昭和偉人伝 #105「松下幸之助・井植歳男」 “家電王国ニッポン”を生んだ2人の巨人、家電兄弟の軌跡…


『昭和偉人伝 #105「松下幸之助・井植歳男」』の番組情報(EPGから引用)


2018/06/06(水)
[字]昭和偉人伝 #105「松下幸之助・井植歳男」
戦中・戦後、日本経済の動乱期を乗り越え、今なお“経営の神様”と称される松下幸之助と、その松下を支えた義弟・井植歳男。家電王国ニッポンを生んだ家電兄弟の軌跡を辿る
詳細情報
番組内容
今なお“経営の神様”と称される松下幸之助。その陰には共に経営に取り組み、松下を支え続けた義弟・井植歳男の存在があった。“家電王国ニッポン”を生んだ2人の巨人、家電兄弟の軌跡をたどる。
▽無い無い尽くしからの出発(松下幸之助)▽船乗りを諦めた少年(井植歳男)▽松下電器の発展と戦争▽松下最大の危機と三洋電機誕生
番組内容2
常に生活者目線で物事を考えた松下幸之助と、その哲学を行動で実践した井植歳男。戦後、やむなく袂を分かった後も、2人の互いへの信頼は変わらなかった。家電兄弟の人生をひも解くことで、日本人が今も見習うべき生き方、精神を浮き彫りにする。
出演者
【語り】國村隼
初回放送日
2018/6/6
番組概要
国家壊滅の状態から未曾有の成長を遂げた時代・昭和。そこには、時代を先導したリーダーがいた。そんな偉人たちを、独自取材と真実のインタビュー、さらには貴重な映像を交じえてつづる、波乱万丈の偉人伝。
番組ホームページ
<番組ホームページはこちら!>www.bs-asahi.co.jp/ijinden/
制作
BS朝日、JCTV
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昭和偉人伝 #105「松下幸之助・井植歳男」
  1. 幸之助
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  9. 会社
  10. 三洋電機



『昭和偉人伝 #105「松下幸之助・井植歳男」』の解析用ソース(番組内容ネタバレ注意!)


それは
日本が育ち盛りの時代でした。

明日は 今日より きっと良くなる。

誰もが そう思っていた。

キラキラと輝いていた彼らが
時を越えて…。

♬~

お元気ですか?

経営の神様と呼ばれた松下幸之助。

その経営理念や思想は
企業の経営者のみならず

政治家から庶民まで
幅広い層に

今なお
大きな影響を与えている。

大阪府門真市にある
松下幸之助歴史館。

松下幸之助の生涯と

彼が生み育てた松下電器

現在の
パナソニック株式会社の歩みが

豊富な資料と共に紹介されている。

戦後から 高度経済成長時代

人々の暮らしを豊かにした
家電製品。

その優秀さにより 世界中に

「家電大国ニッポン」の名が
とどろいた。

その礎を築き
家電業界を牽引したのが

松下幸之助である。

実は 松下電器の創業から
およそ30年にわたり

幸之助の右腕となり
支えた人物がいた事を

ご存じだろうか?

