ザ・偉人伝 人生を変えた出会い、人生を変えた歌! 阿久悠、古賀政男、阿木燿子 名曲誕生の裏側に迫る…


出典:『ザ・偉人伝 人生を変えた出会い、人生を変えた歌! 阿久悠、古賀政男、阿木燿子』の番組情報(EPGから引用)


2020/05/24(日) 21:00~22:54

BS朝日1

[字]ザ・偉人伝 人生を変えた出会い、人生を変えた歌! 阿久悠、古賀政男、阿木燿子


昭和歌謡に大きな足跡を残した3人の人生を変えた出会い、人生を変えた歌とは?青春時代を同じ大学で過ごした偉大な作曲家・作詞家の足跡をたどり、名曲誕生の裏側に迫る。


詳細情報

番組内容

“昭和歌謡の父”ともいうべき古賀政男は、「丘を越えて」「柔」「悲しい酒」などを作曲し、美空ひばりと共に昭和歌謡を大きくけん引した。

ひばりと同年生まれで、彼女に憧憬の念を抱いていた阿久悠は、明治大学を卒業後、広告代理店、放送作家を経て作詞家に。作詞した曲は「ペッパー警部」「勝手にしやがれ」「舟唄」など多数。さらに、阿久は歌謡界の変革にも繋がる歌番組「スター誕生!」の企画、審査員を務める。

番組内容2

「スター誕生!」から山口百恵、ピンク・レディーらアイドルが誕生。山口百恵の人気を不動のものにしたのが作詞家・阿木燿子だった。そんな阿木を作詞家の道に進ませたのは、大学で出会った後の夫・宇崎竜童。阿木は「横須賀ストーリー」「プレイバックPart2」「魅せられて」「DESIRE‐情熱‐」などを作詞し、独特の感性で昭和歌謡に衝撃を与えた。

奇しくも明治大学で青春時代を過ごした3人が、昭和歌謡に大きな足跡を残した。

出演者

【出演】阿木燿子、宇崎竜童、岩崎宏美、アントニオ古賀、八代亜紀、小西良太郎、深田太郎

【語り】奥田瑛二

初回放送日

2019/6/9

番組ホームページ

<番組ホームページはこちら!>

www.bs-asahi.co.jp/the_ijinden/

制作

BS朝日、JCTV


『ザ・偉人伝 人生を変えた出会い、人生を変えた歌! 阿久悠、古賀政男、阿木燿子』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

ザ・偉人伝 人生を変えた出会い、人生を変えた歌! 阿久悠、古賀
  1. 阿久悠
  2. 阿久
  3. 昭和
  4. 古賀
  5. 時代
  6. 阿木燿子
  7. 古賀政男
  8. 自分
  9. ギター
  10. 先生
  11. 当時
  12. 美空
  13. 作詞
  14. 本当
  15. 歌謡界
  16. 古賀先生
  17. 古賀メロディ
  18. 作詞家
  19. サーカス
  20. 作曲


