ファミリーヒストリー「SAM(TRF)~医師の家系に生まれて 亡き父の思い」 今田耕司、池田伸子、余貴美子


出典:『ファミリーヒストリー「SAM(TRF)~医師の家系に生まれて 亡き父の思い」』の番組情報(EPGから引用)


ファミリーヒストリー「SAM(TRF)~医師の家系に生まれて 亡き父の思い」[解][字]


実家は、埼玉の総合病院。医師だった亡き父の後を継ぎ3人の兄や弟はみな医師に。今回、戦国武将だった先祖や、江戸時代、日本を揺るがした事件との関わりが明らかになる。


詳細情報

番組内容

実家は、埼玉岩槻で総合病院を営む。明治時代、曽祖父がこの地で医院を開業した。SAMさんの3人の兄や弟はみな医師として実家を守っている。今回、戦国武将だった先祖が明らかになる。石田三成や上杉謙信との交流を示す貴重な書状も見つかった。さらに江戸時代、日本を揺るがした「シーボルト事件」との関わりも明らかになる。そして、家を飛びだしダンサーになった息子を、最後まで認めなかった父。秘めた思いが明らかになる。

出演者

【ゲスト】SAM,【司会】今田耕司,池田伸子,【語り】余貴美子




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ファミリーヒストリー「SAM(TRF)~医師の家系に生まれて 亡き父の思い」
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♬~

日本の音楽シーンに
ダンスミュージックを根づかせた TRF。

ダンサーのSAMさん
56歳になった今も

ダンス界のレジェンドとして
第一線で活躍しています。

SAMさんの本名は…

丸山家は…

しかし 18歳で 実家を飛び出したSAMさん。

自らのルーツについて
詳しく知らないといいます。

失礼します。
ハハハハ お疲れ~。

どうしたの? 今日は 撮影が入って。

すいません
ちょっと大所帯なんですけどね。

あっ お疲れさま…

♬~

番組では SAMさんに代わり
家族の歴史を追いました。

浮かび上がったのは 伊達政宗と
攻防を繰り広げた 反骨の戦国武将。

江戸時代後期
日本を揺るがす「シーボルト事件」。

その関わりも 明らかになります。

更には ダンスのルーツとも言える
意外な事実が浮かび上がります。

今回のゲストは TRFのSAMさんです。
どうぞ。

(拍手)

お願いします。

そうなんですかね?

そうですね はい。

♬~

埼玉県の東部に位置する
さいたま市 岩槻区。

都心まで 電車で1時間ほどの
ベッドタウンです。

SAMさんの実家 丸山家は
総合病院を営んでいます。

診療科目は24 病床数は241あります。

SAMさんは 5人兄弟の
2番目。

長男は 歯科医師。

今 大丈夫?

三男は 産婦人科医。

そして 四男は 整形外科医と

SAMさん以外の男兄弟は
皆 ここで働いています。

SAMさん…。
大丈夫ですかね?

