昭和偉人伝 「猪俣公章」「萬屋錦之介」 演歌にほれ抜いた作曲家… 生涯役者を貫いた最後の銀幕スター…


『昭和偉人伝 「猪俣公章」「萬屋錦之介」』の番組情報(EPGから引用)


2018/06/27(水) 
[字]昭和偉人伝 「猪俣公章」「萬屋錦之介」
演歌にほれ抜いた作曲家・猪俣公章の懐かしいヒット曲とその生き様を振り返る▽生涯役者を貫いた最後の銀幕スター・萬屋錦之介。家族の物語に焦点を当て、波乱の生涯に迫る
詳細情報
番組内容
【猪俣公章】稀代のヒットメーカー、作曲家・猪俣公章。古賀政男に師事した彼は、演歌ひと筋に歩み、数々のヒット曲を手がけた。そして、昭和歌謡「第三世代」の旗手の一人として、ジャンルを超えた新しい昭和歌謡を築く。また、森進一との出会いや水原弘の復活劇、内弟子・坂本冬美とマルシアを厳しく愛情豊かに育てた猪俣の生き様を、当事者の証言を交えて振り返る。歌謡史を駆け抜けた彼が生涯をかけて残そうとしたものとは…。
番組内容2
【萬屋錦之介】生涯役者を貫いた俳優、萬屋錦之介(中村錦之助)。出演映画は150本を超え、日本映画全盛期に東映時代劇を支えた彼は、「錦ちゃん」の愛称で今なおファンに愛されている。梨園育ちであらゆる稽古事をマスター。その所作や口跡の鮮やかさは、まさに「最後の銀幕スター」だ。錦之助の輝きを支えた家族・一門の絆の深さ…彼の華やかな活躍の陰でその役者人生を支えた“家族の物語”に焦点を当て、波乱の生涯に迫る。
出演者
【語り】國村隼
初回放送日
2016/10/19(猪俣公章)、2017/6/28(萬屋錦之介)
番組概要
国家壊滅の状態から未曾有の成長を遂げた時代・昭和。そこには、時代を先導したリーダーがいた。そんな偉人たちを、独自取材と真実のインタビュー、さらには貴重な映像を交じえてつづる、波乱万丈の偉人伝。
番組ホームページ
<番組ホームページはこちら!>www.bs-asahi.co.jp/ijinden/
制作
BS朝日、JCTV
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『昭和偉人伝 「猪俣公章」「萬屋錦之介」』の解析用ソース(番組内容ネタバレ注意!)


それは
日本が育ち盛りの時代でした。

明日は 今日より きっと良くなる。

誰もが そう思っていた。

キラキラと輝いていた彼らが

時を越えて語りかける。

♬~

達者でやってるかい?

今宵の偉人は

演歌の星 森進一を
世に送り出し…。

歌の世界が歌謡曲から
ニューミュージックへ

移り変わる中で
演歌一筋を貫いた。

今宵は 演歌と酒と人間を

こよなく愛した男の生き様に迫る。

一度は どん底に落ちた水原弘が
再起を果たした『君こそわが命』。

無常感漂う不思議な歌声。

藤圭子の『女のブルース』。

猪俣は 詞の心を大切にし

歌い手の個性を
最大限に引き出せる

天才的な才能を持っていた。

なんか

ムードコーラスの頂点

内山田洋とクール・ファイブが
歌った

『噂の女』。

旅情豊かに信濃路の四季を歌った

五木ひろしの『千曲川』。

ヒット曲に恵まれても

なぜか レコード大賞には
縁がない。

やがて 猪俣に訪れた冬の時代。

自称 銀座の帝王が

スランプを乗り越え
まな弟子と手に入れた光。

に 周囲は ただ驚く。

結婚や家庭生活とは
縁遠かった男が

ふと手に入れた幸せの形。

だが 運命は
意外な幕切れを用意していた。

時代の変わり目に

演歌の世界さながらの生き様を
貫いた男の

華やかながらも切ない
その生涯。

学ぶべき世界が ここにある。

世の中は
いざなぎ景気の真っただ中。

海外旅行の回数制限が
撤廃された この年

大衆は 次々に流れ込む
海外の音楽に熱狂していた。

その喧騒に背を向け
演歌を志す若者がいた。

デビューしたばかりの作曲家。

そして もう1人の男が…。

上京して間もない歌手の卵。

その初対面の様子を猪俣は
自伝 『酒と演歌と男と女』の中で

こう語っている。

レッスン生が
当時 7~8人いましたかね。

亡くなった日吉ミミさんも
そうでしたけど。

そういう中で 僕もレッスン…。

チャーリー先生の曲を

レッスンして
もらっていたんです。

だが レッスンを始めると
問題が発生する。

森の独特な声に合う歌が
見つからない。

猪俣は しかたなく
自前で練習曲を作る事にした。

その曲に

こうして できた練習曲は
急転直下

TBSも
出れなかったんですけどね。

テストをするっていう事で

「あっあっあっあ~」のところを

♬~「夜が 夜が 夜が泣いてる」

さまざまな困難を乗り越え
『女のためいき』は

80万枚の大ヒットを記録。

一躍 名を挙げた猪俣に

ある日 『月光仮面』の原作者で

作詞界の重鎮 川内康範に
呼び出され

一編の詞に作曲を依頼される。

誰が歌うか尋ねると…。

(電話)

