アナザーストーリーズ 衣笠祥雄ラストインタビュー~鉄人 最後のメッセージ~ …山本浩二、江夏豊ら、戦友が見た鉄人の素顔…


出典:『アナザーストーリーズ▽衣笠祥雄ラストインタビュー~鉄人 最後のメッセージ~』の番組情報(EPGから引用)


アナザーストーリーズ▽衣笠祥雄ラストインタビュー~鉄人 最後のメッセージ~[字]


今年4月に亡くなった広島カープの鉄人・衣笠祥雄のラストインタビューを一挙公開。山本浩二、江夏豊、西本聖も登場!17年間試合を休まなかった男のラストメッセージ!


詳細情報

番組内容

今年4月に亡くなった広島カープの鉄人・衣笠祥雄。亡くなる3か月前に収録したラストインタビューを一挙公開!衣笠は病を感じさせない快活さで、2215試合に及ぶ連続出場記録を支えた信念を語り明かした。さらに山本浩二、江夏豊ら、戦友が見た鉄人の素顔。そして衣笠最大のピンチとなった死球骨折時のひそかなエピソードを当事者・西本聖が明かす。17年間一度も試合を休まなかった男が最後に残したメッセージ!!

出演者

【司会】松嶋菜々子,【語り】濱田岳




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アナザーストーリーズ 衣笠祥雄ラストインタビュー~鉄人 最後のメッセージ~
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『アナザーストーリーズ▽衣笠祥雄ラストインタビュー~鉄人 最後のメッセージ~』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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今年4月
不滅の記録を残して

衣笠祥雄が亡くなった。

享年 71。

ああ どうも こんにちは。

番組では 亡くなる3か月前

1時間半に及ぶ
ロングインタビューを行っていた。

若き日の思い出から…。

(打球音)

連続出場記録の舞台裏まで

「鉄人」と呼ばれた男が
自らの言葉で語り尽くした野球人生。

その胸に刻み続けたものは
何だったのか?

とにかく…

♬~

♬~

衣笠祥雄。

プロ野球選手として
国民栄誉賞に輝いたのは

あの 王 貞治に続いて
2人目でした。

ヒットや ホームランの数でも
見事な成績を残しましたが

衣笠祥雄といえば 何といっても

2, 215試合に及ぶ
連続試合出場記録です。

23歳から40歳で引退するまでの 17年間

1日も休むことなく試合に出続け

数々の記録を残しました。

衣笠の盟友にして
「ミスター赤ヘル」山本浩二は こう語る。

「無事之名馬」っていうのはね
昔から言われてて

まさに これですよ。
衣笠ですよ。

まあ 大したもんですよ。

やっぱり ゲーム出て
なんぼですからね。 うん。

そんな衣笠にデッドボールを与え
大ケガを負わせた 巨人…

彼は 衣笠のすごみを こう語る。

そして親友として
共に日本一の栄冠を つかみ取った…

身長 175センチ。

プロ野球選手の中では
体は大きい方ではありませんが

骨が折れていても 全く動じず

試合で フルスイングをする
驚異的な精神力の持ち主。

その鉄人 衣笠の
壮絶な戦いの舞台裏と

最後のメッセージを お届けする
アナザーストーリーです。

(歓声)

(実況)投げました! 空振り三振!

カープ優勝!

今年 リーグ3連覇を果たし
黄金時代を築いた 広島カープ。

(歓声)

その広島野球の基礎を築いたのが

今から 43年前
カープを初優勝に導いたメンバーたち。

その中心にいたのが 衣笠だった。

衣笠の現役時代を捉えた
こんな映像が残っている。

♬~

遠征中のホテルで
大好きなブルースを聴く衣笠。

そして 寝る前に必ず素振り。

しかも 2時間も。

別に スーパープレーを求めてない。
ファインプレーも求めてない。

ここを どうやって つくるかですよ。

迷ったら 帰る場所へ帰りなさい。

帰る場所です。 基本です。 基礎です。

むしろ どう生きるかですよ。

人生で大切なもの その全てを
野球が教えてくれた。

衣笠は 京都で生まれた。

父のいない 母子家庭。

中学から野球を始めると
たちまち頭角を現す。

高校時代は…

体の強さが目に留まり 1965年 春…

だが 広島は球団創設以来

一度もAクラス入りを
果たしたことのない

万年弱小球団。

そのころの衣笠は
練習に あまり身が入らず

球団スタッフの手を焼かせていた。

(シャッター音)