現在 病院の理事長を務める…

先祖代々の墓所に案内してもらいました。

1756年 千葉房総半島にあった
勝浦藩の藩主 大岡忠光が

岩槻城に入封します。

大岡家に仕えていた丸山家も
岩槻に移り住みました。

ちなみに 藩主の大岡忠光は

あの名奉行 大岡越前こと
大岡忠相の親戚になります。

すいません 失礼します。

さいたま市史を編さんする…

吉三郎は通称で 本名は吉正。

幕末から明治を生きた
SAMさんの4代前の高祖父です。

すいません 失礼致します。

その吉正に関する資料が見つかりました。

岩槻に暮らす…

13年前 古書店の目録を
眺めていた時のことです。

地元の歴史に興味があったため
早速 買い求めました。

それが偶然にも SAMさんの高祖父
丸山吉正の日記だったのです。

「和宮御下向の警護にあたる」
と書いてありまして。

1861年 皇女 和宮が徳川家に嫁ぎます。

日本中が注目する 一大行事。

和宮の婚礼道具を携えた
大行列は

京都から 中山道を通り
江戸へと向かいました。

丸山吉正は その街道の警備を
担当していたことが分かりました。

吉正の日記を さいたま市立博物館の
学芸員 井上拓巳さんに見てもらいます。

細かくね 書いてあるね。

吉正たちが
警備を担当したのは

中山道の新町宿から
本庄宿にかけて。

現在の群馬県と埼玉県の県境です。

そして 11月11日
吉正は 朝8時から警備にあたります。

和宮一行が通過したのは
夕方4時ごろのことでした。

そして 時代は明治になると
吉正は 新たな職に就いていました。

こちらですね 丸山吉正さんのお名前を
確認することが できました。

明治5年
埼玉県庁の職員に採用されたのです。

浦和に置かれた 埼玉県庁。

岩槻からは 10キロ以上離れていたため
通勤するのは大変でした。

そこで 県庁近くの今福屋という宿で

下宿生活を送ることにします。

吉正が 埼玉県庁で担当したのは 租税係。

明治政府が実施した租税制度の大改革
「地租改正」を推し進める立場でした。

一方 家庭では 妻 のぶとの間に
一人娘の よ祢をもうけます。

その後 男の子ができず
よ祢に 婿を迎えることにします。

当時 よ祢は 父 吉正に
結婚の理想を語っていました。

式台とは 土間と上がりがまちの
中間にある敷き板の部分。

武家の屋敷の玄関に見られ
医者の屋敷にも よくありました。

そこで 吉正が相談を持ちかけたのが

かつて下宿をしていた
県庁近くの 今福屋の女将でした。

早速 女将は縁談を取り持ちます。

紹介してくれたのは 女将の甥っ子で
医者だった横田五郎。

後に SAMさんの曽祖父になる人物でした。

明治29年 二人は結婚。

医者だった横田五郎は 丸山家の
婿養子に入ることになったのです。

さあ いかがでしたでしょうか。
はい。

資料 残ってますね でも やっぱり。
そうですね。

ほんとですね。

色みから デザインも。
ええ。

そういうことなんですね。
ほんとですね。

式台?

ぜいたく。

SAMさんの曽祖父で 丸山家の養子に入った
横田五郎。

その実家 横田家をたどると
意外なルーツが浮かび上がってきます。

横田家の子孫が 埼玉県羽生市に
いると分かり 訪ねました。

(取材者)
すいません こんにちは。

五郎の弟
直正の子孫の家です。

家系図が残されていました。

巻物!

