アナザーストーリーズ iPS細胞誕生 水面下の闘い 山中伸弥ノーベル賞秘話 涙を飲んだライバルや…


『アナザーストーリーズ iPS細胞誕生 水面下の闘い 山中伸弥 ノーベル賞秘話』の番組情報(EPGから引用)


2018/06/26(火) 
アナザーストーリーズ▽iPS細胞誕生 水面下の闘い 山中伸弥 ノーベル賞秘話[字]
2006年3月28日、山中伸弥教授がiPS細胞の作製成功を発表!その瞬間に交錯した、様々な人生の物語!涙を飲んだライバルや難病治療に希望を託した親子の戦いとは?
詳細情報
番組内容
2006年3月28日、山中伸弥教授がiPS細胞の作製成功を発表した!その瞬間に交錯した、さまざまな人生の物語!あの時、夢の万能細胞を目指していたのは山中だけではない。アメリカのライバルたちがギリギリまで肉薄していた。あと一歩で涙を飲んだ彼らは、目の前で発表する山中に何を思ったのか?さらにiPSの発表に難病治療の希望を託した親子もいた。ノーベル賞に輝いた偉業、その水面下にあったもう一つの戦い。
出演者
【司会】沢尻エリカ,【語り】濱田岳
Capture20180626-220128.jpg 


『アナザーストーリーズ iPS細胞誕生 水面下の闘い 山中伸弥 ノーベル賞秘話』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数BEST10)

アナザーストーリーズ iPS細胞誕生 水面下の闘い 山中伸弥 ノーベル賞秘話
  1. 細胞
  2. 山中
  3. iPS細胞
  4. 遺伝子
  5. 万能細胞
  6. 発表
  7. 育海
  8. 研究
  9. 受精卵
  10. 病気



『アナザーストーリーズ iPS細胞誕生 水面下の闘い 山中伸弥 ノーベル賞秘話』の解析用ソース(番組内容ネタバレ注意!)


Professor Gurdon and
Professor Yamanaka.

2012年 山中伸弥
ノーベル賞受賞。

山中が つくった
夢の万能細胞 「iPS」は

科学史に 燦然と輝く
偉業となった。

だが その陰には

あと一歩で涙をのんだ
ライバルたちがいた。

悔しかったですよ。

信じられませんでした。

そして 難病との闘いに

一縷の希望を見いだした
親子もいた。

iPS細胞を めぐる
さまざまな人生の物語。

♬~

今日は ミクロの世界で起きた
奇跡の お話です。

私の皮膚から 細胞を1つ
採り出してみましょう。

0.02ミリの皮膚細胞。

大きくすると
こんな形をしています。

これに ある魔法を
かけると…

形も性質も 一変。

万能細胞 「iPS」に
生まれ変わります。

iPS細胞の すばらしさとは何か?

