英雄たちの選択 琉球スペシャル第2弾 辺境の声を聞け!探検家・笹森儀助の挑戦 赤坂憲雄、角幡唯介、飯田泰之


『英雄たちの選択 琉球スペシャル第2弾▽辺境の声を聞け!探検家・笹森儀助の挑戦』の番組情報(EPGから引用)


2018/07/26(木) 
英雄たちの選択 琉球スペシャル第2弾▽辺境の声を聞け!探検家・笹森儀助の挑戦[字]
明治12年琉球藩は廃止され、沖縄県が誕生する。しかし、人々は、重い税と風土病に苦しんでいた。探検家・笹森儀助は、沖縄の島々をめぐり、その窮状を世に訴えた。
詳細情報
番組内容
探検家・笹森儀助は、青森県弘前の士族の家に生まれた。日本中を旅行し、北海道の千島探検の記録を出版して、天皇に奏上されるほど評価を得た。これを契機に、時の内務大臣から、沖縄の調査を依頼され、沖縄探検に出発する。ハブとマラリアの地への決死の思いの旅だった。ところが、現地で、笹森が眼にしたものは、厳しい自然だけでなく、人頭税という重い税に苦しむ人々の姿だった。探検家・笹森儀助の苦悩に迫る。
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】赤坂憲雄,角幡唯介,飯田泰之,【語り】松重豊
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英雄たちの選択 琉球スペシャル第2弾 辺境の声を聞け!探検家・笹森儀助の挑戦
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  2. 沖縄
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  9. 探検
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『英雄たちの選択 琉球スペシャル第2弾▽辺境の声を聞け!探検家・笹森儀助の挑戦』の解析用ソース(番組内容ネタバレ注意!)


沖縄県石垣島 最北端の岬。

最北です。
石垣島の一番北 平久保崎。

はあ~ すご~い! 海きれい!

かつて この岬は あまりにも遠く
生きて帰れないといわれた。

明治時代 ここ 沖縄は

日本の近代化の波から
取り残されていた。

ところが 明治26年

沖縄の島々を一人訪れ
つぶさに調査した男がいた。

着物の裾を まくり上げ

腰には うちわ。

こうもり傘を差した
奇妙な いでたちの この男

青森県出身の…

笹森が 実際に
沖縄に持っていったという

短刀が残されている。

笹森は 道なき道を切り開き
命懸けの踏破に挑んだ。

行く手を阻む ヤマビル。

マラリア感染の恐怖。

探検の目的は 南の島での
砂糖増産の可能性を探る事。

政府じきじきの依頼だった。

だが その途中 笹森は

沖縄が抱えた
大きな問題に直面する。

笹森は 一体 何を見たのか?

これ 何でしょう? これ。

政府によって
過酷な生活を強いられている

島の人々との出会い。

笹森は 半年に及ぶ探検を
克明に記した

ルポルタージュを発表する。

それは 近代日本に
衝撃を与えた。

現代の気鋭の専門家たちは
笹森の行動を どう読み解くのか。

大衆的なものに
迎合しないぞっていうような

何か アンチテーゼ性というか。

探検家 笹森儀助。

その瞳に 沖縄 そして 近代日本は
どのように映ったのか?

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

今回は 先週に引き続き

「琉球スペシャル」第2弾で
お送りしていきます。  琉球です。

舞台となるのは 日本が
近代国家に向けて邁進した

明治時代です。
1893年 明治26年に

奄美大島から沖縄を 半年かけて
調査した人物がいたんです。

それが
こちらの笹森儀助です。

笹森は 沖縄の島々を
この格好で調査しました。

笹森 身長が
5尺余りという事で

1メートル50センチぐらい
なんですよね。

私 170で 普通なんですけど
意外に小柄ですね。

当時の身長

江戸時代 終わったばっかりで
160センチぐらいですから


その当時の平均からしても
10センチぐらい低いかもしれない。

今回 「西郷どん」のストーリーの
裏ストーリーともいえるんですね。

明治時代の置かれてた 沖縄とか

まあ 奄美も似たような状況が
ある訳ですけど

黒砂糖地獄っていうのが
今 「西郷どん」でね

放送されたと思いますけど。

今日は ちょっと
その前の話をするんですけどね。

笹森はですね
沖縄を調査したのは

琉球処分 つまり
日本に琉球王国が組み込まれて

沖縄県が設置されてから
約14年後の事なんですよね。

今日の沖縄を考える上でも
非常に重要な事だろうと

いう事なんですね。
これは面白いですよ。

まずは 笹森儀助とは
どんな人物だったのか

ご覧頂きます。

奇っ怪な格好で
誇らしげにカメラを見つめる男。

今から125年前

単身 沖縄の探検に赴いた
笹森儀助。

彼は 一体 何者か?

