ファミリーヒストリー選「樹木希林~女が土台 受け継がれる覚悟~」 2年前の放送をアンコールでお送りする。



出典:『ファミリーヒストリー選「樹木希林~女が土台 受け継がれる覚悟~」』の番組情報(EPGから引用)


ファミリーヒストリー選「樹木希林~女が土台 受け継がれる覚悟~」[解][字]


先日、75歳で亡くなった樹木希林さん。2年前のアンコール放送。英国人・三浦按針との関わりの伝説。母が娘に死ぬまで隠した秘密とは。希林さんの原点が浮かびあがる。


詳細情報

番組内容

先日、75歳で亡くなった樹木希林さん。2年前の放送をアンコールでお送りする。希林さんのルーツには、さまざまな謎があった。先祖が、家康の外交顧問、英国人・三浦按針と関係があるのか。家宝として伝わる将軍・慶喜の書は本物なのか。その真偽に迫った。そして、亡き母には生涯、娘たちに隠し続けた秘密があった。見つかった手紙に、知られざる母の胸の内が語られていた。壮絶な家族の歳月に、希林さんの原点が浮かびあがる。

出演者

【出演】樹木希林,【司会】今田耕司,三輪秀香,【語り】余貴美子




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ファミリーヒストリー選「樹木希林~女が土台 受け継がれる覚悟~」
  1. 清子
  2. 希林
  3. 辰治
  4. 子供
  5. 三浦按針
  6. 中谷家
  7. 父親
  8. 名前
  9. 京都
  10. 三浦家



『ファミリーヒストリー選「樹木希林~女が土台 受け継がれる覚悟~」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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これには
あったかどうか分かんない。

父親の
中谷辰治は

三浦家から 婿養子に
入っています。

その三浦家の祖先を遡っていくと
なんと 三浦按針の名前が。

三浦按針は 江戸時代

徳川家康に仕えた
イギリス人です。

これは
本当なんでしょうか?

私がね ひょっとして本当かなと
思ったのは

それを見ている人たちが

あのね 三浦按針という人が
ウィリアム・アダムスという人と

一致してないわけよ。

家系図を見ながら

「うちには 按摩さんの…
高い位になった

按摩さんがいるみたいだ」
という

そういう言い方をしたので
本当かもしれないという。

番組では 希林さんに代わって
家族の歴史を探ります。

どうぞ こちらの方へ。
よろしく お願いします。

こちらこそ。
いやぁ 希林さん。

家系図が まず かけるというのが
すごいですね。

どうぞ。 今日は
我々も…。

よろしく
お願いします。

♬~

希林さんの父親

辰治の旧姓は三浦。

その三浦家をたどります。

東京・足立区にある青果市場。

三浦家は 代々 ここ足立区で
青果問屋を営んできました。

千住河原町の
この通りには

江戸時代から
昭和初期まで

30軒以上の青果問屋が
軒を連ねていました。

出迎えてくれたのは…

250年以上続いた青果問屋の名前は
葛西屋といいました。

代々 青果問屋を営んできた
葛西屋。

その祖先が 本当に イギリス人の
三浦按針だったのでしょうか?

希林さんの はとこのお二人に
尋ねてみました。

聞いたかもしれないけども
子供の頃 聞いても

三浦按針が… そのものが
分かんないですから。

ただ… 三浦按針
ウィリアム・アダムスですか。


あの方 イギリス人ですから
色が白いですよね。

そうすると 中嶋の家系
みんな色が白いんですよ。

あとは 背は高い…
結構 みんな 大きいです。

私の父も 洋子の父も
みんな 180近い。

おじたちは みんな あの…

後ろから見る お尻の形が
日本人離れしてるっていうか

脚が長かったり
腰が ちょっと小さめだったり

位置が高いんですよね きっとね。

それが
何となく変だねっていうような…。

ウィリアム・アダムスは 徳川家康から
現在の三浦半島の領地をもらい

それ以来
三浦按針を名乗りました。

三浦按針の子孫について
記録は残っているのか

専門家に伺ってみました。

(鈴木)
で それはですね これにですね…。

では 三浦家のルーツは どこなのか?