3日ほどして
川内から電話がかかってきた。

猪俣は 反射的に答えた。

…と言うなり電話が切れた。

だが 実際は
何も手をつけていない。

新人歌手と聞いて
猪俣は 油断していたのだ。

川内を怒らせたら大変な事になる。

デビューしたばかりで
いきなりの大ピンチだ。


譜面は どうにか書き上げた。

川内は 「よし」とうなずき

「この曲を おミズに歌わせる」と
猪俣に告げた。

♬~「黒い花びら」

おミズとは 『黒い花びら』で

第1回 日本レコード大賞を
受賞した水原弘の事。

酒に溺れ 借金を重ね
歌に身が入らない水原。

その復帰作に

この時 猪俣の書いた曲が…。

猪俣は
水原が歌うと知っていたら

『黒い花びら』のイメージを
引きずったかもしれない。

♬~「けれどもあなたに 愛を見て」

猪俣と縁の深い作詞家
里村龍一は…。

衝撃 受けたね。
この『君こそわが命』っていう歌。

ただ 俺たち

今ね あの先生いたらね

歌謡界も こんなふうに
なってねえだろうけどもさ。

いないもん。

猪俣は 『君こそわが命』で
大きな自信を得る。

そして

『港町ブルース』は
ご当地ソングのブームにあやかり

この際 全国の地名を
並べてみようとの作戦。

恨み節の森進一に

明るい曲調の歌をぶつけたのも

猪俣の工夫。

あの曲はね 本当に
随分 簡単にできたらしいですよ。

なんか

短い歌ですのでね。

もう乗ってましたから
その頃 先生ね。

パッと すぐできてましたね
なんでも。

この曲は

更に 猪俣と森のコンビは

昭和46年 森進一は
デビュー5周年を記念して

アルバム 『旅路』の制作に
取りかかる。

猪俣は 『君こそわが命』の

川内康範の詞に曲を付けた。

アルバム発売後

猪俣が書いた曲は
じわじわと人気を上げ

ついにシングルカットされる。

人一倍 母親思いの森進一。

亡き母を思う熱唱が
人々の心を捉えた。

一方 猪俣は 自分の母親から
こう言われた。

自他ともに認める親不孝者
猪俣公章は

どんな少年時代を
送ったのだろう?

昭和13年 猪俣公章
本名 猪俣公章は

福島県会津坂下町で
生まれた。

父 佐太郎は

京都帝国大学を卒業した技術者で
尺八が趣味。

母 登志は 明るく社交的で

歌が大好きな女性だった。

学業優秀だった猪俣は
中学3年のある日

「医学部へ進学するために
東京で勉強したい」と

両親に頼み込んだ。

ところが 猪俣には
別の目的があった。

それは

猪俣は 小学校時代から
独学で作曲を始め

中学までに
10曲以上の作品を書いていた。

一流になるため
早く東京へ出たい。

そこで
医者になるとウソをついて

両親に東京の高校受験を
認めさせたのである。


上京した猪俣は
名門 開成高校に入学。

東京で暮らす おじの家に居候し

刺激的な都会で
水を得た魚のように

高校に入ってからも作曲は続けた。

歌謡同人誌から詞を選び
曲をつける。

詞を じっと読んでいると

一端の流行歌作家に
なった気分だった。

逆立ちしたったって。

例えば
『噂の女』にしても…。

♬~「おんな~ご~ころ~」

すげえ歌じゃない。
そういう独特の

猪俣節っていうのありますよ。

しかし 大学受験が近づくと

いよいよ
ウソが突き通せなくなる。

帰省して 作曲家への夢を
打ち明けた猪俣に

母親は きっぱりと宣告した。

実家からの援助を絶たれ

住み込みで
バーテンのアルバイトを始め

ペンキ職人や
キャバレーのバンドマンを

掛け持ちし 必死に金を稼いだ。

恵まれた下宿生活から
絵に描いたような

それでも 自分が

昭和33年
日本大学芸術学部音楽科に合格。

しかし…。

そんな ある日
歌謡界の重鎮にして

古賀メロディーの
生みの親 古賀政男が

若手の助手を
探していると

聞きつけた。

早速 古賀を訪ねた猪俣は
見事に採用。

これで 古賀先生の指導が
受けられるはず。

だが

せっかく
古賀政男門下に入っても

多忙な古賀に
指導を受けられないまま

数少ない勉強の機会は

積んであった
古い楽譜の整理だった。

教えてもらえないなら
自分から盗み取るしかない。

ほこりにまみれた楽譜の山を
猪俣は むさぼり読んだ。

やっぱり 古賀先生の
お弟子さんだったって事もあって

僕も昭和43年に

古賀メロディーを
歌う事になったんですが

やっぱり 猪俣先生の
僕の声とか歌唱に

古賀メロディーが
合うっていう事を

どっかで
感じたんじゃないでしょうかね。

猪俣先生のメロディーの中には
そういう

演歌の原点と言われている
古賀メロディーの匂いが

ずっと入ってるんじゃないかと
思いますね。

だが 固定収入はなく
相変わらずの極貧生活。

師匠の古賀に
窮状を訴えたところ

レコード会社に
紹介状を書いてくれた。

ところが 猪俣は
体よく追い返されてしまう。

このチャンスを逃せば

猪俣は 実力行使に出る事にした。

翌朝 猪俣は
レコード会社に出勤すると…。

中には…。

(社員)先生。
はい。

と言われる事もあった。

おはようございます!

