昭和偉人伝 「歌手・三橋美智也(村田英雄、春日八郎、三波春夫)」 古城・哀愁列車、望郷歌謡に命を燃やし…


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『昭和偉人伝 「歌手・三橋美智也(村田英雄、春日八郎、三波春夫)」』の番組情報(EPGから引用)


2018/05/30(水) 
[字]昭和偉人伝 「歌手・三橋美智也(村田英雄、春日八郎、三波春夫)」
「古城」「哀愁列車」…望郷歌謡に命を燃やした歌手・三橋美智也。相次ぐ試練にもくじけず挑戦を続けた三橋の人生を、村田英雄、春日八郎、三波春夫の生き様と共にたどる。
詳細情報
番組内容
歌手・三橋美智也。ミリオンセラーは民謡を含めると20曲以上に及び、販売枚数は歌謡界史上最多の1億6千枚といわれている。その功績はいまだに破られず、次ぐ2位がB'z。ヒット曲の多さ以上に胸を打つのは、相次ぐ試練にくじけず、人生に挑戦し続けた姿勢だった。
番組内容2
三橋は春日八郎、村田英雄と共に“哀愁の御三家”としても人気を博した。また、三波春夫を加えた4人の歌は、この時代の人々の心を強くつかんでいく。しかし、栄光の裏には流浪の時代、葛藤や試練の日々があった…。
三橋美智也を中心に、昭和を駆け抜けた4人の歌手の生きざまを見つめる。
出演者
【出演】千昌夫、堀内孝雄、山田太郎 ほか
【語り】國村隼
初回放送日
2017/9/13
番組概要
国家壊滅の状態から未曾有の成長を遂げた時代・昭和。そこには、時代を先導したリーダーがいた。そんな偉人たちを、独自取材と真実のインタビュー、さらには貴重な映像を交じえてつづる、波乱万丈の偉人伝。
番組ホームページ
<番組ホームページはこちら!>www.bs-asahi.co.jp/ijinden/
制作
BS朝日、JCTV
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『昭和偉人伝 「歌手・三橋美智也(村田英雄、春日八郎、三波春夫)」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数BEST10)

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『昭和偉人伝 「歌手・三橋美智也(村田英雄、春日八郎、三波春夫)」』の解析用ソース(番組内容ネタバレ注意!)


それは
日本が育ち盛りの時代でした。

あしたは
今日より きっと良くなる。

誰もが そう思っていた。

キラキラと輝いていた彼らが
時を越えて語りかける。

♬~

達者でやってるかい?

(汽車の汽笛)