ここに 氏勝って書いてありますけど…

横田を名乗る前の姓は
山ノ内だったというのです。

福島県金山町に 山ノ内氏勝の
直系の子孫がいることが分かり

訪ねました。

「横田」と呼ばれる集落に 本家はあります。

失礼します。

かつて 小学校の校長を務めていた…

当家の山ノ内不二彦と申します。
ご苦労さまです。

(取材者)よろしくお願いします。

1538年に生まれた山ノ内氏勝は
奥会津の一部を治めた戦国武将です。

その氏勝が使用した馬具が
大切に保管されています。

(取材者)すごい きれいですね。

螺鈿を施した鞍の前後にある…

(取材者)これも氏勝が戦で使ってたもの?
そうですね。

全て 町の重要文化財に指定されています。

更に…。

豊臣秀吉の側近
石田三成からの書状。

そして
こちらは上杉謙信からの書状。

名だたる戦国武将と
交流がありました。

城の名は 中丸城。

山ノ内家は 中丸城を構え
鎌倉時代から この地を治めてきました。

しかし 1590年 豊臣秀吉による
奥州仕置で全ての所領を失います。

SAMさんの直系の先祖にあたるのが
氏勝の次男 氏重でした。

奥会津の地を追われた氏重は
江戸に出ます。

ふるさとの名を取り
姓を横田としました。

その後 氏重の息子 横田氏澄は
眼科医になります。

江戸時代 目の病に苦しむ人が
多かったからです。

知り合いのつてで移り住んだのが
武蔵国 榎戸村

現在の埼玉県 鴻巣市でした。

失礼します。

鴻巣市の歴史に詳しい…

これは横田の屋敷なんです。

横田家は 昭和20年代ころまで
この地で病院を営んでおり

地元の名士だったといいます。

加藤さんは
郷土のことを調べていくうちに

一冊の本を書き上げました。

その名も 「横田家の人びと」。

横田家の歴史を調べる中で
江戸時代後期の ある人物に注目しました。

江戸時代後期 日本を揺るがした事件との
関わりが浮かび上がってきました。

東京大学総合図書館で
ある資料が見つかりました。

江戸時代後期の眼科医

土生玄碩に関する文書です。

そこに 土生玄碩の一番弟子として
横田玄庵の名前が記されています

当時 土生玄碩は 十一代将軍
徳川家斉から奥医師として抱えられ

日本中に名をとどろかせていました。

土生玄碩のもとで 当時最高の医療を学び
榎戸村に戻った横田玄庵。

横田家に残る掛け軸には
その当時のことが書かれています。

ところが 1828年。

横田玄庵の師匠である 土生玄碩が
ある事件に巻き込まれます。

そして 瞳孔を開く薬を教えてもらう
見返りに

奥医師として 将軍から拝領した
葵の紋服を渡したのでした。

しかし その後 シーボルトが帰国する際
持ち出し禁止の日本地図や

玄碩が渡した紋服などを
持ち帰ろうとしたことが発覚します。

世にいう…

その責任を問われた 土生玄碩は
財産を没収され 牢に入れられます。

同じく奥医師だった息子 玄昌も
職を失いました。

そんな玄昌を世話したのが
横田玄庵でした。

玄昌は そのお礼にと 父 玄碩が
シーボルトから教わった薬を

横田玄庵に伝えたといいます。

埼玉県立歴史と民俗の博物館で
横田家に関する記録が見つかりました。

こちらが「新編武蔵風土記稿」です。

江戸時代後期
幕府が編さんを命じた書物で

武蔵国の各村々の名所や産物などが
記されています。

この榎戸村の中で ちょっと
注目されることがあります。

ここに旧家 半十郎というのがあります。

「村民にて
眼療を生業とせり。

氏を横田という」と。

これは非常に珍しい記述なんですね。

半十郎とは横田家の屋号です。

そんな横田家に 明治5年に次男として
誕生したのが 横田五郎でした。

こちらに 横田五郎さんが写っております。

高木は 「病気を診ずして病人を診よ」
という言葉を残し

患者に寄り添った医療に尽力した
明治を代表する医師です。

高木から 直接 「患者第一」という教えを
受けた五郎。

21歳で医師の資格を与えられる
医術開業試験に合格します。

その翌年。

陸軍は
陸軍軍医学校を卒業した軍医とは別に

民間の医師を 雇員として募集します。

五郎は これに応募し
医師として出征しました。

そして ある人物のもとで
働くことになります。

当時 軍医部長を務めていた
後の文豪…

明治29年 帰国した五郎は
丸山よ祢と見合いをして結婚。

丸山家の婿養子になります。