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♬~

昭和歌謡の扉を開いた
石川さゆり 『津軽海峡・冬景色』。

今宵は 時代の半歩先を歩んだ

そして 昭和歌謡の礎を築いた
作曲家…。

歌謡史に残る名曲
美空ひばり 『悲しい酒』。

古賀メロディで日本中を魅了した
作曲家 古賀政男。

さらに 新たな風を吹き込んだ
女流作詞家…。

ミステリアスな女心を描いた
ジュディ・オング 『魅せられて』。

みずみずしい感性で

歌謡界に衝撃を与えた

多くの人々の心を掴んだ
作詞家 阿久悠と

阿久の作品に影響を与えた
作曲家 古賀政男の人生をたどり

名曲の誕生秘話に迫る
2時間スペシャル。

阿久先生の

こう… 息遣いみたいなのが
聞こえるような気がする。

ここに
いらっしゃるかもしれない。

戦死した兄の形見
『湖畔の宿』のレコードが

阿久悠と音楽との出会い。

終戦後

故郷 淡路島のラジオから
流れてきた歌声。

阿久悠と同い年の天才少女
美空ひばり。

片や 大スター

片や 地方で暮らす名もなき少年。

強い憧れと

コンプレックスに似た焦り。

作詞家 阿久悠にとって
美空ひばりと

彼女を
歌謡界の女王へと押し上げた

古賀政男は

目標であり
乗り越えるべき壁だった。

歌謡曲の新たな扉を開こうと
模索した日々。

自分たちが育った

流行歌を作ってくれた
先輩たちじゃないですか。

古賀先生とか
美空ひばりさんもそうですよ。

ですから…。

っていうような考え方だったと
思うんですよね。

八代亜紀の歌手人生を変えた
『雨の慕情』。

詞の行間から立ち上がる
明快な映像とストーリー。

阿久先生の詞は
ワンコーラスだけの詞でも

今 別れてきたんだろうなって。

女性が とぼとぼ歩いてるって
ただ書いていても

「チッ」って言いながら

石ころをポンッと蹴ったまで
見える詞ですよね。

また 伝説のオーディション番組
『スター誕生!』を企画。

阿久は自ら
テレビ時代のスターも発掘した。

『せんせい』を歌った森昌子を始め
岩崎宏美 山口百恵ら

テレビから飛び出した
アイドルたち。

阿久先生と自分は すごく
年が離れてるにもかかわらず

当時 16だった私が見ても

なんか 自分の胸の内を
知られているような

なんかドキドキするような詞を
書いてくださるので…。

私 その当時
好きな男の子がいたのでね

なんか聞いてんのかな? って。

若きスターを
次々と世に出した阿久悠。

一方 その背中を追い続けた
阿木燿子は…。

山口百恵
『プレイバックPart2』。

百恵の黄金期を共に歩んだ
阿木燿子。

南こうせつ 『夢一夜』。

作品ごとに表情を変える女たち。

阿木燿子の豊かなまなざし。

そして
日本の歌謡界の巨人といえば…。

貧しい少年時代を過ごした
古賀政男が

心ときめかせた ある記憶。

今で言いますと
サーカスの原点みたいな

曲馬団が来まして

古賀先生は初めて
クラリネットの音を聞かれた。

それが『天然の美』ですよね。

ふるさと 九州で触れた
情景全てが

古賀の感性を育んだ。

そして
古賀政男を頂点とする歌謡界に

憧れ 挑んだ 阿久悠。

作る喜びも つらさも
命懸けないと。

作詞 作曲をする者としての

お仕えする… 時代なのか
大衆なのか 民なのか。

その中で やっぱり
立派に務め上げたというか

覚悟がおありで

これだけの偉業を
完成させられたんだと思います。

人々の思いに寄り添い
人生を変えた歌の数々。

名曲誕生の裏側には
奇跡のような出会いがあった。

時代を作り 歌に生涯を懸けた
阿久悠 古賀政男 阿木燿子。

今こそ伝えたい
この3人の熱き人生。

兵庫県 淡路島。

島の北端にあり
本州と向き合う岩屋港。

明石海峡大橋で結ばれた
この島に

たった一つ残ったフェリーがある。

昭和30年 春。

1人の青年が
この港から東京を目指した。

必ず 世に出てやると
胸の奥に野心を秘めて。

彼の名は

のちの阿久悠である。

昭和46年
尾崎紀世彦の『また逢う日まで』。

作詞家 阿久悠の代表作。

会社員を経て
作詞家となった阿久は

当時 キャリア4年目の34歳。

その頃 70年安保の嵐が過ぎ

若者たちの関心は 日常の優しさや
触れ合いに向き始めていた。

そんな時代の風を捉えて

阿久は 新しい別れをテーマに
詞をつづった。

過去を引きずらず
明日を生きようとする。

『また逢う日まで』は…。

さらに 阿久は魅力的で
新しい別れを描いてみせた。

昭和48年 ペドロ&カプリシャス
『ジョニイへの伝言』。

気持ちに整理をつけ
街を出ていく

強く生きようとする女性像が
広く共感を呼んだ。

阿久悠の背中を見て育った

阿木燿子が 彼の創作スタイルを

こう評価する。

阿久先生が出られる…
世に出られる前は

流行歌っていうものの
一つのカテゴリーの中で

決まったいくつかのパターンが
多分 あったんじゃないかな。

それを こう…。

先生のセンスの中に

コピーライト的なセンスも
すごく おありだったから

キャッチーな言葉で
サビにもってきて

子供たちも覚えやすくするとか

演歌じゃ
絶対できないような事とか

なさってたので…。

ぐらいのおつもりで
いらしたんじゃないかなって

思いますけど。

また 阿久悠と深い親交があった
音楽評論家 小西良太郎は…。

女性を…
別れに打ちひしがれて 泣いたり

未練を抱えて 耐えて忍んで
っていうタイプではなくて

すっぱり自分で気持ち決めたら