つらい別れの発車ベル。

誰もが胸に抱く郷愁の思い
『哀愁列車』。

そして…。

昭和35年の『達者でナ』。

古里の光景が まぶたに浮かぶ。

伸びやかで張りのある歌声。

哀愁あふれる その響き。

今宵の偉人は

歌謡曲のミリオンセラー18曲

レコードの総売り上げ
1億枚を誇る

昭和歌謡最大のヒット歌手

三橋美智也。

昭和33年の『夕焼とんび』。

童謡を思わせる歌詞が
テンポよく弾む名曲。

みんなで
「夕焼空が マッカッカ」って

こう 合唱しながら…。

♬~「とんびがくるりと
輪を描いた ホーイのホイ」

…って言いながら
帰ってたのを覚えてますね。

三橋さんの あの澄んだ声が

当時の
まだ公害がなかった日本の空に

もう 本当に響いてましたね。

三橋をはじめ

春日八郎 三波春夫

村田英雄が築いた

望郷歌謡の時代。

地方から上京した若者たちも

彼らの歌を圧倒的に支持した。

中でも 郷愁そそる三橋の歌声は

懸命に生きる人々の心を打ち

昭和30年代の歌謡界を席巻した。

♬~「おぼえているかい」

…ってやつですよ。

♬~「故郷の村」

この「村」を。

このね ここが難しいですね
やっぱり。

三橋さんのは 上品に こう

スムーズに展開しますよね
それが。


耳に 非常に
聴き心地がいい形で。

ああいう声の方は
いらっしゃらなかったですね。

それまで聴いた事がなかったです。

やっぱり 歌というのは
その方の人間性というか

自分が生まれた土地柄を

ちゃんと背負ってらっしゃるな
っていうのは

やっぱり すごく
魅力的だったんじゃないかな。

昭和34年の大ヒット曲 『古城』。

こぶしを抑えた歌声が
新たな境地を開いた。

更に ロックやラテン

新民謡まで

様々なジャンルの曲を

歌いこなした三橋。

昭和30年代の
人気歌手ベストテンで

女性は 美空ひばり

男性は 三橋がトップという時代が
長く続いた。

頂点に立つ者同士

友情秘話が
今宵 明かされる。

昭和37年の『星屑の町』。

この曲のあと 三橋に
ミリオンセラーは出ていない。

知られざる その理由とは…。

♬~『江差追分』

三橋美智也を育んだ 北の大地。

厳しい自然
つらく苦しい極貧生活。

民謡が愛されていた この土地で

三橋少年は 幼い頃から

のどを鍛えた。

やはり あの高音の
音色のいいですね

民謡からきてる… それも

なんとも言えない
味というか…。

ですね。

今の歌謡曲 演歌を
流行らせたのは

三橋美智也さんだと
私は そう思ってます。

古里への思いを歌わせたら
右に出る者はない。

がむしゃらに働いた大衆に
寄り添い

励まし続けた あの歌声。

学ぶべき世界が ここにある。

高度経済成長の一つ
岩戸景気が始まり

日本中でフラフープが大流行。

そして 皇太子殿下と
正田美智子様の婚約が発表され

ミッチー・ブームが巻き起こった。

誰もが未来を信じて
懸命に生きていた頃

疲れた心をほぐすように
温かい歌声が街に流れた。


三橋美智也の『夕焼とんび』。

この時
デビューして5年目の三橋は

民謡で鍛えた
伸びやかな声を武器に

人気を集めていた。

シンガーソングライターの
小椋佳は

当時
歌う事が大好きな少年だった。

三橋美智也さんの歌声を聴いて
ショックでしたね。

こんなに すばらしい人が
出てきたんだと思いましてね。

すっかり夢中になりました。

三橋さんの…
当時 ドーナツ盤で出る歌

出る歌 出る歌
全部 親に買ってもらって。

全曲 覚えてますよ。

だから 不思議なもんでね。

僕は 自分で作詞 作曲して
歌う人間ですが

自分の歌の詞は
1回も覚えた事ないんですよ。

でも いまだに三橋さんの歌だと

全部 歌が 詞が
ソラで出てくるんです。

『夕焼とんび』は
古里に残った弟が

東京へ出た兄を思い
空を舞うトンビに語りかける

叙情的な名曲である。

高度成長時代 働き口を求める
地方の若者たちは

集団就職で東京を目指した。

そんな若者たちが
遠く古里を懐かしむ望郷歌謡が

ヒットチャートをにぎわせていた。

三橋自身 北海道生まれで
志を持って上京した身。

その歌声で
地方出身者の思いを語り

熱烈な支持を受けた。

三橋は 自著
『ミッチーの人生演歌』の中で

古里を思う心のありようを
こう述べている。

三橋と交流が深かった

歌手 水前寺清子は…。

集団就職の皆さんが

そういう歌を聴く度
涙が出るように

そういう事は 全て
歌の中の声とか 歌い方とか

それに出てた大先輩ではないかと

そう思いますね。

シンガーソングライター
南こうせつは…。

草野球したり なんだかんだして

夕方になってくると

どこのお家の煙突からも
煙が出てくるんですよ。

『日本昔ばなし』みたいな
話なんです。

みんなで
「夕焼空が マッカッカ」って

合唱しながら…。

♬~「とんびがくるりと
輪を描いた ホーイのホイ」

…って言いながら
帰ってたのを覚えてますね。


だから 実に そのまんま
マッチしてたっていうか

いい歌。 なんか その印象ですね。

三橋さんの あの澄んだ声が

当時の
まだ公害がなかった日本の空に

もう 本当に響いてましたね。

『夕焼とんび』は

このあと 三橋の
哀愁あふれる美しい歌声が

次々とレコード盤に刻まれ

ファンを沸かせた。

昭和33年の『赤い夕陽の故郷』は

作詞をした横井弘は

倍賞千恵子の『下町の太陽』も
手がけたヒットメーカー。

このあと 三橋と
記憶に残る仕事を重ねていく。

そして 三橋は
こんなジャンルの曲にも

挑戦した。

昭和33年発売の
『センチメンタルトーキョー』。

この年
「日劇ウエスタンカーニバル」が開幕し

若者の間にロカビリー旋風が
吹き荒れた。

そして 『ダイアナ』や

『君こそわが運命』を歌った
ポール・アンカが来日。

ポールと ステージでの共演が
決まった三橋のため

ロックバラードのリズムに乗せた

『センチメンタルトーキョー』が
作られた。

当時の三橋は ほぼ

このペースは
昭和30年代を通して続き

キングレコードの屋台骨を支えた。

キングレコードで
三橋の担当ディレクターだった

斉藤幸二が当時の様子を語る。

そして 三橋美智也の
代名詞となった この曲。

『達者でナ』は
昭和35年の大ヒット曲。

地方の農村で手塩にかけたウマを
売りにいく男。