それでも
猪俣が半年近く粘るうちに

忙しい作曲家に代わって


新人歌手のレッスンを
頼まれるようになる。

そのうちの1人が…。

先生 ピアノが よく弾けるので

ビクターの方にね…
なんて言うんでしょう。

「ちょっとピアノを
弾いてくれる」っていう

便利な人がいると
いいなみたいな形で

築地のビクタースタジオに

いつも ソファに
座ってたらしいんですね。

それで
「おい ちょっと弾いてくれよ」

っていう感じでピアノ弾いたり
してたらしいんですけど。

その熱意と執念が

森進一との出会いにつながり

数々のヒット曲を生み出す
礎となった。

極貧の生活から
ようやく抜け出した猪俣公章。

その

昭和45年

高度経済成長に
背を向けるように

暗い影を引きずり現れた藤圭子。

猪俣が書いた デビュー2曲目の
『女のブルース』は

「女ですもの」と繰り返し
独特の世界観を生んだ。

長崎出身のムードコーラス

内山田洋とクール・ファイブが
歌った 『噂の女』。

この曲の詞を書いた山口洋子は

銀座の知る人ぞ知るクラブ

姫のママという異色の作詞家。

猪俣は 山口の作詞デビュー作に
曲を書いた縁で

互いに刺激し合う戦友となる。

その山口が猪俣の才能について
著書に こう書いている。

猪俣は この頃

女王 美空ひばりにも
楽曲を提供。

ヒットメーカーとして
押しも押されぬ存在となる。

だが 歌謡界最高の栄誉
日本レコード大賞や作曲賞を

一度も取れずにいた。

賞が取れない事を猪俣は
作詞家 里村に こう語っていた。

俺も そう思ってるよ。

猪俣は
毎晩のように銀座に繰り出した。

浮世のあれこれを全て洗い流す
底抜けに

山口洋子の店 姫を起点に
何軒も はしごする猪俣を

人は 銀座の帝王と呼んだ。

そんな人気作曲家を

猪俣は 数多くの浮き名を流した。

そんな猪俣が
認めてほしいと願う人物がいた。

古賀の門をたたいて10年余り。

面と向かって

数多くのヒットを飛ばし
古賀政男の後継者は自分だと

ひそかに自負する猪俣には
それが物足りなかった。

その頃 歌謡界全体に
変化の兆しが見え始めた。

猪俣の作品を数多く歌ってきた
森進一。

一方 ライバルとして
しのぎを削る五木ひろしは

山口洋子が
ほとんどの詞を手がけていた。

猪俣は それまで縁のなかった
五木ひろしと

初めて組む事になる。

その曲が…。

この曲は レコーディングの延期で
宙に浮いていた。

たまたま聴いた山口がほれ込み

五木のため
新たに詞をつけ直したのだ。

古里への思い高まる『千曲川』は
50万枚に迫るヒットを記録。

猪俣は 今度こそ
レコード大賞が狙えると思った。

しかし…。

大賞に輝いた 布施明の
『シクラメンのかほり』は

フォークソング調の
小椋佳による作品。

歌謡界は
新しいサウンドを取り入れ

変わりつつあった。

猪俣も変化の風を感じながら
猪俣節を磨いていく。

若手漫才コンビ
海原千里・万里が歌った

『大阪ラプソディー』。

♬~「花咲き花散る宵も」

♬~「銀座の柳の下で」

師匠 古賀政男の名曲
『東京ラプソディー』を

意識しながら
大阪らしい情感を込めた旋律が

人気を呼んだ。

ところが

古賀という巨大な壁に
挑み続けた猪俣は

突如 目標を見失う。

更に…。

同じ年
『君こそわが命』の

水原弘が死去。

皮肉にも
取り戻した栄光が

水原を
再びネオンに誘い

酒と借金で体を痛めつけた
非業の死だった。

2人の恩人の死と時を同じくして
順調だった猪俣の人生も

昭和55年 猪俣の作曲生活
15周年を記念して

祝賀パーティーが開かれた。

山口洋子 阿久悠ら

大勢の出席者が祝福。

最後は 水原の冥福を祈って

『君こそわが命』を大合唱し

忘れられない夜となった。

ところが…。

ヒット曲が出なくても
生活を変える事は

プライドが許さない。

猪俣は それまで通り

後に猪俣の内弟子についた
坂本冬美は

運転手を務めた時の様子を
こう語る。

たまに女性を…
運転手ですから 待っていて

何人か女性を
一緒に乗せてくる時が

あるわけですよね。

気前よく お小遣いかなんか
あげたりするわけですよ。

で 実際 その頃の先生って

ちょっと
厳しい時代だったんですね。

例えば 森進一さんのヒット曲が
あった時代。

それから少し こう

落ち着いていた時代だったと
思うんです。

そういう時に
私が弟子入りしてましたんで。

こんなに普段の生活を ちゃんと
切り詰めてやっているのに

「先生 こんなパッパ パッパ

お小遣い あげちゃって」と思って。

心の中で 「はあ~ あんな 先生
大盤振る舞いして」。

その女性たちに お小遣いあげて
お送りしたあとで

「また見え張っちまったな」
みたいなね。

「先生も やっぱり そう思って
らっしゃったんだ」と思って。

でも そういう事の繰り返しで。

そういう 可愛らしい一面と。

そういう本音をね
ポロッとおっしゃる。

怖い一面と シャイな一面と。

色んな面を
見せて頂いたなっていう。

大勢で飲んでいた酒が
1人減り 2人減り

気が付くと 猪俣は
酒にのまれるようになっていた。

ついには 朝から酒浸りの毎日。

創作意欲も徐々に薄らいでいく。

心配した山口洋子らが

救いの手を差し伸べても…。

本当は

いつも気を使ってらっしゃったの
かもしれませんよね。

そういう こう にぎやかな事が
好きだと言いながら


そういう場面では 思いっきり

わかっていながら 猪俣は
苦い酒をあおり続けた。

演歌界が待ち望んだ新星

坂本冬美。

きっかけは
テレビ番組の歌謡コンテスト。

坂本は 猪俣の歌唱指導を受けて
