ザ・ドキュメンタリー 「幻の甲子園 戦争に埋もれた球児たちの夏」 戦時下で行われ、記録にはカウントされな…


人気No.1デリケートゾーンの黒ずみケア専用 薬用イビサクリーム臭気判定監修の足の消臭パウダーデリケートゾーンの臭いなんて気にしない!専用ソープ

『ザ・ドキュメンタリー 「幻の甲子園 戦争に埋もれた球児たちの夏」』の番組情報(EPGから引用)


2018/06/30(土) 
[字]ザ・ドキュメンタリー 「幻の甲子園 戦争に埋もれた球児たちの夏」
戦時下で行われ、記録にはカウントされなかった”幻の甲子園”。選手の多くがその後戦死し、生き残った球児も90歳。夢を追い続けた彼らの“戦争に埋もれた”夏を追う。
詳細情報
番組内容
1942年の夏、太平洋戦争の戦時下で行われ、記録にカウントされることのなかった“幻の甲子園”。そして、この大会で優勝した徳島商業高校の名前は、記録上なかったことになっている。野球を愛した球児たちも、その後、出征して戦死したものが多く、生き残った球児も90歳。二度と戦争の悲しい歴史を繰り返さないためにも、今、彼らの声を届けたい…。
番組内容2
“幻の甲子園”には16校が出場。番組では、優勝した徳島商業高校をはじめ4校にスポットを当てる。そして、それぞれの学校の現役の高校生に、元球児たちをインタビュー取材してもらい、「70年前の青春」を掘り起こしてもらった。過酷な環境下で、野球を希望に生き抜いてきた元球児の方たちと出会い、数々の貴重な証言を得ていく中で、若者は果たして何を感じるのだろうか…。
出演者
萩谷順
初回放送日
2015/7/23
番組概要
日本中を震撼させた「あの事件」、日本中が感動した「あの瞬間」。懐かしい喜び、衝撃…思い返せば、さまざまな感情があふれる出来事があった。「あの時のニッポン」を、貴重な映像や証言と共に振り返る。また、過去だけではなく今起きている事、さまざまなジャンルの新たなドキュメンタリーに挑戦。長期間にわたる取材、徹底的な検証、味わいあるナレーションで、地上波では見られなくなった「ドキュメンタリーの王道」を目指す。
番組ホームページ
<番組ホームページはこちら!>
www.bs-asahi.co.jp/documentary/
制作
BS朝日
Capture20180630-205953-1.jpg 



『ザ・ドキュメンタリー 「幻の甲子園 戦争に埋もれた球児たちの夏」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数BEST10)

ザ・ドキュメンタリー 「幻の甲子園 戦争に埋もれた球児たちの夏」
  1. 甲子園
  2. 昭和
  3. 大会
  4. 澤村
  5. 選手
  6. 歴史
  7. 当時
  8. 野球
  9. 優勝
  10. 思い



『ザ・ドキュメンタリー 「幻の甲子園 戦争に埋もれた球児たちの夏」』の解析用ソース(番組内容ネタバレ注意!)


高校球児たちの憧れの場所です。

毎年 春と夏
全国大会の舞台となり

グラウンドには懸命にプレーする
選手たちの輝く汗

そして いつの時代も変わらない
青春の日の涙がしみこんでいます。

しかし…

忘れ去られた涙がありました。

知られなかった汗がありました。

昭和17年の夏の全国大会。

出場した選手たちの
青春そのものと言っていい15試合

すべての記録が
残されていないのです。

あの夏の戦いは
幻だったのでしょうか。

♬~

高校野球の長い歴史を
感じ取ることの出来る この場所。

ここは
阪神甲子園球場に併設されている

甲子園歴史館です。

ここには およそ300点の
高校野球の記念品が

展示されている
ということなんですけれども

歴史が詰まっていますね。

ああ…。 これが
第1回全国中等学校優勝野球大会

ミットとグローブです。

手袋と言ったほうが 今の人には
分かってもらえるかもしれない。

高校野球が始まって1世紀。

今年は
101回大会になるはずですが

今年の夏の大会は第97回大会です。

その理由はこちらです。

1942年から1945年の4年間

戦争の影響で
大会が中断されていたのです。

ところが本当は
太平洋戦争真っただ中の1942年

昭和17年に一度だけ

夏の全国大会が
開催されていました。

1世紀の歴史の中で
忘れ去られている「幻の甲子園」。

「幻の甲子園」とは
どんな大会だったのでしょうか。

昭和17年。 この年 すでに
多くの命が失われていました。

ミッドウェー海戦では
日本側の死者3064名。

そして ガダルカナル島を巡る
攻防が激しさを増し

駆逐艦「朝霧」が沈没した…。

甲子園球場では 中等野球

今で言う高校野球の全国大会が
準決勝を迎えていました。

熱戦を繰り広げた4校は

徳島商業と海草中学

広島商業と平安中学。

しかし

大観衆を集めた この準決勝も

大会そのものも

主催する朝日新聞社の大会史には
一切 記録が残されていません。

なぜなのか?