そして その年。

何か すごかったですね。
そうですね。

何か すごかったですね。

上杉謙信と いろいろ名前 出てましたね。

石田三成の… 家にあるって。
あれ すごいですよね。

あ そうですよね。
鑑定したら すごいですね。
すごいです。

いかがでした? ご自身でご覧になって。
いや ちょっと びっくりしましたね。

秀吉に全部 取られたんですかね。
取られちゃったみたいですね。

ねえ。 でも それが その医者というものに
つながっていくわけですから

不思議だな~ 運命というか。
そうですね。

また これも歴史的な事件。

あ 確かに。
本当ですね。

ご先祖様は。

ご先祖様 面倒見がいいですね。
ほんとですね。

地域で診療にあたるかたわら
最先端の医学をどん欲に学んでいました。

北里研究所で
五郎に関する記録が見つかりました。

すごいのがありますね。
よく見つけるな。

こちら 埼玉県の丸山五郎。

医師の名前が記載されております。

当時 破傷風やコレラ 赤痢などの感染症は
死に至る病として恐れられていました。

五郎は 日本の細菌学の父
北里柴三郎のもとを訪ね

直接 教えを受けます。

明治34年に発行された
「細菌学雑誌」の中に

五郎のレポートを見つけました。

こちらにあります。

埼玉県 丸山五郎。 「病床日誌」とあります。

ある日 両親に連れられて 一人の少年が
五郎のもとを訪ねてきます。

あごが けいれんし
口が開かないと言うのです。

五郎は 「最近 他に体に
異変がなかったか」と尋ねました。

すると 少年は 「1か月前
竹やぶで足の裏をけがしたが

大したことはなかった」と伝えます。

五郎は そこに原因を見つけました。

傷口に菌が感染する「破傷風」だと
診断したのです。

少年の足の裏を手術して 竹片を
取り出し 血清注射を打ちました。

北里柴三郎のもとで学んだ知識が

一人の少年の
命を救ったのです。

明治44年の新聞に
丸山医院の記事を見つけました。

「院長 丸山五郎氏
同町の名医。

慈善に富み
患者に親切。

内科 小児科 産科
婦人科は院長の得意。

実に忙しい」。

そんな五郎の姿を見て育った
長男の正。

後のSAMさんの祖父です。

大正8年。

正は 東京帝国大学医学部に入学。

産婦人科医を志します。

そして このころ
家庭教師のアルバイトを始めます。

教えたのは 当時 女学校に通っていた
赤間光子。

後の SAMさんの祖母です。

あっ すいません。

二人のなれそめを聞いています。

こうして 二人は大正15年に結婚。

(取材者)すごい お客さんですね。
ねえ。

正の妻になった 光子。

そのルーツを探ると
意外な人物に たどりつきました。

光子の祖父は…

伝統芸能「能」で 明治の頃
名人として名をはせた人物です。

ステージが。
そうですね。

SAMさんと高祖父が同じです。

今回の取材で 丸山家から出てきた
正と光子の結婚式の写真。

その裏には 「宝生様」と書かれていました。

92年前に
宝生家に渡るはずだった写真です。

そうなんですね。

(取材者)どれですか?
これ。

宝生 新は 夏目漱石
高浜虚子に

謡を指南した人物。

SAMさんの曽祖父の
兄にあたります。

13代目家元の欣哉さんは
能とダンス 共通点も多いといいます。

正は 光子と結婚した翌年
東京帝国大学の大学院へと進み

最先端の医学を習得します。

その後 地方の病院で経験を積んだ後
昭和11年 38歳で岩槻の実家に戻ります。

父 五郎が 40年前に開業した丸山医院。

地域の人たちに頼りにされる存在に
なっていました。

正は より充実した医療を行おうと
最新の設備を備えた病院を新築します。

病院の新築。

戦時中から 戦後の苦しかった時代も

正は 患者に寄り添った診療に
明け暮れました。

そんな正の姿を
子供たちも よく覚えています。

昭和3年に生まれた正義も
父のような医者になり

病院を継ぎたいと
思うようになります。

当時の同級生が見つかりました。

丸山は… これですね。

卒業後は 父と同じ東京大学医学部
産婦人科の医局に入り

腕を磨きます。

そこで一緒になったのが…

寛和の実家も開業医。

同じ境遇だった二人は
すぐに仲良くなります。

そんな寛和には 妹がいました。

妹の名は 温子。

後に SAMさんの母となる女性でした。

いや~ いかがでしたか?