出ていくと。

っていうのが 阿久さんの
考え方じゃないんですかね。

そういうのも
かっこいいねっていうふうに

世の中が
受け取ったんじゃないですかね。

時代とともに微妙に変わる
別れの形 女性の姿。

阿久は社会の変化に目を凝らし
アンテナを張り巡らせた。

阿久悠は 女性の心を
さりげなく描く一方で

やせ我慢する男たちにも
心を寄せた。

沢田研二の『勝手にしやがれ』。

実は 作詞家 阿木燿子が
『勝手にしやがれ』を引用し

アンサーソングを書いていた。

昭和53年 山口百恵の
『プレイバックPart2』。

2番の歌詞を読むと

カーラジオで流れる
「ステキな唄」が

『勝手にしやがれ』だとわかる。

そのいきさつを
阿木燿子本人に尋ねた。

これは 本当に
阿久先生に助けて頂いて…。

『プレイバックPart2』は

明日 楽曲仕上げないと
もうプレスが間に合わないって

もう本当に追い込まれて
追い込まれて…。

『勝手にしやがれ』が浮かんだ時…。

あれは もろ 先生の

…って それを聞いた 飛び出した
車を運転している女性が

もう一回
彼の元に帰っていくって…。

全てが繋がった…。

時代の先頭を走る阿久悠へ
阿木燿子からの尊敬の思い。

一方 阿久悠も

歌謡界に鮮烈に現れた阿木燿子を
強く意識していた。

その曲が…。

昭和50年
ダウン・タウン・ブキウギ・バンド

『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』は

阿木燿子の本格デビュー作。

のちに阿久悠は
こんな事を語っている。

阿久悠の長男
深田太郎さんが語る

その本心とは…。

阿久はね アイドル歌謡を
すごい量産してて

ちょっと 半ばマンネリズムに
陥ってた時期だったのね。

その時に
ダウン・タウン・ブキウギ・バンドが

『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』を出して…。

を受けたんだと思うんですよ。

それは要するに
父が元々目指していた

叩く歌であったという事。

あと 阿木さんの書いた詞が
非常に映像的で

やられた! っていう…。

私は直接 そうやって

お聞きした事ないけど

あの… 先生は悔しかったみたい。

名誉な事です 本当に。
光栄な事です。

そんな大作詞家の先生に
そう言って頂いて…。

一回 お聞きしてみたかったです。

私ごとき者に…。

希代のヒットメーカー
阿久悠と阿木燿子。

30代で作詞の世界に入った
遅咲き同士。

2人が歩んだ道には

常にヒットを義務づけられた

苦悩と戦いの日々が
横たわっていた。

昭和47年 山本リンダ
『どうにもとまらない』。

デビュー以来 彼女は
アイドル路線の歌手だった。

デビュー曲
『こまっちゃうナ』のイメージから

抜け出せなかった 山本リンダ。

そこで 阿久悠は

リオのカーニバルをテーマに
大胆なイメージチェンジを図った。

鏡の前で踊ってた記憶があって…。

「どうにもとまらない」って

リンダさんのマネをしながら。

なんか あの… そういう歌って

いきなりのフレーズが
いいんですよね。

って 入るんだけど

ここから入られて こういって…。

で 「どうにもとまらない」でいくと
皆様 なんか…。

その女性像が浮かんでくる。

阿久悠との関わりで
カムバックを果たした人物は多い。

作曲家 三木たかしも その1人。

若くしてヒット曲に恵まれ
脚光を浴びた三木は

その反動からスランプにあえぎ
阿久に相談を持ちかけていた。

阿久は 名古屋の深夜放送で
人気を集めていたDJ

あべ静江のデビュー曲を依頼され

作曲に三木たかしを指名した。

その曲が…。

昭和48年 あべ静江の
『コーヒーショップで』。

このヒットで
三木たかしは自信を取り戻し

才能を再び開花させる。

そして 阿久と三木のコンビで

それまでの
演歌のイメージを打ち破る

大ヒット曲を生んだ。

昭和52年
石川さゆりの『津軽海峡・冬景色』。

映像的でドラマチックな歌は

デビュー以来 低迷していた

石川さゆりの歌手人生を変えた。

さらに 作曲家 三木たかしは…。

坂本冬美の『夜桜お七』

そして テレサ・テンの
『時の流れに身をまかせ』。

三木たかしは
名曲を 次々 生み出す大作曲家へ。

阿久悠は 作品のみならず

歌に関わる多くの人々の
人生を変えたのである。

歌謡曲の世界に

戦略という発想を持ち込んだ
阿久悠。

彼の膨大な仕事の一部が

母校 明治大学の一角に
展示されている。

その阿久悠記念館を
作詞家 阿木燿子が訪れた。

実は 彼女も明治大学出身
阿久の9年後輩である。

あっ 立派ですね。

すごいな。

阿久の死後 母校 明治大学に

自筆原稿などの資料
およそ1万点が寄贈され

その一部が無料で公開されている。

なんか やっぱり 思いがね
原稿用紙に込められてるので…。

作る人は… また 作曲する人は

その思いにも こう

応えようっていう気に
なってたんじゃないかな。

阿久悠が作詞した歌は
およそ5000曲。

レコード CDの売り上げ枚数は
7000万枚を超える。

阿木燿子を出迎えたのは

冨澤茂實さんと

村松玄太さん。

本当に すごいお仕事量と
その質とクオリティーと

本当に
尊敬してしまいますが…。

こういう… たくさんは書けない。

館内に再現された阿久悠の書斎。

ふ~ん。 結構 先生
和のテイストっていうか…。

鉄アレイなんかある。

ちょっと 運動不足を
気になさってたのかな?