見事 優勝したのである。

それを機に
坂本は猪俣の内弟子に。

この出会いが猪俣の

晴れ着の女性が歌う男歌
『あばれ太鼓』は

予想を上回る
70万枚のヒットを記録する。

続く『祝い酒』も
息の長いヒット曲となり

デビュー2年目で
『紅白歌合戦』に初出場が決まる。

決まった事を
ご報告に上がりましたら

すごく喜んでくださって。

「泣いては 歌になりませんよ」と。

「しっかり泣かずに歌って
頑張って歌ってきなさい」

というふうに言って頂いて
その言葉を胸に

なんとか泣かずに
歌わせて頂いたんですけど

あとで聞きましたら
一緒に見ていたディレクターは

「よし いいぞ。 頑張れ」って
言いながら先生が

ポロッと
涙をこぼされていたんで

年号が変わり 平成元年。

内弟子から もう1人

異色の新人がデビューする。

ブラジル生まれの日系3世
マルシアは

やはり テレビの歌謡番組で
来日のチャンスをつかむ。

どこか懐かしいムード歌謡。

マルシアの歌声には
日本人が忘れた

日本の心があった。

『ふりむけばヨコハマ』は

猪俣は

猪俣作品の編曲を数多く手がけた
京建輔は

この曲の特徴について こう語る。

♬~「タ~ラ~ラ~ラリ
ラ~ラリラ~」

♬~「ラ~ラリ ララララ
ラリ…」

こういうコード進行というのは

結構
ポピュラー的なものなんですね。

普通なら…。

♬~「ティンタタ ランラリ
ララリラ~」

♬~「リ~リレ ラ~リレ
リリリリ」

というのを だから これを…。

♬~「リ~ロ~ラ~」

♬~(ピアノ)

そういうのは 僕は… あれは
アレンジしてないんだけど…。

流行歌に
ポピュラー系の味付けを加え

猪俣は 曲作りへの意欲を
完全に取り戻した。

更に このニュースには
誰もが驚いた。

平成3年3月 猪俣は

19歳年下のモデル 梅津亨子との
入籍を発表。

ものすごく照れ臭そうに なんか
「結婚するんだよ」って。

で 「子供もできて」って言って。

すごく照れ臭そうに。

「先生 おめでとうございます」って
言ったら 本当に うれしそうに

ニッコリ笑って
らっしゃいましたね。

その年の7月 長女 倫子が誕生。

10月には
ハワイで挙式が行われた。

猪俣に力を与えてくれるものは
ヒット曲の数や

まして 酒ではない。

だが その直後 猪俣の体を

膵臓にたまる石 膵石の発作

そして

亡くなる2日前に伺った時に

「冬美 書かなきゃいけない曲が
あるんだ」と。

「詞が来てるんだよ」って。

「もうちょっと待ってくれよ」って
おっしゃられて。

「先生 大丈夫 大丈夫。
まず体 治してから

いい曲 書いてくださいね」って
言って

で 「俺は もしかして
がんじゃないか?」とか

すごく弱気な発言をされたんで

「先生 何 弱気な事
言ってるんですか」って。

「先生が
ロスとサンフランシスコ行って

棒 振ってくんなきゃ
始まらないんだから

先生 そんな事 言わないで

早く元気になってくださいよ」って
言ったら

「そうだな」って言って。

猪俣は その瞬間まで
歌を書こうとしていた。

平成5年6月10日

猪俣公章 肺がんのため 逝去。

まだ55歳の若さだった。

残念でしょうがないですね。

もっといい作品ができたと
僕は思いますね。

でも あの元気がなくなってからの
必死の作曲は すごいと思います。

冬美ちゃんが出た時から
もう具合悪かった。

その時に
もう20曲ぐらいできてて

それから
あと40曲 作ってるんですから

冬美ちゃんに。

あれは ものすごいです。

作曲家になって
よかったんだと思う 先生は。

うん。

だって やっぱし
なんて言うのかな?

幸せだったと思う。

とにかく騒いで 喜んで
笑うのが好きだったから。

寂しがり屋で
女性に弱いんですよね。

でも それが逆に…
そういう繊細な気持ちが

いいメロディーを
作っていったのかもしれませんし。

すばらしい人でしたよ。

私を見いだしてくださって
ありがとうございました

っていう事と

なんで早く…。

お嬢ちゃんもそうですし

私たち弟子も…
マルシアもそうですし

残して なんで
早く逝っちゃったのよって 先生。

もっと長生きしてほしかった
っていう事を…。

特に私 今年 30年なので

見届けてほしかったな
っていうのはありますね。

見てほしかったなっていうの。

猪俣の七回忌に

友人の作詞家 阿久悠は

こんな詩を送っている。

同じ時代を生きた作家同士だから
わかる事。

猪俣公章さん 「人間が好きだ」と
口にする人は多いけれど

ほんとうの「人間好き」って
ごくごくわずかで

そのごくごくわずかの中の一人が

猪俣公章さん
あなただったと思う。

人間のいとしさを見つめつづけ
人間の弱さを愛しつづけ

しかし それは
少々 照れくさいので

あなたは ときどき
はしゃいでみせた。

ああ 猪俣さん
あなたが逝って七年

「人間好き」がいなくなりました。

本当の人間好き。

だから
心に届くメロディーが生まれた。

♬~「船を出しゃらば」

美空ひばりの劇中歌が流れる。

今年1月 舞台
『元禄港歌-千年の恋の森-』が

36年ぶりに再演された。


演出は その後
惜しくも亡くなった蜷川幸雄。

音楽は 猪俣公章。

大海原を思わせる
ひばりの豊かな歌声が

観客を大いに魅了した。

猪俣が書き残した半歩先の歌は

これからも時代に
ゆっくりとなじみながら

末永く歌われ続けるだろう。

猪俣は それまでの親不孝を
わびるように

両親のそばで永遠の眠りに就いた。

天国でも 猪俣は
周りに気を使いながら

底抜けに明るい酒を
飲んでいるのだろうか?

