アナザーストーリーズ「小室哲哉という“革命”~メガヒット連発 その光と影」 沢尻エリカ、濱田岳


出典:『アナザーストーリーズ「小室哲哉という“革命”~メガヒット連発 その光と影」』の番組情報(EPGから引用)


アナザーストーリーズ「小室哲哉という“革命”~メガヒット連発 その光と影」[字]


90年代、安室奈美恵やTRFをプロデュース、CDの売り上げでミリオンセラーを連発した小室哲哉。あのブームはなぜ起きたのか?表舞台から去ることになった理由は?


詳細情報

番組内容

小室哲哉。作詞、作曲、アレンジからプロデュースまで、すべてを手がけた彼の登場は、音楽業界に「革命」を起こした。早熟の天才だった原点から、社会に衝撃を与えたあの事件まで。「右腕」と呼ばれた久保こーじや、globeのメンバーとして、一時一緒に暮らしていたマーク・パンサーの貴重な証言から、小室の「光と影」を浮き彫りにする!あの時代、カラオケやCDで、TKサウンドに親しんだすべての人に贈るドキュメント。

出演者

【司会】沢尻エリカ,【語り】濱田岳

人気No.1デリケートゾーンの黒ずみケア専用 薬用イビサクリーム臭気判定監修の足の消臭パウダーデリケートゾーンの臭いなんて気にしない!専用ソープ



『アナザーストーリーズ「小室哲哉という“革命”~メガヒット連発 その光と影」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数BEST10)

アナザーストーリーズ「小室哲哉という“革命”~メガヒット連発 その光と影」
  1. 小室
  2. 音楽
  3. 自分
  4. 当時
  5. マーク
  6. CD
  7. 一人
  8. 会社
  9. 久保
  10. 仕事



『アナザーストーリーズ「小室哲哉という“革命”~メガヒット連発 その光と影」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


解析用ソースを読めば、番組内容の簡易チェックくらいはできるかもしれませんが…、やはり番組の面白さは映像や音声がなければ味わえません。ためしに、人気のVOD(ビデオオンデマンド)サービスで、見逃し番組を探してみてはいかがでしょうか?

☆無料で民放各局の動画視聴ができるTVer(ティーバー)!まずはココから!

他にも、無料お試し期間のあるVODサービスが増えてますので、各社のラインナップを調べてみるといいかもしれませんね。



その男の発表に
日本中が衝撃を受けた。

引退を決意しました。

59歳。

記録と記憶に残る名曲の数々。

彼は いかにして表舞台に登場し

なぜ 去らねばならなかったのか。

♬~

生まれて初めて
私が買ったCDは

安室ちゃんの
「Chase the Chance」でした。

彼女の歌を手がけた人こそ

音楽プロデューサーであり
アーティストとしても活躍した

小室哲哉。

累計…

彼が 35年に わたって
売り上げたCDの数です。

trfに

globe

篠原涼子。

それ以外にも
多くのアーティストに

楽曲を提供していました。

小室哲哉。

その登場は まさに 「事件」でした。

1990年代 それは 今とは違い

CDが爆発的に
売れた時代だった。

安室奈美恵に至っては
一年間に およそ

1, 000万枚を
売り上げた。

そのころ多くの若者が
口にしていた事がある。

(取材者)
小室さん出てから買った。

そのアルバムとかは
結構 買いました。     買ったね。

そう 当時メガヒットとなった
CDの多くに

一人の男の名前があった。

全てを一人で手がけていた。

その登場は これまでの音楽業界の
常識を覆すものだった。

本来は裏方の仕事なのに

小室さんのプロデュース
というものが

ブランドを持っていたと。

このブランド力を
つくり上げたっていうのが

何よりの小室さんの
すごさなのかなって思いますね。

その陰で 小室は
尋常ではない日々を生きていた。

あの当時の小室さんって もう

命を削って注ぎ込んでた
っていうのはありますよね。

日本の音楽界に
空前のブームを巻き起こした男。

小室哲哉とは 何者だったのか?

運命の分岐点は…。

小室哲哉の楽曲が

オリコンチャートのベスト5を
独占した日です。

1位は 安室奈美恵の名曲
「Don't wanna cry」。

私もカラオケで
よく歌った曲ばかり。

「小室ファミリー」が
日本の音楽界を席けんしました。

こんな状況は
いかにして生まれたのか?

第1の視点は…

当時 「小室の右腕」と呼ばれた男…

小室哲哉が 時代の寵児へと
上り詰める姿を

一番近くで見ていました。

その驚きの素顔とは?