もう一度
魔法を かけると…。

iPS細胞から 眼の細胞が。

筋肉の細胞が。

神経も 血管も。

そして あらゆる臓器が
できるのです。

つまり iPS細胞とは
何にでもなれる奇跡の細胞。

これを つくったのが
山中伸弥教授でした。

iPS細胞の生みの親…

元は整形外科医だったが

「ジャマナカ」と
あだ名が付けられるほど

手術が下手だった。

27歳で研究者に方向転換。

この道で患者の役に立ちたいと
目指したのが…。

もともと生命は 「受精卵」という
1つの細胞から始まる。

それが次々に分裂して
神経や臓器など

体の あらゆる部分に
変わっていく。

この受精卵と同じように
何にでもなれる 「万能細胞」を

人間の手で つくり出せないか。

そうすれば 悪い臓器に かえて

新たに臓器を つくって
移植する事が可能になる。

そんな 無謀とも思える夢物語に
果敢に挑んだ山中。

だが実は この夢に挑んでいたのは
山中だけではなかった。

僅かな可能性に かけ
ギリギリまで迫っていた

一握りの科学者たちがいた。

運命の分岐点は…

山中伸弥教授が
iPS細胞作製に成功した事を

初めて世界に発表した瞬間です。

カナダで行われた シンポジウムで
この快挙が発表された時

会場に詰めかけた科学者たちは
どよめきました。

中でも 最も驚きに打たれたのは

自らも 万能細胞作製の
一歩手前まで肉薄していた

ライバル。


それが 第1の視点…

マサチューセッツ工科大学の
精鋭チームを率いて

独自の方法で万能細胞に
挑んでいた生物学者です。

涙をのんだライバル。

敗北と称賛のアナザーストーリー。

世界的な名門大学が ひしめく
アメリカ…

マサチューセッツ工科大学に
その男は いた。

生物学者…

最後まで山中と しのぎを削り

目の前で ライバルの成功を
知る事となった。

本当に驚きました。

だって私たちは シンヤより前から
挑戦していたんですから。

どうやったら万能細胞を
つくれるのか

その方法を探し求めていました。

それは 人類の夢だった。

精子と卵子が結合してできる
命の源 受精卵は

どんな細胞にも変化する…

科学者たちは これと同じものを

ヒトの手で
つくれないかと考えた。

そして マウスの受精卵の一部を
採り出した。

それを培養して つくった
「ES細胞」は

驚異の力を持っていた。

ある操作を加える事で
他の細胞に変える事ができたのだ。

腸や肝臓
腎臓が

次々に つくられた。

だが90年代 ヒトのES細胞が
つくられた事が

物議を醸す。

ヒトの受精卵に手を加える事が
倫理的に許されるのか?

(シュプレヒコール)

アメリカのブッシュ大統領は…

研究者の間でも
受精卵を使う事には

賛否両論がありました。

しかも 受精卵は
手に入れるのが困難で

大変費用も かかります。

そうなると…

不可能に近い挑戦でしたが
私は可能性に かけました。

やらなくてはいけないと
思ったんです。

イエーニッシュは
代々続く医者の家に生まれた。

だが 医学以上に
細胞の神秘に魅せられ

生物学者になった。

イエーニッシュの関心は

たった1つの受精卵から

なぜ さまざまな種類の細胞が
できあがるのか。

そして 驚くべき着想を得た。

細胞が分かれた このプロセスを
もし巻き戻す事ができれば

体の一部から逆に 受精卵を
つくれるのではないか?

イエーニッシュは
「遺伝子組み換え」の専門家。

細胞に何らかの遺伝子を
加えれば

その 「巻き戻し現象」も
不可能ではないと考えた。

できる保証など
もちろん ないが

彼は その夢に挑み始める。


くしくも このころ
同じ発想を持った者が

少なくとも2人いた。

1人は ハーバード大学の医師
ジョージ・デイリー教授だ。

そして もう1人が

初めて自分の研究室を
持ったばかりの山中伸弥だった。

3人のライバルは
互いを知らぬまま

極秘で研究に着手した。

だが…。

人体で働く遺伝子は
全部で2万以上。

その中に 求める力を持つものが
あるかどうかも分からない。

あてもない賭けだった。

イエーニッシュの研究室は
40人の大所帯。

「それぞれ 可能性のある…」

…と呼びかけた。

それは
気の遠くなるような作業だった。

熱心に取り組んだ一人…

彼は細胞に愛情を注ぎ続けた。

細胞は花のように
扱う必要があります。

毎日 話しかけて 優しく接し
「すてきな姿だね」と褒めて…。

ありがとうって
言ってくれた事はないけどね。

バーニッグが 可能性が高いと
にらんだのは…

神経細胞だ。

そして いろいろな遺伝子を
神経細胞に入れる実験を

1年間 繰り返した。

ある朝 突然 変化が現れた。

「細胞の塊」が
生じていたのだ。

「もしかしたら…」と思いました。

イエーニッシュ教授を 顕微鏡の
前に引っ張ってきて言いました。

「ほら この細胞を見て下さい」。

バーニッグは
この細胞に期待を込めて

受精卵と同じ性質があるかどうか
試したが…。

結果は… 万能細胞では
ありませんでした。

一方 ハーバード大学では

また違う細胞に注目していた。

ジョージ・デイリー教授。

私の夢は 万能細胞を使って

患者本人の細胞から
臓器を つくる事です。

それが できれば
臓器移植の危険性や

ドナー不足は
一気に解決できます。

デイリーが 受精卵に最も近いと
にらんだ細胞は…。

私の研究室では…

でも 作業は困難を極めたね。

やはり無理なのか。

一人 また一人と 脱落する者が。

どんなに実験を重ねても
誰も成功しませんでした。

諦めて脱落する人が出るのも
しかたありませんね。

でも僕は 万能細胞に必要な
遺伝子の1つには

たどりついていたんです。

万能細胞は 夢物語なのか?