これは 入団1年目の写真。

誰も見たことのない
大きなアメ車を購入。

分かりやすくいえば 粋がっていた。

(取材者)いきなりアメ車 買って
こう 運転されてたとかね。

う~ん まあ
あれは1年目のオフですがね。

結局 世の中 知らない

物事を知らない
大人社会 知らない。

知らないまんまで
高校生から来たわけですから。

(取材者)やっぱ あの寮に
お入りになってたんですか 最初の頃は。

そうですよ 僕は7年いました。
出してもらえなかった。

結婚するまで7年 寮に ずっといて。

まあ本当に おかげで

なんとかね 選手として
形になったんじゃないですか。

あいつは1人で出したら
危ないから出すなっていって

僕は出してもらえなかった。

結局 車は民家の塀に ぶつけ

免許もろとも球団に
取り上げられてしまう。

その上 肩も壊して
ポジションも内野手に転向。

伸び悩んでいた。

だが 入団4年目から
衣笠に大きな出会いが訪れる。

カープのコーチ陣が
丸ごと入れ代わり

名うての理論家たちが
広島に集結した。

監督は…

後に 西武ライオンズ・ダイエーホークス
黄金時代の

基盤を つくり上げる
名指導者だった。

根本は出会ってすぐ 衣笠に
こんな言葉をかける。

出会った時に根本さんが
こう言ったんです。

「はい」って。

「売りもん
何や?」。

初めてです。 考えました。

2年間 プロ野球の選手してる。

何売るか。 考えた。 ない。

一生懸命やりました。 でしょう?

一生懸命は してきました
グラウンドで。 ね?

野球 好きですから。
練習するの楽しいから。

でも 「お前 何売る?」。

プロ野球の選手として プロだろうと。
売り物があるはずだ。

「何 売るん?」。 初めて気が付いた。

(取材者)その時。

それで ボールを20本
フェンスの外へ飛ばせば

僕は 試合に出られると思った。

で 僕は…

よし ボールを遠くへ飛ばすの好きだと。

これなら少々の苦しいことも
乗り越えられる。

だから これに かけた。

だから こんだけしか…
当時 僕の体重は 68キロぐらいですよ。

体重が そのぐらいしかなかった。

これでボール飛ばすにはね
力いっぱい振るしかなかった。

三振 いくらしてもいい。
20本を とにかく打てばいい。

そういう方向へ
根本さんが追い込んでくれた。

だから僕は
根本さんに会わなかったら

衣笠という選手は もう
あれで終わってました… と思います。

(打球音)