革命児 小室。

その野心を間近で見た男の
アナザーストーリー。

小室サウンドが誕生する過程を
つぶさに見ていた男がいる。

ああ でも変わんないですね。

小室ファミリー名曲は
結構 このピアノで

生まれたような気がします。

小室がデビューする前からの
知り合いで

数々の曲のレコーディングに
参加してきた。

ミリオンセラーを
連発していた頃の小室は

本当に 神がかっていたという。

ほんと まさに
90年代の時の小室さんは

なんか ほんとにこう
予言者のように

いろんなものがパッて
見えていたと思いますね。


AIのようだったんじゃ
ないですかね。

パッと読めちゃったんじゃ
ないですかね あの時は。

熱に浮かされたように
小室を突き動かしていたものは

一体 何だったのか?

2人が出会ったのは 35年前
渋谷のライブ会場だった。

当時24歳の小室は

村田和人率いるロックバンドの
サポートメンバーとして

キーボードを弾いていた。

裏方として働いていた
6歳年下の久保とは意気投合。

小室には最初から
不思議なオーラがあったという。

あるライブの時の
本番前の楽屋での小室の様子は

今でも忘れられない。

誰も着替えないですよ
衣装なんて。

村田和人さん ご本人ですら

着替えもしなけりゃ
メークもしないのに。

当時 小室の てっちゃんだけは
しっかり こうやってメークして。

「ちょっと待って メークするから」
とかってメークして。

まだ当時 若い小僧の
久保こーじ君は

こうやって行って 「てっちゃん
なに一人でメークしてんだよ。

もう始まるんだから
いいじゃん。

キーボードなんて分かんないよ。
目立ちゃしないよ。

スポット当たるんじゃないんだからさ」
ぐらいな冗談を言い合うぐらい。

でも ああいうバンドでも
何であっても

やっぱ メークをして
ちょっとカッコつけて。

ちょっとこう
人より目立っちゃう感じ。

なんか そんな人でした。

ずばぬけた演奏の腕前。

そして自分を どう見せるかを
常に意識していた小室。

久保にとって
初めて見るタイプの男だった。

今 思い出せば

野心に あふれてたんだよな
とは思うんですよね。

でも多分 なんか その…

明確なものじゃなかったような
気がするんですよね。

いくら お金を もうけたいとか

どれだけ有名になりたい
みたいな。

もっと漠然と 「売れたい」
みたいな なんか。

小室は 早熟の天才だった。

東京藝大の教授の下で
3歳からバイオリンを習い

さまざまな楽器を
驚くべき はやさでマスターした。

作曲を始めたのは 小学生の頃。

常に新しい音楽を
貪欲に追い求める少年だった。

そして 小室は

大阪万博で運命的な
出会いを果たす。

電子音楽の巨匠 冨田 勲の
音楽だった。

立体的な音響を駆使した
実験的な曲に 小室は…

…と衝撃を受けた。

後に小室は 冨田の音楽について
こう語っている。

「新しい音楽で
人々を あっと言わせたい」。

久保と出会って間もなく
小室が結成したのが…

♬~

TM NETWORKは
シンセサイザーを使った

スタイリッシュな音楽で
メジャーデビュー。


しかし 商業音楽の世界は
なまやさしいものではなかった。

自信を持って送り出した
アルバム

1枚目も2枚目も
売れなかった。

このころ小室は
レコード会社から

もっとポップな曲を作るよう
提案され

戸惑っていたという。

(久保)「これ以上 サビ 派手に
してくれって言われてもさ

派手になんないんだよな」。

「これの どこが地味だと思う?」
みたいな。

小室さんの実家に

シンセサイザーの コンピューターを
僕 持っていってですね

お母さんに 夜食の おにぎりを
作って頂いたりとかしながら

小室さんと2人で こう 曲作りを
してたりとか しながらですけど。

もう 小室さんの口癖は…

「なんで これがダメなのかな。
これじゃ なんでダメなのかな」

って ずっと言っていて。

しかし 小室の音楽が
多くの人の心を つかめる事は

思わぬ形で証明される。

♬~

小室が作曲し デビュー間もない
渡辺美里に提供した曲。

♬~(「My Revolution」)

