英雄たちの選択「三成の軍師・島左近奮戦す!~関ヶ原・逆転のシナリオ~」 和田哲男、原田眞人、外岡慎一郎…



出典:『英雄たちの選択「三成の軍師・島左近奮戦す!~関ヶ原・逆転のシナリオ~」』の番組情報(EPGから引用)


2018/09/06(木) 
英雄たちの選択「三成の軍師・島左近奮戦す!~関ヶ原・逆転のシナリオ~」[字]
最近、書状が発見され、がぜん、注目を集めている石田三成の軍師・島左近。左近の戦略をもとに、逆転関ヶ原の戦いのシナリオに迫る。
詳細情報
番組内容
石田三成に、2万石の高禄で召し抱えられたといわれる軍師・島左近。彼は、何度も、打倒家康の策を提案したが、常に三成に、時期尚早として退けられた。天下分け目の決戦の前日、杭瀬川の戦いで西軍が勝利した直後、左近は、最大の勝機とみて、三成に攻撃を進言する。もし、これが実行に移されていたら、関ヶ原の戦いは、まったく違う展開をしていた可能性があるという。島左近からみた逆転関ヶ原の戦いを徹底的に分析する。
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】小和田哲男,原田眞人,外岡慎一郎,【語り】松重豊 



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英雄たちの選択「三成の軍師・島左近奮戦す!~関ヶ原・逆転のシナリオ~」
  1. 左近
  2. 三成
  3. 家康
  4. 関ヶ原
  5. 戦い

  6. 杭瀬川
  7. 西軍
  8. 東軍
  9. 思うん



『英雄たちの選択「三成の軍師・島左近奮戦す!~関ヶ原・逆転のシナリオ~」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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天下分け目の決戦
「関ヶ原の戦い」で

勇名をとどろかせた武将がいた。

男の名は 島 左近。

石田三成の軍師として知られた
天下の猛将である。

その勇姿は

戦場で目の当たりにした敵からも
称賛された。

「左近は かくれなき強者

その声は 戦場に

雷鳴のごとく
響き渡った」。

だが 左近の実像は
生まれた年や出身地

本名すら不明な
謎多き人物であった。

ところが 2016年

左近直筆の書状が
発見されたのである。

今まで…

全く… よくね

実像が分からなかった
人物なんですけど

これで本当に 本人が書いたものが
出てきたので…

今 改めて 左近の実像に

注目が集まっている。

関ヶ原の戦いの
勝敗の鍵を握っていたのは

実は 軍師 島 左近の
作戦にあったのではないか?

左近は 事あるごとに

三成に
必勝の戦略を進言していた。

もし 左近の作戦が
実行に移されていたならば

その後の歴史を覆す

西軍大逆転の可能性が
見えてくる。

そして 左近の奮戦を描いた…

その絵から読み取れる…

島 左近 幻の西軍大逆転の
シナリオをめぐり

さまざまな専門家が
熱い議論を交わす。

この人はね…

映画では殺しちゃいましたけど
島 左近を。

そこなんですよ!

関ヶ原の戦い
伝説の武将 島 左近。

西軍大逆転
その幻のシナリオに迫る。

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

その時 彼らは
何を考え 何に悩んで

一つの選択をしたんでしょうか?

さあ 今回取り上げるのは こちら。

皆さんご存じの 関ヶ原の戦い。

日本の歴史の中でも 最も有名な
天下分け目の決戦ですよね。

この番組でも
何度も取り上げてきました。

「またか!」と思う人も
いるかもしれませんけど

今日はね…


お~! 今回の主人公 こちらです。

石田三成の軍師 島 左近です。

以前 放送した
大谷吉継に続いて

三成を支えた天下の猛将ですよね。

この島 左近の視点から
今回 関ヶ原の戦いを

お届けするという事なんですね
磯田さん。

島 左近 とても人気高いですね。
嫌いという人は あんまりいない。

しかし もう ほとんど
負けたほうっていうのは

実像が伝わってない。 うん。

江戸時代に書かれた逸話も
多いけれど

実際 同時代の史料
彼が生きてた頃の史料は

ほとんど出ない。 最近…

それだけ謎の多い
人物なんですね。   そうですね。

分かっているのは
関ヶ原の戦いで

重要な役割をした事ですね。
はい。

それでは 関ヶ原の戦いに至る
その背景から ご覧いただきます。

江戸時代に ささやかれた言葉。

「三成に 過ぎたるものが
2つあり。

島の左近と 佐和山の城」。

天下の猛将として後世に知られた
島 左近。

なぜ 左近は
三成に仕える事になったのか?

