先人たちの底力 知恵泉「人生を切り開く化学式 “日本薬学の父”長井長義」 猪子寿之、八木亜希子、渋谷雅之…



『先人たちの底力 知恵泉「人生を切り開く化学式 “日本薬学の父”長井長義」』の番組情報(EPGから引用)


2018/07/31(火) 
先人たちの底力 知恵泉「人生を切り開く化学式 “日本薬学の父”長井長義」[解][字]
失敗しながら未知に挑め!明治期、本格的な化学を学び、日本に新たに“薬学”を根付かせた長井長義。女子教育の発展にも尽力し、人々に勇気を与えた先駆者の志に迫る。
詳細情報
番組内容
「失敗してもいい。自分で考え挑戦することこそ大切です!」明治期、それまで日本になかった本格的な化学を学び、“薬学”を根付かせた長井長義。幕末の写真家・上野彦馬のもとで新知識・化学に出会い、研究者を目指すという困難な夢を実現させた、巧妙な人生戦略とは?さらにドイツ人女性との恋愛で国際結婚を先駆け、化学実験を通した女子教育で新たな生き方も提示。人々に勇気を与えた先駆者を通し、未知の人生の挑み方を描く。
出演者
【ゲスト】チームラボ株式会社代表取締役…猪子寿之,八木亜希子,徳島大学名誉教授…渋谷雅之,【司会】新井秀和
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『先人たちの底力 知恵泉「人生を切り開く化学式 “日本薬学の父”長井長義」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数BEST10)

先人たちの底力 知恵泉「人生を切り開く化学式 “日本薬学の父”長井長義」
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  10. 何か



『先人たちの底力 知恵泉「人生を切り開く化学式 “日本薬学の父”長井長義」』の解析用ソース(番組内容ネタバレ注意!)


今夜は 私たちの暮らしに
欠かせない分野を切り開いた

先駆者の極意。 勇気が出ますよ!

う~ん いい香り。

大将。
えっ?

久しぶりに来たら
何かイメージが違うんですけど

どうしたんですか これは。
分かります?

最近ね こういう試験管とか
フラスコを使った

飲み屋さんが人気だっていうんで。
へ~。

うち ほら
経営悪いでしょ? 赤字でしょ?

ちょっと イメージチェンジして

新たな道を切り開こうかなと
思って

今 カクテル作ってたんです。
う~ん いい香り。

どうせなら もう徹底的に
こういう食べ物とかも含めて

理系居酒屋って打ち出すとか。

理系居酒屋!
いい事 言うじゃないですか。

いいお酒が入ってるんですよ。
何? 何?

