英雄たちの選択 探検SP~20世紀探検家列伝 なぜ未知の世界をめざしたのか? 夢枕獏、鹿島茂、関野吉晴、磯田道史


出典:『英雄たちの選択▽探検SP~20世紀探検家列伝 なぜ未知の世界をめざしたのか?』の番組情報(EPGから引用)


英雄たちの選択▽探検SP~20世紀探検家列伝 なぜ未知の世界をめざしたのか?[字]


20世紀に入ってまもなく、死と隣り合わせの大冒険を成し遂げた3人の探検家たち。彼らを探検に駆り立てたものはなにか?明治人の気概に迫る探検スペシャル。


詳細情報

番組内容

シルクロードの仏教遺跡を探検した大谷光瑞。単身、秘境チベットに仏教の原典をもとめた河口慧海。そして、一民間人として、南極探検に乗り出した白瀬矗(のぶ)。探検家の関野吉晴さんによれば、20世紀初頭の探検家を突き動かしたのは、3つのGのどれかだという。グローリー(名誉)、ゴスペル(宗教的情熱)そして、ゴールド(経済)。日本の探検家たちは、なぜ日本を飛び出し、探検を目指したのか?彼らの選択に迫る。

出演者

【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】夢枕獏,鹿島茂,関野吉晴,【語り】松重豊



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英雄たちの選択 探検SP~20世紀探検家列伝
  1. 白瀬
  2. チベット
  3. 慧海
  4. 探検
  5. 日本
  6. 南極
  7. 河口慧海
  8. 仏教
  9. 南極点
  10. アジア


『英雄たちの選択▽探検SP~20世紀探検家列伝 なぜ未知の世界をめざしたのか?』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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2013年 大阪の個人宅で
一冊の不思議な冊子が発見された。

ある男から友人に
贈られたという日記帳。

表紙を開くと

中がくりぬかれ 空洞になっている。

そこには 遺書の入った箱を開けるための
鍵が隠されていたという。

その人物とは…。

明治時代 標高8, 000メートルの
ヒマラヤ山脈を

たった一人で越え

鎖国状態にあった
チベットの中心都市ラサに

日本人として初めて
足を踏み入れた
仏教僧だった。

その名は…

西欧列強に肩を並べんとしていた
明治時代。

(砲声)

日清・日露と
2度の対外戦争を経験する日本から

世界を驚かす大冒険へと出かけたのは
河口慧海だけではなかった。

世界地図の空白地帯
中央アジアでは

大谷光瑞率いる探検隊が
仏教遺跡を訪ね

数々の貴重な文物を発見。

さらに 南極では
西欧列強に対し

一民間人にすぎない白瀬 矗が

熾烈な南極点到達レースに
挑んでいた。

20世紀に入り
僅か十数年余りの短い期間に

死と隣り合わせの大冒険を
成し遂げた

3人の探検家たち。

あの時代 彼らは 一体 なぜ

未知の世界への探検を志したのだろうか?

さまざまな分野の専門家が

日本人探検家たちの偉業を語り尽くす。

本当のところ どうなのか…

未知なる世界へと足を踏み入れた
明治人たちの探検物語。

今夜は 舞台が 遠くシルクロードから
南極にまでまたがる

「探検スペシャル」をお送りする。

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

そのとき 彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか?