江戸時代の逸話が残されている。

ある時 秀吉は
4万石の大名となった三成に

「さぞ多くの家臣を
召し抱えたであろう」と尋ねた。

この時 三成

「島 左近一人
召し抱えました」と
答えた。

秀吉は言う。

「左近は世に聞こえたる者。

そちのもとに小禄で
どうして
奉公する事ができようか」。

三成は答えた。

「4万石の半分を分かち
2万石を与えました」。

これには 秀吉も驚いたと伝わる。

三成の軍師として名をはせた
島 左近。

だが 左近の実像は史料が少なく

これまで
ほとんど知られていなかった。

ところが 2016年
大きな発見があった。

左近の直筆書状が
大阪で発見されたのである。

石田三成の研究家として知られる
太田浩司さんは語る。

確認されてるものが。 初めてです。

この 「嶋 左…」
ヤマドリのほうですね。

「嶋 左」
それで「清興」というふうに

入ってると思います。 これで

「島 左近 清興」というふうに

彼の名前が 今までは ちょっと

あまり
明確ではなかったんですけど

この実名も
やはり
「清興」であった

という事が
明確になった
という事ですね。

天正18年7月。

北条氏 滅亡直後に
書かれた

左近の直筆書状である。


常陸の大名 佐竹義宣の重臣に
宛てたもので

検地の実施や
兵粮米の
徴収などの

統治方法を指示した
内容が記されている。

我々にとっては…

戦いで こう 先頭切っていくのは
いいですけど

こういうふうな…

豊臣秀吉により 北条氏は滅亡。

代わりに 関東へ転封したのが
徳川家康である。

豊臣政権最大の領地を有する家康。

その抑えの役割を
期待されたのが

常陸の大名 佐竹氏であった。

新発見の書状は 左近が早くから

対家康攻略の役割を
担っていた事を示唆している。

関ヶ原の戦いの2年前

左近と三成の運命を
大きく左右する大事件があった。

天下人 秀吉の死である。

この時 秀吉の後継者 秀頼は

僅か6歳。

豊臣政権の実力者 徳川家康と

政権を支える奉行

石田三成の対立は

日ごとに増していった。

そこで初めて 左近は
家康攻略を 三成に進言した。

「いまや 石田の家を
憎む者の多くが

家康に心を寄せている」。

敵の勢力が増す前に

家康を討つべきだ
というのである。

左近の作戦とは こうだ。

家康の領国 関東は遠く
兵を動かす事は難しい。

一方 三成に味方する者は

畿内周辺に多く

兵を募れば 5~6万は集まる。

会津の上杉や 佐竹と謀り

家康不在の関東を攻撃。

家康打倒など たやすい事である。

しかし 三成は「時期尚早」と

左近の策を
採用しなかったのである。

まさに 島 左近は 武将として…

そういう思いで動いてるんですね。
だから…

ところが 一方の主人である…

やや一歩 後れるというか

三成的な立場からすると

ちょっと汚い手は使いたくないね
っていう思いがあって

たぶん 島 左近の はやる心を

抑えたんじゃないかなと思います。

三成と家康。

2人の対立の
発火点となったのが

関ヶ原1年前に勃発した
「七将襲撃事件」である。

豊臣政権の重鎮
前田利家が死んだ その日の夜

三成に不満を募らせた…

三成は 大坂から伏見に逃れ
九死に一生を得た。

だが この騒擾事件の責任をとり

三成は 居城 佐和山城に
逼塞を命じられたのである。

しかし 左近は これを

家康攻略 第2の好機と
捉えたのである。

左近の作戦とは
次のようなものである。

「三成の失脚で
家康は油断している。

その機に乗じ
佐和山城の兵8, 000を率いて

家康のいる伏見へと攻め上る。

家康邸を包囲し
一気呵成に
攻めかかれば

家康を討つ事など
容易である」。

だが 三成は
またもや 左近の策を却下した。

ところが 左近は諦めない。

家康攻略 第3の秘策があった。

慶長5年6月

家康は豊臣政権に対し
反旗を翻した

会津 上杉景勝を討伐するため

大坂城を出陣。


この時 家康は近江を抜け
東海道で江戸へ向かう。

左近は 三成に

「家康は近江の要衝
水口に宿泊する。

そこで 夜討ちをかけよう」と
進言する。

この進言に 三成は応じた。

「すでに
長束正家と
謀議を行い

家康を襲撃する
手はずである」と

答えている。

水口城主
長束正家は

三成と同じ
五奉行の
一人だった。

「この機を逃すべからず!」。

ようやく 三成の
許しを得た左近は

3, 000の兵を率いて
出陣した。

だが…

後に 三成の盟友

大谷吉継も
こう語っている。

「家康は 今
すでに江戸に帰るを得る。

これ
虎を千里の野に放つなり」。

名将 吉継もまた 左近同様
江戸へ向かう前に