理系で道を切り開いた
長井長義ですよ。

長井長義?
うん。

この方 明治の初め

まだ 日本が近代的な薬の扱いに
慣れていない頃に…

意志の強さを示す
きりっとした瞳。

その目は 日本の未来を変える
大事なものを捉えていました。

それは 化学。

明治時代 世界最新の
化学の知識をもとに

今も使われる薬を
次々に開発したのが…

医者である父親から
医学修行を命じられた 長義。

ところが 偶然
化学の楽しさに出会います。

自分の希望をかなえたい。

だからこそ 父の希望どおり
真面目に従う長義。

その隠された真意とは。

化学の本場 ドイツに渡り
新たな知識を身につけた長義。

帰国後…

そんな長義に
人々の期待は 膨らむ一方。

抱えきれない任務を前に
長義が決断した…

ドイツ人の妻 テレーゼと
力を注いだのが

日本の女子教育です。

化学の実験を通して
日本の女性に

彼女たちの可能性を
伝えようとした長義。

新たな価値観で
未来を切り開こうとする姿を

ご紹介します。


長井長義の知恵を読み解くのは…

人々を驚かせています。

子さんが…

徳島・阿波踊りがモチーフの
この作品。

一糸乱れぬ踊り手たち。

入場者が来ると
その動きに反応します。

デジタルによって 誰も…

子さんは 自分たちのアートで
未来を創りたいと考えています。

新たな価値観が時代を変える。

長井長義と子寿之さん。

2人の言葉から
人生を切り開く知恵に迫ります。

♬~

…という
長井長義なんですけどもね。

何か いろんな方に
話が広がりそう。

いろんな事をされた方っていう
感じですね。

こんばんは。
こんばんは。 これは これは。

あっ さっき見た人だ。
どうぞどうぞ いらっしゃいませ。

アート集団 チームラボ代表の
子寿之さんです。

いらっしゃいませ。

子さんはね 最先端の
デジタルテクノロジーで

これまでにない アート作品を

国内外で発表されてる
というわけなんですけれども

なんと…

そうなんですよ はい。

徳島出身の方で
こういうふうに世に出る方は

みんな そういう
何か新しい事を切り開いたり

ちょっと自由な感じが
あるんですか。

ちょっと分かりかねますけど。
そうですか。

さあ 今日は長井長義を
見ていくわけなんですけれども

当店が用意した 今日のコース
こちらです。

長義は 薬学という
化学のジャンルの先駆者だけに

人生の切り開き方も
非常に合理的だったと。

そんな長井長義の
知恵を見ていく

最初のオススメメニュー
こちらです。

若い頃 長義はですね…

そんな時に 長義は…

最初の知恵を
見ていきましょう。 お願いします。

江戸時代の終盤 1845年。

長井長義 幼名・朝吉は

現在の徳島市の中心部
お城の近くで生まれました。

父は お殿様を直接治療できる
名誉ある立場でした。

朝吉は 幼い頃から
父が 城に出向く時には

一緒に連れていかれました。

その道ゆきでは医者の跡取り教育。

道ばたに薬草が見つかると

どんな病気に効くのかといった
知識を教え込まれます。

14歳の時
元服にあたって

父から与えられた
名は 直安。

江戸時代の医者に特有の
名前と言われます。

やがて直安は
父に代わって

診察を務めるまでに
成長していきます。


1866年 21歳になった直安は
藩から長崎留学の命令を受けます。

目的は もちろん医学修行。

長崎には 幕府が設立した
最先端の西洋式医学校

「精得館」がありました。

直安は
ここに通うはずでしたが…。

その代わりに
彼の目が捉えたのは…。

なんと…

坂本龍馬や 高杉晋作の写真を
撮ったと言われる

写真館のあるじ 上野彦馬の家に
住み込み始めたのです。

日本で最初期の職業写真師だった
彦馬は

舎密
現代でいう化学の知識も豊富。

写真を現像するための
薬品調合は もちろん

最先端の化学実験も
行っていました。

直安の日記には 毎日のように
実験の記録が並びます。

直安は物質を混ぜて 新たな物質を
つくり出す楽しさに

目覚めていきます。

更に 師匠…

ある日 友人と炭酸カリウムを
つくる実験をしていた直安。

熱した灰を
水で冷やそうとしたところ…。

(破裂音)

