NHKスペシャル 平成史 第2回「バブル 終わらない清算~山一証券破綻の深層」 …日本の組織文化の病巣を見つめる。


出典:『NHKスペシャル 平成史 第2回「バブル 終わらない清算~山一証券破綻の深層」』の番組情報(EPGから引用)


NHKスペシャル 平成史 第2回「バブル 終わらない清算~山一証券破綻の深層」[字]


「平成史スクープドキュメント」第2回はバブル崩壊の象徴となった山一証券破綻の深層。新証言や極秘資料から今も変わらない日本の組織文化の病巣を見つめる。


詳細情報

番組内容

シリーズ「平成史スクープドキュメント」。第2回はバブル崩壊の象徴となった1997年の山一証券破綻の深層を見つめる。東京大学経済学図書館に保管されている山一証券の創業から破綻にいたるまでの膨大な社内資料。その中に、破綻に深くかかわった幹部たちの証言記録が残されていた。そこから浮かび上がったのは、今も変わらない日本の組織文化の体質。当事者たちの新証言とあわせて名門企業転落の軌跡をたどる。

出演者

【リポーター】有馬嘉男,【語り】広瀬修子



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NHKスペシャル 平成史 第2回「バブル 終わらない清算~山一証券破綻の深層」
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今から21年前。

日本を代表する証券会社の
破綻を招いた人物が

初めて 取材に応じた。

経営陣の指示で

莫大な損失を隠蔽した。

バブル経済が崩壊した 1990年代。

100を超える金融機関が 次々に破綻した。

平成9年の
山一証券の自主廃業は

その象徴だった。

その後 日本は

失われた20年といわれる
長期低迷に

苦しみ続けることに
なった。

♬~

2019年4月で
幕を閉じることになった平成。

平成は 私たちにとって
どのような時代だったのか。

新たな証言や新発見の資料から

激動の30年を見つめるシリーズ

「平成史 スクープドキュメント」。

第2回は
山一証券の破綻から浮かび上がる

バブル崩壊に直面した 平成日本の姿。

今回 長年 口を閉ざしてきた

山一証券や金融当局の当事者たちが

初めて その真相を明かした。

A級戦犯だ…。

法律に反するような行為も

実際に 社命とはいえ

やっていたことは
事実…。

まあ 言ってみれば生きた心地がしない

金融危機だったと…。

更に 破綻を招いた不正に関わった
幹部らの証言記録も入手した。

「簿外債務に触れるのは
タブーだった」。

「社長が決定したことには
逆らえないということは

当然の認識としてあった」。

心から深くおわび申し上げます。

差し迫った危機を軽視し

問題を先送りし続けた末の破綻。

そして その後も
同じように繰り返されてきた

大企業の不正。

日本の組織は
なぜ変わることができないのか。

当事者たちの肉声から

名門企業をむしばんだ
その病理を見つめる。

♬~

名門企業は なぜ どのように
転落していったのか?

今回 山一に自主廃業するよう迫った
旧大蔵省の官僚が

初めて 取材に応じた。

証券局業務課長だった
小手川大助。

山一を救う手だては
何一つなかったと語った。

それは 日本社会の大きな転換点となった。

日本の証券界の老舗 山一証券が

創業100年の歴史に
自ら幕を引くことになりました。

<21年前の あの日

私は 若手の
経済部記者でした。

思いがけず 山一証券の自主廃業の一報を
伝えることになりました>

すいません NHKなんですが…。

<2, 700億円もの損失を
隠蔽していた上での破綻。

経営悪化は 周知の事実だったとはいえ

にわかに 信じることはできませんでした>

お前さん 何なんだよ。

<自主廃業時も 24兆円の預かり資産を
有していた山一は

関連会社も合わせると
国内外に167店舗を持ち

国際金融市場にも
大きな影響力がありました>

<日本を代表する証券会社の
エリートたちは

なぜ 危機を引き起こし

破綻に至るまで
見過ごしてきたのか>

<経営判断に関わった
山一の歴代の社長は

真相を語ることなく
近年 次々に亡くなりました。

自主廃業を発表した
会見で 号泣した

最後の社長
野澤正平さんは

現在 80歳。

私たちの取材の依頼に対して
「もう終わったことだ」と

堅く口を閉ざしたままでした>

<野澤社長の側近だった
常務取締役 藤橋 忍さん。

半年にわたる交渉の末
カメラの前に立ちました>

<贖罪の気持ちと

事実を 正確に伝える
責務があるという思いから

取材に応じたといいます>

平成の幕開けと同時に
ピークを迎えた日本のバブル。

(一同)よ~うっ!
(三本締め)