今日は「20世紀探検家列伝」ということで
取り上げるのは こちらです。

さかのぼること およそ100年前。

明治時代後期に
日本人が行った3つの探検です。

それを成し遂げたのが この方たち。

鎖国状態のチベット ラサに

日本人として初めて足を踏み入れた
河口慧海。

中央アジアの仏跡を大規模に調査した
大谷光瑞。

そして 日本人初の南極上陸を果たした
白瀬 矗です。

磯田さん 「探検」と聞くと
ワクワクする言葉ですけれど。
しますね。

19世紀当時 世界は
「文明」と「野蛮」に分かれてたんですよ。

で 「文明国」とは何かっていうと…

「未知の世界を科学の力で
探検する力を持った文明社会」と

こう考えているので。

だけど 文明国並みになるってことは…

で 探検から
今日は明治の日本を見てみようと。

今日は3人の探検家を
見ていきますけれど

まずは 大谷光瑞の探検から
見ていきましょう。

明治33年 一人の若き仏教僧が
イギリス ロンドンの地に降り立った。

後に 浄土真宗本願寺派の宗主となる…

当時のロンドンには
ヨーロッパ中を熱狂させる知らせが

次々と もたらされていた。

1900年 スウェーデンのヘディンが

文献だけでしか知られていなかった

幻の古代仏教都市 楼蘭の遺跡を発見。

よくとしにはイギリスのスタインが

タクラマカン砂漠の中央で
古代仏教の巨大遺跡群を発見。

大量の木簡を本国へと持ち帰っていた。

19世紀末から20世紀初頭にかけて
中央アジアを舞台に繰り広げられた

西欧諸国によるシルクロード探検。

だが こうした状況に
光瑞は違和感を抱いていたと

龍谷大学の入澤 崇さんは言う。

で キリスト教徒の彼らが
乾燥地帯 砂漠地帯に出向いて

掘り出していくんです。

そこから出てくるのが
ほとんどが仏教関連のもの

仏教遺跡
かつての仏教寺院であったわけですね。

光瑞自身 中央アジア探検の意義を
次のように書き残している。

「最大の目的は

仏教が日本へともたらされた経路を

明らかにすること。

そして 中央アジアに残る

経論 仏像 仏具等を集め

仏教教義や考古学上の研究に
役立てることである」。

これには当時
日本の仏教界が置かれていた

危機的状況も関係していた。

これを機に
廃仏毀釈の嵐が

日本中に
吹き荒れる。

さらに…

文明開化の時代
順調に信者を増やしていた。

シルクロードで
砂の中から現れてくる遺跡っていうのは

これは もう…

ですから どういうふうになったら
仏教というのが廃れていくのか

どういう状況であれば
仏教が盛んになるのかっていうような

そういう問題意識っていうのを
強く持っていたと思います。

こうして…

若き仏教僧4人と共に
中央アジアへと旅立ったのだ。

今も残る
大谷探検隊が実際に使用していた

装備品の数々。

測量器や高度計などは

いずれも 当時最新かつ高性能のものが
そろえられた。

防寒用の衣服は
おおかみの毛皮を貼り合わせ

最高の耐寒性を備えていた。

この資金を提供していたのが

光瑞の実家である
京都 西本願寺だった。

出発前の光瑞に
西本願寺が送金した額は

5万5, 000円余り。

現在の価値で
およそ10億円にも上るという。

ロンドンを出発し
ロシアを経由して

中央アジアへと入った大谷探検隊。

およそ1年半にわたる調査の中で

最も多くの時間を
割いたのが

タクラマカン砂漠の北
クチャ周辺に点在する

古代仏教王国の遺跡だった。

その一つ キジル石窟は
ドイツ隊に先駆けて

大谷探検隊が調査を行った場所。

ここから持ち帰られた壁画が
今も日本国内に残されている。

舎利容器を抱える
ブッダの弟子の姿。

西アジアの顔だちが
印象的である。

さらにスバシ遺跡では

華麗な彩色が施された
舎利容器を発見。

羽の生えた
エンジェルの姿からも

東西交流の痕跡を
うかがうことができる。

光瑞は そのあとも2度にわたって
中央アジアに探検隊を派遣。

請来した さまざまな文物は

現在 東京国立博物館が
所蔵する

シルクロードの美術品の9割近くを
占めている。

単に仏教の伝来ルートを探る
っていうことだけではなくて

仏教が行き渡っていた地域

そこがどういう環境で
どういう人々が仏教を信仰をし…。

それを丹念に調べ上げようとしていた。

まずは 中央アジアを探検した
大谷探検隊でしたけれど

夢枕さんは この大谷光瑞について
どんなイメージをお持ちですか?

あんな過酷な所へね

当時 まだ何も
分からないときに行ったというのは

明治の人間の持ってる
その心意気みたいなものが

たぶん 濃厚に
あったんじゃないかなと思うんですね。

「蛮カラ」みたいな呼び方を
してしまうんですけれども

ああいう知的な人の中に
そういった…

鹿島さんは そもそも

19世紀から20世紀にかけての
この探検というのは

世界的に見ると
どういう位置づけなんでしょう?