そんな空気も漂い始めていた
研究6年目。

衝撃的な発表が…。

日本の シンヤ・ヤマナカ。

さほど
注目されていたわけではない。

だが 発表で
その言葉が発せられるや

会場は どよめいた。

「マウスの…」

iPS細胞が
初めて世に出た瞬間だった。


他の2人は 当時の山中を
どう意識していたのか?

山中は 科学分野の
有名人ではなかったね。

論文で名前は知っていたよ。

でも当時は 細胞の国際的な
リーダーのリストにも

入っていなかったね。

細胞の研究をしている事は
知っていました。

2001年には ある遺伝子を発見し
論文を発表していたはずです。

だから 文献を通じてですがね。

まだ無名の山中による…

当然 質問が浴びせられた。

…という疑いの声もあった。

イエーニッシュも
厳しく追及した一人だ。

(笑い声)
その記憶は ないね。

でも 興奮して
いくつも質問したのは確かだ。

科学の世界では すごい実験に
厳しい質問は付き物だよ。

だが 山中の答えは完璧。

疑いの余地は なかった。

ラボで実験中だった
バーニッグは

イエーニッシュからの一報で
知った。

何というか 複雑でした。

でも うれしかったですね。

なぜなら…

もちろん 僕が最初だったら
もっとよかったけど。

まあ それが人生ってもんです。

あの瞬間を
はっきり覚えているよ。

今 思い出しても
ゾクゾクするけど

彼の発表は
すばらしくて見事だったね。

科学界で権威ある
雑誌として知られる 「Cell」。

当時の編集長
デボラ・スィートは

最前列で山中の発表を聞いていた。

科学って とても
エキサイティングなものです。

シンヤの発表は まさに
これまでの科学の歴史を覆し

生命観を変えてしまうほど
衝撃的な瞬間でした。

論文は 専門家たちの
更なるチェックを受け

間違いないと
認められた。

ちなみに 「i」だけ
小文字にしたのは

あの影響らしい。

論文で初めて
詳しい つくり方が明かされた。

ライバルたちは直ちに
再現実験に かかる。

論文が届くと すぐに
隅々まで読み込みました。

そして
ヤマナカたちの手順を知って

本当に ワクワクしました。

それは…

こんな簡単に できるなんて!

これほどの興奮は ありません。

マウスで万能細胞が つくれる。

それは
新たな闘いのゴングだった。

当然 ヒトのiPS細胞も
つくれるはずなのだ。

その一番乗りを目指す競争だ。

私たちは すぐに

ヒトiPS細胞づくりに
切り替えました。

同時期 何人かの科学者が成功。

だが ここでもトップを切ったのは
山中だった。

アメリカのチームが ヒトiPSに
成功したという情報を耳にし

山中は 帰国便の機内で
論文を仕上げる。

その発表の日に
アメリカの学者も論文を出した。

まさに 薄氷の勝利だった。

ちなみに 間一髪まで
迫っていたのは…

ES細胞の専門家だった。

もちろん私たち
マウスを発表した段階で

人間 着手していましたので
言ってみれば 私たちの方が

はるかに前を走ってるという
つもりだったんですが

世界中 特に…

僕たちも追いかけられたから
余計 必死になったという事で。

デイリーの論文が出たのは
1か月後だった。

(笑い声)

負けるのは いつも痛いね。

でも 実際…

この分野は
非常に競争が激しいところです。

みんな 闘争心が強い。

でも…

世界中のライバルたちを
間一髪の差で退けた

山中伸弥教授。

勝利の決め手は 何だったのか。

例えば ライバルたちが挫折した
万能細胞のカギとなる

「遺伝子の絞り込み」
という壁。

人体全ての遺伝子
2万以上の中から…。

(指を鳴らす音)

有力なものを 100に。
(指を鳴らす音)

更に 24に絞り…。
(指を鳴らす音)

最後の4つに
たどりつきました。

この壁は
あるチームメートの

独創的なアイデア
なしには

破れませんでした。

第2の視点は
山中教授本人。

不可能を可能に
変えたのは

彼を助けた 個性豊かなチームの
面々がいたからだといいます。

まさか自分たちが
大発見に貢献するなんて。

本人たちも驚いた
アナザーストーリー。

え~っと まあ
いっぱいあるんですが

まず iPSの研究を

実際やり始めるところが
まず壁ですし それは…

山中の研究は

チームメートなくしては
ありえなかった。

山中が万能細胞に挑もうと
決めたのは 37歳の時。

研究者に転身して 10年。

初めて
念願の自分の研究室を持った。

(山中)せっかく頂いた
チャンスだから…

「逆をやる」。

それこそ 細胞の分裂を巻き戻し
初期化する事で

受精卵のような万能細胞を
つくろうというアイデアだ。

だが本当に そんな事が
できるのか?

