英雄たちの選択「織田信長・逆境が生んだカリスマ」桶狭間の戦い、上洛作戦、姉川の戦いに着目。ピンチをチャンス…


出典:『英雄たちの選択「織田信長・逆境が生んだカリスマ」』の番組情報(EPGから引用)


英雄たちの選択「織田信長・逆境が生んだカリスマ」[字]


数々の試練を乗り越え、戦国の覇者となった織田信長。桶狭間の戦い、上洛作戦、姉川の戦いに着目。ピンチをチャンスに変えた信長の選択から、逆境に打ち勝つヒントを探る。


詳細情報

番組内容

戦国の覇者、織田信長。しかし、その生涯は実は逆境の連続。それらを克服することで、信長は強いリーダーに成長していった。今回、特に注目するのは三つの危機。10倍以上の今川の大軍に勝負を挑んだ桶狭間の戦い。周囲を敵に囲まれる中で断行した上洛作戦。不意の奇襲攻撃を受け窮地に立たされた姉川の戦い。信長は、どのようにして試練を乗り越えたのか。未曾有の国難にある現在、逆境に打ち勝つヒントを信長の選択から探る。

出演者

【司会】磯田道史,杉浦友紀,【語り】松重豊


『英雄たちの選択「織田信長・逆境が生んだカリスマ」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

英雄たちの選択「織田信長・逆境が生んだカリスマ」桶狭間の戦い
  1. 信長
  2. 上洛
  3. 本陣
  4. 義元
  5. 義昭
  6. 将軍
  7. 家臣
  8. 目指
  9. 権威
  10. 今川
  11. 信長軍
  12. 当時
  13. 今川軍
  14. 時代
  15. 場所
  16. 大名
  17. 浅井
  18. 長政
  19. 一方
  20. 永禄


『英雄たちの選択「織田信長・逆境が生んだカリスマ」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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一人の男が 乱世を制し
やがて時代の覇権を握った。

戦国の革命児 織田信長である。

天下統一を目指した信長。

しかし その前には
数々の大きな壁が立ちはだかった。

僅かな兵力で
10倍以上の大軍に勝負を挑んだ…

周囲を 多くの敵に囲まれる中で
断行した…

そして 不意の奇襲攻撃を受け
窮地に立たされた…

信長は 3つの…

その中で培った…

戦国のカリスマ 織田信長。

数々の危機を乗り越えた信長の選択から
混迷の時代を生き抜くヒントを探る。

♬~

皆さん こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか?

…と いつもなら私の隣に

歴史家の磯田道史さんが
いらっしゃるんですが

今回は 特別編ということで
私 一人で 進行させて頂きます。

今 これまでになく 危機意識が高まり
先の見えない時代になっています。

私たちは それに
どう立ち向かえばいいのでしょうか?

番組では これまでに放送してきた
200本以上の「英雄たちの選択」の中から

そのヒントを探れないか考えました。

今週と来週にわたって 取り上げる時代は
今に劣らない激動期

日本史の大転換点だった 戦国と幕末です。

第1回は 戦国時代
主人公は 皆さんご存じ 織田信長です。

天下布武を目指す信長に
立ちはだかった 3つの危機。

いかにして 信長は
乗り越えていったのか?

リーダーに求められる素質とは?

