歴史秘話ヒストリア「あなたの先祖も手伝った!?伊能忠敬 究極の日本地図」 宇宙飛行士…毛利衛、井上あさひ


『歴史秘話ヒストリア「あなたの先祖も手伝った!?伊能忠敬 究極の日本地図」』の番組情報(EPGから引用)


2018/06/06(水) 
歴史秘話ヒストリア「あなたの先祖も手伝った!?伊能忠敬 究極の日本地図」[解][字]
全国を歩き、正確な日本地図を作った伊能忠敬。偉業を支えたのは、名もなき庶民たちだったことがわかってきた。みんなで作った日本地図!あなたの先祖も参加したかも!?
詳細情報
番組内容
およそ200年前、全国を歩いて正確な日本地図を作った伊能忠敬。その偉業、日本中の人々が手伝ったことをご存じですか? 忠敬がたった1人ではじめた地図作りは、まず幕府を巻き込み、やがて多くの日本人をも巻き込んだ大プロジェクトへと発展!しかも地図作りを支える中心にいたのは、驚くことに、名もなき庶民たちでした。いつも誰かとともに歩き続けた男・伊能忠敬。17年に及ぶ日本地図作りの知られざる舞台裏に迫ります。
出演者
【出演】宇宙飛行士…毛利衛,【キャスター】井上あさひ
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歴史秘話ヒストリア「あなたの先祖も手伝った!?伊能忠敬 究極の日本地図」
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  7. 伊能忠敬
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『歴史秘話ヒストリア「あなたの先祖も手伝った!?伊能忠敬 究極の日本地図」』の解析用ソース(番組内容ネタバレ注意!)


Three Two One…

booster ignition
and lift off.

18年前 50歳をこえてから
宇宙に挑んだ日本人がいます。

Electric camera….

ミッションは
地図を作るための地球の測量。

実は この時 ある人物を
強く意識したといいます。

私も 50歳 こえてましたので

伊能忠敬さんを
すごく意識しました。

♬~

200年前。

56歳の伊能忠敬は

日本初の 本格的な
地図作りに挑戦しました。

実は そこに とっても意外な
きっかけがあった事

ご存じですか?

なんと 忠敬が最初に挑んだのは…

そんな 壮大な挑戦は
なぜか 幕府を巻き込み

大プロジェクトへと発展します。

更に 実際の地図作りにも
驚きの事実が隠されていました。

今 全国で それを裏付ける
史料が見つかっています。

忠敬の日本地図は

大勢の協力者がいたからこそ
誕生したのです。

あなたのご先祖さまも
参加したかもしれません。

初めて 日本の形を明らかにした
伊能忠敬。

究極の日本地図が
生み出されるまでの

驚きの物語です。

♬~

「歴史秘話ヒストリア」。

今夜も
どうぞ おつきあい下さい。

今日の主人公 伊能忠敬といえば

なんといっても
「日本地図」ですよね。

こちらが 忠敬が作った…

通称「伊能図」といいます。

驚くべきは その正確さ。

今から200年ほど前に
作られたにもかかわらず

衛星写真と比較しても
誤差は ほんの僅かです。

こんなに すばらしい地図を作った
忠敬ですが

実は 地図を作り始めたのには
「意外な理由」があったのです。

およそ200年前の江戸。

天文方 暦局は

暦作りや天体観測を行う お役所。

ここで…。

30里ほどですかな?

いや もう少し短い気がする。
あって 25里辺りかと。

う~ん…。


大の大人たちが 地球儀と
にらめっこしています。

そこに…。

(忠敬)おはようございます。

ああ…。

そうだ
伊能殿は どう思われます?

(忠敬)何がでございましょう?

子午線1度の
正確な長さですよ。

1度の?
はい。

ええ これが分かれば

我々のいる地球一周の長さも
導けます。

そう 彼らが議論しているのは…

このころ 地球が丸い事は
知られていましたが

その大きさについては
謎のままでした。

すると…。

ここで あれこれ考えるより
実際に測ってみては?

