昭和偉人伝 #109「江利チエミ・笠置シヅ子」 社会が大きく様変わりする中で、ブギウギやジャズを大衆音楽に…



『昭和偉人伝 #109「江利チエミ・笠置シヅ子」』の番組情報(EPGから引用)


2018/07/04(水) 
[字]昭和偉人伝 #109「江利チエミ・笠置シヅ子」
パワフルな歌声とリズムで戦後の日本を明るく照らしたブギの女王、笠置シヅ子。笠置に憧れてスターになった天才歌手、江利チエミ。2人の歌姫の栄光と苦難の人生に迫る!
詳細情報
番組内容
日本のポップス歌謡の礎を築いたブギの女王・笠置シヅ子と天才歌手・江利チエミ。社会が大きく様変わりする中で、ブギウギやジャズを大衆音楽にした2人は、まさに時代の申し子。昭和に輝いた2人の歌姫の栄光と苦難の人生に迫る。
松竹楽劇団出身の笠置は、戦前、作曲家・服部良一に見出され、淡谷のり子とともに活躍。秘めた恋を経て、戦後の焼け跡で乳飲み子を抱えた笠置は、生きるためにブギを歌った。 
番組内容2
音楽家と舞台女優を両親に持つ江利は、病気の親に代わり、米軍キャンプ巡りで家計を支えた。天性のリズム感と表現力で一躍スターに。美空ひばり、雪村いづみとの「三人娘」の絶頂期に俳優・高倉健と結婚するが、異父姉の裏切りで多額の借金を負い、離婚。幸せが崩壊していく。
後年、歌と踊りに衰えを自覚して歌手を引退、女優に転じた笠置シヅ子と、最後まで歌手にこだわった江利チエミ。数奇な生涯を送った2人の晩年とは…。 
出演者
【語り】國村隼
【ゲスト】司葉子、中村メイコ、服部克久
初回放送日
2018/7/4
番組概要
国家壊滅の状態から未曾有の成長を遂げた時代・昭和。そこには、時代を先導したリーダーがいた。そんな偉人たちを、独自取材と真実のインタビュー、さらには貴重な映像を交じえてつづる、波乱万丈の偉人伝。
番組ホームページ
<番組ホームページはこちら!>www.bs-asahi.co.jp/ijinden/
制作
BS朝日、JCTV
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昭和偉人伝 #109「江利チエミ・笠置シヅ子」
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  10. 一人



『昭和偉人伝 #109「江利チエミ・笠置シヅ子」』の解析用ソース(番組内容ネタバレ注意!)


それは
日本が育ち盛りの時代でした。

明日は 今日より きっと良くなる。

誰もが そう思っていた。

キラキラと輝いていた彼らが
時を越えて…。

♬~

お元気ですか?