いつもと変わらぬ

『君こそわが命』の大合唱が

聞こえてきそうだ。

それは
日本が育ち盛りの時代でした。

明日は 今日より きっと良くなる。

誰もが そう思っていた。

キラキラと輝いていた彼らが

時を越えて語りかける。

♬~

達者でやってるかい?

♬~

♬~

美空ひばり主演の映画

『ひよどり草紙』。

その相手役を務めた役者が

今宵の偉人。

歌舞伎界から映画界に転じた俳優

中村錦之助こと萬屋錦之介。

百数十本に及ぶ映画に出演し
誰もが認めた時代劇の旗頭。

(叶刀舟)
何年もかかって国へ帰ってきた

罪もねえ漁師を
虫けらのように殺しやがって…。

てめらは 人間じゃねえ。
たたき斬ってやる!

♬~

今宵は 映画さながらに
波瀾の人生を送った

最後の時代劇映画スター
その真実に迫る。

本当に私

歌舞伎の名門に生まれ
4歳で初舞台。

だが 兄弟の多さが

錦之助の飛躍を阻んでいた。

ある時 その才能にほれ込んだ
美空ひばりから

映画界入りの
声がかかる。

ところが
歌舞伎界の重鎮である父は

妥協を許さなかった。

錦之助は 自分の力を信じ

不退転の決意で
映画界に飛び込んだ。

♬~「ヒャラリ ヒャラリコ」

♬~「ヒャリコ ヒャラレロ」

♬~「だれが吹くのか」

♬~「ふしぎな笛だ」

ひばりの相手役で
映画界にデビューした その年

大ヒット映画 『笛吹童子』で
爆発的な人気を獲得。

時代が求める新しいヒーロー像に
錦之助は ピタリとはまった。

時代劇のトップスターとして
演技に目覚め

殺陣の技術を磨きながら
最高の時代劇を追い求める。

やがて 映画人気に陰りが…。

会社は 任侠路線に転換。

錦之助の努力も空しく

時代劇映画の灯が
消えようとしていた。

幼い頃から芝居漬けの毎日だった
錦之助にとって

時代劇は 人生そのもの。

錦之助は 自ら
制作プロダクションを立ち上げ

三船敏郎 勝新太郎らと
力を合わせ

最高の時代劇映画を作ろうと
走り出した。

ところが…。

まぶたが上がらない
首が支えられない

呼吸困難。

原因不明の難病。
死を覚悟した数カ月間。

そして 中村プロの倒産。

更に 相次ぐ肉親とのつらい別れ。

それでも 命懸けで
時代劇と向き合う錦之助は

カメラの前に立ち続けた。

ファンの声援を糧に
決して手を抜かず

己の生き様全てを
スクリーンに刻みつけた

その生涯。

学ぶべき世界が ここにある。

戦後の驚異的な経済復興の波に
乗った日本。

の影響で 小学校の新入生が

前の年より
100万人も増加した この年

1本の映画が公開された。

♬~「赤城つつじに機織り唄に」

♬~「上州…」

美空ひばり主演の映画
『ひよどり草紙』。

ひばりの相手役に抜擢されたのは

中村錦之助。

これが映画デビューとなった
当時21歳の若手俳優である。

錦之助は 歌舞伎の名女形

三代目 中村時蔵の
四男という御曹司。

立役も女形もこなす
若手の有望株だった。

その舞台を
ひと目見て気に入った

ひばりと母 喜美枝から

ぜひ 映画の相手役にと
強く望まれ

歌舞伎界から
映画界入りを果たした。

映画 『ひよどり草紙』は

吉川英治原作の人気小説を
映画化した作品。

将軍家が大事にしていた
紅ひよどりが逃げてしまい

錦之助と ひばりは
鳥を探す旅に出された。

(玉水早苗)耀之助様 今日から

1つの手柄を争い合う2人に
なりましたのね。

(筧耀之助)そうです。

あなたは あなたの父上のために。

私は 私の父のために。

命懸けで
あなたと紅ひよどりを争い合う。

でも なんという
悲しい さだめなのでしょうね。

早苗殿…。
耀之助様…。

4歳で初舞台を踏み
芸を磨いてきた錦之助だが

歌舞伎の世界と映画とでは
勝手が違った。

映画デビュー作での
不安と戸惑いを

錦之助は 自伝

『わが人生
悔いなくおごりなく』の中で

こう表している。

そして 映画デビューの数カ月後
錦之助は

昭和29年の映画 『笛吹童子』。

時は 室町時代

野武士や妖術使いと戦った
若き兄弟の物語。

錦之助は 笛吹童子と呼ばれる
弟 菊丸を演じた。

その爽やかな笑顔が

奇想天外なストーリーと相まって

全国の映画館は 大入り満員。

若い世代を夢中にさせた。

後に錦之助や ひばりと

数多く娯楽作品を生み出した

映画監督 沢島忠は

デビュー当時の錦之助の
魅力について…。

ちょっと

それと

それと

だから

それとね

そのすさまじい人気ぶりは
錦ちゃんブームと呼ばれたほど。


しかし 彼のそれまでの道のりは
決して平坦ではなかった。

そこには
歌舞伎界に生まれたが故の

苦悩の日々があった。

昭和7年 萬屋錦之介
本名 小川錦一は

東京
南青山に生まれた。

歌舞伎の名門