この年末 日経平均株価は
史上最高値を更新し

3万8, 000円を超えた。

国も 株価や地価を下支えする政策を
打ち出す中で

日本全体が 空前の繁栄を享受していた。

山一証券は この年の年度末に

過去最高 5, 735億円の営業収益をあげた。

法人営業が専門の事業法人部

通称 事法に所属していた

正富芳信 57歳。

事法は 企業から多額の資金を集め
運用する 花形部署。

営業収益の多くを稼ぎ出していた。

財テクに熱を上げる企業から
資金を預かり

一人で 1, 000億円を超える金を
動かすこともあったという。

バブル期に経営を担った 社長の訓示を
記録した音声が残されていた。

山一のドンと呼ばれた行平次雄。

後に 商法違反などの罪で

起訴されることになる。

全ては 株価が
上がり続けるということを
前提とした

かりそめの うたげだった。

きんは 100歳 100歳。

ぎんも 100歳 100歳。

きんさん ぎんさんがCMに登場し
人気を博した平成3年。

時代は 暗転する。

「株価急落の中でも損をしていなかった
投資家たちの存在が

明らかになりました」。

証券会社が
企業の抱えた多額の損失を穴埋めする

損失補填が発覚したのだ。

バブル期 証券会社は
企業に高い利回りを保証し

巨額の資金を集め 運用していた。

株価が上がり続ける限り

企業も証券会社も

利益をあげることができた。

しかし 株価が下がると

大きな損失が発生する。

実際に 90年代初頭から 株価は急落。

利回りを保証し
資金を集めていた証券会社は

大企業との関係を維持するために
その損失を補填していたのだ。

その額は
四大証券だけで 1, 700億円を超えた。

監督官庁のトップ 橋本大蔵大臣は

損失補填を禁止する法改正を
行った上で 辞任した。

山一の社長 行平は

損失補填が禁止されることを受け
こう明言した。

しかし これは 偽りの会見だった。

公表した損失補填とは別に
企業側に穴埋めを迫られていた

1, 200億円もの損失を
隠蔽し続けていたのである。

危機から目を背け

問題を先送りしていく
山一の経営陣。

今回 私たちは

ある社員が記録していた文書を
独自に入手した。

そこには 副社長から
隠蔽を指示された時の会話が

赤裸々に つづられていた。

「どうしても当社が
被らなければならない損失は

どこか目の届くところに固めて

暫くプールすることを
考えなくてはなるまい」。

「何か うまい方法を
考えてくれないか」。

「その後の処理については

とにかく 今の混乱状態を
乗り切ってから考えようや」。

この社員を中心に

隠蔽を行う極秘チームが
編成されていたことが分かった。

社員の名は 木下公明。

東大法学部出身で

専門的な法務の知識を持っていた。

木下が考え出したのは
損失を別会社に移し替える

飛ばしと呼ばれる会計上の手法を
更に複雑にしたものだった。

莫大な損失を細かく分け

複数のペーパーカンパニーに
引き取らせる。

一つの会社の負債が
200億円未満だった場合

会計監査の対象にならないという
法律の盲点を利用した。

更に 決算期のずれを利用して

その損失を 次々と

別のペーパーカンパニーに移し替え

発覚を逃れるという悪質な手法だった。

隠蔽の手口を考案した
木下公明は 現在82歳。

罪の意識から口を閉ざしてきたが

顔を撮影しないことを条件に
初めて取材に応じた。

会社のために 上司から命じられた不正に
手を染めたと明かした。

当時 55歳の木下は

社内の出世コースから外れ
早期退職を考えていた。

この命令に従えば
日の目を見られるという考えが

ちらついたという。

この時から破綻まで6年。

目先のリスクにとらわれ

その先にある 更に大きな危機を
見通そうとする者は

誰もいなかった。

<バブルが崩壊した1990年代。

それは 次々と起きる危機に
どう対処するのか

金融行政の在り方が問われた時代でした>

<1992年 平成4年 夏>

<銀行が莫大な不良債権を抱える中で

株価は バブル最盛期の4割

1万5, 000円を割り込むまでに
下落しました>

<危機感を強めた
当時の宮沢総理大臣は

不良債権処理のために
公的資金の投入を検討します>

<しかし 大蔵省などの反対で断念。

