遠江の城を落とし

浜松城を拠点とする
家康の逃げ道を遮断します。

ここで家康は 不可思議な行動をとります。

なんと…

しかも その数…

通常 偵察のためだけに それほどの数の
兵を動かすことはありません。

一体 なぜ家康は3千の兵を率いて
偵察に出たのでしょうか。

更に家康は こんな甘い考えを
持っていたのではないでしょうか。

「信玄は
三河 遠江の地理に不案内なはず。

たとえ攻撃されても すぐに逃げれば
とても追いつけないであろう」。

ところが 家康の動きは
信玄に筒抜けでした。

信玄の息子 武田勝頼の軍勢に
三箇野台で見つかり 攻撃を受けます。

家康軍は浜松城へ向かって
いちもくさんに撤退しますが

信玄軍は 猛スピードで追撃。

すぐに一言坂で追いつかれ 両軍は衝突。

家康は やっとの思いで
浜松城に逃げ帰りました。

自国の領土にもかかわらず
すぐに追いつかれた家康。

その後も…

信玄は たとえ家康が
若く経験値が低い武将であっても

手を緩めず
自ら抱える忍者や偵察隊を配置し

くまなく家康の領地をリサーチしたと
いわれています。

特に地形については 地図や絵図を描き
詳細を明らかにしました。

武田信玄の軍法書「甲陽軍鑑」には
次のようにあります。

信玄軍が一言坂で 逃げる家康の偵察軍に
追いつくことができたのは

信玄の綿密なリサーチが功を奏し

事前に逃げ道を把握できていたからとも
考えられます。

元亀3年12月22日。

信玄軍が
いよいよ 浜松城へと進撃を始めます。

この時 籠城戦を決め込んでいた家康は
城の中で待ち構えていました。

しかし 急な知らせが入ります。

信玄軍が7キロ手前で進路を変え

浜松城を通り過ぎ
西へ進んだというのです。

家康が いぶかしがっていると
信玄軍は三方ヶ原台地に上り

北西へ更に進んでいきました。

ここで家康は 城を出て
信玄軍を追いかけます。

信玄が向かう先には
急峻で細い坂道しかないことを

家康は知っていました。

ここを信玄軍が行くならば
上から攻撃し

あわよくば勝てるかもしれないと
考えたのです。

しかし 三方ヶ原を上ったところで
家康軍が見たのは…。

無数にはためく 風林火山の旗印。

信玄軍は 坂を下りる直前で身を翻し

僅かな時間で陣を組み
家康軍を待ち構えていたのです。

全ては 信玄の策略でした。

こちらが三方ヶ原絵図になります。

江戸時代に描かれた貴重な絵図が
浜松市に残っています。

三方原台地をですね…

この場所まで家康を招き寄せたことも
リサーチによる信玄の策略でした。

三方ヶ原台地の東側には
切り立った崖があります。

西側から家康軍を攻めれば
退陣するのは難しく

追い詰めることができると
信玄は考えたのです。

綿密なリサーチによって 信玄は三方原を
決戦の場としたのだと考えられます。

家康は 地形を把握していた信玄の策略に
まんまと引っ掛かってしまったのです。

三方ヶ原台地で向き合った
信玄軍と家康軍。

勝負は 合戦前に
既に決まっていたようなものでした。

家康の戦いぶりは
次のようだったと記録されています。

「歯を食いしばり
時に 泡を吹き

兵を激励し
退陣をしようとしても

返り討ちを何度も受けて
疲れきってしまった」。

たった2時間の戦いで
甚大な被害を受けた家康は

浜松城に ほうほうの体で
逃げ帰ったのです。

信玄のリサーチ力に
完膚なきまでに敗れた家康。

しかし この失敗が
後の家康を作っていったのです。

こんなこともあったんだっていうことが
知りませんでしたし

信玄という人の 若いから家康を侮るとか
そういうことは一切ないんですね。

だからこそ あれだけの強さを
誇ったんだなって思いますし…

森さん ラグビーのお話を
伺いたいんですけれども

ラグビーの何かこう
昔の青春ドラマのイメージだと

何か 精神論で語られるようなところも
あるのかなっていう気が

したんですけれども その辺り
昔と今と こう比べて…。

もう全く変わったですね。
あっ そうですか。

僕らの時の高校時代なんていうのは…

やっぱり そうなんですね。
ええ。 「とにかく走れ!」とか

「走り過ぎて死んだやつはいない」とか
もうすごかったです。

でも それがあったからこそかも
しれませんけども

今は やっぱり世界的に…

例えば この前の
ワールドカップなんていうのは

上から こう スパイダーカメラ
バ~ッと行くんですけども

そのVを みんなで分析して。

じゃあ 俯瞰して どういう動きを
どの選手がしてるかっていうのが

全部 両チームが分かる…。
映像で はい 分かるんです。

終わってから録画見て「あ~ やっぱり
あいつ走ってない」とか 大体。   そうか。

例えば スクラムは
どっちの方向に行ってるとか こう。

僕らの時は スクラムなんていうのは
とにかく「端に押せ!」みたいな。

「いや 力がこうなってるから
こうなってる…」そういう はい。

まあ そう考えると 加来さん

信玄のリサーチ力 かなりすごかったと
言えるんでしょうかね?