山中自身さえ
確信が持てなかった時

背中を押してくれたのは
全く違う分野の同僚だった。

僕が一生懸命 「いや これは本当に
難しいんです」という感じで

発表してたら すぐに…

…と言われまして。
「えっ!?」っていうふうな感じで。

要はですね 挿し木をすると
クローンが できるわけで。


植物は 挿し木をすると

枝が根に変わるなどして
生きる事ができる。

全身万能細胞だらけ
だというのだ。

僕は 目から鱗じゃないですけども
なんかこう 勝手に自分で

これは難しい これはもう絶対
できないと思い込んでいたのが

違う分野の方から見ると

「いや そうでもないんじゃない?」
という感じで言われたのが

すごくこう 何か自分にとっては…

立ち上げたばかりの研究室は
人手も資金も足りなかった。

そこで山中は
新入生の獲得に動いた。

研究室の…

プレゼンに つられ
3人の学生がメンバーとなった。

中には 生物とは関係ない
工学部の出身者もいた。

まず 始めたのは

万能細胞のカギになる遺伝子探し。

およそ2万もある中から
どうやって 当たりを付けるか。

山中は ここで

世界の誰も やらなかった
大胆な方針を立てた。

マウスから つくった ES細胞。

その中だけで働く遺伝子に

ねらいを つけた。

大胆な仮説を
もとに

2万の遺伝子を
一気に 100に。

更に その中でも
可能性の高いものを選び出すと

残ったのは 24の遺伝子。

果たして この中に
万能細胞のカギがあるのか。

採取しやすい皮膚細胞に

24の遺伝子を
1つずつ入れてみたが…

この時 工学部出身の高橋が

生物学の常識では
ありえない手を打つ。

考えすぎると 怖くて何も
できなくなってしまいますから

特に行き詰まった時は

どんどん やってみようよ
という事で やってみると

思いもかけなかった事が
起こって

ああ そうやったのかと。

なんと 24個全部
入れた皿に

細胞の塊が
できていた。

この皿は 特殊な薬剤を使って

普通の細胞は生きられない
環境にしてある。

生きられるのは ES細胞と
同じ能力を持つ細胞だけのはず。

これを見た山中の第一声は…。

これは何かの間違いだと。
「ともかく高橋君 喜ぶな」と。

これは絶対 間違いだと。

あまりにも簡単に できすぎる。

山中は 信じなかった。

本当のところ どれが
効いているのかも分からない。

(山中)じゃあ 24個といっても
その中に ほんとに…

すると また
高橋が驚くべき提案をした。

高橋が考えた実験方法は こうだ。

遺伝子Aを抜いた 23個を
細胞の中に入れる。

それでも細胞に変化が起きれば

Aは万能細胞に必要ない
遺伝子である事が分かる。

こうして 1つずつ
確かめていくと

たった4つの遺伝子で
変化が起きる事が分かった。

彼は工学部の出身ですし
僕も医学部の出身で

そういう分子生物学であったり
細胞の実験とかを

ずっとやっていたわけでは
ないので

無知だったんですね。

だから これに関しては
知らなかった事

ある意味 研究者として新米
といいますか… だった事が

この場合は 功を奏した。

この細胞を
マウスの体に移植すると

確かに
体の あらゆる細胞に変化した。

万能細胞である事が
証明されたのだ。

科学史に輝く 万能細胞。

それは 生物学の常識に
とらわれない仲間が

いたからこそだった。

ライバル イエーニッシュは

山中が用いた遺伝子自体にも
驚かされたという。

山中は 4つの遺伝子の1つに

「がん遺伝子」を使っていた。

がん遺伝子は 増殖力が強いので

より効率的に万能細胞が
つくれたのです。

彼が成功するためには

とても重要なアイデアだったと
思います。

だが 「がん」が できては
人間の治療には使えない。

このジレンマを どう解決するか。

そこで動いたのが この男。

研究室の飲み会仲間…

結構みんなで飲みに行ったりとか
よく したんですけど

その時は もう本当に 何ですかね
大阪のおっちゃんというか

一升瓶 持って
こう ついできたりとかね

いろいろ みんなで冗談とか
言い合いながら

もう ほんとに気さくな方ですね。

中川は 同じ がん遺伝子でも