♬~

キャッチーな この曲は
45万枚の大ヒット。

小室にとって初めての
チャート1位となった。

(久保)喜んでましたよ でも
あの時 すごく。

なおかつ だから ちょっとこう
自慢げだったと思いますね。

「ほら 僕の曲 売れるんだよ」
みたいな。

そこまで言ってはないけど

多分ちょっと心の… きっと
恐らく心の中の どっかには。

自分に自信が持てたんじゃ
ないですかね あの時…。

まあ 自信は前から持ってるか。

「確信」が持てたんじゃ
ないですかね。

「これで いけるんだ」
みたいな。

だが これだけなら
後のブームは生まれていない。

小室は 独自の嗅覚で

もっと売れるための方法を
探し始める。

その時 とった行動は
意外なものだった。

周囲の反対を押し切って 半年間
ロンドンに移住する事にしたのだ。

そこで目にしたのは…。

♬~

桁違いのスケールの
音楽ビジネスだった。

例えば この曲。

子役出身の若い女性を
プロデュース。

アルバムは全世界で
500万枚を売り上げた。

小室は 現地の
プロデューサーたちと交流。

音楽を売るための手法を
貪欲に吸収していく。

また 80年代後半のロンドンでは

「ユーロビート」と呼ばれる
ダンスミュージックが

大流行していた。

当時 日本では 大きな商売には
ならないと言われていた

こうした音楽に
小室は鉱脈を見いだす。

帰国した小室を バブルの絶頂に
あった時代が後押しする。

ディスコに お立ち台が登場。

より みんなで盛り上がれる
ダンスミュージックが

求められていた。

実は このころ小室は
地道な市場調査を進めていた。

全国のディスコで
自らDJとなって

自分の作った曲を かけ
客の反応を確かめたのだ。

曲の どこで盛り上がるのか
冷静に見つめていたという。


この全国行脚には
もう一つ目的があった。

自分の曲に合う
女性ボーカルの発掘だった。

(小室)YU-KIさんはですね
岐阜で見つけたんですね。

(マーク)岐阜で ですか?
そうなんですよ。

岐阜のマハラジャで。
(マーク)岐阜のマハラジャ!

(小室)岐阜で ちょっと
拾わせて頂いて…。

♬~

1992年に小室のプロデュースで
誕生した trf。

作詞 作曲 アレンジは
もちろんの事

ダンスを どう見せるかまで
細かく指示したという。

♬~

そして 積極的に
アプローチしたのが

女子高生たちだった。

当時 彼女たちは
ルーズソックスやプリクラなど

さまざまな流行の
発信源になっていた。

小室は 女子高生を
ターゲットにした

マーケティング会社と手を組み
話題になるよう工夫した。

学校の校内放送を ジャックしてた
っていうのがあるんですけど

そもそもは
出入りしてた高校生たちに

まだ新譜の デビュー前の
「白盤」って言われているCDを

「まだ発売前のCDなんだけど
これ ちょっと学校で かけてよ」

みたいな感じで
学校で流してた。

流してもらってたんですね
校内放送で。

そこに対する優越感だったりとか
っていうのを我々の方で

彼女たちに仕掛けてたっていう
ところはあったと思います。

そして
彼女たちの娯楽の中心が

カラオケボックスだった。

毎日ね 歌ってたんだよね。
学校帰り 絶対。

新曲が出たら もう
一日で覚えたい みたいな。

口ずさんでない事が
ないですし

ほとんどカラオケは
もう ほんと日常的に

毎日 行ってたぐらいだったので
絶対に歌ってたっていう。

小室は ここにも
仕掛けをしていた。

trfのメンバーに抜擢された
DJ KOO。

当時のヒット曲の中には
明確にカラオケで歌われる事を

意識して作ったものも
多かったという。

何のために歌うかっていったら
みんなが盛り上がるために。

「じゃあ 『EZ DO DANCE』
いこうか!」って言って。

やっぱり そこの楽曲作りの
小室さんの その妙というか

「I've got feeling」だとか
みんなで手を振れたりとか

「Ez Do Dance! フー!」って
みんなで飲んでても

「フー!」って
やれたりするじゃないですか。

だから 歌ってる人が
先導者になった気分で

気持ちよくなれたりとか
っていう感覚を

楽曲の中でも届けていく
っていう事は

すごくあったと思いますね。 ええ。

そして あえて高いキーの曲を
作った。

これも 女子高生たちが
カラオケで

挑戦したくなるように
という計算だった。

♬~(「I'm proud」)