これまでの番組の名場面を再構成して
お届けします。

それでは
まず 信長の名を天下に知らしめた

桶狭間の戦いから ご覧頂きます。

戦国の覇者 織田信長。

だが 若き日々は
苦悩と不安に満ちていた。

それは 信長 19歳の時に始まる。

天文21年。

急死した父親の葬儀に駆けつけた 信長。

突然 仏前に抹香を投げつけた。

なぜ そんなことをしたのか
定かではない。

父の突然の死が

信長に 重くのしかかっていたことは
確かだった。

信長の父 織田信秀は

守護代の一家臣という低い身分だったが

尾張一国を狙う立場にあった。

力の源泉は 海運の要 津島と熱田を
支配下に治めたことだった。

信秀は 海運を通じて 商業を活性化

莫大な富を得ることに成功した。

ところが 晩年は
美濃 斎藤氏との戦いに敗れるなど

信秀の求心力は 徐々に低下。

尾張統一も 危ぶまれる情勢にあった。

そんな中 父の後を継いだ信長。

しかし 周囲から 大うつけ

つまり
非常識 愚か者として疎まれていた。

戦国史が専門の小和田哲男さん。

当時 信長には
大きなプレッシャーがあったという。

皆さん もう その後の信長見てるんで
もう 何か きぜんとしてね

俺が尾張一国 統一するぞって。

まあ 統一した…
それを守り抜くぞという

自信にあふれていたように
受け取られてるけど

実は そうじゃない。

うごめきだした…

まあ 不安感の心配。

そういったのが ないまぜになっていた
時期ですね あの辺りはね。

不安は的中する。

ほどなくして 一族の離反が始まった。

まず 一族の有力者 織田信友が
謀反を起こした。

それに対し 信長は
信友を切腹に追い込んでいる。

そして 実の弟 信勝。

その謀反の計画を察知した信長は

仮病を使って見舞いに来させ
家臣に命じて 殺害した。

激しさを増す 信長の一族討伐。

造反勢力を押さえるのは
容易ではなかった。

更に信長に 巨大な外敵が迫っていた。

東海一の弓取りと恐れられた
今川義元。

義元は 一族の内紛に苦しむ
信長に対して

攻略の準備を着々と進めていた。

まず義元は 尾張領内にあった
鳴海城や 大高城など

3つの城を 手中に収める。

それは 信長にとって
大きな打撃だった。

伊勢湾沿いに築かれた
鳴海城と大高城。

義元は 尾張の海運の要である
津島と熱田に狙いを定めたのである。

信長は 父から受け継いだ
経済基盤を失う危機に 直面していたのだ。

義元の領国は 駿河 遠江 三河の3か国。

離反した織田方の家臣も組み入れ

石高にすると
およそ100万石にも及ぶという。

対する 信長は
美濃 斎藤氏とも対立しており

まさに 四面楚歌。

援軍を望むべくもなかった。

しかし 信長は あくまでも義元に対抗。

寝返った城の周辺に
善照寺砦など 3つの砦を

そして 鷲津砦
丸根砦を築いて牽制した。

信長の この動きをきっかけに
義元は ついに大軍を動かす。

その数 およそ2万5, 000。

信長軍の10倍以上だった。

尾張に侵攻した義元。

信長にとって これまでにない
圧倒的な兵力を持つ 外敵だった。

永禄3年…

清洲城にいる信長に

今川の動きを偵察していた家臣から
報告が入った。

いよいよ 決戦の時が 近づいた。

どのような戦略で臨むのか

集まった家臣たちは
信長の言葉を待っていた。

ところが 信長は…。

そう言って
軍議もせずに家臣たちを帰らせた。

そう失望する
家臣もいた。

今川軍襲来の報を受けても 動かない信長。

果たして信長に勝機はあるのか?