この ひと言が 衣笠の代名詞

「フルスイング」を生むことになる。

そして更に 2人のコーチが
徹底的に衣笠を磨いた。

守備走塁コーチ…

打撃コーチ…

グラウンドでね ノックするでしょ。

はるかに僕らより うまいんですから。

勝てない。 見てて 勝てない。
分かるんですよ。

グローブの さばき方なんか
足の運び方なんか。

「ほれ ダメじゃ」って
今度は口でしょ。 これも勝てない。

勝てるもん 一つもない。

まあ 猛練習というと
とにかくグラウンドで練習の量を

皆さん 発想されますね。

そうじゃない。
考えるんですよ。 知識です。

野球の知識を もっと増やせ
もっと増やせですよ。

絶えず考えなさい。

なんで 今 この練習する。

なんで これを今 やらなきゃいけない。

なぜ ここにいるの。

全てです。 はい。

そういう意味では 関根さん理論派です。
広岡さんも理論派です。

僕ら ただ頑張れっていったら

それは ひたすら頑張りますよ
グラウンドで。

だけど それで終わりじゃないんですよ。

それが つらかった。 「考えろ」って。

一生懸命 考えてるのに

相手は その上 なんぼでもあるんですから
経験というものが。

こっちは それがないから。

一生懸命 考えて
そこへ行くんだけど

「次は? その次は?」って言われると
「またかよ!」いうような。

(取材者)もう行き着く果てがない…。

ないんです。
それが野球だと思いました。

そして プロ野球選手としての心構えを
たたき込まれた

コーチ関根とのエピソード。

あんまり打てなくて悔しくて。
毎晩ね 一生懸命 練習してるのに。

で 合宿へ帰らないで
そのまま町へ出ちゃった。

ついつい何となく
お酒が進んでしまって。

店の人と ああでもない こうでもない。
野球の話ばっかりですよ。

で 帰ってきて ふっと見たら
ロビーに電気がついてる。

で まあ フェンス… ね。
練習場がある。

いつも それ乗り越えて入る。

これはもう 覚悟決めましたよ。

電気が ついてるっていうのは
誰かが待ってる。

で 玄関開けて パッて見ると
関根さんが椅子に座って待ってた。

「やっばいなぁ」思って。
「これは怒られる」と思います。

そうしたら ひと言も怒らなかった。

僕の顔 見て…

「やろうか」っていうのは
バットのスイングです。

(取材者)そこから やるんですか?
うん。 「お前 今日 やってねえな」って。

「はい」って言ったの。 「やろう」。

(取材者)みんなは合宿所 帰ってきて…。
11時からバット振るんです。

で バットを振って 出て行っても
まあ そんなに怒らない。

だけど 体は休めないとダメよっていう
それは言ってくれるんだけど

だけど その日は僕 11時にいない。

だから 待ってくれてたの。
怖かったですよ。

(取材者)怒られる方が
まだ楽っていう感じですね それは。

ああ もうね やっぱり
アルコール飲むと握力が落ちる。

目の前 座ってるんですよ。
バット振るんですよ。 怖かったですよ。

(取材者)もし すっぽ抜けちゃったら。
滑るんじゃないかと。 ええ。

(取材者)関根さんも
ある意味 命懸けっていうか。

ええ。 あとになってね

「キヌ お前が そんなこと言う。
俺だって怖かったんだ」って。

すいませんでした。
もう謝るしか手がない。

でもね ひと言も怒られなかった。

それで最後に こう言われた。

これはもう だから 忘れません。

3人の教えは
まだ子どもだった衣笠の心を変えた。

衣笠の変貌を間近で見ていたのが

寮で同じ部屋 ノーヒットノーランを
3回達成する大エース…

ですから…

そんな感じでしたね。 はい。

衣笠の飽くなき努力を物語るフィルムが
残されている。

右利きの衣笠が 左手で箸を使っている。

実は これも練習のうちだった。

ですから まあ…

(取材者)左右のバランスを よくするために。
ええ。 それは言ってましたですよ。

衣笠は 徐々にレギュラーに定着。

そして 入団6年目の秋

偉大な連続出場記録は
静かに始まることになる。

当時 衣笠は ただ必死だった。

なぜなら監督に
こう言われていたからだ。

だけど これはもう根本さんは
はっきりしてましたから。

(取材者)そうおっしゃったんですか。
はい。

デビューした年に
はっきり そう言われました。

あっちが痛い こっちが痛い 言うんなら
いつでも言ってこい。

永遠に休ましてやる。

これがベースです 僕の。

こうして 衣笠は

鉄人への道を
歩み始めたものの

チームは相変わらず
低迷していた。

そんな弱小カープが
奇跡の初優勝を果たす年

衣笠に新たな出会いが訪れる。

Go!