♬~

小室の音楽に 一気に火が付いた。

♬~

小室のもとには

続々とプロデュースの依頼が
舞い込むようになる。

♬~

♬~

♬~

出す曲 出す曲が ミリオンセラー。

空前の
「小室ブーム」の到来だった。

当時の思いを うかがえる言葉が
残されている。

誰よりも 「売れる音楽」を
目指した小室。

しかし 久保には
気がかりがあった。

人前で 小室が必要以上に

「天才を演じる」ように
なっていた事だった。

チャンチャカ チャンチャン チャンチャン。
「ちょっと 録ってくれる?」。

チャンチャカ チャンチャン チャンチャン
チャチャチャチャ チャン…って。

「5分で作ったよ~」。

「お~ あの曲5分で作ったよ。
すごいな!」みたいな事。

でも そのためには
実は小室さんは家で

家を出る前に1時間も2時間も
こうやって弾いて

自分で こうやって
ちゃんと作って練習してから来る。

それ多分 誰にも
言ってないんじゃないかな。

音楽家って でも そうやって
こう カッコイイっていうか

ちょっと近寄りがたい
っていうか

天才肌っていうか…
みたいなものを見せてかないと

やっぱ価値みたいなものを キープ
できないみたいなところは

小室さんの中でも
あるんじゃないですかね。

実際そうなのかなと
ちょっと思いますしね。

天才の方が…
パパッ パパッて やる人の方が

「すごい」って
思われるんですもんね。

そして…

プロデュースした
アーティストを集めた

野外イベントを開催した。

出演した7組の
年間のCDの総売り上げは

1, 000万枚以上。

しかし 小室は

全く満足していないように
見えた。

(久保)そもそも明確な 「ここが
ゴール」だっていうのがなくて

だから どんなけ
お金を稼いでも

どんなけCDが売れても
ヒット曲を出しても

なんか 「これでいいや」って感覚は
なかったんじゃないですかね。

ず~っと 次は 次は 次はって
追っかけていってった。

CDを出せば
ミリオンセラーが当たり前。

時代の寵児として
まさに絶頂にあった小室哲哉。

そんな彼を複雑な思いで
見つめていた女性がいます。

数多くのアーティストを
世に送り出した…

まだ 10代だった小室を
天才と確信。

デビューの後押しをしました。

しかし 一方で
そんな小室の将来に

一抹の不安を感じていた
といいます。

それは なぜだったのか?