今宵は 経営の神様 松下幸之助と

それを支えた 隠れた巨人の物語

その真実に迫る。

明治37年 松下幸之助は

9歳で奉公に出て
大阪市内で働き始めた。

当時 新たなエネルギー 電気が
世の中を変えつつあった。

幸之助はですね
明るい電灯がついた

西洋建築が立ち並んでいる
大きな通りを

市電がですね たくさんの人を
乗せて走っている姿を見て

これから 電気の時代が来る
という事を直感しました。

家電事業を起こした幸之助は
様々な困難に直面しながら

抜群の経営能力と強い意志で
会社を発展に導いた。

その時 体が弱い幸之助の
手足となって 全国を飛び回り

陣頭指揮に当たったのが
もう一人の巨人である。

ですから…。

やがて 戦争が始まり

幸之助の会社も
否応なく軍需産業に組み込まれ

船を造れ 飛行機を造れと
軍部の命令。

無理難題を創意工夫で成し遂げた。


しかし 戦争が終わると
その貢献が裏目に出て

幸之助ら役員全員が
職を追われる危機に直面した。

もう一人の巨人は

松下電器を辞めざるを得ない
現実を受け入れた。

そして 長年の経験を元に
家電事業を起こし

今度は ライバルとして
幸之助の前に現れた。

人々の暮らしを豊かにした
家電製品の数々。

そこには 貧しさや苦しみから
人々を救おうとする信念と

熱い夢が込められていた。

ものづくり 人づくりに

信念を持って取り組んだ
松下幸之助と

彼を支え
共に家電大国ニッポンを築いた

隠れた巨人。

学ぶべき世界が ここにある。

♬~「山の牧場の 夕暮に」

♬~「雁が飛んでる
ただ一羽」

美空ひばりの『あの丘越えて』が
街に流れた 昭和26年

日本は
戦後の混乱が ようやく収まり

朝鮮戦争の特需により
景気が上向き始めていた。

この年 家電メーカー 松下電器

現在のパナソニック株式会社の
創業者 松下幸之助社長が

世界一の大国 アメリカへ
視察に旅立った。

敗戦から立ち上がった今

世界に目を向け
事業を拡大するためには

まず 謙虚に海外から学ぶべきと
幸之助は考えた。

幸之助が目にしたアメリカの豊かさは
驚くべきもので

特に
家電製品の充実が目を引いた。

先進国 アメリカでは
洗濯機や冷蔵庫が普及し

女性は 家事の重労働から
解放されていたのである。

パナソニック株式会社
歴史文化コミュニケーション室室長の

赤松伸彦さんに

松下幸之助が
アメリカ視察で得た成果を尋ねた。

幸之助は アメリカでは

万事 女性が活躍しているなという
強い印象を受けました。

そこには
最新式の冷蔵庫がありました。

この姿を見て 幸之助は

日本でも 台所を
根本的に良くしてですね

女性が活動できる時間を
作らなければならない

女性の生活の改善という視点から

当社も しっかり
研究をしなければいけない

という思いを持ちました。

帰国した幸之助は

家庭の主婦を家事の重労働から
解放する事が重要だと

家電製品の開発部隊に発破をかけ

まず 昭和26年
攪拌式洗濯機の1号機を発売。


そして 昭和27年に
白黒テレビの1号機…。