鈴木さんは 按針より

古い時代の三浦半島と関係が
あるのではないかといいます。

ご先祖が 嘉永3年に
もう既に

三浦姓を名乗っているじゃ
ないですか。

…っていう事は
江戸時代に もう既に

三浦姓を名乗っていた
という事ですよね。

ですから これは

相模の豪族 三浦氏の出身だと
思います ご先祖は。

三浦氏は 平安時代から
800年続く武士の家。

ルーツは そこに
つながるのかもしれません。

時代は移り 大正時代。

青果問屋を営む希林さんの祖父

三浦眞吉のところに
嫁に来たのが

飯塚 歌です。

歌の家は もともと
士族だったといいます。

晩年の歌と
暮らしていた

希林さんのいとこの
三浦さん。

(取材者)歌さん。 すごい すてきな
おぐしというか…。 フフ。

歌には飯塚家から持参した
大切なものがありました。

中でも
歌が特別大切に扱うようにと

口うるさく伝えていたのが
この書です。

多分 そのような事を聞いた覚えは
あるんですけど


ちょっと忘れてしまいました。

これは とにかく うちで…

歌の生まれた飯塚家は

江戸幕府 最後の将軍
徳川慶喜と

関係があるのでしょうか?

門外不出の古文書を
今回 特別 外に持ち出し

鑑定してもらう事にしました。

(一同)よろしく お願いします。

幕末の歴史に詳しい専門家に
鑑定してもらいます。

すごいですね。

♬~

(多田)多分 多分なんですけれど…

山岡鉄舟は 幕臣で

江戸無血開城を成功に導いた
立て役者の一人。

書の達人としても知られています。

書には…

…と書いて
ありました。

「方昭」とは

どんな人物
なんでしょうか?

特に 実は
私的には これが すごいのと…。

(多田)これは
ほんとに貴重だそうなんです。

由緒書には 1746年
飯塚方昭が 30歳の時

後に 将軍 慶喜を出す

一橋徳川家の家臣に
なったとあります。

鑑定を進めると

更に もう一つ 徳川家と関係が
ありそうな手紙を見つけました。

宛名は 歌の曽祖父
飯塚兵五右衛門。

送り主は 「徳川刑部卿」と
書いてあります。

「刑部卿」とは 誰なのか?

手紙と一緒に
しまわれていた新聞に

その答えがありました。
刑部卿とは 徳川慶喜!