小室の もう一つの素顔を
ひもとく アナザーストーリー。

東京・新宿にある
定員300人ほどのライブハウス。

は~い こんにちは。

オーナーとして店に立つ
松村慶子 87歳。

…などを見いだした
音楽プロデューサーだ。

薄暗いスポットライトの中から

羽ばたいていこうとする
小室の姿が

今も まぶたの裏に
焼き付いている。

すごい繊細な部分で…
好きでしたね。

なんか すごく好きな青年
だったんですね。

ただ ほんとに まあ…
自分らしく生きるっていう事は

難しい事なんだなって
思いますけれども

彼の中に多分 天才がゆえに
行きすぎてしまう

そのバランスの欠けた部分が

誰か きっちり手綱をね 握る…。

でも彼は 言う事聞かないと
思うんですけど。


天才であるがゆえに はらんでいた
「危うさ」とは何だったのか。

松村と小室との出会いは
今から 40年前に遡る。

(松村)吉祥寺近辺ですかね
その辺の楽器屋さんなんかで

「天才がいる」みたいな
うわさ聞いてましてね。

で 会ってみたいな
っていう事で

誰だったかの紹介で
出会うようになって。

すごくシャイな
もの静かな少年でしたね。

19歳でした。

どんな音楽を
作りたいのかと尋ねると

不思議な答えが返ってきた。

なんか ディズニーランドの
イメージで 自分のサウンドで

アルバムを作ってみたい
っていうような事を

聞いた事ありましてね。

今まで出会ってきた
作家の方たちとは ちょっと違う。

もう それはボーカルがいなくても
いろんな楽器で

一つのサウンドの世界
作るみたいなね。

今までにない自分のサウンド
というものが

もう頭の中にあったなっていう
事は感じてましたけどね。

当時 早稲田大学の学生だった
小室には 悩みがあった。

「音楽の世界で生きていきたい」
という夢に

母親が 反対していたのだ。

松村は そんな小室に

自由にレコーディングスタジオを
使わせ 曲作りをサポート。

TM NETWORKも 自身が社長を務める
音楽事務所からデビューさせた。

松村は そのころ小室が
ふと つぶやいた言葉を

鮮明に覚えている。

小室と話してる時に

「おけいさん これからは もう
シャイじゃだめですよね」

っていう話がありましてね。

まあ 確かに シャイじゃなくて

メジャーになるには
吹っ切って出て行かないと

なかなか相手には伝わらないね
みたいな話は

してた事があるんですね。

それは 繊細な青年が音楽業界で
生き抜こうとする

決意表明だったのかもしれない。

♬~

デビューから3年。

曲が 人気アニメの
エンディングテーマに採用され

注目され始めた頃だった。

「シャイじゃだめ」
という言葉どおり

小室は自分の やりたい事を

周囲に主張し始める。

「今すぐロンドンに
行かせてほしい」と言うのだ。

松村は オーケーしたが

慌てたのは
契約していたレコード会社だ。

売れない間も
辛抱強く支えていた…

突然の申し出に
もちろん反対した。

ロンドンに行かれちゃ困る
っていうのが

私の立場は そうですよね。
それは何でかって言ったら

ようやっと売れ始めたのに
海外だって言われて

日本の活動が お留守に
なってしまうんだったら

経営的に私にとっては
大変な問題が起こるんで。

小室の決意は 固かった。

日本での音楽活動を続ける事を
条件に ロンドン行きを勝ち取る。

1年後 帰国した小室と会って
松村は とても驚いたという。

行動全てがね
変えていったというか

前の あのシャイだった
あのころの ちょっと内気な

内向した少年では
なくなってって。

…って言うんで
「ああ そう じゃあ ちょっと

大いに結構だから
私 引くから」。

社長交代したんですよね。

そのころから彼は

潰そうが何しようが
自分が稼いだ金は自分で

周りに とやかく言われたくない
ものを作りたいのかな

というような事は ちょっと
だんだん感じてはいたんですよね。

次第に活動の幅を広げる中で

小室は
とんでもない事を言いだす。

専属契約をしていた
エピック・ソニーに所属しながら

別の会社と仕事がしたい
というのだ。

その相手は

当時 東京・町田に本社があった
小さなレコード会社…。

ダンスミュージックに
力を入れていた

エイベックスだった。

この常識外れの要求を
突きつけられたのが

当のエピックの丸山だ。

彼らを縛る契約書は
僕が作ったわけですからね。

彼は それに はんこを押した。

今度は作った人間が その契約書を
破るっていうんじゃないけど

契約書に抵触しないように
抜け道 探すのは

作った人間が
一番分かってるんだから。

エピックとの契約があって
エイベックスと仕事ができない。

それを なんとかしてくれ。

で なんとかするためには

どういうふうにするか
っていった時に

彼が出した条件が
マネージメント マネージャーを

丸山さんに お願いします
ってきたんですよ。

すごいでしょ 小室さんって。

で 私に それを
抜け道を探せっていうのを

僕に頼んできたわけです。

だから争うんじゃなくて
抜け道 探せだからね。 フフフフ。

結局 丸山は
マネージャーを引き受け

エイベックスと
仕事ができるように尽力した。

人気絶頂だった TM NETWORKは
活動終了を宣言。

東京ドームでのライブは大成功。

これを機に 小室は
松村の事務所から独立した。

音楽的な評価を高める一方

世話になった人を ないがしろに
するようなやり方に

危惧を抱く人も出始めていた。

ピークの頃に別れてますから
