ザ・ドキュメンタリー「阿久悠~昭和が生んだ歌謡界のモンスター~」萩本欽一、山本リンダ、岩崎宏美、増田惠子…


『ザ・ドキュメンタリー 「阿久悠~昭和が生んだ歌謡界のモンスター~」』の番組情報(EPGから引用)


2018/06/23(土)
[字]ザ・ドキュメンタリー 「阿久悠~昭和が生んだ歌謡界のモンスター~」
昭和を代表するヒットメーカー阿久悠。手がけた曲は5000以上。なぜこれほどまでにヒット曲を生み出せたのか。自身がプロデュースしたピンクレディー誕生の舞台裏にも迫る。
詳細情報
番組内容
2007年にこの世を去った、作詞家・阿久悠。広告代理店時代から放送作家として活躍。その後、作詞家に転身しながら、「スター誕生」をはじめとする歌番組で新たなスターを次々と生み出してきた。5000曲以上もの作詞を手がけ、趣味らしい趣味も持たず仕事に没頭した阿久は、その死の2間前までペンを取っていたという。
番組内容2
今回、昭和歌謡の最先端を走り続けてきた阿久の、華やかな名曲の数々を紹介するのはもちろん、これまでほとんど取り上げられることのなかった晩年の姿にもフォーカス。その作詞にかける執念と情熱に迫る。
出演者
萩本欽一、山本リンダ、岩崎宏美、増田惠子ほか
初回放送日
2018/2/8
番組概要
日本中を震撼させた「あの事件」、日本中が感動した「あの瞬間」。懐かしい喜び、衝撃…思い返せば、さまざまな感情があふれる出来事があった。「あの時のニッポン」を、貴重な映像や証言と共に振り返る。また、過去だけではなく今起きている事、さまざまなジャンルの新たなドキュメンタリーに挑戦。長期間にわたる取材、徹底的な検証、味わいあるナレーションで、地上波では見られなくなった「ドキュメンタリーの王道」を目指す。
番組ホームページ
<番組ホームページはこちら!>
www.bs-asahi.co.jp/documentary/
制作
BS朝日、ViViA
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ザ・ドキュメンタリー「阿久悠~昭和が生んだ歌謡界のモンスター~」
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『ザ・ドキュメンタリー 「阿久悠~昭和が生んだ歌謡界のモンスター~」』の解析用ソース(番組内容ネタバレ注意!)


昭和の歌謡界に颯爽と現れ
ヒット曲を連発。

歌で時代を輝かせた男がいます。

作詞家 阿久悠。

その
波乱の人生とは…。

♬~「女心の 未練でしょう」

♬~「せんせい
それはせんせい」

♬~「雨雨ふれふれ もっとふれ」

♬~「私のいいひと つれて来い」

誰もが聞けば口ずさむ
懐かしい名曲の数々。

♬~「ウララ ウララ ウラウラで
ウララ ウララ ウラウラよ」

実は これらの歌はすべて

1人の作詞家が
生み出したものです。

昭和を代表する
ヒットメーカー

阿久悠。

生涯で残した作品は5000曲以上。

シングル売り上げ枚数
およそ7000万枚。

阿久が手がけた作品は
日本レコード大賞で

5度の大賞を授賞しています。

昭和歌謡が
最も華やかだった時代に

ヒットを飛ばし続けた

今から11年前。

70歳で生涯の幕を閉じた阿久悠。

♬~「あなたが 好きなんです」

♬~「町は今」

しかし 今もなお
彼の歌が色あせることなく

歌い継がれているのは
なぜなのでしょうか?

♬~「冬景色」

そして 阿久悠がプロデュースした
最高傑作

ピンク・レディー誕生の
意外な事実とは?

死の直前まで
27年間 毎日欠かさず綴った日記。

もし阿久悠がいなかったら…

あの時代 数々の名曲も生まれず

昭和の歌謡界は
つまらなかったかもしれません。

まさにモンスター的存在だった
阿久悠。

彼はなぜ
ヒット曲を

連発
出来たのでしょうか?

♬~「また逢う日まで
逢える時まで」

♬~「別れのそのわけは
話したくない」

昭和46年 日本レコード大賞の
大賞曲となった

『また逢う日まで』をはじめ
昭和歌謡全盛時代に

数々の名曲を世に送り出した
阿久悠。

♬~「すべてをなくすから」

『ロマンス』が好きです。

『舟唄』もそうでしょ?
そうです。

八代さん。
あの歌は いい歌。

タイトルを見ただけで
どんな世界が繰り広げられるのか

ワクワクする阿久の作品。

40年あまりのキャリアで
手がけた曲は

歌謡曲から
アニメソングやCMソングまで

多岐にわたっています。

では 人々の記憶に名を残す
作詞家 阿久悠は

いかにして
生まれたのでしょうか?