笹森儀助を研究する
松田修一さん。

笹森は 単なる探検家ではなく

日本という国のありようを
鋭く見つめた人物だという。

弘化2年 笹森儀助は
弘前藩士の息子として

現在の青森県弘前市に生まれた。

時は幕末。

津軽海峡に
多くの異国船が襲来し

北の海は 緊張に包まれていた。

慶応3年 国防に危機を感じた
22歳の若き笹森は

ある事件を引き起こす。

藩主 津軽承昭の机に
国政改革の提言書を置くという

大胆な行動に出たのだ。

その結果 笹森は
家禄の3分の2を削られ

自宅での無期禁錮という
厳罰に処せられてしまう。

翌慶応4年 明治維新。

260年続いた江戸時代は
終えんした。

明治3年に
ようやく謹慎を解かれた笹森は

無念を晴らすかのように
行動を起こす。

青森県の役人となった笹森は

本州最北端 下北半島の
行政を担当した。

当時の下北半島には
戊辰戦争に敗れた

多くの会津藩の人々が
集団移住し

斗南藩として再出発した。

慣れない農業と
過酷な北の自然を前に

死者が続出していた。

彼らの現実を目の当たりにした
笹森は 次のように語っている。

「百聞は一見にしかずとは
まことである。

私は 大いに 愚かさを悟った」。

その後 笹森は 役人を辞して
郷里 弘前に戻り

岩木山麓の高原の開墾にあたる。


明治15年 農牧社と名付けた
洋式牧場を開いた。

笹森は
困窮した武士たちの受け皿を

自らの手で作ろうと奔走する。

このころ 笹森が
最も期待を寄せていたのは

日本の政治だった。

明治23年11月
第一回帝国議会が開かれた。

日本で初めての議会に
笹森は 胸を躍らせ

一日も欠かさず傍聴した。

ところが 笹森が目にしたのは

議員たちが 国のためどころか
党利党略に励む姿。

笹森は 政治家に 大いに失望する。

そして…。

「民間の実況と

国力の実際を確かめるという
宿志を達するため

70日間の貧乏旅行をなすに至る」。

かくして 笹森は 旅に出た。

明治24年 西日本の各地で

農業や産業の実情を
聞き取り調査する。

足の皮がめくれ うみが出るほどに
ひたすら歩いた。

旅の最後にたどりついたのは
鹿児島だった。

西郷隆盛の墓に参り
決意を新たにする。

笹森は 西郷の 私利私欲を嫌い
日本の将来に尽くす姿に

強く共感していた。

翌明治25年 笹森が向かったのは
なんと 千島列島だった。

海軍が
軍艦を千島に派遣すると聞き

それに便乗したのである。

笹森は 著書「千島探験」に
詳細な旅の記録を残した。

気候や文化をはじめ

外国船が
野放しになっている現状など

ありのままの
千島列島の姿が記されている。

笹森は 千島で出会った
アイヌの人々を 友人と呼んだ。

アイヌの人々が 政府によって

占守島から色丹島に
強制移住させられ

農耕生活を強いられた結果

人口が半減した事を知り
がく然とする。

「彼らが 漁業などの
長所を生かして 自給自足し

密猟の警備の
主導力となる事が

我が国においても
国益となるに違いない」。

笹森は 強制移住策を批判し

その土地に ふさわしい
人々の暮らしを願った。

千島の風土から 人権に至るまでを
記した「千島探験」は

天皇に献上されるほどの
評価を得た。

「千島探験」を読んだ
内務大臣 井上 馨は

笹森に
一つの提案を持ちかける。

「沖縄へ行ってくれないか?」。

当時 日本では 不平等条約の下で
安価な輸入砂糖が出回り

沖縄 奄美地方を除いて
製糖業は壊滅状態だった。

井上は
笹森の確かな観察力を見込んで

沖縄諸島での砂糖増産の可能性を
調査させようとしたのである。

こうして 笹森は
日本の国益を背負い

沖縄へと旅立つ事になった。

という事で 笹森は
西日本から 千島列島まで

旅を重ねていきますけれど

それにしても あの時代に
それだけの旅を重ねた

その行動力って すごいですね。
そうなんですよ。


だから この行動力っていうのは

実は 明治維新の時に
閉じ込められちゃってた。

つまり 殿様に提言書を書いたら
進んだ藩なら

西郷隆盛だって やってますよ。
そしたら登用してもらえるんです。

ところが この弘前藩は 古い藩で
謹慎処分にされて

やりたかった活動
何にもできなかった。 焦った。

そういうのを持ってる人のように
思いますよね。

本日 こちらの方も
お呼びしているんです。

探検家の角幡唯介さんです。

よろしくお願いします。
よろしくお願いします。

角幡さんは
チベットや北極など

世界の秘境を
踏破して

その体験を
発表していらっしゃいますが

いかがですか? 探検家として
笹森儀助 どのように見ますか?