朝日新聞社は
開催権を奪われたのだと言います。

国で全部やるんだと。


昭和17年の大会は
戦意高揚を目的とし

軍主導で
行われることになったのです。

スコアボードには
「勝って兜の緒を締めよ」

「戦い抜かう大東亜戦」。

選手は「士」と呼ばれ
球場に出入りする際は

このバッジの着用を
義務づけられました。

更に驚きのルールが。

バッターは危険な投球を
よけてはならない。

ケガや不調でも
控えの選手と交代出来ない。

突撃精神に沿って考えられた
軍の特別ルールです。

そして 球児の誇りである

ユニフォームの校名も

ローマ字から
漢字に変更されました。

当時
広島商業で投手だった澤村さん

91歳です。

澤村さんは73年ぶりに
甲子園の土を踏みました。

準優勝の平安では…。

今日は ちょっと
甲子園の歴史について

語り合おうと思ってね。

「幻の甲子園」を題材にした
日本で唯一の授業が…。

ベスト4の向陽…。

そして 優勝した徳島商業では

生徒たちが 母校の栄光を
掘り起こしていました。

昭和17年の夏

準決勝を戦った4校の
今を見つめました。

どうも どうも。
あっ よろしくお願いします。

あの日 日本が変わった。

戦時下 軍主導で開催された
「幻の甲子園」。

歴史上の出来事が
音もなく連鎖して

世の中を
変貌させることがあります。

今という時代を決定づけた
見えない偶然と必然を探る旅。

「幻の甲子園」。

徳島商業の初優勝に
笑顔はありませんでした。

そして 忘れ去られた記念の石碑。

そこに刻まれた思いとは…。

徳島県徳島市。

悠然と流れる吉野川が
この町を育んできました。

この川のすぐそばに
徳島商業はあります。

戦前から
野球の強豪校として知られ

板東英二や川上憲伸といった
プロ野球選手も輩出しました。

しかし 夏の全国大会の優勝記録に
その校名は記されていません。

校門を入ってすぐのところに

隠れるようにしてたたずむ
石碑があります。

そして そこに刻まれているのは

記録にはないはずの
「全国優勝」の4文字。

更に それが「幻」であったことも。

そう。 昭和17年の栄光は
忘れ去られた「幻」です。

何だったっけ… 分からん。
分かりません。 ごめんなさい。

見てないことはないと
思いますけど

何の石碑かは分からないです。

誰もが通る正門の脇。

しかし 石碑の存在に
注意が払われることは

ほとんどありません。

探してみると ようやく ただ1人

野球部の全国制覇を知る
生徒がいました。


3年生の稲村拓馬くんは
野球部の一員。

真面目な性格を買われ

試合では1塁コーチとして
チームを支えています。

もう1つの顔は…。

母校の歴史にも
興味を持っています。

でも 正門脇の石碑のことは
よく知りません。

全国制覇を教えてくれたのは

図書館を使って授業をした時に
見つけた1冊の雑誌です。

わずか1ページだけの記事ですが

確かに 夏の甲子園で
優勝したことが書かれています。

(稲村さん)
もう少し何か詳しく書いてあれば

いいかなと思います。

稲村くんは 生徒会の仲間と

「幻の甲子園」のことを
調べることにしました。

42年か…。 1942年に
甲子園で大会があって

その時に徳島商業が優勝したと。

今の高校生たちにとって
昭和は すでに遠い昔。

日本史の授業でも

まだ昭和のことは
教わっていません。

1945年に太平洋戦争終結の

天皇の放送がなされたって
書いとる。

じゃあ 太平洋戦争かな。

(稲村さん)そうちゃうん?

昭和16年に太平洋戦争が始まり
軍部による統制も厳しさを増す中

全国規模のスポーツ大会は
次々と中止に。

甲子園も
昭和16年に中止となりました。

しかし 昭和17年
やがて兵士となる若者を鍛え

戦意の高揚を図るための
体育大会が開催されたのです。

野球も その中の一競技。

徳島商業が優勝したのは

それまでの朝日新聞社主催の
大会とは全く違う

国の主導による全国大会でした。

新聞社の公式記録には
残しようのない「幻の甲子園」です。

雑誌を読み返してみた稲村くんは
あることに気づきます。

一応 賞状はもらったけれども

戦火で
焼けてなくなってしまったと。

けど 77年に

改めて賞状と優勝盾が
この徳商に贈られた。

あの夏 徳島商業に

1枚の表彰状が
贈られていたのです。

しかし 徳島の街は
大空襲で焼け野原に。

徳島商業の校舎も炎に包まれ

優勝の証しである表彰状も
失われました。

1つだけ
疑問に思ってることあるんやけど

この… 77年に

(吉田さん)ああ~。

見たいな。
あったらなあ。

稲村くんたちは
校長室を見せてもらうことに。

徳島商業が獲得した
トロフィーなどが

展示されています。

(吉田さん)「昭和17年度」

(瀬川さん)
えっ 写真 ちゃんとあるやん。

(吉田さん)優勝…。
これや 盾もある。

(稲村さん)これが優勝盾や。
これが賞状や。


贈られてきたんやな。

残っとんやな。
残っとるよな。

校長室にあったのは
優勝の盾と記念写真。

写真のほうに違和感があることに
気がつきました。

ほうやな。

こん時は あれかもしれん。

笑ったらあかんとかは
あったんかな…。

そんなことないかな?
ああ でも そうか 戦時中…。

確かに優勝した直後なのに
笑顔が全くありません。

一体 なぜなのか。

もう1つ
校長室で見つけたのが…。

同窓会名簿です。

えっ… 待ってよ。

写っとる人が
もしかしたら おるかもしれん。

当時の優勝メンバーのどなたかが
まだご健在かも。

稲村くんは梅本安則さんの名前を
見つけました。

(呼び出し音)

あっ もしもし。
あっ もしもし。 こんばんは。

あの~ 梅本さんですか?
(梅本さん)「そうです」

梅本さんが「幻の甲子園」の時に

優勝したメンバーだった
というのを

聞いたんですけれども。
「はい はい」

あっ 本当ですか?
「はい」

電話の相手は
梅本さんご本人でした。

当時のことを聞きたいと
伝えたところ

東京から徳島まで
来て頂けることに。

失礼致します。
「はい はい」

はい 何?

お話を聞けるということで。

めったにない。

約束のその日が来ました。

正門で大先輩をお出迎え。

どうも 今日はありがとう。

このあと 高校生たちが
あの夏の真実を知ります。

感動が…。

昭和17年 夏の甲子園。

優勝した徳島商業の
レギュラー選手だった梅本さんは

故郷の徳島を離れ
東京で暮らしています。

今も医療事務の現役。

息子さんの歯科医院を
手伝っています。

ただ やたら おやじ野球うまいな
と思ってはいたんですけどね。

子どもも知らなかったですね。
甲子園出て優勝したなんてね。

平和な時代に生まれた
息子さんには

あえて伝えなかった
あの夏の思い出。

約束の日。

70歳も年の離れた大先輩は

後輩たちと会うために
徳島まで帰ってきてくれました。

おはようございます。
(一同)おはようございます。

どうも 今日はありがとう。

ありがとうございます。
どうも どうも。

お天気になったね。
ああ…。 よかったです。

いや 懐かしい。
こちら…。

皆さん どうも 梅本安則です。
どうも。

(一同)お願いします。
(梅本さん)どうも。

生徒会の4人は
校長室で見つけた

あの写真のことを
まず聞いてみます。

当時の甲子園での写真を

校長室にあるのを
見さして頂いたんですけど

表情が 笑ってなかったというか

緊張感のある
写真だったんですけど。

そのとおりなの。
もう そのとおりなんだよ。

(梅本さん)やった! やった!
っていうのはね…。

軍事主義でゆがめられた
野球のルール。

選手の交代は禁止でした。

その過酷な状況の中
決勝戦では延長11回まで戦い抜き

終わった頃には
精も根も尽き果てていたのです。

もはや
意識が もうろうとしていたのか

勝利の瞬間は…。

僕もね 気が付かなかってね まだ。
そこで勝ったということが。

しばらくして
ひょっと見たらね

平安の選手が皆
引き揚げてるとこ。

それでね ああ 勝ったんだと。

というね 正直な

ほっとしたっていう
感じのあとからね

勝ったんだな 優勝したんだなと
じわじわと こうね

感激が上がってくるまでの間
まだね しばらくの間ですから。

そして 野球部の稲村くんには

どうしても
聞きたいことがありました。

優勝した時の甲子園は 今では

「幻の甲子園」と
言われてるんですけども

公式記録に残っていない
ということは

どう思われているんでしょうか?

最初はね ああ そうか… って
ちょっとね

悔しいような気持ち
多少あったけどね

しかし どんな… ねっ

そこまで至る経緯が
どうあろうとも

確かに昭和17年の夏 8月に
8月22日から29日まで

あの甲子園でね
一生懸命にね プレーして

しかも 幸いなるかなね
最後まで戦って

勝利を収めることが出来たと。

これは1つのね 球運。

野球の「球」に運命の「運」で
球運ね。

球運に恵まれたというような
精神的な言葉でね

言うしかないかな いうようなね。

感動が…。
(梅本さん)ハハハッ。

空襲で
すべてを失った梅本さんは

戦後になって手に入れた
優勝写真を大切に持っていました。

(瀬川さん)えっ…。

(笑い声)

(梅本さん)
後列 後列 後列の一番端。

こっち こっち… こっち こっち。
一番小さいの。

今でも
当時のチームメートの人とかと

関わりはあったりとか
するんですかね?

