100分de名著 三木清“人生論ノート”第3回 “孤独”や“虚無”と向き合う 哲学者…岸見一郎、伊集院光、島津有理子…


出典:『100分de名著 三木清“人生論ノート”第3回▽“孤独”や“虚無”と向き合う』の番組情報(EPGから引用)


100分de名著 三木清“人生論ノート”第3回▽“孤独”や“虚無”と向き合う[解][字]


人間の条件の一つを「虚無」だと喝破する三木清。だからこそ我々はさまざまな形で人生を形成できるのだという。また「孤独」こそ内面の独立を守る術と説く三木の哲学に迫る


詳細情報

番組内容

三木清は、哲学者ならではの視点から人間が置かれた条件を厳しく見定める。そして人間の条件の一つを「虚無」だと喝破する。だがこれは厭(えん)世主義ではない。人間の条件が「虚無」だからこそ我々はさまざまな形で人生を形成できるというのだ。また、一人だから孤独なのではなく、周囲に大勢の人がいるからこそ「孤独」が生まれると説く。そして、その「孤独」こそが「内面の独立」を守る術だという。

出演者

【講師】哲学者…岸見一郎,【司会】伊集院光,島津有理子,【朗読】市川猿之助,【語り】小坂由里子



『100分de名著 三木清“人生論ノート”第3回▽“孤独”や“虚無”と向き合う』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数BEST10)

100分de名著 三木清“人生論ノート”第3回 “孤独”や“虚無”と向き合う
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  2. 人間
  3. 秩序
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  5. 孤独
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  10. 混合


『100分de名著 三木清“人生論ノート”第3回▽“孤独”や“虚無”と向き合う』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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哲学者 三木 清は
「人生論ノート」の中で

私たち人間は 「虚無」の中に
生きるのだと説きました。

海のような広大な世界で

人間は 自らを形成して
生きてゆくのだ。

第3回は
虚無や孤独と向き合う事で

人間とは何かを考えます。

♬~
(テーマ音楽)

♬~

「100分de名著」 司会の…

三木 清の「人生論ノート」 前回まで
伊集院さん いかがでしたか?

そうですね なかなか ストレートに
ものが言えないような時代に

言われては いろんな人が
困るような事を書いてますので

わざと難しくしてある。
そうだったんですよね。

でも 読み解いていくと
割と腑に落ちる事が多い。

現代の私たちにもピタリと当てはまる
ような指摘もありましたよね。

講師は哲学者の岸見一郎さんです。
よろしくお願いいたします。

今回のテーマは
「孤独」と「虚無」という事で

どちらも ちょっとネガティブな
響きのある言葉ですけれども。

ここで言う 「虚無」というのは
ニヒリズムとは違います。

「人間の条件」という意味で
使いたいんですね。

人間の条件が「虚無」だからこそ
我々は生きていく価値があると

三木は考えました。

人間の条件が 虚無。
どういう事なんでしょうか。

早速 虚無について ご覧下さい。

虚無を 大海に例えるならば

私たち人間は 海の中にある一粒の
泡のような存在でしかありません。

しかし
いかに小さな存在であっても

海がなければ 泡も存在しない…。

つまり 海は 泡が存在するための
条件であり

虚無は 人間が存在するための
条件なのです。

更に とてつもなく広大な世界で
生きるために

人間には
「形成力」が必要であると

三木は考えました。

これは もしかしたら

番組 始まって以来 難解な
くだりかなと感じてるんですけど。

ちょっと 自分なりに考えると

前の回の 「虚栄」が 人間の存在
そのものだという項があって

これも
どぎもを抜かれたんですけど

ちょっと対をなしてるかなという。

そもそも 何もないんだと。

そもそも
何もないって事を押さえて

その虚栄で
自分を組み立てるみたいな事と

少し似ているかと思うんですが。

ないから 作っていかないと
いけないという話に

やがて なると思います。

そして
こちらをご覧頂きたいのですが。

本当に広大な海の中で 人間は
いわば 泡や波のような存在で

非常に ちっぽけなんですね。

それに対して
海が あまりに広大すぎて…

でも 生まれてしまってるという
事実も 他方あるんですよね。

海の中に放り出されて…

だったら 何とかして
虚無をかき集めるという

言い方をしてるんですが…

まさに 三木は

「人生は形成である」
というふうに

述べているんですよね。

でも これって
虚無を 「世界」とか「宇宙」とか

そういうものに置き換えたら
駄目なんですか?