さらに 昭和28年には

冷蔵庫の1号機を
世に送り出したのである。

家電各社が売り出した
洗濯機 テレビ 冷蔵庫は

当時 三種の神器と呼ばれた。

同じ頃 やはり 家事の重労働と

女性の問題に取り組む

もう一つの家電メーカーがあった。

三洋電機。

昭和28年に発売した
日本初の噴流式洗濯機は

布地が傷みにくいと評判を呼び
ヒット商品となった。

三洋電機は 戦後の
昭和22年に創業した後発メーカー。

創業者の井植歳男は

市場の先を読む力と
抜群の行動力で

三洋電機を 瞬く間に
日本有数の家電メーカーに育てた。

♬~「君の名はと
たずねし人あり」

『君の名は』がヒットした
昭和28年

松下電器から
三種の神器が出そろい

三洋電機が噴流式洗濯機を
発売した この年を

評論家 大宅壮一は

「家電元年」と呼んだ。

家電産業の発展と共に

日本は
高度経済成長時代に突入する。

そうした家電ブームを作った
中心人物が

松下幸之助と井植歳男である。

大阪大学名誉教授で

関西実業界の歴史に詳しい
宮本又郎さんに

幸之助と井植が
家電産業に果たした役割を聞いた。

ライバルメーカーの
創業社長として

しのぎを削った
松下幸之助と井植歳男。

この2人 実は義理の兄弟なのだ。

幸之助の妻 むめのの弟が
井植歳男である。

しかも 松下電器が創業した
大正7年から

終戦後の昭和21年までの
およそ30年間

井植は 幸之助の右腕となり
数々の危機を共に乗り越えた

松下電器の経営幹部だった。

評伝『家電兄弟』の著者で

作家の阿部牧郎が語る
2人の関係。

ですから…。

松下幸之助は
どのような経営者人生を歩み

それを 井植歳男は
どう支えたのだろうか。

そこには
互いの長所を認め合いながら

知恵を絞り 汗をかき
立ち止まらずに前へ進んだ

経営者2人の激動の人生があった。

♬~「火筒の響き遠ざかる」

♬~「跡には虫も声たてず」

日清戦争が勃発した明治27年。


松下幸之助は

和歌山市の東
紀の川のほとりにある

和佐村という農村で
生まれた。

8人兄弟の末っ子。

松下家は旧家で
比較的 豊かな暮らしぶり。

生家には 樹齢 数百年の
立派な松の木があり

松下という姓は
この松に由来するという。

ところが
父が米相場に手を出して失敗。

土地や家を手放し
父は 単身 大阪へ働きに出た。

和歌山に残った幸之助は
母と留守を守った。

明治37年の秋
大阪にいた父からの勧めで

幸之助は
尋常小学校を4年で中途退学し

大阪市内にある火鉢屋へ
奉公に上がった。

この時 幸之助は9歳だった。

当時の思いについて

幸之助は
自伝『私の行き方 考え方』に

こう記している。

しかし 奉公先が店を畳み

幸之助は
別の自転車店に引き取られた。

大阪に出て2年後 父が病死。

悲しみを胸に 奉公を続けた。

ある時 幸之助は
大阪の市電を見て ふと思った。

市電が増えて便利になれば

自転車が
売れなくなるかもしれない。

それに引き換え 電気の将来は
なんて明るいのだろう?