そのきっかけは たった1枚の
ある張り紙だったというのです。

阿久が
その張り紙を目にしたのは

日本が高度経済成長に沸いていた
昭和30年代。

明治大学文学部に在籍し

進路について
考えている時期でした。


いつかは小説を書いてみたい

それまで 何か
ペンを持つ仕事が出来ればいい。

そんな軽い気持ちで
大学の就職課をのぞいた阿久は

1枚の社員募集の張り紙に
釘付けになりました。

会社名は「宣弘社」
広告代理店でした。

阿久は この会社のどこに
心をひかれたのでしょうか。

阿久が目を留めたのは
備考欄に書かれたメモでした。

『月光仮面』…。

「テレビ映画『月光仮面』制作中」

そこには そう書かれていました。

この文章の何が 阿久の気持ちを
動かしたのでしょうか。

それの備考欄に
「テレビ映画『月光仮面』制作中」と

書いてあったもんですからね
それじゃあ ここだということで。

(黒柳)あっ 広告でご覧になって。

ただ 『月光仮面』にひかれて
入っていったんですよ。

広告代理店の仕事は
よく分からないが

テレビや映画の制作なら
脚本も書けるかもしれない。

そんな思いで進路を決めたのです。

入社後しばらくは
CM撮影での雑用がほとんど。

そんな下積みを経験して

広告コピーや
映画の企画書作りなど

書く仕事も
出来るようになりました。

入社5年で職場結婚し
仕事も順調。

すると 阿久の文章力に目をつけた
ほかの会社から

テレビ番組の台本作り

いわゆる放送作家の仕事で
声がかかったのです。

家計の足しに
なるかもしれない…。

新婚だった彼は 軽い気持ちで

放送作家の
アルバイトを始めました。

会社には 内緒だったため

当然 本名を名乗るわけには
いきません。

そこで考えたペンネームが…

「阿久悠」。

その由来は諸説ありますが

「悪友」から来ていると
いわれています。

軽い気持ちで引き受けた
放送作家の仕事。

しかし 甘くはありませんでした。

うーん セリフ…
ああ 違うなあ…。

CMや映画作りの経験はあっても
テレビ番組に関しては ほぼ素人。

そこで 阿久は ある行動に出ます。

あっ…。

で そこに
いろんな書き込みがしてあるから

その書き込みと
オンエアと比べながらね

あっ そうか
こういうふうに書いときゃ

ああなるのかっていうような。

二足のわらじを履く
目の回るような毎日。

しかし 自分が書いた台本が
テレビ番組になる喜びは

格別なものでした。


そんなある日 阿久に

思いもよらない依頼が
舞い込んできました。

阿久ちゃんさ スパイダースの
曲の詞 書いてみない?

阿久が台本を書いていた
音楽番組のプロデューサーが

突然 作詞の仕事を
依頼してきたのです。

ザ・スパイダースは 堺正章
かまやつひろしらが所属した

日本のグループサウンズの
先駆けとなった人気バンドでした。

どう? やる?
はい やります!

やらせて下さい!