いや 実にですね…

探検家っぽいですか。
ええ。

その精神構造というか
ものの見方というのが

実に 探検家っぽい。
それ どういう事かっていうと

やっぱり 探検とか
冒険する人っていうのは

社会のですね
体制的なものっていうものに

どこか やっぱ
なじめないところがあって…

社会とか 世間とかに

背を向けてるっていう側面が
やっぱ ある訳ですよ。

だから 殿様に対して
ものを申したりだとかですね…。

そもそもですね
最初に 写真 出てきましたよね

こうもり傘 奇っ怪な格好の。

あのファッション自体が
何か 自己主張というか

昔の バサラものとかですね

歌舞伎ものみたいなものに
通じる…

飯田さんは どんな人物だと
考えてますか?

こういった活動家 運動家の方って
2種類いて

一つのパターン 類型が

思想に準ずるタイプの人。
例えば

社会主義革命かもしれないし
八紘一宇かもしれないけれども

思想的な理想を実現するために
頑張る人と…

そういったところが
もしかしたら

西郷隆盛と すごく通じるところが
あるのかもしれない。

例えば 斗南藩の非常に困窮してる
士族を助けたいとか

不平不満を抱えて
明治維新に取り残されつつある

士族を救いたい。

そういった思いに突き動かされた
人物なのかなと思いますね。

赤坂さんは どのように
捉えてらっしゃいますか?

この明治の時代に
東北の出身者たちが

奄美や沖縄や台湾に
向かうんですよ。

弘前藩は
奥羽越列藩同盟 抜けて

官軍の側に
ついた訳ですけども

でもね 東北の諸藩というのは
どちらについても

僕はね 傷を負ってるし
負け組になったんだと思ってます。

だからこそ ある種の…

下北に 行政担当させられて

1万4, 000人を超える人たちが
藩士とその家族が追われて

思いっきり悲惨な暮らしを
強いられた。

だから 勝ち組についても
負け組についても

東北は こういうやられ方を
したんだという事を

とことん見たと思いますね。

何か そこが起点のような気が
しています。

これ 青森から上京して
しっかり 帝国議会を傍聴して…

ここ 面白いのが
政府を攻撃するんだったら

野党へ行っちゃったりする
場合の人 多いんですけど

この笹森さんの場合は 政府も見て
やっぱり ちょっと変だなと。

野党を見ても 何か
地租を引き下げさえすれば

何でも解決するみたいに
言ってるけど

実際 そんな数パーセントの減税を
やっても

農民の暮らし
よくならないんじゃないかと。

むしろ 農民の暮らしを
よくするならと思ったら

今度は 農業試験場だの
農民と 実際に会いに行って

ものすごい数のインタビューを
あれして…。

これが やっぱり
笹森さんの面白いところで…

だから 地租下げさえすればいい
とかいうのは お題目ですよね。

だから お題目を疑う。

これが やっぱり 笹森さんの
特徴なんじゃないかと思います。

いよいよ
沖縄に向かう訳ですけれど

沖縄 まず 奄美大島を経由して
沖縄本島へ。

更には 宮古島
そして 八重山諸島から

日本の最も西の与那国島まで
足を伸ばしていくんですね。

およそ6か月という
探検旅行なんですけれど。

いや~
楽しそうだなと思いますね。

やっぱり 情報がない
未知の場所に行くっていうのが

一番ワクワクする。

で よく 僕らの世界で言うのが

7・3とか 6・4とかって
言うんですよ。

どういう意味かっていうと
例えば 7・3だったら

3割死ぬ。 3割死ぬけれども
7割生きて帰ってこれる。

昔の 本当に
厳しい時代の登山家なんかは

4・6とかって言ったらしいです。
6割死ぬけど

4割生きて戻ってくる可能性が
あるから 突っ込むみたいな。

何か 目がギラギラしてきました。
確かに。

僕も チベットの探検なんかの時は
7・3ぐらいの感覚だったんです。

3割死ぬかも。
でも まあ 行くか。

その分のリスクを
引き受けるだけの価値がある。

その死にそうなやつって やっぱり
中毒性があるんですかね?