いや~ そうですね。
何か うん…

いや ほんとですよね。

ほんとですよね。

何をしてるんだっていう…。
ほんとですよ。

そう。

ダンスを極めると 能に戻るんですね。

何かね 僕は そう思ったんですよ。
能を習いたい。

ちょっと今 思いましたけどね。

SAMさんの もう一つの大切なルーツ。
母方 岩崎家。

モテそう。

最も古い戸籍によると
4代前の高祖父 岩崎三四郎は

山口県周南市 旧徳山市で
暮らしていたことが分かりました。

しかし現在 周南市には
SAMさんと交流がある親戚はいません。

「徳山市史」などに 江戸時代の岩崎家に
関する記述が見つかりました。

ここに 岩崎家が出てきました。

徳山の本町で磯松屋っていうお店
どういうお店かは分かりませんけども。

三四郎の父は 藤助といい

磯松屋という店を営んでいました。

江戸時代 岩崎家は帯刀を許されるなど
格式ある商人の家でした。

岩崎家が営んでいた磯松屋に関する
文書が見つかりました。

これが 岩崎藤助。 はい。

これが 「櫨蝋板場職 全録」です。

櫨の実から 蝋を作り出す板場職
経営者でしょうね。

櫨の実を原料にして作る蝋。

江戸時代 磯松屋は
蝋作りの工場を営んでいました。

藤助の自宅兼工場は
山陽道沿いの一等地にありました。

そこは 現在の徳山駅前です。

ここが 岩崎家があったところです。

更に明治維新後
SAMさんの高祖父 岩崎三四郎は

地域の重要な役割を
担っていました。

明治4年 徳山の財政を立て直す目的で
作られた会社 制産社。

岩崎三四郎は
油の製造事業の責任者を任されます。

その後も 油の生産などを続けた岩崎家は
財を成していきます。

そんな岩崎家に明治31年に生まれたのが
SAMさんの祖父 寛一です。

明治44年 寛一は地元の名門…

こちらなんですが…。

そして 大正7年 東京の
慶應義塾大学部医学科に進学します。

みんな 頭いいですね。

このころになると
ガスや電気の普及が進み

実家の商売に陰りが見えていました。

寛一は 家業を継がず
医者になることを選んだのです。

そして 大学卒業後 結婚。

寛一は 徳山には戻らず 昭和9年

東京・豊島区で
産婦人科医院を開業しました。

その年に生まれたのが温子
後のSAMさんの母です。

茶道やピアノなどを習い
芸術が好きな少女に成長していきます。

昭和22年 温子は…

学習院時代の友人…

すごいな~。

温子は 運動神経もよく
特にテニスが得意でした。

パーフェクトじゃないですか お母様。
すごいですね。

学習院大学1年生の時の温子に関する
資料が見つかりました。

ここに
公式庭球部の記録が記載されております。

岩崎さん 関東学生新進トーナメントで
優勝された

というようなことが
書いてあるようです。

温子には 東京大学産婦人科の
医局に在籍していた

兄の寛和がいました。

兄の同僚の一人が 丸山正義でした。

正義の弟の妻…

温子と正義の
なれそめを聞いています。

ある日 温子の兄 寛和が

医局で一緒だった丸山正義に
好みの女性について尋ねました。

「妹がタイプ」。
予想もしなかった答えに驚いた寛和。

こうして 昭和32年 二人は結婚。

正義29歳 温子23歳の時でした。

は~ もう すごいな。
お母さんも すごいですね。

そうみたいですね。
頭は良かったみたいですね。

スーパーウーマン
いや スポーツもおできになって。

テニスで優勝されてますよ。
うん すごいですね。

ずっと あの蝋を
徳山で蝋を作られてたっていう。

ああ そうですね。
ええ。

また サポート。
ええ。

面倒見がいいんですね。
サポートのルーツが。

2番手がいいっていう。

でも ここがなかったら もうね ここが
立たないっていう。  はい そうなんです。

結婚して5年後の昭和37年。

丸山正義は岩槻に戻り

父 正と共に丸山病院で
働き始めます。

その年 次男の正温が誕生。

後のSAMさんです。

かわいい。

当時 高度経済成長のまっただ中。

岩槻も 都心のベッドタウンとして
発展していきます。

しかし 岩槻には
大きな病院がありませんでした。

当時 丸山病院は 父 正と
正義の産婦人科が中心でした。

そこで正義は 内科や外科などの他に

救急患者も受け入れる
総合病院を作ろうと決意します。

正義と 東大の産婦人科の医局が一緒で
丸山病院でも働いた…

正義の理想を
聞いていました。

正義は 多額の借金をした上に
兄弟や親戚の医者たちの協力をあおぎ

地域の総合病院を
目指しました。

勝負ですね。
そんな勝負やったんですね。

正義のもとで 当時 婦長を務めた…

正義が 特に力を注いだのが
救急患者の受け入れだったといいます。

仕事一筋だった父の姿が
目に焼きついています。

こうして 丸山病院は
地元の人たちから信頼を集め

なくてはならない総合病院へと
成長していきます。

岩槻で老舗人形店を営む…