こうして初めて作詞したのが

『フリフリ』という曲の
B面に収められた

『モンキー・ダンス』でした。

♬~

初めて楽曲に歌詞をつけた阿久。

この時は
あくまでも番組の企画でしたが

その小さな一歩が 彼の運命を
大きく変えていくのです。

阿久のもとに正式な作詞の依頼が
来たのは その2年後。

鈴木ヒロミツがボーカルを務める
ザ・モップスに

詞を提供することになったのです。

この時
阿久とコンビを組んだのが

作曲家の村井邦彦でした。

依頼があって そのモップスの曲を
書いてくれと言われたんですね。

で ホテルに来てくれと言われて
そこのホテルに行きましたら

阿久さんが もうそこにいらして

「曲が出来るまで
ここにいて下さい」

これは参ったなと思って

で ぼつぼつと阿久さんと
いろんな話をして

広告の仕事を
しているんだけれども

(村井)今 いろいろな
ほかの人が書いた詞を

読んでいるんだけども…。

しかし その自信とは裏腹に

作詞家としての経験不足は
隠しようがありませんでした。

(村井)自分は 広告のコピーとか
そういうのをやってるんで

例えば タタタタタタ…
7文字とかって。

曲を書き上げた村井は 先に帰り
ホテルに1人残された阿久。

村井が書いてくれた
言葉の数を頼りに

黙々と作詞を続けたといいます。

聞いた話なんで 本当かどうか
分かんないんですけれども

缶詰になったまんま
時々ホリプロの人が来て

「出来ましたか? 出来ましたか?」
って言うんだそうです。

それで 「朝まで待てない」って
言われたのが題になったという

伝説なんですけどもね。

よし 出来た! うん。

阿久がホテルに缶詰になり
悪戦苦闘の末 書き上げた曲

『朝まで待てない』。

後日 この詞を目にした村井。

ひと目で
阿久に才能を感じたといいます。

意味が全部よく分かるように
出来てるんだよね。

あんまり抽象的なこと
書いてないですよね。

限られた字数の中で
きちんとストーリーを

入れ込んでいくことの
力のある人でしたね。


いろんな作詞家の方いるけど…。

こうして
ついに生まれた作詞家 阿久悠。

これまでの心理描写や
雰囲気を重視した作詞家とは

明らかに異質な存在でした。

昭和45年 そんな阿久の
強烈な個性が

ひときわ際立った曲が
発表され

周囲を驚かせたのです。

その歌詞は これまでの常識を覆す
衝撃作でした。

昭和45年
再び村井とタッグを組んだ阿久。

この年に発表された曲の歌詞に
歌謡界は度肝を抜かれました。

詞をもらった時は
びっくりしましたね。

あまりに刺激的な内容が
作曲家を驚かせた一方

この歌詞を見て
また違った衝撃を受けた人物が。

音楽評論家の小西良太郎。

どうすごいかってえと…。

ストーリーがある
タイトル長い 全体が暗い

それから 映像に見えるよう…

目に見えるようなシーンが
いくつか出てくる。

これはすごいなと思ってね。

歌謡界に衝撃を与えた問題作。

そのタイトルは…。

『ざんげの値打ちもない』。

♬~

♬~

阿久の歌詞は
登場する人物の置かれた状況

周囲の景色 何をしたいのか…

すべてがストーリーとして
克明に描かれていました。

それはまるで
劇画を見ているかのような感覚…。

石川さゆりが歌った
『津軽海峡・冬景色』。

この歌には 阿久の詞の特徴が
よく表れています。

♬~

映画のように 1シーンごとに

カメラのアングルを変えて
撮っているかのような迫力を

この詞からは
感じることが出来ます。

1カメでカットしたり
長回ししたりして

ずーっと撮ってる。

まずは 女性が降り立った
青森駅の広い映像から入り

海鳴りを聞く無口な人々の
カットにチェンジ。

次に 鴎を見つめて泣く
主人公のアップを挟み

最後に
カメラは一気に引いて

冬の津軽海峡の全景を
映し出すのです。

劇画のような
迫力ある歌詞作り。

阿久のこだわりは
これだけではありません。

絶対にお使いにならない言葉
っていうのが

なんか2つぐらいあるって。
ええ あの…。

「どうせ」
「どうせ私は…や」とかね

「所詮わたしは…だから」という
言葉は使うまいと。

まあ そうじゃないものも
歌になるということで

ずっと貫いていこうとは
思ってるんですよ ええ。

そんな阿久の思いが
強く表れているのが

都はるみが歌った『北の宿から』。

♬~

♬~

一見 女性の未練を歌っている
ような印象の『北の宿から』。

しかし 阿久の意図は
まったく違っていたのです。

あの~ あんまり
いじらしい女の人のつもりじゃ

書いてなかったんです。
割としっかりしてる人でね。

例えば セーター編んでるのも

ちょうど
編みかけだったもんですから

それを編み終わらないことには
ケリがつかないと。

とにかく
嫌なやつのセーターだけど

とにかく
ここで終わらせてしまおうと。

それをやるには 北の宿というのは
いい儀式の場だというね。

(黒柳)ああ… 終わったら
そのセーターをどうしようと?