え?
測る?

「疑問があるなら
実践すればいい」。

忠敬は そう言いだしました。

千葉県佐原。

若い頃 忠敬が商人として
活躍した町です。

町のまとめ役まで務めた 忠敬。

問題が起きると…

51歳になった忠敬は

ずっと興味があった
天文学を究めるため

暦局の門を たたきます。

まさに…

(忠敬)
76 77 78 79 80 81 82 83…。

早速 地球の大きさを測り始めた
忠敬。

ある名案がありました。

星を使った方法です。

忠敬は 同じ星でも

見る地点によって
角度に差がある事に

気付いていました。

その角度は

地球の中心からの 2つの地点の
角度に相当するので

あとは その距離を測り
360度に当てはめれば

地球の大きさが分かるはず。

そこで忠敬は

自宅のある深川と
暦局のある浅草で星を観測。

その角度を割り出しました。

更に 自宅と暦局の間を
何度も歩き

距離を測りました。

こうして たどりついた答えを

師匠の高橋至時に
自信満々で報告します。

ところが…。

しかしながら これではまだ
不十分かもしれません。

…と申されますと?

測量された あなたの家から

ここ 暦局までの間が
近すぎるのです。

地球全体に当てはめた時
誤差は 相当 大きくなる。


2点の間が
もっと遠くないと…。

忠敬が出した数字をもとに
地球一周を計算すると…

実際は 4万kmですから
だいぶ誤差がありました。

遠く… どれだけ遠ければ
よいでしょう?

例えば 江戸から…
北の蝦夷までの距離なら

かなり正確な 1度の距離に
近づけるかもしれません。

しかし 問題がありました。

それは 幕府のゆるしを
どう得るか。

個人の興味のために
全国を測量して回るのは

難しい時代だったのです。

そんな ある日。

蝦夷地の地図を作りたいと

御公儀に
願い出てはいかがでしょう。

地図 …にございますか?

蝦夷に行くために
地図作りを幕府に願い出る。

どういう事でしょう?

当時 幕府には
深刻な悩みがありました。

蝦夷周辺に 度々 現れる
外国船の問題です。

ところが 当時の蝦夷の地図は
こんな感じ。

国を守るための正しい地理情報が
不足していました。

つまり…

ねらいは的中。

蝦夷行きは
無事 許可されます。

こうして 日本で初めての

本格的な「測量の旅」が
スタートしました。

さて 地図をどうやって作るのか
ご存じですか?

実は とても単純な事の
積み重ねです。

ポイントは
「方角」と「距離」を正確に測る事。

まずは 方角。

磁石を使って ある地点から
別の地点の方角を測ります。

方位 亥の二分。
≪亥の二分。

次は 距離。

忠敬は当初 自分の歩幅を
物差しとしました。

「歩測」といいます。

これを繰り返す事で

日本中の海岸線の形を
明らかにしていきました。

もう一つ それまで地図作りでは
用いられなかった

画期的な工夫がありました。

使ったのは
こちらの分度器のような道具。

これで 何をしたのかというと…。

象限儀を使って 北極星など
星々の高さを測りました。

北極星の高さを測れば

その土地の緯度が分かります。

緯度が分かれば
地図作りにも役立つうえに

地球の大きさを割り出す
データにもなります。


昼は測量。 夜は天体観測。

忠敬は 地道な努力を積み重ね
貴重なデータを得ていきました。

旅を終え 江戸に戻った忠敬は
早速 計算。

緯度1度の長さを

27里と
導き出しました。

これを 地球一周に当てはめると
およそ3万9, 000km。

かなり実物に近づきました。

一方の地図作り。

これは
その時 幕府に提出された

蝦夷の地図です。

測量と天体観測のおかげで

それまでの地図とは
比べものにならない正確さでした。

自分の測った跡が。 それと…

すると この地図に
幕府が 鋭く反応します。

この地図を作りし
伊能なにがしとやらに

このまま 続けさせては いかがか。

さすれば いずれ蝦夷はおろか
日の本全て

かように 詳しい地図が
出来るはずじゃ。

かくして
忠敬に命令が下りました。

「伊能忠敬は
速やかに

地図の続きを
作るように」。

地球の大きさを知りたいという
伊能忠敬の願いは

思いがけず 大プロジェクトへと
発展する事になったのです。

忠敬の作った日本地図。

実は 大・中・小の3種類ある事
ご存じでしょうか?