国は 危機対応を先送りする
結果となりました>

<そして 90年代半ばになると
金融機関の経営が連鎖的に悪化。

大蔵省は 前例のない事態に

有効な手だてを打つことが
できませんでした。

当時 大蔵省銀行局課長として
金融危機への対応に当たっていた

内藤純一さん>

<銀行の救済合併や資金繰りの折衝など

目先の対策で手いっぱいだったと
振り返ります>

山一証券の経営陣は
なぜ 問題を先送りし

その後も 軌道修正することが
できなかったのか。

その地下に
創業から破綻まで 100年間にわたる

山一証券の内部資料が保管されていた。

この中に 破綻に深く関わったとされる

100人を超える当事者たちの
証言記録が残されていた。

自主廃業を公表した後に行われた
社内調査や

証券取引等監視委員会の
聞き取りの記録だ。

当時 調査のために引かれた
アンダーラインが生々しく残されている。

証言記録から
損失の隠蔽を知らされた幹部たちも

危機と向き合おうとしていなかったことが
分かった。

「法的におかしいとは思っていたが
経営判断だった」。

「知っていても 言うだけで
自分の首を絞めることになり

どうにもならない」。

「簿外債務に触れるのは タブーだった」。

こう証言していたのは

今回 取材に応じた
元常務取締役の藤橋 忍。

藤橋が不正の全貌を知ったのは

損失隠しが始まった2年後の平成5年。

役員が一堂に会した会議の場だった。

この時 隠蔽していた損失は
2, 000億円にまで膨らんでいた。

その他の損失も合わせると
総額は 6, 000億円に及んでいたという。

役員や現場の担当者は
責任を押しつけ合うばかりで

当事者意識を欠いていたと振り返る。

藤橋自身は 損失隠しを公表した上で
早急に経営改善を図る方が

会社のダメージが少ないと考えた。

そこで 事業規模の縮小などを断行し
損失を埋めるよう

行平の後継 三木淳夫社長に提案。

しかし にべもなく退けられた。

事業法人部の正富芳信。

このころ 苦しい営業を強いられていた。

ある企業との取り引きを
前任者から引き継いだ時のことを

今でも克明に記憶している。

しかし 株価の下落で損失は増え続け

プレッシャーに押し潰されそうだったと
語る。

損失を隠蔽し続ける手法を考案した
木下公明。

早期退職を考えていた木下は
役員に昇進していた。

隠蔽が いつか発覚するのではないかと
不安を感じ始めていた。

損失隠しの事実を
幹部の多くが知ることになった

1990年代半ば。

株価は 一時 2万円台を回復するなど

持ち直す動きを見せていた。

当時 会長になっていた行平と
社長の三木。

今回 見つかった記録の中には
2人の証言も残されていた。

株価が上がれば 隠蔽している損失も
解消できると判断していたという。

「右肩上がりの相場の中で

うまくいくという考えで
運用を行っていた」。

「相場が
下落傾向となってからも

法人顧客から
積極的に資金を集めていた」。

「損失補填があり
また出すと

とても 会社がもたないと
思った」。

「株については 日本神話が残っていた。

右肩上がりの神話を信頼していた」。

しかし 山一幹部たちの観測は
楽観でしかなかった。

<1990年代は 日本が海外から
金融市場の閉鎖性を批判され

その開放を
厳しく迫られた時代でもありました。

その象徴となったのが
1995年 平成7年の

大和銀行ニューヨーク支店の
巨額損失事件>

<大蔵省が 不正を知りながら 1か月半

アメリカに情報を開示しなかったことが
国際問題にまで発展しました>

<厳しく糾弾されたのは 大蔵省が
日本の金融機関を指導し保護する

護送船団方式と呼ばれる構造でした。

それは 公平さや透明さが求められる
グローバルスタンダードと

大きく かい離したものでした>

<90年代 日本銀行の信用機構局課長だった
中曽 宏さんです。

日本は 世界から

金融危機への 透明で適切な対応を

強く求められていたといいます>

バブル崩壊と金融自由化という
2つの大きなうねりの中で

絶対潰れないといわれた都市銀行まで
破綻していった平成9年。

当時 山一証券の損失隠しは
公然と うわさされるようになっていた。

破綻の5か月前に開かれた
株主総会の映像が残されていた。

具体的に言えや 具体的に!