まあ 捨てるなり何なり
とにかく それで1つの今までの

何カ月か何年間か終わりにしよう
という気持ちだったわけですね。

(黒柳)その男の人との関係を。
ええ。

ですから 「女心の未練でしょう」
って言ってるんですね。

あれ 歌の常識からいくと

「女心の未練でしょうか」と
歌ったほうが歌いやすいし

歌らしいんですけどね。

ただ そこに「か」をつけるか
つけないかで

僕としては
1つの意図があったわけですけど。

「未練でしょう」と言い切り
自分で完結させることで

自立した強い女性を
表現しています。

阿久悠の作品には
捨てられて 我が身を嘆くような

弱々しい女性は
出てこないのです。

そして 阿久悠が
作詞をするにあたり

強くこだわったことが
もう1つありました。

それは

今この時代にアンテナを張り

人々が飢えているもの
求めているものを正確に捉え

歌を通して
世の中にフィードバックする。

そのイメージを 阿久は

「時代の飢餓感に
ボールをぶつける」と

表現したのです。

飲んでしゃべってても ほとんど
彼は あんまり飲まないんで

俺ばっかり飲んでんだけど…。

四六時中 言葉を探していた阿久。

それは 執念と呼べるほど
狂おしいまでの欲求でした。

阿久さんの作詞作法の中に
書いてある方法があって…。

時代の単語探し。

詞のヒントになりそうなものを
すべてメモに残し

時代の流れに
常に目を光らせていた阿久。

この行為は やがて形となり
ある名曲につながっていきました。

それまで別れの歌といえば

男が女を捨てて出ていくという
暗いイメージのものばかり。


歌詞に盛り込まれたのは

「恨み」「つらみ」「憎しみ」でした。

しかし阿久は 優しさやふれあいが
求められている

時代の流れを読み取り

新しい別れのパターンを
世に送り出したのです。

それが 昭和46年の
『また逢う日まで』。

♬~

♬~

まさに 時代の飢餓感に
ボールをぶつけた曲。

阿久のもくろみが詰まった
『また逢う日まで』は

日本レコード大賞で
見事 大賞を受賞したのです。

売れるってことは
お金になる ならないじゃなくて

あっ 通じたんだなという
気持ちの問題ですからね。

やっぱり売れてほしいって
いうのは 一番思いますね ええ。

次々にヒットを飛ばし

作詞家として確固たる地位を
築いていった阿久悠。

しかし 時代は彼を作詞家だけに
留めようとはしませんでした。

テレビの歴史を変えたといわれる

あの伝説のオーディション番組が
いよいよスタートするのです。

常に時代の風を読み
新たな流れを作っていた阿久。

そんな彼が
作品を送り出すにあたり

強く意識していたものがあります。

それは テレビ。

急速にテレビが普及する中

歌謡曲は もはや
耳で聞くだけではなく

見て楽しむものへと
変わっていたのです。

阿久は この時代の変化を
敏感に捉えていました。

昭和46年 34歳になった阿久は

ある番組の立ち上げに参加します。

後に 伝説の番組と
言われるようになった

『スター誕生!』。

一般人から歌手の原石を発掘し
スターへと育てていく

オーディション番組でした。

歌を聞いたレコード会社や
プロダクションの担当者が

札を挙げれば

その場でデビューが決まるという
斬新なスタイル。

本来 閉ざされた空間で行う選考を
あえてガラス張りで行う演出は

阿久が考えたものでした。

番組が始まると 全国の若者たちが
オーディションに殺到。

審査員として表の顔も務めた阿久。

森昌子 桜田淳子
山口百恵 岩崎宏美ら

数々のスターを
生み出していきました。

そして 『スター誕生!』の
名物司会者だったのが

欽ちゃんこと萩本欽一。

この番組は
阿久さんの思い入れの強い番組で。

日本の最高のエンターテーナーを
作るという番組にしたいって。

だからね 本物の大人志向の
歌がうまくて

ほいで
エンターテーナーとして見事で

そういうタレントを
作りたいという。

コメディアンとして
お茶の間の人気を博していた萩本。

ところが 『スター誕生!』の
司会のオファーが来た時は…。

「僕には出来ませんよ」って
言ったの。 うん…。

「何が出来ないの?」って言ったら
「前 進められない」って言ったの。

「覚えたことをちゃんと言えない」
って言ったら そうしたら

「じゃあ ちゃんと言える人

横ちょに置いときます」って
言うんだよ。

日本で初めてですよ 司会者が
アシスタント置いた。

番組スタート当初 阿久をはじめ

審査員を務める
音楽界の重鎮たちと萩本の間には

目に見えない溝があったと
いいます。

話もしたことないです。

それはね そういうふうに…

そういうふうに
そういう番組にしようという

しかし 初めての司会に燃えていた
萩本は…。

だからって言って

番組全部を そういうふうに
するわけにはいかない。

私は あのね…。

そして ある日
とんでもない事件が起きました。

この突然のアドリブが
審査員の逆鱗に触れたのです。

番組で 予定外のことを勝手にした
萩本の行為に腹を立て

審査員を辞める人も出るという
大騒動に発展しました。

子ども相手のお遊びやっちゃって

で まあ 正直言って

更に 番組内では「萩本を降ろせ」
という声も上がったそうです。

そしてある日 萩本は阿久に

思いもよらない言葉を
かけられたといいます。

笑いながら 「いや~」…。

にっこり笑いながら
「いや~ 欽ちゃんはすごいね」

「阻止しようと思った」

「なんか分かんないけど
阻止しようと思ったらさ

まあ止まらないね
まあ信念がしっかりしてる」

「自分の思ったことを まっすぐ

誰も止めることが出来なかった。
見事! いや~ 見事だったよ」

阿久さんの にっこり笑った顔
見たことないですからね。

後に 実は一番怒っていたのは
阿久本人だと聞き…。

いやあ 阿久さんって
すげえ人だな。

普通なら怒って
「辞めるぞ!」とかって言って

大騒ぎになるところを

こうして
厳格なオーディションと

軽妙な司会ぶりが
うまくマッチして


『スター誕生!』は
人気番組へとなっていったのです。

阿久の作詞家にとどまらない
仕事ぶりは 番組だけでなく

歌手のプロデュースにまで
及びました。

最初に手掛けたのは
あるアイドルの再生でした。

山本リンダです。

山本リンダは
阿久と出会う6年前に

『こまっちゃうナ』でデビュー。

これが大ヒットし

一躍トップアイドルの仲間入りを
果たしました。

しかし…。

そのあと まあ少しずつ
『ミニミニデート』だとか

『帰らなくちゃ』だとかっていう
歌はあったんですが

だんだんだんだん
ヒットが出てこなくなりまして。

そこで 白羽の矢が立ったのが
阿久悠。

阿久が掲げた
山本リンダ再ブレークのテーマは

『こまっちゃうナ』で
固定化されてしまった

清純派というイメージからの
脱却でした。

リンダを もうバラバラに壊して
立て直して

そして
新しいリンダにしようって。

そして 出来上がった
阿久の歌詞を見たリンダは…。

もう出だしが
「うわさを信じちゃ いけないよ

私の心は うぶなのさ」って
書いてあって

わあ! すごいかっこいい出だし
と思って

「ああ蝶になる ああ花になる」
「もうどうにもとまらない」

かっこいいな~と思って。

待ってたとおりの歌だって
本当に

刺激的な歌詞と曲は出来ました。

あと必要なのは
テレビを意識した

都倉先生がね 歌い方に対して

私 うれしいから

♬~「うわさを信じちゃ」

にこにこして
歌っちゃったんですね。

「これは 笑いながら
歌う歌じゃないんだ」

「口は横にするんじゃなくって
縦にするんだ!」って。