その質問はね
聞かれると非常につらい。

これが一番つらい。

この中でね 現存してね
生きて元気な人っていうのはね

安部幸治先輩と横に並んでる
梅本の2人。 選手の中では。

もう
ものすごく寂しくなりました。

だから それを聞かれるのが
一番つらいということですけどね。

それも しかたがなくてね。

決勝戦を戦った9人のうち
ご存命なのは2人だけです。

稲村くんは 大先輩に

野球部の練習を
見てもらうことにしました。

(梅本さん)結構やっぱり広いね。
(部員たち)こんにちは!

(梅本さん)どうも こんにちは。
どうも~。

いやいやいや
これはすばらしいね。

だって 僕らの時はもう
悪かったよ。 特に戦争中だからね。

ほいで このグラウンドの上をさ

手榴弾の投擲のね
やったりするんだから。

当時は グラウンドで

手榴弾の投擲練習が
行われていました。


そこらじゅう穴だらけ。

野球の練習をするはずの場所で

戦争の練習をしていた
時代だったのです。

梅本さんは吉野川の河川敷に
みんなを案内しました。

梅本さんにとっては
つらい思い出が残る場所です。

昭和20年の7月4日の晩に
徳商が焼かれました。

徳島市の主要な街がね 私の家も

全部B-29の焼夷弾で
焼かれました。

その日 徳島上空に
爆撃機B-29が来襲。

焼夷弾の投下は
2時間近く続き

街は一晩にして
焼け野原と化したのです。

たくさんの命も失われました。

なんか近いところで
爆音が聞こえてね 危ないと。

B-29がね
その時すでに徳島に近づいて

入ってきた時なんでしょうね。
で もう急遽

防空壕に入ってる人みんな
危ないから出ろということで

一緒にね 向かうところは吉野川。
ここ。

そして どうしたかっていうと

ようやくね
吉野川の堤防にたどり着いて

ベターッと こっち側の斜面に
張り付いたわけ みんな こう。

そんなことしてね
上からね 爆弾落とされたら

何にもならないんだろうけど
爆音が しばらく頑張ってると

遠ざかっていくというような
感じがしてね。

防空壕へ入ってる時に
直撃を受けてね

もうその時に
生命を絶たれたかもしれない。

だけども 助けられてね。

で 吉野川の この広いね
眺めを見るたびにね やっぱり…。

というような思いがね
非常に強いのですね。 うん。

郷里の川だけは

いつの時代も変わらず
そこに流れています。

最後に 梅本さんは
石碑に込められた本当の思いを

若い後輩たちに伝えました。

立てたね
私たちの同窓の本当の趣旨はね

これからのね
いわゆる徳商で育っていく

そしてまた
巣立っていく皆さんがね

時々こういうものを見てね

やっぱり伝統の中にね
こういう歴史がね あったんだと。

先輩が残してくれたんだと
胸に刻んで頂いて

いろんな方面で頑張って頂けたら
これはありがたいと。

自分が3年間通ってるのに…。

なので 明日からは

降りだした雨の中 お別れの時間。

(梅本さん)お元気でね。
本当 今日はありがとう。

(一同)ありがとうございました。
どうも。

稲村くんが
思いを果たす時が来ました。

この日は 予選を勝ち抜き

見事 全国大会出場を決めた
クラブの壮行会。

壇上には稲村くんが上がり
そして 全校生徒を前に

全国優勝のあの石碑のことを
語りました。

その状況でも…。

(稲村さん)全国大会に出場される
皆さんにも

頑張って下さい。

♬~

昭和17年 夏の日の栄光は

「母校の誇り」として
後輩たちの胸に刻まれました。

忘れてはいけない歴史があると

龍谷大学付属 平安高校で
立ち上がった1人の教師。

あの夏の真実を伝える
日本で唯一の授業が始まります。

昭和17年の大会で
いくつもの死闘を演じ

準優勝を果たした平安高校。

今年の春
その誇りを受け継ぐ後輩たちが

甲子園のスタンドで
声を張り上げていました。

伝統のユニフォームは
彼らの憧れです。

胸に紺色のアルファベットが
5文字。

創立は明治9年。

140年近い歴史を持つ
平安高校の玄関ロビーには

甲子園最多出場を誇る
野球部の歴史が展示されています。

しかし その中に
「幻の甲子園」と呼ばれる

昭和17年の準優勝を伝えるものは
何もありません。

にもかかわらず
平安高校の野球部員は

ほとんどが
17年の大会を知っています。

その理由は 佐々木じろう先生。

(生徒)袴ですか?
袴の人もいると思う。

今日は ちょっと
甲子園の歴史について

語り合おうと思ってね。

佐々木先生は 日本でただ1人

「幻の甲子園」を題材にした授業を
行っています。

先生がカリキュラムを変えてまで
この授業をやることにしたのは…。

(スタッフ)おはようございます。
(佐々木さん)おはようございます。

学校に残されていた1枚の写真に
衝撃を受けたからです。

(佐々木さん)ビリビリビリ… って
来たんですよね。

うわ~ その先輩らが
こんな時代に

こんなんしてはったんやって
感じたのが

そのまま 多分 僕以上に
生徒は感じるはずやなという。

そんな単純な発想
やったんですけど もともとは。

自分の感じたことを
語り部として伝えたい。

特に野球部の選手たちに。

平安高校には
野球部員だけのクラスがあります。

この日 そこで行われていたのが
「幻の甲子園」の授業。

戦争に対する意識が高まってきた
今の時代。

平和教育を
より充実したものにしたいと

今年 先生は
資料集めに力を注ぎました。

学校で見つけた この写真。

軍服を着た若者たちが
銃を構えています。

ここに写ってる この写真の
この丸のところが

恐らく あそこの丸やろうなと
思ってるんですけど。

窓から見える景色が

写真の建物と
一致しました。

生徒たちが銃を構えていた場所。

それは母校
平安のグラウンドでした。

当時 同じ時代の子たちが

多分 自分たちがやりたいことが
あったにもかかわらず

自分の意思ではないことを
させられた

時代に流されたというか
翻弄されたっていう…。

僕は
ショックを受けているとともに

今の子たちはどう捉えんのかなあ
それをどう考えて

自分たちの今を生きるのかなあ
っていう

すごい教材になったなあと
感じました。

平安高校だからこそ出来る授業。

そして
やらなければならない授業。

教材は ほとんどが自作です。

膨大な資料が
あるように見えますが

まだまだ満足は出来ません。

17年の大会に出場した
選手の娘さんが

京都府 亀岡に住んでいると分かり
会いに行くことにしました。

そうですね。 ちょっと…。

あっ こんにちは すいません。
平安の佐々木と言います。

加納千草さんは

17年の大会で主将を務めた
小俣秀夫さんの娘さんです。

失礼します。
ああ すごいっすね。 ああ…。


父親が残した
大会にまつわる遺品を

用意してくれていました。

佐々木先生が
まず手に取ったのは…。

(加納さん)どうぞ どうぞ。
(佐々木さん)いいですか?