信長に 選択の時が近づいていた…。

ここで 僕思うんですけど

信長から 織田家は新しくなったっていう
イメージがあるかもしれないけど

これ 僕 間違いだと思うんですよ。

これ 銭を 非常に収入の中心に
据えられている。

あるいは 新しい…
非常に活動的だという点で

信長が偉いとされてることの

初期の半分以上が 実は
お父さんの時に もう出来上がってる。

政治家として このころ
信長 デビューするんですけれども…

不幸なね。ええ。

お父さんの信秀が進めてきた 尾張の統一。

まあ いろんな政策っていうのが
行き詰まって

どちらかというと
どんどん駄目になっていく…

そういった意味では
非常に厳しいと思いますし

信長としては もう逃げ出したくなる
っていうんですかね…。

当時 やっぱり 信長が迎えてた
一番強い敵っていうのは

今川家なわけですけれど…。

当時としては 恐らく 日本最大・最強

といっていいんじゃないかと
思うんですね。

3か国を抑えている 大大名で
家の格式からいいましても

守護の家柄ということで

まず第一に将軍を補佐する
武士としては

最高の位にありましたから 権威も十分。

ですから 信長とは
圧倒的に違ってるというですね…。

翌 5月19日。

清洲城の信長に 今川軍が
鷲津砦 丸根砦を攻撃との急報が入った。

義元は まず 自分に寝返った
大高城を救うため

その周囲の
鷲津 丸根砦を攻略し始めたのだ。

すると 信長は 僅か5騎を引き連れ
清洲城を飛び出すと

砦方面へと駆けだした。

これまでの 「今川迫る」の知らせには
微動だにしなかった信長が

なぜ突然 清洲城を飛び出したのか。

今川軍が 動いてきている
攻めてきているっていうことは

信長 事前に
承知していたわけですけども…

信長が 僅かな手勢で飛び出したのは
あくまで状況確認のため。

もっと 情報が必要だったのだと
考えられる。

途中 善照寺砦に到着した信長は

一旦 ここで馬を止めた。

標高 およそ26mの善照寺砦跡。

当時 ここには 遠くを見渡すための
物見櫓があった。

実は この砦こそ

信長が戦況を知るための前線基地だったと
千田さんは 考えている。

信長の気持ちで 物見ができます。

ちょっと こう
木が生えてしまってますけど

本来は ものすごく眺望のいい場所だった
ということが分かります。

高いところから 今川軍の方向を見ると

鷲津砦 丸根砦のあった場所が遠望できる。

当時の信長が見た景色を 再現してみる。

たち上る煙を目の当たりにして

信長は
2つの砦が陥落したことを確信した。

当時の戦術の常として

義元は 鷲津 丸根砦攻略のためにまず

軍の主力 先陣を送ったはずだ。

一方 大将 義元のいる本陣は
そのはるか後方で待機。

今川軍が二手に分かれる この時を
信長は計っていた。

その瞬間のみですね
今川の本陣が 義元の本陣が

いわば むき出しになっている瞬間が
あったということを

意味してると思います。
その瞬間に賭けてっていうんですかね

まさに その時でないと
攻めかかるチャンスはない

勝機はないっていうふうに
判断したんだっていうふうに思います。

だが 信長は まだ

今川本陣がどこにあるのか
具体的な場所をつかめていなかった。

そして 午の刻 つまり正午ごろ

決定的な報告が 家臣からもたらされる。

鷲津砦と丸根砦の陥落を聞いた義元が
桶狭間山で人馬を休憩させ

謡を3番 歌わせているというのである。

桶狭間山は
先陣から3kmほど離れた場所だった。

地元の地理を熟知していた信長
今川軍が 二手に分かれる構図に

勝機を見いだす。

この時 義元の本陣は およそ5, 000。

対する 信長軍は 2, 000足らず。

今しかない!

信長は ここで最終決断を下した。

そして 檄を飛ばす。

…する 信長軍。
その途中で豪雨が降りだした。

一方 今川本陣は
ちりぢりになって雨宿りの場所を求めた。

迫り来る信長軍に
注意を向ける者はいなかった。

豪雨が収まった時

信長軍は 今川本陣の
すぐ目の前にまで 接近していた。

信長の号令で 一斉攻撃を開始。

不意をつかれ 浮き足立つ今川軍。

信長軍の一人が 義元に
一番槍を突き刺し

もう一人が 首をはねる!