記事によると
この手紙は

幼い慶喜が 側近だった
歌の曽祖父に

おもちゃの吹き矢を
催促したものでした。

歌の曽祖父
兵五右衛門は

慶喜の
お世話係だったのです。

それだったら
「世が世なら」って言いますよね。

あ そういう お言葉…。
もう いやってほど聞きました。

あ そうなんですか。

「世が世なら お姫様だった」。

歌が大切にしていた文書が

青果市場の三浦家と 徳川家との
意外な接点を教えてくれました。

いやぁ 三浦按針さんとのつながる
結果というのは出ませんでしたね。

ただね うちの父親が
兄弟が 男6人いるんですが

全員 みんな…
うちの父は 普通の鼻ですけど

わし鼻で みんな 色白で
背が高くて 巻き毛なんですよ。


だからね 何かが…。
何かが おかしいと。

まあ でもね しょうがない。
そんな何もないんですから。

ただ うちの子供たちが
どうしても イギリスに

誰も知り合いもいないのに
住んでんですけど

これも 何か ひかれてんのかな
という気もしますね。

不思議ですね でも。
まあ不思議でも何でもないけどね。

いや まあ 文献にはないですけど。

こじつければ。
こじつければ。

希林さんの母 清子の実家 中谷家。

中谷の祖先は 長州 毛利家に
仕えた茶坊主だったと

希林さんは母から聞いていました。

まずは 長州藩があった
山口県を訪ねました。

ここ 山口県文書館には

長州藩に関する資料が
数多く保存されています。

中谷家に関する古文書を
探していきます。

調査員の佐伯さんに 古文書の
読み解きを お願いしました。

「これより先は分からない」と
書いてあるんですけども…。

久右衛門は もともと現在の
福井県にあった

越前福井藩の出身です。

藩主の娘が
毛利家に嫁入りする際

家臣として
行動を共にしました。

「御料理方役」というふうに
ありますので

「…を相つとめ」って
書いてありますので

お姫様について
それから いわゆる給仕ですね

お料理の事を 献立を考えたりとか
そういうような事を

中心にやられた というふうな事が
書いてあります。

(取材者)
樹木さんから 「自分の祖先は

毛利さんに仕えた茶坊主だったと
聞いている」と言うんですが…。

茶坊主というのは
まあ 私が知るとこでは

室町時代から 江戸時代初め
ぐらいだと思いますけど

やはり 給仕ですね
そういう食べ物。

いわゆる お茶だけではなくて
食べる物とか

それから 身の回りの事を
するような方々の事を指して…。

頭を丸められたので
坊主と言いますけど

実際は 身分は 武士という事は
知ってるんですけども…。

そういう
意味で

ここに
御料理方とか

膳夫役と
書いてある

という事から
すると

その言い伝えは
正しいんだろうな
と思います。

中谷家は
代々

市左衛門
という
名前を

襲名して
います。

最も
近い時代を
生きたのは

茂十郎。

希林さんの
一族が所有する

中谷家の
記録にも

その名前を
見つけました。

幕末に
生まれた

中谷 市左衛門 茂十郎。

希林さんとも
つながりのある
人物のようです。

萩市にある 松陰神社。

ここに 茂十郎と
関係が深いものがあります。

松下村塾は吉田松陰が主宰した
私塾。

明治維新で活躍する人材を
輩出した事で知られています。

中谷茂十郎も ここで学んだ一人。

ある時 塾生が増えて
手狭になったため

増築する事になります。

…と書かれて
おりますので

大工にも
劣らない

負けず劣らずの
活躍をしたと
いって

中谷茂十郎の
事を

称賛をして
いらっしゃい
ます。

やがて長州藩は 薩摩藩らとともに
明治維新を主導し

新政府を樹立しました。

中谷茂十郎も 新たな首都 東京に
住まいを移します。

茂十郎は東京で何をしていたのか。

それが分かる資料が
宮内庁に残されていました。

明治時代に作られた
茂十郎の履歴書。

明治政府の
一員として

主に 建築部門で
働いていた事が分かりました。

明治15年

茂十郎は その腕を買われ
新たな部署に抜てきされます。

皇居御造営事務局。

「皇居御造営事務局」とは
何をするところなのか。

近代建築が
専門の小沢さんに伺いました。

宮殿完成の翌年 明治22年。

ここで
大日本帝国憲法が発布されます。

長州藩を支える立場から
明治国家の土台づくりへ。

中谷家の人々は 変化する時代を
たくましく生き抜いていました。

どうですか? 携わる人が
みんな すごすぎますよ。

いやいや でも 今の方が
もしも私の先祖であるとすれば…

ああ 納得ですか?

物件が好きって
表では言ってますけどね

むしろ 家を見るのが
好きなんですよね。

「この人 こんなに すてきなのに
変なうち住んでるな。

こっちのうち
住んだ方がいいな」とかね。

そういうふうにね こう…
そのイメージを こう あれしてね

とにかく造作が好きですね。

それとね 茶坊主の話していい?
もちろんです!

奥の事にもあれして
それで台所の方にも…。

台所というのは 世間とつながって
いろんな人が来るわけでしょ。


情報が入ってくるじゃないですか。
いろんな…。

だから 私は ワイドショーが好きなのは
私の中の そういう情報を…。

茶坊主の。
うん。 茶坊主の。 奥向きに

自分の ちょっと あれも
まぶしてね

ちょっと…
こんな事でございますよとかね。

なんかね それを
やっていたような気がする。

古書店街で有名な…

昭和初期 その一角に
華やかな通りがありました。

通りの名は 新天地。

女給が酒を出す カフェーという
はやりの店が立ち並ぶ場所。

中でも にぎわう
人気のカフェーがありました。

店の名前は 「東宝」。

その店主が
後に 希林さんの母となる

中谷清子です。

細川さんは 母親に連れられ
東宝を訪れた事があるといいます。

そんなカフェー東宝に 足しげく通う
若い警察官がいました。

よれよれ!