写真は全く見たことないですね。
これ。

昭和17年の大会の
開会式と思われる写真。

スコアボードに
掲げられていたのは

「勝って兜の緒を締めよ」

「戦い抜かう大東亜戦」
という文言です。

(佐々木さん)戦時中を表す部分で
これも授業に使える…。

ほかにも
貴重な資料がいくつもありました。

すごい。

(加納さん)そうです。

もう本当にね
野球が好きだったみたいで

ずーっと野球ばっかり

野球 野球 野球の
人生やったみたいですよ。

戦争の話は聞かはりました?
(加納さん)聞きましたね。

一応

亡くなるその日まで

大切にしていたと
教えてもらったのが…。

その当時のボールが…。
すごい それはすごいですよ。

野球を心の支えにして生きた
小俣さんは

当時のボールを 最後まで
自分のそばに置き続けたのです。

貴重な資料を
いくつも手に入れた佐々木先生。

よりよい授業のための教材作りは
深夜まで続きました。

そして迎えた
「幻の甲子園」を教える日。

いよいよ
日本で唯一の授業が始まります。

さあ いくで。 前見て。

そう。
ここ来ても よけたらあかんって。

(生徒)えぐいな。

「幻の甲子園」の授業当日。

(生徒)礼。
(一同)お願いします。

これって見た? 入ってくる時。

何がすごいかなと思ったら

このパノラマがあったのが
すごいなと思って 平安に。

昭和11年に
こんな写真があったんやみたいな。

先生が最初に見せたのは
昭和17年よりも古い

昭和11年の甲子園の写真。

今と変わらず
大勢の観客が詰めかけていました。

今日は ちょっと
甲子園の歴史について

語り合おうと思ってね。

で これ出してみました。

平安と甲子園の
出会いは いつかと言うと

はい 書いてある。 何年?

(生徒)1927年。
(佐々木さん)1927年 昭和?

(生徒)2年。
(佐々木さん)昭和2年やねん。

それが13回 初出場で
なんと翌年 いきなり準優勝。

すごない? これ。

実は1941年には京津大会で勝って

さあ行くぞって 甲子園行こうと
思ったら中止になっています。

あと 中止 中止 中止 中止 中止。

さあ そしたら
今から見てもらうのは… バーン。

これ どこや?
(生徒)甲子園。

(佐々木さん)
ここに平安はいますか?

(佐々木さん)そして次。

当時 中学っていう名前やったけど
平安中学。

(佐々木さん)「安平」って何?

昔は右から読んでたって
知ってた?

これ ちょっと考えて。

「HEIAN」から漢字の「平安」に
変わったのは なぜ?

(佐々木さん)それや。

創部当時から

ユニフォームの「平安」の文字は
ローマ字。

昭和17年だけ
「敵国の言葉を使うな」と

漢字のユニフォームに
変えさせられたのです。

その時の
選手の気持ちがどうだったか

佐々木先生は
生徒たちに問いかけました。

(佐々木さん)なぜ?

あのユニフォームに憧れて
入ってきたはずやと。

頑張らなあかんっていう
理由は何?

戦争行ってる人のためにも
頑張らなあかん。 なるほどな。

先生が次に見せたのは
「士章」と書かれたもの。

(佐々木さん)あの上のさ
図柄分かる?

せやねん。 だから選手は
みんな これをやってんねんけど

選手って言わんと?
(生徒たち)士。

(佐々木さん)
選手は士と呼ばれた。

だから いろんなルールが
今と ちょっとちゃうねんな。

さあ いくで。 前見て。

戦時下の特殊なルールが
選手の交代禁止。

ボールをよけることも禁止。

そう。
ここ来ても よけたらあかんって。

(佐々木さん)なるほど。

軍が主導した異様な環境の甲子園。

その中で平安ナインは
どんな戦いを見せたのでしょうか。

この平安の快進撃 見てよ。
1回戦 対市岡。

3対0。 ピッチャー 富樫。
ノーヒットノーラン。

この大会の象徴的な存在が

すでに全国に
その名を知られていた

平安のエース富樫淳投手です。

当時の捕手 原田さんの手記には
こうあります。

しかし 昭和17年の大会のさなか

富樫投手の肩にも
激痛が走ったのです。

当時発行された野球専門誌
『ベースボールニウス』。

そこには 16校の熱戦が
克明に記されています。

平安は富樫投手の豪速球を武器に
大会を勝ち進みました。

1回戦は 大阪の市岡中学を相手に
ノーヒットノーラン。

2回戦は
愛知の一宮を一安打で完封。

富樫投手が肩に痛みを感じたのは

その2回戦で
最後の1球を投げた時でした。

続く準決勝の相手は広島商業。
ところが…。

5回 降雨ノーゲームで
5回までやったんやで。

5回で途中でブワーッ降ってきて
ノーゲーム。

翌日 午前中 再試合。

決勝 その日の午後から。
(一同)えっ…?

準決勝は5回途中まで
無失点に抑えたところで

降雨ノーゲームに。

そして
軍が主導した大会ならではの

驚くべきスケジュールが
発表されました。

準決勝の再試合と決勝を
同じ日にやるというのです。

どんな過酷な条件でも

戦場では
敵に背中を見せてはならない。

8月29日
二度目の準決勝が始まりました。

佐々木先生は
その時の富樫投手の様子を

対戦相手
広島商業のメンバーだった

澤村さんに聞いてみました。


どんな感じやったんですかね?
富樫さん。

私ね ベンチで見よってね。
どうもおかしいのう…。

ついとったけ 医者がね。

そりゃね 肩痛めるいうのはね
本人でなけりゃ分からん 人に。

ビリーッと来るんじゃけ これ。

ベンチで
痛み止めを打ちながらの投球。

それでも平安は勝利を収めました。

そして 予定どおり
その日の午後 決勝戦を開始。

相手は徳島商業です。

この試合も激戦となりました。

連戦の疲れと肩の痛みから
富樫投手はコントロールを乱し

7回までに6失点。

一方 平安も
8回に4点を奪って同点とし

延長戦となりましたが

規定により
選手の交代は許されません。

富樫は11回までに
19個もの四球を与えている。

どう? ピッチャーとして
どうなん? 19個の四球って。

11回表 平安が勝ち越します。

あと3人抑えれば優勝。

しかし 富樫投手の肩は
すでに限界でした。

フォアボールを待つ
徳島商業の作戦の前に

押し出しの1点を
与えてしまいます。

同点となり 2アウト満塁。

次の打者は
フルカウントとなりました。

富樫投手
渾身の1球は真ん中高め。

審判の判定はボールでした。

激戦は
サヨナラフォアボールという

残酷な幕切れとなったのです。

(佐々木さん)
富樫は「幻の甲子園」の

最後の敗戦投手となりました。

徳島商業は創部以来32年目にして
初の全国制覇を成し遂げました。

授業の最後に佐々木先生は
1枚の大きな写真を見せました。

優勝旗を持った平安のメンバーが
行進しています。

(佐々木さん)これ 監督さんや。
名前を富樫淳と言います。

そう あの富樫さんは平安の監督で
これ 優勝してはんねん。

すごいやろ?

