歴史秘話ヒストリア「福沢諭吉センセイのすすめ」メッセージ「一身独立して一国独立す」に込めた思いとは…


出典:『歴史秘話ヒストリア「福沢諭吉センセイのすすめ」』の番組情報(EPGから引用)


歴史秘話ヒストリア「福沢諭吉センセイのすすめ」[解][字]


1万円札の顔として有名な福沢諭吉。「学問のすすめ」といった著作などを通じ、日本人の「心」を大きく変えた。メッセージ「一身独立して一国独立す」に込めた思いとは。


番組内容

1万円札の顔として有名な福沢諭吉。「学問のすすめ」といった著作などを通じて、日本人の「心」を大きく変えた。下級武士の家に生まれ、猛勉強で西洋の知識を身につけた福沢。欧米を旅する中で、男女差別や身分制度のない社会を見聞。発したメッセージは「一身独立して一国独立す」。学問を身につけて個人が自立し社会も変わるという信念は、その後、隣国・朝鮮にも向けられた。近代日本人の心のもちようをつくった偉人に迫る。

出演者

【キャスター】渡邊佐和子


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歴史秘話ヒストリア「福沢諭吉センセイのすすめ」メッセージ
  1. 福沢
  2. 学問
  3. 日本
  4. 朝鮮
  5. 日本人
  6. 脱亜論
  7. 時代
  8. 福沢諭吉
  9. アメリカ
  10. 実学
  11. 西洋
  12. 当時
  13. 留学生
  14. 年後
  15. 開化派
  16. 自分
  17. 若者
  18. 小川武平
  19. 独立
  20. 悪友