この年 監督に就任した…

日本球界初の
生っ粋のアメリカ人監督は

さまざまな改革を推し進めた。

改革っていうよりは

アメリカのシステムを
持ってこようとしたんですよ。

ピッチャーの
一日の投げ込みの量にしても そうだし。

とにかく 投げるなと。

だから それは当然
選手は戸惑いましたよ。

でも彼は そうやって
意識を変えてくる。 はい。

突然の改革に 誰より反発したのが衣笠。

何より受け入れ難かったのが
この 帽子の赤色だった。

衣笠は この赤ヘルが恥ずかしくて…。

1人 青いヘルメットで
練習を続けている。

いや もう 大変だったですよ。

「お前のとこは もう
チンドン屋みたいになった」とか。

あんまりいいこと言う人いなかった。
帽子だけ派手だなとか。

しかしルーツは
衣笠の心を動かす ひと言を発する。

あの赤い帽子の時に こう言ったんです。

だから 今年
赤の帽子にしてる。

聞いた時は
青くなりそうになったですよ。

だけど これが彼が
みんなを引っ張る旗印だった。

優勝するために 私は監督になったと。

必要なメンバーは ここにいると。
だから優勝できるんだと。

だから あとは
私は優勝できると思ってると。

あとは君たちが
そう どこまで思えるかだ。

(取材者)それを聞いた時に
どういうふうに思われました?

「何言ってるんだろう このおっさんは」と。
だって 優勝したことないんだ。

(取材者)
やっぱり それって大きいことですか?

大きいです。 だって 目標の設定だもん。

それまで 「優勝」って言っても
1週間 言う監督…

いなかったな。

だって過去に 勝ったことないんだもん。
そうでしょう?

だから それが いきなり優勝だもん。
「あっ 優勝…」って。

で 僕の場合で言いますと
40年から48年まで 全部ジャイアンツ。

川上さん 牧野さん いて。 ね。

僕らからしたらアイドルみたいな
王 長嶋という人がいて。

だから優勝なんていうのは 当時は
ジャイアンツがするもんだと思ってた。

もう遠いところにあった。

確かに 当時のジャイアンツは

王 長嶋の他にも 名選手が そろい

無敵の9連覇を誇っていた。

しかし ルーツはキャンプの最終日
衣笠を部屋に呼んで こう問いかけた。

最後の日に部屋へ呼ばれて…

守りは素人です。

でもシーズン終了時には
まあ 普通のとこまで来れる。

打つ方は 40年代は

王さん 長嶋さんに
次いだ成績 持ってる。

これ合格点 与えたい 自分で。

ひょっとしたら
俺たち頑張ったら優勝できるかなと。

キャンプの終わりに そう思わせた。

結局 彼が一番したかったのは
我々の意識改革です。

勝てると思わせたかった。

この年 カープは夏場を迎えて…

3位と大健闘。

なんと 優勝争いに絡んでいた。

そして この体験は

最大のライバルだった
山本浩二との関係を

劇的に変えることになる。

例えば キヌと 負けたくない気持ちは
お互い持ってるわけですから

そうすると まあ 個人の成績だけを
それまでは考えてたわけです。

ところが その年は

ひょっとしたら優勝するかも分からない
と思い始めた時に

自分が凡打した時に
例えば キヌが打席入る。

「なんとか打ってくれ」と思い始めたのが
その時なんですよ。

(取材者)それまでは
自分が打てなかった時は

お前も打つんじゃねえぞ
みたいな感じ?

そういう思いがあったでしょうね。
だから それからですよ。

お互いが やっぱり意見を言い合ったり
腹を割って話せる仲になりましたね。

やっぱりチーム 一番に
考えられるようになった お互いに。

我々が分割したら このチームは勝てない。

2人が 一番よく知ってた。

ミスター赤ヘルとして こいつは
こうやってチームを引っ張ってくれる。

でも 彼1人では疲れる。
サポートしてやらなきゃって。

そこの点だけは
自分で自分を見失わないように。

だから僕は…

この年 広島市民球場は 連日超満員。

山本~!