いずれも 信長が育てた精鋭部隊だった。

一方 本陣から離れて休憩していた
2万の先陣は

「義元討たる」の知らせを聞くと
戦意を失って退却した。

信長軍の奇跡的な大勝利。

そこには 敵の情勢を見極め
勝機を逃さない

信長の優れた判断力があった。

戦国の覇者へ。

その第一歩を踏み出したのである。

さあ もう一度 今回の戦いの舞台を
地図でご覧頂きましょう。

さあ 今回の その戦いでは
2回決断の場所があったわけですよね。

まずは 一度 清洲城を
飛び出すというもので

そして そのあと 善照寺砦付近で

最後の決断をするというふうに
なっていたんですけれども

この間に 信長は
どんなことを考えていたんでしょうか。

つまり 信長が 今川に勝てるのは

今川の軍隊が 二手に分かれて

離れてしまう
その一瞬しかないわけですね。

善照寺砦まで やって来て

今川の本陣と
今川の先陣が大きく離れてる状況を

確認してから攻めてますよね。

この段階では もし今川の本陣が
もっと近くてですね

今川の先陣から
見えるところにいたりとか

1km以内のところにいたりすれば

恐らく 僕は…

常識でいうと 鷲津 丸根の砦が
今川軍に攻めかけられたっていえば

信長は 当然 後詰めで
援軍に行かなきゃいけないんですよね。

ところが…

だから これは もう 今川軍としては
あるいは 義元としては

もう信長は
ここを もう 見捨てたんだな

こっちに出てくる気はないな
っていうですね

そういう その
いわば情報っていうんでしょうか

思わせることにはなったと思うんですね。

この信長 本当に 大胆かって
思うことあるんですよ。

危険を見分ける目っていうのが

本当 発達してただけなんじゃないか
っていう気がするんですよ。

特に 戦国期だとか
今も そうかもしれませんけど…

あるいは 古い体制に
しがみついていた時の方が

本当に 一緒に沈没してしまうこと…。

僕ら いろんな震災後
事故や事件に直面して

常識にとらわれないってことは

信長のような「うつけ」になる必要性が
あるかもしれない 僕らは。

うつけになって 考えてみるっていう
姿勢っていうのを

この歴史は 僕らに訴えかけてるかな
っていうのが 今日の感想ですね。

これまで 桶狭間の戦いといえば
一か八かの奇襲作戦で

今川の大軍に勝利できたという
イメージがあったんですが

むしろ その逆で
信長は 独自に情報を収集することで

好機を逃さず 冷静に決断を下して
勝利したということが

非常によく分かりましたよね。

それに ここぞというタイミングで
兵たちに この戦に参加すれば

功名は永遠に語り継がれるであろう!
と 檄を飛ばして奮い立たせたことも

大きかったんではないでしょうか。

信長のリーダーシップの原点が
この戦いにあったように思えます。

さあ 桶狭間の戦いで勝利した信長は
その8年後

ついに天下の大舞台に登場してきます。

後の将軍 足利義昭を奉じて都に入る
いわゆる 上洛作戦。

しかし
そこにも試練が待ち構えていました。

2014年10月。 新発見の史料が公開された。

発見されたのは
信長の上洛に関する書状である。

信長が 将軍候補 足利義昭の要請に応じて
上洛したのは

桶狭間の戦いから8年後
永禄11年のこと。

ところが
発見された書状の年号は永禄9年。

信長は 実際の上洛の
2年も前から義昭を奉じ

京を目指す計画を立てていたことが
分かったのである。

室町時代 京の都で始まった権力争いは

全国を巻き込む大乱へと発展。

室町幕府は 衰退の一途をたどっていく。

戦国時代になると
将軍は しばしば 都を離れ

地方の有力大名に庇護を求めた。

しかし 近年の研究によれば

戦国時代でも 将軍の権威は
十分に保たれていたという。

信長が 将軍の権威を重んじていたことを
示す史料が 残されている。

幕府の家臣の名簿の中に 信長の名前。

権威を
ないがしろにする
イメージの信長も

将軍を支える
大名の一人だった。

信長が上洛を目指したのは

衰退した
室町幕府の再興を図ったからだと

金子 拓さんは語る。

その意味において…

尾張守護代の家臣という
信長の出自は低い。

義昭の要請に応えることは

大名としての正当性を獲得する
絶好の機会となったのである。

だが 桶狭間の戦いで 今川義元を討ち

尾張統一を果たしたとはいえ

永禄9年の時点では
信長の周囲は強敵に囲まれていた。

上洛など 夢のまた夢。

更に 上洛は
京へ義昭を送り届けるだけではなかった。

将軍を守り 都の治安維持を図る。

それには