戦後の日本を代表するヒット曲
『テネシー・ワルツ』。

わずか14歳で名曲を歌いこなした
天才歌手 江利チエミが

今宵の偉人。

そして もう一人…。

まだ焼け跡が残る日本で

老いも若きも夢中になった
ブギのリズム…。

『東京ブギウギ』の笠置シヅ子。

敗戦で疲れ切った大衆に
笑顔の明かりをともした

パワフルな歌声と陽気なリズム。

今宵は 人生を懸けて歌い踊った
女性歌手2人

江利チエミ 笠置シヅ子が
駆け抜けた

波乱の生涯に迫る。

江利チエミは
12歳から米軍キャンプで歌い

エリーの愛称で人気者に。

うまい! と思いました。

「どうして あなた そんなに
英語の歌がうまいの?」って

私が感心して聞くと
「キャンプ回ってたから」って。

「カタカナで書いて
覚えたんだよ」って。

舞台女優だった母が

デビュー直前に急死。

悲しみを乗り越えて歌った
『テネシー・ワルツ』が大ヒット。

チエミは 本場アメリカで
感性を磨き 大きく成長する。

♬~(美空)「ランランランラン
ランデブー」

ひばり いづみ チエミの

三人娘で人気沸騰。

映画 テレビ 舞台
ミュージカルへ

活躍の場を広げる。

チエミの前に現れた

編曲家・ピアニスト

内藤法美への熱い恋心。

だが チエミには
強力なライバルがいた。

♬~「あなたの燃える手で」

シャンソンの女王 越路吹雪。

チエミと越路

スター同士が
火花を散らした

恋の行方は…。

笠置シヅ子が
恩師 服部良一と作り上げた

「ブギウギ」の一大ブーム。

その陰に隠された

笠置と若き御曹司との恋。

愛する人の忘れ形見を守るため

笠置は全力で歌い 踊った。

同じ服部良一門下

ブルースの女王 淡谷のり子とは

良きライバル関係。

時には 意見が対立した事も。

そして 笠置は

突然の歌手廃業宣言。

一体 何があったのか…。

一方 江利チエミは
公私共に充実の日々。

その幸せが
音を立てて崩れ始める。

さらに 家族の裏切りが
チエミの心をえぐった。

壮絶な葛藤の末
チエミが出した結論とは…。

色々な事がありまして


姉も ちょっと

相当 参ってたのは
参ってたんですけども。

強かったですね。

だから余計に 1人の時に

相当 寂しかったんだろうなと
思うんですけども。

一生懸命 仕事して
紛らわしてたと思いますね。

ゼロからのスタートで思い知った
歌への熱い思い。

そして 誰も想像しなかった
悲しい最後。

♬~(笠置)「あなたがほほえむ時は
私も楽し」

どんなにつらい現実があっても
舞台に立てば いつも幸せ。

打ちひしがれた人々に
歌声とリズムで笑顔を届けた

江利チエミ 笠置シヅ子。

学ぶべき世界が ここにある。

ボクシングの白井義男選手が

日本人初の
世界チャンピオンとなり

国中を熱狂させた。

この年

サンフランシスコ講和条約が
発効し

日本は
占領軍の統治下から主権を回復。

自らの足で
復興の道を歩み始める。

新しい時代の訪れとともに
一人の歌手の歌声が街に流れた。

江利チエミが歌った
『テネシー・ワルツ』。

チエミは ミュージシャンの父と

舞台女優の母を持ち

劇場の楽屋を遊び場にして育った。

小学生の頃から

米軍キャンプを回って
ジャズを歌うほど

才能に恵まれた少女だった。

♬~「I was dancin'
with my darlin'」

その数年前

アメリカでは
人気歌手 パティ・ペイジが

『テネシー・ワルツ』を
ヒットさせていた。

占領軍の兵隊 GIから

現地のレコードを
手に入れたチエミは

擦り切れるまで 何度も聴き直し

『テネシー・ワルツ』を
体に刻みつけていた。

父 益雄は

チエミの才能を
誰より早く見抜き

レコード会社に
チエミを売り込んだ。

しかし ジャズを歌う10代の少女に
興味を示すレコード会社は

なかなか現れない。

そんな時 チエミは

キングレコードの
ディレクター

和田壽三を紹介された。

レコード会社のテストが
行われたのは 昭和26年の事。

ノンフィクション作家
藤原佑好がまとめた

『江利チエミ物語
~テネシー・ワルツが聴こえる~』に

その時の
和田の印象が書かれている。

和田は チエミの
黒いリボンが気になった。

そして チエミは 和田の前で
『テネシー・ワルツ』を歌い始めた。

♬~「I was waltzing
with my darlin'」

♬~「To the Tennessee waltz」

♬~「When an old friend」

和田は 内心 驚いた。
英語が ピシッとはまっている。

何より この若さで

歌のハートを
ちゃんと つかんでいる。


だが 歌が どれだけうまくても

会社の基準は
あくまで売れるか売れないかだ。

そんな和田には
忘れられない出来事があった。

数年前の事。

和田は
知り合いの映画監督から

歌が抜群にうまい
子役の女の子を紹介され…。

…と 勧められた。

だが その時 和田は
「子供で勝負はしたくない」と

断った経験があったのだが…。

その子役が 美空ひばり。

ひばりは
ライバル会社でデビューし

瞬く間にスターになった。

あの時の後悔を 和田は
繰り返したくなかったのである。

会社は
江利チエミの採用に

難色を示した。

しかし
和田には秘策があった。

英語で歌う洋楽が
大衆にウケないなら

歌の半分は 日本語で歌えばいい。

いわば 和洋折衷にするのだ。

チエミのハートは必ず大衆に届く。

和田は 粘り強く会社を説得した。

和田は チエミに

『テネシー・ワルツ』を
直訳した歌詞を歌わせた。

だが チエミは

「歌に詞が乗らなくて
歌えません」と

涙ながらに訴える。

確かに 音符と歌詞がバラバラだ。

かといって
新たに訳詞を依頼する時間もない。

和田は 乏しい英語力を使い

自分で詞を訳し始めた。

この際 意味は二の次だ。

メロディーに
詞が乗るか 乗らないか

それだけに神経を注いだ。

♬~「思い出 なつかし
あの テネシー・ワルツ」

♬~「今宵も ながれくる」

お互いが10代の頃から

チエミと深い交流のあった女優
中村メイコが

初めて『テネシー・ワルツ』を
聴いた時の事を…。

うまい! と思いました。

これ以上 うまい人は

あの当時の日本には
いなかったと思います。

「どうして あなた そんなに
英語の歌がうまいの?」って

私が感心して聞くと

「うん キャンプ回ってたから」
って

「カタカナで書いて覚えたんだよ」
って…。

それはね 逆に なんにも

だから 音符と歌詞の部分が

一緒になって覚えられるからだと
思います。

タップダンスの第一人者
中野ブラザーズの中野章三は

チエミと
数多くのステージに立ってきた。

チエミが歌った
和洋折衷の『テネシー・ワルツ』は

それまで 洋楽と縁がなかった
大衆にも受け入れられ

40万枚を超える大ヒットとなった。

『テネシー・ワルツ』のヒットは

国際関係にも影響を与えた。

レコーディングから3年後の
昭和29年

サンフランシスコ講和条約の
締結に力を尽くした

アメリカのダレス国務長官が
帰国する際

こんなコメントを残している。

ジャズの魂をハートで理解した
江利チエミの歌声が

数年前まで敵国同士だった
日本とアメリカの

文化の架け橋となった。


デビューシングル
『テネシー・ワルツ』のB面曲

『家へおいでよ』。

スローな『テネシー・ワルツ』と
対照的に

軽快スイングするジャズナンバー。

デビュー早々
スターの座をつかみ

大衆にジャズの魅力を伝えた
江利チエミ。

彼女は どうやって その音楽性を
身につけたのだろうか?

そこには
歌が大好きだった一方で

幼くして家族の生活を
支えなければならない

宿命の日々が
横たわっていた。

淡谷のり子が『別れのブルース』を
歌った昭和12年

江利チエミ
本名 久保智恵美は

東京の下町 入谷で生まれた。

3人の兄がいる末っ子で
誰からも かわいがられた。

父 久保益雄は

ピアノからクラリネット

三味線まで弾きこなす

腕のいいミュージシャンだった。

♬~(歌と三味線)

