英雄たちの選択「明治日本 首都は三択だった!~大久保利通 東京遷都の真実」 飯田泰之、中野信子…


『英雄たちの選択「明治日本 首都は三択だった!~大久保利通 東京遷都の真実」』の番組情報(EPGから引用)


2018/06/07(木) 
英雄たちの選択「明治日本 首都は三択だった!~大久保利通 東京遷都の真実」[字]
鳥羽伏見の戦いで勝利した明治新政府。そこに浮上したのが遷都論だった。天皇中心の政府ができたのに、なぜ千年の都・京都を捨てなければならないのか。大激論が起こった。
詳細情報
番組内容
遷都の仕掛け人は薩摩藩出身の大久保利通。日本の近代化を推し進めるには天皇のあり方を変えなければならない。そのためには古来の習わしに縛られた京都を出なければならないと主張。遷都候補は経済の中心・大坂だった。新政府の中枢を占める公家たちは猛反発。さらに無血開城で新政府のものとなった江戸も候補に浮上。京都、大坂、江戸。新生日本の首都にはいったいどの街がふさわしいのか。150年前の東京遷都の真相に迫る。
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】井上章一,落合弘樹,飯田泰之,中野信子,【語り】松重豊
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英雄たちの選択「明治日本 首都は三択だった!~大久保利通 東京遷都の真実」
  1. 天皇
  2. 京都
  3. 大久保
  4. 大坂
  5. 江戸
  6. 東京
  7. 日本
  8. 公家
  9. 新政府
  10. 遷都



『英雄たちの選択「明治日本 首都は三択だった!~大久保利通 東京遷都の真実」』の解析用ソース(番組内容ネタバレ注意!)


これは 宇宙から見た夜の地球。

こちらは 日本。

中でも
ひときわ輝いているのが…

東京。 言わずと知れた
日本の首都である。

東京が首都になったのは…

京都から都がうつされた。

ところが ここに
驚くべき事実がある。

それどころか…

なぜか?

その理由は 明治初めにあった。

徳川幕府が終えんし
明治新政府が成立。

近代国家 日本を目指すために
まず浮かび上がったのが…。

遷都だった。

この遷都を最初に提言したのが

薩摩出身の…

千年の都 京都から
どこに都をうつすか。

大久保には
3つの選択肢があった。

1つ目は 天下の台所 大坂。

近代化を図るためには
経済発展が必須であり

経済の中心であった大坂を
首都とすれば

富国強兵が達成しやすい。

2つ目は 江戸。

当時 既に100万人が暮らす
世界有数の大都市こそが

新生 日本の首都に
ふさわしいというもの。

そして 3つ目は
京都と江戸を共に首都とする案。

東西の中心地を都とする事で

日本全体を統治しようというのだ。

それぞれの案を巡って
明治政府は紛糾。

瓦解の危機すらあった。

今回も さまざまな分野の専門家が
スタジオに集結。

明治の初め 日本の首都は
どこにあるべきであったのか

議論する。

新しい日本に ふさわしい首都は
どこなのか。

東京遷都の真実に迫る。

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

その時 彼らは何を考え
何に悩んで

一つの選択をしたんでしょうか。

今回 取り上げるのは
今から およそ150年前

明治時代初期の
こちらの出来事です。

事実上の遷都。

1869年 明治2年
千年の都 京都から

東京に都がうつされました。

それを成し遂げた中心人物が
30代の…

さあ 磯田さん

事実上の遷都と
ありましたけれど

この「事実上」というのは
どういう意味なんでしょうか?