実兵力を持ってなかったんですね。
そのために やはり…

彼にとっては…

いろんな人間と必ず
できる限り会うようにしてるんです。

情報を復元的に捉えていきながら…

それが やっぱり信玄の
すごいところだと思いますね。

逆に家康の方がですね
考えついたのは 信長なんですよ。

自分は もう31だと。

混乱して しかもカ~ッとなって
考えてるもんですから

冷静さがないわけですね。
追いかけていって

下から落とせばいけるだろう…
上から落とせばいけるだろうと。

ところが 向こうは
待ち構えているわけですよね。

そこへ突っ込んでしまうわけですね。
負けも いろいろあると思うんですが…

大敗。 1995年の145点は
よかったんですね。 大敗は。

ラグビーに置き換えれば
そうかもしれません。

でも 負けて「あ~ いい負けだったな」
というのもあるんですよ。

ラグビーっていうのは。
もう自分たちが全部出した時ですよね。

例えば この前の南アフリカの試合の

決勝リーグで行った時の
南アフリカとの試合

二十何点だった…
開いたんですけど

あの時は
「俺たちはやった」っていう

達成感みたいなものがありますよね。

いいですね それは最高の負け方ですよね。
すばらしい相手を本当に褒める。

三方ヶ原の時の家康も 信玄に対しては
そういう気持ちがあったと思いますよ。

立ち居振る舞いから軍略兵法
最後は家臣団まで全部ですね

うちへ来いってことで
引き込むわけですよね。

中井さんもね アナウンサーとして

スポーツの現場とか行かれること
多いと思うんですけれども。

やっぱり それはアナウンサーとしては

準備を どのぐらいしていくか
というのは すごく大きいので…

どんなことがあっても
慌てない自分でいられる。

だから データとか その準備が
よりどころになるっていうことは

あるかと思いますね。
野球の話もね

ちょっと ご主人のお話も
伺いたいんですけれども

古田さんといいますと
野村監督のID野球を

引き継いでらっしゃるのかな
と思うんですけれども。

彼が今 誰か こう 下の人に教える時
子どもたちに教える時も…

すごく言ってます。
あとは もう出てみないと分かんない。

出たとこ勝負。 でも リサーチと
それから出たとこ勝負の勘ですかね。

アスリートとしての勘の両方がないと
勘が崩れた時に総崩れになっちゃうけど…

あとはチームメートを信頼する
ということらしいですよ。

なるほどねえ。

いいこと言うなって思いながら
聞いてますけど 多分

野村監督に言われたことが 多分
自分の中の基盤になってるのかなとも

端から見ると思いますね。

森さんは 失敗 負けから
反省して教訓とするようなこと…。

ええ もちろんありますよ。
僕が現役の時だったら

例えば 日本選手権の決勝で負けるとか
何か そういうのはあるんですよね。

その時に…

で 勝った時に どれだけ喜ぶかみたいな。
よく勝って… 僕 よく言うんですけど

勝って兜の緒を締めない方がいいぞ
みたいな。

喜ぶ時は喜べよみたいな。
なるほど。

だから その時は その時で
勝った時でいいんですけど