その切なる思いが
牧歌的につづられている。

全てがね いいお声で。

それで いいお声っていうのは

色んな
いいお声があるんですけども。

言ったように
古里を思うと

やっぱり 歌というのは

その方の人間性というか

自分が生まれた土地柄を

ちゃんと背負ってらっしゃるな
っていうのは

やっぱり すごく
魅力的だったんじゃないかな。

三橋の盟友 村田英雄の

マネジメントを務めた

新栄プロダクション社長で

歌手の山田太郎が語る

三橋美智也の魅力とは…。

三橋さんが出てきたおかげで

ウワ~っていう
熱狂的な歌謡曲ファンが

できたんじゃないかなと
僕は そう思うんですよね。

で 国際劇場という
東洋一の劇場があって

そこが…
浅草にあったんですけど。

そこに… 「三橋美智也ショウ」
っていうのを

必ず お正月にやるんですよね。

それを必ず見に行きましたね。

すごいんです。
その東洋一の劇場がですね

何週もしてるわけですね。

これは もう
記録的だと思うんですよね。

ドワ~ンと
一世を風靡したわけですから。

それこそ 全ての音楽的な娯楽を

三橋さんにドワ~ッて

すくわれちゃった
っていう感じですよね。

作家 立松和平は

ある週刊誌の企画で
三橋美智也を取材し

『達者でナ』の歌詞に潜む
もう一つの意味について

こう解き明かしている。

昭和30年代は

三橋で明けて三橋で暮れるとまで
言われた。

他の歌手が
束になってもかなわない。

三橋は
更に前を向いて走り続けた。

♬~「夕焼空が マッカッカ」

昭和30年代の歌謡界を
先頭で牽引した三橋美智也。

その輝きは 強力な
ライバルがいてこそ磨かれた。

そんな望郷歌謡ブームの
担い手たち。

キングレコードの
先輩歌手

春日八郎が

昭和32年に歌った
『あん時ゃどしゃ降り』。

独特の声で歌い上げる叙情歌にも
定評があった。

三橋は デビューの直後

春日の舞台で
前座歌手を何度も務めている。

キングレコードの
元制作本部長 満留紀弘に

当時の様子を聞いた。

そして もう1人。

昭和32年 三波春夫のデビュー曲
『チャンチキおけさ』。

三波は 浪曲界から
歌謡界に飛び込んだ当時を

こう振り返っている。

更に この人も…。

男 村田英雄の
ミリオンヒット曲 『王将』。

村田も また
浪曲界から飛び出す際に

三橋の活躍に大きな刺激を受けた。


会場で村田が叫んだ声は
三橋の耳にも届いていた。

以後 2人は
兄弟のように親密な関係を結ぶ。

新栄プロダクション社長で

歌手の山田太郎は…。

三橋さんがいて 三波さんがいて

それを村田さんが追っかけてる。

この本当の3人って 御三家

新御三家っていうのは

まさに この人が最初の…
僕は 御三家だと思います。

みんな 古里の歌であり…

悩んでる人を励ます歌であり

それで なんか…

男は こう生きるんだぞ
っていうようなね。

それぞれ三様に
皆さん持ってましたよね。

ですから 本当に
その中の第一人者で

一番最初に夢を与えた。

やっぱり 三橋さんっていうのは
このお二人にも…。

やっぱり
お二人も一目置いてましたしね。

ライバルたちと
しのぎを削りながら

昭和30年代の歌謡界で
頂点を極めた三橋美智也。

しかし
そこに至るまでの道のりは

ひと言では 言い表せないほど
険しいものだった。

昭和5年 北海道 函館に近い

上磯峩朗という小さな町で

三橋三智也

本名 三橋三智也は

産声を上げた。

父 亀造と母 サツの間に生まれた
初めての子供。

セメント鉱山で働く父と
愛情あふれる母に見守られ

美智也は 伸び伸びと育った。

父 亀造は
職場で一緒に働く若者を

よく家に連れてきては
酒盛りをしていた。

美智也は 父の膝の上に乗り

大人たちが騒ぐのを
ただ眺めているのが好きだった。

しかし 試練が いきなり訪れる。

父 亀造が働くセメント鉱山で
落盤事故が発生。

父は 命を落としたのである。

大黒柱を失ったあと
美智也を育てるため

母 サツが働き始めた。

たまたま
近くで暮らす男爵の家が

住み込みの家政婦を
募集していたのだ。

その男爵とは
造船業で財を成した

川田男爵は

イギリスから取り寄せた
じゃがいも

いわゆる男爵いもを
北海道に広めた人物である。

男爵が所有する大きな牧場が

美智也少年の遊び場だった。

ウシ小屋に潜り込んで
子ウシの隣で寝てしまい

「行方不明になった」と
大騒ぎになった事もある。

やがて
家庭環境に大きな変化が起きた。

美智也に
新しい父親ができたのである。

当時の美智也は
いわゆる虚弱体質だった。

息子の成長には やはり
父親の存在が必要かもしれない。

母 サツは 美智也の将来を案じて
再婚を決めたのだった。

義理の父と
うまく なじめるように

母 サツは 心を砕いた。

そんな優しい母親が

鬼のように変わる
ひと時があった。

♬~「大島」

母 サツは

娘時代 民謡歌手として

舞台に立っていた。

家庭に入ってからは

近所で開かれる
「民謡の会」に参加し

自慢の のどを披露していた。

美智也は
見よう見まねで民謡を覚え

周囲から天才と呼ばれるほど
上達が早かった。

すると 母 サツは
美智也が5歳の頃から

本格的に
民謡を教え始めたのである。

ただし 母の指導は
厳しかった。

♬~『江差追分』

北海道の しばれる冬の夜

何度 繰り返しても うまくいかず

ついウトウトと
睡魔が襲う時もあった。

だが サツの指導は 容赦がない。

母には母なりの
切実な思いがあった。

この子は 体が弱くて
肉体労働には向かない。

せめて 芸事で身を立てられれば

それが この子のためになる。

キングレコード
元制作本部長の満留紀弘は

三橋から子供時代の話を
聞いていた。

それには…。

だから やっぱり

母の厳しい指導が実り
民謡の腕を上げた美智也は

昭和14年
「全北海道民謡コンクール」に出場。


『江差追分』を歌って
優勝を果たした。

晴れ舞台で
栄誉をつかんだ美智也を見て

母 サツは 涙を流して喜んだ。

この1等賞により
天才少年民謡歌手 美智也の名は

北海道中に知れ渡った。

すると…。

そのうわさを聞いた
コロムビアレコードが

美智也を東京のスタジオに招いて

『江差追分』や
『じょんがら節』などを録音。

小学6年生の
