歴史秘話ヒストリア「戦国の扉はオレが開く 最新研究 北条早雲」 …実はまったく違う名前だった?… 井上あさひ


出典:『歴史秘話ヒストリア「戦国の扉はオレが開く 最新研究 北条早雲」』の番組情報(EPGから引用)


歴史秘話ヒストリア「戦国の扉はオレが開く 最新研究 北条早雲」[解][字]


「最初の戦国大名」北条早雲、実はまったく違う名前だった?などなど、早雲にまつわる新事実が最新の研究で続々明らかに。室町の混乱を脱し戦国の扉を開いた男の真実とは。


詳細情報

番組内容

最初の戦国大名――北条早雲、ホントはまったく違う名前だった?無名の浪人といわれていた出自は実は○○!その年齢も……などなど、現在続く研究によって早雲の人物像は、これまで語られてきたものとは180度変わりつつある。戦国大名になったのも野望や秩序への挑戦、ではなく室町幕府との連携、自然災害のためだった?武田信玄や織田信長よりもはるかに早く「戦国の扉を開いた」男の真実とは。

出演者

【キャスター】井上あさひ

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歴史秘話ヒストリア「戦国の扉はオレが開く 最新研究 北条早雲」
  1. 早雲
  2. 伊豆
  3. 駿河
  4. 将軍
  5. 八丈島
  6. 幕府
  7. 家臣
  8. 戦国大名
  9. 北条早雲
  10. 今川


『歴史秘話ヒストリア「戦国の扉はオレが開く 最新研究 北条早雲」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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そして教育の現場で見えてきた課
題に、どう取り組んでいくのか、

室町時代の終わり。

10年以上続いた
応仁の乱で

京の都は
焼け野原となりました。

その廃虚の中から立ち上がった
一人の男。

作家・司馬遼太郎は
早雲を こう評します。

日本史の重要人物 北条早雲。

ところが その人生は
不思議なことだらけです。

教科書などを見ると

名前からして 全く統一されていません。

しかも 身分は 金も力もない浪人。

どういうことでしょう?