何度も こうやって歌いながら…。

♬~「うわさを信じ…」
♬~「うわさを」

♬~「うわさを」
♬~「うわさを」

「もっとにらんで!」
♬~「うわさを信じちゃ…」

「そうだ~!」みたいな感じで。

大胆なヘソ出しルックを
身にまとい

過激な振り付けで歌い踊る
『どうにもとまらない』。

阿久悠 勝負の1曲でした。

♬~

『どうにもとまらない』は
空前の大ヒット。

子どもたちがね
もう本当 社会現象になって

教室の お休み時間ね。

その後も 阿久の詞は
次々と彼女のもとに届きました。

(山本)『狙いうち』はね
私もうれしくなっちゃったの。

パッて見た時

「ウララ ウララ ウラウラで
ウララ ウララ ウラウラよ」

「ウララ ウララ ウラウラの
この世は私のためにある」

ええ~ かっこいいな~
と思ったんです。

今までの日本の
いろんな歌の中に

歌謡曲だとか ほかの曲にも
ないような詞が みんな入って。

(山本)ああ
今度はこういう言葉だって。

(司会)昨年度に続き 今年もまた
放送音楽賞上席に

ノミネート曲『狙いうち』。

大胆なイメージチェンジに成功し

山本リンダの再ブレークを
成功させた阿久。

そして この経験が

更なる大成功への
大切なステップになったのです。

山本リンダのプロデュースで
手応えをつかんだ阿久。

その成功体験を生かし
新たなプロデュースに挑みました。

その相手とは…。

昭和歌謡史にさん然と輝く

ピンク・レディーの曲を全部
お書きになったっていうのは

すごいですね。
あれは 面白かったですね。

私なんかは『ペッパー警部』
ぐらいからでしたけどね。

それこそ

作詞家っていうよりは

今 スピルバーグが子ども向きの
いろんな映画作ってる感じをね

当時 僕は味わってたような
気がするんですよ。

しかし その船出は

決して
順風満帆ではありませんでした。

もともと『スター誕生!』が

デビューのきっかけだった
ピンク・レディー。

ケイちゃんこと増田惠子は

審査員席の阿久悠の前で
歌った時のことを

はっきりと覚えていました。

(増田)また その
歌い終わったあとの

評価というか

『スター誕生!』では
フォークソングを歌った2人。

結果的に
番組で見事にスカウトされ

デビューが決定しました。

そして 彼女たちには

デビュー後に思い描く
理想の姿がありました。

すごい なんて言うの…。

なので どんなデビュー曲に
なるのかなっていうのも

楽しみでしたし

歌って踊れるような曲を

デビュー曲として
頂けたらいいねって 2人で。

しかし 待っていたのは
理想とかけ離れた現実。

まずは 所属事務所から

アーティスト名の候補が
告げられたのですが…。

(増田)「ちゃっきり娘」「みかん箱」
「白い風船」。

で どれもこれも
イメージじゃなかったんですね。

ちゃっきり娘か… みたいな。

そしたら
「白い風船でいくよ」って。

白い風船か…。


このネーミングに 真っ向から
反対したのが阿久でした。

こうして 阿久を中心とした

新人歌手のプロデュースが
始まりました。

手始めに
新たなアーティスト名の決定。

決まった名前は 文字どおり

「白い風船」を吹き飛ばす
インパクトを持っていました。

色紙をたくさん渡されて

「白い風船」っていうサインを
練習してたんです 毎日毎日。

そしたら ある時
「名前変わったよ」って。

「ピンク・レディーだから」って
言われた時に

本当にもう 号泣しましたね
うれしくて。

はい それぐらい うれしかった。

新しいアーティスト名は
「ピンク・レディー」。

作曲家 都倉俊一が飲んでいた
カクテルの名前

「ピンク・レディー」から採ったと
いわれています。

アーティスト名も決まり

彼女たちを売り出す方向性も
固まりました。

そのテーマは…。

衣装からダンスに到るまで
テレビの特徴を最大限に生かし

華やかなインパクトを与える。

それがピンク・レディーを売り出す
基本路線となったのです。

しかし
事は簡単には進みませんでした。

当時 音楽ディレクターだった
飯田久彦は…。

ピンク・レディーっていうのは
ほとんど あの…。

もう9割9分「なんでこんなものを
作ったんだ」みたいなことは

上司から
怒られたぐらいですからね。

しかし 阿久は
そんな声など どこ吹く風。

デビュー曲の作詞に
取りかかります。

(飯田)みんなが
今はやってるものとか

今ヒットチャートに
あるものとか

今 世間は何を求めているのか…。

阿久のアンテナに
引っかかったことを

書き留めてきたメモ帳には

さまざまなキーワードが
並んでいました。

当時はやっていた

「ドクターペッパー」という
炭酸飲料。

映画『ピンク・パンサー』の主人公
クルーゾー警部。

そして
アメリカンコミックのような

派手な色彩のコスチューム…。

世間を あっと言わせる
斬新な歌詞と心躍る曲。

阿久は確信しました
「これなら勝てる!」。

確か コーラスさんのコーラスも

確かもう入ってたと
思うんですけれど

まず『ペッパー警部』の
あのイントロ

あれも衝撃的じゃないですか。

コーラスさんの声で
「ペッパー」って。

サビから入るんですよね。

うわあって… これは

もう それだけでうれしかった。

しかし…。

レコード会社内での評判は最悪。

まったく期待されていなかったと
いいます。

一時は
デビューも危ぶまれましたが

阿久たちの熱意によって

なんとか レコーディングまで
こぎつけたのでした。

大化けか 大コケか…
先が見えない大きな賭けでした。

そして 昭和51年

ついにリリースされた
『ペッパー警部』。

♬~

そして 阿久たちは
見事 賭けに勝ちました。

『ペッパー警部』は

予想をはるかに超える
ヒットを飛ばし

ピンク・レディーは この曲で
レコード大賞 新人賞を獲得。

ここから ピンク・レディーの
快進撃が始まったのです。

4枚目のシングル
『渚のシンドバッド』は

初のミリオンセラーに。

♬~

出す曲が次々大ヒット。

ピンク・レディーの
プロデュースには

阿久ならではの
戦略がありました。

ピンク・レディーっていうのは

やっぱり 阿久先生もすごいけど
タイトルがすごく大事だと。

タイトルが やっぱり まずね
まあ聞き手というのか…。

いろいろ タイトルばっかり。

どうすれば
世間が興味を持ってくれるのか?

阿久は その一点を
全力で考えていました。

そして 時代の飢餓感に投げつけた
6曲目のシングルが

日本中の度肝を抜きます。

「UFO」って なんだ
どこ行っちゃった 本当に…。

はあ…。

♬~

♬~「UFO」

♬~

UFOや宇宙人が出てくる
画期的な恋の歌。

周囲に その発想が
理解出来たのでしょうか。

先生 富士山が大好きで

それで あっちの熱海…
伊東のほうに引っ越された。

本当に うん。

一見 地球人離れして見える
発想力は

地道に続けていた
時代の言葉探しのたまもの。

アイデアは無限でした。

透明人間 出そうとかね。

(黒柳)「消えますよ 消えますよ」
とかね

「UFO」とか なるほどね。

今度は 野球の実況中継みたいな歌
作りたいなとかね。

(黒柳)だから『サウスポー』とか
ああ~。

そういった こう いろんな
歌にこだわらない形で

いろんなことが
やれたもんですから

面白かったですね。

自由な発想で

次々とピンク・レディーに
歌詞を書いた阿久。

出てくる状況はとっぴでも

そこには しっかりとした
ストーリーが描かれていました。

だから

では 阿久の歌詞に宿る
綿密なストーリーと

情景が思い浮かぶような
劇画調の迫力は

どこで培われたのでしょうか?