当たり前のように 日本の首都は
東京というけれども

実際は 京都から東京への遷都は
法律的に宣言されてないよなと

京都の人は今も言う訳ですよね。

要するに…

…というようになったり。

今も?                    ええ。

という事は何かというと
実際 東京が首都に定まる前に

首都候補というのが
たくさんあった訳ですよね。

でも…

これを探っていくと…

さあ では
遷都は どのように行われたのか。

また さまざまな遷都案が
提案される中で

なぜ 江戸 東京に
都がうつされたのか

見ていく事にしましょう。

慶応4年1月3日

薩摩 長州を中心とする
新政府軍と

旧幕府軍が
京都近郊で激突した。

鳥羽・伏見の戦いである。

結果は 新政府軍の圧勝。

新政府が日本を代表する
政権として確立する。

新たな政権は天皇の下に

総裁 議定 参与の三職を置き

公家と有力諸藩の藩主 藩士が

政治を行う事になった。

そして 国の中心となる首都は

京都だと誰もが思っていた。

ところが 鳥羽・伏見の戦いから
20日ほどの…

京都から都をうつそうという
建白書を出した男がいた。

薩摩藩の…

大久保は 新政府の中心メンバーとして
参与に任命され

近代国家 日本の確立に
まい進していた。

大久保の建白書には

都をうつす理由と場所が
こう記されていた。

「全てを改め
一から
始めようとする

王政復古の
現在において

実行されるべきは
遷都である」。

「都をうつす先
としては

他国との外交

富国強兵などの
条件を考えると

地形的にも 浪華

つまり
大坂が適当である」。

首都を大坂に
うつすべきだという

大坂遷都建白書であった。

更に大久保は こう記している。

「天皇が外国の帝王のように

従者を連れて 国中を視察し

民を大切に育てる

それが
君主として正しい道である」。


大久保が遷都を主張する理由は

若き明治天皇の在り方であった。

日本を西欧列強に対抗できる
近代国家とするには

古くからの天皇の在り方を

刷新する必要がある
というのである。

それまで天皇は 御所を
一歩も出る事なく育てられ

公家たちに囲まれて
政治から遠ざけられていた。

大久保は
人前に姿を現さない君主から

西欧のように
民衆の前に姿を現し

近代化を自ら指揮する君主を
目指すべきだと考えたのだ。

そのためには 都を京都から

外交や富国強兵 軍備増強にも
適した経済の中心地

大坂にうつす 遷都を行うべし
というのである。

大久保は
大坂遷都で何が変えられると

考えていたのだろうか。

大久保利通研究の第一人者
勝田政治さんは こう指摘する。

突然の提案に
公家たちからは猛反対が起こる。

「全くもって承服しかねる。

人心の安定もままならない
現状での遷都は

世情を
余計に混乱させるだけだ」。

「天皇を京都から
引き離した後

大坂で薩長中心の
新たな政権を

打ち立てようとする
陰謀ではないのか」。

公家たちからすれば
せっかく王政復古して

天皇中心の政府が出来たのに

その天皇が 千年の都 京都から
出るというのは

考えられない事だった。

しかし
大久保は更に こう主張する。

「未曽有の
大変革に当たり

数百年来の因循の腐臭に
凝り固まっている朝廷を

改革しなければならない」。

公家たちが天皇を取り巻く
朝廷の在り方は

何百年と変わらず
もはや腐っている。

これを改革しなければならない
というのだ。

この指摘に公家たちは激高。

互いに主張を譲らず
会議は平行線をたどる。

会議に出席した大名は
こう記している。

「この問題が
これ以上こじれると

政府が瓦解する
おそれすらある」。

3日後
公家たちの徹底反対の前に

大久保の大坂遷都案は
廃案となった。

さあ 大坂遷都を巡っては
大久保と公家が大きく対立します。


井上さんは 「京都ぎらい」という
ベストセラーを

書かれていますけれど。

京都の人は
京都の近郊ならびに

周りを見下しています。

これ 邪推ですよ。

鹿児島の田舎の
お侍さんじゃないですか。

いけずですか。
「くっそ~」とか思う事

山ほどあったんちゃうかな。
大久保は

京都は腐った町だと
思い続けたんじゃないでしょうか。

新政府ってのは
これは 冒頭にも
あったように

総裁 議定
参与の三職で

構成されてる訳
ですね。

天皇から向かって
総裁 それから
議定が並ぶと。

そういった人たちは 脇の…

そういった
天皇から引き離された状況…

これを なんとかしようとすると
結局…

そういう考えだったと思います。

中野さん 大久保は
どういった気持ちで

この大坂遷都を主張したと
考えられますか?