今 早雲の実像が 解明されつつあります。

室町幕府の名門の一人ですね。

秘書室長というか…
うん そんな感じでしょうね。

実は 定説より20歳も若い
名門の貴公子。

しかも 将軍に仕えるエリート官僚。

最新研究から
驚きの素顔に迫ります。

南国の楽園 八丈島。

実は 早雲と深い関係が…。

島の宝に秘められた
一世一代の覚悟とは…。

戦国大名へと成長していく 早雲。

きっかけとなったのは
ある歴史的な出来事でした。

我らが助けるゆえ
気を 強う持ってくれ。 のう…。

希代の風雲児 北条早雲。

その新たなイメージから
戦国の夜明けに迫ります。

♬~

「歴史秘話ヒストリア」。
今夜も どうぞ おつきあい下さい。

今回の主人公は 北条早雲。

初めて戦国大名になったとされる

500年余り前の人物です。

武田信玄や 織田信長など

有名な戦国大名が生きていたのは
大体 この辺り。

ところが 北条早雲は

とりわけ
早い時代の人物です。

早雲は なぜ 時代の先頭を切って
「戦国大名」となったのか。

その訳を知るために

まずは 最新の研究が導き出した
早雲の実像を ご覧下さい。

神奈川県 小田原市。

北条早雲
ゆかりの町です。

500年余り前。

早雲が攻め取り

息子の氏綱の代から
ここを拠点としました。

小田原城には
早雲に関する書物が残されています。

これはですね
「北条五代記」と言いまして

小田原北条氏 五代のですね
歴史を書き記したものです。

…というふうに考えられます。

江戸時代
北条氏の元家臣が記した…

まずは こうした書物によって広まった
従来の早雲像を

おさらいしてみましょう。

早雲は 生まれ育ちがはっきりしない
「浪人」。

身一つで 都から東国へ向かいました。

初めての戦は なんと56歳。

将軍の一族や
東国の大大名を打ち負かし

伊豆と相模の主となりました。

早雲は 仁義を重んじ
民を大切にしたので

国は豊かになります。

亡くなったのは 88歳。

まさに 大器晩成の
お手本のような人物です。

ところが今
この早雲像が揺らいでいます。

小和田哲男さんは
近年 早雲の意外な経歴を明らかにし

話題となりました。

注目したのは
早雲の死後に書かれた 追悼文の一節。

…というのを明らかにした
という意味がありますね。

浪人のはずが…

もう少し 調べてみましょう。

次の注目ポイントは 「名前」です。

当時の書状などで
早雲は こう呼ばれています。

伊勢氏は 鎌倉幕府以来の名門。

室町幕府では 財政をつかさどる

政所のトップを 代々 務めました。

早雲は その一族だったのです。

更に 別の史料からも驚きの発見が。

伊勢新九郎の名が

将軍側近の要職

「申次衆」として
記されています。

秘書室長というか…
うん そんな感じでしょうね。

…というのが明らかになってきた。

浪人から幕府の秘書室長へ
180度 変わった経歴。

次に注目されたのは 「年齢」でした。

黒田基樹さんは
早雲が亡くなった 88という年齢に

疑問を持ちます。

将軍家の申次衆という役職を
務めるんですけれども

これは 若い官僚のポストなんですね。

申次衆を務めた年代と
亡くなった年代は

確かな史料から明らかです。

これに 軍記物にある

亡くなった年齢 88歳を
当てはめると

早雲が申次衆だったのは
確かに 50代です。

そこで 黒田さんは

正確な 生まれ年を知る
手がかりを探しました。

すると 「北条五代記」に
こう あったのです。

「ねずみ年に生まれた」。

当時 ねずみ年で

早雲の生まれ年にも
なりそうな年は

他に 3つ。

それぞれ
申次衆になったのは

40歳 28歳 16歳です。

そのうち 最も
申次衆に ふさわしいのは

28歳 1456年生まれ。

すると 亡くなったのは
88歳ではなく…。

従来から比べると 24歳。

二回り若くなるという結果になります。

こうして 従来のイメージは

「若きエリート」へと 一新されたのです。

今年 新しいイメージをもとにした
漫画の連載が始まりました。

作者の ゆうきまさみさんは

一新された早雲像から

少年時代を思い描きました。

時は 応仁の乱の前夜。

11歳の 伊勢新九郎こと
早雲は

人を欺くばかりの大人たちにも

ひるまず 対峙します。

ゆうきさんは
魅力的な新九郎像が生まれることを

楽しみにしています。

かつて 駿河と呼ばれた
この地が

早雲 最初の
活躍の舞台です。

なぜ 駿河なのか?