家康を討つべきだと
考えていたのである。

畿内脱出を果たした家康が

無事 江戸に到着したのが
7月2日の事。

同じ日 近江 佐和山で
三成は 反家康の兵を挙げた。

そして ここから

左近の新たな家康攻略が
始まろうとしていた。

今回も さまざまな分野の
専門家の皆さんに

お越しいただきました。
よろしくお願いします。

昨年 大きな話題となった
映画「関ヶ原」の監督

原田眞人監督にも
お越しいただきました。

よろしくお願いします。
よろしくお願いします。

原田さん 映画では
左近が かなりの重要人物として

描かれていますが

どういった計画で
描こうとしたんですか?

もともと 関ヶ原を描く時には
島 左近を主役にするのが

一番納得できるんだろうなという。

三成じゃなくて?
そもそもの発想は そうなんです。

三成が好きになるのは
50歳過ぎてからですから。

ようやく 三成と自分との
共通項が見つかりだして。

そこまではね やっぱり

「島 左近」「島 左近」「島 左近」
なんですよね ずっと。

やっぱり こう…

左近と三成
この関係性というのは

いわば 主従関係かなと
思うんですけど

小和田さん
その関係の割には 島 左近は

結構 自由に進言する事が
できたんですね。

戦国時代っていうのは
結構 主人というか

トップとナンバーツー
っていうのは

意外と 近い
関係なんですよね。

ですから 島 左近が
三成の家臣なんだけれども

結構 言いたい事を
言うっていうのは

そういう関係があったから
できたわけで。

例えば 上杉家で言うと 例の
上杉景勝の執政といわれる

直江兼続ですね。
あの関係に私は近いと思います。

何でも言えるような
言い合えるような

家臣だったっていうところが

この時の 島 左近の置かれている
立場じゃないですかね。

それにしても 左近って
本当に ぶれないといいますか

外岡さんから見て
左近が 家康を攻略するための

作戦は どのように考え…
映りましたか?

やはり 三成は 堂々と戦って

勝ちたかったんだろうな
というのはあるんです。

ところが 左近

あるいは 大谷もそうだと
思うんですけれども

ともかく まず
家康を討つという

最優先課題を

どう実現するか
というところで

戦略を立てていくという

そういうスタンスだったんだと
思うんですね。

ただ 実際…

そうすると
兵の数だけではなくて

果たして 本当に そこに…

その辺りの非常に緻密な計画が

その場合には
必要になってきますよね。

だから 大枠として
やっぱり 現実的に

家康を狙うっていうのは
間違いないんだけれども

非常に困難はね それに伴って
あったんだろうと思いますね。

やっぱりね 家康だけを
やっつけちゃえばね

あそこ…
子どもの秀忠 そんなに戦に

度胸がある人じゃないんで
へなへなに なるんですよ。

やりゃ 良かったんですよ。

島 左近の
これは江戸時代になっての

記録だけれども

水口で 家康を
逃してしまったけれども

やる前に
こんな事 言ってるんですね。

「今だ」と。

つまり この人はね…

テングの状態だと 強いから
やっつけられないんですけど

テングが
トンビに化けた瞬間だったら

たたき殺せると。
クモの巣だって引っ掛かると。

だから 彼は見たんでしょう
きっと。

水口を通過する時が…

実際には
すり抜けたわけですね 家康は。
そうですよね。

さあ それでは
ついに挙兵した三成。

どこで東軍を迎え撃つべきか。

知られざる左近の戦略に迫ります。

この時 三成の戦略とは 一体
どういうものであったのか?

西軍に与する
真田に宛てた書状から

三成の戦略が読み取れる。

「家康は 背後に
上杉 佐竹という
敵を抱えている。

僅か3~4万の
兵力で

上方へ
20日かかる道のりを

上洛するのは難しい。

たとえ
上洛したところで

尾張と三河の国境で
討ち取れる。

これは 天が与えた
好機である」。

つまり 三成は 西軍を
尾張と三河の国境付近に結集し

ここで上洛してくる
東軍との決戦を構想していた。

佐和山城を出陣した三成は
大垣城 岐阜城などを調略。

美濃の大名衆を味方につける事に
成功する。

東軍を 尾張 三河の国境で
迎え撃つためには

尾張の拠点 清洲城の開城が
急務であった。

清洲城主は 三成を襲撃した
七将のうちの一人

福島正則である。

正則は 上杉討伐出兵のため不在。

そのため 三成は 清洲城に近い
大垣城に本陣を構えた。

この時 左近には
新たな秘策があった。

史料には こうある。

左近は 三成に
「本陣を大垣城でなく

尾張の熱田に置くべきだ」と

進言したのである。


なぜだろうか?