…という言い方するんですけども
準拠集団というのは

例えば 今日は
こういう格好を
しなきゃいけない

こういう髪形を
しなきゃいけない

こういう靴を
履いてこなきゃいけない

自分で決めているよう
だけれども

その場に合わせたりとか

誰か文句を
言うであろう人の事を

想定しながら
意思決定しますね。

その文句を言うであろう人
というのが まあ

準拠集団だと
考えて頂きたいんですけども…

だけども 大久保としては

欧米列強が
頭にあったはずなんですよね。

そっちを準拠集団にしてほしいと
思ってたんじゃないでしょうか。

そうすると
京都に天皇がおいでになったら

これは ちょっと変化に
対応できないというふうに

考えたに違いなく。

それで これをどうにかしなきゃ
いけないという危機感に

駆られていたと思いますね。

天皇を取り巻く公家たちの状況が
よく分かる

幕末の史料があるので
ご覧頂きたいんですが こちら。

磯田さん 説明して頂けますか。

これはね 内裏図。

御所が真ん中にある訳ですけど

これ 見て頂くと
御所の周りには

130もの
その公家の屋敷がありますね。

これで 公家の家柄 格で

屋敷の大きさが
決まっている訳ですよね。

やっぱり でかいのが あれ
五摂家ですよ。

5つある トップクラス。

端っこの方にあるのが

岩倉さんの ちっちゃいおうちで

岩倉さんは
この130のお公家さんを抑えて

トップになった訳ですよ。
ところが

位が低いので屋敷は小さいと。
しかも 大久保たちは

場合によっちゃ 下宿してる場合も
ある訳ですよ 町屋に。

天皇の周りにある この巨大な
築地塀を持った屋敷の間を

のこのこ歩いて
自分たちが 実際には

太政官を抑えていて 政策を
決定しているといっても

これは心理的にも やっぱり
見えてるビジブルな形としても

支配者という形が
とれない訳ですよ。

これ 大坂うつしてやれ 東京
うつしてやれという気持ちは

恐らく
体の中に持つと思いますよね。

明治維新以前の天皇っていうのは
この御所の空間ですね

神社の御神体のように
とにかく見せないと 隠すと。

しかしながら
隠されている事によって

何か神秘性だとか
ありがたみを感じると。

ただ見えない訳ですよね。

孝明天皇ってのは
一回 火で焼け出されて

出た事あるんですよ 御所の外へ。
そしたら その時 京都の市民は

こうやって かしわ手打った
っていうんですよ。

それで その前にも
御所千度参りっつって

何かがあると 御所のお参り
神社のように参って

おさい銭投げたって…。
おさい銭をですか?