中身が破裂。

彦馬が 新しい家の柱として
用意していた丸太が

汚れてしまいます。

汚れを消そうと
酢酸で中和してみますが

うまくいきません。
すると 彦馬は…。

失敗しながら 挑み続けろ。

直安は
すっかり 化学のとりこです。

ところが…。

阿波藩と父は 優秀な直安に
なおも医者になる事を期待。

1869年 明治2年。

24歳の直安は
東京大学の前身である

大学東校に送られ
医学を学ぶ事になってしまいます。

このまま自分は 医者になるしか
道はないのか。

こうなったら
自分が夢に向かうには…

直安は 親の期待に応え 大学で
医学の勉強に打ち込みました。

黙々と勉強する直安を
教授も こう評します。

ところが…

「いくら真面目ぶっても
女に会っているんじゃないか?」。

後輩が後をつけると…。

植木屋に入るや 花や葉を
むしったりし始める直安。

どんな成分が とれるのか
化学的に思いをはせている様子。

後輩たちは びっくり。

平日は医学 休日は化学。

直安の学問探究は休みなしでした。

そして ついに
チャンスが訪れます。

大学東校が 成績優秀な直安を…

医学生となるはずでした。

なんと 直安が弟子入りしたのは
世界的な…

「ホフマン反応」など その名を
冠した法則を残す権威です。


ホフマンに学ぶ日々が
直安の人生を方向づけました。

「ホフマン教授の化学の実験講義が
非常に面白くて堪らぬ」。

ホフマンのもとで 例えば

バニラの香りを合成する研究に
取り組んだ時。

実験が
思うようにいかない日には…。

「其の夜は
すっかり悲観して

一睡も出来なかった」。

うまくいった日には…。

「私の驚喜は
実に譬えようもなかった」。

やはり
地球の裏側まで出かけていって…

そういったような事が 長井を

つき動かしたものじゃないかと
思います。

めきめきと実力を磨き
自信もつけていった直安。

明治9年 日本の父宛てに
覚悟の手紙を出します。

2枚の手紙の両面に
びっしりと書き記していたのが

当時 取り組んでいた実験の詳細。

化学への熱意をぶつけた
長文の最後に

一行 付け足されていたのが…。

父が付けた 「直安」という
医者らしい名を拒絶し

自分で考えた
「長義」を名乗ると宣言。

これは 医学の道を断ち切る
宣言でもありました。

医者への道を進みながら 化学に
進むチャンスを待ち続けた長義。

このあと 長義は

世界最先端の化学の知識を
身につけていくのです。

結果を出すためには
やりたい事じゃないところから

手順を踏んでいく
という事でしたけれども

子さん
ご覧になって どうですか?

実は僕も 祖父と父が歯医者で
僕 一人っ子だったので

継がなきゃいけなかったんですね。

でも どうしても継ぐのが嫌で
今みたいな仕事がしたくて

すごい こっそり勉強して

とにかく 東京へ
逃げ出そうじゃないですけど

勉強して 東京大学に行って

今みたいな仕事をしようと思って
受験したんですね。

「受けたいんです」って
言った時は…。

いや もう
勝手に出しちゃったんですね。

それだけの覚悟が
あったって事ですね。

こんばんは。
いらっしゃいませ。

どうぞどうぞ こんばんは。
いらっしゃいませ。 これはこれは。

徳島大学名誉教授の
渋谷雅之さんです。

はじめまして。
いらっしゃいませ。

長義のふるさと 徳島で
薬学を教えながら

長義についても 研究されている
という事なんですよね。

その性格っていうのは
どんな人だったんですか?

一口で言うと…

それは 長崎留学時代の日記を
読みますと

端々から そういう事を感じます。

そこまで 気持ちを変えさせた
化学っていうものですけれども

長義にとっては 一体
どういうものだったんですかね?

その時に得た結晶が
1寸ぐらいの結晶。

非常に大きいです。
ええ。

結晶っちゅうのは
誠に美しいものですね。

きれいなものです。
その瞬間でしょうね。

恐らく 化学というのは こんな
すごいもんだという事に

改めて 気付いたんじゃないか
という事を

想像したりするんですね。
魅了されて。

長義にとってはね
その化学という

新しい技術との出会いが
あったわけですけれども

子さんは その
デジタル技術っていうものに

初めて出会った時は
どんな印象だったんですか?