(笛)

シーズンが深まるにつれ
街全体が優勝を願う

異様な雰囲気に包まれ始める。

♬~

ほんとに。

目つきが変わる 声が変わる。

これはね 初めは

「おい衣笠 優勝目指して頑張れよ」
っていうのが

「おい衣笠 分かってるな 優勝やぞ」と。

その次は 「優勝以外なにものもないぞ。
分かっとるやろ お前ら」。

もうね 大変だった。

その重圧が2人を とことん鍛えた。

ゲーム前なんか
点滴を 一緒にやったりね。

ゲーム前 相手が練習中に。
4~5人やってましたね。

それだけ 体力的にも疲れてる。

「浩二 今日 腰が痛いんだって?」って。

「今日は ちょっと
難しいかも分かりません」。

「ああ そう」言うて。

スターティングメンバーに
「4番センター 山本浩二」って書いてある。

放送がある。

「おい浩二 放送しとるで」
「え~! 痛い 言ったのに」って

こんなんです。
認めてくれないんだもん。

山本浩二は出るものなんですよ。

衣笠は グラウンドへ
立ってるものなんですよ。

古葉監督からしたら。

監督は そのかわり
絶対に信頼してくれてる。

その時の精いっぱいのプレーを
してくれると 信じてくれてる。

これは裏切られませんよ。

重圧が どれだけ かかっても
逃げるわけにはいかなかった。

入団から10年 ファンの思いを
分かっていたからだ。

カープが誕生したのは
あの原爆が投下されてから 僅か4年後。

親会社もなく 貧乏にあえぐチームを
市民が募金で支えた。

原爆の後遺症に苦しみながら
応援するファン。

寝たきりの親族に代わって
声をからすファン。

コーちゃん いけよ~。
コーちゃん いけよ~。

広島の人々にとって
カープは 復興の象徴だった。

例えば 食堂へ入っても カープの話。

タクシー乗っても カープの話。

バスに乗っても 「おい あいつ
カープの選手だ」。 カープの話。

どこ行っても カープの話。

一度 こういうふうな
言われ方したんですよ。

ゲーム出て しばらくしてからね。

衣笠 ほんとは俺が
グラウンドで野球したい。 ね。

そういう思いで 俺はいつも見てる。

だからね お前が頑張らないとね
俺が腹が立つ。

ほんとは自分が
あのグラウンドで野球したいんですよ。

頑張りたいんですよ。
それが本音だって。

いや ほんと びっくりしました。

(打球音)

(歓声)

♬~

やっぱり設立当時
いろんな形で力を貸して頂いた方が

間に合わなかった方が
かなり あの当時はいらっしゃって。

だから 長年応援して頂いてる
ファンの方に

一度でいいから
お礼をしなきゃいけない。

一度もまだ 我々は お礼してない。

一度でいい お礼しなきゃいけない。
そのお礼は 優勝だったんですよ。

(打球音)

選手たちは ファンの声援を一身に背負い
力を振り絞った。

そして…。

(実況)ピッチャー 第4球を投げた。
カーブを打った レフトフライだ!

ずっとバック! 捉えた 捉えた!
捕った 捕った 捕りました!

ついに広島カープ 優勝! 優勝!
ドラマチックな一瞬であります。

25年間の
つらい苦しい思い出は消え去り

胸を張って栄光の
ゴールインであります!

監督を胴上げしたのは

グラウンドに なだれ込んだ
ファンたちだった。

本当に おめでとう。
本当に おめでとう。

どうもありがとうございました。

いや もうほんと解放感ですね。

僕はね 山本浩二が ここで
こうやって泣いてるんですよ。

(取材者)お立ち台でね。
ああ。

あれ見ながら
こいつは まだ余裕がある思った。

僕は もう泣く気力もなかった。

は~ 終わった。

ああいうような時に
言うんでしょうね。

(取材者)解放されたっていうこと?
はい。

(拍手)

以後 カープ一筋で
野球人生を全うした衣笠。

このチームとファンは
特別な存在であり続けた。

(取材者)広島カープにしかないものって
いうんですかね 全球団の中で。

何かしら やっぱり
感じるものがあるんですか?

今もあると思います。 ファミリーです。

(取材者)ファミリー。
はい。

みんなが ファミリーです。

(取材者)広島出身かどうかって
関係ないんですよね。

ないです。
入ってしまえば ファミリーです。

(取材者)やっぱり その結束というか

ある種の 血の絆みたいなものって
あるんですかね 広島の場合は。

いや 自然と その周りの雰囲気
環境がそうさすでしょう。

で 町がそうさしますよ。

(取材者)やっぱり そこなんですね?
はい。

こんな幸せなチームないですよね。

そうでしょう?
そう思って見てくれてるんだから。

(実況)やりました!
ついに広島カープ 優勝! 優勝!