京都の中で
公家に囲まれている天皇では

困るんですよね。 やはり

奥の奥の奥の院に
閉じ込めておく事で

そこにアクセスできる
人間にとっては

ものすごくコントロールしやすい
天皇になる訳ですよね。


直接
例えば 大久保がしゃべる事が

できないのであれば
天皇のご意思は こうである。

本当か うそか分からないけれども
ご気色すぐれないとかと言って

天皇のまさに威を着て
政治に口を出す事ができてしまう。

これを防がないと もう事実上
だから 天皇親政じゃなくて…

ひたすら 平安王朝を懐かしがって
「源氏物語」や「古今和歌集」見て

暮らしてるもんやから
それは 大久保は

なじめへんかったと思うわ。

いや 大久保と公家はね
全く 天皇について

違う期待を持っているんですよ。

大久保や西郷は 自分が
理想にしてた君主 島津斉彬が

死んじゃって 斉彬公が生きてたら
なってほしい君主に

なってほしい訳ですよ。
科学実験をやって

西洋の軍艦も
ちゃんと理解してて

独立を守るために
陸海軍を統帥するみたいな。

だから 同床異夢
おんなじ所に政権にいても

全然考えてる事が違うと。

さあ その大坂遷都は
一旦 廃案となりましたけれど

大久保は遷都実現に向けて
新たな行動を開始します。

新政府軍は 関東 東北の
旧幕府勢力を制圧するため

東へと出発した。

いわゆる 東征軍である。

一方で 大久保は
新たな改革策を考えていた。

それは 大坂行幸。

とにかく 天皇を京都御所の外に
連れていこうというのだ。

しかし
それも簡単な事ではなかった。

江戸時代に
天皇が御所の外に出た行幸は

僅か3回。

1回目は 江戸前期の後水尾天皇の
二条城行幸。

2回目は 幕末の孝明天皇の
賀茂社行幸。

3回目は
同じく孝明天皇の

石清水八幡宮行幸である。

御所からの距離は
輿に乗って

30分から4時間ほどに
すぎなかった。

それが 京都から40キロメートル
離れた大坂まで

行幸しようというのだ。

いまだかつてない この行幸を
公家たちに認めさせるのは

大きな困難が予想された。

そこで 大久保は 行幸案を

盟友の公家 岩倉具視に相談。

朝廷で発言力のある
岩倉を通して

新政府に提出する事にした。

岩倉は意見書に こう したためた。

「天皇自ら 江戸 および
会津の賊軍を討てと

仰せつけ下さい。

それにはまず
大坂の海に自ら臨まれ

軍艦の運用方法や

鉄砲の作用などを
ご点検下さい。

そうすれば
軍の士気も
上がり

人心は 一致協力
致します」。

遷都に結び付く表現は一切なく

保守派の公家たちも
大坂行幸を認めざるをえなかった。

慶応4年3月21日
天皇は大坂行幸に出発する。

天皇が京都の外に出るのは
初めての事。

総勢1, 655人の行列に囲まれ

きらびやかな輿に乗って
現れた天皇。

沿道は それまで見た事のなかった
天皇の姿を

一目見ようという人々で
埋め尽くされた。

そして 3月26日

天皇は 大坂湾に臨む天保山で

大坂行幸最大の行事である
海軍天覧を行う。

21発の礼砲が撃たれたあと

天皇の目前を6隻の軍艦が行進。

この時の若き天皇の様子を
「明治天皇紀」は こう記している。

初めて目にする軍艦。

初めて接する御所の外の世界。

天皇が大きな感銘を受けた事が
うかがえる。

それは まさに
大久保がねらっていた事であった。

京都にいた大久保は 大坂に赴く。

天皇が「新政府で 何かと
努力してくれている者たちに

直接会って 報告を聞きたい」と
大久保を呼んだのだ。

この時 大久保は
天皇と初めて顔を合わせる。

それまでは みすの中の影でしか
なかった天皇と

直接 対面する事ができたのだ。

大久保は この日の日記に
こう記している。

「天皇に謁見を許されたのは

一藩士の身分としては

実に未曽有の事であり

この幸せに涙を流すほかはない。

うれしさのあまり
午後2時ごろから

大いに祝いの酒を
飲んでしまった」。


天皇が大坂に行幸して20日後の
慶応4年4月11日

遷都に関わる
新たな事態が起こる。

260年間 徳川幕府が
政治の中心とした江戸が

無傷で新政府のものになったのだ。

江戸開城から およそ1か月後

大久保は 一通の書状を受け取る。

差出人は 旧幕臣の前島 密。

後に 明治政府で
郵便制度を確立した人物だ。

したためられていたのは
江戸遷都案。

そこには 大坂より江戸の方が
首都に ふさわしい理由が

明快に示されていた。

いわく
「大坂は 水路が発達しているが

小型船が中心。

今後 海外との貿易を考えると

外国の大型船が入れる港が
必要」。

「江戸なら 横浜に港があり
諸外国との貿易も行われている。

更に 横須賀には
造船所が造られつつある」。

いわく 「大坂は
都にならなくても

商業の街として
繁栄するが

江戸は都に
ならなければ

住民が
ちりぢりになり

人口100万の世界有数の大都市が
寂れ果ててしまう」。

更に ロシアの侵略に備えて

えぞ地 現在の北海道を
開拓する事を考えると

北海道に近い江戸は

大坂より有利であるとも
記されていた。

大久保は 前島の江戸遷都案に
大きな可能性を感じる。

しかし 一方で問題もあった。

当時の江戸は 新政府に反発する
勢力が まだ多くいた。

更に 東北では 奥羽諸藩が

朝敵とされた会津藩などの
赦免を求めて

新政府と
対立しつつあった。

当時の江戸は
天皇や政府関係者の安全 治安を

確保できる状況ではなかったのだ。

だが 新たに登場した
江戸遷都案は

遷都が
天皇の在り方だけでなく

日本の近代化を左右する
重大な選択である事をも

示していた。

大久保は大坂行幸を実現し

天皇を京都御所の外の世界に
連れ出す事に成功します。

しかも
天皇に謁見する事もできたと。

落合さん この大坂行幸が
大久保たち改革派に

もたらしたものというのは
どういうものなんでしょうか?