レコードデビューだった。

更に もう一つの出会い。

津軽三味線の神様と呼ばれた
初代 白川軍八郎。

昭和19年 美智也は
舞台で白川の三味線を聴き

その魅力に引き込まれて
弟子入りを志願した。

小学校を出ると 美智也は
経済的な事情から進学を断念。

民謡歌手に交じって
巡業に参加した。

民謡で稼いで
少しでも貧しい家計を助けたい。

巡業の合い間には
津軽三味線の稽古にも励んだ。

遊びたい盛りの年頃。

巡業で
出演料の代わりにもらえるのは

わずかな野菜と塩漬けの魚。

働いても働いても
暮らしは 良くならない。

美智也の家は
貧乏のどん底にあえいでいた。

やがて
太平洋戦争の劣勢が進むと

巡業に出るのも命懸け。

米軍の戦闘機から機銃掃射を受け

もう駄目だと思った事も
一度や二度ではない。

それでも どうにか生き延びて
終戦を迎えた。

戦争は ようやく終わり
平和が訪れても

食料不足は 深刻なままだった。

三橋は 巡業先を東北まで広げて

民謡と津軽三味線浸けの日々を
送っていた。

大好きな歌を歌い
拍手を浴びながらも

三橋は
心の内に葛藤を抱えていた。

巡業仲間は 日銭が入ると
飲む 打つ 買うは 当たり前。

あしたは
あしたの風が吹くとばかり

享楽にふけっていた。

そんな芸人気質が
三橋の肌に合わなかった。

もっと堅実に生きたい。

あんな貧乏は もうこりごりだ。

でも 愛する民謡は極めたい。

一体 どうすれば…。

昭和25年のある日

三橋は
津軽三味線の師匠 白川軍八郎と

楽屋で2人きりになった。

民謡を極めたい願いと

堅実に生きたい思いとで
揺れる心を

三橋は 師匠 白川に打ち明けた。

すると 白川は…。

師匠 白川は 三橋の苦悩を理解し

民謡を続けながら どうしたら
堅実に生きられるかを

示してくれたのである。

三橋は
心から救われた思いがした。

そうとわかれば 行くしかない。

数日後の夜 公演が終わったあと

三橋は 誰にも内緒で
荷造りを済ませ

駅への道を急いだ。

今なら上りの汽車に間に合う。

東京までの切符を買うと
所持金は 残りわずか。

なんの当てもなかったが

民謡で鍛えた
のどと三味線があれば

どうにかなる。

不安と希望が入り交じる
三橋美智也。

三橋美智也が上京した昭和25年。

歌謡界では
こんなヒット曲が生まれていた。

映画スター 李香蘭こと
山口淑子が歌った『夜来香』。

そして…。

天才少女歌手 美空ひばりが

自分の姿を重ねて歌った

『越後獅子の唄』。

また 男性歌手では…。

小畑実が
シャンソン風のメロディーを

ロマンチックに歌い上げた
『星影の小径』。

当時は
敗戦の影を引きずりながら

朝鮮戦争の特需で

経済が大きく
発展する直前の時期だった。

そんな東京に
三橋は 足を踏み入れたのである。

まずは
働き口を見つけなければ…。

最初にエノケンこと
喜劇役者 榎本健一の家を訪ねた。

続いて 古川緑波の家。

三橋は 自分の
のどと三味線の腕があれば

雇ってもらえるに違いないと
期待していた。

ところが どちらの家でも
門前払いを食らった。


途方に暮れる三橋。

ふと2~3度 面識がある

尺八奏者 菊池淡水を思い出した。

三橋は 菊池が住む鎌倉を訪ねたが
番地がわからず

1軒ずつ表札を見て
菊池の家を探した。

翌朝 ようやく菊池本人に

会う事ができた。

事情を知った菊池は

「君も冒険だね」と苦笑いしながら

三橋の希望どおり
歌を聴いてくれた。

♬~「波は磯辺に」

歌い終わると 菊池は
「まあまあだね」と ほほ笑んだ。

しかし すぐに歌手にはなれない。

菊池は そうアドバイスして

働き口を探してくれたのである。

三橋は 横浜にある綱島温泉で

仕事にありついた。

毎朝 3時半に起きて
ボイラーに火を入れ

温泉や施設の
あらゆる雑用をこなし

空いた時間を見つけて
民謡の稽古。

子供の頃 ひ弱だった体は

ボイラーたきの重労働で
見違える程 たくましくなった。

そのうち 三橋が
民謡歌手と知った常連客から

民謡を教えてほしいと声が上がり

夜の決まった時間に
民謡教室が開かれた。

評判が伝わると
弟子の志願者は 数十人に増え

その月謝が三橋の生活を助けた。

三味線の師匠 白川のアドバイスが
現実になったのだ。

生活が落ち着いた三橋は
コツコツと勉強を続け

幼い頃
貧乏のために諦めた教育を

もう一度 受けられる事になった。

高校に入学した時 三橋は21歳。

同級生には
「おとっつぁん」と呼ばれた。

当時 明大中野高校の教員だった
石塚義一郎先生は

三橋の学生生活について…。

そしたら…。

学校で勉強するうち 三橋の中に
大きな夢が芽生え始めた。

将来は 大学を出て
実業家になりたい。

2つの夢を持った事が

後に三橋の人生に

大きな影を落とす事になる。

高校に入学した昭和27年

三橋は 知人の紹介で

NHKのラジオ番組

『民謡をたずねて』に出演し始めた。

三橋の歌と三味線が
全国に流れたのである。

だが 時には失敗もあった。

生放送の最中に のどが詰まり
一瞬 音が途切れた。

なんとか ごまかせたが
納得いかない出来だった。

放送を終えると
三橋は 悔し涙に暮れた。

もう二度とラジオでは
使ってもらえないだろう。

絶望のあまり 布団をかぶったまま
何日も家に閉じこもった。

数日後 1通の手紙が届いた。

東京へ来て2年

一度も会っていない母 サツの
懐かしい文字。

芸に厳しい母 サツが

あの失敗に気づかないはずがない。

それでも母は
東京で懸命に生きる息子を思い

励ましてくれた。

三橋にとっては
何ものにも代え難い激励だった。

すると 意外な形で転機が訪れた。

綱島温泉で民謡を教えていた弟子
平野繁松が

「NHK素人のど自慢」で優勝。

平野は キングレコードで
民謡を録音する事になり

三橋は 三味線の伴奏として
スタジオに同行したのである。

レコーディングが始まると
緊張のあまり

平野は
何度もテンポを外した。

三橋は 思わず
自分で歌ってみせた。

すると 居合わせた
レコード会社のディレクターが

三橋の歌声を聴いて顔色を変えた。

録音が終わり 帰ろうとした三橋に
ディレクターが声をかける。

三味線の伴奏に訪れた
レコード会社で

三橋は スカウトされたのである。

人生 何が起きるか わからない。