熱田神宮の門前町として栄えた
熱田。

東海道のルートは
熱田から三重県の桑名までが

唯一の海の道 海路となる。

その距離 七里。

そのため 熱田の港は
「七里の渡し」と呼ばれた。

熱田は
現在の名古屋中心部から続く

台地の南端に位置している。

江戸時代に
埋め立てられた
熱田周辺は

それ以前
見渡すかぎりの干潟が
広がっていたのである。

海上保安庁の潮位計算ソフトから
当日の潮の様子を見てみよう。

三成が 大垣城に入城した
慶長5年8月11日は

西暦1600年9月18日にあたる。

干潟を徒歩で渡る事のできる
潮位100cmを下回るのが

午前7時から10時まで

僅か3時間に限られたのである。

もし…

だが…

関ヶ原の後に書かれた
西軍側の史料には

三成の判断を非難し

「左近の申す事
尤もか」と

残念がっている。

三成が大垣城に本陣を構えた
8月11日

東軍先鋒は岡崎に到着。

難所とみられた熱田を
無事に通過した東軍は

その2日後 清洲城に入城した。

三成が当初 構想していた

尾張 三河国境での東軍迎撃策は
崩れ去った。

東軍の進攻を迎撃する西軍。

しかし 西軍は各地で撃破され
前線拠点であった岐阜城も陥落。

東軍は 大垣城の
僅か4キロ先の
赤坂に進出。

西軍は 宇喜多や
島津などが集結。

東西両軍は
杭瀬川を挟み

にらみ合う形で
布陣した。

西軍陣営に 衝撃が走った。

東軍本陣の赤坂に

金色の扇を模した馬標が
掲げられたのである。

家康が到着した
という証しであった。

東軍総大将 家康
突然の出現に

大垣城に動揺が広がる。

そして…。

磯田さん 私 ここまで見てきて
素朴に思うんですけれど

何で 三成は 左近の言う事を
聞かないんですか?

そこなんですよ。
何でよ!

あのね やっぱりね 三成もね

全部 自前の軍で
戦ってるんだったら

言う事 聞いて
できたと思うんですよ。

三成の自前の手勢って
6, 000ぐらいですよ。

何せ 19万5, 000石ぐらいですから。

だけど あと 集まってきてる

もう 10万だとか何だとか
っていうような…

だから これを率いて
言う事を聞かせて

勝利を得るというのは
非常に苦しいと。

苦しいから 聞けない?
それと あと…

上品なんですよ。
で 恩義もあるんでしょうね

たぶん 三成に。

ただ これは あの時に
東軍が こう 来たのは

家康 いないじゃないですか。

だから それで なおかつ もう一つ
一番重要なのは 石田方の…

だから 情報が入んなかったから

家康が どう動くか
分からないっていう。

家康 隠れて やって来てて
どこにいるか分からなかったの。

だけど 僕が思うには…

家康が
いる いないにかかわらず…

それ たたくのは
いいんですけど

そこで 今度
中山道に向かってる部隊も

当然… 初期の情報として
あるんじゃないですか。

向こうからも
来るかもしれないと。

そこで もし 戦が長期化したら

これは
やばいんじゃないかなっていう。

本気だったですか。

戦争に勝つためには
一番大事なのが

「集中の原則」っていって
自らの兵を集中した段階で

相手側が 兵が分散したところで
たたくっていうのと

「攻勢の原則」っていって
こちら側が踏み出して

勢い良く どこで狙うって
決めるわけですね。

なので ヘビが穴から出てくる

ここに 顔 出すよ
っていうところで

バチンってやるんですよ。

そこへ
ものすごい兵力を集中して。

その時は まだ うろうろ 秀忠は
中山道を… してますから

早いうちに踏み込んで
たたかないと

秀忠に合流されちゃうと
まずいんですよ。

だから 一応 セオリーから言うと
熱田で襲うっていうのは

僕は ありっていうか
こうじゃないといけないと。

やっぱ すごいなと思って
見てました。

私も やっぱり できたら…

そういった意味では
こう 何ていうのかな…

そこで 徳川の大軍
どのぐらいになるか

分からないけど
それを迎え撃つっていうのも

ちょっと 二の足を踏んだのかな
っていうのが 一つ あります。

三成ってね 全部 準備が整って
正々堂々に戦うものだっていう

戦争の思想を持っているように
私 思うんですよ。

でも 戦争って
機に乗じるものですから

こちら側の準備が
整わないっていう事は

相手側も整ってないというわけで
流れの中で

もう 情報も 3割ぐらいありゃ
いいんです。

準備も
3割できてりゃ いいんです。

もう… 見込みでいくものなんです
こういうものは。

それができないんですよね。

だから 左近は それができる
人間だったんですよね

臨機応変に。
外岡さんは いかがですか?