世界的に見ると
まあ 一つはですね

ロマン主義の流れ
というのがあるんですね。

ロマン主義というのは

大体18世紀の末ぐらいから
19世紀の前半ですね。

そのときに非常に
盛んになったものでね

このロマン主義って ひと言で
どういうふうな解釈をすると

一番いいかというとね…

だから 歴史をさかのぼったり

まあ 地理的なですね
移動を行ったりすると

私たちが
まだ全く知られていないものは

存在して あるんだと
こう考えるんですね。

それで もう みんな
どんどん 冒険に乗り出すんですね。

僕は 探検というと
その人が なぜ それを行ったか

ということに
興味があるんですけども。

典型的な探検が
まあ 大航海時代。

その動機 モチベーションは
「3G」といわれているんですよ。

一つは「ゴールド」。 経済ですね。

もう一つが「グローリー」。 名誉です。

もう一つが「ゴスペル」。

要するに宗教的情熱 布教とか。

たぶん 20世紀の前半というのは

3Gの何かを背負って
探検している最後で

大谷光瑞は まさにゴスペル
宗教的情熱ですね。

このころの日本仏教 危機ですよ。

江戸時代は もう本当に
保護されているわけですよ。

それでもう お客は いるわけですよ。

ところが廃仏毀釈で解体されて
神道へ改宗する人も出てくる。

で インテリや武士の中には
キリスト教に入る者も出てくる。

それで やっぱり明治に入ってから
どことなく…

ましてや 西本願寺で生まれた
本人ですもんね。

もうね 傾くくらい
お金を使っちゃうんですよ。

まあ 大名行列ですよね。
大名行列ですか。 はい。

だって10億でしょう 今の。
大名旅行ですよ。

ただ 彼 留学しなかったら
行こうと思わなかったと思うんですね。

要するに…

でも それだけ西洋の方たちは

仏教に興味を
この時代 持っていたんですね。

キリスト教のね 考え方も
いろんな派があるんですけれども

最終的に
仏教と通じるものがあるんですよ。

で この時代には 要するに…

「一に帰る」というですね。

そういうのが
結構 いろんなところでですね

唱えられていまして。

よりオリジンは
こっちのほうが近いんだというですね

このオリジン競争というものを
やるから

一番オリジンに近い仏典というのは
何だろうというので

みんな そこを目がけてですね

ある意味 第二のですね
この聖地みたいな

そういうふうな流れというものが
出てくるんですね。

あと やっぱり 仏教

西洋の哲学研究だとか
哲学理論をもって

仏教が きちっと
研究されている姿を見てしまうと

日本で
この島でやっているだけの話じゃ

これは もう駄目だと。

それは そういうふうに
考えたんじゃないでしょうかね。

続いても 大谷光瑞と同じ
仏教僧の探検です。

単独で 世界の秘境チベットへと入った
河口慧海を見ていきましょう。

1909年 日本人が書いた一冊の本が
海外で出版され

外国人を驚嘆させていた。

「スリー・イヤーズ・イン・チベット」。

西洋から「神秘の国」と呼ばれる
チベットの様子を克明に記した

河口慧海の滞在記である。

当時 チベットは

覇権を狙う
イギリスやロシアから

自国を守るため
外国人の立ち入りを遮断。

もし発覚すれば
死罪のおそれもある危険な旅だった。

2004年
河口慧海の足跡を明らかにする史料が

初めて公開された。

チベットへと向かう道中に
慧海が記していた

直筆の日記である。

当時 入国を助けた自国民までをも
死罪に処していたチベット。

累が及ぶことを恐れ
長年公開されてこなかった。

史料を保管している…

晩年の河口慧海を知る人物だ。

慧海が命懸けで残した克明な記録。

なぜ 前人未到の地を目指したのか?

京都にある 黄檗宗の大本山…

幼いころ 釈迦の生涯に感動し
出家した慧海は

28歳のとき
この寺に身を寄せる。

仏の教えの集大成である「大蔵経」の
和訳に ひたすら取り組んだ慧海。

その結果 一つの確信に
たどりついたという。

「原書によって見なければ

この経文の どれが真実で
どれが偽りであるか分からない」。

「これは原書を得るに限る」。

こうして慧海は 原書に近いとされる
チベットの経典を手に入れるため

明治30年 日本を旅立ったのである。

まず 慧海が向かったのは

インドのダージリン。

チベットの中心都市ラサへの

玄関口といえる街である。

ところが 慧海は すぐにラサに向かわず
この街に なんと1年4か月も滞在する。

その目的とは 何だったのか?