おおっ すげえな。 うん。

73年前の甲子園。

交代が認められない
特殊なルールのもと

最後まで投げ続けた富樫投手は

監督として
甲子園で その夢を果たしました。

1つだけ あんまり先生
自分の意見言わへんけど

1つだけ言わしてもらうならば

甲子園の意味を
もう1回考えてほしい。

もし 何か感じたんやったら
今日の授業でな。

甲子園行った時に何を思って

プレーしてくれんのかなあと
思ったり。 その答えは多分

100人いたら100人とも
バラバラやと思うんだけど

それをちょっと考えたかな。

あの夏を戦い抜いた先輩たちから
今の高校生たちが受け継いだもの。

それは…。

地区予選の1週間前。

ベンチ入りするメンバーに

試合用のユニフォームが
配られました。

1番 高橋奎二。
はい!

ありがとうございます。

はい。 ありがとうございます!

胸には5文字のアルファベット。

母校の誇りは
受け継がれていきます。

高校野球1世紀の歴史の中で

「幻の甲子園」と呼ばれる
1942年 夏の全国大会。

徳島商業が優勝を決めた時の
ウイニングボールが

甲子園歴史館に展示されています。

徳島商業と準決勝で戦い
0対1で惜敗したのが海草中学

現在の和歌山県立向陽高校です。

準決勝まで進んだこの学校で

「幻の甲子園」は どのように
伝えられているのでしょうか?

名門野球部を襲った戦争の悲劇。

エースが流した無念の涙は

今 平和への思いとなって
後輩たちに受け継がれています。

和歌山県和歌山市。

市街地のほぼ真ん中に
向陽高校の校舎はあります。

前身の海草中学の創立は1915年。

今年100周年を迎えた中高一貫
県下でも有数の進学校です。

かつて全国制覇も果たした
野球部は

戦争によって
大きな苦難を味わいました。

今 練習試合用の
アップユニフォームの背中には

英語で こう書かれています。

部員たちはもちろん
全校生徒の指針になればと

野球部の監督が考えた言葉です。

その堀内孝貢監督は
向陽高校野球部のOB。

海草中学時代の
先輩たちが味わった

戦争による無念の思いを
平和な今だからこそ

選手たちに
伝えていきたいと言います。

60年 70年って こう
区切りようやってるけども

もっと その…
戦争の人がおらんようになる。

今もう90でしょ。

だから あと10年たったらよ
100になるでしょ。

この子らが
次の80年とかなった時には

大事な日本を…
和歌山 背負っていく年齢にね

30歳前後になるからね。

ほいで もっと感じてほしいね。

野球部の創立は大正10年。

昭和17年の大会では
ベスト4に終わりました。

しかし 昭和14年と15年は
大会を見事連覇し

強豪校として
全国にその名をとどろかせました。

優勝した昭和14年
キャプテンを務めたのが

古くから高校野球ファンなら
知らない者はいないと言われる

伝説の左腕です。

(実況)海草 嶋投手の
怪腕に封ぜられた下関

最後の攻撃もむなしく
ついに5対0。

昭和14年の大会で全5試合を完封

準決勝と決勝では2試合連続
ノーヒットノーランという

前人未到の偉業を成し遂げました。

続く昭和15年の大会で
チームを優勝に導いたのが

この2人の投手の活躍で
海草中学は黄金時代を築きました。

しかし 学徒出陣によって
海軍に応召された嶋投手は

昭和20年 ベトナム沖で戦死。

そして今 野球部では

入部の際に監督から
1冊の本が配られます。

嶋清一について書かれた本。

部員たちは それを読み
何を感じるのでしょう。

自分ら
やっぱり体験してないことなんで

よく分かんないですけど

自分ら 野球出来てんのって
幸せなことやなって思いました。

あの人らは
平和じゃない時代に野球やってて

今 僕ら 野球出来る喜びを
一層感じられたと思います。

では 監督はどんな思いで
本を配り始めたのでしょうか?

戦争って こうやったんやぞ
とかいう証しをね やっぱり

みんなに
知ってもらいたいなあっていう。

後進にね やっぱり
引き継いでいくもんが

1つでも2つでもあったらなあと
僕は思うてるんですけどね。

この学校で「幻の甲子園」は
どう伝えられているのか?

野球部の歴史に興味があるという

副キャプテンの神藤紘好くんに
聞いてみました。

17年の大会のことは

知らない生徒が
ほとんどだと言う神藤くん。

学校には当時の記録や

戦争時代についての資料が
あるはずだと監督に聞き

みんなで
それを探してみることに。

あっ 近い 近い 近い…
あっ 来た。 出た。

嶋さんです。 これ。

昭和14年と15年に
全国大会連覇を果たした海草中学。

3連覇をかけ
甲子園を目指していましたが

県予選の直前
全国大会が突如中止となります。

大会を主催してきた
朝日新聞社の高蔵さんは

理由をこう語ります。

つまり 人が動くというのは
それに伴って…。

今の和歌山の
向陽高校なんですけど。

3連覇の夢は
戦争によって阻まれました。

当時 主将だった真田投手は
優勝旗を新聞社に返還。

試合が出来ない悔しさに
唇をかみしめました。

国民的行事っぽいじゃないですか
夏といえば甲子園ってなって

普通にあるもんみたいな
感覚じゃないですか。

そんな思いを 中止とかいう言葉で
簡単に消されたら。

東大入るより難しいねんで
甲子園入れるんって 確率的に。

確かに。

黄金時代に戦争を迎えた
悲運の野球部。

その歴史や記録が記された資料が
向陽高校にある

向陽・海草記念館にも
大切に保管されています。

監督に連れられ
神藤くんたちも記念館へ。

実は 資料の多くは

堀内監督が中心になって
集めたものです。

その中には
戦争に翻弄された時代の

貴重な資料もありました。

第二次世界大戦で英語を使うなと。

これ甲子園で
英語を使うなっちゅうことで

「海草」っちゅう漢字で
出場したわけ。

大変な時期に こういうことを
野球出来ると…。

だからよ 背中に
Tシャツ書いてる

平和で野球出来る喜びを
かみしめてっていう

そういう意味がね あるんで。

おまんらも
こういう時代は分からんやけども

気持ちとか人に伝えたことを
また後世に伝えたり。

歴史を受け継いでほしい。

監督の思いを聞いて

保管されている資料への興味が
更に増しました。

(スタッフ)ここに こんなんあるって
知ってた?