天皇が京都に戻ったあとに
大久保だとか木戸といった

実力者の立場というのが
明らかにされると。

大きな一歩だった訳ですね。
(落合)そうですね。

数えで17歳でしたよね
この時 天皇は。

その若い… 若さで
この大坂行幸をした時に

何かこう どんな経験に
なったんでしょう? 中野さん。

そうですね 10代の脳というのは
未成熟です。

成熟するのは
もう20代も半ば過ぎたあとの話。

そうすると
この時期っていうのは

大人の脳とは
違う反応をするんですね。

新しい刺激に対して
非常に過敏ですし

という事は この時期に
新しい経験をするという事は

その後の人格を作る上で

非常に重要な経験に
なってただろうと考えられる。

結構 あって。

「大久保 お前の話を聞こう」
みたいな話にですね

しかも…

結構 なかなか 決まった事しか
因循な事しか言わない

お公家さんに比べれば
世界には 実はね

もっと こんなのがあって…
みたいな話になると

まあ 若い子の
新規探索性や好奇心を

非常に あれしたと思うので
やっぱり 新しいものってのは

ここから始まるんじゃないか
というふうに

脳内が変わっていくというのが

やっぱり 明治天皇に
あったんじゃないでしょうかね。

井上さんは いかがですか?
私はね このVTRと

ちょっと ずれた考え方を
抱いています。

維新の時に 新政府になる側は

鳥羽・伏見の戦い 戊辰戦争を
戦い抜く訳ですよ。

だけど
軍事費はないんですよ 新政府に。

この軍事費を出したスポンサーは
大坂のブルジョアジーたちなんですよ。

三井が音頭を取って
大坂の商人から

お金を集めたんですよ。

もう一つ言うと

ついでに もっと
金を出してくれませんかという

パフォーマンスが
大坂行幸だったのではないか。

面白いですね。
その大坂行幸が実現したあと

江戸城が無血開城し
江戸を取り巻く状況が変わります。


そんな時 前島 密から
江戸遷都が提案されますが

飯田さん この江戸遷都案
どのように評価されますか?