三代目 中村時蔵と

母 ひなの間に生まれた
四男坊。

兄弟全員が
歌舞伎役者の道に進んだ。

初舞台は 4歳の時。

だが 錦之助は
ここで大きなしくじりをした。

お披露目の口上で順番を待つうち

あまりの長さに
つい ウトウトと居眠り。

初舞台でのしくじりもなんのその

錦之助は 歌舞伎座を
遊び場のようにして育ち

稽古や芝居に明け暮れた。

将来 歌舞伎役者になる事に
なんの疑問もなかった。

父 時蔵は 親であり
師匠でもある。

舞台や稽古はもとより

礼儀や しつけにも
とりわけ厳しい人だった。

時蔵は 立女形

つまり
女形のトップを務めていた。

だからといって
息子に簡単に役を与えて

身内びいきをするような
甘い親ではない。

年功序列に厳しい歌舞伎の世界。

兄が3人もいれば

なかなか役は回ってこない。

錦之助は 精進を重ねながら

並びの腰元や小坊主など

いわば 端役に甘んじていた。

父 時蔵には
一回り以上 年の離れた弟がいた。

後に名優とうたわれる

その勘三郎を父に持ち

錦之助とは いとこ同士の女優

波乃久里子は

若い頃の錦之助について…。

それぐらい なんて言うのかな…。

しかし 役らしい役がつかないのは
つらいもの。

錦之助の慰めは
映画を見る事だった。

好きな映画には 何度も足を運び

全てのカットを覚えるほど
のめり込んだ。

そんな ある日の事。

歌と映画に大活躍のスター
美空ひばりから

ぜひ 映画の相手役にと
声がかかる。

条件も悪くない。

何より 熱心な誘いだった。

今のまま 大きな役がつくまで
じっと辛抱するより

大好きな映画の世界に飛び込んで
力いっぱい演じてみたい。

そんな募る思いを錦之助は
父 時蔵に切々と訴えた。

すると…。

錦之助は
もう一度 冷静に考え直してみた。

このまま ずっと
歌舞伎役者としての生涯を

貫くにしろ そうでないにせよ

今回の映画出演が自分の人生の
大きな転機になるのではないか。

そう思えて しかたなかった。

数日後 親子は 再び
話し合いの場を持った。

錦之助は
まず1本 映画を経験してみて

自分に合うようなら

歌舞伎と映画を
両立させたいと話した。

ところが 父 時蔵は
ピシャリと こう告げた。

錦之助のおいで
その名跡を継いだ

二代目
中村錦之助は…。

やはり 真剣に…。

父 時蔵に覚悟を問われ
逆に錦之助の腹は決まった。

歌舞伎を捨て 退路を断って
映画界に飛び込んだ錦之助。

その新天地は 想像以上に

♬~「月を見てさえ 吉さま恋し」

『ひよどり草紙』で映画デビューし

『笛吹童子』で
国民的アイドルとなった錦之助は

更に同じ年
『八百屋お七 ふり袖月夜』で

ひばりと共演。

その人気を不動のものにした。

映画
『唄ごよみ いろは若衆』の主題歌

『いろは小唄』。

映画デビュー後の数年間 錦之助は
主演と同時に主題歌まで歌い

まさにアイドル並みの活躍を
見せた。

ただし 歌舞伎と映画の違いに
慣れるまで

かなり時間がかかった。

セリフが細切れに
撮影される映画は

気持ちの作り方が難しく

カメラが回る音も異様に聞こえた。

新天地で悪戦苦闘しながら
成長する錦之助を

さり気なく見守っていたのが

映画界入りのきっかけを作った

美空ひばり その人だった。

現場で
慣れない事の多い錦之助が

スタッフから
きつい言い方をされて

ムッとしていると…。

と たしなめる。

5歳も年下なのに

まるで姉のように
錦之助を見守る ひばり。

2人の信頼関係は
その後も生涯にわたって続いた。

やがて 錦之助の頑張りを認めた

ベテランのカメラマンが

こうアドバイスしてくれた。

ありゃ もう

昭和30年 弟 中村嘉葎雄も

兄のあとを追い

映画界にデビューを果たした。

歌舞伎仕込みの美しい殺陣と
涼やかな容姿で

誰もが認める花形スターへと
上り詰めた錦之助。

その先には 新たなる試練が
待ち受けていた。

昭和31年 錦之助は 思いがけず
親孝行する機会に恵まれた。

父 時蔵率いる中村時蔵一座の

地方巡業に
参加したのである。

親子で一座が組めるのは

子だくさんの
時蔵一門ならではの事。

座長の時蔵に 息子5人と

妹が加わり

会場は 錦之助の人気で

どこも満員の観客で
あふれた。

しかし ある新聞が

「錦之助親子と その一行は…」と

書いた。

父 時蔵を軽んじた失礼な記事に

錦之助は 冷や汗が出た。

自分の名前よりも息子の名前が
大きく扱われた事を喜んだ

父 時蔵。

芸に厳しい父が
これまでの錦之助の頑張りを

認めてくれた瞬間だった。

昭和33年

映画 『江戸の名物男・一心太助』で

普段の明るい江戸っ子気質を
そのまま役に取り入れた錦之助。

この映画は 大ヒットし
新境地を開いた。