(一同)知らなかったです。

嶋…。
嶋やんな。

神藤くんたちは
野球部の歴史をまとめた本も発見。

そこには
16年に大会が中止になった時の

先輩たちの思いも
記されていました。

「突如本大会中止となる」

「合宿開始して間もなく
突如本大会中止の報に接した」

「練習から帰ってきた選手たちは

学期試験も今日終えたばかり」
って

俺らと全く同じ
シチュエーションや 今の。

だから今の俺らが
中止と聞かされたみたいな。

「ワット泣き出した」
やけど 嫌ちゃう?

甲子園決まってさ なくなったら
俺ガチ泣きするで 多分。

17年大会に関する
記述もありました。

そこに書かれていたのは
こんな規定です。

「大会規定
満19歳以上 出場不可能により

本校の大黒柱である真田投手が

わずか3カ月足らずで
本大会に出れないこととなった」

当時 中学校は5年制。

19歳の生徒も多くいました。

しかし 急遽決まった規定により

19歳以上は
出られなくなったのです。

3カ月だけ規定を超えていた
エース真田投手も

出場は かないませんでした。

当時の思いを
彼は手記に こうつづっています。

「なんということだ」

「全く残念でたまらなかった」

「予選から 甲子園の大会を通じて

ベンチにいる つらさといったら」

「あんな苦しい思いをしたのは

初めてであった」

真田さん はがゆかったやろな。
残り3カ月やで。

真田さん あれやで。
上で見てたんやで。

なんか 悔しいよな。

戦争当時の状況を知る
海草中学のOBは

もうほとんどいません。

堀内監督が 野球部の歴史に
詳しい人を紹介してくれました。

向陽高校出身の松本五十雄さんは

野球部ではなかったのですが
野球部OBと交流が深く

昭和17年の大会についても
ご存じでした。

出場出来なかった
真田投手のことを聞いてみます。

そら 嶋さんも
ものすごいけどやね

あの~ 真田さん

嶋さんが卒業した明くる年に
ピッチャーに転向して

ほいで
甲子園で優勝したんやけどもね。

ものすごう
初め嫌がったんやってな

ピッチャーになるの。

監督の言うこと聞けんのやったら
お前もう野球部辞めてくれと

そこまで言うてやね。

それはもう バックネットのとこへ
引きずり出してきてね

放らすんやってな。
1日に300も400も。

(檜尾さん)潰れるやろ。

(松本さん)当時はもう
それが当たり前やもん。

今やったら もう
そんな えらいこっちゃ。

こないだ監督さんが言ってたわ。

ところがね
「幻の甲子園」の時はね

5連覇いけんのちゃうか
っちゅうことやった。

残ってるメンバーとかな
過去の実績から見てな。

その時 真田さんがね
年齢制限で引っ掛かったわけ。

だから
それでベスト4で負けたわけや。

突然の年齢制限がなければ
この年

真田投手が投げ
優勝出来ていたのかもしれない。

その悔しさは
後輩たちの胸にも届いたようです。

もう 何て言うんですか ほんまに

全然恵まれてない状況の中で
やってたんやろなっていう。

記念館に
もう1つ貴重な資料がある。

そう聞いた神藤くんたちは
それを探すことに。

失礼します。

甲子園やん これ。

ピッチャー 辻さんや。
甲子園ちゃうん? これ。

これ だから…。
ガチの「幻」やん。

これガチ。 今 幻を見てる 俺は。

見つけたのは

あの夏
甲子園で戦った対戦相手や

試合の様子が
克明に記されていました。

すげえ。

そこには
想像もしていなかった学校名も。

このあとは 台湾の高校球児。

昭和17年
彼らは命懸けで海を渡りました。

甲子園に全員が
行かれんくなるじゃないかと

「お父さん お願いします」と言って
あの当時 涙も出しましたね。

夏の甲子園大会には
戦前の一時期

台湾や満州など

いわゆる「外地」からの代表校も
参加していました。

昭和17年大会の1回戦

海草中学と戦った台北工業も
その1つです。

ここに
昭和17年の大会に出場した

台北工業の元選手が
暮らしています。

菊池さんは台湾予選を勝ち抜いた
台北工業のベンチメンバーとして

大会に参加しました。

兄の武男さんは

4番でピッチャーという
チームの大黒柱。

選手のほとんどは
台湾で生まれ育った日本人です。

甲子園に出場することは
自分たちの母国に行くという

台湾の球児たちの
夢でもありました。

もう夢の夢ですね。

みんな甲子園に
行きたい行きたいっちゅうので

みんな 各市がですね
もう一生懸命になって応援し

また 選手たちも
一生懸命練習したですよね。

甲子園出場を決め
台湾の代表として

「内地」と呼ばれていた
日本に向かうのを

心待ちにしていた菊池さん。

しかし 太平洋戦争の真っただ中

台湾から日本への船旅は
命懸けでした。

アメリカ軍の潜水艦が

軍艦だけでなく
民間船も攻撃していたのです。

その状況を受け
学校側が下した判断は…。

しかし 部員たちは

「死んでも本望 出場したい」と
嘆願しました。

そこで 学校側は

親に出場の承諾書を提出するよう
求めたのです。

長男と次男 息子2人を亡くせば
家が途絶えてしまう。

父 武文さんは
承諾書の提出を拒みました。

大の野球好きだった父も
苦渋の決断だったはず。

しかし 甲子園への思いを
捨てられない兄弟は

父を説得しました。

(菊池さん)兄貴が主将でね…。

それで おやじも考えて
で 印鑑を押したわけなんですよ。

うれしかったです。

こうして 甲子園出場を果たした
台北工業。

しかし 初めての甲子園では

大会の開催を待ちわびていた

大観衆の熱気に
圧倒されてしまいます。

そら~ 今でも 私は…。

ウワーッちゅうのが
こだまするんですよ。

投げようとしたら
投げれんのですよ。

ウワーッちゅうのが響いてですね。

あれの 私まだ記憶しております。

結果は3対2。

延長の末
惜しくも海草中学に敗れました。

命懸けで甲子園にたどり着いた
台北工業の選手たち。

菊池さんは
かつての対戦相手の後輩にも

あの時の思いを知ってほしいと
手記を贈ることに。

そこには 戦時下の過酷な状況も
記されていました。

(檜尾さん)あ~ そろそろ日本が
負け始める時期やな

ミッドウェー海戦やったら。

あ~ね。 台湾やから海またいで
来やなあかんくて

戦争の最中を 横をゴーッと。

えぐいな。 怖っ…。
めっちゃ怖い。

「何があっても学校に責任はない」

(檜尾さん)甲子園行くまでに
死ぬ可能性あんねやで。

「優勝候補の海草中学を
ここまで追い込んだ」ってさ…。

かなりすごいわな。

なんか あれちゃうん。 海草が
そんだけ強かったんちゃうん。

海草 ビッグネームやったんすね。
すげえ。

命懸けで甲子園を目指した
時代がありました。

それを知って迎えた
和歌山大会の開会式。

高校野球100年
母校の創立100年にあたる今年は

戦後70年の節目の年でもあります。

「今年は戦後70年でもあります」

ちょうど高校100年
開会式でも そう言われてて

よう知った話が開会式でされて。

上の年代では有名なんやけど
自分らの代では多分

開会式で知ってたのは
僕らだけちゃうかなって。

高校球児が誰もが憧れる甲子園に
年齢で出れないっていうのは

すごい
はがゆいことだと思いますし

そこの甲子園を狙う権利のある
僕らは すごく幸せだと思います。

大変な時代があったということ。

それは
野球とか戦争だけじゃなしにね

家庭環境でも いろんな環境が

以前より すごいことに
変貌してきてるんでね。

僕らが引き継いできたことが
今後ずっと どんどんどんどん

70周年 80周年と
だんだん薄くなると思うんです。

そういうことがね。
伝えれる人が亡くなるから。

細く長くでも
やっぱり伝えてもらいたいなと

そんなん思いますね。

(掛け声)

今年も向陽高校野球部の
熱い夏が始まりました。

礼!
(一同)お願いします!