まあ 別れる時に

なぜ 別れなくちゃなんなく
なってったかっていった時

「彼が望んだから」って
言うしかないんで。

このまま ずっと いくんだろうと
思っていましたよね。 うん。

もっと いろんな人と
出会っていって

もっともっと大きくなっていって
いけばいいなと。

ただ いろんな事で ほんと
上と下のね 起伏は すごいんで。

「なぜ?」と思うんですけど

全部一人でやるからだと
思うんです。

何か自分で考えてやるって事には
必ず穴がありますよね。

大きくなればなるほどね。

松村の心配をよそに
小室は 精力的に仕事を続けた。

そして 1996年
小室がプロデュースした曲は

ヒットチャートのトップ5を
独占する。

世界的にも例がないという
快挙だった。

ミリオンセラーは巨万の富を生む。


小室のもとには
ビジネスチャンスを求めて

さまざまな人が集まってきた。

当時の忙しさを物語る
エピソードがある。

1996年 年間売り上げ
1位に輝いたのは

globeの
ファーストアルバムだった。

このアルバム 実は小室が
あまりに忙しかったため

発売まで1か月となっても

まだ ほとんど曲が
出来ていなかった。

しかし 既に
200万枚以上の予約が殺到。

完成しなければ レコード会社の
存続が危ぶまれる非常事態。

小室は メンバーと一緒に
10日間 軽井沢に泊まり込んで

レコーディングする事になった。

当時 マネージャーとして
小室に付き添う事になった

伊東宏晃。

悪夢のような10日間だったという。

ん~ めちゃくちゃ むちゃで。

一日 小室さんが まず曲を作る。

で 隣のブースで
KEIKOが歌を入れる。

出来上がった音源に
隣でマークがラップを かぶせる。

東京のスタジオで ギタリストが
待機していて ギターを入れる。

それで 10日間でやりなさい
という事は

結局 一日も猶予がなくて

一日 何もできませんでした
ってなった時点で

もうアウトなんですよ。

追い詰められていたはずの
小室の様子は…。

(伊東)
多分 そのプレッシャーというのは
初めてじゃなかったと

思うんですね。
TM時代からも そうですし。

trfで そのプレッシャーも
感じてたと思うし。

でも それを
彼は やってきているし。

なんか その僕らが考える
プレッシャーの向こう側を

既に もう 常に
歩いていたような気はします。

なんか いつの間にか

「えっ もう出来てんですか?」
みたいな

魔法のような形で
作っていってたんで。

まあ それは本人が 実は
苦しかったのかもしれないし。

だけど そういう苦しい顔は
見た事がなかったですね。

アルバムは 無事完成。

400万枚以上を売り上げ
当時の日本記録を塗り替えた。

まさに 飛ぶ鳥を落とす勢い。

しかし その成功を喜ぶかたわら
不安を拭えない男がいた。

「小室の右腕」 久保こーじだ。

長年 仕事をしていたスタッフが

一人 また一人と
去り始めていたのだ。

特に人は 変わったと思うな。
人を変えますしね 実際。 だから。

これは 今まで
Aさんに頼んでたけど

「これはBさんとCさんに
頼まなきゃ」みたいな事は。

「え? Aさん
切っちゃうんですか?」みたいな。

なんか意外と そういうとこは
非情にバンッ みたいなところは。

そこはね ちょっと正直
非情って言ってもいいぐらい非情。

情け容赦なく…。

音楽業界で頂点を極めた小室。

しかし 走るスピードを
緩めようとはしなかった。

松村には
忘れられない小室の言葉がある。

「変わっていかなくちゃ
いけないね」って。

全てに なんか
前見て 変えていくと。

それは いい意味で取れば

変えていくって ほんとに
いい事だと思うんですけど

でも普遍的なものとか
変えちゃいけないものとか

いろいろあると
思うんですけどね。

でも 彼は ほんとに
どんどん前を進んでく。

ちょっと怖いくらいに。

(松村)同列に並んだ時

既に もう
自分は前を向いちゃうから

どんどん置いていっちゃいますね
周りのものを。

小室は その先に
何を見ていたのだろうか?

プロデューサーとして
絶頂を極めた小室。

しかし その時 運命の歯車は
狂い始めていたのかもしれません。

1996年 97年と チャート1位を
連発していた小室哲哉の楽曲。

98年以降 ヒットは
急激に減っていきます。

以後 ミリオンセラーは
遠のいていきました。

その時 時代の寵児の周りでは
何が起きていたのか?

第3の視点は
小室と共に活動していた…

ブームが
終わりを迎えようとする中で

必死に音楽と格闘する
小室の姿を見ていました。

最も身近にいた男だけが知る
アナザーストーリー。

小室ブームの真っただ中に
生まれた globe。

小室自身が 最後まで
活動を続けたユニットだ。

メンバーの…

小室と 一つ屋根の下で
暮らしていた時期がある。

ヒットの重圧を 一人で抱え込み

取りつかれたかのように仕事に
打ち込む姿を目撃していた。

ロスの映画館がある家とか
あったんだけど

その映画館で 静かに
映画を見てる姿 見てないもん。

途中で 「えっ 今
一番いい時じゃん!?」みたいな

途中で パッて部屋に戻って
そのひらめきが出ちゃったら。

いくら疲れてても
疲れた顔 見せないで

それを形にしなきゃ
いけないわけで。

だって 全員が何かを頼んだら…

そのプレッシャーって
いうのは やっぱり

すごい大変な時期だったんじゃ
ないのかなと思う。

「売れる音楽」を
追いかけ続けた男を

待ち受けていたものとは?