もちろん それでいいと思います。

広大な世界で
自分なんて いても いなくても

自分が死んだって
世の中 何も変わらない。

徒労感を感じるんだけど
でも自分がいるって事は事実で

そこから何を作り上げていくかだ
それが人生だ みたいな。

たとえ
無意味に見える人生であっても

誰かによって
決められるわけじゃない。

ここが大事なポイントだと
思うんですよね。

しかし 同時に
三木は 社会が変容した事で

現代人の自己形成は難しくなった
というふうに言っています。

その 社会の変容について
こちらの図に表してみました。

昔は恐らく 生まれてから死ぬまで
知り合う人は

100人に
満たなかったんじゃないか。

だから お互い
相手の顔を知っていますし

名前も知っていますし
お互いの個性を知っている。

そういうような世界に
かつて我々は住んでいました。

かつての社会ですね。

でも今 現代人が住んでるのは
「無限定な世界」。

まさに 現代って
こういう感じですよね。

インターネットで
世界中の 名前も分からない

顔 見た事ない人と
つながってて。

誰が発信した情報かも分からない
というような

無限定な世界に
住んでるんですよね。

人間というのは
「私」と「あなた」の間で

自分の個性を形づくるわけです。

僕と伊集院さんとの関係の中で
僕という人間が形づくられる。

ところが 今は…

そうする事で 人間は…

アノニム。

そんなふうに 無数の人と…

それが 現代の社会だ。

これは… まあまあ
本としては古いんだけど

僕にとっては
ものすごい新しい考え方で。

本当に独りぼっちである
という事は 確かに

自分が なくなっちゃうのは
よく分かります。

それは基本として分かります。

2人になって 初めて
「俺は大きいんだ」とか分かる。

でも 無数になった時点で また
もう一回 なくなるというか。

そのとおりです。
ちょっとゾッとするような話だな。

そうした社会の中で では
どのように生きればよいのか

三木は その虚無との向き合い方を
こう説いています。

三木は
虚無から何かを形づくる力を

「構想力」と名付けました。

そして 構想力のためには

「混合の弁証法」が必要だと
考えたのです。

弁証法とは 本来
矛盾や対立を統一する考え方。

しかし 三木は
矛盾や対立を解消せず

それらを混在させて
抱え込んだまま

混合してゆく方法を
提案しているのです。

そのためには
秩序が必要となります。

さまざまな要素の配列や
組み合わせを変えて

適切に位置づける。

それによって 人間は 虚無から
脱出できると考えたのです。

一難去って また一難なんだけど。

聞き慣れない言葉 「混合の弁証法」
というのが出てきましたが

これは どういう事ですか?