右手をこうやって
やられてたみたいですね。

ああ そうですか。

先生の手書きの文字を見ると
こう なんか もう 本当に

歌う時に心を込められるって

手書きだからこそっていう事を
歌手の方もおっしゃいますよね。

阿久悠さんご自身も
そういう事はおっしゃってて…。

自分の作詞に込めた熱を

ダイレクトに
歌手の方とかに届けるとか

あるいは
作曲の方に届けたいんだ。

だから あえて
手書き原稿を届けるって事を

おっしゃってる事 ありましたね。

歌い手と人々への熱き思いを

常に磨き続けた 作詞家 阿久悠。

その感性を育んだ ふるさと
淡路島。

だが 阿久悠は 幼い頃から

この島を
早く出たいと考えていた。

そこには いつも 海を眺め

向こう側の世界に思いを馳せる
少年の姿があった。

阿久悠のふるさと

公園の一角に

和田アキ子のヒット曲
『あの鐘を鳴らすのはあなた』を

モチーフにした
「愛と希望の鐘」がある。

阿久悠 本名 深田公之は

昭和12年生まれ。

父親は駐在所で働く警察官で
転勤が多く

阿久は 別れがつらくならないよう
友達と距離を置くようになった。

どうせ いずれ別れるんだから

友達とは
別れがつらくない程度に

仲良くしろっていう

むちゃな事を
言われてたらしくて

そういう部分で 多分

感情を 随分 抑えたりしてる
というような性格は

その頃から 多分ね

培われてたんじゃないかなと
思うんですよね。

阿久が物心ついた頃
日本は戦争のまっただ中。

いっぱしの軍国少年に育った
阿久は

その頃 初めて
自分のレコードを手に入れる。

高峰三枝子 『湖畔の宿』。

年の離れた兄が 大好きだった曲。

その後 軍隊に招集された兄は
19歳の若さで戦死する。

残されたレコードが兄の形見に…。

阿久は押し入れで
何度も聴き返したという。

小学校で同窓だった
十川英二さんが語る

少年時代の阿久悠。

やがて 終戦。

抑圧から解放され
軍歌に変わり 流行歌があふれた。

♬~「影か柳か勘太郎さんか」

その中に
一人の少女の歌があった。

戦後の焼け跡に希望を届けた
美空ひばり。

彼女は
阿久と同じ 昭和12年生まれ。

同い年の少女の活躍が
阿久には ただ 眩しかった。

ある時 学校の遠泳大会で

阿久は
足がつって溺れそうになった。

意識が遠のく中で
浮かんだ思い…。

向こうの世界を知る。

向こうで なんか 仕事をしたい
みたいに思って

ずっと 考えてた…。

ある種 脱出願望 島の。

そういう少年が
同い年の美空ひばりはと見ると

もう 大人も子供も

一気に制覇しちゃってる
大スターですわね。

落差は感じるでしょうね。

その後 阿久は
地元の名門 洲本高校に入学。

ところが 周囲は
とてつもない秀才ぞろいで

阿久は 勉強への意欲を失う。

学校を抜け出し
向かった先は 映画館。

映画との出会いが
阿久悠の人生を変えた。

当時 淡路島の洲本市内には
7軒の映画館があった。

その中の一つ 洲本オリオンは

現在も不定期ながら
営業を続けている。

洲本オリオンの野口純子さんが

高校時代の阿久の様子を

話してくれた。

阿久悠にとって
映画のスクリーンは

島の外に繋がる入り口。

そして 夢への入り口。

島を出て 海を渡り
東京へ出たいという思いが

日々募った。

昭和30年
阿久悠は明治大学に合格。

東京への切符を手に入れた。

♬~「その名ぞ 吾等が母校 明治」

紫紺の旗揺れる明治大学に
たどり着いた 阿久悠。

入学した昭和30年は

音楽界にとって
歴史的な年だった。

♬~「One, two, three o'clock
four o'clock rock」

♬~「Five, six, seven o'clock
eight o'clock rock」

ロックンロールの第1号

『ロック・アラウンド・ザ・クロック』が日本に上陸。

若者たちは
激しいビートの洗礼を受けた。

そして…。

翌 昭和31年には

青年作家 石原慎太郎が
『太陽の季節』で芥川賞を受賞。

石原裕次郎主演で
映画も作られた。

さらに…。

阿久が卒業を迎えた
昭和34年には

当時の皇太子殿下と

美智子さまが ご成婚。

中継を見るため
テレビの普及が進み

テレビ時代が幕を開けたのである。

都会で 新しい文化や
風俗の洗礼を浴びながら

阿久は

小説や映画の脚本を書く夢を
膨らませていた。

そういう風俗が
その時代は

政治を凌駕してた時代が
きたと。

その時代に

自分がその中にいたという事
っていうのは

1年あとに入学しても
先に入学しても

多分違ったんじゃないだろうか
っていう話は よくしてましたね。

だが 物書きへの道は
遅々として進まず

映画館やジャズ喫茶に
通っている間に 卒業が迫る。

ひとまず 就職する事に。

この時 運命の出会いがあった。

テレビ時代の到来で
広告代理店の採用が急増。

阿久は テレビ映画『月光仮面』を
制作していた広告代理店

宣弘社に入社したのである。

宣弘社を
選んだかっていうと

備考欄に
テレビ映画『月光仮面』製作中って

書いてあったフレーズが
ヒットしたらしくて 本人に。

映画の世界に近いところに

自分が携われるっていうのが
魅力だった