小室は 制作の拠点を

アメリカ・ロサンゼルスに移した。

その時 共に移住したマークは

小室の殺人的な忙しさを
目の当たりにしていた。

ほとんど眠らず

3日に1曲というペースで
曲を作り続けたという。

そんな小室が初めて
疲れを見せた瞬間があった。

(マーク)一回 確か… 年末

レコード大賞 終わって
紅白 終わって。

それで ふと彼を見たら
疲れが見えて

その時に 「ちょっと逃げませんか」
みたいな話を持ちかけて

「え? 逃げていいの?」みたいな。

で 2人で
イギリスに逃げちゃって。

後々から
すごい怒られるんですけれど。

結局 ロンドンに着いた小室は
すぐに高熱を出し

3日間ホテルで寝込む事になった。

ようやく体調が回復した小室。

開口一番 今ロンドンで人気の
クラブに行きたいと言いだした。

最新の情報を吸収しようという
その貪欲さに

マークは あきれたという。

3日間の久々の
休めた休暇のあとに

すぐ仕事ではなく そこに
遊びっていうものを入れて

クラブに行って その現場で
どういう音が はやっていて

というのを見てから
またロスに行って

レコーディングが
始まるんだけれども

そこに この一瞬の
これを入れるところが

他のなんか すごいところと
また違うのかな

みたいなふうには
思いましたけれどね。

1997年に入っても 小室は
ミリオンセラーを連発した。

しかし この時期

これまで 二人三脚で
ブームを牽引してきた

レコード会社との間に
亀裂が入り始めていた。

マネージャーとして
ロスで暮らしていた伊東宏晃。

日本からの突然の連絡に
言葉を失った。

…と言われた時には
真っ白になりましたよね。

ただ 何か それでも
何かが起きているんだと。

それはエイベックスと
小室さんの間で。

もうなんか 今でも ほんとに
忘れられない日というか

想定もしていなかったので。

「ん? 何が起きているんだ」と。

「一体… ん? どうした?」
みたいな。

会社は 小室との関係を
全て解消すると決断したのだ。

それは スタッフを全員引き揚げ

今後 小室の曲を
一切発売しない事を意味した。

決裂の理由を 会長の松浦勝人は
こんなふうに書いている。

もう一人のマネージャーだった
丸山茂雄。

常に新しい事に挑戦し
高いレベルを求め続ける

小室のやり方は
限界があったと考えている。

それは 狂気ですよね。

食べない 寝ない
作り続けるだからね。

それで 作り続ける時に

一緒に仕事をしてくれる連中を
こき使って でも文句言えない。

親分が遊んでるんじゃなくて

親分も狂ったように
仕事してるんだから

みんなが そのチームが全体が
狂ったように

高速回転するわけじゃないですか。

勘弁してほしいよなっていうのが
出てきますよね。

だから そこのところで

若干 小室さんと温度差が出てきた
というのは ありますよね。

それは見てて
僕は そう思いますよね。

レコード会社が変わっても
小室は相変わらず曲を作り続けた。

しかし マークは このころから

取り巻く人が
明らかに変わったと感じていた。

(マーク)僕の見方では

小室王国じゃないけど
分からないけど

そのぐらい こう
できてた これが

この周りから ちょっと
崩れていくっていうのが

あったんじゃないのかなとは
思うんですよね。

「これじゃないんじゃないの」って
言う人が いなくなったりとか

「そこ違うんじゃないの」みたいな
もう そんな事は 全然言えない。

もう 「はは~」みたいなのか
分かんないけど。

みんなで1個のファミリーだった
小室ファミリーっていうのは

アーティストだけじゃなくて
この周りだったものが

だんだん崩れていって
これを補強するのが

「小室さま!」 みたいな。

時代も 変わりつつあった。

浜崎あゆみ

MISIA

宇多田ヒカル…。

自分の言葉で歌う
シンガーソングライターや

圧倒的な歌唱力を持つ
女性シンガーが次々と登場。

女子高生たちの関心も
次第に小室から離れていった。

2000年6月のCD売り上げを
ご覧頂こう。

上位は 新世代の歌姫たち。

小室の存在は
色あせたものになり始めていた。

ちょうど このころ
マークも小室の家を出た。

globeとしての活動もソロが増え
一緒に過ごす時間は減っていった。

(マーク)2000年越えたぐらいから
僕は いなく…

もうロスに住まなくなって
日本に住みだして。

日本のスタジオも 東京の
離れた所に変わっていったりとか。

香港・中国ツアーまでは
ずっと一緒だったんですけれど

そのあとのぐらいの時から

3人そろって何かを作る
っていうものは

ちょっとずつ消えていったような
気はするとは思うんだけれど。

まあ 確かに
そういうふうに考えると

「孤独」っていうものが
ドンって

来るのかもしれない
ですけどね。

曲が売れなくなってくると

かつて小室を 「先生」と
持ち上げていた人たちは

去っていった。

収入は激減
手を広げた さまざまな事業が

次々と頓挫していく。

「小室の右腕」久保こーじ。

当時の小室の様子は