負けた時は やっぱり みんなで反省して
やっぱり 次戦うべく

その練習しなきゃいけないんだと
思うんですけどね。

さあさあ 家康の三方ヶ原の戦いに
ちょっと話を戻しますけれども

信玄の陽動作戦があったとはいえ

みすみす負けると分かっていて
出ていくのは

ちょっとリスクがあるかなと
思うんですよね。         そうですよね。

あの状況で 家康には

出陣しなければならない理由があった
ということなんです。        へえ~。

三方ヶ原の戦いで
武田信玄に大惨敗した徳川家康。

しかし 城にとどまって
籠城する選択もあったはずです。

信玄の陽動作戦が巧みだったとはいえ…

家康は 何が何でも
信玄と戦わなければならなかったのです。

三方ヶ原での合戦直前
浜松城での家康の様子を見てみましょう。

信玄が急激な勢いで
遠江に侵攻してきた時

家康は浜松城で
籠城の準備を進めていました。

信玄は浜松城の手前にある二俣城を攻め

陥落に2か月を要していました。

家康は 堅ろうな浜松城であれば
もっと長い時間持ちこたえることができ

信玄を足止めできると考えていたのです。

それを忠実に守ろうとしたんだ
っていうことですね。

しかし 信玄軍は
浜松城を素通りしてしまいます。

この時 家康は
激しく憤ったといわれています。

戦国時代 侵攻する行く手にある城は
必ず落として進むのが定石だったのです。

メンツを潰された家康ですが

追ったところで
勝つのは かなり難しい戦い。

籠城すべきか 信玄を追うべきか
ジレンマを抱えます。

家康は この時 合戦すると決意。

家臣たちも同じように
悔しい思いを抱えていましたが

「信玄は合戦慣れしています」と
口々に引き止めました。

家康は こう言います。

「信玄は我が城を素通りするのに

城内にとどまるのは 情けないことだ。

負けるかもしれないが 合戦すべき」。

このまま信玄を見逃せば 笑い者となり
家臣も離れていくかもしれない。

後に忠誠心が強いといわれた
三河武士団も

当時は
決して一枚岩ではありませんでした。

実は 永禄6年

家康の本拠地 三河で
一向一揆が起こった時。

後に重臣となった本多正信らに離反され

敵対したこともあったのです。

更に 信長の同盟者として

信玄を
やすやすと通すわけにもいきません。

足止めせよという信長の命令に
背くことになってしまいます。

家康は…

そして 三方ヶ原台地へ進撃した家康を

信玄は3万の軍勢で
待ち構えていたのです。

しかも 何層にも陣を重ね
中央突破をねらう魚鱗の陣。

対して1万1千の家康軍は

鶴が翼を広げたような
鶴翼の陣を敷きます。

少ない軍勢でも
周囲を囲い込むことによって

信玄軍を抑え込むことができるかも
しれないと考えたのでしょうか。

苦肉の策で挑みました。

午後4時
戦いの火蓋は切って落とされました。

先に動いたのは 家康軍。
魚鱗の陣の細い先頭を切り崩します。

しかし すぐに信玄軍が
側面から縦横無尽に攻撃を開始。

兵の数が少ない家康軍は
たちまち陣形を崩されて

後退せざるをえなくなったのです。

負け戦が決まると