っていう話は聞きました。

あと 銀座が…

会社が銀座にあったっていうのも
よかったっていう話を

聞いた事がありますね。

会社は少数精鋭主義で

広告のコピーからデザイン画

テレビ映画の企画書

CMソングの作詞まで

あらゆる仕事を1人でこなした。

昭和39年 阿久は

後輩社員
児島雄子と結婚。

月給だけでは生活できず
アルバイトを始めた。

テレビやラジオ番組の台本を書く
放送作家である。

会社は副業禁止のため
ペンネームが必要だった。

この時 悪い友達の「悪友」から
「阿久悠」の名が誕生。

思いつきでつけたペンネームと

一生 付き合う事になるとは
知らずに…。

その後

グループサウンズのブームが
列島を駆け巡る。

番組で使う曲に
詞を書いた事がきっかけで

作詞の分野に足を踏み入れた
阿久悠。

この時 30歳を過ぎていた。

昭和45年
森山加代子 『白い蝶のサンバ』。

早口言葉のようなリズムが
幅広い世代の人気を集めた。

阿久は このヒットで

歌謡曲が世の中を動かす
醍醐味を知る。

既存の作詞家とは違う視点で
歌を作る。

阿久は 立場を明確にするため
作詞のノウハウを明文化した。

「阿久悠作詞家憲法」
その第一条…。

誰もが認める 美空ひばりの傑作
『悲しい酒』。

阿久は

あえて違う土俵で勝負すると
決意したのである。

『悲しい酒』を作曲し
昭和の歌謡界を牽引した巨人

阿久悠記念館の一角に

明治大学出身で

歌謡界に功績を残した人物を
紹介したコーナーがある。

実は 古賀政男も
明治大学の卒業生。

自分たちが育った

流行歌を作ってくれた
先輩たちじゃないですか

古賀先生とか
美空ひばりさんもそうですよ。

ですから…。

っていうような考え方だったと
思うんですよね。

高い山があって
その高い山を登って

トップにいる古賀先生より
上に行くっていう考えじゃなくて

別の山を作って

そっちの山を高くして勝負する
っていうのが父の考えだったので。

日本の歌謡界の礎を築いた作曲家
古賀政男。

あとに続く者たちが
皆 目標とし

時には反発するほど 偉大な存在。

その歩みをたどると
日本人が心震わせる

古賀メロディの秘密が
浮かび上がってきた。

昭和6年 藤山一郎が歌った
古賀政男の初のヒット曲

『酒は涙か溜息か』。

当時の古賀は 明治大学を卒業後

日本コロムビアと契約したばかり。

20代の新人作曲家。

『酒は涙か溜息か』の詞を
受け取った時

古賀は

七五調の短い歌詞に困惑した。

流行歌というより 都々逸に近い。

当時の日本は

世界恐慌に端を発した
昭和恐慌に陥り

銀行や企業の倒産が相次いだ。

現実の不安から逃れるように

都会では
モボ モガと呼ばれる若者たちが

時を忘れ ジャズに興じていた。

ジャズと都々逸

この落差を
どう埋めたらいいか…。

古賀は ふと思いついた。

ギターで
三味線のような音を出したら

どうだろう?

ギターを伴奏に使った効果は
意外なところで表れた。

流しが こぞって
古賀の曲を弾いたのである。

古賀政男の弟子で ギタリストの
アントニオ古賀は…。

いわゆる

ギターの一番いい音をとって
作られたから

流しの人が 今まで

「タタ トンタ」ってやってたのを

そのイントロが弾きたいんですよ。
その部分が。

それで 流しの人たちが
そのイントロを弾いて

それから 間奏は もう…。

♬~(ギター)

かっこいいじゃないですか。

ギターでやると

ただ 伴奏楽器じゃなくて
ソロ楽器…。

ギターでソロしてもできるんだよ
っていう楽しみができた。

それで
広がったんだと思いますね。

それが 古賀メロディ 広げた
あれは 大きいと思いますね。

三味線の奏法を使ったギター。

哀愁を帯びた その音色が
日本人の心を捉えた。

次に取り入れたのが
マンドリンの響き。

古賀は 学生時代

明治大学 マンドリン倶楽部の
中心メンバー。

仲間と出かけた
ハイキングの思い出を

マンドリンの伴奏で

軽やか歌い上げた作品。

昭和6年
藤山一郎の『丘を越えて』。

録音の伴奏も

明治大学マンドリン倶楽部が
務めた。

東京 代々木上原にある
古賀政男音楽博物館。

あ~! あっ マンドリン。
もう古賀先生そのものの…。

マンドリンとギター。

実際に古賀が使った
マンドリンやギターと対面した

阿木燿子。

古賀政男音楽博物館の
宮本紘視さんに話を聞いた。

先生 最初に
これ 手にされた時

どんな思いだったんでしょうね。

もう 飛び上がるほど
嬉しかったとか…。

(宮本さん)そうですね。
そんな感じですよね。

(宮本さん)自伝にも
書かれてるんですけども

やはり 当時は高嶺の花だった
マンドリンをですね

突然 なんの予告もなしに
お兄さんが送ってくれまして

本当に 天にも昇る気持ちだったと
思います。

こちらは
古賀政男が愛用したギター。

不思議なのは やっぱり
楽器も思いがこもるっていうか

使う人の思いがこもってくると

音色がどんどん良くなってくる
って事ありますよね。

そうですね
艶が出るというかね。

もう 本当に…
深くなっていきますよね。

先生 これで どのぐらいの曲…
何曲ぐらいというか

作曲なさったんでしょうね?