ちなみに 「北条五代記」では…。

浪人の早雲は 一旗揚げようと

大名の今川氏に嫁いでいた
叔母を頼り 駿河に向かいました。

ところが 今川には
謀反をたくらむ家臣が 多くいたため

早雲は
これを退治します。

こうして
今川氏の信頼を勝ち取った早雲。

褒美に 城をもらい
戦国大名への足がかりを得ました。

ただし このお話も

早雲が
幕府に仕えていたとなると

解釈が変わります。

当時…

そして 実際に
伊勢氏の女性が一人 嫁いでいました。

女性に 子供が生まれると

幕府は 今川への影響力を
強めるため

その子を跡継ぎに推します。

これに 今川の家臣の多くが大反対。
駿河は混乱しました。

新九郎様!
何じゃ。

駿河が 一大事にございます。

駿河が…。

[ 心の声 ] 今川が乱れれば 世が乱れる。

されど 今川の家臣たちに
それを説いたとて

聞く耳など持つまい…。

悩む早雲を 突き動かしたのは

当時 仕えていた将軍
足利義尚の ある行動でした。

当時 義尚は
反抗的な大名の討伐を進めていました。

秩序のためには
実力行使も辞さないという信念。

それを知った 早雲は…。

何か願いの儀があるとか。
申してみよ。

(早雲)はっ。

それがし 駿河に参りたく…。

幕府のお墨付きを得て

謀反の家臣たちを倒し

今川を
安定させることを

決意したのです。

親分の将軍が 実力行使をする
ということに倣って

自分も実力行使する。

そういう関係を推測することが
できるんじゃないかと思います。

1487年 32歳の早雲は

家臣数名と
駿河に向かいました。

敵は兵多く
備えも 大層 固うござる。

到底 勝ち目は…。

誰が まともに戦するなどと申した。

では いかに?

今から攻める。

(家臣)今からに… ございますか?

不意打ちじゃ。 奇襲よ。

少ない手勢にもかかわらず
大胆に攻めた 早雲。

今川の家臣は 打倒されます。

早雲は 見事
反幕府勢力の一掃に成功しました。

ところが…。

早雲を後押しした
将軍・義尚が病死。

このことは 早雲を
更なる過酷な戦いへ導いていきます。

奇襲作戦で
見事 今川家の混乱をおさめた早雲。

しかし いくら武士とはいえ

都で 長らく
「秘書室長」づとめをしていた早雲に

どうして
軍事的な才能があったのでしょうか?

実は その理由
意外な人の言葉から分かります。

それは…。

(木魚をたたく音)

とんちで有名な 一休さん!

京の名刹 大徳寺の責任者だった一休は

次のように記しています。

「大徳寺の僧たちは…」。

実は このころ 早雲も
大徳寺に通っていました。

初めての戦に
勝てたのも

寺での勉強の
おかげかもしれません。

決意と実行 そして新たなスキルで
早雲は 混乱する世の中に挑んでいます。

その早雲に まさに歴史を変える戦いが
待ち受けていました。

静岡県 伊豆の国市。

その山あいに
願成就院があります。

かつては
東国有数の大伽藍を誇った お寺で…

不動明王。

毘沙門天など

5体全てが国宝です。

しかし その一つ
阿弥陀如来を よく見ると

頭や指が 傷ついています。

早雲は なぜ
伊豆を攻めたのでしょう。

駿河の騒乱をおさめた早雲は
京に帰っていました。

そこに…。

何? 伊豆の茶々丸殿が!?