タイミングっていう事で
言えばね

「8月8日」って
さっき 日付 出ましたよね。

あの時点だと 僕らは

北国筋と 東海道筋 東山道筋
という事で考えますけど…


だから あそこは 当面
軍事的な危険はない。

先鋒軍だけが
家康のいない状態で来てる。

これをたたけば。 特に…

とにかく 熱田までなら
で あれは いい場所だから

ここで とにかく
挟み撃ちにすると。

もともとの発想が
そこであればですね。

これは 非常に有効な策だったと
思いますね。 残念ですね。

皆さんのお話 聞いて
原田さん いかがですか?

熱田進出策について。

それは賛成なんですけど ただ
あの時点の三成にしてみれば

諜報ネットワークが
全部 全て壊滅してて

何にも 情報が入ってこない。

だったら 下手に動かないほうが
いいというふうに

三成の… 僕としては
考えますけどね。

さあ 西軍の敗戦が続く中

左近には
起死回生の秘策がありました。

左近 逆転のシナリオに
迫っていきます。

関ヶ原の戦い前日…

西軍本拠地…

動揺が広がる中
急ぎ 軍議が開かれた。

この時 左近は
こう主張したという。

「このような時には
戦をいたし

兵に勇気をつけなければ
味方は敗軍に及ぶべし」。

これこそ 左近の
究極の家康攻略の秘策だった。

そして…。

大垣城と赤坂の間には
杭瀬川が流れている。

この川を境に
東西両軍が布陣していた。

ここで行われたのが

世に言う
「杭瀬川の戦い」である。

城内の郷土博物館には

不思議な
「関ヶ原合戦図屏風」がある。

全国に10点以上確認されている

「関ヶ原合戦図屏風」の中でも

極めて珍しいものである。

向かって左側の屏風には

本戦である9月15日の

関ヶ原の戦いが描かれる。

ところが 右側の屏風には

前日に行われた局地戦
杭瀬川の戦いが描かれている。

なぜ 関ヶ原の戦いと
同じ大きさで

杭瀬川の戦いが
描かれているのか?

実は この戦いこそが

その後の勝敗を左右する

重要な
合戦であったのではないか?

屏風に描かれた

杭瀬川の戦いを見てみよう。

右上方には 家康本陣の赤坂。

左下方には
西軍陣地が
描かれている。

左近は 家康本陣を目指し

杭瀬川を渡ったところで
東軍を挑発する。

これに反発した東軍が
突撃を開始。

一旦 退却する左近隊。

東軍は川を渡り
西軍陣地へ攻め込む。

それこそが 左近の狙いであった。

川を渡った東軍を
待っていたのは

伏兵の一斉射撃。

反転した左近が
敵に猛攻をかける。

この時 東軍の
名のある武将など

30人余りを討ち取ったとされる。

これに慌てたのが家康である。

家臣の井伊直政 本多忠勝に
撤退を命じた。

戦線の拡大を恐れたためと
考えられる。

行田市郷土博物館の
鈴木紀三雄さんは

杭瀬川の戦いの屏風絵には
重要な意味があると指摘する。

結果から見れば
この戦いっていうのは

東軍の勝ちであるという事に
なると思うんですけども。

天下分け目の決戦前日に行われた
杭瀬川の戦い。

ひとまず 戦いに勝利した左近。

次なる一手とは?

その心の内に分け入ってみよう。

この機を逃すべからず!