まずは 小図。

3枚で
1セットです。

小図といっても
かなりの大きさです。

続いて 中図。

中図は 一回り大きくなり…

こちらは8枚で
1セットです。

お寺や お城は

三角や四角の記号で
記されています。

そして いよいよ大図!

ご覧のとおり
大きさは桁違い!

枚数も一気に増えて
214枚に。

地図に書き込まれる情報も
より詳しくなります。

例えば こちら。

大坂城や法隆寺など

ランドマークは
絵で書き込まれています。

こちらは富士山。

大図は 山や川が
写実的に表現されています。

街道沿いには
集落の名前がびっしり。

今でも使われる地名がありますね。

こういった内容は

忠敬や弟子が 長い時間をかけて
調べたものです。

しかし 地図作りには

もっと たくさんの人の力が
必要でした。

もしかしたら あなたの先祖も
関わっていたかもしれません。

鳥取市の山あいにある
用瀬町。

佐々木清之助さんの家には

伊能忠敬にまつわる
古い記録が伝わっています。

佐々木さんは 忠敬が来る
1年ほど前の記述を見て

驚いたといいます。

全国の町や村に伝えられた
さまざまな記録。

そこから見えてきたのは

地図作りに 日本中の人々が
参加したという事実でした。

幕府の命令で
全国の地図を作る事になった忠敬。

しかし 初めから
順調だったわけではありません。

こちらは 北陸・金沢周辺の地図。

なぜか 街道沿いに
一切 地名がありません。

実は こんな事がありました。

忠敬たちが
測量を始めようとしたところ

地元・加賀藩の役人から
待ったが かかりました。

お待ちを!

役人たちは
領内の詳しい地理情報を

忠敬に教えてはならないと
命じられていました。

なんと
忠敬たちを

「幕府のスパイ」だと

疑っていたのです。

こうした苦労を重ねながら
測量する事 3年。

まず 東日本の地図が完成。

幕府に提出したところ

なんと 将軍・徳川家斉が

じきじきに
地図を見る事になりました。

その結果 忠敬の地図作りは

幕府の正式なプロジェクトに
格上げされたのです。

待遇は一変します。

全国の藩に対し
忠敬の地図作りを

全面的にサポートするように
という命令が下りました。

実は 幕府が
ここまで強く 後押ししたのには

理由があるといいます。

…というふうに
恐らく 考えたんだと思います。


…というふうに
私は考えています。

こうして いつの間にか
「国家プロジェクト」となった

忠敬の地図作り。

全国で 藩の威信を懸けた

さまざまなサポートが
行われました。

少し 記録を
のぞいてみましょう。

愛媛県西条市にあった…

測量隊の滞在は たった1日。

しかし その1日のために
小松藩は 全力を出します。

「御一行のため 手洗い所付きの
お休みどころを

新たに 6か所 造れ」。

「お食事には
松茸を17本 用意せよ」。

「お土産も忘れるな。

名産の綿を
御一行様 全員分じゃ」。

こうしたサポートに支えられ

忠敬たちも
命懸けで 測量に まい進しました。

ある隊員の日記によると…。

たとえ 荒波に揺られて

吐くほどの
船酔いに襲われても…。

辛抱じゃ!