その原点は
ふるさと 淡路島にありました。

昭和12年
兵庫県淡路島に生まれた阿久悠。

兄と姉 そして妹の
4人きょうだいでした。

父の職業は警察官。

勤務先の異動に伴って

家族全員で
島の中を転々としていました。

阿久が8歳の時
太平洋戦争が終わりました。

戦後の復興から 日本が次第に
活気を取り戻しつつあった頃

阿久を夢中にさせたのが…。

ラジオは淡路島の外の世界を知る
唯一の道具でした。

ほかの誰よりも
熱心にラジオを聞き

音だけで伝えられる まだ見ぬ世界
未知の知識に思いをはせ

想像を膨らませていました。

そんな阿久と一緒に
野球に明け暮れたという

小学校からの同級生
十川さんです。

バット…。

当時 プロ野球選手になりたいと
夢を見ていた阿久。

一方で すでに作詞家の片鱗も
見せていたようです。

「こんな表現をする!」と
読み上げんねん。

田んぼの稲が 夕立で
揺れているのを見た阿久少年は

「夕立が草波蹴立ててやってくる」

と詩に書いたのです。

小学生離れした感覚に
先生も大絶賛。

阿久本人も この時の記憶を
しっかりと心に刻んでいました。

ちょっと異常なくらい
褒めてくれたんです。

それは
そのままで過ぎてたんですけど

あとで なんか すごく
自分の支えになってましたね。

やっぱ あの時
あんなに褒めてくれた

だから俺 ひょっとしたら

才能あるのかもしれない
っていうのが。

才能あるとは
思ってなかったですけど

あるって言ってくれた人が

少なくとも1人いる
っていうことはね

すごい支えだったです。

これはもう 大学行って
代理店勤めて

それから物書きになろうかなと
思い始めた頃まで

お守りみたいに
その言葉がありましたから ええ。

プロを夢見る野球少年であり

周囲も認める
詩の才能を見せ始めていた

小学生時代の阿久。

ところが 中学2年になった時

阿久の身に病魔が襲いかかります。

学校も しばらくの間
休むことになりました。

その後 病状は
回復したものの

激しい運動は
止められてしまいました。

もちろん 野球も。

プロ野球の夢を諦めた阿久は
高校進学後

ある場所に
どっぷり はまったといいます。

後の作詞家人生の礎を
作ったともいうべき場所。

それが こちらの「洲本オリオン」
映画館です。

今も営業を続けていました。

館長の野口さんは

前館長のお父さんから
阿久の話を聞いていました。

2階に映写室があって
その映写室の映写窓の近くで

阿久悠さんが
よく映画を見られてた

っていうのは 人づてに
話は聞いたことがあります。

阿久は 週に3度はここを訪れ

1日3本の映画を
見ることもあったといいます。

スクリーンに映る街並みや

バス停の文字にまで
目を凝らすほど

映画に夢中になっていた阿久。

作詞家する人ってのは

例えば 旅に出てね
歌のネタを まあ探すのかなあ?