当時 父 益雄は

都々逸で名を上げた
柳家三亀松の舞台で

都々逸に伴奏をつけていた。

同じ頃 浅草で活躍する歌劇団に

谷崎歳子というスターがいた。

歳子には離婚歴があり
女の子も産んでいたが

その子は 父親に
引き取られたという。

やがて 益雄と歳子は
恋に落ちて結婚。

3男1女に恵まれた。

その末っ子が
チエミである。

チエミが生まれてからも

歳子は生活のため
浅草軽演劇の舞台に立った。

役柄は
自然に母親役が多くなっていた。

母 歳子と同世代で

のちに チエミと
深い縁を結んだ

女優 清川虹子は

当時の歳子を
こう語っている。

チエミは
物心がつく年になっても

仕事へ出る母に
「一緒に連れてって」とせがんだ。

楽屋を遊び場にして育った
チエミは

舞台で流れる
流行歌やジャズを聴き

小さな胸に夢を膨らませていった。

昭和20年8月
長い戦争が終わった。

チエミ一家は
度重なる空襲をくぐり抜け

肩を寄せ合って
暮らしていた。

この時
チエミは まだ8歳。

戦後 母 歳子は
寝込む事が多くなった。

元々 腎臓が弱かった歳子は

チエミを産んだ時に
病状を悪化させていた。

戦時中の無理もたたり
ほとんど寝たきりの状態。

それでも チエミの歌声が

歳子の塞いだ気持ちを
明るくさせた。

そう言い出すチエミを見て

歳子は
自分の若い頃を見ている気がした。

そんな時
思わぬ危機に見舞われる。

父 益雄が
師匠 三亀松に破門され

舞台に
上がれなくなったのだ。

育ち盛りの子供4人に

妻 歳子の薬代もかかる。

父 益雄は
あちこちに頭を下げて回ったが

実入りのいい仕事が見つからない。

そんなある日
友人から声がかかった。

渋谷の料亭で
GI相手のお座敷があるという。

チエミは歌が大好きで
実力も十分にあると

友人に勧められたのだ。

お母様もですけど
お父様がアコーディオン弾いたり

伴奏をしてらした関係で

なんか その…
ステージの裏っていうか

舞台裏で育ったみたいな子
なんですね チエミちゃんって。

だから その流れで
自然に英語の歌も

カタカナで書いたの読んで
うまく歌えるから

ちょっとキャンプへ連れてったら
面白いんじゃないか

っていう事から始まったみたい。

父 益雄の期待どおり

10歳のチエミは

GIから大きな喝采を浴びた。

その時 チエミの歌った曲が…。

昭和23年に 笠置シヅ子の歌で
大ヒットした『東京ブギウギ』。

当時は 老いも若きも
新鮮なブギのリズムに夢中だった。

天才少女と呼ばれた
あの美空ひばりも

笠置に憧れ

『東京ブギウギ』の歌まねで
観客を沸かせていた。

持ち歌ができるまでの間
チエミも ひばりも

笠置シヅ子のブギを歌い
人気を集めたのである。

最初のお座敷で

GIに認められたチエミは

米軍キャンプに
呼ばれるようになった。

ちょうど その頃
江利チエミという芸名がついた。

名付け親は 母の歳子。

その由来を
父 益雄が こう語っている。

チエミの弟 久保益己さんは

芸名がついた いきさつを
こう話す。

進駐軍で歌ってる時に

チエミの母が…

外国人の方にも
わかりやすいようにっていう事で

エリーっていう名前が
いいんじゃないかって事で

江利チエミにしたって事を
聞いております。

今からすると
あの小さな子が… ねえ。

外国人の前で
歌ってるって事自体が

ちょっと
想像がつかないんですけれども。

天才 プラス 努力家ですね。

もう相当な努力家ですね。

父も厳しかったんですね。

ピアノ弾いて
なんか ちょっと出来が悪いと

何回も もう納得するまで
歌っていましたし。

簡単には
妥協する人じゃなかったので。

「エリー! エリー!」と
喝采を浴びながら

チエミは 全国の米軍キャンプを
はしごした。

そこには 別の事情もあった。

その少し前 父 益雄は

右手の指に大怪我を負った。

チエミが着る衣装の
ミシンがけをしていて

つい ウトウト…。

指に ミシン針を刺してしまい

楽器が 思うように
弾けなくなったのである。


父は 音楽家を諦め
チエミのマネジャーに専念。

士官学校帰りで 英語が話せる

兄 亨も付き人になった。

一家の稼ぎが
チエミの小さな肩に のしかかる。

チエミは 父と兄に付き添われ
全国各地の米軍キャンプを回った。

疲れた体を引きずるように
旅から旅へ…。

親子3人にとって
移動する夜汽車が宿代わりだった。

しかし 日本の主権回復が決まり
占領軍の撤退が進むと

キャンプで歌っていたチエミは
稼ぎを失う事になる。

そこで 父 益雄は

チエミを
レコード会社に売り込んだ。

娘をレコード歌手にする事は

母 歳子の願いでもあった。

ようやく キングレコードの
テストが決まり

チエミは
母 歳子に報告した。

だが その数日後…。

母 歳子は腎臓病の悪化に加え
脳溢血で意識を失い

そのまま 帰らぬ人となった。

チエミが キングレコードで
テストを受けたのは

母を亡くした1週間後だった。

髪につけた黒いリボンは
母の死を悼む気持ちの表れ。

あれほど楽しみにしていた

自分のデビューが見せられず

チエミは 母に心からわびた。

デビューの翌年 昭和28年に歌った
『思い出のワルツ』。

中村メイコが語る
当時のチエミの様子。

もう本当にね なんか こう…
ジャングルが似合いそうな

本当に野生児でした。

ただ お母さんをね