あります あります。
めちゃくちゃありますよ。

やっぱり もうちょっと
近づいてみたいとかというのも

ありますから。 笹森も
やっぱり 貧乏旅行やって

次 千島 行く訳ですよね。
千島 行って 沖縄 行くと。

やっぱり
どんどん 目標が見えてって

目標が 自分の中に設定されてく。
それに対して

自分がとらわれてしまって
行ったんじゃないか

っていうようなところも
あったのかなとかって

想像しますね。

今回の その沖縄への
この調査というのは

政府から 笹森へ
沖縄での砂糖の増産の可能性を

探ってきて下さいっていう
ミッションですよね。

砂糖っていうのは これは
世界の歴史を動かしたぐらい

ものすごく魅力的な
商品なんですよ。

サトウキビから出来る白糖って
圧倒的に甘いし

当時の基準で言うと
めちゃくちゃ魅力的なので

やっぱり輸入しちゃうんですよね。


ところが
当時の日本政府というのは

金本位制 つまり 金を基準とした
国際通貨体制に入りたい。

というか それこそが 当時は 一応
一等国の証しだったんですね。

そのためには なんとかして

おいしすぎて みんな買ってしまう
砂糖というのを

自分の国で
自給できるようになりたい。

こういうのを 輸入代替戦略って
いうんですけれども

その意味で 砂糖を生産できる地域
としての沖縄地方っていうのは

極めて高い重要性を持っていた
可能性を秘めていた訳です。

もう一個 重要な点があって
国境っていう問題ですね。

日本は 実は 3つの国境を
抱えてる訳ですよ 国の間だと。

北から…

そのうち 一番大事なの
どれだっていうと

軍事的には 当時
ロシアだと思われてたけど

人口の大きさで言うと
人口10倍の国との国境である…

ここを軽視してる感じが

やっぱり 彼には
見て取れたんだと思うんですよ。

何せ あそこは
風土病があるからといって

重要な やっぱり 政府首脳
あんまり行こうとしない訳ですよ。

ヨーロッパ行ってる前に
八重山へ上がって

しっかり住んでみなきゃ
本当は いけないんです。

あの明治政府の
中央の政治家たちは。

笹森が 沖縄に向かったのは
47~48歳でしょう。

日本という身体の
マージナルな所を

ずっと歩いて
その輪郭を手探りで探る。

それを始めたのが
50歳の手前だっていうところに

僕は せっぱ詰まった何かを
感じてしまうんですけどね。

さあ その
とても重要なミッションを携え

沖縄に向かった笹森は

驚くべき現実に
直面する事になります。

明治26年5月10日 笹森儀助は
弘前から沖縄へ出発する。

手記には 探検への覚悟がにじむ。

「この旅には 2つの
大きな危険が横たわっている。

ハブとマラリアである。

罹患すれば 生き延びる者は
少ないという。

死別を覚悟して
血の涙が 胸を潤していた」。

この笹森の写真は
沖縄を探検した時の服装である。

そこには
笹森の決意が読み取れる。

こうもり傘は
降ってくるヤマビルを避けるため。

風通しがよい芭蕉布の着物を
常に まとった。

腰のうちわは
蚊を追い払うためだった。

それは
未知の世界に果敢に立ち向かう

笹森の姿勢を
象徴しているかのようである。

笹森は いよいよ 死と直結する
まさに命懸けの探検に踏み出す。

明治12年 琉球藩は廃止となり
沖縄県が誕生。

450年続いた琉球王国は滅亡した。

いわゆる 琉球処分である。

近代日本の一部に組み込まれた
沖縄が

どのような状態にあるのか
それを知る旅でもあった。

笹森に与えられたミッションは
沖縄の製糖業の調査である。

笹森は まず 島の役人から
糖業の現状を聞き取る。

製糖所にも 足を運び

砂糖の生産量などを
事細かに記録している。

更に 西表島では 2日かけて
島の東から西へ踏破した。

沖縄の島々を巡るうちに 笹森は

もう一つの厳しい沖縄の現実を
目撃する事になる。

明治26年8月14日 笹森儀助は

石垣島の安良村を
訪ねています。

笹森が訪ねた村の跡が
今も残っていると聞き

私 杉浦が 現地へ向かいました。

こんにちは。
こんにちは。

案内してくれるのは
石垣島の歴史に詳しい

松島昭司さんです。

村へと続く道は
今は 木々に覆われ

簡単には たどりつく事が
できません。

この奥に
集落の跡があるんですよ。

あっ この奥ですか?
へえ~。

今は もう 海岸林に
覆われてますけども。

この地図ですけども
明治期の安良村の地図ですね。

6か所の図面があるんですが

現在は ここですね
この辺りしか確認できなくて。

ここ 突入するんですか?
はい。

入る余地がない感じが
するんですけど…。

あります。 大丈夫です。
ええ~。

ほっ! え~?
果敢に行きますね。

じゃあ 行きましょう。

お~!
トゲトゲの草が いっぱい。

こりゃ すごい! ひゃ~!