兵を常駐させておかねばならず

圧倒的な軍事力が求められた。

当時 信長が居城としていた小牧山城。

この城から
信長の上洛に対する

なみなみならぬ決意が
読み取れるという。

近年の発掘調査により

当時の最新技術を使った巨大な石垣が
次々と出土したのだ。

実は
こういった石垣の先端技術というのは

まさに 畿内ですね 京都や近江の国で

古くから発達した技術でありましたから

実は こういう石垣一つをとっても

実は
上洛を計画していた信長というのは

それ以前に…

また 小牧山城には
城下町が整備されていた。

上洛をにらんで いわゆる
兵農分離が行われていたと考えられる。

兵農分離とは

武士を農民から切り離して専門化する
軍制改革。

一般に 戦国大名の軍団をなす兵隊は
農民たちだった。

ふだんは 村で農業を営んでいて

いざ 戦争となると
兵隊として駆り集められた。

一方 信長は いち早く
専業の武士団をつくって

城下町に集めて生活させていたことが

小牧山城の発掘から明らかになった。

兵農分離したことで
農繁期・農閑期にかかわらず

いつでも動かせ 遠征できる軍団が
出来上がっていた。

武士や職人が
それぞれの地元にくっついた

いわゆる
在地的な状況っていうものから

兵農分離いたしまして
小牧に 土地と切り離れて

ここに 信長のもとに従ってくる
そういう家臣団を作る。

単に尾張をいかに治めるか
ということだけではなくって

まさに
京都を目指していた そういった大名に

ふさわしい居城を造るんだという

そういった意図が
隠されていたというふうに

読み直すことができるのではないか
というふうに思います。

上洛を果たすため

畿内の先進技術を取り入れ
軍制改革を推し進めた信長。

周到な準備を重ね
ようやく上洛が実現したのは

最初の計画から2年後のことであった。

う~ん。 今までの歴史では
描かれてこなかった

信長と義昭の上洛の計画っていうのが

2年前にあったっていうことに
驚きですよね。          そうですね。

この時の将軍っていうのは

機能していないっていうようなイメージが
私の中にはあったんですけれども。

これ ちゃんと押さえとかないと
いけないところだと思うんですけど

戦国時代は お互いに
戦で争えば争うほど それを調停したり

あるいは…

確かに このころって
将軍の軍事的な力は低下していって

ほかの大名たちの方が

その力を凌駕していたんだってこと
いわれますけれども

逆に言うと…

そういう逆説もあると思うんですよね。

室町将軍っていうのは
15代あるわけですけど…

もう 常に亡命してる。
それで 逃げていくと

今度は 大体
周りの守護大名の有力なのがですね

軍勢をつけてあげて
京都の中に送り込んでくれる。

それを成し遂げた守護大名は
しばらく権威を保つんだけど

やっぱり また追い出されていく。

そうですね。

ずっと そういう時代で
信長は 生まれて育ってきて

そういうものだっていう考え方は
きっと あったと思うんで…。

自分が ひとつ そういうことを
やってやろうっていうことで引き受けて

それで そういう…

ただ唯一 信長が違うのは…

成り上がりの
小さな尾張の訳の分からん大名である。

なのに それが 守護大名がやってたことが
やれるかという一点が違う点で

やったら
その他大勢から抜け出せるって

こういうことだったんじゃないかと
思うんですけどね。

信長に 上洛しようっていう決定をさせた
一つの背景に

私は 兵農分離があると思うんですよ。
この兵農分離っていうのは

大名の統率力を高めるっていう効果が
あるんですよね。

どういうことかっていうと
それまでは 武器を自分で調達できる

自弁できる農民っていう人たちが
戦争に参加していたので

かなりの部分
大名から自立しているわけですよ。

サラリーマン化するわけですよね
その兵隊が。

養ってもらうという形。
ええ。

もう一つ すごい不思議に思ったのは

信長は
中世権威に近づこうとしたわけですよ。

近づこうとすればするほど

領国を長期に
空けなきゃいけなくなったりするから

小牧山の上に 近世でしか現れない
石垣をはった城をつくったり

それで 美濃の国を
まだ平定なんて とてもしてないうちに

中世の権威に近づくために
都へ入らないといけないから

城下に武士を集めて…

非常に不思議な現象を
僕は見た気がして…。

そういう… 軍事制度に関しても
改革が それによって行われたと。

何か この番組ね 今日 裏テーマはね

その他 大勢から 抜け出す瞬間だと