早く亡くされてたから

私も まだ その頃 10代の少女で

仕事場に 時々
母が着いてきてたんですね。

「仕事場に
ママなんか着いてきちゃって」。

「何かっていうと
ママ~! とかって言って…」。

「甘ったれ!」とかって
あの人 言うんですよ。

それはね 母に聞いたら
「きっとね うらやましいのよ」。

「あの方も きっと
お母様が欲しいのよ」

って 母が言ってましたけど…。

昭和28年 初めて
アメリカを訪れたチエミは

各地で
一流歌手のステージに触れ

成長して帰国。

そして 永遠のライバルにして親友
美空ひばり 雪村いづみと

交流を深める。

美空ひばりが歌った
『素敵なランデブー』。

昭和30年公開の映画
『ジャンケン娘』の挿入歌で…。

主演は
ひばり チエミ いづみの

人気と実力を兼ね備えた
同い年のスター3人が

無敵のタッグを組み
ファンを大いに沸かせた。

あの方たちの
3人シリーズの音楽は 全部

たまたま 神津善行なんですね。

だから 3人が3人
レッスンに… 別々の日に

みんな忙しいから…
家へ来るわけですよ。

そうするとね
神津がこぼしてましたけど

これは面白い話でね…。

じゃなきゃ 誰が長くても
短くても いけないんですって。

すごい 作曲家としては
苦労したって言ってましたけどね。

美空ひばりは

しっかり者のお姉さんで
リーダー格。

そして…。

雪村いづみは
三人娘の中では妹的存在。

さらに…。

チエミは コミカルな役回りで

いつも 他の2人を笑わせていた。

このキャラクターは

喜劇女優だった母 歳子から
受け継いだもの。

また 女優 司葉子は

映画の撮影所で 三人娘と
よく一緒になったという。

こうして

ひばり チエミ いづみの三人娘は

終生のライバルとして
実力と人気を競い合った。

そんな新しいスターの台頭を

熱いまなざしで見つめる
歌手がいた。

笠置シヅ子。

戦後間もなく
ブギの女王と呼ばれ

ひばりや チエミも憧れた
一流のエンターテイナーである。

笠置が初舞台を踏んだのは
昭和2年 まだ13歳の頃。

戦中 戦後と
時代に翻弄されながら

数奇な歌手人生を過ごしてきた。

そこには
見た目や芸風とは まるで違う

頑固で一途 潔癖な
女の生き様が隠されていた。

大正3年
日本の流行歌第一号と言われる

松井須磨子の
『カチューシャの唄』が誕生。

同じ年 笠置シヅ子
本名 亀井静子は

四国 香川県相生村
現在の東かがわ市で生まれた。

しかし 笠置が生まれて間もなく
父親が病死するという悲劇。

頼みの夫に死なれ
途方に暮れた母は

隣町の実家に笠置を連れて帰った。

ちょうど その頃 実家の近くに

大阪から 出産で里帰りしていた
亀井うめという女性がいた。

お乳の出が悪かった母は
うめに もらい乳を頼んだという。

その縁で うめは
笠置を養女にしたのである。

のちに 笠置本人の証言では…。

笠置の養父母となった
亀井音吉 うめ夫妻は

大阪 梅田に近い 下福島で暮らし
のちに銭湯を開いた。

芸事が好きだった両親は

笠置に 幼い頃から
日舞や三味線を習わせる。

笠置は
銭湯の脱衣所を舞台代わりに

歌や踊りを披露して
近所の評判を呼んだ。

これが エンターテイナー
笠置シヅ子の原点となる。

♬~「うるわしの思い出
モン巴里 我が巴里」

小学校を卒業した笠置は

華やかな舞台に憧れて
宝塚音楽学校を受験。

ところが 最後の身体検査で
身長が足らずに不合格となる。

思いもよらぬ挫折だった。

その頃 大阪には
宝塚の成功に刺激を受け

松竹楽劇部という
新たな少女歌劇が生まれていた。


宝塚から大阪へ戻るなり
笠置は その足で

松竹楽劇部へ飛び込んだ。

笠置は
宝塚に落とされた悔しさを

必死に訴えた。

どうしても
宝塚を見返してやりたい。

どんなつらい稽古でも
辛抱する。

あまりの強引さに
応対した松竹の音楽部長は…。

笠置の愛娘 亀井ヱイ子さんは

母親が
宝塚の演出家と交わした会話を

こう明かす。

最初に付けた芸名は 三笠静子。

体の小さかった笠置は
人一倍努力した。

いつ 代役に抜擢されてもいいよう
全ての役のセリフと歌を

頭に入れていたという。

その努力は 次第に認められる。

松竹楽劇部の
テーマソングとして歌われた

『桜咲く国』。

ここでは 若き日の笠置が
メインボーカルを務めている。

笠置は 入団5年目に行われた

『春のおどり』で注目を浴び

看板スターに成長した。

昭和10年 皇室が
三笠宮家を創設したのを機に

宮様と同じ名を名乗るのは
恐れ多いと

三笠静子から
笠置シズ子に改名した。

当時
松竹は東京にも歌劇団を持ち

男装の麗人 水の江瀧子が

少女たちの憧れの的だった。

笠置も 度々 東京公演に参加。

パワフルでリズミカルな
笠置の歌と踊りが

東京側スタッフの目に留まり…。

昭和13年 新たに設立された
松竹楽劇団 SGDの

トップスターに抜擢。

東京進出を果たした。

この時 笠置シヅ子 23歳

東京では
人生最大の出会いが待っていた。

笠置シヅ子が
松竹楽劇団SGD時代に発表した

デビューシングル 『ラッパと娘』。

SGDの本拠地となったのは
日比谷にある 帝国劇場。

この劇団は
それまでの少女歌劇と違い

大人のレビューを目指す

男女混成の歌劇団だった。

トップスターの一人として

大阪から乗り込んできた