長年 慧海について研究する

高野山大学の奥山直司さんは
こう語る。

ダージリンで チベット学者の
サラット・チャンドラ・ダースという

インド人の所を訪ねる。

そこで チベット語を習ったり。

さらに それだけでは足らないので
チベット人の家に寄宿をして

そこでも日常会話ができるように

自分のチベット語を
だんだん だんだんと

ブラッシュアップして
いけたわけですよね。

彼は…

これが基本的な性格だと思うんですね。

慧海の計画性の緻密さは

そのルートにも表れている。

ダージリンから
ネパールのカトマンズへと入り

西に大回りをしながら

ラサへと向かう道のり。

主要な街道では

チベット兵が 外国人の出入りを
厳しく監視していたため

慧海は あえて 警備の薄い遠回りの道を
見つけ出したのだ。

だが そこには大きな壁が待ち受けていた。

標高8, 000メートル級の山々が連なる…

近年 発見された日記からは

まさに死と隣り合わせだったことが
うかがえる。

直筆の日記によれば

たった一人 磁石だけを頼りに

標高5, 000メートルの峠を越えた慧海。

こうして チベット入国を
果たしたのである。

日本を出国して4年 ついに…

慧海は 鎖国状態にある
チベットで身を守るため

チベット人を装う。

ラサの北にある…

慧海は この寺の学僧として

さまざまな経典に目を通しながら
修行に明け暮れる日々を送る。

さらに ラサに入ってから4か月
慧海は 思いがけない名誉に浴する。

チベット仏教界の頂点に立つ
ダライ・ラマが

慧海への面会を申し出たのだ。

一般の人はもちろん

政府高官でさえも なかなか
会うことのできないダライ・ラマに

慧海は なぜ会うことができたのか?

その手がかりが
近年 発見された日記から読み取れる。

たびたび登場する
「施薬」の文字である。

(奥山)彼はラサにある漢方薬店から…

そうすると これが不思議なほど
よく効くっていうんですね。

「じゃあ ちょっと来い」という。

その後 一度 日本に帰国するが…

さまざまな文物を 日本へと
持ち帰ることに成功する。

その一部が 豊島区にある大正大学に

今も保管されている。

版木で刷られたチベット語の「大蔵経」。

慧海が チベット入りを目指す
きっかけとなった経典である。

大正大学には
慧海の請来した こうした経典の束が

300以上 保管されているという。

当時は この「大蔵経」を

なかなか 持っている所が
非常に少なかったんですよね。

河口慧海が このような貴重な文献を
持ってくるというのは

とても尊敬に値することだと思います。

「仏の教えを あまねく人々に伝えたい」。

その信念を貫き通した慧海の旅だった。

チベット人に扮して
ダライ・ラマにも会って

ものすごい探検ですね この探検は。

面白いエピソードが いくつかあって。

慧海が ドルポという所を通って
チベットへ入っていくんですけれども

盗賊に遭うんですよ。

盗賊に遭ったときにね お経を唱えて

「もう どうにでもしてください」と言って
お経を唱えると

あちらはね…

それで 盗賊は去っていくんですけれども。
へえ…。

知恵としてじゃなくてなんですね。

戦略で やってないんですね。
へえ~!