あの 千住青果市場で生まれ育った
三浦辰治。

後に
希林さんの父親になる人物です。

神保町の管轄だった辰治は

この街で
7つ年上の清子と出会います。

見回りと称して 東宝にいる清子に
会いに来ていました。

希林さんの親戚は 警察官時代の
辰治を こう言います。

おまわりさんやってる時の話も
出たけども ほとんど下ネタ。

(笑い声)

(取材者)
「ダメだから」というのは…?

警察官と水商売の女性の結婚は
当時は ご法度。

しかし
辰治は仕事をあっさり辞め…

結婚して
仕事も順調な清子ですが

それまでの歩みは
波乱に満ちていました。

清子は
どんな人生をたどったのか。

本籍地 山口県地福に向かいます。

この地域には 現在
中谷家の親戚は住んでいません。

手がかりは 戸籍の住所と

清子の父が芝居興行をやっていた
という情報だけ。

この辺りが
戸籍に記載されていた場所です。

そこは 畑になっていました。

(取材者)すいません。

「中谷」という名前に
聞き覚えがないか尋ねてみました。

(取材者)中谷さんっていう人
住んでた覚えあります?

村の外れにある神社。

かつて ここで 芝居興行が
行われていたといいます。

明治42年
希林さんの母 清子は生まれます。

しかし その僅か2年後
父が亡くなり母と娘は二人きりに。

大正2年 4歳の幼い清子は
母に連れられ ふるさとを出ます。

その十数年後 清子は 広島県で
女の子を産んでいました。

ゆかりの人物を訪ねます。

(取材者)どうぞ 今日は
よろしく お願いいたします。

(石田)え~とですね…。

17か18…。

数えで 17歳の時
娘の豊美を産んだ清子。

どんな事情があったのか
詳しい事は分かりません。

豊美を 一人では
育てる事ができなかった清子。

母親の親戚に
養子に出さざるをえませんでした。

その後 清子は
一人 広島を去っています。

豊美を産んだ 5年後

22歳になった清子は
京都に住まいを移していました。

当時は 劇団の裏方として
働いていました。

こんにちは。

しかし その清子に 再び試練が
降りかかる事になります。

浩は清子が京都で産んだ子供です。

これだったかな。

浩は 9年前に亡くなりました。

あ これ。 ああ…。

浩の父親の 谷川梅三郎は 京都で
飲食店を経営していた実業家です。

妻がいる
梅三郎との間に

清子は 子供を
産みました。

妻との間に子供がいなかった
梅三郎。

ある日 清子に持ちかけます。

「浩を 後継ぎとして
引き取らせてくれないか」。

清子は 再び 子供を
手放さざるをえませんでした。

京都を離れ 東京へ
たどりついた清子。

心機一転 開いた店が
神保町のカフェー 「東宝」でした。

そこで 恋に落ちた相手が
7つ年下の辰治だったのです。

希林さんの
5つ下の妹 昌子さん。

当時の二人の様子を
聞いています。

結婚の翌年
娘の啓子が生まれます。

後の希林さん。

ようやく つかんだ

一家団らんの幸せでした。

清子は 持ち前の商才を発揮して
ビジネスの幅も広げていました。


椎名町って 池袋から
西武線で ちょっと行った所に

椎名町っていう所があって
そこへ母親が…

私が生まれたのが
昭和18年1月ですけど

その前に このアパートを建てた。

自分が住むんじゃなくて
アパートを建てたっていうのが

面白いなというふうに
思いましたね。

そして 貸し部屋開始
書いてあるんですよね これが。

女手一つで…。

父親は いましたけども
年が7つも下だったんで 多分

母親の方が バリバリやってたんだろう
と思うんですけど…。

こういう家を建てて 「貸室開始」
という…。 ねぇ いいですよね。

戦争が終わった 昭和20年。

中谷家は 神保町の住まいも 店も
モダンなアパートまで 全て失いました。

そんな中 次女
昌子が生まれ

4人になった
家族。

焼け跡での
暮らしを

支えたのは
清子でした。

洋裁の仕事に目を付け
仕立て屋を開業したのです。

疎開中に どうも洋服の仕立てが

これからいい というふうに
思って…

一方 父 辰治はというと…。

♬~

仕事も そこそこに

趣味の薩摩琵琶に
のめり込んでいました。

♬~

♬~

希林さんが
小学校に上がったころ