ちょっと 気分は
笹森になってきた気がする。

ここに 笹森は来たんですか。
へえ~。

当時の玄関といいますか 門が。
お~!

それから これ…

玄関の前に積まれた石垣。

沖縄では ヒンプンと呼ばれ

伝統的な民家に
よくあるものだそうです。

お客さんが入ってきて
直接 母屋を訪ねる前に

一旦 こちらで きて
また 衣服を整えて

身だしなみ整えて入っていって
「ごめんください」という…。

これ 何でしょう? これ。

はい。 見つけました?
見つけました。

井戸? 違うか。
これはですね

トイレです。
あっ トイレですか!

そちらに 便器の跡もあります。
便座が。

ここ?
はい。 確かに 便座って感じ。


すごい ちゃんと
トイレの形状をしていますね。

こういう暮らしを
されていたんですね。

この村で 笹森は 濱崎与利という
老人と出会っている。

笹森は その人柄に感動し
次のように記していた。

「文字も読めず
法律も知らぬが

犬やヤギと暮らし

敬うほどに 毅然とした
老人がいようとは。

我々が 文明開化といって
教育を受けても

彼には
決して かなわない」。

濱崎与利は この島の厳しい環境に
立ち向かいながら

村人を導き
暮らしの糧を生み出していた。

人頭税とは 薩摩支配下にあった
琉球王国時代の税制度である。

15歳から50歳までの男女全員に

米などの穀物で 税を納付する事が
義務づけられていた。

米が取れない離島の人々は
石垣島や西表島などの

水源がある島に強制移住させられ
稲作を強いられた。

この人頭税は 琉球処分以降も
継続されていたのである。

ここ 安良村も 実は
強制移住者たちの村であった。

人頭税を納めるため

村人は 集落の近くに流れる
安良川の水を用いて

稲作に励んでいたという。

ちゅるちゅるちゅるっと
かすかに流れてますね。

この様子見てると 全く お水が
ずっと定期的にある状態

なさそうですもんね。
はい。

でも お米を納めなきゃいけない
っていうのは

本当に過酷な生活ですよね。

濱崎与利は
この村で生きていくために

移民を募った。

移住者には 家を提供し
自ら製作した農具を分け与えた。

新たに水田を開墾し
米の増産を図った。

しかし 安良村には
人頭税に加えて

更に大きな問題が降りかかる。

笹森が残した八重山諸島の地図。

マラリアが蔓延した地域に
赤く印がつけられている。

安良村もまた マラリアの危険に
さらされていた。

「子どもが過って この水を飲めば
必ず風土病にかかる」。

マラリアは 蚊が媒介するとは

まだ知られていなかった
時代である。

石垣島だけではなかった。

このような過酷な状態は
沖縄全体が直面していたのである。

折しも 宮古島では

人頭税の廃止に向けて
民衆が動き出した。

宮古島を訪ねた笹森は
役人と にらみ合い

一触即発の状態にある群衆を
目撃する。

農民の抵抗運動が
始まっていたのである。

笹森は 辺境の地で
選択に立たされる。

国益の調査のために やって来た
沖縄。

しかし 目の前には
苦しむ民衆がいる。

彼らを見過ごしていいのか。

悩む笹森の心の中に
分け入ってみよう。

政府からの依頼を受け
この最果ての地まで やって来た。

今の日本にとって 製糖業を
発展させる事は急務であり

また ここ 沖縄は
その可能性を大いに秘めている。

製糖業に資本をつぎ込めば
雇用が生まれ

長い目で見れば
人々の幸せにもつながるだろう。

ここは ひとまず
政府の要望どおり

内務大臣の井上 馨に
砂糖の増産方法を報告しよう。

国益のためには
それが一番の選択。

だが
私が この半年で見たものは

想像を絶する
過酷な人々の暮らしだった。

前時代の
人頭税という税制によって

移動の自由もなく
米を作り続ける島民たち。

そこに 追い打ちをかけるように

風土病で
命までもが奪われている。

このような人々を置き去りにして
何が近代化といえようか。

民衆が立ち上がった今こそ 私が
彼らの現状を世に問うべきだ。

半年に及ぶ探検の手記には

沖縄の現実が
ありのままに記されている。

これが そのまま世に出れば
センセーショナルな事件となる。

しかし この手記を読んだ友人は

笹森に
次のような忠告をしている。

「直ちに
改革の断案を下す事は

著者のためにも
遺憾とするところである」。

性急に政府を糾弾する文章は
危険だと諭しているのだ。

政府を告発するなど
やはり 危険すぎるか。

しかし 私に 彼らを
見て見ぬふりが できるだろうか。

国があっての人なのか
人があっての国なのか。

人頭税に苦しむ沖縄の人々を前に