ドラマチックな一瞬であります。

広島市民の悲願だった カープの初優勝。

しかし この試合は
衣笠の偉大な記録の中で見れば

まだ3分の1にも至っていない
654試合目の出来事。

残り12年 1, 561試合。

その中で 最大のピンチに襲われたのが
4年後の1979年8月1日。

巨人のピッチャー 西本の
デッドボールを受けて骨折。

さすがの鉄人も倒れ込み
両軍が飛び出しての乱闘となりました。

しかし この時の衣笠の振る舞いは

敵味方関係なく
多くの人々に感動を与えました。

衣笠が貫いていた信念が かいま見える
あの瞬間を振り返ります。

(主審)ストライク。
何や!

1979年のシーズン 衣笠は開幕直後から
極度のスランプにあえいでいた。

5月 監督の古葉竹識から
こう告げられる。

実はこの時 衣笠は全イニング連続出場
という日本記録に迫っていた。

♬~

だから あの~ 彼にですね
言ったんですよね。

「それはもう監督が決めることやから
何でもいいですよ 監督。

監督の思うようにして下さい」って
言ってくれたんですね。 「そうか」と。

いやぁ 苦しい決断ですよね
やっぱり選手としたら

自分の記録というのが プロの記録
というのがあるわけですからね。

記者会見では 悔しさを あらわにした。

(取材者)
連続試合出場は まだあるんですけどもね。

それは あんまりもう
自分で考えたくないね。 うん。

どっちか言えば。
自分じゃ あんま考えたくない。

そして この年こそ

衣笠が鉄人になるための
最大の試練となった。

(打球音)