蓄えた お金で 雑司ヶ谷に
家を購入します。

当時は珍しい2階建てでした。

家族が暮らす部屋以外は
人に貸す事にしました。

ところが ちょっと
変わった人たちが住み始めます。

昔 終戦直後ですから

オンリーさんっていうね
アメリカ人の愛人さんだとか

それから キャバレーに勤めている

ちょうど池袋ですから
新宿なんかが近いから

忘れもしない サクラメントという名前の
キャバレーだったと思うんですけど

そこに勤めている女性がいて…。

風変わりな大人たちに
囲まれながら育った

幼少時代の希林さん。

じっと黙って遠くから
大人たちを観察している

ちょっと ませた女の子だったと
いいます。

終戦から6年 清子は 横浜で
再び飲食店の経営に乗り出します。

横浜市野毛の繁華街で
65年後の今も続く 名物店です。

客の求めに応じて 朝から店を開き
繁盛させていきました。

軌道に乗り始めたころ

突然 店を訪ねてきた
若い男性がいました。

清子が京都で産んだ 2番目の子供
浩。

偶然 見てしまった戸籍で
実の母が清子だと知り

家族に ないしょで
会いに来たのです。

京都を離れて およそ15年。

清子は あふれる気持ちを
浩の父親に伝えています。

「いつかは会って話をする日も
来るとは思ってましたが

子供の日の事を思い出して
涙が こぼれてきました」。

成長した息子に
清子は語りかけます。

「いっそ横浜に出てきて
この店で一緒に働いてはどう?」。

昭和34年
浩は 実の母の思いに応えて

妻と二人
店で働くようになりました。

清子が呼び寄せたのは
浩だけではありません。

広島で最初に産んだ豊美も
店を手伝うようになります。

母としての せめてもの償い。

しかし 豊美も浩も
清子の子供である事を

希林さんや 妹の昌子さんに
告げてはいけない約束でした。

希林さんは あんな人ですからね。
頭が いいでしょう。

私 そばに おられなくてね…。

4人の子供を産み

商売一筋で
家族を支え続けた 母 清子。

昭和59年
2月3日

希林さんたちには
秘密を話す事なく

74歳で生涯を終えました。

(昌子)それが私にも分からない。

ただ 一瞬 こう…。

やっぱりね…

お父さんには もちろん…。
まあ 言ってるわけだけど。

それを隠しながら…

あれを思うとね ちょっとね
あの… う~ん… ねぇ。

まあ あの…。

たまたま私が
こういう仕事をしてるから

こうやって取材して頂けるけど
一般の人は…

♬~

夫 辰治に出会う前

2人の子供を
手放さざるをえなかった清子。

晩年 その子供たちを
呼び寄せる事ができた背景には

夫 辰治の後押しがありました。

そこに 辰治の温かい思いやりの
言葉が記されています。

「本人の気持ちが何のわだかまりも
なく来られるものなれば

遠慮なく来るように 主人からも
くれぐれ申しております」。

清子の過去を 全て受け入れていた
夫 辰治。

趣味の琵琶に のめり込み

やがて プロの奏者として
多くの弟子に囲まれます。

そんな姿を うれしそうに
眺めていたのが 妻 清子でした。

♬~

芸能に秀でた辰治。

父のあとを継いで
琵琶奏者として活躍する昌子さん。

♬~

そして 役者の道を選んだ
希林さん。

一番 応援したのは 辰治でした。

出演した人気ドラマで
親子での共演も果たしています。

♬~

夫を愛し
たくましく生きた母 清子。

妻の手のひらの上で
自由に生きた 父 辰治。

(昌子)
私は 父は母に生かされて

琵琶を
やってきた人だと思ってるので

母が とことん ほれ込んだ

ご亭主だったんじゃ
ないでしょうかね。

女は 土台ですよね。

で 土台が弱い家は いくら
男が強くても 崩壊しますからね。

それは 私は
女は強くなきゃいけないし…。

母は 強かったけれども
ちゃんと支えるという作業を

できる強さを持ってた
というところに

もうほんとに尊敬しますね。

ほんとに そうですね。

「女偏」に「台」って書いて
「始める」っていう…。

「始まる」
という字なんですよ。

しっかりした奥さん頼みますよ!
ありがとうございます!

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