パナソニック株式会社の
赤松伸彦さんは

幸之助が 電気事業に目を付けた
きっかけについて…。

幸之助が
丁稚奉公をしていた時代にですね

大阪では
電灯が普及し始めまして

そして
市電が走りだしたんですね。

そして ある日 幸之助はですね

明るい電灯がついた

西洋建築が立ち並んでいる
大きな通りを

市電がですね たくさんの人を
乗せて走っている姿を見て

これから 電気の時代が来る
という事を直感しました。

また 大阪大学名誉教授の
宮本又郎さんは…。

電気に関わる仕事がしたい。

幸之助は
15歳で奉公先を飛び出し

大阪電燈に就職。

屋内配線の工事をしながら
電気の知識を学んだ。

持ち前の勤勉さと仕事の正確さで
幸之助は 順調に 昇進 昇給する。

やっと
親孝行ができると思った矢先

大正2年に母が病死。

幸之助は
言いようのない寂しさに襲われた。

♬~「いのち短し 恋せよ乙女」

大正4年 幸之助は
大阪に出て働いていた

井植むめのという女性を
紹介される。

お互い 顔も満足に見ないまま
結婚を決めたという。

この結婚は 幸之助に
安らぎと張り合いを与えた。

そして 幸之助の人生に
深く関わる人物

むめのの弟
井植歳男との縁を授けた。

淡路島の東側
大阪湾に面した浦という地区が

井植歳男と むめのの ふるさと。

明治35年 井植歳男は
長男として生まれた。

姉が4人 妹1人 弟2人の
8人兄弟。

家は 代々続く自作農家だった。

父は 農業の他

自前の船で 大阪や九州に出かけ
貿易を行っていた。

しかし
井植が高等小学校1年の時に

父は怪我で急死。

その後 井植は船乗りになる。

ところが 乗っていた船が

倉庫の爆発事故に巻き込まれて
沈没。

間一髪で助かった井植は
船乗りをやめた。

ちょうど その頃

大阪で暮らす姉 むめのから

仕事を手伝ってほしい
と連絡が入る。

義理の兄 幸之助が

会社を辞めて
事業を起こすというのだ。

大正6年 井植は
幸之助の仕事を手伝うため

大阪にやって来た。

この時 幸之助 22歳
井植は14歳。

井植が 幸之助の家に着いたのは
ちょうど お昼時だった。

「おお 来たか」。

姉は 井植の分まで
食事を用意していたのだが…。

家に来る途中
井植は空腹のあまり

道頓堀で
うどんの玉2つに 餅の入った

びっくりうどんを食べていた。

井植がしょげるのを見て
幸之助は 優しく語りかけた。

幸之助は 若くて健康な井植を
心底 うらやましいと感じた。

以前から 幸之助は体が弱く

体調を崩して寝込む事も
多かったのである。

大阪電燈を辞めて
事業を起こしたのは

この体では 会社勤めが難しいと
考えたせいもあった。

当時は日給制でして

幸之助は
体が弱かったものですから

休んでしまうと

いわゆる 収入が途絶えてしまって
苦しくなる。

自分で事業をすれば
それもなくなると

そういった思いも
あったようです。

こうして
妻と義理の弟 井植の協力を得て

松下幸之助の新しい事業が
スタートした。


幸之助が手掛けた商品は

松下式ソケットと呼ばれる
電気器具だった。

幸之助は
大阪電燈の社員だった時代から

ソケットの改良が必要だと感じ
自ら開発を続けてきた。

ソケットの胴体に使う
煉物の調合は難しく

各社の企業秘密だった。

幸之助は 試行錯誤して
煉物の調合に成功する。

しかし 苦労して作った
松下式ソケットが

なかなか売れない。

実際には 商品発売するまでも
かなりの時間がかかりまして

そして 発売しても

いわゆる
販売ルートもありませんし

ブランド力とか
会社の名前も何もありませんので

残念ながら
売る方法もわからなかった

という事で 事業は 最初
全く うまくいきませんでした。

幸之助は 諦めずに
ソケットの改良を続けた。

その執念に 井植は舌を巻いた。

だが 資金は底をつき
事業は破綻寸前。

そこへ 思わぬ依頼が舞い込んだ。

ある扇風機メーカーが
幸之助が調合した煉物に目を付け

碍盤という部品を作るよう
依頼してきたのだ。

碍盤というのは
実は

電気器具では
ありませんで…。

そして
当時は 瀬戸物で作っていたので

割れやすかったものですから

煉物で碍盤を作ってみたい
という

扇風機のメーカーの思いが
ありまして…。

納期は 半月で1000個の注文。

全てが手作業。

幸之助夫妻と井植は
寝る間を惜しんで働き

どうにか
納期に間に合わせた。

その後も
扇風機メーカーから注文が入り

幸之助は
事業を続けられたのである。

大正7年 幸之助は
手狭になった作業場を移転し

松下電気器具製作所の看板を
掲げた。

のちに 松下電器から
パナソニックへ発展する

世界的家電メーカーの
第一歩である。

その後 幸之助は

使い勝手が良く
値段が手頃な製品を開発し

松下の名は 業界に知れ渡った。

大正9年 全国展開の足がかりに
東京出張所を開設。

17歳の井植を
駐在員として派遣した。

幸之助と井植の快進撃は
さらに続く。

♬~「夕やけ小やけの 赤とんぼ」

♬~「負われて見たのは
いつの日か」

名曲『赤とんぼ』が生まれた
昭和2年

日本では
銀行で取り付け騒ぎが起き

金融不安が発生していた。

一方 幸之助率いる
松下電気器具製作所は

大正末期に発売した
砲弾型電池式ランプのヒットで

業績が拡大。

昭和2年には 手提げ用でも使える
角型ランプを発売。

この時 初めて ナショナルの
ブランド名を採用した。

そのブランド名の由来とは…?