江戸時代の人口構成を見ていると
江戸の町って…

こんな町
ほかに存在しないんですね。

これから明治政府を
実際に走らせていくためには

勘定 今風に言うと 財政と司法が
できる人っていうのは

必要なんですが
これできる人材って

要は
旗本ぐらいにしかいない訳ですよ。

そういった…

この時 実は
京都は とてもじゃないけど

首都になれるような状況では
なかった事が分かるんですよ。

京都が。
僕 去年かな

大久保たちが
新政府を立ち上げた時に

目安箱を設けて 住民から
いろんなものを集めた…

それを
古本屋で発見したんですよ。

その中に含まれている文書を
分析してみると…

竈数で。 もう
焼け野が原が ただ広がるだけで

土蔵と厠が残ったのが
南側に ず~っと広がってる。

で とてもじゃないが
家が足りない。

さあ その大坂遷都案
江戸遷都案に次いで

更に新しい遷都案も出てきます。

新政府に
更に新たな遷都案が提起された。

佐賀藩出身の
大木喬任 江藤新平による…

「江戸をもって
東京と
相定められ

東西両京の間

鉄路で
行き来する」。

江戸を東の京として
東西2つの都を

天皇が鉄道で行き来する
という構想。

実は 江藤は 意見書を
提出するにあたり

江戸での新政府軍の様子を
詳細に調査していた。

意見書には こう記されている。

「新政府軍と敵軍が
勝負を譲らぬまま 月日がたち

上官も一兵卒も
疲れ切っています。

東日本の人々の気持ちを
落ち着かせるには

天皇が江戸に下られるのに
勝る策はありません」。

更に…

新しい日本の都は
どこにあるべきか。

この時 大久保には
3つの選択肢があった。

大久保の脳内に分け入ってみよう。

大坂は日本一の経済都市。

これから
日本が近代化を推し進める上で

国を富ませる事が 何より肝要。

豪商が多い大坂に都を置けば
国が富むだろうし

豪商の資本を生かして
新たな事業が生まれてきもしよう。

また 神戸の港も開かれたので

外国との貿易も
ますます盛んになるはずだ。

しかし
前島 密が言っていたように

大坂は道が狭く 水路も細い。

しかも
鳥羽・伏見の戦いのあとで

大坂城は焼け
新政府の官庁を置く場所もない。

これは考え物だ。

江戸城は明け渡されたものの

江戸市中には まだ
新政府に反感を持つ者も多い。

東北の諸藩も まだ
新政府に従っていない。

彼らを速やかに抑えるためにも

天皇を江戸に移し
御威光を広める事が肝要であろう。

また 大坂城が焼けたのとは
対照的に

無血開城した江戸は

江戸城や大名屋敷などが
無傷のまま残されており

それをそのまま
新政府の官庁として

利用する事ができた。

ただ 仮に
幕府の残党を除いたとしても

懸念されるのは
幕府のあった江戸を都とする事だ。

新しい日本が生まれた事を

内外に印象づける事が
できるだろうか。

何より
大坂ですら反対した公家たちが

江戸へ都をうつすのを
認めるとは思えん。

ここは思い切って
京都と江戸を共に都と定めるか。

これなら 京都の公家たちも
説得できるはずだ。

ただ 鉄道建設の資金は
どうやって捻出する…。

大坂への行幸ですら 10万両という
ばく大な金がかかった。

天皇の移動の度に
政府機関も動くとなると

いくらかかるのか。

いずれの選択肢にも
大きな課題があった。

さあ 大坂 江戸 そして
京都・江戸両都の3つの遷都案。

どれを選択するか
その選択を伺う前にですね

当時の東京 京都 大坂の写真を
見てみましょう。

こちらですね。

上が幕末の江戸の町並み。

そして 左下が明治初年の大坂。

右下が明治時代の
京都 清水寺ですね。

江戸は 愛宕山から見ています。

井上さん いかがですか?
こう見てて。

いや~ 大坂の事を言いますが

これを見た
西洋の人たちはね

まるで ベネチアのようだと
口をそろえて言ってたんですよ。

今の大坂にベネチアは
全然うかがえませんが。

当時は運河が
縦横無尽に走っているので。

ただ
大きい船は入らないよね。

前島 密は ちゃんと やっぱり
大坂を見てたんだと思います。

そのおかげで 神戸港が
発達するんだけれども。

江戸は 当時 世界最大の都市の
一つだったというふうに

いわれている訳なんですね。

こうやって見た場合
この空間を

どういうふうに
再利用するのか。

それから あと やっぱり
きれいだなと思いますね。

今みたいに こんなビルが
いっぱい建ってなくて

横に こう
空間的に広がっていて。

空も広いですよね。

さあ もし 皆さんが
大久保の立場だったら

3つの遷都案
どれを選択するでしょうか。

東京出身の中野さんは
どの遷都案を選びますか?

私は… 江戸遷都案を選びます。

これはですね やっぱり…

例えば…

でも 非常に人口を抱えた所だ
というところに

次に来る人が誰もいない
となると

何が起こるか
という事を考えると

何か こう 根拠なく…

それをそのまま放っておく
というのは ありえない。

リーダーを
失ってしまった江戸を

そういう状態にさせてはいけない
という事で 江戸遷都に。

そうですね。
なるほど。

東京出身の飯田さんは
いかがですか?

私だったら 1の「大坂遷都」を
選ぶと思うんですね。

これは あえて
江戸という大きな町

そして 大坂という大きな町
この2つに

それぞれ別の役割を
担わせていく。

この2つに分化していくような
大坂遷都案が

いいんじゃないかと思うんですよ。

商人ばっかり たくさんいる大坂に
政治の中心地が移ると

この中で 商人たちと行政
政治マンたちの交流が生まれる。

そこから新しいアイデアが
生まれる訳ですし…

幕末以降
日本の主要な輸出品は生糸です。

この当時というよりも
実は 昭和の初期まで

日本の輸出品のトップは生糸です。

その産地といったら やはり
北関東 甲信地方ですから。

そして それを
どこから輸出するかといえば

横浜から輸出しますので
結局のところ

経済の中心 東京 江戸に
なってたと思うんですね。

例えば ニューヨークとワシントンのように
かもしれないですけれども

政治と経済の中心地というのは
それぞれあるというのは

結構 国として バランスが
とれている状態ですし

実は別に この話じゃなくて
今も僕 結構捨ててなくてですね

そろそろ
大坂に遷都してはどうかと…。

時々 思ったりするんですけどね。

やはり 大坂だと思います。

大坂からの資金調達で
戦い抜いた戦争だし

勝ち取った政治ですから

しばらく このスポンサーの群れからは
離れたくないと

私が大久保なら
思ったような気がします。

スポンサーのためにも
大坂にいる方がいいと。

いやいや スポンサーから
お金を取り続けるためにもね。

取り続けるためにも。
(笑い声)

そうですか 大坂…
京都じゃなくていいんですか?

その汚れ役があるから

いろいろ おはらいを
しなければならなかったので

この汚れ役から
ようやく逃れたんやから

やれやれと
肩の荷を下ろしたらええのに

まだ都は京都やなんていうふうに
ほざいている京都の人

いはるしね。
(笑い声)

さあ 大阪出身の落合さんは
いかがですか?

私は「江戸遷都」ですね。
外国との関係ですね。

鳥羽・伏見の時点では
この兵庫開港。

つまり 今の神戸港を
開港するために

外交官たちが たまたま大坂に
集まっていた訳なんですけども

鳥羽・伏見の戦いのあと
彼らは 局外中立を宣言して

横浜に引き揚げてしまう訳ですね。

従ってですね
戊辰戦争を通じて…

そういった事もあって これからは
積極的に外国に向き合いますと。

そういう立場をとろうとすると
やはり なるべく…

皆さん 割れましたけれど

岡山出身の磯田さんは
いかがですか?