足を踏み外したら 一巻の終わり
という断崖であっても

とにかく測量。

「一生涯 忘れられない」と
書き残すほど

必死で 全国を
飛び回りました。

忠敬が訪れた中でも
最も厳しい場所の一つが

高知県にある岬…

この時の測量について詳しい
原田英祐さんに

案内してもらいました。

(原田)
この岸壁というんですかね…

同行した 地元の役人の日記です。

この場所にやって来るなり

忠敬は 信じられない事を言ったと
記しています。

(忠敬)海辺を進むと
お伝えしたはずですが

道が つくられていませんね。

この先は
どう行けばよいのでしょう。

こんな断崖まで
測るとは。

安全な道を案内しようと
考えていた役人は

驚きました。

完成した伊能図を見ると

赤い線が 海辺に記されています。
実際に測量した証しです。

こうした測量を支えたのは
役人だけではありません。

広島藩で行われた測量の様子が
絵で残されていました。

こちらが
「浦島測量之図」でございます。

注意深く眺めると
忠敬の測量を支えたのは

多くの場合 実は
「庶民」だった事が分かります。

こちらでは
大勢の人が縄を張り

距離を測る
お手伝いをしています。

重そうな荷物は 測量道具。

それを運ぶのも 重要な仕事です。

こちらは 大きな茶釜。

休憩の時のお茶も

長時間の測量に欠かせない
大切なサポートでした。

初めて見る測量や 天体観測。

夜になっても 大勢の見物人が
興味深そうに見守っています。

日本中で こうした光景が
繰り広げられました。

もしかしたら
あなたのご先祖さまも

参加したかもしれません。

伊能忠敬研究会の
渡辺一郎さんは

各地の人々が 測量を支えた事に
重要な意味があったと

考えています。

それでなければ
あれだけの地図は

作れなかったなと
そういうふうに思いますね。

全国の人たちに支えられ
忠敬たちが歩いた距離は

くしくも 地球1周分。

こうして 日本の形は 着実に
明らかになっていったのです。

17年も 根気強く測量を続け

精巧な地図を作り上げた
伊能忠敬。

一体
どんな人だったのでしょうか?

家族に宛てた手紙に

忠敬の性格を知るヒントが
隠されています。

これは 娘に送った手紙です。

書かれているのは…

ある日 忠敬は
甥の庄作に墨を貸しました。

ところが
返ってきた墨を見てみると

斜めに すられていたのです。

墨は まっすぐするのが礼儀。

次の人の事を考えれば
きれいに使うべきだ。


忠敬は そう考えていたようで

こんなふうに諭しました。

人の上に立ち
大仕事を成し遂げるには

「いきすぎ?」と思えるくらいの
心配りが

必要なのかもしれません。

そして いよいよ 忠敬の
大仕事の集大成 伊能図が

完成の時を迎えます。

全国の測量を始めて 15年。

残るは 2か所となりました。

1か所は…

もう一か所は…

しかし このころから

さすがの忠敬にも
衰えが目立つようになりました。

先生 お具合がお悪いのでは?