笠置シヅ子。

彼女は そこで
副指揮者の服部良一と出会う。

服部良一は
ジャズ出身の新進作曲家。

淡谷のり子のヒット曲

『雨のブルース』や
『別れのブルース』で

注目を集めていた。

服部は
大阪から来た笠置の前評判を聞き

どんなスターが現れるかと
対面を楽しみにしていた。

ところが…。

服部は 少々驚き 落胆した。

だが そのあと 舞台稽古で
笠置を見た時の驚きは…。

服部良一の長男で

作曲家の服部克久が

父親から聞いた
笠置シヅ子との出会い…。

服部に
厳しい指導を受け

笠置は 歌と踊りに
磨きをかける。

松竹楽劇団時代の笠置は
スイングの女王と絶賛された。

だが この時期には
つらく悲しい出来事が続いた。

笠置を引き取り 育ててくれた
養母 うめは

笠置が東京に拠点を移した翌年

心臓病で他界した。

また 戦争の拡大は
笠置の運命も大きく変えた。

ジャズや洋楽は
敵性音楽と見なされ

当局から
発売禁止の処分が下される。

スイングの女王 笠置シヅ子は

敵性音楽を歌う歌手の
代表格と見なされ

警察に呼び出された。

笠置の大きな声と
派手な動きがいけないらしい。

「マイクの前で

三尺四方 およそ90センチ四方から
はみ出してはいけない」と

警察に釘を刺されたという。

さらに 笠置は警察から
理不尽な命令を受けたと

恩師 服部良一に
訴えている。

この頃 同じ服部の門下生で
ブルースの女王 淡谷のり子も

持ち歌が次々と発売禁止にされ

派手な化粧とドレスが

「この非常時に 贅沢は敵だ」と

激しい突き上げを食らっていた。

その時
淡谷は こう言い返したという。

だが 誰もが淡谷ほど
突っ張りきれるものではない。

笠置は 自慢の付けまつ毛を取り
おとなしく当局の命令に従った。

昭和16年
太平洋戦争が開戦した年に

松竹楽劇団 SGDは

結成から わずか3年で解散。

敵性音楽の歌い手と

烙印を押された笠置は

このあと

長く 暗黒の時代を
過ごす事になる。

活躍の場を失った笠置シヅ子は

地方巡業や慰問に
回るようになる。

この時
持ち歌がない笠置のために

服部は 南国ムードあふれる
『アイレ可愛や』を提供した。

笠置と共演した経験を持つ
中村メイコは…。

♬~「アイレ可愛や 村娘」

っていう 変なおばさん。

「どういう人なんだ この人は」と
思って びっくりしたり…。

でもね チャーミングでしたよ。

♬~「アイレー アイヤラレー」

♬~「アイレー アイレーエ
アイヤラレー」

なんの歌なんだ これは
どこの国の歌なんだと思って

子供心に 私は
非常に興味を持ったんですね。

歌や動きが制限され
気持ちが落ち込んでいた頃

笠置は 運命の出会いを果たす。

名古屋の劇場で

「あなたのファンです」と言う
一人の青年。

名を 吉本穎右と名乗った。

今や お笑い界を席巻する
吉本興業の創業者

吉本せいの御曹司である。

穎右は 当時 早稲田大学の学生で
まだ二十歳。

笠置のほうが 9歳年上だった。

笠置の愛娘 ヱイ子さんが
母から聞いた 両親の出会い…。

その後
戦況は悪化の一途をたどる。

サイパン陥落の知らせが届き

誰もが皆 明日をも知れぬ命と
覚悟を決めた。

笠置と穎右も

死と隣り合わせの中で
結婚を誓い合う。

ところが 年上の歌手との恋愛を

吉本の実家は許そうとしなかった。

それでも 2人きりで

肩を寄せ合って暮らした
この時期を

笠置は 「わが生涯 最良の日々」と
呼んでいる。


長かった戦争が ようやく終わり

街には
軍歌以外の音楽が流れ始めた。

そして 笠置のおなかに

小さな命が宿っていた。

子供ができたとわかり

笠置は歌手を辞めて
家庭に入る決意をした。

吉本家の態度も和らぎ

2人の結婚は 認められる方向に
動き出していた。

ところが…。

笠置と将来を誓い合った
吉本穎右は

持病の結核が悪化し
大阪の実家に戻っていたが

昭和22年 24歳の若さで
この世を去った。

その時 臨月を迎えていた笠置は
東京で静養していた。

そこへ 吉本家から使いが現れ

穎右の死と 彼の遺言を伝えた。

初めての出産を
たった一人で迎えた笠置。

残してあった穎右の浴衣を
壁に掛けた。

それを見るだけで
心が落ち着いた。

♬~

その数日後 笠置は
穎右の浴衣を抱きしめながら

産みの苦しみに耐えた。

穎右の残り香に包まれ
笠置は

決して 一人でお産をする気が
しなかったという。

やがて 元気な女の子が誕生した。

笠置は 穎右の遺言どおり

「ヱイ子」と名付けた。

ですから…。

吉本の家から
援助の申し出もあったが

笠置は 一人で
ヱイ子を育てる決心をした。

そのためには もう一度
舞台に上がらなければ…。

この窮地から
親子を救ってくれる人は

恩師 服部良一以外
思い浮かばなかった。

そんな笠置の決意が

日本の戦後を
明るく照らす事になる。

戦後 日本の大衆を元気づけた
陽気な歌とリズム。

笠置シヅ子の『東京ブギウギ』。

この歌が世に出る1年前の
昭和22年。

最愛の夫を失い 乳飲み子を抱えた
笠置シヅ子は

恩師 服部良一を訪ねた。

笠置の期待に応えようと
思いを巡らせていた服部は

ある時 満員電車の車内で
レールを走る電車の振動に

ふと ブギのリズムを感じた。

作曲家 服部克久が
父 良一から聞いた

『東京ブギウギ』誕生秘話。

あの…。
♬~(ピアノ)