見ていられないほどだったという。

お金がないと 当然いろんな事が
きしんできますよね。

いろんな事が
回らなくなってきますよね。

なんかそういう時って すごくこう
クリエーティブになれないし。

自分が いけないから

自分が解決しなきゃ
いけないのかもしんないけど。

だからまあ つらかったんで
しょうね あの時期はね。

なかなかね…

なかなか出てこなかったですね
いろんな所から。 部屋からも。

あの当時はね。

会いに行っても。

今日 なんか寝てます みたいな。

何もやる気も湧かなかったんだと
思いますけど。

そして 事件は起きた。

容疑は 詐欺。

小室は自分の曲の著作権を
投資家に売却し

資金を得ようとした。

しかし その権利は
既に人手に渡っていたのだ…。

この時 かつて長者番付の
常連だった小室の財産は

底をついていたという。

あの時は ほんと
その… 理解に苦しんだ。

「どういう事なんだろう?」
みたいな。

自分の著作物を… うん。

もう 周りのスタッフも
ほとんど変わっていて

っていうのはありますね。
だから

うん そうだねえ
そういうふうに考えると

愛してる人たちが いないから
生まれた事件なのかな

というふうにも ふと思うかな。

もうちょっと だから

みんな一緒に
居てあげるべきだった。

全員の責任でもあるのかなって
今になって思いますね。

そして 事件のあと
真っ先に支援に乗り出したのは

かつて小室と たもとを分かった
エイベックスだった。

あの報道が起きた時に
報道が起きた その日に

緊急会議があったんです
うちの会社は。

で 全員 役員も全員集まって

うちは 全面支援すると。

何が理由であれ 我々は とにかく
小室さんがいなかったら

ここまで来ていないと。

社長だった松浦は 裁判の間
自由に弾けるように

ピアノを1台用意した。

伊東は その部屋で 子供のように
無邪気にピアノに向かう

小室の姿が
今も忘れられないという。

なんかその ピアノを弾いてる
小室さんというのは

どっかに やっぱり
切なさがあって

でも 今また この音楽と
対峙しているという姿を見て

やっぱり小室さんには
音楽が必要だし

小室さんと音楽というものは
聴く人がいなきゃダメだなと。

聴いてくれる人が喜んで
成立するんだ。

早く聴かせたい
たくさんの人に

また なんか
笑顔になってもらいたい。

その時代の事を
思い出してもらいたいとか

そんな感じで見てました。

2009年5月

小室に 懲役3年 執行猶予5年の
判決が言い渡された。

1年後 小室は音楽活動を再開。

AAAや 浜崎あゆみなど

多くのアーティストに
曲を提供した。

初めて出会ってから 27年。

マークが 一番思い出すのは

目の前にいる人を喜ばせる事が
何より好きだった 小室の姿だ。

人がいるのが大好きだったと思う。

人を観察して その人から
いろんなものを得るというのが

すごく好きだったと思うな。

だから 一人でワインを飲んでる
姿は見た事ないもん。

ワインを開ける時は
必ず誰かを誘い

その人に TPOに合わせて
そのワインっていうのを選んで

その選んだワインが どのふうに
この人の舌に合うんだろう

というのを
観察しているっていうのは

すごくあったような
気がするんですよね。

ずっと一緒にいると 宇宙人という
よりも ほんとに人間っぽくて

すごい それを大事にしている
人なんだな というのは

すごく感じましたけどね。

日本の音楽界に 鮮烈な一時代を
築いたTK 小室哲哉。

彼は今年 引退を発表しました。

時代とともに
求められる曲が変わる中で

それは 必然だったというには

あまりにも
さみしすぎる出来事でした。

彼の残した膨大な曲は
多くの人の人生を照らし

今なお
まばゆい光を放っています。

今回 取材を受けてくれた人は皆
早すぎる引退を惜しんでいた。

芸能人としてね 引退っていったら
引退とか あるんでしょうけど

作家やアーティストは
別に 引退って聞いた事ないし

一生 作品書けばいいし。

あんまり こう 悲観的にというか
捉えてなくて

いつでも 「いつでも先生 やめるの
やめていいんですよ」って

コソコソって
いつも言ってますんでね。

一緒に globeで活動した
マーク・パンサー。

今 小室の音楽を若い世代に伝える
ライブを各地で開いている。

♬~

ステージの一角には
マークの強い希望で

キーボードのセットが
置かれている。

一応いつでも なんか
ちょっとやろうかなとか思って

立ち寄ったら
できるようには してある。

(マーク)これからの時代を
もっともっと

楽しくする事ばっかり
考えていっていけば

もしかしたら もう一人のTKも
生まれるかもしれないし

もう一人の安室ちゃんも
生まれるかも。

そういうふうな事を ずっと
続けていかなきゃいけないのが

アーティストなんじゃないのかな
とは思いますけどね。

♬~

小室哲哉。

彼の音楽は
多くの人の心の中で

今も響き続けている。

♬~

↓NHK関連商品

関連記事