だが 忙しくも
順調に歩んでいた錦之助に

悲しい知らせが届く。

昭和34年 父 時蔵が
この世を去ったのである。

更に 悲しみが時蔵一門を襲う。

父の死から数年の間に

長男 歌昇が持病の悪化を理由に

役者を廃業。

父の名 時蔵を継いだ

2番目の兄は

34歳の若さで亡くなった。

また 3番目の兄は
役者に見切りをつけて

裏方に転身。

いつの間にか
兄弟で歌舞伎界に残る者は

誰もいなくなった。

ある日 母 ひなが

思い詰めた様子で
こう切り出した。

母の気持ちは 痛いほどわかった。

だが 歌舞伎に戻れば

自分の映画を
楽しみにしているファンを

裏切る事になる。

それだけは どうしてもできない。

そう告げると
母は黙って うなずいた。

すると
悲しみを乗り越えた錦之助に

大きな出会いが待っていた。

吉川英治原作の映画 『宮本武蔵』。

監督は 『大菩薩峠』や
『飢餓海峡』など

骨太な社会派作品を
手がけてきた巨匠

内田吐夢。

内田は
物語を5部作に分けて撮影。

それまでの通例に反して

1年に
1本ずつ公開していくという

スケールの大きな構想を
実現させた。

武蔵の宿敵
佐々木小次郎を演じたのは

高倉健である。

『宮本武蔵』第1作から

完結編 『巌流島の決斗』までの
5年間で 錦之助は

かつてのアイドルスターから
完全に脱皮し

本格的な演技派のスターとして
認められた。

「ここなんだ!
人間はハートだ!」って…。

この時期 プライベートでも
大きな変化があった。

錦之助は 映画で共演した女優
有馬稲子と結婚。

しかし 世間を沸かせた
スター同士の結婚は

4年足らずで
離婚という結末を迎える。

だが 錦之助は
役者としての歩みを止めなかった。

今井正監督の
『武士道残酷物語』では

第13回

国際的な栄誉も手に入れた。

こうして
映画俳優としてのキャリアを

順調に積み重ねる一方で
時代の変化により

その足元が大きく揺らいでいた。

昭和30年代後半
東京オリンピックを契機に

テレビの普及率が急上昇すると

大衆娯楽の王様だった
映画の人気に

陰りが見え始めた。

それと共に
時代劇映画も振るわなくなる。

東映は 時代劇中心から

任侠路線への転換を図り始め

看板スターである錦之助も
任侠映画に出演した。

昭和40年
火野葦平の原作を映画化した

『花と龍』に主演した時の事。

相手役の女優が足をケガしたまま
京都の撮影所に現れた。

その女優は 仕事に遅れないよう
ろくに医者にも見せず

飛行機に飛び乗ったという。

錦之助は すぐに
知り合いの医者に連絡を取り

その後も親身になって
ケガをした女優の世話を焼いた。

それが 後に結婚する女優

淡路恵子との出会い。

だが ちょうど その頃…。

会社側からの一方的な通告に
錦之助は 驚いた。

これまで心血を注いできた
時代劇映画が消えてしまうのか。

錦之助は 必死に訴えたが
会社側は かたくなだった。

昭和41年

『丹下左膳
飛燕居合斬り』を最後に

錦之助は東映を去る事にした。

最後の東映作品で共演したのが
あの淡路恵子。

この年 錦之助は 淡路恵子と結婚。

時代劇は 錦之助の人生そのもの。

会社が作らないなら
自分で作ってみせる。

12年過ごした東映を
去る寂しさよりも

新たな旅立ちに胸躍る思いがした。

しかし 錦之助の未来には
試練の道が敷かれていた。

東映を去った錦之助は

昭和43年に
中村プロダクションを旗揚げする。

当時 三船敏郎や勝新太郎ら

一流の映画スターが

こぞって
独立プロダクションを立ち上げ

映画制作に乗り出していた。

錦之助も その流れに乗り
理想の映画作りを目指して

自ら会社を起こしたのである。

錦之助のいとこ
女優 波乃久里子は

彼の芝居に対する
取り組みについて…。

でも…。

だから…。

ある日ね…。

これは すごい…。

また 昭和46年
三世時蔵十三回忌追善興行で

錦之助は 一門の新しい屋号
萬屋を披露した。

萬屋への改名は

世代を超えた一門の悲願だった。

亡き父が果たせなかった改名を

錦之助が中心となって実現。

映画界入りを始め
父 時蔵に対して

親不孝ばかりしてきた錦之助の
せめてもの親孝行だった。

だったら

それから あと

という事で萬屋になりまして…。

中村錦之助 改め

その芸名は 新しい活躍の場
テレビの時代劇で

お茶の間に広まった。

誰もが口ずさんだ歌い出し。

テレビ時代劇 『子連れ狼』は

橋幸夫の主題歌も
大ヒット。

公儀介錯人 拝一刀と
1子 大五郎が続ける

冥府魔道の旅。

錦之助の抑制した演技と
子役のけなげさが

見る者の心をつかんだ。

そして…。

お千代坊は 死んだで。

てめえらは 人間じゃねえ。
たたき斬ってやる!