そうですね 古賀先生
4000曲以上 作曲されてますので

その中の大半の部分

このギターを
使っているんじゃないかと

思いますね。
(阿木)あっ そうですか。

古賀政男がギターを大切にした

もう一つの理由。

明治大学に在学中だった

ある日の事。

楽器屋で見つけたギターに
一目ぼれした古賀は

月賦でギターを購入。

だが 支払いは滞りがちに。

飲まず食わずが続いたある日
悪魔のささやき…。

楽器を手放せば
音楽への道が遠のく。

わかっていても
空腹には勝てない。

ちょうど その時 封書が届いた。

ふるさとの懐かしい母の文字。

貧しい中 苦労して育ててくれた
母への思い。

こういうテレビに先生が出て

パッとお話しして
インタビューやって…。

「か」まで言ったら
涙がブワーッて出てくる

先生でしたね。

やっぱり
お母さんが相当苦労して

自分も苦労して
育ったんでしょうね。

やがて 『酒は涙か溜息か』と
『丘を越えて』がヒットし

印税を受け取ると

古賀は真っ先に
母へ手紙を書いた。

母と子の絆が

古賀の音楽への夢を
救ったのである。

そして もう一つ

ギターの音色が切ない
古賀メロディの傑作。

藤山一郎 『影を慕いて』。

古賀が この曲を書いたのは

明治大学在学中の事。

未曾有の不況が続き

「大学は出たけれど」の嘆きが
蔓延していた時代。

音楽に明け暮れ 就職も決まらず

将来を悲観した古賀は
何もかも空しくなった。

気がつくと
首筋にカミソリを当てていた。

この深い絶望を
古賀は歌に昇華させた。

偽りなき思いが
大衆の心を打った。

『酒は涙か溜息か』
『丘を越えて』 『影を慕いて』。

これら3曲が
古賀メロディの土台となり

若き作曲家 古賀政男は

歌謡界を背負う存在に
上り詰めたのである。

エキゾチシズムが
本当 やっぱり

古賀先生の中にあるなって。

どんな すごく…
演歌と言いながら

そこに
大陸のにおいみたいなのは

私は感じるんですけど。

演歌っていうと

すごく狭い範囲の世界を描く事が
多いんですけど

先生は景色が広いなと
私は思うんですけど。

人々に 今もなお 愛され続ける
古賀メロディ。

そのルーツをたどるため

古賀政男のふるさと
福岡県大川市を訪ねた。

そこには
古賀少年を育んだ風景が

ひっそりと たたずんでいた。

昭和12年 ディック・ミネが
望郷の思いを切々と歌った

『人生の並木路』。

作曲の際 古賀の脳裏には
幼い頃の記憶がよみがえり

五線紙を涙でぬらしたという。

古賀政男のふるさと
福岡県大川市。

この町に立つ
古賀政男記念館の隣に

彼の生家が復元されている。

古賀政男は 明治37年
貧しい行商人の家に生まれた。

8人兄弟の6番目の子。

父親は
古賀が5歳の時に亡くなり

母 セツが懸命に働いて
子供たちを育てた。

暮らしは貧しかったが

母は
自分より困っている人を見れば

手を差し伸べる
心の温かい人だった。

娯楽のほとんどない地方の村で
唯一の楽しみは

年に1度やって来る
サーカスの一座。

その時 流れていた
あのメロディー。

当時 サーカスがかかった
鎮守の森が

今も残っている。

古賀政男記念館館長
山田永喜さんの案内で

生家の近くにある
蛭児神社を訪ねた。

年に1回は この境内でですね
曲馬団…

今で言いますと
サーカスの原点みたいな

曲馬団が来まして
テントを張られてですね

中で 古賀先生は初めて
クラリネットの音を聞かれた。

それが『天然の美』ですよね。
ジンタ。

これが もう…。

サーカスの客寄せに欠かせない
『天然の美』。

うら悲しい三拍子の旋律が
古賀少年の胸に刻まれた。

『人生の並木路』を始め

古賀メロディには
三拍子の曲が多い。

藤山一郎の『影を慕いて』。

村田英雄の『人生劇場』。

美空ひばりの『悲しい酒』。

いずれも三拍子の曲。

これは もう 古賀先生には

まさに魅惑のメロディーだったと
思うんですね。

それが のちに『影を慕いて』
『悲しい酒』のワルツに

恐らく影響してるんじゃ
ないだろうかと思います。

さらに 古賀に刻まれた
サーカスの記憶は

新たなヒット曲を生む種となった。

昭和37年 小林旭が歌った
『サーカスの唄』。

『サーカスの唄』
これに曲想をつける時に

どうしても 曲が浮かばすに

その時に
ふと思い出されたのが

境内から馬の蹄が聞こえてくる。

また 馬に取り付けた鈴が
聞こえてくる。

これで
幼い頃に曲馬団が来てたな

という事を思い出されて…。

ふと その事からですね
発想が出て…。

『サーカスの唄』が
出来上がったんですね。

大正元年 古賀は
朝鮮半島で成功した兄を頼り

母と共に海を渡った。

ふるさと 大川で過ごした期間は
わずか7年。

もう一カ所

古賀が目に焼き付けた
ふるさとの光景を

山田館長が案内してくれた。

筑紫次郎と称される
日本有数の大河 筑後川。

ここら辺にですね

古賀先生が小学校の時の遠足が
この場所なんですよ。 遠足。

その時の やっぱり
印象というのが残ってるんですね。

ここに
菜の花が いっぱい咲いてですね

そういう情景が しっかり
古賀先生の思い出に

残ってたんですよね。

古賀政男が
ふるさとの記憶を織り込んだ

『誰か故郷を想わざる』。

ふるさとで過ごした時間は
短くとも

その記憶や情景は

古賀メロディの中に
確かに息づいている。

(拍手)

昭和41年 『悲しい酒』。

音楽人生の後半を迎えた古賀は

美空ひばりという
最高の歌手を得て

昭和歌謡を完成の域に…。

日本人の心の有り様を映し
大衆に愛された古賀メロディ。

だが 古賀自身には
別の思いが芽生えていた。

古賀政男音楽博物館に

その思いを伝える
資料が残されている。

これは…。

えっ? 死の2日前に書かれた…。

死の2日前に書かれたメモ。

う~ん。
この… この ご心境と…。

っておっしゃるお気持ちと。

この中に あの…
芸術家っていうか

クリエーティブな仕事をする人の
幸せと不幸せっていうか

幸 不幸 詰まってる気がします。

なんか ちょっと胸が痛いです。

壮絶なメモを残した2日後…。

古賀政男 急性心不全で逝去。
享年73。

大衆の痛みや苦しみに寄り添った
古賀政男。

最後の切実な願いは

自分の歌を愛してくれた人々の
幸せだった。

♬~(歌と演奏)