一気呵成に夜襲をかけ
家康の本陣を狙うべきか。

杭瀬川の勝利で
我が軍の士気は高まっている。

今は 勝ち戦を積み重ねる事こそ
肝要であろう。

左近の脳裏に
浮かんだ 夜襲。

古来 夜襲は
戦局を一変させる
戦術である。

事実 西軍の名将 島津義弘も

軍議の席で
夜襲を主張したと伝わる。

だが 百戦錬磨の家康の事

今日の敗戦で 夜襲には
警戒を強めている事であろう。

やはり ここは 関ヶ原へ転進

東軍に対する迎撃態勢を整え

決戦を挑むというのが得策か。

実は この時 西軍諸将を悩ます
問題が発生していた。

秀吉のおいであり
西軍に参加した
大名である。

だが
西軍諸将にとって

常に疑わしい
人物でもあった。

家康が赤坂に姿を現した正午。

それに歩を合わせるように

秀秋は
西軍陣地の松尾山に着陣した。

史料にも こうある。

「家康の着陣に驚いた
西軍であったが

同じ時分に
秀秋が着陣した

というのは
理解できず

きっと秀秋と家康は示し合わせ

内通しているだろうと
話し合った」。

杭瀬川を挟み
西軍と東軍は対峙。

西軍主力は大垣城。

その後詰めを担うのが

南宮山の毛利と
山中の大谷吉継である。

その間にある
松尾山に秀秋は布陣。

もし 秀秋が家康と内通すれば

西軍は挟撃されてしまう。

ここで大垣城の西軍主力が

関ヶ原に本陣を移せば

秀秋の動きを封じ
防衛ラインを

築く事ができるのである。

事実 三成の盟友 大谷吉継は

いち早く 関ヶ原周辺に
陣地を構築していた。

西軍にとって関ヶ原転進は

予定された作戦の一つでもあった。

「夜襲か それとも
関ヶ原へ転進すべきか」。

苦悩する左近に
選択の時が近づいていた。

あの屏風絵に 関ヶ原の戦いの
前哨戦となる杭瀬川の戦い。

あれほど大きく扱われているのは
ちょっと意外でしたけれど。

やはり 関ヶ原の戦いというのは

もう少し
広く見る必要があるだろう。

やはり 杭瀬川の戦い これは…

まだ 家康が到着したばかりで。

で 家康が本陣を置いたといわれる
岡山っていうのは

本当に
ちっぽけな山なんですよね。

ですから そこに
いわゆる 東軍が

集結してって事は
ありえないわけで。

しかも…

その状態で襲えば

あるいは戦いを仕掛ければ…

そういうところに
賭けたんだと思うんですね。

ところが やっぱり…

そこを… そこから先は
駄目だという事で止めに入る。

相当 井伊や本多は
敵と味方の間に

こう 割って入るような事をして
止めたともいわれているので

命を落とす可能性だって
あったと思うんですよね。

それくらい やはり必死に止めた
っていう事の意味も…

昼間になってから こそこそ
伏兵入れたって ばれちゃうんで

杭瀬川で戦う事を想定して

夜中のうちに
配置するんですからね。

それで 相手側に打撃を与える
っていう見事な事をやると。

こんな事をされたら

ここで 戦線拡大したって
いい事は一つもないと。
ああ…。

家康がね 城攻め苦手だっていうの
島 左近は知ってますから。

だから 杭瀬川で挑発して

それに乗って
攻めてくれば めっけものだ。

なるほど。
さあ その左近の選択に迫ります。

西軍勝利のため
夜襲をかけるのか

それとも
関ヶ原へ転進すべきなのか

皆さんが左近の立場なら
どちらを選びますか?

まず 小和田さん
どちらを選びますか?

はい 私はですね

関ヶ原へ転進するほうを選びます。

というのは
よく一般的にいわれるのは

この時 西軍が
関ヶ原へ転進したのは…。

うその情報を
真に受けてっていうふうに

いわれてるんですけど

もちろん その側面も
ないわけではないんですけど

私は むしろ…

もう あらかじめ作戦として
考えていたというふうに

考えてますけどね。

原田さんは いかがでしょうか?

僕は 夜襲をかける
っていうほうなんですけどね。

ただ 関ヶ原自体は

今 小和田先生
おっしゃったように

三成の笹尾山の陣地ですけど

ベースはね
かなりできてたと思うんですよ。

あそこ 抜かれちゃったら
佐和山城 落とされちゃうんで。

最初から
あそこで抑えるっていう

気持ちはあったと
思うんですよね。

そういう意味で
関ヶ原っていうのは

そこで 準備は
ある程度できてるから。
ええ。

これは 夜襲をかけるという

左近は それは強く勧めたと
思うんですね。

僕は…

というのは 夜襲は

当たり前の事ですけど
暗い所で戦うじゃないですか。

島 左近が全部やっちゃった。

これは やっぱり…

夜襲だと
宇喜多勢が沈んじゃうっていう

そういう気持ちが半分で

宇喜多秀家っていうのは
三成をつついて…。

だから 三成が
宇喜多秀家を抑えて

自分の意見を通すって事
できなかったと思うんですね

あの状況だと。

桁が違う。
もう全然…。

だから 発言力も
私はね 大きかったと思う。

私も 夜襲をかけるというのを
選びたいと思いますね。

やはり 一旦 とにかく
杭瀬川で 西軍勝利ですよね。

その勢いというものを
大事にしながら…。

しかし 一旦 家康の判断で

停戦というか
そういう状態になってると。

この戦いを
やめたくないわけですよね。

夜襲をかけて 動揺をさせて。

場合によっては そこで…

大体 普通 籠城戦っていうのは…

そうすると 小早川も…
南宮山の連中も

ちょっと不安になるわけですね。

いくら
家康と盟約があったとしても。

その辺りの事を考えると…

なるほど。
皆さんの意見を踏まえて

磯田さんは
どちらを選択しますか?