高校3年生ぐらいですかね。

インターネットっていうものを
何となく知って

インターネット
どんなものだろうと。

何かもう 世界が何か
つながっていくような気がして

すごいロマンチックな ほんとに
ロマンチックな気分になって

世界が つながっていくのかなと
思って。

人類は ずっと世界がつながる事を
夢みたんじゃないですか。

そうですよね。

だから それでロマンを感じて
のめり込んでいったんですね。

そうですね。 そういう…

私 気になったのが 親にもらった
名前を変えるまでって

当時 どのぐらいの意味が
あったのかなと思ったんですけど。

父親の後を継いで
医者になるという事は

宿命的に決められていたような
事なんですけども

しかし やりたい事は化学だという
はっきりした意思がある。

だから 当然…

現代も
そういう事 ありますよね。

「将来の夢は」って
書くじゃないですか 学校で。

全然 歯医者になるつもりは
なかったんですけど

「歯医者になります」みたいな。

書いてたんですか。
はい。

じゃ お父さんを
喜ばせてたんですね 途中まで。

摩擦が起こると…。

やっぱり 話し合うって難しいと
思っていて。

例えば 新しい職業
例えば あの長井さんの時代だと…


はい。

最初から
あまりにも違ってたら

説得しようと 変に
思わない方がいい 言葉で。
はい。

態度で示すしか。
態度っていうか こっそり始める。

そして きちんと自立する。
はい。

大学へ行って
大学時代に準備をして

在学中に チームラボを始めて

何とか 食っていけるようになって
とか そういう… ですね。

今のVもね こっそり。

でも 親も分かってて
多分 勉強したい事は

まあ こっそり
応援してたんじゃないですか。

さあ ベルリンで
化学者としての道を歩み始めた

長義なんですけれども 続いての
メニューが こちらなんです。

明治の世を迎えて
日本では…

ところが
貴重な人材ですから…

そんな時に 長義は どんなふうに
道を切り開いていったのか

見て頂きましょう。

長義が ベルリンで
一流の化学者へと成長する間

日本では 彼の人生を変える
重大な問題が起きていました。

江戸時代まで
日本で使われていた薬は 漢方薬。

植物などを そのまま すり潰して
つくっていました。

一方 明治時代に入ると
化学の技術を使い

材料から 有効成分を取り出し
人工的に合成する医薬品が登場。

輸入される医薬品の中には 品質が
悪いものも混ざっていました。

しかし 当時の日本には
その質を分析する技術も

安全な医薬品をつくる技術も
ありません。

そこで白羽の矢が立ったのが
長義です。

明治政府は
ベルリンに手紙を出して

日本への帰国を 何度も要請。

ところが長義は かたくなに拒否。

ようやく…。

最新の化学を修めた学者として

13年ぶりに
日本に戻る事になりました。

(汽笛)

明治初期 日本では
新しい医薬品を扱う時は

お雇い外国人の力を借りながら
どうにか対応していました。

そこに帰国した 最新の化学を
学んだ長義への期待は絶大。

長義は 大学や内務省

更には 製薬会社の仕事を
掛け持ちする事になります。

帰国から1年後には
画期的な成果を出します。

長義が 漢方薬の成分分析に
取り組んでいた時。

たんを取り去る漢方薬
麻黄のエキスに

結晶が混ざっているのを発見。

ドイツで学んだ技術を駆使し
取り出します。

それが エフェドリンです。

製薬会社で製品化され

ヱフェドリン「ナガヰ」として
販売されました。

この成分を応用し 現代も多くの
風邪薬が つくられています。

こうした長義の功績は

日本の薬学を 西洋と並ぶレベルへと
大きく前進させました。

実績を重ねていく長義は…

ここで 大きな課題に直面します。

当時の薬学と医学の世界が
抱えていた「医薬分業」の問題です。

かつて 江戸時代の医者は

患者の診察に加えて
漢方薬を調合。

薬代込みで
報酬を得ていました。

ところが明治 化学的な医薬品の
時代になると 事情は変わります。

薬は
化学の知識を持つ専門家が扱い

医者から 切り離すべきだとする
「医薬分業」が議論され

政治まで巻き込んだ論争に
発展したのです。

長義は 日本薬学会の会頭として
この難問に直面していました。

しかし 長義は
あくまで化学の専門家で

政治や交渉事は素人同然。

これまで関わってしまうと
専門分野さえ

中途半端に
なってしまうのではないか?

そこで…。

長義は 自分の役目は
医薬成分の抽出や合成

医薬品の開発など
「薬学の研究」にあると決断。

医薬品の研究に集中すると決めた
長義は

当時 問題となっていた
薬の品質管理に取り組みます。

その成果として誕生したのが
「日本薬局方」です。

長義は これを 30年更新し続け
安全性の向上に貢献しました。

日本独自の
医薬品の開発を成し遂げました。

どんなに人に頼まれても
自分が行うべき事を冷静に選び

結果を出すまで やり通す。

そんな長義について
友人の言葉が残されています。

いや~ 何か 伺ってたり
最後の文章を聞くと…

チームの先頭に立つ子さん
どう ご覧になりますか?