九州 大川の古賀政男記念館では

月に一度 ふれあいコンサートが
開かれている。

笑顔の参加者が大きな声で歌う
古賀メロディ。

ここに 悲しみはなく
喜びが満ちあふれている。

古賀は 弟子たちに
こう言い聞かせた。

そして 阿久悠は

詞を大切にする古賀の思いは
受け継ぎつつも

あえて 別の道で
挑戦し続けたのである。

13歳の森昌子が歌った『せんせい』。

森は
テレビのオーディション番組

『スター誕生!』の
初代グランドチャンピオン。

阿久悠は この番組を企画。
審査員としても出演し

テレビ界に新たな風を起こした。

昭和48年
桜田淳子 『わたしの青い鳥』。

そして…。

岩崎宏美が昭和50年に歌った
『ロマンス』。

森昌子 桜田淳子 岩崎宏美…

テレビが発掘した
初々しいスターたち。

阿久悠は詞を提供しながら

視聴者と共に
スターの成長を見守った。

岩崎宏美が当時を語る。

阿久先生と自分は すごく
年が離れているにもかかわらず

当時 16だった私が見ても

なんか 自分の胸の内を
知られているような

なんかドキドキするような詞を
書いてくださるので…。

私 その当時
好きな男の子がいたのでね

なんか聞いてんのかな? って。

だから よく
昌子ちゃんとか淳子ちゃんとか

同い年の子たちで 先生に
曲を書いてもらっている人たちは

阿久先生って
あんな顔してるけど

結構 経験豊富かもねなんて
言ってたんですよ。

ひどい話ですよね。

子供ですからね。

オーディション番組というより

学校のような空間。

『スター誕生!』は
ヒット番組となり

延べ200万人に及ぶ 少年少女が
夢を抱き 応募してきた。

昭和51年
この番組では少数派の男性

新沼謙治 『嫁に来ないか』。

徹底的に
アイドルをたくさん作って

結果…。

つまり 中三トリオ…
山口百恵 森昌子 桜田淳子

中学3年でしたね。

つまり 世の中へ発信する年齢も
下げたけど

それに呼応するお客さん…
ファンも

めちゃめちゃ下がりましたね。

それが テレビを軸にして

世の中へ こう
発信されてくわけですから

もう めちゃめちゃ レコードが
売れる時代っていうのが

できたように思いますね。

やがて 時が経てば

少女たちは大人に…。

長い時間を共に過ごし

一人の歌い手を

育てる事の難しさを

阿久悠は思い知った。

昭和52年 岩崎宏美 『思秋期』。

っていう事を
言ってくださいましたし…。

なんか 今 そんな事を…
言葉を聞いて

私は 64曲かな?
書いて頂いてるんですけれども。

ああ きっと 先生は この時

いずれ 私が大きくなった時に
考えられるような曲をね

これだけ 書いて
くださってたんだなっていうのは

今 すごく感じます。

『スター誕生!』は 12年の歴史で

100人に迫る新人歌手を
世に送り出し

その中に 時代を代表する
トップアイドルがいた。

山口百恵
『プレイバック Part2』。

その歌手人生の後半を
共に過ごし

百恵伝説を共に築いた作詞家が

阿木燿子である。

今も 思い出しても

同じ指摘を二度させない
っていうか

「ここ 百恵さん
こういうふうに歌ってね」。

で 理屈でわかってても

それが表現できない人は
いくらでもいるんですけど

「はい」っておっしゃると

そのとおりに もう ちゃんと
歌ってくださるので…。

山口百恵という

時代のカリスマと格闘しながら

才能を開花させた阿木燿子。

さらに 新たな女性像を世に放つ。

昭和53年 南こうせつ 『夢一夜』。

大人の女性の内に秘めた恋心。

阿木燿子が作詞を始めた
きっかけは

昭和39年
明治大学に入学した翌日…。

キャンパスを歩いていると
男子学生から声をかけられた。

それが のちに夫となる
宇崎竜童との出会いだった。

軽音楽部に入った阿木に

宇崎は 何気なく
こんな事を頼んできた。

当時を振り返った 宇崎竜童は…。

阿木の場合は もう

それを そのまま 五線紙に
僕は書けばいいだけなんで。

それと やっぱり 風景が見える。

その後 一時 阿木は

音楽から離れて

昭和46年 宇崎竜童と結婚。

翌年 宇崎が

ダウン・タウン・ブギウギ・バンドを
結成すると

阿木は
アルバム用の作詞を依頼された。

詞を書くのは数年ぶりの事。

阿木は 忘れていた詞の書き方を
少しずつ思い出しながら

広告の裏紙に書いた詞を
宇崎に渡した。

すると…。

非常に面白いなと
思ったけれども…。

メロディーを
何度もつけたんですけど

やっぱり
途中で諦めざるを得ない。

まあ 仕方なしに あれは じゃあ

トークにしてしまおうって事に
なったんだけど…。

作詞のセオリーを無視して
思いつくまま書いた詞が

歌謡界に
計り知れない衝撃を与えた。

夫 宇崎のすすめで
作詞の世界に飛び込んだ阿木燿子。

プロになり 言葉を絞り出す
苦しみにあえぎながら

気がつくと 作詞の魅力から
逃れられなくなっていた。

私は その都度 その都度

なんか
なんて言ったらいいのかな…。

自分を明け渡して

誰のメッセージか
わかんないんですけど

なんか たった今

失恋をしている