はい これ 結構 いけますよ。
力強く言いましたね。

あのね たぶんね…

この一夜だけですか?
この一夜だけ。

この一夜の この瞬間の
夜襲を逃しては

彼らに 勝利の扉は

開かなかったというぐらい…。
ええ。

ほんの… 戦で勝てる瞬間って
数時間であるような

本当に そんなもんですよ。

なぜかっていうと

家康は 岡山という
小さな山の場所に

点で存在してる事が
はっきりしてるわけですよね。

これに
宇喜多が賛成してくれれば…

夜のうちに もう…

ええ。
これは ありがたいですよ。

杭瀬川の戦いで
自分たちは攻勢をとっていて

向こう側は
士気が落ちてるんですよ。

ひょっとしたら
やれるかもしらんと。

そのうえ 長い間 来さされて

今晩 寝たいと思ってたのに
移動が終わったら

杭瀬川で 向こうのほうで
人は 負けて帰ってくるわ

「今日は眠りたいわ」と言ったら

いきなり ときの声が上がって
袋だたきに遭うって

この日じゃないとな…

ええ。

さあ いよいよ 決戦の時が
近づいてまいりました。

左近は いかに戦ったのか
関ヶ原の戦いの幕開けです。

西軍最後の軍議で
左近は こう主張したという。

「今夜
夜襲をかけるほかない。

敵に
勢いをつけさせぬうちに

敵をたたく事こそ
肝要である」。

だが… 三成は
関ヶ原への転進を決断。

その背景には 小早川秀秋の動向が
大きかったとみられる。

史料には こうある。

「三成が 大垣を出て
関ヶ原へ向かったのは

秀秋の謀反が露呈したため

その動きを封じるためだという」。

左近は 三成の意見に従い

関ヶ原への転進が決定した。

9月15日未明

大垣城から関ヶ原へ
無事 転進を果たした西軍。

それを追い 東軍も関ヶ原へ移動。

東西両軍合わせて およそ15万。

いよいよ 天下分け目の決戦

関ヶ原の戦いの幕開けである。

左近は 三成の先鋒大将として
最前線で奮戦。

左近の戦いを
目の当たりにした者たちは

こう語っている。

「左近が率いた兵たちは

皆 えりすぐりの者ばかりで

槍を合わせると さっと退き

追撃する者を
陣近くまで引き寄せ

一気に殲滅するという
手だてであった。

今 思い返しても
身の毛が立ち

冷や汗が出るほどである」。

だが…。

左近は 乱戦のさなか

銃弾を受け 重傷を負った。

これにより 左近の隊が崩れた。

これを見逃さなかったのが

松尾山の秀秋である。

「島 左近の陣が崩れると

秀秋は 時分よしと
采配を振るい

かかれと命じた」。

この一撃が きっかけとなり
西軍は総崩れとなった。

西軍は敗れ去った。

最前線で奮闘した…

そのすさまじい戦いぶりは

後々まで 語りぐさとなった。

「鬼神をも欺く

島 左近のその日のありさまは

今でも目の前にあるようだ」と。

だが 左近は本当に
関ヶ原で戦死したのだろうか?

京都にある教法院。

そこに
島 左近のものと伝わる墓がある。

墓碑には
「寛永九年
六月二十六日没」と

刻まれている。

それによれば
関ヶ原の戦いの後 生き延びて

32年後に亡くなった事になる。

こちらが戦国武将の
島 左近のお位牌になります。

「大神儀」っていうのは

「神様」
というような
意味がございますので

人というよりは
戦国武将の神様になられた

というふうにして

当寺庵では
おまつりをさせて
いただいております。

関ヶ原では負けましたけれども
「正義」…

左近が戦場を脱し
生き残ったという伝説は

滋賀や静岡 岩手

そして 長崎など

全国各地に伝わっている。

江戸時代を通じて
武士の鑑とたたえられた

島 左近。

左近に対する人々の思いは

伝説となり
今なお生き続けている。

関ヶ原の戦いは
僅か半日で終わり

西軍が敗れる結果と
なってしまいました。

う~ん
左近の策を採用していれば

西軍 逆転勝利の可能性も
あったんじゃないの? 三成!

…みたいな感じがするんですけど。
どうでしょう?