鹿島さんは どんなふうに考えますか?
やっぱり…

チベット人のね
家庭に入るんですけれども

そのときに非常に意識的なんですよ。

どういうことかというとね
子どもと話をするんですよ。

大人だと 下手くそなチベット語でも
許してくれちゃう。

だけれども 子どもは

ちょっと変だと 必ずね
それをとがめてくれる。

だから…

これは 本当に そうですよねと。

やっぱり 明治人って ひたむきですよ。
ああ…。

ものすごくリアリストで
ひたむきな人たちですから…

なおかつ 体力もね 相当…。

僕ね 5, 600ぐらいまで
行ったことがあるんですけど

すごい もう息が切れちゃうんですね。

そういう所を 慧海が
ちゃんと通って行ったというのは

ちょっと尊敬…。
だから 今みたいに

高山病の知識なんて
あんまりなかったと思うので。

高度なんて… 大谷探検隊は
高度計を持っていたけど

河口慧海は そんなお金ないですからね。
だって…

その河口慧海とですね 大谷光瑞

共通点もあるように思えるんですけど

その辺りは いかがですか? 鹿島さん。

そうですね。
現実に 2人は会ってますよね。

慧海が チベットから出て
インドに来たときに

2人で 劇的な数時間を
過ごしてますよね。

ただ 大谷さんはですね

「そんなことをやるんだったら
俺が金 出してやるから

もっとちゃんとしたことをやれ」
っていう感じでね…。

慧海は 「やっぱり 俺は
やりたいことを 誰にもね

パトロンなしでやるんだ」というのでね
そこで あんまり

いい出会いではなかった
みたいですけどね。
そうですか。

慧海は やっていること自体が
修行なのかもしれないですね。

そうですね。

大谷探検隊の場合は

あんまり 人と交流する必要はなかったと
思うんですね。

やっぱり 行く所 場所 場所の仏教の
必要な史料を集めていく形なので。

でも 河口慧海の場合は
そうじゃないですから。

まず…

だから そのためには
同じ屋根の下で寝なきゃいけないし

同じものを食べなきゃいけないし。

それが やっぱり 個人でやるためには
ものすごく必要なことで。

とにかく身を隠すためには…。
身を隠すためには とにかく

土地の人と同じように
振る舞わなければいけないわけですね。

光瑞も 慧海も もともとの仏教

本当の仏教を目指すという点は
一緒なんだけれども

それをやること自体は かなり修行だと
思って 個人でやってる慧海と

大規模に 日本の仏教の水準を

科学的に高めるためみたいな意識で
やっている光瑞では

ちょっと その点が

目的は一緒でも
手法やあり方が違うんでしょうね。

河口慧海のチベット

大谷探検隊の中央アジアに加え

この時期 世界中の探検家たちが
羨望の目を向ける場所があった。

北極や南極などの
「極地」である。

それぞれの国の威信を懸けて
繰り広げられた 熾烈な探検レース。

そこに 一民間人として
果敢に挑戦したのが…

幕末の文久元年

秋田南部の金浦に
生まれた 白瀬。

12歳のとき 寺子屋で聞いた先生の言葉が
その後の一生を決定づけることになる。

中でも
少年 白瀬を魅了したのは北極の話。

当時 西欧の探検家たちが

北極点への一番乗りを目指し
挑戦を続けていたのだ。

こうして白瀬は
北極探検を志すようになる。

19歳で上京した白瀬は陸軍に入隊。

だが 50歳を目前にするまで
北極探検の機会は訪れなかった。

事態が急展開を見せたのは…

このときの心境を語る
晩年の貴重な肉声が残されている。

北極点到達に先を越された白瀬は

一転 目的地を南極へと切り替えたのだ。

だが 事態は風雲急を告げていた。

この年 イギリス海軍大佐
ロバート・スコットが

南極点を目指す探検計画を発表。

これを
全面的にバックアップしていたのが

当時 世界中に植民地を拡大していた
イギリス政府だった。

白瀬は言う。

白瀬は 早速 行動に移る。

南極探検にかかる費用10万円を

国に請願することにしたのだ。

これに対して国会は3万円の支給を認可。

だが 最終的には
国からの支払いを拒否されてしまう。

その理由の一つが 日清・日露の戦いを経た
明治日本の国家財政にあった。

それでもって富国強兵というふうに
なっていったそうですけども。

もはや 自力で資金を集めるしかない。

白瀬は知人のつてを頼り
新聞に寄付を募る広告を掲載。

すると 白瀬支援の輪は全国に広がり

およそ4万8, 000円の
寄付金集めに成功する。

だが このとき イギリスのスコット隊は

すでにロンドンを出発
南極海を目前にしていた。

焦りを感じた白瀬は

当初の想定よりも小さな木造帆船を購入。

船の規模は
スコット隊の3分の1以下の

およそ200トン。

これが南極での移動手段にも
影響を与える。

白瀬の船には そりを引く犬しか
載せられなかったのに対して

スコット隊の船には

馬や最新鋭のモーター付きそりまで
搭載されていたのだ。

当初の予定よりも4か月遅い…

ついに白瀬隊は 出発の時を迎える。

見送りに訪れたのは およそ5万の群衆。

中には 白瀬隊の後援会長となった