はっ。 たった今 その知らせが…。

[ 心の声 ]
次の将軍の母親を… 殺すとは…。

伊豆の足利茶々丸とは

早雲が仕えた 前の将軍・義尚と

時の将軍・義材のいとこです。

幕府重臣や早雲は

茶々丸の異母弟
義澄を

新たに将軍にしたいと
考えていました。

ところが突然
茶々丸が

義澄の母を
殺害したのです。

家永遵嗣さんは この事件こそ

早雲が 伊豆を攻める
きっかけになったと考えています。

早雲は 急ぎ
伊豆に近い駿河に戻りました。

そして…。

この時 出家したと
言われます。

[ 心の声 ] 幕府の秩序を守る…
これが私の覚悟だ。

早雲は 再び 幕府のため
働くことになります。

一方 京では

幕府重臣たちが
義材に代わって

義澄を
将軍の座につけます。

それを受けて
早雲は いよいよ

伊豆の茶々丸を
攻めることになりました。

「北条五代記」では 早雲は
伊豆を たやすく攻め落とします。

伊豆の修善寺温泉で
地元の人との世間話から

茶々丸に味方する武将たちが
留守と知った早雲。

すぐさま 夜襲をかけ
茶々丸を討ち滅ぼします。

ところが 最近の発掘調査で
別の事実が分かってきました。

左右で 色が違います。

割れたあと 火に焼けたためです。

激しい戦火の名残。

早雲は 伊豆で
強い抵抗を受けていました。

それは 30日どころか

5年にわたったといいます。

[ 心の声 ] 伊豆の民を敵にしたままでは

いつまで たっても
戦が終わらぬ…。

この状況を変えたのは
驚くべき出来事でした。

そのヒント
なんと 「北条五代記」にあります。

伊豆攻めのさなか

早雲の前に
千人を超える
「病人」が現れたという記述。

実は
この「病人」こそ

伊豆平定の
カギだったといいます。

このことに関係しているかもしれない
神社が 今も伊豆にあります。

神社が 集落より下にあるのは
珍しいといいます。

もともと
この神社は

集落より
上にありました。

ところが…。

1498年8月25日。

東海地方を 巨大地震が襲いました。

大津波で
数千人が死亡。

前代未聞の惨状だったと
言われます。

早雲が 「北条五代記」の
「病人」に出会ったのは この時でした。

つまり…。

うわああ!

(家臣)傷は大したことないぞ!

(早雲)しっかりせえ。

み… 水…。

(早雲)水じゃ。

我らが助けるゆえ
気を 強う持ってくれ。 のう…。

伊豆の民の支持をつかんだ早雲が
茶々丸を破ったのは

津波の すぐあとのことでした。

京から遠く離れた地で
幕府に安定をもたらした 早雲。

新将軍・足利義澄は

その働きに応えて
伊豆の支配を認めたといいます。

(早雲)面を上げられよ。

これよりは 我ら 共に
幕府のおんため 働いてまいろうぞ。

(家臣たち)はっ!

室町幕府による平和を目指して戦う
北条早雲。

しかし 風雲急を告げる時代は

早雲を 全く異なる方向へ
押し流すことになります。

「かまぼこ」と「お城」の町 小田原も

伊豆と同じく
北条早雲が攻略した町です。

駅前に 北条早雲の銅像があります。

傍らにいるのは…

角には 燃える松明が
くくりつけられています。

実は この銅像

早雲の小田原攻めが
モチーフになっています。

ある夜のこと 攻め込んできた
早雲の軍勢が掲げる火の多さに

小田原の城主は驚き
逃げ出します。

早雲は 小田原を
やすやすと手に入れました。

ところが…。

火の正体は
松明をつけた 千頭もの牛。

早雲 一流の計略だったのです。

このエピソード

実は 「牛」が別のものを指す
という説もあります。

…と思っております。

さて この後の早雲の戦いには
意外な場所が 大きく関わっていました。

それは 「島」。

しかも早雲は
その「島」をめぐる争いの中で

「戦国大名」に
変貌していくことになるのです。

東京都心から 南に300キロ。

伊豆諸島の一つ…

2つの火山から成る
亜熱帯の島で

山手線の内側と
ほぼ同じ広さです。

ここが…

早雲の子…

(林)それから やっぱり

美的な要素もあったんじゃないかな
というふうに思います。

でも どうして 北条氏の拠点が

八丈島にあるのでしょう。

1498年
伊豆支配を認められた早雲は

北部の韮山に
住まいを構えます。

そこに 京から意外な知らせが…。

(家臣)殿 斯波に容易ならぬ動きが…。

斯波が いかがした?

京の御所様が 斯波の姫を
御台様とお決めあそばされました。

斯波氏とは
早雲や今川氏と対立する有力大名。

ところが 早雲たちがもり立てた
将軍・義澄が

その斯波氏と 手を結んだのです。

将軍家は もはや
我らを頼みとは思うておらぬようだ。

都に戻りまするか…。

戻るものか…。

え?