実は このですね
角型ランプに入れる電池を

この当時は 当社
まだ電池を作っておりませんで

別の会社から
買い入れていたんですけれども。

自分はですね この角型ランプを
1年で20万個売るので

その… 20万個売ったら
1万個分の電池をタダで欲しいと。

こういう事をですね
電池の仕入れ先に言います。

なんのために そういう事をしたか
と言いますと

そうすると 使ってもらって
良さがわかるので

間違いなく売れるんだという
非常に自信を持ってましてですね。

1万個配る前に もう
非常に良さがわかりましてですね

どんどん
配る前に注文が入りだして

実は
20万個どころではなくてですね

40万個以上
その角型ランプが売れて…。

ナショナルの角型ランプは
爆発的にヒット。

不景気の中
業績は右肩上がりで成長し

従業員は
200人を超える規模となった。

昭和4年 松下電気器具製作所は
社名を

松下電器製作所に改めた。

激務が続いた幸之助は
体調を崩して寝込みがちだった。

しかし 強靭な精神力で

寝床の中から
事業の采配を振るった。

そんな経営ができたのは

幹部に成長した井植が
幸之助の意図をくみ取り

文字どおり 手足となって
全国を飛び回ったからだ。

幸之助も 成長した井植に
全幅の信頼を寄せた。

この年
幸之助は34歳 井植は27歳。

だが 不況は収まる気配がなく

昭和4年に誕生した
浜口雄幸内閣が緊縮政策をとり

さらに深刻なデフレ不況を招いた。


いわゆる 昭和恐慌である。

それまで
順調に伸びてきた松下電器は

生産拡大が裏目に出て
倉庫には 在庫が山と積まれた。

ある時 幸之助の元に

切羽詰った表情の
井植たち幹部が現れた。

商品が全く売れず
在庫は たまる一方。

思い切って 従業員の数と生産を
半分に減らすほか

危機を脱する道はない。

井植は そう進言して
幸之助の指示を待った。

すると…。

工場は半日勤務とするが

給料は
今までどおり 全額支給する。

その代わり
店員全員で在庫を売りつくせ。

幸之助は
井植らに そう告げたのである。

せっかく 社会からの預かりもの
として採用した

人材というのをですね
そうした… 解雇したり

あるいは 給料を下げてしまったり
という事はですね

とてもできない。 これは
自分の経営理念にも反すると

そういった思いがありました。

クビになると覚悟していた
店員たちは

幸之助の英断を聞いて感動した。

井植が 陣頭指揮を執ると
2カ月ほどで在庫を売りつくし

逆に フル生産が必要なほど
売り上げが伸びたという。

昭和7年 5月5日

幸之助は
松下電器の全店員を前に

生産者の使命を次のように説いた。

生活物資を 水道の水のように
無尽蔵に安く提供すれば

貧困から生ずる あらゆる悩みは
取り除かれる。

要するに…。

だから
両立させなきゃならんというね

これを
やかましく説いたわけですね。

♬~「旅の燕 寂しかないか」

昭和8年 松下電器は
さらなる生産拡大のため

大阪の北東部にある 門真村に

およそ8000坪の土地を取得。

新工場が完成した。

また 幸之助は

国内企業で いち早く
事業部制を導入し

松下電器を3つの事業部に分けた。

井植は ラジオ部門を担当する

第一事業部長に就任する。

昭和恐慌を乗り越え

家電メーカーとして

さらなる飛躍を続けた松下電器。

その かじ取りをする
幸之助と井植の足元に

戦争の影が
ひたひたと近づいていた。

♬~「“徐州々々と 人馬は進む"」

♬~「“徐州居よいか
住みよいか"」

日中戦争が戦禍を拡大させていた
昭和13年…。

物資の配給統制と
使用制限が始まった。

幸之助も 軍部の要請に従い

軍需生産に協力する道を
取らざるを得なくなった。

軍需産業。 だから…。

昭和18年 軍部から思わぬ発注が。

松下電器に
木造船を造れというのだ。

戦況の悪化に伴い
船が次々と沈み

資源を運ぶ船が不足していた。

幸之助は困惑する。

松下は日本を代表する
家電メーカーに成長したが

船など造った事がない。

それでも 軍部は執拗に
船の製造を迫った。

すると 井植が声を上げた。

この時
かつて船乗りだった経験が生きた。

井植は
設立した松下造船の社長に就任。

それまで 1隻ずつ
ドックで組み立てていた工程を

砂浜にレールを組み

家電製品のように
流れ作業ができるよう

改善したのだ。

工期は大幅に短縮し

船は 6日に1隻のペースで完成。


終戦までに
56隻の木造船を納めた。

井植の創意工夫を
幸之助も評価した。

木造船の製造が順調だと知った
軍部は

今度は なんと
飛行機の製造を命じたのである。

これには さすがの幸之助も
頭を抱えた。

飛行機製造は請け負ったものの

資材不足で生産は進まず

わずか3機の完成にとどまった。

そして

その5日後 幸之助は

動揺する従業員たちに
檄を飛ばした。

敗戦で これから世の中が
どんなに変わっていっても

物資が不足して 困っている
苦しんでいる人たちのために

生産をするという
産業人の使命自体は

絶対に変わらないと…
そう考えまして。

そして この方針と決意をですね