思うんですよ。

なるほど。

どこかにあるんですよ…

それが どのような構造で
どういう心理状態のもとで

起きてくるのかっていうのは

普通に生活者をしている人間にとっても
極めて 僕は重要な問題だと思う。

永禄11年9月。

信長は およそ4万の大軍勢を率い

立ちはだかる敵を一蹴。

ついに 足利義昭を奉じて上洛を果たした。

10月。

信長の軍事力を背景に
義昭は 征夷大将軍に就任する。

一方
新将軍誕生の立て役者となった信長。

信長の名は 畿内一円に広まり

周辺の武将たちが 続々とはせ参じて
忠誠を誓ったという。

信長が目指した
国のありようを表す言葉がある。

天下を平和にするという意味だ。

信長としては
将軍の秩序を回復するということを

まず目的としたわけですので…

ところが 上洛から僅か2年
恐れていたことが起こる。

越前の大名 朝倉の反逆を皮切りに

畿内周辺の有力大名や
寺社勢力が

次々と 信長に
反旗を翻したのだ。

信長は 天下静謐を目指し
戦を重ね 支配地域を拡張していった。

一方 義昭は 信長のすさまじい勢いに
次第に恐怖を抱き始める。

2人の亀裂があらわになったのが
信長が義昭に宛てた十七条の意見書。

義昭の怠慢や悪政を
17か条にまとめ

いさめたものである。

「世間から
悪しき御所と陰口をたたかれている」

などと義昭を注意している。

以後 信長と義昭の関係は
悪化の一途をたどった。

そして ついに 義昭が
信長に対して兵を挙げる。

しかし 信長の圧倒的な軍勢の前には
降参するほか すべはなかった。

元亀4年7月。
信長は 将軍 義昭を都から追放。

ここに
室町幕府は崩壊したと考えられている。

義昭を殺さず 追放にとどめたのは

将軍の権威を恐れ

謀反人と見なされることを
避けたからだともいわれている。

以後 信長は 将軍の権威によらず
天下の静謐を目指した。

新しい天下人の姿であった。

そのためには 徹底的な準備をすると。

求められることに応じるために
手を抜かないってことですよね。

その… 何て言うんですかね
堅実さっていうのを 逆に感じましたよね。

大胆さというよりは 堅実さですね
ここに現れているのは。

やっぱり
信長は 古い室町幕府は作るんだけど

やっぱり そこは 信長なのはですね

天下の人々の外聞ってことを
言いだすわけです。 世論というかな。

逆を言うと 世の中の人は
こう考えてますよということで…

…という論理を
上にいる義昭にぶつけるわけですから

やっぱり 両者の関係が
永久に長く続くということは

なかっただろうと思いますね。
その点では 信長っていうのは

古い秩序を奉るくせに

古い秩序が思うようにいかなくなると
下側の外聞というものを持ち出して

それを壊そうという動きに
出てくるという。

「民主政治家か お前は」という…。

私が強く思うのは…

新しいことを目指して
あるいは 革新を目指して

実際に革新をするということは
そんなにはなくてですね

そうではなくて
今の秩序 これまでの秩序の中で

なんとか生き残っていこうということで

徹底していくと
その生き残り戦略を。

そうすることによって 最終的には…

そうか。 今日は
「もがけ。 さすれば 信長のように

新しいことができるかもしれない。
とにかく もがきましょう」という。

信長といえば
古い秩序や価値観を徹底的に破壊して

新しい時代を築いていったという
イメージだったんですけれど

そうじゃなくて…

何とも新鮮な信長像でしたよね。

足利義昭を奉じて
上洛を果たした信長ですが

更なる試練が待ち受けていました。

信長にとって 生涯最大の危機の連続
金ヶ崎の退き口と姉川の戦い。

私が 「英雄たちの選択」に
デビューした回でもあります。

どうぞ ご覧下さい。

足利義昭を奉じ 上洛を果たした信長。

将軍の権威を背景に
信長は畿内周辺の諸大名に

上洛を命じる書状を出した。

これをはねつけたのが 朝倉義景。

かつて 足利義昭の後ろ盾となっていた
越前の雄である。

信長の上洛勧告に
朝倉側は こう応えたとされる。

「これは
上意にあらず。

信長の謀略である」。

永禄13年4月。

信長は 3万の大軍勢を率い
朝倉討伐のため 京を出陣した。

目指したのは
今の福井県敦賀市。

陸上交通と
北国海運の要である。

朝倉氏にとっては
畿内への玄関口でもあった。

信長は力攻めで
敦賀にある朝倉方の金ヶ崎城を攻略。

ところが この時 信長のもとに
驚愕の知らせがもたらされた。

妹婿で 北近江を治める浅井長政が
