最後の講義「生物学者 福岡伸一」 「1年前の自分は別人」いのちとは? 青山学院大学教授・福岡伸一、阿川佐和子



出典:『最後の講義「生物学者 福岡伸一」』の番組情報(EPGから引用)


最後の講義「生物学者 福岡伸一」[字][再]


人生最後なら何を語り残すのか?登壇するのは生物学者、福岡伸一「生命とは流れだ」「1年前の自分は別人」いのちとは??刺激的な言葉が満載の知的エンターテインメント!


詳細情報

番組内容

「人生最後だったら、何を語り残すのか?」。アメリカの有名大学で行われる「最後の講義」が日本にも登場。今回は「生物と無生物のあいだ」などベストセラー著書で知られる生物学者・福岡伸一さん。「生命とは?生物とは何か?」を問い続けて数十年。「1年前の自分と今は別人。実は完全に入れ替わっている…」固定概念を揺さぶる目からウロコの刺激的なメッセージの連発。福岡ハカセと「生命」を考える知的エンターテインメント!

出演者

【出演】青山学院大学教授…福岡伸一,【語り】阿川佐和子




『最後の講義「生物学者 福岡伸一」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数BEST10)

最後の講義「生物学者 福岡伸一」 「1年前の自分は別人」いのちとは?
  1. 生命
  2. 人間
  3. ハカセ
  4. 動的平衡
  5. 細胞
  6. 顕微鏡
  7. 考え
  8. 自然
  9. 自分
  10. マウス


『最後の講義「生物学者 福岡伸一」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


解析用ソースを読めば、番組内容の簡易チェックくらいはできるかもしれませんが…、やはり番組の面白さは映像や音声がなければ味わえません。ためしに、人気のVOD(ビデオオンデマンド)サービスで、見逃し番組を探してみてはいかがでしょうか?

☆無料で民放各局の動画視聴ができるTVer(ティーバー)!まずはココから!

他にも、無料お試し期間のあるVODサービスが増えてますので、各社のラインナップを調べてみるといいかもしれませんね。

↓NHK関連商品

<「最後の講義」が始まります。

もし今日が 人生最後なら
何を伝えたいか?>

<アメリカの大学で始まった
大きな流れが

日本にやって来ました>

天文学的に速くなる
コンピューターに…

<その道の権威が
叡智の全てを注ぐ講義です>

(扉が開く音)

<本日 満を持して登壇するのは…>

<未知なる遺伝子を発見し

トップランナーとして
走り続けています>

<福岡ハカセといえば 多くの
ベストセラーでも知られます。

私も愛読者。
ハカセの大ファンです>

<ハカセはいつも

「生命とは何か?」を
問い続けます。

たどりついた考えは
実に独特です>

物質レベルでは
ほとんどが入れ替わってる。

自分の身体というのは
個体だと思っているけれども

流体なわけです。

<ハカセは 生命の本質に迫ります>

脳死問題というのは
医療の進歩でも何でもなくて

両側から我々の生命の時間を

短縮してくれているわけなんです。

<その言葉は 驚く事ばかり>

<学生は 次々疑問をぶつけます>

ただ お話の中で
生命の定義というのは

見る視点によって変わってきて

考え方によっては この地球全体
宇宙全体が生命になるのかなと。

お答えしましょう。
生命とは何かっていう答えは…。

<一緒に考えてみませんか?>

<台風が東京をかすめた夏…>

<福岡ハカセの「最後の講義」を
聴き逃すまいと

100名を超える聴衆が
集まりました>

<学生たちは
大きな期待で待ち構えています>

人生最後に講義する
っていう事なので

多分 福岡さんが
自分なりに出した答えとか

解釈みたいなのを
聞けるんだと思って。

高校の時から 結構
福岡さんの本を読んでて

本当に面白い生物観を
お持ちだなと思っていて。

どんなふうに生物に対する思いを
持ってるのかとか

そういうような事が
聞けたらいいかなって。

福岡先生が 実際に科学の研究者を
志す事になった

そのターニングポイント
みたいなところは

どういったところ
だったのかなって。

<講義の前に 福岡ハカセって
どんな方か ちょっとご紹介を>

初めてお会いしたのは

「生物と無生物のあいだ」の著書が
大変 評判になっている時に

私がアシスタントしている
ラジオ番組に

ゲストとして
いらっしゃったんですね。

「ようこそ おいで下さいました」
って言ったら

「阿川さん」って言って

私が書いた全然売れなかった
子供向けの本を

「読みました。 ものすごく
面白かったです」とおっしゃった。

で すっかり好きになっちゃって。
福岡先生は 人たらしです。

福岡先生をね 例えてみたの。

時に 養老孟司さんのように

知を求め

時に 林 真理子さんのように

ミーハーな事にまで
クンクン 鼻を利かせ

オタッキーに見えて
案外の社交家ですね。

だって こういうテレビに出る事
だって いとわないでしょ?