普通の弁証法というのは

対立や矛盾を統一する
という考え方です。

それに対して 混合の弁証法は
矛盾や対立を解消せず…

赤も青も あるまんま。
そうです。

これ いきなり
学校の話になりますけども

子供たちが 「ソフトボールをしたい」
あるいは 「ドッジボールをしたい」と。

その時に例えば 「ソフトボールは
競技として優れている」とか

「ソフトボールの方が健康にいいから
ドッジボールは諦めなさい」。

そういうふうに ある考え方
提案を退けるのではなく

「ソフトボールもしよう ドッジボールもしよう」
という事を認める事ですよね。

ただ 時間を決めましょう。

まず最初に ソフトボールをし
次にドッジボールをしていきましょう

というふうに
異なった考え方 あるいは…

…というのが この混合の弁証法の
核というか 本質ですよね。

は~ なるほど。

この混合の弁証法を
成立させるには

秩序が必要だ
という事なんですよね。

その秩序について 三木は
このように書いているんですね。

「秩序には
温かさがないといけない」

という事なんでしょうか。

僕の書斎には 本が うずたかく
積まれてるんですよね。

それを 全く僕の事を知らない人が
本を整頓するとします。

そうすると 同じ大きさの本を
並べたり 重ねたりする。

そうすると
一見 秩序はできるんですけど

たちまち 違和感といいますかね。
使いづらいでしょうね。

落ち着かない感じが
するんですよね。

必ず 温かさがないといけない
という事を

ここで
三木は言おうとしてるんです。

何か
秩序という言葉だけ捉えると

さっきの ソフトボールやろうか
ドッジボールやろうかの例で言うと

例えば 「こっちの方が
カロリーを いっぱい消費するから

こっちにしましょう」みたいなのも
秩序な感じするじゃないですか。

でも それは
まさに冷たい秩序の代表で

しかも
きちんと混合もされてない。

ただ これを ちゃんと作り上げる
力というのは 相当アイデアもいるし。

だから
簡単な 外から押しつけるとか

もう
ルールで決めちゃうという方に

流れがちなのかもしれない
ですよね。

更に三木は 国家の秩序は
どうあるべきかについても

考察しました。

ヨーロッパで ナチスドイツにより

第二次世界大戦の火蓋が
切られた頃。

三木は 近衛文麿を中心にした
研究会のブレインとなり

政治の世界に 足を踏み入れます。

「日中戦争を
何とか終結させられないか」。

時代を生きる哲学者として

三木は 積極的に
国策研究に関わります。

しかし
現実は悪化の一途をたどり

戦争は 泥沼化してゆきます。

昭和15年 成果のないまま
「昭和研究会」は解散。

あえて体制に加担し
ファシズムや軍国主義に抗してきた

三木にとっては
大きな挫折でもありました。

その翌年に 三木は
「秩序について」を書き上げます。

三木は 「外的秩序」という言葉で
国家の秩序について考察しました。

為政者は 自分に都合のよい秩序を
強制しようとするが

心の秩序に合わないものは
真の秩序とは言えない。

戦時下にあって その考えを

三木は ぎりぎりの表現で
説いたのかもしれません。

は~ あの「温かさ」のくだりには

こういう事があっての
事なんですね。

結構 驚きませんでした?

在野の哲学者であった
というふうに聞いていた三木が

政府の 政治家と共に活動していた
時期がある。        そうですね。

三木自身は
日中戦争の早期解決を狙って

このブレインの一人として
参加したわけです。

ですから 彼自身の形成の思想が
傍観してるという事を

許さなかったんだろう
というふうに考えてます。

その中で 三木が説いたのが…。

国家においても 無理強いでは
駄目だという事なんですか?