腫瘍を つくりにくい
別のタイプのものを探し求めた。

最初 iPS細胞を つくった時は

C-Mycと呼ばれる Mycを
使っていたんですけども

L-Mycというものを
取りかえて

キメラマウスを
つくった時に

腫瘍が全然できないような
より安全な iPS細胞を

つくる事ができる
というのを発見して

それで ひとつ
仕事として

まとめる事ができた
というところですね。

これによって
がん化のリスクは下がった。


しかし 他の不安要素も全て
潰しておく必要があった。

それを引き受けたのが…

この男も 変わり種だ。

僕 獣医なんです。

獣医出身の沖田は

遺伝子を細胞に入れる
「運び屋」の役割をする物質が

がん化に関わっている
事に注目。

代わりの物質を探した。

試しても試しても
何も できないっていうのを

日々 繰り返す
みたいなのですね。

なんで
うまくいかないんだろうとか

これを取り入れたら
うまくいくのかな とか。

がん化しにくい新たな運び屋を
見つけたのは

およそ 1年後だった。

さまざまな人材が集まっていた
山中研究室。

安全な ヒトiPS細胞は

まさに チームの総力戦で
できあがったのだ。

その後 世界中の科学者によって

iPS細胞から

体の さまざまな細胞が
つくり出されている。

臨床への応用も
目の前だ。

万能細胞は 自分に続く誰かが
つくってくれればいいと

思っていた 山中。

その成功は 山中の人生をも
劇的に変えた。

なんかこう役割が
突然 変わったなと。

iPS細胞が
医学に もたらした福音。

それは主に 再生医療の分野
だと言われます。

しかし もう一つ…。

つまり
新しい薬が つくれるという

重要な側面があります。

第3の視点は

そんな新しい薬を
待ちに待っていた親子です。

山本育海さんと 母 智子さん。

200万人に1人と言われる難病と
闘い続けてきました。

山中教授が
iPS細胞の作製に成功した時

育海さんは 初めて自分の病気と
向き合う出来事を

経験していました。

iPS細胞に希望を託した
勇気のアナザーストーリー。

山中が
iPS細胞誕生を発表した 2006年。

一人の少年が体育の授業で
鉄棒から落ちた。

当時8歳の山本育海さん。

3週間たっても
体じゅうの腫れが引かず

母 智子さんは 痛がる育海さんを
病院に連れていった。

先生がね 「ちょっと入って下さい」
って形で。

「僕は この病気を知らないんです。
みた事ないんです」って。

だから…

まあちょっと 覚悟 決めて下さい
みたいな事を言われて。

診断名は…

筋肉などの中に骨が
できてしまう 難病だった。

それから12年 闘病を続けている
山本育海さんは

二十歳になった。

筋肉に負担を与えると その部分が
骨になってしまうため

体にメスを入れる手術はできない。

治療薬も ない。

8歳の時から 神様の宿題の答えを
求める日々だった。

FOPと診断された育海さんと
母 智子さんが まず始めたのは

周囲の人に知ってもらう事だった。

クラスの友達に自ら病状を語り
メディアの取材も受け

病気解明へのヒントを求め続けた。

2年後の 2008年3月

育海さんは
ある新聞記事に目を留めた。

「難病解明」の文字が
そこにあった。

さまざまなツテを頼り
山中教授との面会を願った。

1年半後 育海さんは
ついに山中に面会。

この時
育海さんが読んだ手紙。

「ぼくは
答えがほしくて

先生たちに
会いに来ました。

ぼくも FOPに負けず
がんばるけど

研究者の先生たちにも

がんばって 薬を
作ってほしいです。

ぼくは みんなと
同じ事がしたいです。

ふつうの事が
したいです。

ぼくは治ると
信じています。

FOPの研究を
してほしいです」。

やはり患者さんとか ご家族の
生の声に接するというのは

ほんとに貴重な機会で。

この時 山中は

骨の病気を研究する医師
戸口田淳也に協力を仰いだ。

戸口田も この病気は初めて。

だが大学時代 ラグビーで培った
チャレンジ精神が

頭を もたげた。

とりあえず やってみようか
という形の研究。

多分どうなるか
分からないけど と。