家臣たちは家康の命を守るため

一丸となって家康を囲み
退陣させようとします。

しかし 信玄軍の追撃の手が
緩むことはありません。

「徳川実紀」に 次のようにあります。

ここで討ち死にすると言って
きかない家康を

家臣の夏目吉信が
無理やり浜松城へ向けさせると…。

と言って
身代わりとなって討ち死にした。

また 家康が身にまとっていた
朱色のよろいを目立つからと言って

家臣の松井忠次が自分のよろいと交換し

家康を逃がしたと伝えられています。

家臣たちは 命をかけて

家康を
なんとか 浜松城まで逃がしたのです。

その後 家康は
籠城する覚悟を決めたものの

信玄が浜松城を攻めてくることは
ありませんでした。

2か月後 信玄は病死。

家康は 辛うじて
城を守ることができたのです。

後に 家康の家臣らの戦いぶりを見ていた
信玄の重臣 馬場信房は

こんな言葉を残しています。

この三方ヶ原の戦いのあと…

多くの兵を失った家康。

しかし 負けることが分かっていても
出陣を決めた家康のもとで…

後に徳川四天王とも呼ばれる

本多忠勝 原康政も そこにいました。

ここに 家康への
忠誠を尽くしたことで知られる

三河武士団の基盤が確立したのです。

こんな逸話が残っています。

きらびやかな調度品に囲まれた
豊臣秀吉に

「徳川殿の宝は
なんでござる」と

聞かれた家康は
次のように答えました。

家臣たちの支えが 家康を天下人とする
大きな力となったのです。

こうやって「宝が社員だ」みたいなことを
言うっていうのは

少ないんじゃないかなと思うんだよね。
立派な人だなと思って。

これは かっこいいですね。
家康っていう人をかっこいいって

あんまり
実は思ったことなかったんですけど

なくしたものを いたずらに悲しむとか
っていうだけじゃない

ここにあったものを
確かに自分のものにして

前を向いて生きていくっていう生き方は

ちょっと とっても
かっこいいんじゃないですか この人。

こんな ちょっと情があるというか
びっくりしました。

加来さん 当時 自分の城を通り過ぎて
行ってしまうっていうのは

かなり屈辱的なこと?
それは間違いないですね。

…ということになりますからね。 家臣も
頭にくる人が多かったと思いますね。

その家臣の話ですけれども
一枚岩ではなかったっていうのも。

徳川というと三河武士っていうことで
統一されてるように言うんですけども

例えば 家康自身はですね
松平党なんですね。

ところが家康自身は
やっぱり総大将ですから

自分あってのという見方があるんですね
どうしても。

先ほどありましたように…

許さないで それを もし罰したらですね
やっていけなくなるわけです。

しかたなく許したけれども
内心は やっぱり人間不信なわけですね。

俺が やっぱり頑張らなければと
思ってたんだけれども

三方ヶ原やってみたらですね
結局 助かったのは

家臣のおかげなんですね
命が助かったのは。

ここで初めて 彼は分かったと思いますね。

でも 家臣たちも
命をかけて守ろうっていう

その思いっていうか そこまで家臣たちを
思わせたのは どうしてなんですか?