この出来事をきっかけに 三橋は

キングレコードと
専属契約を結んだ。

三橋が明大中野高校の恩師

石塚先生の家を訪ねた時の事。

ところが…。

そんな事を覚えてます。

昭和29年 三橋の新たな門出。

歌手 三橋美智也のデビュー曲
『酒の苦さよ』は

民謡 『新相馬節』のメロディーに
新たな詞をつけた作品。

三橋の伸びやかな声を生かすため
民謡調の流行小唄が選ばれた。

その吹き込みの当日
レコーディングは一発勝負。

歌謡曲の歌い手になるなど
夢にも思わなかった。

三橋美智也 23歳

終戦から10年後の

焼け跡から出発し

高度経済成長の
入り口に立った日本は

未来に向かって
突き進もうとしていた。

その勢いが地方から都会へ

多くの若者を引き寄せた。

ちょうど その頃 三橋美智也は

歌謡曲の歌手として
スタートを切った。

しかし 三橋のレコードは
なかなか売れない。

キングレコードの

元制作本部長
満留紀弘は…。

三橋が背水の陣で
取り組んだ曲。

昭和30年
三橋美智也 初めてのヒット曲

『おんな船頭唄』。

三橋は
それまでの民謡調から離れ

流行歌の歌唱法を身に着けようと

陰で努力を重ねていた。

民謡出身の三橋の歌は
重くなりがちだ。

また 北海道出身のため

「イ」の音と「エ」の音の区別が
あいまいだった。

そうした欠点を克服するため

三橋は
熱心にレッスンを繰り返した。

直立不動で歌われる。

『おんな船頭唄』の歌いだしは
伸びやかな高い音から始まる。

三橋最大の魅力が生きて

220万枚の大ヒットを記録した。

キングレコードで 三橋の
担当ディレクターだった

斉藤幸二は…。

全く

『おんな船頭唄』は
一番最初に覚えましたし…。

いや すごいな この人。

「この人」って言ったら
失礼ですけど

凄い歌手が出てきたんだな
っていうのは

子供心に…。

芸能プロダクションを
やってましたから。

こういう人じゃなきゃ
売れないんだなって。

そういうインパクトでしたね。
僕から…

子供にして
すごいインパクトだったですね。

更に 『おんな船頭唄』の大ヒットは
三橋の心も大きく動かした。

ヒットを放った翌年の春

三橋は 高校の卒業を控えていた。

大学に進学して
実業家への勉強を続けるか

それとも 歌を取るか。

そんな三橋のもとに
全国から届いた

熱い声援。

三橋が抱き続けた

だが いったん 大学を諦め

歌一本に絞ると決めた。

そこから
歌手 三橋美智也の

怒濤のような快進撃が
始まる。

『ご機嫌さんよ達者かね』は

作詞 高野公男
作曲 船村徹コンビの作品。

同世代の三橋は
2人に大きな刺激を受けた。

そして…。

昭和30年発売の歴史もの

『あゝ新撰組』は

110万枚の売り上げを記録。

勢いを得た三橋のヒット曲街道は

まだまだ続く。

昭和31年の『リンゴ村から』。

古里の畑で色づくリンゴを見れば
あの子の笑顔を思い出す。

切ない男の思いが

270万枚の大ヒットを生んだ。

歌手 小椋佳は 今もステージで

『リンゴ村から』を歌っている。

僕の生い立ちの中で
好きになった歌を

ずっと歌うっていう…。

そういうステージの中では 必ず

ひばりさんの
『リンゴ追分』があって

三橋さんの『リンゴ村から』が
入ります。

♬~「おぼえているかい」

…ってやつですよ。

♬~「故郷の村」

この「村」を。

このね ここが難しいですね
やっぱり。

これもね 後の演歌の人が

ほら がなり歌にして
歌っちゃう場合があるでしょ。

あれは 僕
下品で好きじゃないですね。

三橋さんのは 上品に こう

スムーズに展開しますよね
それが。

耳に 非常に
聴き心地がいい形で。

人々の心をつかんだ三橋の歌声。

更に 望郷歌謡の
頂点といわれた名曲…。

昭和31年の『哀愁列車』。

それまでの三橋の歌にない
リズム感とテンポの良さが光る。

作詞は
『赤い夕陽の故郷』の横井弘。

この曲の頭で
「惚れて」という歌詞が

3度 繰り返される。

「惚れて」を3度繰り返すのは

作詞家 横井のアイデアだ。

三橋の魅力
高くて張りのある声を

ファンに
たっぷり聴かせたいという

サービス精神である。

大好きでしたけど

難しい歌でしたね。

音域がね 上から下まで。

音から音に行く時の
寄り道ですよね。

そのこぶしを
音符どおりに歌うと

三橋さんのこぶしには
ならないんですよね。

あれは「惚れて」って
言ってるんですよ。

♬~「惚れて」

…って やんなきゃいけないの。

でも 音符で書くと
そう書けないんですよ。

♬~「惚れて」

…で いいわけですから。

そこの「れ」と「て」の間に…。

♬~「れ~て」

…って やんなきゃいけないです。

それが ごく下品じゃなく

品のいい形で 短時間に凝縮して

その寄り道をフッとやるわけです。

そこは もう なんとも言えない。

そして この曲は
三橋自身の人生を

重ねた歌でもある。

誰にも相談せずに古里を出たのは
その6年前の事。

記憶は 更にさかのぼる。

故郷の山や川 母の顔

つらかった巡業暮らしが
よみがえる。

みんな 古里の望郷を思って

「惚れていながら 行くおれ」を

あとを追いながらっていう
なんかね

そういう なんか こう

実際に
その当時 歌を聴いた人は

俺を歌っているんだ
っていうふうにね

皆さん 思ったと思うんですよ。

戦後 「お前
頑張って行ってこい」って

言われた人たちが

「はあ~ いいな~
古里 懐かしいな」と

しみじみ感じたんじゃ
ないかなと思いますね。

人々の共感を呼び
今も歌い継がれる『哀愁列車』は

250万枚の大ヒットを記録した。

三橋は
昭和30年と31年の2年間で

ミリオンセラー8曲を達成。

一躍 キングレコードの

稼ぎ頭となったのである。

作家 立松和平は

三橋美智也の
すさまじい人気について

このように分析している。

大衆が抱く望郷の思いは
もとより

心の痛みまでも すくい取り

歌謡界の頂点に立った男。

輝かしい日々は 更に続いた。

♬~「惚れて 惚れて」

昭和30年代の歌謡界を
引っ張った三橋美智也。

望郷歌謡以外でも

三橋のライバルとなった歌手は
多い。

例えば…。

昭和32年 フランク永井が歌った

『有楽町で逢いましょう』。

伸びやかな高音を聴かせる