全従業員に すぐに
知らせなければいけないという

強い思いがあったと思います。

終戦後 わずか5日で

会社が進むべき
平和産業の道を示した松下幸之助。

しかし その先に
大きな試練が待ち受けていた。

それは 長年 共に歩んだ

井植歳男との別れに繋がった。

♬~「赤いリンゴに
くちびる寄せて」

♬~「だまって見ている
青い空」

戦後の焼け跡に
『リンゴの唄』が流れた昭和21年。

松下電器を率いる松下幸之助は

創業以来の危機に直面していた。

戦時中 松下電器が
軍需産業に関わった事から

GHQは

財閥指定 制限会社指定
公職追放などを含む

7つの制限を与えた。

制限会社に指定されると

全ての会社資産が凍結され
企業活動が行えない。

さらに 公職追放により

幸之助や井植ら
全役員が辞職すれば

会社は羅針盤を失い
存続の危機に陥る。

幸之助っていうのは
非常に強力なリーダーでして

そのリーダーがいなければ
やはり 当時の松下電器はですね

とても経営は成り立たないと。
そういう思いをですね

労働組合の皆さんも
思っていましたので

そういった嘆願書をですね
出したという事だと思います。

労働組合の嘆願運動や

GHQへの粘り強い交渉が
実を結び

7つの制限は やがて解除された。

しかし 井植は

7つの制限を受けた際
会社に すぐに辞表を出した。

松下造船の社長として

軍の命令で船を造った事実を
重く受け止めたせいもある。

幸之助の元で過ごした
30年近くの間

井植は 全力で走り続けてきた。

しばらくは 故郷 淡路島で

釣りでもしながら
ゆっくり将来を考えよう。

ところが
実家は 農地解放で田んぼを失い

一族を養える状況ではなかった。

ふるさとを頼るつもりだった
井植は 逆に母親を励ました。

井植は覚悟を決め
自分で事業を興す決断をした。

井植の決断を知り

松下時代の部下 十数人が
駆けつけた。

そして 幸之助も
井植に対する はなむけとして

競争相手になると知りながら
工場を1つ貸し与え

自動車用発電ランプの製造権と

ナショナルの商標使用権を
譲ったのである。

昭和22年 2月1日。

井植の新会社が産声を上げた。

社名は 三洋電機。

これからの国際社会

太平洋 大西洋 インド洋の

3つの海を股にかけ
商品を売りまくろう

それが
井植が考えた社名の由来だ。

その船出にあたり

井植は
社員に誓いの言葉を述べた。

訓示を聞いていた社員が
顔を見合わせる。

「ちょっと
話が大きすぎやしないか…」。

だが 井植は構わず続けた。

熱弁を振るう井植歳男の姿は

まるで 松下幸之助が
乗り移ったかのようだった。

♬~「ふたりを夕やみが
つつむ この窓辺に」

いざなぎ景気に沸く日本には
三種の神器に替わり

カラーテレビ クーラー 自動車が
もてはやされる

3Cの時代が訪れていた。

松下幸之助は
企業の国際競争力を高めるため

他社に先駆けて
週5日制を導入する。

世界一のアメリカに
一歩でも近づきたい。

幸之助は 週5日制や
福利厚生の充実など

今では当たり前の施策に
いち早く取り組んだ。

そんな ある日

幸之助は
思いもよらぬ知らせを受け取る。

井植は 昭和43年に

三洋電機の社長を退いて
会長に就任。

以前から体調を崩しがちで

一度 胆石の手術を受けた時には
死を覚悟し

見舞いに来た女優 木暮実千代に
こう話した。

胆石は全快したが
持病の高血圧が命取りになった。

昭和44年7月16日
井植歳男 脳出血で逝去。

享年66。

葬儀会場となった
守口市民会館には

およそ1万3000人の会葬者が
集まり

故人の死を悼んだ。

その一人一人に

妻 むめのと深く頭を下げる
松下幸之助の姿があった。

あれほど頑丈だった男が
自分より先に亡くなるとは…。

井植歳男 経営の神様を支えた
隠れた巨人は

やがて 大海原を駆け回る船を操り
遠い世界へ旅立った。

その後 松下幸之助は

企業活動の他
数多くの著作や講話録を残し

次世代の経営者や若者たちに
熱いメッセージを伝えた。

ものづくりを通して

人々に平和への道を示した
松下幸之助にも

旅立ちの時がやって来た。

平成元年 4月27日
気管支肺炎のため逝去。

享年94。

平成20年 パナソニックは
三洋電機の子会社化を発表。

松下幸之助と井植歳男
2人が生んだ企業は1つになり

人々を豊かにするため
力を合わせている。

井植歳男 松下幸之助

経営の姿が少し違った事は
ありますけれども

経営理念とか
そういったものはですね

完全に
2人が共有しておりまして

根っこが同じというような
言い方が できると思います。

社員同士の心の壁を
なくしたりですね

一体化を加速していく
という時に

これは
非常に重要な事だと思います。

今はですね
もう完全に一緒になって

入り交じる
というような形でですね

仕事をしています。

同じ志を持ち
必死に生き抜いた2人の経営者。

彼らの遺志は
これからも受け継がれ

私たちの未来を
明るく照らし続けるに違いない。


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