ダーッと こう…。

レコーディングでも
ひと悶着 起きた。

何やら 面白い事があると
聞きつけたGIたちが

スタジオに
勝手に入り込んできたのだ。

占領軍を
追い返すわけにもいかない。

こうなったら 本場のGIを
驚かしてやろう。

笠置と服部は 腹をくくった。
すると…。

レコーディングが終わり
オーケーのサインが出た途端

GIたちは 歓声を上げ
笠置と服部に握手を求めた。

『東京ブギウギ』は
GIはもとより

日本の大衆にも
熱狂的に受け入れられた。

敗戦の悲しみに沈んでいた人々は

心がウキウキして
明日への力がみなぎる

こんな曲を待っていたのだ。

それは 笠置にとっても
待ち望んだ歌だった。

みんな きれいな声で
こうやって美しく歌う歌手が

日本の歌手でしたから。

それを いきなり
笠置シヅ子さんが

ああいう感じで
お歌いになったから…。

っていう… みんなね
びっくりしたんだと思いますね。

でも いち早く覚えて
一緒に歌ってました。

こうして 『東京ブギウギ』で
再起を果たした笠置は

恩師 服部良一と共に
次々に ヒット曲を世に送り出す。

昭和23年の『ヘイヘイブギー』は

「ラッキーカムカム」の
流行語を生んだ。 そして…。

昭和23年の『ジャングル・ブギー』。

笠置は 野獣のように
バイタリティーあふれる叫び声で

ファンを驚かせた。

続いて…。

映画『銀座カンカン娘』に
笠置は 高峰秀子と共に主演。

映画では 主題歌も歌った。

さらに ブギウギブームの中で
異色のヒット曲が飛び出す。

昭和25年 人々の度肝を抜いた
ヒット曲 『買い物ブギー』。

関西弁の日常会話が
巧みに盛り込まれ

笠置シヅ子のキャラクターを
最大限に生かした

コミックソング。

作詞の村雨まさをは

作曲家 服部良一の
ペンネームである。

ブギウギのヒット曲を
次々に繰り出す笠置シヅ子を

人々は ブギの女王と呼んだ。

その活躍の裏で
笠置は 必死に子育てをしていた。

恩師 服部良一は その様子を
自伝に書き残している。

赤ん坊を抱えながら
舞台を務める笠置の姿は

人々の共感を呼んだ。

特に
終戦直後の混乱の直撃を受け

生きるために
夜の街で働いていた女性たちも

笠置を応援したという。

応援歌ですよね。
だから 『リンゴの唄』が

まず 最初の戦争に負けた
どん底の日本の応援歌で始まって

その次 バーン! と
ブギウギがきたんですよね。

と思いますよ 本当に。

最愛の夫が残してくれた
忘れ形見。

娘を育てるために
必死で 歌い踊った笠置シヅ子。

そのエネルギーと
バイタリティーが

日本中の人々に
生きる力を与えたのである。

一方 江利チエミも
赤ん坊の頃から

劇場の楽屋で 歌や客席の歓声を
聞きながら育った。

チエミが『テネシー・ワルツ』で
世に出たあと

昭和の歌謡史は 大きく動き

新たな時代が幕を開けていた。

江利チエミが

長谷川町子原作の
『サザエさん』を

映画で
初めて演じたのは

昭和31年の事。

サザエさんの夫は
チエミの父と同じ名のマスオ。

磯野家が まるで
自分の家族のように思えた。

チエミは 映画の他

舞台やテレビでも
サザエさんを演じ

生涯の当たり役となり

コメディ女優の才能が花開いた。

様々なジャンルに
活躍の場を広げた江利チエミ。

音楽でも
ジャズやラテンなどの洋楽の他に

新たなレパートリーを手に入れた。

昭和33年発売 『さのさ』。

端唄として 明治時代から

庶民にうたわれてきたサノサを

チエミは
独特の節回しで粋に歌った。

三味線が達者だった
父 益雄の影響も大きかった。

サノサを
チエミのためにアレンジしたのは

ピアニスト・編曲家の内藤法美。

内藤は チエミの
バックバンドの一員だった。

当時

江利チエミや内藤法美と一緒に
ツアーを回っていた

タップダンサー 中野章三は…。

チエミの良さを知り抜いた上で
新たな魅力を引き出した

内藤法美のアレンジ。

音楽家として尊敬すると同時に

チエミは 8歳年上の内藤に
深く思いを寄せていった。

チエミの母親代わりだった

女優 清川虹子が

のちに こんな思い出話を語った。

だが その頃 すでに内藤法美は

ひそかに愛を育んでいた。

越路も
曲のアレンジを

内藤に頼んでいた。

当時 越路は
30代半ばの女盛り。

二十歳を過ぎたチエミより
ひと回り以上年上の

大人の女性だった。

そして チエミは失恋…。

あの人 惚れると
こうなる人ですからね。

でも 越路さんと内藤さんが
結婚して よかったですよ。

じゃなかったら
メッタメタ言ったと思う。

あんな歌の下手な奴と結婚して
とかって…。

ちょうど その頃

チエミに好意を寄せる男性が
現れた。

俳優 高倉健。

なんでも相談に乗っていた
清川虹子は

ある日
チエミに こんな事を言った。

昭和34年
江利チエミは高倉健と結婚。

くしくも 同じ年

越路吹雪と内藤法美も
夫婦の誓いを立てたのである。

翌 昭和35年には

チエミの付き人を
長く務めていた女性で

チエミ自身も
「多紀ねえちゃん」と慕い

家族同然に付き合ってきた
今西多紀子が

チエミの父 益雄と
再婚する事になった。

その翌年には
父 益雄と多紀子との間に

弟 益己が誕生。

大切な家族が次々に増え

久保家は幸せな笑い声に包まれた。

私の母が 元々 ずっと

姉に付いて ずっと回っていたので
まあ…。

…って事を
姉が言ってたんですけども。

私はホント あの…

よくかわいがって頂きましたね。

もう お年玉も
別個に内緒で くれたりとか。

年に一度 年末に
私の友達も集めて

清川先生とかも
来るんですけども

餅つき やってくれたりとか。

もう ずっと恒例で
やってたりとか。

江利チエミ 昭和39年のヒット曲

『新妻に捧げる歌』。

作詞作曲は
チエミと親交が深かった

中村メイコ 神津善行夫妻。

母親を早くに亡くし

温かい家庭に憧れていた
チエミは

事前に出演を約束した仕事を
終わらせると

専業主婦になったのである。

江利チエミが
大きな転機を迎えていた頃

笠置シヅ子も また
人生の岐路に立っていた。