三橋とは対照的に

フランク永井は 低音の声が魅力。

2人のスターに
ファンは 大いに盛り上がった。

そして…。

若原一郎。

昭和33年のヒット曲
『おーい中村君』。

サラリーマン同士のやり取りを
コミカルに描き

時代の空気を捉えて人気を集めた。

同じキングレコードの歌手
春日八郎

三橋美智也と若原一郎は

「キング三羽烏」と呼ばれた。

そして もう1人

昭和歌謡を語るうえで
欠かせない女王

『港町十三番地』は

美空ひばり 昭和32年の作品。

港町を舞台にした
陽気なマドロスソングが

ファンの熱い支持を受けた。

その後 ひばりと三橋は

舞台で共演。

以来 ひばりの母親

加藤喜美枝も交えて

家族ぐるみの付き合いが続いた。

ひばり親子も認めた芸の鬼。

頂点に立った者にしかわからない

栄光と孤独。

三橋美智也さんっていうのは
本当に

自分の生きざまというか

自分が思った事を

何を言われても 僕は
これをやるんだという気持ち。

で お三味線とか 民謡の方でも
第一人者だったし

やっぱり すごい方は
何があっても すごいんだな

っていう印象
やっぱり 強いですね。

マネはできないけども

0.0いくつぐらいは

少し近づきたいなと
思いますけども。

数多くの歌い手と
競い合いながら

表現の幅を広げていった
三橋美智也。

その人気ぶりは
年を追うごとに高まっていった。

驚異的な勢いは 衰えを知らず
昭和30年代後半に突入する。

昭和35年に放送を開始した
テレビ映画

その主題歌を
人気絶頂の三橋美智也が歌い

話題を呼んだ。

昭和30年代 歌謡曲や民謡を含め

毎月のようにレコードを
出していた三橋美智也。

中には 従来の名曲を
カバーしたものもある。

作曲家 瀧廉太郎が
明治34年に書いた『荒城の月』。

瀧は 大分県竹田市にある
岡城を見て

曲を構想したといわれている。

三橋美智也は
音楽史に残る名曲を

哀愁あふれる表現力で
見事に歌いきった。

その後 レコード会社は

『荒城の月』のイメージで

三橋の新作を作ろうと
動き出した。

三橋美智也が
一生 歌い続けられる

スタンダード作りが
ここに始まったのである。

作詞には

大ベテランの高橋掬太郎を起用。

高橋は 作曲界の重鎮

古賀政男の出世作

『酒は涙か溜息か』の
作詞者である。

高橋は 「特定の城を
描いたのではない」としながら

江戸城の本丸跡や伏見櫓を見て
イメージを膨らませたようだ。

書き上がった詞は
『一本刀土俵入り』の作曲家

細川潤一の手に渡った。

難しい注文に悩んだ細川は

「開き直って曲をつけた」と
後に語っている。

そして 三橋のもとに
完成した譜面が届いた。

一生 歌い続けられる
スタンダードとは…。

こぶしは
あまり回さない方がいいだろう。

でも どこかで
自分らしさも出したい。

悩むだけ悩みながら
曲想は 次第に固まっていく。

こうして 男たちが難題に挑み

完成した曲が…。

昭和34年の『古城』。

三橋の憂いを帯びた歌声が
曲のイメージとマッチし

狙いどおりの名曲となった。

そして エンディング近く
女性コーラスが

一瞬だけ『荒城の月』の
メロディーをなぞり

オマージュを捧げている。

♬~「声悲し」

♬~

かつて 三橋の専属司会を
務めていた玉置宏は

『古城』について こう述べている。

♬~「松風騒ぐ 丘の上」

…って もう 本当に
『古城』の歌を歌う時は

とても 染みてくるんですね。

三橋さんの あの姿が。

いや~ よかったですよね。

そして この歌の特徴を

今でも覚えてますけど。
サビにいくところが…。

♬~「栄華の夢を 胸に追い あゝ」

ここはね ノーブレスで
いくんですよ 三橋さんは。

で 大体の大人は
そこでね ブレスしないと…。

♬~「胸に追い あゝ」

…ってやらないと
歌えないんですけど

三橋さんは
ブレスしないんですよね。

ここなんですね
三橋さんの すごいのは。

肺活量 すごいんですよ
ちっちゃいけど。

それで あの奇麗な声を
出していくんですね。

で 繊細に繊細に
最後の小節まで…。

♬~「胸に追い あゝ 仰げば」

…って きちっと そこまで
ごまかさないで。

それがね 全曲 そうなんですよ。

これ やっぱり
すごいなと思いましたね。

三橋美智也をはじめ

スタッフの努力と思いが実を結び

『古城』は 売り上げ300万枚を記録。

歌手生活
最大のヒット曲となった。

聴く人の数だけ
思い描く「古城」がある。

その豊かなイメージこそ
名曲の証しである。

時計の針を少し戻してみよう。

により 地方から都会に
多くの若者が集まった。

その一方で 都会になじめず

脱落した人もいる。

三橋美智也は
そんな若者たちの痛みにも

寄り添っていた。

昭和32年の『おさらば東京』。

洋楽風のリズムと
民謡調が溶け合い

三橋の節回しが
独特の悲しみを表している。

時が流れ 望郷歌謡が
一世を風靡した時代が遠のくと

故郷の存在感が
少しずつ薄れていった。

かつて 望郷歌謡で
競い合った歌手たちも

それぞれ個性を打ち出す方向に

シフトしていく。

そんな中 三橋美智也は
原点を忘れず

新民謡と呼ばれるジャンルにも
取り組んだ。

昭和36年に
三橋が歌った『武田節』。

元々 地元 山梨県の職員らが

昭和30年に故郷を歌う
新民謡を制作。

これに目をつけた
キングレコードが

武田信玄の代名詞
風林火山の詩吟を挟み

レコード化したのである。

少し

ルーツである民謡を
大切にしながら

表現の幅を広げようと
チャレンジを続ける三橋美智也。

やがて 三橋は
更なる新しい挑戦に乗り出した。

西田佐知子が昭和37年に歌った
『コーヒー・ルンバ』。

戦後 怒涛のように流れ込んだ
ラテン音楽のリズムは

若者を中心とした音楽ファンに
すっかり定着していた。

一方で 日本風にリズムを
アレンジする動きも見られた。

昭和36年の『東京ドドンパ娘』。

軽快なドドンパは

実は 日本で作られた
リズムなのである。

三橋は 流行のリズムを
敏感に取り入れた。

そして
新しいサウンドが生まれた。

昭和37年の大ヒット曲
『星屑の町』。

『星屑の町』…
中学校になった時に

ヒットチャートの
歌謡番組みたいなのがあって

帰りのゲタ箱の所で 友達の…。

あれ 誰だ?
クスノキ君だったかな?