あるいは 街で飲んだくれてる。

いっぱい映画見てるし

それからね 仕事場には山ほど
映画のDVDだとか

山ほどあったな。

もう3分の歌謡曲 歌だって

2時間半の映画だって それはね

感動する度合いは一緒…
密度は一緒でね。

淡路島から上京後も
映画館に足しげく通っていた阿久。

彼の詞の特徴である
映像的な迫力と

人をひきつけるストーリーは

映画の影響を
色濃く受けているように見えます。

偉大な作詞家の原点は
島の小さな映画館だったのです。

作詞家として成功を収めた阿久悠。

『スター誕生!』では
厳しい審査ぶりで知られ

すっかり「怖い先生」のイメージが
ついていました。

ところが 自分が見いだした
若いアイドルたちの前では

まったく違う顔を
見せたというのです。

そんな阿久の一面をよく知るのが

『スター誕生!』からデビューした
岩崎宏美。

♬~「もしも飛べるなら
飛んでついてゆく」

阿久が作詞した
『ロマンス』が大ヒットし

昭和を代表する
アイドルになった岩崎。

♬~「あなたが 好きなんです」

初めて阿久先生に
お会いした時には 多分…。

デビュー曲の
『二重唱(デュエット)』の

レコーディングの時だったと
思うんですけれども。

無駄に笑わないし
フフッ なんか うん…。

でも なんか毎回毎回
レコーディングのために

結構
足を運んで下さっていたのでね

なんか こう…。

しかし 当時10代で
怖いもの知らずの岩崎や

桜田淳子 伊藤咲子は

阿久を相手に
やりたい放題だったそうです。

私たち本当に子どもだったから

あの当時も 阿久先生の髪の毛が

カツラなんじゃないかっていう
うわさが出てね。

それで ジャンケンに負けた人が

先生の髪の毛を引っ張るっていう
ゲームをしたことがあるんです。

それで 伊藤咲子さんが
ジャンケンに負けて

さり気なく先生の後ろに行って
こうやって

ピッて頭を引っ張ったら
「イテ!」って。

「イテ!」 だってっていう…
そのぐらい子どもだったからね。

カツラだったら
大変だったんですけど。

もう本当に 怖いっていう印象も
あるんですけれども

仰天エピソードは
これだけではありません。

先生のおうちに 泊まりに
行ったことがあるんですよ。

桜田淳子さんと
伊藤咲子さんと3人で。

先生のおうちにあった
『プレイボーイ』だったか

『平凡パンチ』だったかを
伊藤咲子さんが見て

「女学生の売春」っていう記事を
読み上げた時に

それを淳子ちゃんが怒って

「そんなのは不潔よ!」って
壁に たたきつけたんですよ。

それを 私が阿久先生に言ったら

「お前たち3人の話っていうのは
本当に 見てないけど

手に取るように分かる」って
言われて。

本をたたきつけちゃう
桜田淳子さんも目に浮かぶし

それを読み上げてる伊藤咲子も
手に取るように分かるし

私たちのことじゃないから
いいじゃないって言ってる

お前の言葉もよく分かるって
言われてね。

学校の先生みたいに 私たちのこと
見てたんだなと思いますね。

こわもての阿久悠も 自分が
『スター誕生!』で見いだした

アイドルたちの前ではタジタジ。

そんな中 岩崎のことは

父親のような目で
見守っていたそうです。

やっぱ 阿久先生の気持ちの中に

岩崎宏美っていうのは
やっぱりね

一目置いてたっていうのかな。

事実 阿久が多くの詞を
提供した岩崎。

その数 実に60曲。

宏美の場合は
1つ1つ きちんと

「宏美を
どうやって成人させようか」

それが阿久の口癖だったそうです。

阿久にもらった60曲の中で
特に思い出深い曲。

レコーディングでも一番泣いた
ナンバーワンの歌だったので

涙がポロポロポロポロ流れたし

そうかと思えば もう
メロディーが美しすぎて

イントロが鳴るだけでも
泣くようになっちゃったので

ボタン ピュッと押したみたいに。

何回レコーディング流れたのかな。
何回か流れたんですよね。

♬~「青春は忘れもの
過ぎてから気がつく」

アイドルたちの
父親のような存在だった阿久。

しかし そんなおじさんに

なぜ10代の女の子の恋愛が
書けたのでしょうか?