いや 左近自身が
そう思っていたようで

夜討ちの策が
入れられなかったあとに

彼が語った言葉っていうのが
江戸時代の文献にはある。

…と 家臣に頼んでいるので。

もう 彼はよく見えていて
夜討ちができなかったら

もう これは10分の1の成功確率も
関ヶ原で戦っても ないと。

早く うちの母親を避難させる事が
先決だと言ったという。

だから もう 駄目だこりゃと。
ただ…

そうすると 関ヶ原に行けば

あれだけ
恨みを買ってる三成ですから

ねえ たぶん…

ものすごい きちっとした
策を作って

これと対峙するわけですよね。

戦闘レベルの
指揮を執らなきゃいけなくなる。

しっかりやるわけですね
それ 最後まで 責任持ってね。

小和田さんは どうでしょうか?

そうですね…

ですから そこで…

そういう形で
戦場に臨んだんだと思いますね。

ただ いかんせん
三成 家臣6, 000ですから…

最近 関ヶ原の戦いの

どういうふうな戦いだったのか
っていう事の

シミュレーションが だいぶ
変わってきてるところがあって。

それで 実際 小早川に攻められた
っていう話になりますけど

これも 松尾山から
大谷の陣が来るんじゃなくて…

前がかりになってるところを

後ろから突かれたという事だと
思うんですね。

しかも 藤堂隊とも

そこで
当たってるわけですけれども…

ですから 割合…

原田さんは この左近は

どんな思いで
戦いに臨んでいたと考えますか?

僕は実を言うと 映画では
殺しちゃいましたけど 島 左近を。

壮絶に。
はい。

僕は…

やはり 戦うだけ戦って…。

あれだけの豪傑がですよ。

声の大きさも何もかも みんな
分かってるわけじゃないですか。

それが
見つかってないわけですよね

遺体としてね。
首も出てないですね。

首 出てないですからね。

だから これは
うまく逃げたなっていうか

やるだけやって…。

だから 戦うだけ戦って
あとは やはり 家族の絆を

どう大切にするかみたいなね
そういう

ロマンティック・フールだった
っていうふうに

僕は信じたいですけどね。
ええ ええ。

小和田さんは いかがですか?
この不死伝説というのは。

うん 不死伝説。
私は やっぱ 左近は

討ち取られたかなというふうに
思うんですけどね。

というのは やっぱり
負け戦なんだけれども

これだけ 後世 英雄視される

いわゆる 英雄不死伝説の
一つなんですけど。

これは 昔の

いわゆる 「戦国武士道」という
言い方をしますけれど…

これは 「大内義隆記」という史料に
出てくるんですけど。

それを
見事にやってるからというか

そこで戦場で死んでるから
いろんな人たちが

いや 左近は あそこで死なせちゃ
もったいないよという事で

不死伝説が いろんな所に
生まれたんじゃないかなと

思ってますけどね。
うん。

やはり 小和田先生が
おっしゃったように…

逆に みんなが
生かしたいというか。

というのは 何となく
やっぱ 島 左近って

僕は 楠木正成と ダブる
イメージがするんですけど。

楠木正成の場合 戦死のしかた
自決してますけど

それが語り継がれてるわけじゃ
ないですか。

それと同じような
生き方をしてきて

同じような戦い方をしてきて

それで もし 死ぬとしたら
やはり その死にざまっていうの

みんなが語っていたと思うんです。

フフフフフ… 確かに。

磯田さんは 島 左近
改めて どう思われますか?

僕は 見事な人だったなと
思いますよね。

世の中に
良い知恵があるという事と

良い知恵を実行に移す事が
できるかどうかは

別の事であるっていうのは

いつもあるわけですよね。
ええ。

本当に これ見てても

洞察力 見破る力のある人の
言う事を聞くっていうのは

非常に重要だっていう教訓をね

僕らにも言ってると思いますよね。

あと もう一つ 人間には
どうも2パターンあって…

柔軟にチャンスに乗じるのが
得意な人。

これ 両方のタイプを
うまく組み合わせて

世の中っていってるんですけど…

「いや それ 時期尚早だ」とか

「そんな異常な事 今できるか!」
って…。

ただ 僕は偉いなと思うし
泣けるのが

島 左近って
手かせ足かせのある中で

それだけ もう本当に
最善を尽くしてるんですよね。

決して 得な事でないですけど
死ぬような事でも…。

これだけね 人の人生
全部そうかもしれないけど

制限がある中で ベストを尽くす。

理解されなくても
ベストを尽くすっていう。

そういう事を やり遂げた人の
人生っていうのは

美しいもんだなというのを
見ますね。

本当ですね。

本日は 皆さん
ありがとうございました。

(一同)ありがとうございました。


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