ハセ君かイケベ君だ。

「せっちゃん
ゆうべの聞いた?」って。

「何?」 「三橋美智也の…」。
こう 靴履いてたら

「『星屑の町』歌って…」。

「かっこいいよね」って
言ったの覚えてます。

♬~「両手をまわして」

♬~「カカン カカン カカン」

♬~「帰ろう」

♬~「揺れながら
カカン カカン カカン」

っていうのが…。

ロックンロールバラードに
通じる…。

三橋自身も
レコーディングの際に

手応えを感じていた。

この『星屑の町』で

三橋は歌手にとって
最高の栄誉とされる

更に三橋は こんな曲を
レコードに残している。

昭和38年

東京都東村山市の
市制施行を記念して

『東村山音頭』が作られ

三橋は 民謡歌手 下谷二三子と
録音に参加した。

最初は あまり
話題にならなかった この曲。

だが ザ・ドリフターズの
志村ケンが

テレビ番組で歌うと

東村山の名は
全国に知れ渡った。

歌謡界をリードしながら
貪欲に進化を続ける三橋美智也。

その裏側で
思わぬトラブルが起きていた。

昭和38年頃 三橋は
声帯の不調を感じていた。

高い音がかすれたり
音程が微妙に外れる事が

幾度となく起きた。

それ以前の三橋には
考えられなかった事である。

当時の三橋は 30代前半。

まだ若いだけに
受けたショックは大きかった。

結局 声帯を休める事が
一番いいとなり

三橋は 昭和39年頃の一時期

できるだけ仕事を抑えて
静養に努めたのである。

という気がしますけどね。

この三橋の静養が
思わぬ余波を生む。

昭和39年開催の

東京オリンピック テーマソング
『東京五輪音頭』。

各社競作で 多くの歌手が
レコードを出したが

作曲の古賀政男は 三橋を想定して
曲を書いたといわれている。

ところが のどを休めるため
三橋の宣伝活動が出遅れた。

結果的に三波春夫のレコードが
最も売れて

『五輪音頭』といえば
三波というイメージが定着した。

静養に努めて
のどが快復した三橋は

以前と同じペースで
レコードを発売。

だが 声は戻ったのに
何かが違う。

『星屑の町』を最後に 三橋の

それと やっぱり

更に プライベートでも
足踏みが続く。

昭和41年

9年間 連れ添った妻との離婚。

翌年には再婚したが

その騒動が影響し

『NHK紅白歌合戦』の

出場辞退に追い込まれた。

本業が振るわなければ
過去の夢が首をもたげる。

三橋は
一度諦めた実業家への道を

再び歩み始めた。

勧められるまま
宝石店やホテル経営などに

出資や名義貸しを行った。

それが
後に大きなトラブルに発展し

三橋は
多額の借金を背負ったのである。

三橋と深い交流があり

親友と認め合う落語家
立川談志が

こんな言葉を送っている。

ヒットチャートから
次第に遠ざかる。

デビュー以来 10年あまり
トップを走り続けた三橋が

スターになって初めて経験する
大きな試練だった。

昭和48年

南こうせつとかぐや姫が歌った
『神田川』。

そして…。

小椋佳
昭和46年のレコードデビュー曲

『さらば青春』。

昭和40年代 歌謡界を
フォークソングが席巻した。

南こうせつや小椋佳 井上陽水ら
シンガー・ソングライターは

自らのメッセージを思いつくまま
メロディーに乗せた。

その自由な感覚が
若者たちの共感を呼んだ。

ところが 意外にも

当時 活躍した
フォークシンガーの多くは

子供の頃 三橋美智也の
大ファンだったのである。

南こうせつも その1人。

風の中でも心地いい風。

秋の
ふわっと涼しい風だったり…。

なんか こう…

心地いい風が吹くんですよね
三橋さんの声って。

それでね 日本人に
やっぱり受けるのは

声に哀愁があるんですよ。

やる気満々とかよりね
哀愁があるんです。

あれがいいよね。

僕は 後に
フォークソングっていう歌を

歌っていくんですけども
三橋さんの あの奇麗な声

それから
ちゃんと歌うっていうところが

なんとなく影響を
受けたかなと思いますね。

また シンガー・ソングライター
小椋佳は…。

三橋さんが歌手として

あれだけすばらしい歌を
歌われてるという事で

僕は 自分が人前で歌うような
人間には

絶対なれないと思ってました。

僕なんかは とても…。

歌手なんて言えない。

三橋美智也に憧れて育った世代が

歌謡界に新たな歴史を刻んでいく。

その頃 三橋は
ヒット曲に恵まれない中で

じっとチャンスを待ち続けていた。

そんな三橋の歌声が

ある時期から全国に流れ始める。

昭和49年から流れ始めた
テレビのCM曲。

後に『いいもんだな故郷は』と
タイトルがついた この曲は

20年近く お茶の間に流れ
三橋の新たな看板となった。

更に三橋は
ファンに意外な一面を見せる。

昭和54年
ミッチー&テリーが歌った

『THE TOMBI』。

『夕焼けとんび』をディスコ調に
アレンジした作品で

ミッチーは もちろん三橋美智也。

テリーとは プロデューサーを
兼任したギタリスト

寺内タケシの事である。

三橋が
ミッチーと名乗り始めたのは

昭和53年に
ラジオのディスクジョッキーを

引き受けた事がきっかけだった。

番組に寄せられた
相談や悩み事に対し

ミッチーこと三橋は