大丈夫です。
少し 疲れただけです。

少し お休み下さい。
ここは我らだけでも…。

では 少しだけ。

このころの 娘への手紙に

老いに対する嘆きが
つづられています。

(忠敬)
「年が明ければ 69歳。

歯は ほとんど抜けて…」。

測量しながら
1日10km以上 歩く。

そんな過酷な毎日を
送ってきました。

長旅を続ける体力は
もう残っていません。

その時 忠敬の弟子や

天文方の役人たちが

立ち上がります。

彼らは 忠敬との旅で

高い測量技術を
身につけていました。

「残りの仕事は 我らの手で」。

弟子たちは 忠敬を江戸に残し
伊豆七島の測量に出発します。

しかし それは
とても厳しい旅となりました。

御蔵島では
波が あまりに高く

3日間も測量できず…。

ようやく
測量ができるようになっても

足場がない場所が
多く

なんと
泳いで測量する事も。

極め付きは 「漂流」。

黒潮につかまった一行は
太平洋をさまよう事 4日。

危うく
命を落とすところでした。

苦難の測量 およそ半年。

弟子たちは
命懸けのミッションを

見事 成し遂げました。

そして もう一つの空白地帯
蝦夷。

自然環境が厳しく

手厚いサポートも
期待しにくいため

測量は 困難が予想されました。

その時
一人の男が名乗り出ました。

樺太 今のサハリンの探検で
有名な幕府の役人…

実は 奥地探検に欠かせない…

本日も
よろしくお願いいたします。

こちらこそ。

では 本日は
この わんか羅針について

お教えしましょう。

わんか羅針?
(忠敬)はい。

これは 方位を測る道具です。

このように立てて用います。

さあ やってみなされ。

はっ。

では…。

もそっと近う。

今こそ 恩に報いる時。

間宮は 忠敬に代わって
蝦夷の測量を引き受けます。

それから なんと5年。

間宮は 貴重な測量データを手に
忠敬のもとに帰ってきました。

そして 忠敬自身も

総仕上げの測量に
取りかかりました。

「江戸」の測量です。

全国の測量結果を
江戸を中心に 一つに結ぶための

最後の大切な仕事。

忠敬は ある人物を
測量に同行させました。

孫の三治郎です。

三治郎。
はい。

これを のぞいてみなさい。

向こうに 人が立っておるのが
見えるか?

見えます!

自らが 積み上げてきた
測量の知識や技術。

三治郎は 忠敬が
全てを伝授しようと思うほど

賢い少年でした。

こうして 17年に及んだ
長い測量が終わりました。

忠敬は
72歳になっていました。

あとは 測量の結果を
地図にまとめる作業のみ。

この地図は
これまでの国絵図とは違います。

実測の上で 描かれる
初めての地図。

この国の正しい姿を
明らかにする地図です。

心を込めて描いて下さい。

はい!
はい!

先生 これは かような形で
よろしいでしょうか?

しかし…。

死の直前まで

地図作りの指示をしていたと

伝わっています。

作業は その後も

弟子と 天文方の役人の手で
続けられました。

彼らは
忠敬の死を公表しませんでした。

出来上がる地図を
忠敬が作ったものとしたい。

そう願ったと言われます。

先生が見てるぞ。 仕事仕事!

(一同)はい!

そして3年後。

ついに 実測による
日本地図が完成しました。

幕府へ提出する
大役を担ったのは

忠敬と共に江戸を測量した
あの三治郎でした。

日本中で出会った 大勢の人たち。

いつも そばにいた仲間たち。

忠敬の地図作りの日々は

支えの人々と共にあった
絆の年月だったのです。

その後 忠敬の地図は

ほとんど 人の目に触れる事は
ありませんでした。

幕府が 重要な資料として
厳重に管理したためです。

伊能図に
再び 光が当たったのは

完成から 半世紀近くも過ぎた
幕末の事。

その すばらしさに気付いたのは
なんと イギリス海軍。

世界最高レベルの測量技術を
持っていました。

日本の沿岸で測量をしていた
イギリス海軍は

幕府から伊能図を入手。

あまりの正確さに驚き
この地図を参考に

自分たちの地図を
作り直すほどでした。

明治に入ると 伊能図は
更に重要な役割を担います。

軍事用から 教育用に至るまで

日本の多くの地図の
ベースとして使われました。

近代国家へ生まれ変わっていく
日本。

その発展を支えたのも また
伊能図だったのです。

忠敬の最初の測量から
ちょうど200年後の 西暦2000年。

宇宙飛行士の毛利 衛さんは

忠敬と同じく
地図作りという使命を帯び

宇宙へ旅立ちました。

そして 宇宙から地表に
電波を放ち

詳しい立体地図を作るための
貴重なデータを集めました。

その成果は 現在

スマートフォンの
地図情報などに反映され

私たちの暮らしを
豊かにしています。

地道な作業が
必要なんですけれども…

でも それが すごく…

一歩一歩 全国を歩き続け

日本の形を
初めて明らかにした伊能忠敬。

多くの仲間と共に成し遂げた
その 類いまれな偉業は

200年後の今も
輝きを失う事はありません。

♬~

♬~


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