♬~

昭和49年から放送された
『破れ傘刀舟悪人狩り』。

錦之介演じる外科医 叶刀舟が

弱き者を苦しめる
理不尽な権力者に

最後に怒りのやいばを向ける。

このテレビ時代劇は

親友 三船敏郎率いる
三船プロが制作し

中村プロが制作協力する形で
全131話が作られた。

そこには 2人のスターの

時代劇に対する熱い思いがあった。

映画でなくても
テレビで時代劇を作り続ければ

カツラや美術 衣装など

時代劇を支える裏方の
技術が伝わる。

その積み重ねが
感動的な再会を生んだ。

昭和53年 正月公開の映画
『柳生一族の陰謀』。

出演のオファーを受けた錦之介は
12年ぶりに

東映京都撮影所の門をくぐった。

東映にとっても
久々の時代劇映画 再開となった。

監督は
『仁義なき戦い』の深作欣二。

時代劇で
初めてメガホンを取り

そのスピード感あふれる
演出により

新たな感性の時代劇を生んだ。

これで
また存分に時代劇映画が撮れる。

そう確信していた錦之介に
思わぬ事態が起きる。

異変に気付いたのは
昭和57年6月の舞台だった。

楽屋でメーキャップをしていると

錦之介のまぶたが
自然に落ちてしまう。

そのうち
顔全体がガクンと下がり

両手で持ち上げないと
元に戻らなくなった。

翌日以降の代役は
弟の中村嘉葎雄に任せ

都内の病院に緊急入院。

だが 検査をしても
病名は ハッキリしなかった。

ようやく 重症筋無力症
という診断が下されたのは

入院から
2カ月近く経ったあとだった。

全身の筋肉に
次第に力が入らなくなる

原因不明の難病。

呼吸する筋肉が侵されると
呼吸困難から死に至る

恐ろしい病気である。

当時の壮絶な闘病の様子を

妻の淡路恵子が
インタビューで こう語っている。

手術の他に
病状が回復する手だてはない。

わずかな望みをかけ
錦之介は 手術台に上がった。

病室には
石原裕次郎

勝新太郎 高倉健ら

錦之介を
愛する仲間が

それぞれの思いを
届けた。

壮絶なリハビリに耐えた
錦之介は

錦之介の弟 中村嘉葎雄は
兄について

インタビューで
こう語っている。

退院の翌年 錦之介は
当たり役の『子連れ狼』で

俳優業に復帰。

全国のファンを安心させた。

だが 喜びがあれば
つらい別れもある。

錦之介は 東映を退社して以来

苦楽を共にしてきた

悲しみは 畳みかけるように続く。

互いに芸能人生を支え合った盟友

美空ひばりの死。

そして 淡路との間に生まれた
長男 晃廣が

バイクの事故により
22歳の若さで この世を去る。

更に 平成6年9月。

錦之介を厳しく
温かく見守ってきた母 ひなが

89年の人生を全うし
天に召された。

母の教えを守り
更に精進を重ねる錦之介。

その陰で錦之介を支えたのは

新たな伴侶となった女優
甲にしき。

昭和40年代に
宝塚歌劇団で活躍した

男役のトップスターで 退団後は

時代劇や舞台で 錦之介と共演し

見初められた。

しかし…。

母を亡くした2年後
錦之介ののどに がんが見つかる。

手術で声を失う事を恐れたが
命には代えられない。

8時間に及ぶ大手術の結果
舌を半分切除。

幸い 声帯に がんの転移はなく
声は失わずに済んだ。

そこから夫婦二人三脚で

復帰に向けた
厳しいリハビリが始まる。

流動食を摂るだけでも
のどに激痛が走る状態の中

会話のトレーニングと
歩行訓練を続けた。

ある日 トレーニングで
少し出せるようになった声で

錦之介は 妻 甲にしきに訴えた。

もう一度
ファンに芝居を見てもらいたい。

だが それは 見果てぬ夢。

萬屋錦之介

どこまでも芸に厳しく

どこまでも
ファンを大切にした役者の

短すぎる生涯だった。

ありがとうございます。

錦之介の死から10年後の平成19年

おいの中村信二郎が
二代目 錦之助の名跡を継いだ。

私は

この

生涯の全てを芸に捧げた
最後の時代劇映画スター

萬屋錦之介。

その雄姿は ファンの脳裏と

数多くのフィルムに刻まれている。

本気で演じ 本気で遊び
本気で泣いた。

映画さながらの役者人生。

スクリーンで観客を魅了した
太刀さばきで

錦之助は 今も天国狭しと
暴れ回っているに違いない。

♬~「赤いリンゴに
唇よせて」

♬~「だまって見ている 青い空」

懐かしき昭和。

そこには 現在の日本の礎を
築いた人々がいた。

♬~「歌も楽しや
東京キッド」

♬~「いきでおしゃれで
ほがらかで」

何もない

人々は 決して諦めなかった。

愛する家族のため 働いた。

♬~「父ちゃんのためなら
エンヤコラ」

♬~「母ちゃんのためなら
エンヤコラ」

日本の躍進を引っ張った
経営者たち。

そして…。

偉大な経営者も町工場のあるじも

誰もが脇目も振らず 走り続けた。

かけ声は やがて

世界に追いつき
追い越せに変わった。

♬~「四年たったら
また会いましょと」

♬~「かたい約束
夢じゃない」

♬~「ヨイショコーリャ
夢じゃない」

♬~「オリンピックの
顔と顔」

奇跡の躍進を続ける日本に
世界は 目を見張った。

ものを作り 人を作り
時代を作った。

♬~「白樺 青空 南風」

♬~「こぶし咲くあの丘北国の
ああ北国の春」

人々は 夢を育み
昭和 平成を生きている。

見つめ直すべき原点が
そこにある。


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