笹森は葛藤した。

という事なんです。
大変だったね あれは。

あのロケは。
道を かき分け かき分けですね…。

でも あの場所に立ちながら
現地で お話とかを聞いていても

やはり 明治も
だいぶ たってからの事ですよね。

その時に 人頭税という
あまりに理不尽な税制度が

あったという事は
ちょっと 私も驚きでしたし

もう なんとも理不尽だなと
思いましたね。

人頭税という税金が
なぜ 残酷な税制かというと

人頭税というのは
例えば 20歳の男だったら

貧富を問わず いくらいくら。
例えば 今だったら

毎月1万5, 000円 税金
納めなさいよという制度です。

これ
どういう事になるかというと

お金持ちにとっては 非常に安い
税金になる可能性があり

貧しい人ほど
つらい税金になる訳ですね。

そして もう一つは
それを 穀物

中でも 米で納めろと
言われていた。

これが非常にポイントでして

八重山エリアですと 農業よりも

そもそも 漁業の方が向いてる
可能性が高い地域なんですね。

にもかかわらず あまり向いてない
稲作に張り付けられる。

この人頭税っていうのはね
本当に許し難い制度なんですよ。

どこが なぜ
おかしいのかっていうと

明治維新っちゅうのは
身分を終わりにして

どの職に就いてもいいし
どのお仕事してもいいし

どこに住んでもいいし
誰と結婚してもいい

っていう事の下に
行ったものなんですよ。

で 政府が 税収を上げるために

人間を強制移住させて
そこから動くなと言って

それで 人間に対して
持ち物じゃなくてですよ…

はっきり 奴隷の扱いですよ。
奴隷とは言わないけど


この奴隷扱い制度を
日本に組み込んでからも

20年どころか もっともっと
続け続ける訳ですよ。

しかも その理由っていうのは
砂糖が欲しいからという

そういう理由なんですよ。
で この一国の中に

本土では そんな制度じゃない事に
もうなってる。

沖縄だけが こういう特別な制度を
やっといて 維新じゃない…

ここにね 本当に
問題があると思うんですよ。

今 問われてるとこだよね。

実は この1と2というのは
同じ事になるんじゃないかと。

沖縄の実情を広く訴える事が
砂糖増産の方法になり

砂糖増産のためには 沖縄の実情を
広く訴える必要がある。

そういった状況に
あったんじゃないかと思いますね。

僕は もう葛藤してなかったんじゃ
ないかなって気がするんですよね。

まあ 2ですよね。
沖縄の実情を広く訴える。

やっぱり この人は 何らかの
怒りに反応できるような

貧しさとか
不正に反応できるような背骨を

抱えてるような人だったような
気がするんですよね。

僕ね この時代っていうのは
日清戦争の直前じゃないですか。

日清 日露の前の日本人にとって
国家と民の関係っていうのは

ちょっと 僕らが感じてるものとは
違うのかもしれない。

…っていうのが もう当たり前に
認識の中にあって。

陸 羯南なんていう思想家が

すぐ傍らに…
弘前の出身ですけども いて

彼のだって
国家主義じゃないんですよね。

国民主義なんですよね。

当たり前に 国民と国家というのを
抱きかかえる事ができるような

そういう まだ
ナショナリズムが若々しい

健全な段階だったんじゃないかな
っていう事は

頭に置いておいた方が
いいかもしれない。

まだ 国が始めた戦争で
大量に 民が死んでないんで

むしろ 国が
鉄道を作ってくれたり

民は 国にしてもらえるし
国は 民にしてもらえるっていう

相互依存の関係の まだ幸せな
関係が続いてる段階なんです

明治の初年っていうのは。

旅に出ると
地元の人と触れ合う訳ですよ。

僕が
学生の時から ずっと行ってた

チベットの奥地の
秘境なんかだと

まあ 裸一貫で行く訳ですよね
ザック背負って。

それこそ 名もなき一人の男の
家族の家に転がり込んだりして

それこそ いい面ばかりじゃなくて
悪い面も見る訳ですよね。

例えば 僕が転がり込んだ…

シャオワンっていう
男だったんですけれども

もう ひどい酒乱の男なんですよ。

僕が
ポーターなんかやってもらって

お金 渡しますよね。
それを全部 お酒にかえちゃって

飲んだくれてですね
奥さんも 泣きながら

もう 腕回しちゃって
ケンカする訳ですよ。

僕も こうやって必死に止めて
やめろ やめろとかって言って

漫画みたいな事
ずっと やっててですね。

何か そういう寝食を共にすると

全く 文化も 民族も
違う人間なんだけれども

結局
一人の人間だっていうふうな

等身大の見方が
できるようになると思うんですよ。

笹森儀助なんかも
やっぱり 旅をする事で