先生って 詞頂くたびに

なんかドキドキするような詞
書いてくるから

「先生って あんな顔してるけど
結構 経験豊富かもねって

言ってたんですよ」って
言ったんですよ。

そしたらね…。

なんと 高校時代にしていた
ラブレターの代筆が

恋する10代の気持ちを理解する
助けになっていたというのです。

しかし なぜラブレターの代筆など
していたのでしょうか。

僕は映画を見たくて
しょうがないわけですね

高校へ入った頃から。

55円かかるんですよ
1回 映画見るのにね。

で 100円もらった小遣いで
2回見られないっていうのがね

ひどく つらくて。
(黒柳)10円足りない。

映画を見るお金が
欲しくて しょうがなくて。

せっせとラブレターを書いては
映画鑑賞。

何とも阿久らしいエピソードです。

ちなみに ラブレターを
渡したあとの結末は

一切聞かなかったそうです。

もちろん阿久は アイドルに

振り回されてばかりいた
わけではありません。

月に1回か2回
『スター誕生!』のゲストとして

番組に行くんですけれども。

怖い印象だった先生が
デビューしてからは

ちょっと こう
心配そうな顔に変わられて。

たまにお会いする時も

声をかけて下さるんですけれど。

羽田の空港で
ばったりお会いしたんです。

阿久先生と。

で レストランに入ってったら
阿久先生は別のお仕事で 羽田に

ちょうど1人で
コーヒー飲んでらしたんですね。

もう すっごい緊張したんですけど
「あっ すいません

先生 おはようございます。
いつもお世話になってます」

「前座らせて頂いて
いいでしょうか?」って言うと

「あっ いいよ」とかって
おっしゃって。

自分で そういうふうに思って。

いかつい顔のその奥には

シャイで思いやりにあふれた
優しい素顔が隠されていました。

昭和のヒットメーカー 阿久悠。

目まぐるしく移り変わる歌謡界で

彼はトップランナーとして
走り続けてきました。

しかし その勢いにも
ついに陰りが見え始めます。

フルスイングしてるんだけど
ブンって音が聞こえないみたいな

もどかしさを持ってたみたいなね。

阿久悠が突如下した決断
「作詞の世界から離れる」。

ヒットメーカーの身に
一体 何が起きたのでしょうか。

昭和54年。

歌謡界に2つの大きな変化が
起きてきました。

1つは

特に サザンオールスターズや
さだまさし

松任谷由実をはじめとする
シンガーソングライターの楽曲が

ヒットチャートを
席巻していました。

そして…。

例えば 覚えやすくて
歌いやすい歌を

熟女たちが
喜んで歌うようになると

やっぱり 商売は

そっち側向きに
ちょっとなる。

流行歌の本質が
変化しつつあることを

阿久は感じていました。

これまでのように
時代を捉えることが出来ない。

思い悩み 焦る阿久に対し
小西は思い切って告げました。

その年の夏
阿久は その言葉どおり

作詞の世界から離れていきました。

しかし たっぷり出来た時間は

阿久を
新たな挑戦へと向かわせました。

若い頃 見ていた夢が
動き始めたのです。

テーマは 敗戦後の日本。

野球に夢を託していた
子どもたちと

教師の心の交流を描いた物語。

阿久の自伝的作品でもある
『瀬戸内少年野球団』。

小説は 直木賞にノミネート。

映画化までされました。

歌謡界に
新たな時代の波が押し寄せ

作詞家としての自分を
見失いかけた 阿久。

そんな中
小説を書くことによって

創作の喜びと 作詞への意欲を
取り戻したのです。

そして 半年後。
再び作詞を始めた 阿久。

八代亜紀に書いた 『雨の慕情』は

昭和55年のレコード大賞の
大賞に選ばれました。

自身が手がけた
5曲目の受賞でした。

♬~

♬~

再び 歌謡界のトップへ
返り咲いたかに見えた 阿久。

しかし 実は いまだ

時代への違和感を
拭えずにいました。

ある貴重なものが

阿久の母校 明治大学に
保管されています。

案内してくれたのは

阿久の一人息子 深田太郎さん。

当時の貴重な資料を
見せてくれました。

(スタッフ)全部で何冊あるんですか?
27冊あります。

阿久は 『雨の慕情』で
栄冠を手にした その翌日

昭和56年の元日から 毎日欠かさず
日記を書いていたそうです。

その日に起こったニュースが
主ですかね。

あと スポーツの記事が
多いですね。

試合結果が多いですね。

阿久の日記を全て読み

著書にまとめた
作家の三田完さん。

歌にしても
小説にしても

コラムにしても

自分が どういうふうに世の中を
見ているかとか

膨大な毎日の記述に
まとめていくことで

この日記には 深い苦悩が
うかがえる記述もあります。

「今日は 何も話したくない」

「“逆境を好機に変える天才"
と云う言葉を信じるのみ」

「とうとう
昭和64年を迎えてしまった」

「1989年である」

「まあ 何にしろ 新しい時代に
突入するだろうから

その時代が
晴れ晴れとしていることを

祈るばかりである」

「元気で 強くありたい」

心情を吐露してる部分とかも
ありますよね。

でも 当たり前ですよね
そんなのね。

よくよく考えたら
ものづくり

これまで 阿久は
時代を引っ張ってきました。

しかし 彼の思いと時代の間に
ずれが生じ

1980年代に入って
阿久が感じていた違和感。

それを阿久は こう綴っています。

バブル景気に浮かれ
新しいもの

ぜいたくな暮らしに取りつかれた
人々の姿。

阿久は そんな時代の空気に
疑問を持っていたのでした。

そんな 阿久の もどかしい思いを
詞に込めた歌があります。

今も多くの人に歌い継がれている
その曲とは…。

日本がバブル景気に浮かれ

新しいもの
ぜいたくな暮らしに

取りつかれている時代に感じた
違和感。

だからこそ 阿久は
もう 時代のペースではなく

自分のペースで生きていこう

そんな思いから
生まれた曲があります。

阿久自身が
そうだったんけども

突然
気付いたんだと思うんですよ。

多分
それを探す旅みたいのを始めて

そういう流れで出来た
曲なんじゃないかなと

思うんですよね。

その曲とは
河島英五の『時代おくれ』。

ここに来て 時代と距離を置き

肩の力を抜くことが出来た
阿久悠。

以前のように
ヒット曲は出なくても

心は穏やかでした。

晩年は がんに冒され
闘病生活を余儀なくされました。

しかし そんな中でも

昭和を駆け抜けた
歌謡界のモンスターは

決して
書くことをやめませんでした。

とにかく

死の半年前。

2007年の日記に書かれていた
言葉です。

「死ぬな まだ死ぬな
まだまだ求められている」

「それに応える責任がある
たっぷりと知らしめることだ」

「体が弱っても
頭と右手が元気ならいい」

「飽きるな
生きることに飽きるな」

「書けば誰かが喜ぶ
書けば道が出来る」

「道はつづく
それを見とどけよ」

死ぬことをかたくなに拒んだ
魂の叫び。

その理由は まだまだ書くことが
残っているから。

書くことで
誰かが喜んでくれるから。

しかし 2007年8月1日。

希代のヒットメーカー 阿久悠は
この世を去りました。

そして 阿久の死後

遺書ともいうべき あるものが
大量に発見されたのです。

2007年8月1日。

作詞家 阿久悠は
この世を去りました。

生前5000曲以上の歌を送り出した
希代のヒットメーカー。

しかし 驚くべきことに

阿久の死後 更に数百にも及ぶ
未発表の詞が発見されたのです。

見つかった これらの作品は
阿久悠ゆかりの人々によって

今も世に送り出されています。

その1つ
『最後の恋』を歌うのが増田惠子。

そんなメッセージを

自分の心の中に持ちながら
歌ったら

また違う
『最後の恋』になったので。

だから これは きっと
聞く人それぞれの解釈で

いいのかなと思ったり。

増田が 阿久の墓前に
レコーディングの報告に行くと…。

阿久が残したもの。

それは
ふるさと 淡路島の母校にも。

おお~ これか。

(スタッフ)これ 直筆ですかね?

直筆やな。

感動するな やっぱり。

そこに込められた
阿久悠の強烈なメッセージとは…。

去年11月。

阿久悠の没後10年。

作詞家生活50年の節目に

阿久をしのぶコンサートが
開かれました。

♬~「笑って許して」

♬~「ちいさなことと」

♬~「歌いだすのさ 舟唄を」

豪華アーティストが一堂に集まり
阿久が手がけた作品を熱唱。

会場は 華やかだった昭和の時代に
戻ったかのようでした。

今もなお 色あせることのない
阿久悠が生み出した名曲の数々。

死の直前までペンを走らせていた
歌謡界のモンスターは

未来に
何を残そうとしたのでしょう。

阿久先生の作品に
ふれた方々は

みんな それを感じて

でも 一番 書くことで

自分の… 話すよりも

淡路島にある阿久の母校
洲本高校。

阿久が この学校に送った
応援歌があります。

倉庫に眠っていたのは…。

おお~ これか。

結核に冒されながらも

大海原に こぎ出した
自身の人生を

重ね合わせたかのような
この詞は

若い人たちの希望に満ちた帆を
後押しする風のようです。

♬~「熱い体になるがいい」

阿久悠のふるさと 淡路島で
若者たちに送った応援歌は

絶えることなく
歌い継がれていきます。

常に時代と向き合い
言葉を探し続けることで

歌謡界をリードし続けた 阿久悠。

この偉大な作詞家が
いなければ

昭和という時代は

どれだけ色あせて
見えたでしょう。

そして
想像してください。

もし 彼が
今も生きていたら…。

ちょっとや
そっとでは

驚かなくなった
私たちを

どんな方法で
楽しませてくれるのか。

わくわくしませんか?


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