僕は あえて京都 面白そうなので
やってみましょうか。

京都ですか?
はい。 3 京都・江戸両都案。

京都にすると どうなるかと。

日本は多分 あんまり急速な
西洋化の発展はしない 遅れる。

アジアとの対立も
あんまり起きないから

ひょっとすると 太平洋戦争も
ないかもしれないみたいな事

勝手に言いますよ。

やっぱり 文化財とか
よく残っているので

結構 21世紀に入ると
観光大国になって

いい感じで迎えたのではないか
みたいな。

あのね 磯田さんがおっしゃった
可能性もあるんだけれども

近代日本の首都に
なってしまうとね

京都には 超高層ビルが
林立したかもしれないんですよね。

なるほどね。 それ ありますね。
その事を思うとね

そんなもんは 要らん。
(笑い声)

慶応4年5月
大久保の決断を促す事態が起こる。

江戸で 上野の山に籠もっていた

旧幕府勢力・彰義隊が
一掃されたのだ。

更に 徳川宗家と家臣たちが
静岡に移る事に決定。

江戸は 名実ともに
新政府のものとなったのだ。

すぐさま 大久保は動き出す。

6月 京都を出立し
江戸へと向かった。

江戸城に 大久保 木戸孝允

大木喬任 大村益次郎ら

遷都推進派が集まった。 そして…。

大久保は
江戸への遷都を決断したのだ。

しかし
あえて遷都という言葉を使わず

あくまで
天皇が江戸に行幸する

という作戦をとる事にした。

更に 正式発表に当たっても
細心の注意を払った。

慶応4年7月17日

大久保たち改革派が作成した
天皇の詔書が出された。

「江戸は東日本最大の街であり

天皇自ら統治すべきものである。

よって これから
江戸を東京と称する。

全国民は一家であり

東も西も
共に大切にしたいのだ」。

この日を境に
江戸は東京となった。

一方で 大久保たちは 東西同視

つまり 京都は 引き続き

都であるかのように表現する。

京都の反発に配慮したのである。

9月20日午前8時。

歴史上初めての
東京行幸が始まった。

その道中 天皇とその一行は
訪れる土地で

人々と積極的に触れ合った。

名古屋近郊の農村では
初めて稲刈りを天覧。

この時
農民たちに あるものが配られた。

菊の紋章の入った まんじゅう
300個である。

東京行幸は
天皇を新たな指導者として

人々に強く印象づける
一大イベントでもあった。

京都を出発して23日後の…

行幸の列は東京に到着した。

沿道には 天皇の姿を見ようと
多くの人々が詰めかけた。

豪華な衣や冠を身につけた
公家や政府要人。

きらびやかな大行列は
東京の人々の心を捉えた。

午後3時 天皇が江戸城に入った。

江戸城で天皇を迎えた大久保は
その思いを こう記している。

「1, 000年に一度の
大きな出来事。

この喜びは
言葉にできない」。

この日
江戸城は東京城と名を改め

京都御所と並んで

皇居と定められた。

およそ20日後の11月4日

行幸の祝いとして 天皇の名で

東京市民に
2, 990樽もの酒が振る舞われた。

人々は
2日間にわたって仕事を休み

飲んで踊って
祭り気分に酔いしれた。

東京市民に 天皇の存在を

より身近に感じてもらおう
という

大久保たちの仕掛けであった。

およそ50日にわたって
東京に滞在した天皇は

一旦 京都に戻る。

しかし 明くる明治2年3月28日

天皇は再び 東京城に入る。

この行幸では 最高政治機関の…

以後 天皇は居を東京城に定める。

事実上の東京遷都であった。

天皇が去った京都は 公家や官吏
有力商人も東京に移り

寂れてしまう。

しかし 明治半ばになると

1, 000年の歴史と伝統を
アピールし

国際観光都市としての発展を
始める。

大坂は その後 商業だけでなく
工業都市としても繁栄。

大正時代には
東洋のマンチェスターと呼ばれ

一時は 日本最大の人口を誇る
大都市となった。

首都となった東京は
近代化の中で

天皇がいる政治の中心として
だけでなく

さまざまな産業が発達

巨大都市への道を
たどる事になる。

大久保は
東京遷都を成し遂げましたが

明治政府は東京遷都を
発表する事はしませんでした。

まあ 大久保というと 何かこう
ものすごい決断力を持った

冷酷な政治家というイメージが
ありますけども

一方で バランスというのを
非常に重んじる人物だったと

思う訳です。 いたずらに…

中野さん どうでしょう?
この東京遷都。

今 改めて考えてみると。

そうですね 例えば 人間の発達