(掛け声)

実は 向陽高校の
ユニフォームの袖にある

アルファベットのKの字は
「海草中学」の頭文字。

歴史に翻弄された
野球部の後輩たちは

今 野球が出来る喜びを
かみしめながら

新たな歴史を
築こうとしています。

「幻の甲子園」。
広島商業は準決勝で敗退。

抑えのエースは73年間
右肩と心の傷が癒えませんでした。

そして今年
再び甲子園のマウンドへ。

古い1冊のアルバム。

そこには 昭和17年の
あの夏の記録が残されていました。

きれいに整理された
小さな写真をよく見ると

開会式や試合の模様が
写し出されています。

アルバムを見つめるのは
澤村静雄さん 91歳。

あの夏 ベスト4に進出した
広島商業の一員です。

このアルバムはね
この山本いうのがね これおるね。

この山本が もう亡くなって

いらんようになったから
アルバムがいうて

奥さんが
去年 持ってきてくれたんですよ。

それで 私が引き継いで
今 持っとるわけです。

よう こんなに整理しとるとは
思わなんだ。 びっくりした。

こういうふうに整理するような
男じゃったかなと思ってね。

よう きれいに よう取ってますよ。
皆 こうやって見るのにね。

こういうふうに書いたりしてね。

アルバムの中では 澤村さんも
笑顔で仲間に囲まれています。

古くから野球熱の高い広島は
いくつもの

その中で 古豪 広島商業は

人気 実力ともに
頭1つ抜けた存在でした。

今も学校には
記念碑や優勝旗などが残され

栄光の歴史が語り継がれています。

野球部の創設は明治32年。

春夏合わせて全国制覇は7回。

昭和初期には夏の甲子園で
連覇も成し遂げています。

その広島商業が

昭和17年の全国大会で
いかに戦ったのか。

それを
ベンチから見つめた人がいます。

当時 野球部のマネージャーだった
山本富也さんです。

広商といえば野球と。

もう絶対的な
後援会の力もありますし

伝統もありますし。

♬~「宮島さんの神主が
おみくじ引いて申すには」

♬~「いつも広商が
勝ち勝ち勝ち勝ち」

いうて こうやっとりましたよ。

宮島さんの神主さんに
怒られるんじゃないか

いうぐらいのね
そりゃ~ 特異な応援団でしたよ。

広商野球部は
広島県民にとって特別な存在。

澤村さんも幼い頃から

そのローマ字のユニフォームに
憧れました。

しかし戦時中は 広商も胸の校名を
漢字に変えさせられました。

当時は もう

「たるんどる お前ら」言うて やる。

何がたるんどるんか分からんわね。

じゃけ 結局もう
毛嫌いされとるんですよ。

アメリカのものをやるんだから。

そんな時代に開催された
国が主導した全国大会。

広島商業は
地区予選を順当に勝ち上がり

西中国の代表として
甲子園出場を勝ち取りました。

澤村さんは抑えのエース。

先発投手が打たれ
走者が得点圏に進むと

ライトの澤村さんが
マウンドに立つ。

その継投策が
広商の必勝パターンでした。

(澤村さん)
大抵 広島の野球する時は

ランナーが
セカンド サード行ったら

わしがリリーフで。

ほいじゃけ みんな
自信持っとったわけよね。

いうことで 皆 安心しとった。

あの澤村はね 変化球言うか

巧みにバッターを
処理していくような。

昔はもう
直球1本の豪速球の投手が

一番 評判がよかったですが

澤村は もう
その頃の中学生らしからぬ

技のピッチャーであったように
私は思いますね。 はい。

数々のピンチを救い

チームを甲子園出場に導いた
澤村さん。

しかし 当時の写真は
見るのもつらいと言います。

その時分のね 栄光いうか
ええ時の写真じゃない…。

投げ言われても投げられなんだ

もう 手が上がらんのじゃけ
こうやってね。

澤村さんは 全国大会の10日前
突然 肩に痛みを覚えます。

厳しい環境下で
肩を酷使したからなのか。

得意の変化球を投げ続けた
無理がたたったのか…。

試合に間に合わせようと
病院を探し回り

いろいろな治療を受けました。

しかし 痛みは取れず
右肩には大きなアザが残りました。

大きな不安を抱えたまま甲子園へ。

1回戦 チーム打率3割を誇る
広商打線は猛打爆発。

抑えのエースを
必要としない展開で

北海中学を破ります。

澤村さんが
マウンドに上がったのは

2回戦の仙台一中戦でした。

(澤村さん)
投げいうて投げたら もう

ホームに投げるの
たうんが精一杯じゃもん。

ほいで四球出すしね。

わしが投げたんで 4点ぐらい
やられたんじゃないかなあ。

4点か5点。 こんなもん
四球 ようけ出しよるが…。

ベンチおった時には
ほんま涙が出るんよね。 見よって。

両チーム合わせて
フォアボールが44個。

試合が始まれば
先発した9人以外

交代が認められなかった
特殊なルールが

澤村さんを苦しめます。

屈強な兵士を育てようという
戦争のための甲子園。

平安中学に敗れた準決勝
澤村さんの心にも傷を残しました。

「負けたのはすべて
肩を壊してしまった自分のせいだ」

ほいじゃけ 恐らくね
ええかったら わしがのう。

4対0で勝っとって
4 4になったとしても

4 3ぐらいで
わし投げとるはずよ。 完全に。

(スタッフ)へえ~。
そらそうや。

その時に 平安中学いうのは
試合しとるんじゃ 正月に。

その時のわしの球 ヒット打ったの
1本しかないんじゃけ。

4番の富樫いうんが その
ピッチャーでね よう打ちよった。

それが三遊間へ1本打って

あとは みんな
内野フライ 内野ゴロ。

ほいじゃけ 自信持っとったもん
平安中学は わしゃ。

飲んだ時に。

「わしらもええとこ
行かれとったのに行かれん」

「まあ こらえてくれえや」いうて
言いよりましたな。

(スタッフ)
今 じゃあ 甲子園を思い出すと

楽しかった思い出より…。

戦争のための
甲子園大会が終わると

戦況は日に日に悪化。

召集令状を受け取る年齢が
二十歳から19歳に引き下げられ

広島商業の野球部員も
次々と戦地へ赴きました。

マネージャーを務めていた
山本さんも

学徒出陣で山口県の連隊へ。

澤村さんも通信隊員として
満州に向かったのです。

昭和20年
日本の敗戦の色が強まる中

その威力を試すかのように
アメリカは原子爆弾の使用を決断。

広島に投下された
人類史上最初の原子爆弾。

犠牲者の数は
およそ14万人と推計されています。

澤村さんの両親も

原爆の犠牲になりました。