沖縄の人だとか アイヌの人…

彼らの視線で ものを発言できる
ようになったっていうのは

あったんじゃないかなっていう。

この不思議な格好って
一つのポイントだと思いますね。

いつも 笹森が
警官とか役人と一緒なんですよ。

一人で動いてないと思います。

それにもかかわらず
役人の格好してない訳ですよ。

こういう奇妙きてれつな
スタイルですけども

多分 受け入れる民衆の側からは

ある種の親しみというか
近さを感じたと思います。

その時に
この格好なら もう すぐに

役人には
決して語らないような事を

ぽつりぽつりと きっと
しゃべったと思いますね。

さあ 笹森は
目の当たりにした沖縄の実情を

どのように報告したんでしょうか。

沖縄の探検から半年たった
明治27年5月。

笹森儀助は 手記
「南島探験」の出版に踏み切った。

その冒頭で 笹森は こう宣言した。

「いまだ明らかに
なっていないものを探り

世間に報道する」。

沖縄の実情を訴えた この本は
日本国中に衝撃を与える。

住民を苦しめる 人頭税。

マラリアの蔓延。

笹森は 島民の側に立ち
沖縄の実態を明らかにしていく。

「石垣島の村の
荒廃ぶりは

他府県には 決して
見られないものだ。

人頭税を徴収し
免税される事もない」。

マラリアにかかった民など
いないと 役人はうそをつき

患者には
適切な医療も施されない。

笹森は訴えた。

「天皇陛下の赤子であるのに
なぜ 保護されないのか」。

「南島探験」に後押しされるように
宮古島の島民たちが上京した。

人頭税で困窮する現状を
井上 馨に 直訴したのである。

その結果 沖縄の窮状が
議会で集中的に取り上げられた。

これらの議案や
議員の演説においても

笹森の「南島探験」から
多くが引用されている。

明治36年

260年以上続いた人頭税は
ついに 廃止される事になる。

遡る事9年前
「南島探験」の発表から間もなく

笹森の姿は 奄美大島にあった。

沖縄の報告を受けた 井上 馨は

笹森を 奄美大島の行政官にあたる
島司に任命。

今度は 笹森自身が

地域を振興させる立場に
なったのである。

旧来からの 鹿児島商人の
収奪という問題を抱えながらも

笹森は 積極的に
黒糖の増産に取り組んでいく。

この時 島司として
笹森が貫いたのは

徹底した島民主義だった。

役人に対し
華美な衣服といった
ぜいたくを戒め

島民に対して
懇切丁寧に接するよう
諭した。

笹森自身も 質素倹約に努め

昼食は
さつまいもで済ませたという。

笹森が残した史料の中に
大島紬のサンプル集がある。

笹森は 製糖業だけではなく
伝統産業にも着目し

大島紬を 島の名産として
育てようとしていたのだ。

ここに残された
81種に及ぶデザインは

奄美の自然をモチーフにした
大島紬のルーツとして

貴重な価値を持つという。

そのいくつかには
将来の発展を期待してか

生産者の名前が
克明に記されていた。

奄美大島の島司を辞職後

笹森は 国を越えて
朝鮮半島やシベリアを調査。

晩年は 郷里 青森の市長も務めた。

70歳で亡くなるまで

一貫して この国の人々の幸せを
追い求めた人生だった。

笹森が 沖縄の実情を包み隠さず
報告した事が 社会を動かし

人頭税の廃止にも
つながっていきました。

「南島探験」 まさに あれって
ルポルタージュですよね。

僕 一時期 新聞記者やった時代も
あったんで

何て言うんですかね
見てしまったものに対しての

自分自身の中の
耐えられなさっていうか。

アポロで 月 目指したら…。
宇宙に出るのと同じなんだ。

そこで 現場を見ますよね。
人頭税で苦しんでる人たちがいる。

もともと 自分がいた…

探検家が 世を動かせる…。

…時代だった。
今は そんな時代は

終わってしまったって事
でしょうね。

笹森 やっぱり
南の島で見たものっていうのは…

ゆがみって何だろうと思ったら

本当に あんな人頭税のような
明らかに おかしい事なんだけど

でも 何で これは
永続し続けるのかっていうと

慣習 これまでやってきた
っていう事と

あと やっぱり サーベル持った
警官がいるという

それは やっぱり
武力 警察力っていうものの

怖さっていうもので
支えられてる訳ですよ。

そんなの ずっと続けてたら
本当に 本来の維新の姿じゃない。

だから 彼は 西郷さん
すごく尊敬する訳ですよね。

「大河ドラマ」見て頂ければ
分かるけれども

黒糖地獄という あの奄美の状態を
愛加那と一緒に見てる訳ですよ。

おかしいなとか言いながら
西郷自身は あの奄美の問題を

はっきり ものすごく頑張って
解決しようとは