その辺は わりと…

やると決めたら 一生懸命やる
というのが体育会系ですよね。

戸口田は育海さんに

iPS細胞を つくるため
皮膚の細胞を採りたいと伝えた。


だが その刺激が
病状を悪化させるリスクもある。

そこから iPS細胞を つくり

病気を再現して 原因を探した。

だが 研究には時間が かかる。

育海さんの病状は進行していった。

(戸口田)残念ながら彼は

そのころは本当に
半年に1回ずつぐらいは

だんだん だんだん
悪くなってきてたんですね。

だから その… 当然 研究の方は
なかなか進まない。

まあ 進んではいるんですけど
すぐ その成果が

おこたえ お返しできるような
ものは ないわけですから

なかなか こう
厳しいなという状況でしたね。

進行したくない これ以上
進行したくないって思って

我慢しても進行するんですよね。

それが 悲しいけれど
口に出てしまって…

それが分かるからこそ
私たちに できる事は探して

何か頑張りたいなと思ってね。

育海さんの病気の解明。

それを大きく前進させたのが

山中を所長とする 世界初の

iPS細胞専門研究所の設立だった。

育海さんはブログで

iPS細胞研究所を
支援する募金活動を

呼びかけている。

おはようございます!

ただいま 難病FOPの
募金支援活動を行っております。

ご協力 よろしくお願いします!
よろしくお願いします!

育海さんの思いに

地元の若者たちが賛同し
輪が広がっている。

よろしくお願いします!

ほんとに薬とか 何か方法が
見つかればいいなって思ってます。

それに 力になれたらいいなと
思ってます。

育海君自身も 病気も…
すごい病気と闘っているので

少しでも楽になるような
少しでも ちょっと進歩

僕たちが何か
できるような事があれば。

やっぱり そんな1年とか
数か月で治るものではないし

何年も…
ひょっとしたら何十年も

かかるものなのかもしれない
というのはあるので

そのためには やっぱり
その研究のためにも

ず~っと長く募金する事が
重要だなっていうのは

よく学ばせてもらいました。

戸口田たちが ついに
病気の原因を突き止めた。

筋肉に炎症が起きた時
FOP患者の細胞だけ

「アクチビン」という物質が

「骨を作れ」というシグナルを
出す事が分かったのだ。

そこで今度は iPS細胞を使って

アクチビンを抑える薬を探した。

そして…

昨年8月。

候補薬の治験 開始の発表。

育海さんも 被験者となった。

あくまで今は
試験をしてますので。

iPSに希望を託し

神様からの宿題に
挑む日々は続いている。

人類の夢だった 万能細胞。

ライバルたちとの
闘いに勝ち抜き

患者たちの希望を託され

山中伸弥教授と その仲間たちは
iPS細胞を実現しました。

iPS細胞は つくれば それで終わり
というものではありません。

それを どう使い

どんな未来を
切り開いていくのか

物語は
今 始まったばかりなのです。

激しい競争のあと。

ライバルたちは友情を育み
新たな挑戦を始めている。

イエーニッシュは
血液の病気を持つマウスを

iPS細胞を使って治療する事に
世界で初めて成功。

マウスの皮膚から
iPS細胞を つくり

病気の原因である遺伝子を治して
マウスの体に戻しました。

すると たちまち
彼らの病気は治りました。

現在 人への臨床に向け
研究を重ねている。

バーニッグは…

山中の4つの遺伝子とは異なる
3つの遺伝子を使って

皮膚細胞を直接 神経細胞に
つくり変える事に成功しました。

そして山中は
iPS細胞の可能性を

はるか先まで見据えている。

人間だけではなくて いろんな動物
もう絶滅危惧種の動物からも

iPS細胞を つくる事は
できますので

いろんな 今 考えつかないような
新しい生命科学といいますか

新しい驚きを生み出す可能性が
あると思いますので

僕は もう55歳ですけれども

やっぱり今 30代20代

更には 10代の
アイデアで あふれてる研究者

将来の研究者の人たちに
iPS細胞をツールの一つとして

僕なんか 思いもつかないような
ものすごい新しい分野を

切り開いてもらいたいな。


関連記事