裏切ったというのである。

長政裏切りの報に接した信長は
こう答えたとされる。

「虚説たるべき」。

つまり 裏切りをうそだとして
報告を信じようとしなかったのだ。

当時の史料には こうある。

「浅井は近年
信長の家来
となり

心の隔たりなく
つきあってきた」。

というようなことも含めて…

という部分が一つあって

信長に敵対する
気配を見せるというところまで

いったんだろうと思いますね。

朝倉攻めを優勢に進めている信長。

しかし 長政の裏切りが事実なら

形勢は一気に逆転する。

長政が南から敦賀に攻め入れば

朝倉との挟撃は免れない。

西には敵対する若狭の武将たちも多い。

更に撤退路を琵琶湖にとろうにも

水運を支配するのは長政。

四方を囲まれ
信長はまさに袋のネズミとなる。

この時 信長は即断即決。

家臣に後事を託すと 南西に向かい
いちもくさんに駆け出した。

京まで およそ100kmの道のり。

信長の撤退戦 金ヶ崎の退き口
その始まりであった。

信長を京まで逃がすため
困難な殿を受け持った家臣たちがいた。

木下藤吉郎 後の豊臣秀吉や明智光秀

更に 徳川家康が
その任に当たったとされる。

若狭街道を南下し
京へ無事たどりついたのは

長政の裏切り発覚から
3日後のことだった。

この時 信長に付き従った者は

僅か10人ばかりと
記されている。

当時来日していた宣教師の記録には
こうある。

いよいよ 姉川の戦いの幕が
切って落とされようとしていた。

いや~ 信長というと 順調に

天下人の階段を駆け上っていたように
思っていたんですが

こうしたピンチがあったんですね
磯田さん。

まぁ ぶざまな退き口 逃げ戦というのは
この戦いで。

本能寺の変と同じ時
同じ言葉を吐いてますよね

「是非に及ばず」 しょうがねえな。

もう腹くくろう
もう しょうがねえなあというふうに

言ったと伝えられますよね。
小谷さん どのように感じてますか。

撤退戦というのは
とても困難なんですけど…

というところにあると
私は思います。

で この時に信長も
まぁ虚説たるべきとは言いつつも

恐らく これ迅速にですね

撤退の決断を下したんだというふうに
推測します。

信長が迅速に決断を下し
信長が統率力をもってですね

秀吉とか光秀に殿を務めさせると。

何で その信じ難い裏切りを
長政はしたんでしょうか。

なぜ裏切ったのか
よく私にも分からないんですけど

最初は こう考えたんですよ。

ところが逆じゃないかと
思うようになったんですよ。

つまり これは信長の周辺の豪族だと…

あれ だいぶ 大変な人だということを

もう どんどん ビンビン
情報としては入ってきちゃってた。

やっぱり 古いキチッとした
構造を持ってる朝倉さんと一緒にやって…

「賛成!」ってなったのかもしれない。

元亀元年6月。

信長は 長政討伐のため

大軍勢を率い
北近江に侵攻した。

同じ頃 朝倉の援軍8, 000が到着。

小谷城近くの大依山に陣を構えた。

対する信長の本陣は龍ヶ鼻。

左手には徳川家康が陣を構えた。

姉川を挟み 浅井・朝倉連合軍と
信長の本陣が にらみ合う形となった。

いや~ これは。

ここから見ますと まさに正面に
小谷城を見ることができます。

それから
小谷城の右側のところには大依山ですね。

あの山の上には 朝倉軍が陣を敷いた
というふうに伝えられる場所であります。

まさに 最前線で織田軍と向き合っていた
ということになるんですけれど…

あちらから見てもですね…

この距離感というのは
すごくよく分かります。

大依山に滞陣していた
浅井・朝倉勢が動いた。

大依山の軍勢が山向こうに移動したため…

この時 信長は
敵の動きをこう読んでいた。

「陣ばらい つかまつり まかり退き候」。

つまり 長政たちの動きを

小谷城への撤退行動だと考えたのである。

だが 長政は撤退したと見せかけ

実は信長の本陣に
奇襲攻撃をかけようとしていた。

信長の本陣にひそかに迫っていた。

そして…。

信長の虚をつく
まさに乾坤一擲の奇襲攻撃である。

浅井軍の猛攻に 押される信長の軍勢。

崩れるのは もはや時間の問題であった。

この時 信長の本陣は
陣杭の柳と呼ばれる場所にあった。

本陣の奥深くまで攻め込まれ

信長が窮地に立たされたことを
物語るものがあった。

浅井家家臣 遠藤直経の墓。

信長に迫り あと一歩のところで
討ち取られた武士と記録されている。

これこそ 浅井長政の奇襲攻撃で
信長本陣が大混乱した証しだという。

陣杭の柳にあった本陣が更に後退して

ここで