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幕末に撮られた一枚の写真。

若いサムライと異国の少女という
不思議なツーショットです。

そして この若者。

皆さんも きっと
ご存じの人物なのですが…。

♬~

そう 福沢諭吉。

有名な 「学問のすすめ」の作者です。

その書き出しは…。

日本が大きく変わった明治の世。

福沢は この本で 日本人は
いかにあるべきかを説きました。

「学問のすすめ」
その奥深い世界に いざないます。

こちらも福沢が発表した文章
その名は 「脱亜論」。

「東アジアの悪友との関係を絶つ」。

悪友とは 当時の中国と朝鮮。

実に過激な文章ですが 背景を読み解くと
福沢の真意が明らかになります。

日本人の「心」を作った巨人
福沢諭吉の真実です。

「歴史秘話ヒストリア」。
今夜も どうぞおつきあい下さい。

今回 取り上げるのは こちらの方
皆さんご存じの福沢諭吉です。

福沢諭吉が誕生したのは
江戸時代も終わりに近い 1835年。

同じ頃 新選組の
土方歳三や

実業家・岩崎彌太郎が
生まれています。

それならば 福沢も
幕末維新の英雄かというと

ちょっと違うイメージですよね。

でも お札の肖像に選ばれるほどの
偉人です。

なぜ それほど
評価されているのでしょうか。

まずは 福沢の青年時代から
たどってみましょう。

その行動の源は 時代の荒波にも負けない
心と 研ぎ澄まされた感性。

時は幕末 1859年。

江戸の街をひた走る若者がいました。

何とぞ 私を こたびの御用に
お加え頂きたく。

アメリカへのお供に…。

若者の名は福沢諭吉。

幕府が アメリカへ派遣することになった
軍艦・咸臨丸に乗せてもらおうと

必死でした。

「外国航海など言えば 命掛けの事。

自分から進んで行きたいと
言うのであるから

実は あっちでも 幸い
というくらいなことであったろう」。

では 私の従者としてなら
お連れできると思うが…。

それはもう…。

豊前国 中津藩。

福沢は
その下級武士の家に生まれました。

思い悩むことの多かったという少年時代。

中津藩には
特に厳しい身分制度がありました。

「往来で身分が
上の者に会ったら

たとえ雨でも下駄を脱ぎ

道ばたに平伏しなければ
ならなかった」。

なんとかして 未来を切り開きたい。
福沢は 学問に励みます。

今も残る この小さな土蔵で
書物を読みふけりました。

当時 武士に必須とされた
「漢学」に打ち込みます。

ところが…。

圧倒的な技術の差に 西洋の知識を
学ぶべきだという機運が高まります。

「こんな所に誰がいるものか。
もう中津で学ぶものはない」。

二十歳で大阪に出た 福沢。

最新の西洋の学問を教えていた
緒方洪庵の「適塾」に入門します。

後に 日本の近代化を支えることになる
若者が数多く集った適塾。

福沢も なりふりかまわず学びました。

それから3年。
福沢は 江戸にいました。

そして アメリカに派遣される
幕府の使節団に同行することを

許されたのです。

使節団一行が向かったのは

アメリカ西海岸の
サンフランシスコでした。

福沢たちは
近代的な工場などに案内され

最新の工業技術を説明されます。
しかし…。

「そういうものは
日本人の

夢にも知らない事
だろうと思って

見せてくれた
ところが

こっちは ちゃんと
知っている」。

「少しも驚くに足らない」。

西洋の科学技術については
適塾で勉強済みだった福沢。

むしろ 驚かされたことは

アメリカ人社会や
日常生活の中にありました。

ある時 福沢は アメリカの初代大統領
ワシントンの子孫が

今 どうしているか 聞いてみました。

相手は こう答えました。

さて… 確か女性がいて
誰かと結婚したと思うが…

よくは知らないねぇ。

福沢は 衝撃を受けます。

日本の徳川家は
代々 権力の座にあるが

アメリカは ワシントンの子孫が
無名の庶民になっている!

更に驚いたのは…。

とあるアメリカ人家庭を
訪問した時のこと。

日本では ありえない
夫婦の姿を目の当たりにします。

「なんとも不可解なことだが

おかみさんが座り込んで
客の相手をする一方で

ご亭主は もてなしの支度で
あたふたと走り回っている」。

日本では当たり前とされる
男尊女卑も身分制度も

アメリカにはない。

福沢は 国が変われば

社会の仕組みや人の考え方も変わることに
気づいたのです。

およそ2か月の滞在を終え
帰国する船の中。

福沢は 仲間たちに
あるものを見せびらかしました。

(福沢)どうだ!
(仲間)お~! 何だ これは?

アメリカの少女とのツーショット。

サンフランシスコの写真館に一人で入り
そこの娘と撮ったものでした。

福沢は 武士の象徴である刀を外し
しかも 少女と横並び。

当時の日本の武士としては
考えられない振る舞いでした。

おなごと このように仲良う並んで
写真に納まるなど

おぬしたちは できなかっただろう。
どうだ。

西洋の 日本とは全く異なる
「精神」に目を向け

自分の行動を修正し始めた福沢。

新しい時代 日本人の心はどうあるべきか
考え始めていたのかもしれません。

常に 時代の先を行くような
福沢諭吉ですが

幼い頃も 当時の常識にとらわれない
子供だったようです。

ある日 お殿様の名前が書かれた紙を
うっかり踏んでしまった福沢少年。

諭吉! おそれ多くも殿の御名を
踏むとは何事だ!

諭吉が悪うございました…。

[ 心の声 ]
殿様本人を踏んだわけじゃない。

名前を書いた紙を踏んだのが
そんなに悪いコトかなあ…?

ならば 神社のおふだなど踏めば
大変なバチがあたるはず。

そう思った福沢は…。

エイッ!

それ見ろ!
やっぱり何も起きないや。

福沢のアメリカ行きから 8年後
時代は明治へと移り変わります。

新時代 福沢は
大ベストセラーとなる本を出版しました。

日本人の「あるべき姿」 「心の持ちよう」を
形づくった その本とは。

時代が明治となって 4年後
日本初の鉄道が開通した 1872年。

福沢は ある本を出版します。

「学問のすすめ」です。

累計部数は
なんと340万部に達したとも。

国民10人に1冊という
驚異的ベストセラーでした。

福沢が この本を書いた目的。

それは
ずっと続いてきた
日本社会の仕組みや

日本人の「心」を
変えることです。

その冒頭は こんな文章。

ですが このあとも重要です。

早速 福沢のメッセージに
耳を傾けてみましょう。

「されども今広く この人間世界を
見渡すに かしこき人あり

おろかなる人あり
貧しきもあり 富めるもあり」。

おい 随分
調子が変わってきたな。

人に上下はないが 実際はある…。

まあ 早合点するな。
ここの所を聞けよ。

「されば賢人と愚人との別は 学ぶと
学ばざるとによって出来るものなり」。

本来 人間は平等だ。

しかし 現実には 能力や貧富の差がある。

そして それは
学問をするかしないかで決まる。

徳川幕府が倒れ
武士が上に立つ時代は終わりました。

四民平等の世を どう生きるか。

本は 励ましの言葉から
始まっているのです。

では 福沢がすすめた「学問」とは
どのようなものなのでしょうか?