歯に衣着せず ストレートに回答。

それが若者たちの共感を呼んだ。

更にジョン・トラボルタばりの
派手なCMや

ディスコ調のレコードを発売し

若者の間にミッチーブームを
起こしたのである。

それで…。

昭和58年 歌手生活30周年の
記念すべき年に

三橋は レコードプレス
累計1億枚を達成した。

シングル盤 およそ420種
LP盤 およそ190種という

膨大な仕事を
積み重ねた結果である。

この30周年に 小椋佳は

三橋からシングル曲の制作を

依頼された。

三橋さんから声がかかって

「自分が歌う歌を
作ってくれないか」ってお話が

来た時はね
いや うれしかったですよ。

あんなに憧れた人は

いませんでしたから
歌い手さんで。

その人の歌を
僕は作れるのかと思ってね。

ご自宅に呼ばれて…。

それまでの小椋佳を

色々
聴いてらっしゃったんでしょうね。

だから
「君の思うような歌でいい」と。

と思いましたね。

小椋佳 作詞 作曲による
30周年記念曲 『十六夜だより』。

子供の頃 心躍らせた
あの歌声を もう一度。

小椋が書き上げた
軽やかなメロディーを

三橋は 美しく歌い上げた。

♬~「風 吹き消さず」

三橋の曲に憧れて 歌の世界に
飛び込んできた後輩たち。

若い世代からのエールを受け取り

三橋の足取りは
更に力強さを増した。

そして 三橋の世代も動き出した。

昭和63年

春日八郎 三橋美智也 村田英雄が

「三人の会」と名づけた
ジョイントコンサートを開催。

きっかけは
その数年前にさかのぼる。

あるテレビ番組の収録の楽屋で

村田が 春日と三橋に
話しかけてきた。

とにかく
歌謡界に活気がない。

このままでは
駄目になってしまう。

昭和30年代

同じ望郷歌謡の
担い手であった3人には

それぞれ個性がある。

春日八郎は 東洋音楽学校出身で
遅咲きの苦労人。

村田英雄は 浪曲師出身で
豪放磊落な自由人。

そして 三橋美智也は
民謡をベースに

類まれな歌声を自在に操ってきた。

3人に共通するのは
何より歌が好きな事。

喜んでくれるお客様のため

命懸けで歌う事が喜びなのだ。

いや~ これね…。

とかね あるんですよ。

みんな 3人 糖尿病ですから

それぞれ お疲れですから

リハーサルも1回で終わらせて

すぐ本番へいこうねって。

で その時は
ちょっとゲストも入れて

テレビも放映して
やろうよっつって。

この「三人の会」は
私自体も非常に…。

今まで突っ込んでた
損したものを取り返したぐらい

お客さんが入りましてね。

裏方として
ああ よかったなと思いましたね。

若い世代に負けてなるものか。

時代の荒波を乗り越えてきた
3人の同志が

ステージ狭しと繰り広げる熱演に

ファンは 大きな喝采を送った。

この時間が長く続いてほしい。

そう思っていた矢先…。

平成3年10月

春日八郎は
肝硬変により帰らぬ人となる。

そして

幸い村田は 命を取り留めた。

三橋は 心から村田を励ました。

春日先輩の分まで歌い続けたい。

だが 運命の時は
三橋の足元まで迫っていた。

平成7年10月

長く尾を引いた離婚問題が
ようやく決着。

年明けには 新しい事務所を開き

心機一転
巻き返しを図る事に決めた。

三橋は やる気にあふれていた。

それで…。

だが ゴルフ場からの帰り道
突然の心臓発作。

意識は 二度と戻らなかった。

日本が がむしゃらだった時代。

人々と共に笑い 共に涙してくれた
あの歌声を

私たちは 忘れない。

歌い手さんが
たくさん出てきてますけど

三橋さんほどの人は
出てきてないから。

っていうのは
これ 訓練しても 努力しても

どうしようもないものかも
しれませんね。

三橋さんの あの声と
同じ声 出せっていったって

無理ですよ。

だけど…。

お家の事とか ご家族の事

そういう話は
一切しませんでしたけど

歌を聴いてると
きっと色んな事を経験されて

あのお歌で あのお声で
すごい人気だったんだなと。

だから やっぱり
ウソをつかないで

真っすぐに
歩いてきた方なんだなと

それは そう思いますね。

やっぱり 真っすぐが
一番いいですね。

非常にオーソドックスで

堂々とした あのステージ。

歌謡界の第一人者ですね。

今の歌謡曲 演歌を

流行らせたのは

三橋美智也さんだと

私は そう思ってます。

そして この国の四季を愛でて

そして 声にして歌う。

その なんか

アイデンティティーにある人ですね。

三橋さんは そう思います。

三橋美智也が この世を去ってから
20年あまり。

音楽は 今も人々の暮らしに
欠かせない大切なもの。

その原点が あの時代にあった。

♬~「わらにまみれてヨー」

当時の三橋人気を
物語るように

全国各地にヒット曲を
記念した歌碑が建ち

ファンが今も足を運んでいる。

高度成長時代の日本。

おびただしい数の若者が
都会に夢を求めた。

歴史的な経済発展の裏側で

古里を思う気持ちが
この国にあふれていた。

目を閉じれば いつでも聴こえる。

人々の心に寄り添った
あの伸びやかな歌声が…。


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