(澤村さん)原爆で1発よね。

おふくろは即死
おやじは10日ぐらいだったね。

やけどよね 大やけどして

ほいで10日ぐらいたって
もう死人のにおいがするけ言うて

おやじの弟なんですがね。

それが 死人のにおいがするけ
これはもう何だから言うて

水くれ 水くれ言うけ
バケツ1杯 水やったんじゃって

ほいたら死んだいうて。

手なんか
ズルズルじゃったいうてよ。

中入って下から見たら
大きなドームのね 子ども心に。

本当 きれいなかったですよ
これは。

命を捨てる覚悟だった
自分は助かり

守りたかった家族は犠牲に。

悪夢のような時代でした。

澤村さんにとっては
兵士を鍛えるために開かれた

昭和17年の甲子園大会こそが
その始まりのようにも思えます。

このあと
73年ぶりに思い出の地へ。

うわ~ こりゃ~。
こりゃあ うわあ…。

(一同)
ゴーゴーレッツゴー 広商!

広島商業野球部の練習試合。

あの夏 理不尽なルールのもとで

かなえることが出来なかった
広商ナインの夢。

その思いを後輩たちに託す。

この日
久々に応援に出向きました。

澤村です。
もう お元気そうで。

今ですか?

91ですか!?

ほれ見んさいよ 若い…。

まあ あちらのほうで。
はい すいません。

♬~

♬~「宮島さんの神主が
おみくじ引いて申すには」

♬~「いつも広商が
勝ち勝ち勝ち勝ち」

昭和17年の夏 同じこの場所で

夢の甲子園を目指して
練習に励んでいた澤村さん。

ただ たった1つだけ

今の球児たちと
違うことがありました。

すごい すごい。 勝ったんか?

監督の檜山と言います。
澤村です。 どうも。

今日はご苦労さんでした。
いえいえ。

ぜひ グラウンドにと
思ってましたんで。

遅うから来てから あんた…。

はい はい。

今 紹介がありましたね

いいですか?
(部員たち)はい!

ご苦労さんです。 どうも。
(一同)ありがとうございました!

頑張って下さいよ。
(一同)はい!

野球が出来るのが
当たり前じゃない時代の方なんで

自分たちも野球出来るのは

周りの人のサポートなどがあって
出来てるんで

しっかり感謝して
野球で恩返しをしていきたいです。

ピッチャーやのう。

今日 よう投げたがね。

また1つの ええの教えたろか。
はい。

今投げとるのんね
肩に力が入っとる。

ピッチャーはね
主として腰で投げるの。

悔いのない投球をしてほしい。

抑えのエースとして
仲間から信頼されながら

肩を痛めてしまった澤村さん。

エースの体が気にかかります。

ありがとうございます。

はい。

澤村さんを
甲子園に誘ってみました。

もう一度 あのマウンドに
立ってみませんか?

そりゃ プレートそのものには
憧れあるでしょうね。

あるが 半面…。

ここで情けない思いしたんか
いうてなるよ。 あんた 多分。

そら あっこ行ったら
懐かしいじゃろうな。

たまげるじゃろうな わしゃ うん。

ほうやのう…。

73年ぶりに立つ甲子園のマウンド。

どんな思いが
押し寄せるのでしょう。

向こうなんか全然…。
のう。 なかったろう。

73年前
悔しさだけが残った甲子園。

あの時の仲間は
もうほとんど亡くなっています。

澤村さんは
当時一緒に戦った仲間の1人

マネジャーだった
山本さんと一緒に

広島からやって来ました。

これも全然ない。

このツタはあったけね。
うん。

ツタが名物じゃったんだからね。

(澤村さん)
これ まだ覆っとったんやね。

ツタ…。 ええね~。

よいしょ。

(澤村さん)よいしょ。

うわ~ こりゃ~。
こりゃあ うわあ…。 すごい。

こんなに狭かったかいのう?
(山本さん)えっ?

(澤村さん)もうちょっと
広いような気がしたが

こんなに狭かったかいね?

試合になるでしょ。
ほいたら応援がウワー言うでしょ。

何に聞こえる思う?
分からんでしょ?

カエル。 食用ガエルが。

ウオーン ウオーンって
聞こえるわけよ。

本当もう 身震いするよ。

この銀傘がね  これ 戦時中に
のけられたんじゃけね。 この銀傘。

鉄砲の弾にするのに
鉄が足らんから。

この銀傘がなくなったんよ。
全部。

(山本さん)供出言う。

お上に供出される…。

そうやね~。 懐かしい。

あっこは
入らしてもらえんのかいのう?

(スタッフ)行きましょうか。
(澤村さん)行こう 行こうや。

こら いいわ。

73年ぶりの あのマウンド。

パーッいうて投げとるのう。

こうやって…。

いいよ。 ねえ~。

今考えたら あのこまいところに
よう球が行きよったのう思うね。

ああ~。 いいね~。

ほうよ。
みんなに言うとかないけんね。

懐かしゅうなるね。

涙こぼしとんな…。

わしが こやって泣きよったら

今見よるが 皆 笑顔しとるね。

(スタッフ)みんな笑顔ですか?
笑顔しとるね。 歯を出しとるね。

こうやって見て
こっち見て こうね。

じゃけ まあ 何じゃろ。

ええがに
天に昇ってくれとるんじゃろう。

あんたが行ってみよういうて
言うた時に

いや こらえてくれ言うたけど
今来てみたら えかった。

(スタッフ)来るのは嫌やったですか?
うん。

印象があったからね 私の
印象がね。

もう ほんまに惨めな思い
しとったからね。

来てみると それはもう
さっぱり忘れたね。

はい。 もう はあ やめて。
フフフッ…。

(鼻をすする音)

どうか?

涙が出たかいのう? ええ?

あそこへ立ったらね 涙が出た。
涙が出る。 うん。

情けないのとね 懐かしいのとね。
そう そう そう そう。

うわ~ こんなところで
しとったんかいのう思うて

懐かしさが こみ上げてくるがね。

ほいたらね 何やろね。
選手の顔が浮かぶんじゃいのう。

ほいで笑うとったんじゃ みんな。
歯を出して笑うとるんじゃね。

わしもすぐ行くけ…。 うん。

昭和17年。

広島商業が戦ったあの夏の日は
幻ではありませんでした。

(萩谷)終戦から70年。

毎年 途絶えることなく
歴史を重ねてきた

全国高校野球選手権大会。

ここ 甲子園球場で
球児たちが繰り広げる熱い戦いは

すっかり
夏の風物詩となっています。

しかし
中断された時代があったこと

そして 幻と呼ばれた大会で

懸命に白球を追った
選手たちがいたことを

高校野球1世紀にあたって

私たちは今一度
思い返してみるべきだと思います。

♬~

♬~


関連記事