そして 周囲が予想もしない
重大な決断を下した。

昭和27年
美空ひばりの『お祭りマンボ』。

戦後のブギウギブームと
入れ替わるように

次に流行したのはマンボ。

ひばりの『お祭りマンボ』も
時流に乗り大ヒットした。

笠置は 服部良一作曲の

『ジャンケン・マンボ』を歌った。

ブギウギ時代の人気は

次第に下火になっていたが

笠置は家族を守るため
歌い続けた。

その頃 新人女優 司葉子が

映画デビューにあたり

笠置の家に間借りする事になった。

娘の映画界入りを心配した

司の家族を安心させるため

映画会社が
厳しいしつけで知られる笠置に

司を預けたのである。

笠置は はじけて踊る姿から
想像できないほど生真面目で

自分にも他人にも厳しい性格。

だが そんな笠置を戦慄させる
事件が起きる。

昭和29年3月31日の早朝

笠置の家に
金を無心する電話がかかった。

笠置は 血の気が引く思いがした。

犯人は 数日後 指定した場所に
金を取りに来たところを

あっけなく逮捕された。

しかし 母親の一番の弱みを
突かれた笠置は

スターである事の恐ろしさを
痛感した。

この頃 笠置は40代を迎えていた。

以前のように 舞台狭しと
飛び跳ねながら歌う事は

もう難しい。

また
戦前からの盟友 淡谷のり子は

笠置の不自然な発声や
オーバーなジェスチャーが

歌手寿命を短くすると
厳しく指摘。

それは 笠置のためを思っての
苦言だった。

さらに ひばり チエミ いづみの

三人娘ら 若手スターも台頭。

もう 自分の時代でない事は
当人が一番よくわかっていた。

昭和31年発売
『たよりにしてまっせ』。

軽快なラテンのリズムと
関西弁のぼやきが ミスマッチ。

作曲は もちろん服部良一。

このシングルを発売した
翌 昭和32年

笠置は ある決意を公にした。
それは…。

笠置は

…と 明らかにしたのである。

笠置は 歌手を辞める事を
恩師 服部にも相談せず

自分一人で決めた。

服部は

…と 叱ったという。

歌というものは
歌手が歌わなければ

この世から消える。

しかし 恩師に叱られても
笠置は意思を曲げなかった。

歌手廃業を公表したあと

笠置は 映画会社や放送局を回り
こう伝えた。

笠置シヅ子さんについて

人間的な面で
一番 私が感動するのは

ブギウギ時代が去ってしまって
それから あと

まだまだ テレビの…
おばさんの役とか

本当に ちょい役をなさってた頃に
みんなが

…とか ファンの方が言う事も
あったんですって。

そしたら あの調子で…。

と思いました。

私の周りにいる
芸能人芸能人したスターにはね

見えない根性っていうか…。

と思いましたね。

歌手を辞めた年
娘 ヱイ子はまだ10歳。

スター歌手として
太く短く生きるより

娘が大きくなるまで

脇役の女優として
細く長く生きる道を選んだ。

それが 亡き夫に
娘を守ると誓った

笠置シヅ子の生き方なのである。

昭和35年の『八木節』。

結婚を機に
歌手を引退したチエミだったが

家庭に閉じこもる生活には
無理があった。

家族と話し合いを繰り返し
歌手復帰を決めたのである。

復帰したチエミは

以前にも増して
精力的に仕事を引き受けた。

昭和39年には

ミュージカル
『マイ・フェア・レディ』に初挑戦。

その時 目標にした人物が…。

日本のショービジネス界の
先頭を走る越路吹雪。

チエミは
越路の背中を懸命に追いかけた。

また 夫 内藤法美との
夫婦仲の良さも

チエミの目標となった。

そんなある日

チエミの元を
一人の女性が訪ねてきた。

彼女の顔を見て
チエミはハッとした。

14歳で死に別れた母 歳子に

生き写しだったのである。

その女性は 母 歳子が

チエミの父と出会う前に
産んだ姉で

名前を よ志子といった。

チエミは
亡き母に会えたような気がした。

それまで
2人に接点はなかったが

よ志子は 新聞記事で
江利チエミの母親が

女優 谷崎歳子だと知り

チエミとの関係に気づいて
名乗り出たのである。

よ志子は 夫と離婚して
苦労しているらしい。

その境遇に同情したチエミは

よ志子を姉と認め
一緒に暮らす事にした。

当時 同じ舞台に出ていた
タップダンサー 中野章三は…。

だが このあとチエミは

まるで 悪夢が続くように
次々と悲しい出来事に見舞われる。

昭和45年1月の夜 自宅から出火。

火は およそ1時間後に
消し止められたが

自宅は全焼。

チエミは
仕事先から帰る途中で

火事の知らせを聞いた。

幸い 家にいた家族は
無事だったものの

愛犬2匹が命を落とした。
そして…。

チエミが
米軍キャンプを回っていた頃から

マネジャーとして
チエミに寄り添ってきた兄 亨が

火事の翌年 脳溢血で急死。

まだ 42歳の若さだった。

お母様 早く亡くされた人だから

お父さんも
すごいかわいがってて…。

昔は ずっと現場もついてて
すぐ上のお兄さんが。

「あんちゃん あんちゃん」って
言って。

ずっと お兄さんが もう本当に…。

兄妹でも よく男の人に あんな…

「ちょっとブラジャー取って」
とかって

「後ろ留めて」とかって言える。

私 一人っ子だから…。

よく兄妹とはいえ

大人になったのに
あんな事できるなと思うほど

仲良かったですね。

自宅を失い
さらに兄まで奪われたチエミ。

だが このあと
より深い悲劇が襲う。

兄 亨が亡くなったあと

兄が管理していた
チエミの預金通帳や実印は

姉 よ志子が引き継いだ。

ところが…。

ある日 銀行の担当者から
不思議な電話があった。

預金の残高不足で

必要な経費が
落とせないというのだ。

おかしい…。

銀行には
十分なお金があるはずなのに…。

調べてみると

おかしな事が
次々と明るみに出る。

大切にしていた宝石類も
見当たらない。

知らない間に

チエミ名義の
実家の土地を担保に

数千万円の金が借り出されていた。

実印を使って
無断で預金を引き出し

家にあった宝石
貴金属類を勝手に処分し

不動産を抵当に金を借り
手形を振り出したのも

全ては 姉 よ志子の仕業だった。

同じ母親から生まれたのに

全く境遇の違う