できなかったか
しなかったかなんですよ。

そうすると
誰かがやらなきゃっていうのは

やっぱり 彼は 奄美に行った時に
やっぱり 思ったと思いますよね。

奄美大島について言うと
これ 極めて難しい立場なんです。

というのも…

落下傘とか 天下りっていう
言い方をしますけれども

笹森自身が 奄美大島に
何の地縁もない人なんですね。

そして 内務大臣からの
じきじきのご指名で

出向させられた人だと。
こういった立場の行政官って

ともすると 地元からは
お客さんとして扱われるんですよ。

地元の地場の役人は
お客さんの偉い役人に

いかに現実を見せないか。

その中で 笹森
何をしたかというと…

これが 背広なり 羽織袴を着て

役所に ド~ンと詰めてたら
もう完全に お客さんですよ。

それだと 恐らくは 島の現実とは
全く向き合う事できず

地場の役人は 地場の役人で
自分の利権を守り

ほどほど 何かお土産になる成果を
プレゼントされて

上手に もしかしたら
出世できたかもしれない。

ところが
本当に仕事をしてしまった。

言葉は変ですけれども。

実は… というべきか
笹森の「南島探験」の中に

フォークロアって
ほとんど拾われてないんですよ。

物語ね。

だからこそ
帰ってきた時 井上 馨に

「ならば お前が
奄美大島に行って

その社会を変えろ」っていうふうに
言われたんだと思いますね。

結局 鹿児島の勢力とぶつかって
失脚して 離れていく。

そのあとで また 朝鮮半島や
シベリアを歩く訳ですけども

時代が 大きく変わっていって…

そういう転換点に

奄美が なっていったんだと
思いますけども

残した探検記とか書き物の中で

圧倒的に 面白くて 豊かなのが
「南島探験」なんですよ。

だから 僕は あそこが やっぱり
探検のマックスだったと思います。

その後は やっぱり
そんな幸福な感触ないんですよね。

だから 探検の中で
彼は 闘いながら

自分が見た悲惨な現状を
きちんと伝えるっていう

そのミッションも
受け取っていただろうし

それが だんだん
きっと 壊れていく。

それを許さない 多分 時代の中に
入っていって

だから 最晩年の笹森は
ほとんど発言しなくなって

ひっそり終息していく。

でも それって探検家の最期として
すごく 逆に かっこいいなって

僕は そんな感じがしてますね。

今の時代に 笹森儀助みたいな
行動というか…

すごく重要だと思うんですよね。

何かを調べる… 現場に行って
現状を目の当たりにする。

それで 自分が反応する。
で 新しい認識を得る。

忘れ去られようとしている。

で ピコピコピコって
スマホとかで調べたら

何か
分かっちゃうような気になって

それで みんな 発言とか
するじゃないですか。 それが

現場というか 人と接しないで
何かを語ろうとするから

例えば 差別的な発言が
横行したりだとか

そういうのが出てくるんだと
思うんですよね。

すごく基本的な事を 改めて
教えてくれるような気がしますね。

これは 「琉球スペシャル」で。
でしたね。

2週連続でやりましたよ。
2週連続で 尚寧王と笹森儀助と。

改めて こう この時代に
沖縄 琉球を見る事の意味を。

考えさせられる事
多かったですね。

2週にわたって やりましたけど…

鏡ですか。
鏡。

つまり 火縄銃の普及があれば

琉球王朝の征服っていう
島津による 状態で

うわっと大きく現れる訳ですよ。

それで 日本が維新を起こしたら
砂糖とか そういう問題で

人権を 果たして この国は

どの程度まで
守るのかっていうのも

もう 増幅されたかのように
ここに現れますよね。

で 日本が 今度 西洋列強を
追い越したという気になって

それで 戦争を始めて
植民地の拡大を始めると

地上戦っていう形で

沖縄県民の上に
降りかかってくる訳ですよね。

で 戦後 日本が アメリカの後ろに
ついていくっていう事になると

その問題における
焦点っていうのは

やっぱり 沖縄へ来ると。

ただ これ 僕 作ってて
半分 反省でもあるんですけど

何々される沖縄っていうよりは

沖縄が何々する
日本に対して 沖縄は

どのような影響を
与えるのかという

沖縄が主語になってる

何か この番組も
作り直しっていうのか

今後は 考えていかんといかんな
というふうには思いましたね。

沖縄の歴史 まだまだ たっぷり
語れる事があると思うので

やっていきたいと思います。

今日は 皆さん
本当に ありがとうございました。


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