それを 福沢は「実学」と記しています。

福沢が 明治維新直前に開いた
慶應義塾が前身です。

塾の教育方針をしたためた
福沢の自筆原稿。

「実学」とは何か
その手がかりがあります。

「本塾の主義は

西洋の実学を
根拠とする」。

「実学」の横の振り仮名は…
「サイヤンス」。

つまりサイエンス 科学です。

実学 サイエンスの例として

福沢は 地理学 物理学 歴史
経済学などを挙げています。

福沢の言う実学は 合理的に物事を考える
学問ということだったようです。

福沢諭吉 奥の深い人物だねえ。
お前が言うか。

(笑い声)

新しい時代を生きる日本人に向けた
「学問のすすめ」。

たくさんの人々にとって
生きる道しるべとなりました。

千葉県成田市 長沼。

150年ほど前 ここに住む農民が
東京の福沢のもとを訪ねました。

小川不二夫さんの4代前の祖先
小川武平です。

不二夫さんに
当時 長沼の人たちにとって

とても大切だったものを
見せてもらいました。

広さ300ヘクタールの沼 長沼。

隣接する長沼村の所有とされ
取れる魚は 重要な収入源でした。

ところが 明治維新直後の混乱期

周辺の村が
自分たちも利用したいと運動。

その結果 国有地とされてしまいました。

沼の恵みを失った長沼村の暮らしは
困窮します。

そんな時…。

村の役員だった小川武平が
たまたま買い求めたのが

「学問のすすめ」でした。

「一身の自由を
妨げんとする者あらば

政府の官吏も
はばかるに足らず」。

自由… 政府もはばかるな…
福沢先生なら…。

小川武平は すぐに上京します。

で 遠く成田の方から
わざわざ私に頼みたいこととは?

はい 実は…。

小川は これまでのことを話しました。

県の役人に村の事情を訴え
沼を返してくれるよう懇願したこと。

しかし 全く相手にされなかったこと。

私どもには
もはや手だてがございません。

なんせ無学で
書くことも弁舌もヘタで…

思っていることを
ロクに伝えることができません。

なに そんなことはありません。

話は分かりましたが
こうした権利の争いは

どこまでも
やり通す考えでいなければなりません。

それでも やりますかな?

ハイ…。

その気なら 力になりましょう。

早速 福沢は
県への嘆願書の原案を作成。

更に 自ら県のトップへ
直接手紙を出すなど

積極的に支援します。

そうしたかいもあって
2年後 長沼村に対し

まずは 沼の優先的な利用が
認められました。

喜んだ村人たちは
内職などでためた金銭を

福沢へ 謝礼として差し出します。

しかし 福沢は受け取らず
それどころか…。

逆に 500円という大金を
寄付しました。

つまるところ
村で学問が行われなかったから

このような
つらい目にあったのです。

教育が何より必要です。

福沢の助言で建てられ

戦後まで たくさんの子供たちを育んだ
長沼小学校。

千葉では 2番目に創設された小学校です。

その後も 福沢は 沼の完全な返還を求めて
運動する村人たちを支えました。

「村中が一致してのぞめば
必ず願いは成就する」。

そして… 小川武平が福沢を訪ねて
26年後の1900年。

ついに 沼は
かつてのように村に戻りました。

村人たちは記念碑を建て
毎年 集いました。

そして 自分たちが沼を所有する「権利」を
勝ち取ったことを 高らかにうたいました。

♬「漁業の富は無尽蔵…」

「学問のすすめ」をきっかけに
行動を起こした小川武平。

福沢のメッセージは 新たな世を生きる

日本人の「心」を
確かに変えたのです。

近代に船出したばかりの
日本人に宛てた「学問のすすめ」。

中でも 福沢が 一番に
すすめたかったことがあります。

ひと言で言えば 「独立」して生きると。

(2人)独立?

「一身独立して一国独立す」。

要は 人よ学べ 学んで独立せよ だ。
それが「学問のすすめ」のすすめなのさ。

そのためには 何よりまず。
実学 だな。

分かってきたじゃないか。

(笑い声)

若き日に西洋社会の息吹を感じ

その「精神」のエッセンスを
持ち帰った福沢。

「学問のすすめ」によって 新たな時代を
日本人の心を開きました。

「学問のすすめ」では
日本人が 世界の人々と

どう接すればよいかについても
述べられています。

「人情が同じように通じ合う
人間同士なのだから

互いに尊重し
文化を理解し合い

道理がある事なら

アフリカの
黒人奴隷の意見も

きちんと
聞かなければならない」。

ところが
まるで正反対ともいえる文章が

「学問のすすめ」の13年後に出されます。
「脱亜論」です。

「日本が主義とするのは
ただアジアを脱することである」。

「東アジアの悪友との関係を
絶つしかない」。

「脱亜論」は なぜ書かれたのか?