レギュラーを外された衣笠は 以降
代打で連続試合出場を続けていく。

この時 苦しむ衣笠のバッティングを
懸命に支えたのが 山本浩二だった。

(打球音)
(衣笠)今 当たると こうなってる。

(山本)そう そこの終わりがないんだ。
壁がの。

だからステップして
もう一緒にステップ 同時に出ろよ。

ああ~ 確かに。

そして 衣笠の記録を
誰より案じていたのも 山本だった。

ちょっと心配したのが まあ代打で
出るわけですよ スタメン外れてて。

もし これ5回 試合が成立して
急に雨が降ってきて

キヌが出れなかったら どうなるかな
という そういう心配はしてましたね。

連続試合のね。

でもね やっぱり
それもありましたけど

やっぱりキヌが
出てるっていうのは すごく

少々痛くても ゲーム出なきゃいかん
というのは感じ始めましたね。

(取材者)やっぱり衣笠さんの存在は
大きかったっていう。

ああ もちろん大きいです。

衣笠の野球人生は

度重なるケガとの
闘いでもあった。

この年までに
デッドボールなどで

幾度も大ケガを負っている。

それでも試合に出場する衣笠の
肉体と精神に

球団専属のトレーナー 福永富雄は

ただ驚くしかなかった。

いや まあ…

(取材者)トレーナーとしては
ほんとは止めなきゃいけない局面。

(取材者)それでも出続けたと。

そんな衣笠を 最大の試練が襲ったのは
8月1日。

相手は 当時
ジャイアンツのピッチャーだった…

ドラフト外の入団ながら 右打者の内角を
鋭くえぐるシュートを武器に

エースに はい上がった男。

この日 西本は 広島を1点に抑えて
7回のマウンドへ。

ところが 先頭の三村…。

更に萩原にデッドボール。

(アナウンス)サード 衣笠。

ここで打席には 衣笠。

西本が最も苦手とするバッターだった。

ところが その初球。

(実況)あっと デッドボールか?
これもデッドボール。

1イニング 3人デッドボールというのも
ちょっと珍しい。

骨折した時のデッドボールは
覚えてますよ。

ほんとに あの 普通
痛がらないやつでしたからね。

それが ものすごい もう痛そうに こう
のたうち回るような感じでしたから。

西本は ぶつけた直後 とっさに謝ろうと
打席の衣笠に近寄った。

その時。

病院に担ぎ込まれた
衣笠に下された診断は

左肩甲骨亀裂骨折。 重症だった。

この試合 西本は
再びマウンドに登ったが

動揺して打ち込まれ
試合は 引き分けだった。

この晩 トレーナーの福永は
記録は途切れると覚悟したという。

夜 西本は 衣笠の自宅に
改めて電話をかけた。

謝るためだ。

…って言われたんですよ。

しかし翌日 信じられないことが起きる。

ジャイアンツの先発は 江川 卓。

(アナウンス)
バッター 大野に代わりまして 衣笠。

7回 ピンチヒッターとして
衣笠がコールされる。

そして。

(歓声)

衣笠は豪快なフルスイングで
三球三振だった。

いや 一番は 何で振るんだというね
骨折してて。

それが まあ
キヌのそういう真骨頂ですから。

おいおいと思いながら 見てましたよ。

それまで…

衣笠は後に この3つの空振りについて
こんな言葉を残している。

♬~

(取材者)そうですよね。

衣笠自身は あのデッドボールについて
こう語っている。

もう僕 何回も あの以前にケガして
乗り越えてるんですよ。

その経験がある。
だから乗り越えられた。

あれが初めてだったら さすがに僕も
ようしなかったかも分かんない。

だから 今日は動かない でも
あしたになったら手動くかも分かんない。

とりあえず寝よって そんな感じですよ。

(取材者)不安に駆られて
寝れなくなるとかじゃないんですね。

全然 逆です。
とにかく寝なきゃ分かんない。

朝起きて 手が動かなかったら諦めよう。
しかたないじゃないって。

野球ができないのに 監督のとこ行って
「出して下さい」 これは 論外ですよ。

「出して下さい」と言う以上はヒットを打つ
自信があるから 「出して下さい」と言う。

その最善の努力をする自信があるから

監督のとこ行って 「出して下さい 今日」
言えるわけですよ。

(取材者)その一個一個の積み重ねが
あの 「鉄人」と言われた。

ええ。 そういうことです。

衣笠が最悪のデッドボールを乗り越えた
この年

カープは ついに初の日本一に輝く。

優勝を決めた第7戦は
伝説の試合となった。

その立て役者がこの男 江夏 豊。

剛速球で 王 長嶋を きりきり舞いさせ

この時は リリーフエースとして
絶対の守護神。

その試合 江夏は土壇場で
絶体絶命のピンチを迎える。

(歓声)

9回裏 ノーアウト満塁。

一打逆転サヨナラという場面だった。

そして この時
江夏が激怒する事件が起きる。

万が一に備え
救援のピッチャーを用意したことが

プライドの高い江夏を怒らせた。

この時 江夏を救ったのは
衣笠の言葉だった。

後に 「江夏の21球」と名付けられる
このシーン。

陰の立て役者は 衣笠だ。

江夏は彼を 親友と呼んだ。

以後 衣笠は 球界を代表する強打者として
活躍を続ける。

驚異的な成績も残した。

だが さしもの鉄人も このころから
肉体を襲う痛みに苦しみ始める。

トレーナーの福永は
その壮絶な闘いを知る

数少ない男だった。

(歓声)

1987年 衣笠は 40歳で引退。

その日 17年間に及んだ連続出場記録が
ついに終わりを迎えた。

(拍手と歓声)

鉄人とは 並外れて我慢強く

謙虚で そして

優しい男だった。

(取材者)あ そうですか。

なんかこう…
何か抜けたような感じはしてますね。

まだまだ電話でもかかるんじゃないか
というぐらいの

この2人にはありますね うん。

また向こうでも元気でやれよと。
鉄人で 野球やってるでしょう うん。

インタビューの終わり
鉄人は こんな言葉を口にした。

(取材者)やっぱり見てる人ですよね。

その見てる人の中で 特に。
(取材者)子どもたちですね。

それなんですよ。
そこを忘れちゃダメなんです。

みんな 自分たちの仕事のために
歩いてるでしょう。 子ども。

(取材者)抜けちゃってるんですね そこが。
でしょ?

一番は ここでなきゃ うそでしょう。
僕は そう思います。


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