遠藤が討ち取られてたということは

その後退した本陣は もうちょっと
南だということになると思います。

桶狭間は うまくいったけど
信長が。

で こっちは
うまくいかなかったというか…

浅井勢に攻め込まれた織田軍。

しかし 信長は戦場を離脱することなく
本陣に踏みとどまった。

この時 信長を支えたのが
家康の援軍。

これにより信長は
反撃を開始した。

結果 浅井軍は退却し
信長は辛くも勝利を得たのである。

時間をかけて 浅井方の城を包囲し
小谷城の包囲網を築いていった。

更に浅井にくみする武将に調略を仕掛け

寝返りを促したのが

後の豊臣秀吉であった。

元亀2年9月。

信長は
浅井長政に味方した比叡山を焼き討ち。

その2年後 5万の大軍勢で
朝倉を滅亡に追い込んだ。

そして 返す刀で 小谷城を包囲。

信長軍の猛攻に
浅井長政は ついに切腹。

享年29の若さであった。

最大の逆境を乗り越えた信長は
領土を拡大

天下統一に まい進していくのである。

奇襲って
スポーツでも奇襲攻撃ってあるので

こう 戦況を変えかねない
重要な攻撃ですけれど

こういう奇襲攻撃あったんですね。
そう だから ラグビーでいったら

信長 ちょっと虚をつかれて
右側に バ~ンと来られたわけですよ。

だけど 時間たってると 後ろ側にいる
ラグビーの選手が駆けつけてきて

それで相手を押し返したと。

それで 引き分けぐらいまで持ってったと
そういう戦いですよ。

通常だったら このぐらいの打撃を与えて
やってきてるものに反撃を加えると

まあ しばらく 信長が
この浅井のいる地域から出てって

濃尾平野に帰ってくれるぐらいに
思ってたかもしれない。

だけど そこは
信長軍と秀吉を見くびってるんですよ。

信長のもとの秀吉は要塞構築の名人で

滞陣 ずっと…

小谷さん この戦いの後の信長
どうなっていくんでしょう。

この時代の信長というのは
要は戦に戦を重ねてるわけですよ。

攻め込むこともあれば
逃げて帰ってくることも

あるわけですけれども。
ひっきりなしですよね。            ええ。

それで多分…

ほう 道路ですか。
ええ。

それまでの街道というのは
どこも曲がりくねって細くてですね

わざと そう つくってあるんですよ
敵から攻められないように

どの国の戦国大名も わざと細くて

ぐにゃぐにゃした道を
つくるんですけれども

それだと やっぱり
逃げる時に気付くわけです。

これは ちょっと進みにくいなと。

ですから こういうことで
織田軍というのは

今後 姉川の合戦のあとにですね

非常に連戦連勝を重ねることが
できたというふうに思います。

ピンチをしっかり
自分のチャンスに変えているんですね。

という結果論ですけどね
…は あると思うんですよね。

姉川の戦いの以後
秀吉は八面六臂の活躍しますよね。

これで 秀吉の出世は決定づけられた。

あと もう一つ やっぱり信長に認められ…

あいつ なかなかやるじゃねえかと

なかなか逃げないなと
三河の兵 強いなと

野戦 特に強いなと。

この評価 相手に強いと
思われるってことっていうのは…

先ほども出てるように
琵琶湖の交通路だとか

そういうのを支配するためには
比叡山と その麓にある

坂本や堅田というところの人たちを
押さえないといけない。

というような人たちが これを契機に

やっぱり
能力が高いということが認められ…

ああ 面白いですね そう考えると。

姉川の戦いでは
まさに逆桶狭間のような目に遭って

窮地に陥った信長ですが
なんとか それも乗り切って

その後は戦法を変えて
こう じわじわと朝倉・浅井を攻め

最後には勝利を収めるんですね。

こうして見てきますと 信長は なにも
初めから天才でも英雄でもなくて

数々のピンチをチャンスに変えることで

天下人への道をつかんでいったんだと
つくづく感じますよね。

やはり 歴史から学ぶことは
たくさんあります。

今の私たちにも通じるところが
本当にたくさんあるんですよね。

土壇場や崖っぷちに立たされた瞬間
本当の人の強さが

見えてくるんじゃないのかなと
感じました。

浅井・朝倉滅亡の2年後…。

信長は 当時最強と恐れられた
武田軍を撃破することに成功した。

その後 信長は巨大な安土城を築き
天下統一事業に まい進。

敵対する勢力には
周到な準備と圧倒的な兵力で臨み

勝利を重ねていった。

新しい時代の扉は
あまたの逆境を克服した男によって

開かれたのである。


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