やはり カッとなりやすいし
爪かみながら悩んで

もう どうしようもないけれども
最後 突っ込もうとなったと。

その思いが やっぱり家臣たちには
納得するものだったんでしょうね。

それを見た時に周りの人間が
それでも思う

ある種のかわいらしさというか。 家康を
「よし なんとかしてやろう」という

気になったんじゃないかな
という気がしますね。

俺たちが ふがいなかったから
親方様に こんな…。

まあ 一番悪いのは
家康だと思うんですけどね。

負け戦で大変な目に遭ったんだけれども…

信長 秀吉 家康の3人の中で…

家康は負けたけれども 挑んだというのが
これ ず~っと残ってくるわけですね。

武勇伝ですよね 何かね。
将来の天下人になることを考えれば

これは すごくいいものを拾ってる部分は
あるんですね。  へえ~。

僕と全然似てないですね。
そうですか?     お顔だちは似てるのに。

顔だちは…。
でもね 僕 145点やられたら もういいと。

世界は もう強すぎると思うんですけど

それを諦めなかったスタッフとかが
すごいなと思うんですね。

恐らく家康の周りも
そうだったんでしょうね。

日本一強いやつと どの程度まで戦えたか
というのがあって…

去年のワールドカップに例えると

やっぱ リーチマイケルが主将で
率先してタックル行ったんですね。

タックルって痛いと分かってて
行かなきゃいけないですからね。

痛そうですね。
トライは 飛び込めばいいわけですから。

やっぱり キャプテンが体痛めて
相手の攻撃阻止するといった時に

部下が やっぱり
俺たちも行こう 俺たちも行こうって

なってくるんですよね。
その思いっていうのが ものすごい思い。

チームとして
やっぱり すごい士気になりますよね。

だから リーダーがやらないと
やっぱり駄目だと。

リーダーが引っ張るっていう大切さ。

それと 一方で 弱い部分を
みんなで補完し合うみたいな。

あのですね
弱いところを補完するっていうのはね

やっぱり 弱いチームなんですよ。
ほうほう。

だから やっぱり強いとこっていうのを

みんなが出せるような
チームにならなきゃ。

弱いところを
誰かに補完してもらおうと思ったら

駄目じゃないかなと思うんですね。
ほうほう。

だから 自分ができることは
100% 120%やる

というようなことじゃないと
あんなチームになれないと…。

いいチームだなと思ったんですね。

それが みんなニコニコ ニコニコして
やってるんですよ。

その中にも真剣さがあって。
ええ。

だから ああいう結果になったと思います。
そういうことなんですね。

でも 加来さん
戦いの話に戻しますけれども

結果として 家康は
命が助かったわけですけれども

これ 命を失ってしまっては
元も子もないなと思うわけですよね。

非常に危険な賭けとも。
はい。

しかし 得るものは大きかったと
思いますね。 結局ですね…

知らなかった。
前の日に
家康が釣り出したんですけれども…

このまま佐和山城を抜いて
大阪城へ出るというふうに

噂を流すんですね。
で 釣り出されて出てきよるわけです。

そういう情報は どこから来るんですか?
SNSとかない時代ですから。

こういうことやったみたいな。

ありとあらゆる伝達を使いましてね。

なるほど。
じゃあ もう始まってるわけですね。

合戦が始まる ずっと前から
いろいろなことが始まってて

最終的にガチンコになるだけで。
試合もそうだと思うんですけども

始まってる時のコンディションというのは
それ以前が決めるわけですからね。

ありますよね。 誰かがね 主力選手が
ケガしたらしいとか 風邪気味とか

必ず大きい試合の時 流れますもんね。

なるほどねえ。 森さん
今回はね 家康の知恵が

リサーチが肝心
そして 命をかけてでも名をあげるべき

ということだったわけなんですけれども
どうですか?

いや… 本当に大げさなんですけど

やっぱり 彼らが
例えば ワールドカップの時に

戦う時 命かけるっていう気持ちで
やらないと駄目なんですよ 本当に。

みんな 命かけてやったと思うんですね。

で やっぱり そこら辺の命かけてやるから
みんなに伝わってくるっていうか

あれだけ応援して頂いたっていうのが
あると思うんですね。

だから それは高校生でもそうだし
大学もそうだし 社会人もそうだし

それで国代表もそうだし。

あ~ 確かに。
あまりないからですね。

でも それを経験できたのは幸せですよ。
ええ はい。

何かあるんですか? 命がけ。
この瞬間は 俺 命かけたなみたいな。

命かけて この店 切り盛りしないと…。
それは確かにそうですよね。

先人たちがね 連綿とつないできた
お店ですから。

三代続いて 私で四代目ですから。
頑張らないと。

ちっちゃなことで
くよくよ悩んでる場合じゃないですね。

よかった。 元気出ましたか?
ああ 何か いい力を頂きました。

いや 今日は
ありがとうございました。

(3人)ありがとうございました。
またお待ちしております。


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