これよりは わしと
そなたたちの意思で 関東に居続ける。

都にはない豊かな国を
この地に つくるぞ。

ずっと 幕府のために戦ってきた早雲。

しかし このころ
その目的が変わったといいます。

…ということになるかと思います。

「戦国大名」は 室町幕府とは距離を置き

独自のやり方で 領国を治めた

新たな存在でした。

幕府の力が衰え
日本中が乱れつつあった時

せめて 自分の手が届くところは

平和にしようとした早雲。

ここ伊豆で 全国に先駆け
その「戦国大名」となったのです。

しかし…。

[ 心の声 ] 何か 国づくりにかかる費えを
賄えるものはないか?

そこで目をつけたのが
日本の東西を結ぶ海運でした。

八丈島は その海運の
一番の要衝だったのです。

八丈島には 更に
二つとない宝がありました。

平安の昔から この桑を食べた蚕が
もたらした島の宝。

機織りは 島の女性たちの仕事。

その技は
母から娘へ受け継がれました。

八丈島を支えてきた女性たちを

江戸時代の記録は
絹と共に こう記しています。

「女性は色白で 髪は黒く長い。

姿は あでやかで 心根は優しい。

上品な絹を重ね着て
立ち居振る舞いも優雅である」。

島の名前である 「八丈」は

朝廷などに献上される
絹織物の長さのこと。

女性たちが織った絹は
高く評価されました。

…というふうに思うわけですね。

海運の要衝で
美しい絹織物を生む島は

それゆえ 関東の武将たちが奪い合う
場所にもなりました。

神奈川県 三浦市。

岬の先端に築かれていた
新井城は

八丈島をめぐるライバル
三浦道寸の城です。

道寸は 当時 関東を支配していた
上杉氏の一族で…

しかし 城は
荒波と断崖に守られ 難攻不落。

1年たっても 落とすことができません。

[ 心の声 ] ただ攻めても らちが明かぬ。
別の攻め口を見つけねば…。

(家臣)殿 八丈島の三浦の代官が
自ら船に乗り

新井城に
向かっているよしにございます。

何でも 年貢を運ぶためとか…。

兵を出せ! その船が着きしだい
代官を捕らえよ! 決して殺すな!

早雲は 八丈島の代官の船を攻撃。

代官は逃したものの…

戦の習いとは申せ
そなたには 非礼なことをした。 許せ。

聞けば そなたのおる八丈島は
実に 良い島だそうな。

上杉 三浦についておっては

その良き島も
使い潰されるだけではないか?

早雲は 代官の弟を説得。

弟を通じ
代官を寝返らせることに成功します。

八丈島とのつながりを絶たれた 道寸は

しだいに 勢いを弱めます。

やがて 早雲は道寸を滅ぼし
八丈島を支配下に置きました。

太平洋の海運を握ったのです。

3年後の1519年8月
早雲は亡くなりました。

若き日に駿河へ向かってから 32年。

この時 早雲は

自らの力で 2つもの国を治める
戦国大名となっていました。

早雲の死後 子孫たちは
小田原を拠点とします。

そして 戦国乱世における
関東の覇者・北条氏として

100年の繁栄を築きました。

その繁栄を
しのばせるものがあります。

毎年 冬に開かれる露店の市…

80万もの人出で にぎわう
名物行事です。

実は ボロ市

早雲のひ孫 北条氏政が
戦国時代に始めたもの。

北条氏は 東京 当時の江戸の開発に

力を入れました。

街道を整備し
新たな宿場町も置きます。

世田谷も その一つでした。

北条氏は 世田谷を

自由に商いができて
税も かけない

「楽市」としました。

そして 今のボロ市に続くのです。

徳川政権300年の礎に

なっていったんじゃないかな
というふうに思います。

応仁の乱の後
幕府の立て直しに力を尽くし

初の戦国大名となった 北条早雲。

彼が詠んだ歌が残っています。

「枯れ木のそばに
花咲く木を植えて

この荒廃を
元の栄えに戻してみせよう」。

早雲が思い描き
子孫たちが受け継いだ志は

江戸時代という 平和と繁栄に
実を結ぶこととなったのです。

♬~

♬~


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