あなたに…。

なんか そういうメッセージを

私自身の肉体を通して

歌手の方の肉体を通して
伝えてる気がするんですけど。

そして 阿木燿子が呼び覚ました
女性の思いが

妖しい光を放つ。

ジュディ・オング 『魅せられて』。

ミステリアスなひと言 「女は海」。

新たな女性像を

エーゲ海と風に託した
『魅せられて』は

阿木燿子は 名実ともに

歌謡界のトップランナーに
躍り出た。

一方 常に時代の風を読みながら
先を歩み続ける阿久悠に

大きな変化が訪れようとしていた。

少年時代から意識し続けた
美空ひばりとの別れ。

時代の先頭を行く男が
ふと 足を止めた。

昭和50年 都はるみ 『北の宿から』。

戦略の作詞家 阿久悠は

はるみ得意のうなり節を封印し
大人の魅力を引き出した。

常に時代や社会を俯瞰で捉え
描き出す阿久悠の世界。

昭和54年 デビュー9年目の
八代亜紀が歌った『舟唄』。

作曲は『終着駅』
『石狩挽歌』の浜圭介。

八代亜紀が
阿久悠の作品を歌ったのは

この曲が初めて。

もう 本当に
すごい言葉頂きました。

嬉しくてね はい。

「お酒はぬるめの 燗がいい」

「肴はあぶった イカでいい」
って読んだだけで

もう いいメロがつくし
大ヒットするなと思いました。

八代亜紀にとって
初めての男歌は

阿久悠の明確な戦略の下で
作られた。

当初 阿久悠と浜圭介は

『舟唄』を手始めに

ホップ ステップ ジャンプの 例えどおり

3作品で
レコード大賞を狙う計画を立てた。

ところが

中継ぎに送り出した2曲目が
予想外にヒット。

昭和55年 『雨の慕情』は
レコード大賞を獲得。

中継ぎから胴上げ投手へ。

阿久先生の詞は
ワンコーラスだけの詞でも

今 別れてきたんだろうなって。

そして これは
すごい深い悲しみじゃなくて

ああ そうなるだろうな… という

いつかは予測してた
恋だったんだろうな

っていう事まで感じる。

だから その

女性がトボトボ歩いてるって
ただ書いていても

「チッ」って言いながら

石ころをポンッと蹴ったまで
見える。

ところで 『舟唄』誕生の裏に
もう一つ 興味深いドラマがある。

この詞の原形が書かれた
きっかけは

阿久と因縁の深い
美空ひばりにあった。

阿久は 新聞に

実際に 歌手を想定して
読者が投稿する歌詞を

紙面で添削する連載を持っていた。

仕掛け人は

当時 スポニチの編集者だった
小西良太郎。

ひばりさんで 実践的作詞講座の
最後の2カ月やるって決まって…。

って言って…。

自分の原稿の中に

例えばっていうので
自分で詞を書いたんです。

その中に 『舟唄』も入ってた。

阿久が
ひばりを想定して書いた詞は

やがて『舟唄』となり
八代亜紀が命を吹き込んだ。

同じ業界にいながら

ひばりが完成した流行歌の本道に

あえて背を向けた 阿久悠。

その後も 2人の距離は
なぜか縮まらなかった。

阿久悠と ひばり
双方と交流のある小西が

2人を引き合わせた時の事…。

2人並べて
阿久悠さん ひばりさん…。

今度 そういうのをやれ
ってなるから よろしくな。

そう。 で ひばりさんが…。

どうもって言ったっきり
固まっちゃってる。

あの人のすごいところは

少年の頃の美空ひばり
っていうのを

ずっと持ち続けてる。

だが 美空ひばりは

昭和の時代が終わりを告げると
それに殉じるかのように

平成元年 この世を去った。

時代の風を読み

常に半歩先を見据えて
走り続けてきた 阿久悠。

ふと立ち止まり
足元を見つめた時

その胸に去来したのは

言いようのない切なさ
拭いきれない後悔の念。

時代を動かす事を追い続け
たどり着いた境地。

しかし

末期がんに侵された 阿久悠は
壮絶な闘病の末 この世を去った。

享年70。

多くの人々の心を掴み
時代を駆け抜けた。

1本のペンで闘い続けた
男の生涯。

という事と

あなたのやっていた事は
間違いじゃなかったですよ

っていうのは 今 生きてたら…

いや 今 生きてたら
っていう事はないんだけど

言いたいですかね。

先生が 歌手 岩崎宏美の路線を
作ってくださったわけですから

本当

個人的な付き合いと
仕事上の付き合いを含めて

37年間 あの人と付き合えた
っていう事は…。

♬~

作る喜びも つらさも
命懸けないと。

本当に 私は もう
スロースターターで いるので

これから書けるもの
書きたいものっていうのを…

書けてないものが
まだ たくさんある気がするので。

で終われるように。

死ぬまで やっぱり
お二人がそうであったように

死ぬまで…

死ぬ前日まで書ける力があれば
書いていきたい。

人生を変えた出会い。

人生を変えた歌。

その陰に 時代を背負う熱き心で

大衆と向き合う
作り手たちがいた。

悲しみをつづり 喜びを分かち
希望を託す歌。

人が心を動かす時
そこに歌が生まれる。

たとえ 命が終わろうと
歌に託した思いが消える事はない。

誰かが あの懐かしい調べを
口ずさむ限り 永遠に…。


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