大隈重信の姿もあった。

40年越しの夢に向けて
いよいよ南極へと旅立った白瀬。

だが 日本を出航してから およそ4か月。

南極海で 白瀬たちの前に
立ちはだかったのは

厚い流氷だった。

出発が遅れたため

南半球が
秋に入ってしまったのだ。

やむなく オーストラリアの
シドニーまで引き返すことになる。

流氷がとける春を待ち
再挑戦を計画していた白瀬。

だが このとき イギリスのスコット隊は
すでに南極に上陸。

着々と準備を進めていた。

さらに 新たな強敵も。

ノルウェーのアムンゼン隊が
スコット隊に後れること10日

南極に上陸し
同じく南極点を目指していたのだ。

白瀬は このとき
現実的な問題にも直面していた。

これは シドニー到着の翌日

白瀬から
後援会長の大隈重信に宛てた電報。

そこには
南極に渡ることができなかった

報告と共に
大隈に金を無心するメッセージが。

渡航が延びたため
持参した資金のみでは

再起を図ることが
できなくなっていたのだ。

これに対して大隈は 自分が責任を持って
金を工面すると約束。

だが そこには 白瀬を愕然とさせる
条件が添えられていた。

「無謀極まる南極点への一番乗りを諦め

目的を学術調査に切り替えよ。

そうでなければ もはや後援はできない」。

シドニーの野営地で
白瀬は選択に迫られていた。

南半球が春を迎えるまで およそ半年。

資金不足のままでは
南極の大地を踏むことさえ まかりならん。

さらに スケジュールまで
後手に回ってしまった今

もはや スコットやアムンゼンよりも早く
南極点に到達することは困難。

やはり ここは
大隈伯爵の意見を

受け入れるしかないのか…。

いや そんな弱気で どうする!

前人未到の極地に到達することこそ
私が40年近く 抱き続けてきた夢。

僅かばかりでも それがかなう可能性が
残されているなら

その夢に懸けるべきではないのか。

南極から4, 000キロ離れたシドニーの地で
白瀬は選択に迫られていた。

12歳のときから抱き続けてきた
白瀬の極地探検の夢が

40年越しに動きだします。

関野さん 白瀬は
どんな人物だと思われましたか?

やっぱり 一番を目指す人ですね。

誰も行ったことない所に行きたい。

そういう意味では
彼が 大谷とか河口慧海と違うのは

いわゆる 宗教的情熱はないし

ゴールドも 別に
得るわけじゃないんですけれど

やっぱり…

その3Gのうちの一つが
まだ残っている時代の…。

だって 5万人が見送るなんて探検
今はないでしょ。

フフフ… そうですね。 確かに。

こういう類いの人はね 明治人には
かなり いたんじゃないかと思いますね。

中江兆民という人がね

「三酔人」というね… それでやって

その中の豪傑君タイプの人ですね。

「俺が俺が!」でね
「世界を征服してやる!」っていうね。

これが この人の典型ですね。 だから
そこへいくと 河口慧海になったら

国家とね 自分というのは
そんな関係はないんですよ。

あとは たぶん 私たち
みんな そうですけども…

彼は 寺子屋で習った人の話を
聞かなかったら

一番って ならなかったかもしれない。
確かに。

白瀬って 「平田国学」という
秋田生まれの

日本人に絶大な影響を
幕末に与えたものの中から

出てきた人だと思うんですね。

完全小学校教育が出来る以前に

人間は心臓がポンプになっているとか
精子が子どものもとであるとか

西洋の技術や そういったものも
国学の中に取り込んで

こんなに世界というのは
不思議で 面白いんだと。

人として生まれた以上は

その謎を知っていくというのが
学問なんだと。

それが動物と違う
学問のある人間なんだというので

これで基礎的な知識を持っていく。

それが国威高揚の中で
日露戦争のあとですから

自分は ただの軍人っていったって
そんな有名なものではないと。

世界に何か残してやろうと。

そしたら大風呂敷な話が大好きで
明るい大隈さんの所へ行って

「金 出してくれ!
金 集めるのをやってくれ」と

言ったんでしょうね きっとね。

そんな中 白瀬は
大隈重信の助言を受け入れ

目的を学術調査に切り替えるのか

もしくは
南極極地の到達を強行するのか

選択を迫られていました。

ちょっと こちらをご覧ください。

これは同じ時期に南極点を目指していた
イギリスのスコット隊と

日本の白瀬隊の規模を
比較したものなんですが

人も 船の大きさも

そして 資金も大きく違いますよね。

これは倍以上というか
相当違いますよね。

6倍ですね 資金はね。

(夢枕)僕の感覚だと 白瀬さん

行っちゃうんじゃないかと
思いますけどね。

もう極地到達を。

でも まあ 成功はしないですね。

大きく違いますもんね。

だから この段階では まだまだ

イギリスの全盛期の帝国主義と
比較にならない。

船なんてね 764トンに比べて
204トンの船って。

積載するもの 積むものも
だいぶ 違ってきますよね

こんだけ 船の規模が違うと。

スコット隊 馬を積んでいるんですね。
どう考えても ばかですよ。

ええ? どういうことでしょう?