具体的に どうすんのやと!

信用不安の広がりから
山一の株価は低迷し

市場からの資金調達も
難しくなり始めていた。

立て直しのために
社長に就任した野澤正平は

損失を公表し 事業規模を縮小して
生き残りを図ろうと考えていた。

このころ 隠蔽の手法を考案した
木下公明は

いまだ実権を握っていた行平前会長に
呼び出されたという。

藤橋 忍は 常務取締役として

社長の野澤と共に
危機を回避する道を模索していた。

しかし 自主廃業を公表することになる
その10日前

事態は急変していく。

この日から破綻に至るまでの内幕を
当事者たちが 初めて語った。

藤橋たちは あらゆる手段を使って
会社の存続を図ろうとしていたが

万策尽きかけていた。

メインバンクに支援を求めた時の記録が
残されていた。

協力には限界があると
受け入れられなかった。

外資系金融機関との接触の記録。

ドイツやスイスなど 世界中の金融機関に
提携を持ちかけたが

これもまた 不調に終わった。

社長 野澤と 藤橋が
最後にすがったのが

護送船団方式で業界を保護してきた
大蔵省だった。

損失隠しの事実を
報告した上で

生き残りへの支援を
求めた。

長年 大蔵省の担当として
手厚い接待を行うなど

関係を築いてきた藤橋。

この時の大蔵省の反応も

前向きなものに感じられたという。

金融危機への対応に苦慮していた大蔵省。

山一側の思惑とは 全く違う方針を
描いていたことが分かった。

証券局 業務課長だった小手川大助。

山一から相談を受けた翌日に

「救済はしない」と決断していたことを

初めて明かした。

大蔵省と共に対応に当たった日本銀行。

当初から 破綻を前提とした議論を
進めていたことも分かった。

当時 日銀で 山一証券の
破綻処理に当たった増渕 稔。

世界の金融市場を混乱させないことを

最優先させたという。

グローバルスタンダードへの対応を
迫られる中

護送船団方式による金融機関の保護は
過去のものになっていた。

日証新聞 号外です。 はい 日証新聞 号外。

そして 11月24日。

何も知らされていなかった
山一の社員 7, 500人は

報道を通じて 自分たちの会社の終わりを
知ることになった。

隠した損失は
2, 700億円にまで膨らんでいた。

上意下達の組織文化の中で
危機を見過ごしてきた幹部たち。

証言記録には 破綻後も変わることのない
企業人の姿があった。

「行平 三木氏とも
『イヤなことは あまり耳に入れないで』

というスタンスだった」。

「腹を決めて上に言っても だめだった。

先送りばかりで
早く処理するという哲学がなかった」。

「上が やる気がないなら
しょうがないという気持ちだった」。

上司に命じられ 損失隠しを主導した
木下公明。

82歳になった今も なぜ道を誤ったのか

自問自答を続けている。

<山一証券の破綻に象徴される
バブルの代償は

大きな痛みを伴うものでした。

金融機関の破綻処理で生じた国民負担は
10兆円規模に及びました>

<中曽 宏さんは この3月まで
日本銀行の副総裁を務めました。

90年代の金融危機への対応から
現在に至るまで

平成の激動と向き合い続けてきました>

<バブルとバブル崩壊の失敗を経験した

平成という時代>

まことに申し訳ございません。

<しかし 今も後を絶たない
大企業の不祥事や不正の隠蔽を見ると

日本の組織が
危機を直視できるようになっているとは

どうしても思えません。

次の時代

日本社会は 組織文化を
変えていくことができるのか。

私たちに突きつけられた大きな課題です>

山一証券の破綻から21年。

藤橋 忍は 自主廃業後も
破綻処理に奔走することになった。

なぜ あの時

組織は 危機を正しく認識し
行動できなかったのか。

その責任を考え続けてきた。

今回 私たちが入手した
山一証券の資料の中に

「経営構造の改革について」と題された

31項目にわたる提言があった。

書かれたのは 破綻の4年前。

この中に 未来への戒めとなる
痛切な言葉が記されていた。

「それも なまはんかなものではない。

それでも 完全に
死に体になっているわけではない」。

♬~


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