妻が出産する時 丸山病院に駆け込み
担当してくれたのが正義でした。

更に 戸塚さんの甥っ子も
正義がとりあげました。

実は その人物が…。

正義は 後にEXILEとしてデビューする
ATSUSHIさんも とりあげていたのです。

一方 家庭では
5人の子供の父親になった正義。

子供たちには 医者になり

病院を継いでもらいたいと
願っていました。

そして 昭和49年。

正温は
獨協中学に進学します。

成績次第では
系列の医科大学に進むことができました。

高校時代の3年間 正温の担任だった…

ところが 高校2年の時 その後の人生を
変える出来事が起こります。

友人のいとこが
ディスコで働いていると聞き

興味を持ち 遊びに出かけました。

♬~

当時 日本では空前のディスコブームが
巻き起こっていました。

正温は ダンスに魅せられます。

両親の目を盗んでは 部屋を抜け出し
ディスコへ通うようになりました。

ダンスに夢中になるうちに
正温は 将来に疑問を抱き始めます。

高校卒業後 正温は
ダンスで生きていこうと

実家を飛び出します。

医者になり 病院を継いでほしいと
願っていた正義。

認めることができず 激怒します。

一方 兄や弟たちは

医者になるため 必死に勉強していました。

東京に出た 正温。

ディスコで踊っているところを
スカウトされます。

そして 全国のディスコを回り

ダンスのパフォーマンスを披露する
仕事に就きます。

二十歳を迎えた ある日
正温は実家に戻り

父 正義に決意を告げます。

すると父は 意外な言葉を発します。

リフラフです。

♬~

その後 ダンスアイドルグループ
リフラフのメンバー SAMとしてデビュー。

こんな歴史もあったんですね。

アイドルで デビューしてます。

♬~

しかし…
ダンスを極めたいという思いが高まり

ダンスの本場 ニューヨークに渡り
武者修行します。

そして帰国後 新たなダンスチームで
活動を始めました。

失礼しま~す。
あっ こんばんは。

当時…

55歳です。

SAMさんの ダンスに懸ける思いは
なみなみならぬものがあったといいます。

そして 平成4年。

SAMさんのダンスは 音楽プロデューサー
小室哲哉さんの目に留まります。

♬~

ダンス・アンド・ボーカルユニット
TRFが誕生しました。

SAMさんは
ダンサーのイメージを変えたといいます。

♬~

その後 「紅白歌合戦」にも
3年連続で出場を果たします。

そして 5作連続で CDの売り上げは
100万枚を突破しました。

しかし 父 正義は

そんなSAMさんに
言葉をかけることはありませんでした。

♬~

それでも SAMさんは
父の 「一流になれ」という言葉を胸に

日本のダンスミュージックシーンを
けん引していきました。

う~ん… いかがでしたでしょうか?
はい。

二十歳になる…
まあ高校卒業して 家 出て

二十歳になるまでに
どうするか決めろって言われたんですね。

だから 二十歳の時に一回 帰って?
そうです。

へえ~。

いや 改めて いかがですか?
ご自身の「ファミリーヒストリー」は。

いや~ 何か そうですね あの…

何か こう…

そうですね。

そうですね。
うん。

だから まあ そうですね。

TRFとしての活動が
絶頂期を迎えていた 平成10年6月16日。

父 正義さんは自宅の玄関先で倒れ

そのまま
息を引き取りました。

心不全でした。

葬儀には 親族 関係者の他

多くの患者たちが駆けつけました。

代々続く病院を守り
地域医療に全力をささげた人生でした。

正義さんの後輩の産婦人科医…

正義さんとの
忘れられない思い出があります。

更に…。

SAMさんの弟で
三男の正統さん。

父の こんな姿を
覚えています。

四男の正詩さんは 生前

父が言った言葉に
驚いたといいます。

(取材者)というのは?

父 正義さんが亡くなって20年。

SAMさんは 今
新たな活動に取り組んでいます。

拍手でお迎え下さい。
(拍手)

まず かかとからですね。
トン トン…。

この日 SAMさんは
日本心臓リハビリテーション学会に出席した

医療関係者たちを前に
あるダンスを紹介しました。

リハビリや認知症の予防などを
目的にした

高齢者向けのダンスを考案したのです。

一緒に考えたのは…

SAMさんは 更に 月に一度
地元の岩槻に戻り

この 高齢者向けのダンスを
教えています。

♬「20世紀で最高の ジャンプ 出来事」

ダンスで 地域の人たちの健康に
貢献したいという思いからでした。

ふふふふふ…。

医者として 代々
地域の人々を支えてきた丸山家の思い。

それは SAMさんにも
しっかりと受け継がれていました。

ここからですね。 地元の人たちに
還元してくのは ここからです。


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