そうですか。
はい。

ちょっと似てますね。
そうですね。

すっごい似てると
これを伺ってて 思いました。

きっと 下の人たちに
お任せしてる部分も。

面接とかも しないですね。

人とか 分かんないですよね
30分ぐらい聞いてもね。


どこかで きっぱりしないととか
何かを捨てないと。
はい。

でも それよりは やっぱ…

もちろん 長井さんほどじゃ
ないんですけれども 自分も…

あと つくり出す事で

後ろも ついてくるんじゃないか
という部分もありますか。
はい。

共有できると 社会も組織も
強くなるんじゃないかなと。

知はね 全員が使える事なので。

まさにね チームとして
結果を出すためにはね

自分に できる事をやる
というところですよね。

長井が 昭和4年に
亡くなるんですけども

それ以後 非常に発展しまして…

最近では ノーベル賞学者も

2人ほど出すというような事も
ありましてね

そういうような成果として
大きな分野に育ったという

それが 一つの業績ですね。

さあ
今日最後のオススメメニューは

こちらなんです。

晩年の長義は
薬学だけではなくて…

一体 どういう事だったのか
ご覧頂きましょう。        はい。

お相手は 17歳年下の
ドイツ人女性…

出会いは
旅先で泊まっていたホテル。

長義の一目ぼれでした。

デートに誘ったり テレーゼの
ふるさとに行ったり 猛アタック。

2人は結ばれ 長義の帰国に伴い
共に 日本に行く事を決めました。

しかし テレーゼの両親は

娘が 遠い異国の地で
生活する事に反対。

その時 テレーゼは
こう言ったといいます。

強い決意のもと
2人は 海を渡りました。

東京で テレーゼは
積極的に日本人と交流し

言葉や風習を
習得していきます。

国際交流の意欲に満ちた
テレーゼや

かつて ドイツの大学で熱心に学ぶ
女子学生を見てきた長義は

日本の女性も
もっと社会に出るべきだと

考えるようになります。

明治30年
長義は 東京・赤坂発祥の…

校長も務めます。

海外との交流が増えていく中
女性に向けた外国語の教育を実施。

テレーゼも
ここで ドイツ語を教えました。

雙葉会の名の由来は…

1本の茎の先に 2枚の葉をつける
フタバアオイのように

語学の勉強を通して
日本とヨーロッパの女性が

深い友情で結ばれてほしいという
願いを込めたものです。

雙葉会は やがて女子教育の名門
雙葉学園になり

全国各地に姉妹校も作られ
発展していきます。

東京・目白に 女子高等教育機関
日本女子大学が創設されます。

長義は 校長から依頼され…

良妻賢母が目標とされ

専門性の高い知識を学ぶ機会が
少なかった女子学生のため

長義は 男性と並ぶ教育に
力を入れました。

長義は
学生たちに言い聞かせます。

(一同)はい!

更に長義は 日本女子大学内に

「香雪化学館」という研究施設を
自ら設計。

全国の大学でも類を見ない
本格的なドイツ式の設備のもと

学生たちを熱心に指導しました。

長義のもとで 化学に魅了された
学生の記録が残されています。

化学の実験は やり方が同じなら

女も男も同じ結果が出る。

そうした 人間には
絶対曲げられない自然法則を

自ら実感する喜び。

明治の日本社会に縛られる
若き女性に

新たな価値観が芽生えました。

生き生きと学ぶ学生たちに
長義は

若き日の 長崎やベルリンで学んだ
心掛けを伝えました。

実験が うまくいかずに
落ち込む学生には…。

その反面 長義の指示に対して
ある言葉を言い返す学生には

意外な厳しさも…。

私は今 リン酸の分析しか…

すると…。

(長井)どんどんどんどん挑戦して
どんどんどんどん失敗するんだ。

失敗した事を
ノートにとって…。

立ったまま
1時間も 説教をしたといいます。

自分で考え 試し
失敗からも 自然の法則を学ぶ。

長義の教え子からは
日本初の女性薬学博士など

女性研究者の先駆者たちが
巣立ちました。

長義は 83歳で
人生の幕を閉じました。

長義が 教育に力を注いだ
その傍らには

生涯を共にした
テレーゼがいました。

2人は 教え子たちの
憧れでもありました。

いかがですか 八木さん。

ちょっと びっくりしました。
縁がありましたね。

そう。 知らなくて
ほんと 申し訳なかったです。

女子教育に力を入れたのは

この 妻 テレーゼの影響だった
という事ですけれども

テレーゼさんというのは
どういう方だったんですかね。

ハハハハハ!
そこは意外と…。

ほんとシンプルに そこは。
理屈じゃなくて。

非常に 「春に会ったような
気分になる」というような事が

回想されてますので

非常に聡明な すばらしい
女性だったんじゃないでしょうか。

テレーゼさんの影響で 女性教育に
力を入れられたんですか?

さっきの雙葉学園なんかも

テレーゼさん自ら
教えに出かけていって

家庭経済とか いろんな
そういう事を教えたという

話がありますね。
今ではね ちゃんと勉強すれば

男性でも女性でも 結果が
同じように出せるというのは

当たり前の事ですけれども 当時は
だから 本当に革新的なというか。

教師は
何をする人なのかというと…

ゴールが不明確な問題。

何か 今まである回答ではなくて。

そうですね。

…というような気さえ
する事がありますね。

さあ 改めてなんですけれどもね

日本の薬学の父 長井長義の人生の
切り開き方 ご覧になって

子さんは いかがですか。

本当に 当時の常識や
ある種の空気も読まずにね…

積み上がっていく事で…

ご来店 ありがとうございました。
ありがとうございました。


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