それは 福沢の心変わりなのでしょうか?
それとも…。

1854年 黒船来航を機に開国した日本。

同様に 鎖国していた朝鮮も
やがて開国します。

すると朝鮮で 日本のように
近代化を進めようとする「開化派」が登場。

これまでどおり 中国・清に頼り

その影響下にとどまろうとする守旧派と
対立するようになります。

その開化派の動きに いち早く
関心を寄せたのが福沢諭吉でした。

当時 福沢が 来日した朝鮮の人々について
詠んだ漢詩です。

「見慣れない服装の人々を見ても
驚くことはない。

われわれ日本人が西洋に行った
20年前も同じだったのだから」。

1881年 福沢は慶應義塾に
2人の朝鮮の若者を迎え入れます。

初めて朝鮮が送り出した
正式な留学生でした。

自宅に寝泊まりさせるなど
親身になって面倒を見た 福沢。

日本と朝鮮の関係を開き
共に近代化に取り組みたい。

それが願いでした。

更に2年後
今度は 60人もの留学生が来日。

この時も 慶應義塾が
受け入れ先となりました。

そうしたさなか
朝鮮で 「甲申事変」が起きます。

開化派が起こしたクーデターです。

しかし 清国の軍隊が介入し 失敗。

開化派のほとんどが
殺害されてしまいます。

その中には かつて留学生として
福沢が世話をした者も数多くいました。

事件の3か後 1885年3月に書かれたのが
「脱亜論」でした。

福沢が創刊した新聞
「時事新報」の社説として

掲載されたのです。

「日本の不幸は
近隣の国の存在である。

一つが中国であり
一つが朝鮮である」。

「この二国は 西洋文明を受け容れず
古い習慣に浸りきっている。

それにつきあっていては
日本自身の独立も危うい」。

「今後は 西洋の文明国と
行動を共にしてゆくしかない」。

「私は 心においては 東アジアの悪友と
その関係を絶つものである」。

「脱亜論」については これまで
さまざまな意味で解釈され

批判もされてきました。
例えば…。

しかし 「脱亜論」をめぐる議論には
まず 大きな誤解があると

都倉武之さんは考えています。

「脱亜論」は 発表当時
話題になりませんでした。

後に日本が 中国や欧米と
戦争をした時期ですら

ほとんど誰も知りませんでした。

では そもそも「脱亜論」を書いた
福沢の意図は何だったのか。

そこには 当時の国際情勢がありました。

そのころ 清国は
「甲申事変」は日本の陰謀であると

世界に向け 盛んにアピール。

そのため 欧米諸国は 日本に
嫌悪感や反感を持ち始めていました。

それに対抗しようとしたのが
「脱亜論」だと 都倉さんは言います。

アジアとの決別を
宣言したかに見えた福沢。

実際は逆でした。

開化派の一人 金玉均。

「甲申事変」のため
日本に亡命していました。

キムをかくまい
生活費や活動費を援助した福沢。

期待をかけ その見事な弁舌を
こう称賛したと伝えられます。

1894年 日本と清国は衝突。
日清戦争が始まります。

翌年 日本は戦争に勝利。
朝鮮から 清国の勢力を一掃しました。

すると 再び 朝鮮から日本に
留学生が派遣されます。

この およそ200人の青年たちを
引き受けたのは…

福沢でした。

いよいよ朝鮮も 名実ともに独立できる。
そう考えていた福沢。

留学生たちが 慶應義塾に到着した日。
真っ先に連れていった場所がありました。

「演説館」です。

自由で近代的な社会には

みんなが意見を述べ合い
議論することが必要だ。

演説館は 福沢が信念を実践する
そのための場でした。

福沢は 留学生たちに 自身の考えを
力強く説いたといいます。

日本で勉強し 帰国した留学生たちは
官僚や実業家などになり

祖国の発展に尽くしました。

福沢の教育について 朝鮮人留学生の
言葉が伝えられています。

「今と昔を察し
その時の情勢も踏まえた考えで

後に続く私たちを
教え導いてくれた」。

朝鮮に対して
深い関心を寄せ続けた福沢。

その教えに対する
敬愛の念が込められていました。

♬~

育った中津の身分社会に反発し
二十歳を前に飛び出した福沢。

しかし 忘れたわけではありません。

♬~

福沢の大ベストセラー 「学問のすすめ」。

序文に こうあります。

「この一冊は なぜ 学問を
しなければならないかということを

故郷・中津の友人たちに示すため
書いたものである」。

♬~

毎年2月 中津では 「諭吉かるた大会」が
盛大に開催されます。

参加するのは 市内の小学生たち。

かるたを通して
福沢の生涯と精神を学びます。

えっと… 本を書いたり すごい。

平等というところを説いて
学問で差がつくんだよって言ったから。

♬~

ふるさとの若い世代へ そして
近代化の途上にあった日本人へ宛てた

福沢の「学問のすすめ」。

今 韓国語や中国語など
いろいろな国の言語で翻訳され

世界中の人々に読まれています。

♬~

最晩年 福沢は その精神を凝縮した
言葉を残しました。

「独立自尊」です。

「人は 自分をおとしめることなく

気品と誇りを持って生きるべきである」。

「世界中の人々は
等しく同じ人間であるのだから

交際にあたっては
決して差別があってはならない」。

♬~

「他国人を蔑視するは
独立自尊の旨に反するものなり」。

♬~


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