三木は 上からの押しつけでは

真の秩序は形成されない
というふうに考えていました。

しかし結果として 研究会では
議論はしたけれども

軍部の独走を
止める事はできなかったんです。

だから ヒトラーとか
分かりやすいと思うんですよ。

あのころドイツの人たちは分かんなく
なっちゃったと思うんです。

いろんなもの
テクノロジーとかも進化するし

おろおろしてるところに
ヒトラーみたいな

強力な秩序を考えて
みんなを鼓舞できる人が

「こういう順位づけが正しいんだ」
と言っちゃうわけですよね。

「ユダヤは駄目なんだ。 我々
ゲルマン民族って すごいんだぞ」と

言った時の この強力な人間の
作った秩序を ドーンって

「みんな やろうぜ」となっちゃった
時の恐ろしさみたいのは

まさに
こういう事だと思うんだよね。

ただ それが
心の通ってるものかとか

みんなが共存できるかというと
全くもって そうじゃないという。

そこで三木は いろんな価値を
認めるという意味での

「価値多元主義」の危うさに
気がつくようになります。

今日の問題に引き付けて言えば

例えば ヘイトスピーチ あれは
言論の自由であると言われたら

誰も禁止できないという事に
なってしまうんですよね。

だから 何とかして そういう
価値多元主義ではなく…

それを 三木の言葉で言うと
「価値体系」という言葉なんですね。

価値体系の大切さというものに
気がつきました。

ここ またね すごく
言葉の使い分けが難しいのは

ちょっと前に習ったところの
「混合の弁証法」の時には

ソフトボールをやりたい子も
ドッジボールもやりたい子も

両方 生かすという
やり方でしたよね。

今 言う 「価値多元」という事とは
また別?       別なんですよね。

中の ベースにあるものがなければ

全てを受け入れてしまう事になり
それはそれで

非常に危険だという事になります。
なるほど。

具体的には 人間存在の尊厳を
大切にするという考え方です。

それさえ土台としてあれば 多様な
価値を内包する事はできます。

しかし 逆に それがなければ

人間は アナーキー 無秩序な
虚無主義に陥ってしまう。

何か 大前提の 温かくもあり

大前提の秩序がなきゃいけない。
そのとおりです。

それは 恐らく
今も同じ危険な状況として

我々の目の前にあるというふうに
考えてます。

というのは すぐ分かりますよね。
分かります。

子供たちに
特定の価値観を植えつける事は

いとも容易ですし。
批判能力 ありませんからね。

大人でも 若い人でも あまり
この世の中の事について

考えてない人であれば
容易に扇動されますし。

一番最初の所の あの虚無という
海の広さみたいなものを

きちんと理解しながら
自分で 何か価値観を

形成していかないと駄目だ
という事が

ちゃんと 対で分かってないと

いとも簡単に
あの海自体を支配できたりとか

必要な海と
必要じゃない海みたいなものが

分けられるみたいな事を
考えちゃうと

「俺 分けたよ」という人に
ついてっちゃうわけですもんね。

そういう事ですね。
ここは とても大事な所ですね。

当時のインテリの人たちにとっても
結構 刃を向けた発言ですよね。

多くの文化人や
教養がある人たちが

ニヒリズムに走っていたから

独裁を止める事ができなかった
加速させてしまった。

…という言い方ができますよね。

うわっ 何か
ちょっと耳の痛い話ですね。

一方で 昭和15年に 三木は
「孤独について」を発表します。

ご覧下さい。

三木は 「孤独には
美的な誘惑があり

味わいがある」と書き

決して 「孤独を乗り越えよ」とは
言いませんでした。

むしろ 「たった一人である事」を
自覚し 孤独に耐える事は

生きる上で
大切な事だと言うのです。

まず三木は 孤独を とても大切な
ものと捉えていたようですね。

昔 僕が文字どおり 高校に
行かなくなったあたりの頃は

本当に一人だったから
孤独感も感じたし

孤独というのが
当たり前に感じてたんですけど

この世界にいて 割と大勢の人と
楽しくやってて

あのころの僕から言えば

望んでた世界に
行ったような感じもするし

人数的には 周りに
すごい人がいるんだけども

もっと まずい孤独感みたいなのが
襲ってくる時があるので。

孤独というのが 大勢の人の間に
あるというのは分かるんですが

それが必要ってなってくると
これまた どうした事か…。

高校生の時に 友達が
一人も いなかったんですよね。

その事を母が心配して
担任の先生に相談に行ったんです。

そうすると 担任の先生は

「岸見くんは 友達を必要としない
人だ」と言ってくれたんです。

「皆と一緒にいるのが いい」
みたいに思われるわけでしょ。

言われがちですよね。
「友達は多い方がいい」みたいな。

そうでなくて いいんだ。 むしろ
自分が一人でいられる事に

担任の先生は 価値を
見いだして下さっていた事に

すごく驚いた経験があります。

大勢 周りに
人はいるのにもかかわらず

その間 間に 孤独という隙間を
持っておける人というのは

迎合しない人なので。
そのとおりです。

それは いい事だという事ですね。
はい。

あ~ これは
何か 説得力のある言葉だな。

自分だけが 周囲と 意見や考えを
異にするという意味で

独りぼっちになる事は
当然 あるわけですけども

そうした孤独に耐えられる事が
大切だと。

それが ここに使われてる
「知性」という言葉の意味だと

考える事ができます。

なるほど。

当時 これが書かれた時代は
もう これの逆ですよね。

熱狂していて みんなで一緒に
戦争へ向かって

突き進むのだという時代ですよね。
そのとおりですよね。

普通に考えたら
戦争に向かわない方が

いいんじゃないかと思ってても
その孤独の恐ろしさから

イケイケになってしまう事って 戦争に
限らず あるじゃないですか。

冷静に考えたら これ みんな 変な
勢いになってるぞというのを

「俺 いい」って言えるのが
恐らく

その知性に属する孤独を
ちゃんと持ってる人ですよね。

は~!

孤独だけが その個人の人格
内面の独立を守る事ができる。

そこに 孤独の価値を
三木は見いだしたわけです。

哲学者 しかも有名な
哲学の事だってなりますとね

僕は何かね もう全部 分かった
という立場から書くもんだ

そういうもんだと
思ってたんですけど

何か とても不屈の闘志で

「人間とは何だ」みたいな事に
不屈の… 何度も失敗して

そんなはずじゃなかった そんな
はずじゃなかったと なりながら

この本は闘ってますね。
そのとおりですね。

岸見さん 今日も
ありがとうございました。

ありがとうございました。


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