っていうのに なぞらえてみると

これは バランスよく発達する
というのはないんですよね。

その時 必要な機能を優先して
育てるので…

貿易とか対外的な要素を
優先しなければなりませんし

体制… 本当に新しい体制を作る
という事が

最重要視されたでしょうから。

だけれども
それが ある程度 育って

成熟してきた現代は どうなのかな
というのは

まあ 一つの批判として
ありえますよね。

飯田さんは 選択1の「大坂遷都」を
選んでいましたけれど

この東京遷都
どのように考えますか?

もし これで
東京遷都をしないとですね

東京の住民たち
江戸の市民たちっていうのは

いつまでたっても
ある意味で言うと

新政府は敵だっていうふうに
考えていかなければいけない。

それが 江戸城に天皇が入って

そこが都になってしまったら
何か その

これまで…

…という意味で これは

すごく大きな決断だったと
思うんですが

ただ やっぱりですね 僕は
政治の都としての大坂と

経済の都 東京 まあ 江戸か
というのを

ちょっと見てみたかった気が
するんですよね。

あのね その後
西南戦争って起こるでしょう。

あの戦争で 京都と大坂の兵隊は
どうも弱かったらしいんですよ。

でね 口ずさむ文句があってね。

私は すばらしいと思うんだけど

大坂の町では 子どもの手まり歌に
それがなってたんですよ。

♬「大坂の兵隊 弱い」
というのが。

いや 全大坂人が
それを喜んでたとは言いませんよ。

つまりね 戦争に強い事が 何ら
自慢にならないという人たちが

あの町にはいる訳ですよ。

国際政治の場でも

もっと商人らしい振る舞いに
徹していたかもしれないという

可能性を担保しつつ
私は大坂で…

都を大坂であった近代を
見てみたかったなと思います。

それこそ
この日本の近代化っていうのが

世界的に果たした役割
非常に大きくて…

これが かなり 大阪 京都で

日本の伝統を引きずった形で
やって進んでいたら

もしかしたら その後の
アジア諸国の近代化というのが

必ずしも西洋になる事ではない
そういう

現実には
誰も見た事がない道というのが

あったんじゃないかなと
思うんですよ。

アジアらしい…。
アジアっぽい近代。

アジアっぽい近代…
あ~ 確かに それは

見てみたい気もしますね。
アジアっぽい近代ですよ。

その意味で このあとのですね

日本の歴史は
もちろんなんですけれども…

あっ ちなみにね
愛知出身 岡崎出身の杉浦さん

どこにします?

いや それは愛知県にと
言いたいところですけれど

その案はないので 私は

3番の「京都・江戸両都」。

何か 別に1個の所に
集中しなくてもいいのかなと

思います。
この選択を 正直

50年あとに迫られてたら

もっと鉄道の技術
上がってますから

両都案って
全然ありだったと思うんですね。

ましてや
今みたいに2時間半で

行ったり来たりできたら
なおさらですけれども

もう少し 鉄道が入ってきて
普及したあとだと

3は なくはない選択肢
だったかもしれない。

大久保利通がね 何年だったか
覚えてないけれども

久しぶりで 京都の西の嵐山に
来るんですよ。

そして あまりのすさみ方に
驚くんですよ。

で 彼は彼なりに思うんですね。

江戸幕府は こういうところにまで
手入れをしてたんだな。

明治新政権は この辺は
手入れをしてないなと。

そういうのを捨てて 大久保は
日本を前に進めていったんだ

という事を
私たちは かみしめながら

過ごしていったら
いいんじゃないでしょうか。

この「東京遷都」をテーマに
今日 お送りしてきましたけれど

近代化が進む事で 得たものも
もちろん 大きいけど

失ったものもあるんだという事を
皆さん…。         そうですね。

東京に行って よかった
というのは 多分

明治新政府にとっての
よかったでしょうけど

あれは 西洋のルールで

一から政治や経済
始められる場所なんですよね。

京都や大阪 逆言うと
歴史の蓄積がありすぎる訳ですよ。

ですから こういう
東京で あまりにも…

と言っていいかもしれませんけど
人工的な

あまりにも西洋的なものをやる
というふうになったと。

これは よくも悪くも働いた

という事なんじゃないかと
思いますよ。

本日は 皆さん
ありがとうございました。

ありがとうございました。


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