犬だったら肉食でしょう。
1キロもあれば 大喜びですよね。

でも…

植物の餌をあげるというのは
相当な量の餌が必要なんで

それを南極では育ちませんから
船で運ばなきゃいけないんですよ。

極地の移動って
重さがすべてらしくて。

植村直己さんが…
よく出る逸話ですけど

鉛筆一本だか何だかを こう持って
持っていこうかな 重くなるしなって

悩んでいるところを よく見てるから…
人が言って

そのぐらい緻密に重さを軽くして
計算しないと

生きて帰れない場所なのに

重さのことを考えずに
馬を連れていくなんて 駄目ですよ。

だから 犬ぞりで 何回か旅したことが
あるんですけども。

肉食の犬でさえも。
それが馬となると どうなるか。

ああ… 面白い。

さあ そんな状況の中で
白瀬は どんな選択をしたんでしょうか。

向かう先は…。

南極大陸。

白瀬は大隈重信の助言を受け入れ
目的を…

翌年1月
念願の南極への上陸を果たした白瀬。

このとき 思わぬ先客と遭遇する。

アムンゼン隊の船 フラム号である。

だが アムンゼンが
南極点に到達したという報告は

船に まだ もたらされていなかった。

これを聞いた白瀬は

学術調査を行う隊とは別に
5人の精鋭部隊を結成。

2台の犬ぞりで ひたすら南へと向かって
氷の大地を走り出す。

その名も…

南極点までの距離 およそ1, 300キロ。

その道中は 初日から災難に見舞われる。

雪が深いために 犬ぞりが前に進まず

しばしば徒歩での前進を
余儀なくされたのだ。

2日目からは
視界僅か1メートルの猛烈な吹雪

ブリザードが白瀬たちを襲う。

しかし 次第に要領を得てきた隊は

8日目
90キロ以上の距離を進むことに成功。

氷点下20度にも及ぶ中
夜を徹して 前進することもあった。

だが 迎えた9日目
白瀬は大きな決断を下す。

この日の野営地を
最終地点とすることに決めたのだ。

そりを引く犬や隊員の凍傷は
ひどくなる一方。

さらに
食料も残り僅かとなり

このまま進めば…

白瀬は この地を「大和雪原」と命名。

南緯80度5分

南極点まで
およそ1, 000キロの地点だった。

このとき 白瀬の念願だった
南極点に翻っていたのは

アムンゼン隊が立てた ノルウェーの国旗。

その1か月後には

イギリスのスコット隊5人も
南極点に到達。

だが その帰り道 猛烈な吹雪に見舞われ
全員が死亡してしまう。

一方 白瀬隊27人は1人も欠けることなく
1年6か月ぶりに日本の土を踏む。

出迎えたのは 5万ともいわれる群衆たち。

だが 白瀬の胸中は複雑だった。

その後 白瀬の人生は
苦難に満ちたものとなる。

南極探検で発生した
多額の借金を抱えることになったのだ。

白瀬は 南極での記録フィルム
一巻を携え

日本各地を転々としながら 講演会を開催。

借金の返済に充てた。

そして 昭和21年 86歳で
その生涯を閉じる。

だが 白瀬の南極探検は無駄ではなかった。

戦後の昭和30年

南極観測の枠組みを決定する
国際的な会議で

日本は南極探検への参加を表明。

だが 各国から
日本の参加を認めない声が相次ぐ。

敗戦国に その資格はないというのだ。

そんな会議の形勢を逆転させたのは

白瀬の実績だった。

突進隊だけではなくて
そのあと 開南丸で

色んな調査… ペンギンの調査とか
山の調査とかですね

そういったこともしてますので。

2年後 日本は初めて
国として観測隊を派遣。

その初代 越冬隊長を務めた
西堀榮三郎が

南極を志したのも また
白瀬の影響だった。

11歳のとき 京都 南座で開かれた
白瀬の上映会を目撃していたのだ。

昭和43年 第9次越冬隊が
日本人として初めて南極点に到達。

白瀬の南極探検から
56年目のことだった。

白瀬は大隈重信の意見を受け入れ
学術調査をしつつ

突進隊を組んで 極地を目指す
そういう選択をしたわけですが

夢枕さん いかがですか?