妹 チエミに嫉妬した

計画的な犯行だった。

よ志子がチエミに負わせた借金は

およそ2億円とも3億円とも
言われている。

チエミは
全ての責任を一人で背負い

高倉健とも離婚。

昭和46年 秋の事だった。

江利チエミの
『ひとり泣く夜のワルツ』。

多額の借金を背負ったチエミは

一人
ワンルームマンションで暮らし

仕事に打ち込みながら
借金を返し続ける道を選んだ。

チエミの弟 久保益己さんは

当時の事を…。

姉も 相当参ってたのは
参ってたんですけども

がむしゃらに働いて
1円でも多く稼いで返す

っていう事でやってました。

だから 余計に 一人の時に

相当寂しかったんだろうなと
思うんですけども

一生懸命 仕事して
紛らわしていたと思いますね。

ちょうどその頃

『サザエさん』の原作者
長谷川町子から

チエミの元に

こんなはがきが届いた。

多忙な長谷川町子が
傷心のチエミを慰めるため

時間を割いてくれた。

多くの友人に愛されながら
再出発を果たした江利チエミ。

しかし 運命は なぜか

この歌姫に
試練の手を緩めようとしなかった。

昭和46年発売
江利チエミ 『旅立つ朝』。

歌手生活20周年を記念し

『翼をください』の作曲家
村井邦彦と組み

ニューミュージックの
サウンドを取り入れた意欲作。

ゼロからスタートを切った
チエミが

こんな言葉を語っている。

当たり役となった舞台
『サザエさん』の他

ミュージカルや
テレビドラマに出演。

クイズ番組の司会など
新しい仕事も手掛けた。

依頼があれば
どんな小さな町にでも飛んでいく

忙しい毎日。

実家がある所から
ほんの2~3分の所に

しばらく住んでたんですよ。

やはり 一緒にいて

常に 父親に
心配な顔を見せられなくて

常に強いチエミを見せるのが 相当…

心休まる所がなかったと思うので
それでもって

一緒には暮らせてなかったと
思います。

もう とにかく 全て

父親を心配させたくないっていう
一心だと思いますね。

狭いワンルームマンションで
チエミは一人

人生を見つめ直していたのかも
しれない。

その頃 深く印象に残るヒット曲が
生まれた。

昭和49年の『酒場にて』。

有線放送から火が付き

チエミにとって
久々のヒット曲になった。

昭和55年 チエミの
歌手生活30周年記念公演で

ロサンゼルス
サンフランシスコを皮切りに

日本全国を縦断。

『テネシー・ワルツ』から
『さのさ』『酒場にて』を含む

全30曲を歌いきった。

チエミは精力的に仕事を続け
借金は着実に減った。

金融業者に渡った
実家の抵当権が外れ

愛する家族の大切なすみかを
取り戻す事にも成功。

総額 数億円に上る債務を
チエミは 1人で返済した。

裏切りと つらい別れ。

いわれなき借金を背負っても
チエミは

まるで贖罪を果たすかのように
現実と向き合い 試練を乗り越え

ようやく
なだらかな地平に たどり着いた。

ごく普通に一日が終わり

じゃあ また明日と
さよならした夜。

それが チエミとの別れになると
誰が想像できたろう。

あまりに早すぎる最期だった。

大好きな父と 私の母も

亡くなっていってるので…。

あと お兄さんも 全部…

もう みんな 家族 逝ってて。

まあ 私が
残ってるだけなんですけども。

と それ 聞きたいですね。

で ジャズを歌わせたり…

スキャットっていうのが
あるんですけど

ああいうのでは 右に出る人は
いないでしょう もう。

チエミが亡くなった3日後

2月16日に 密葬が行われ

チエミの棺が
愛着のある実家を後にした。

その日は
かつての夫 高倉健の誕生日。

江利チエミ 歌の神様に愛された
時代の申し子は

母の待つ天国へ
急ぎ足で旅立った。

時代に愛された名曲

『東京ブギウギ』。

八代亜紀を始め
次の世代の歌手たちに

今もカバーされている。

昭和40年代には

懐かしのメロディー
懐メロブームが起こり

長く活躍するベテラン歌手に
スポットが当たった。

しかし 笠置シヅ子は
度重なる出演依頼を断り続けた。

その徹底した姿勢に

かつて笠置を叱った恩師
服部良一も

こんな言葉を残している。

笠置シヅ子は 歌手廃業のあと

関西弁を操る
ユニークなキャラクターとして

女優 タレント業で活躍した。

かつて 笠置の歌に苦言を呈した
淡谷のり子も

「すっかり お母さん女優が
板についたわね」と

笠木を褒めたという。

ええ。 で あの… まあ…。

家庭では
愛娘 ヱイ子の成長を見守り

口うるさく
厳しい母親であり続けた。

笠置は 次第に女優 タレントの
仕事も減らしてゆく。

これまでも 笠置は常に
けじめをつけながら生きてきた。

笠置のつけたけじめの
最たるものが

生涯 吉本穎右への愛を貫いた事。

笠置さんって だから あの…

お嬢ちゃんのね
お父さんの方とは

本当に はたが見てても
「え~っ!?」と思うぐらいの

もう 本当に 惚れに惚れ抜いた
男の人だったんですよね。

だから そういう人に早く死なれて
で 一人娘を抱えて

もう どっちかって言えば
笠置さんじゃなかったら

お涙ものの母ものだったと
思うんですね 人生は。

それを ああいう明るさで
切り抜けたってのは

素敵ですよねえ。

戦後日本に衝撃を与えた
エンターテイナー 笠置シヅ子。

その根っこにあったのは
一人の男に惚れ抜き

娘に愛情を注いだ
母親の姿だった。

昭和60年3月30日
卵巣がんのため逝去。

享年70。

ただ…。

♬~「東京ブギウギ」

戦後の焼け跡で
抜け殻のようになった

男たちを尻目に

女性は たくましく前を向いて
歩き出した。

愛する家族を守るため
懸命に歌い 踊り続けた

江利チエミと笠置シヅ子。

二人のひた向きな姿と歌声が

傷ついた人々を勇気づけ
再び立ち上がる力を与えた。

彼女たちの歌声がなければ

繁栄する今の日本は
なかったかもしれない。

その歌声は 今もなお

私たちの心の中で
鳴り響いている。

♬~「リズムウキウキ
心ズキズキ ワクワク」


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