いろんな 白瀬さんのエピソードを
聞くにつけ

普通は死ぬタイプですよ。
山に行っても どこへ行っても。

それが やっぱり 生きて帰ってきて
しかも 86まで生きたというのは

やっぱり どこかで…

もし 彼が単独で
お金をいっぱいもらって行ってたら

たぶん 行って
途中で死んでたでしょうね 間違いなく。

やっぱり 大隈重信が ああいうふうに
「学術調査で帰って来い」と言ったので

これが非常に大きかったんじゃないかな
やっぱりね。

私も実は 私の勤め先の料理を
作ってくれる人は

南極料理人の経験がある人で
2年 越冬した人ですけど

「白瀬隊について どう思います?」
って言ったら

「あんな規模で よく行った…
生きて帰ったと思うよ」と。

だから そういう所から…

これは やっぱり
白瀬のすごさだったと思いますね。

記録としては…

あとの人にとっては。

例えば 今年の1月2月って
荻田君っていう40歳の青年が

南極点に無補給単独徒歩で
到達したんですね。

彼は植村直己さんの影響を受けてて。

じゃあ 植村さんは
誰の影響を受けているかというと…

だから 自分ができなくても
誰か引き継いでやればいいわけで。

たぶん 白瀬さんは 俺がやらなきゃ
駄目だと思ってたかもしれないけども

結果的には 失敗談も失敗談で

成功するには なぜ失敗したかって
考えるわけですから

それが だんだん 徐々につながっていく
ということですよね。

大谷光瑞 そして 河口慧海
白瀬 矗と 3人見てきました。

同じ時代に 未開の地を探検した3人から
どんなことが見えてきたでしょうか。

夢枕さん どうでしょう?
これは やっぱり…

明治というのは やはり
江戸時代が鎖国状態にあって

いろんなものが
たまっていたと思うんです。

それが開国をして
一気に いろんな所から

噴き出てきたと思うんですよね。

時代が こう マグマのように
何か たまっていたものが

いろんな個人個人の
クレーターのような所から出て

爆発的な 何か状況を
生んだんじゃないかと思うんですね。

やっぱり もう どこへ行っても
未知の場所だったと思うので

日本は飢えてたと思うんですよね。

私 すごく 海外に行くの大好きで
改めて 日本のことが見えたり

いろんな角度で
見えることになると思うんですが

意外と行かないんですよね
今の人たちって 実は。

地図の空白部分が もう ほぼ地球上から
なくなってしまったということと

例えば エベレストのてっぺんは
何人もの人が行っちゃってるし。

未知のものがね 地球上から もう
極端に少なくなったというのも

結構 影響しているような。

ただ 面白いことは たくさんある。

例えば パタゴニア 未踏峰だらけです。

ギアナ高地も 誰も潜ってない穴は
たくさんあります。

例えば オーストラリアに
もう5万年前に人が住んでるんです。

日本には4万年前です。

でも どんな船で渡ったか
分からないわけです。

それを再現するとか。

さあ 磯田さん
3人の探検家を見てきました。

もう すごい僕は反省しましたね。
どういうことですか?

現代人って ネットの情報だとか

それ 自分が見てないわけですよ
大抵の場合は。

分かったつもりになるんですよ。
自分の手足で触れてもなければ

目でも見てない 匂い嗅いだわけでも
耳で聞いたわけでも

口で食べたわけでもないんだけれど
確かめに行こうともせず

で この情報 正しいものとして
人に配るんですよ。

だけど 実際 ここに現れてた人は
本当はどうなのかというのを

自分の目で この目で見る
この足で確かめる。

このリアルさを欠いたら
やっぱり 僕らの社会

どこか弱くなるんじゃないかと
思いますよね。

変なほうにいくかもしれない。
もう しっかり この明治人たちに

何か 今日は言われた気がしました。
そうですね。

皆さん ありがとうございました。


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