(司会)それでは
福岡教授をお迎え下さい。

(拍手)

皆さん こんにちは。
福岡伸一と申します。

今日は 私は 生命の事
生物の事をお話しします。

結論は ビバ生物 ビバ生命
という事なんですけれども。

私は 生物学者になる
ずっとずっと昔 少年の頃は

虫が大好きな昆虫少年でした。

どっか その辺の葉っぱについてる
チョウチョの卵とか採集してきて

家で せっせと育てました。

だから 私はあんまり
人間の友達がいなくて

虫だけが友達っていう。
(笑い)

昆虫を見ていて 私が感じた事は
いかに自然が精妙にできてるか。

そして この色ですよね。

一体 生命って何だろうって
感じたわけなんです。

この 生命とは何かっていう
疑問は

少年の素朴な
問いかけであるとともに

生物学最大の
問いかけでもあります。

<この壮大な問いに
ハカセは3つの角度で迫ります>

<ハカセを生物学の入り口に
いざなったのは

両親がプレゼントしてくれた
顕微鏡でした>

顕微鏡といっても
そんなに高級品じゃなくて

これで
チョウチョの羽を見ると

鱗粉という
小さなモザイクタイルみたいな

色のついた桜の葉っぱみたいな

鱗がこう 一枚一枚
はり詰められているわけです。

顕微鏡の中にですね
ミクロな小宇宙が

バーッて広がってるわけですね。

私は そこに
吸い込まれてしまって

ますます人間の友達なんか
いらなくなって。    (笑い)

で 当時はですね オタクっていう
言葉はなかったんですけれども

まさに虫オタクで オタクの
気持ちっていうのはですね

何か一つの事を見つけると

ず~っと その源流を
たどりたくなってしまう。

この顕微鏡という
すばらしい装置を

一体 いつの時代の
どこの誰が作り出したのか。

当時はネットもないし 手がかりに
なるのは 本だったわけですね。

近くの公立の図書館に通い詰めて
探求しようとしたわけなんです。

で 顕微鏡
一番最初に作り出した人は

今から 350年も前の
17世紀ですから

日本で言うと 江戸時代幕開けて
間もない1600年代の事です。

オランダのアントニ・レーウェンフックさん
という人でした。

この人は
高等教育を受けていないし

大学の先生でもないし
街の一市民だったわけですね。

でも ひたすらアマチュアとして
顕微鏡を工夫して

ミクロな世界を人類史上初めて
精密に観察した人だったんです。

アントニ・レーウェンフックの
作り出した顕微鏡というのは

現在の我々の知っている
顕微鏡とは 似ても似つかない

不思議な形をしていました。
高さ10センチぐらいで

ここに まるく開いてるように
見える所があります。

実は ここに
レンズが はめ込まれていて。

で 横から見た
絵なんですけれども

とんがってる先に 自分が
見たいものをくっつけて観察する。

こんな 何て言うか 一見
原始的な装置だったんですが

レンズの磨き方が
非常にすばらしくて

300倍ぐらいの倍率を
彼は実現していたんです。

まず 我々の体が
細胞という小さなユニットから

できているという事を
見つけました。

それから血液の流れを見ると

血管の中に 粒々の粒子が
たくさん流れてる。

それは 白血球や赤血球です。

で レーウェンフックの
最大の業績の一つは

動物の精子を発見した
という事で

生命の種になってるという事を
彼は突き止めたわけですね。

アマチュアが 非常に大きな生物学上の
発見をなしたという事に

私は 深く深く感動しました。

そして
レーウェンフックみたいに

生命を探求する人に
なれたらいいなと。

<そしてハカセは
昆虫学者を目指します。

けれど 80年代
その世界は想像とは違いました>

無類な虫好きですから。

で 大学に入ってみたところ

駆除の目的の研究しか
していない事に気付いた時に

分子生物学というものに
出会って

そうか 人間の体の外の

自然界の虫を探す事を
目的にしていた事を

人間の体内の中で 新しい虫を
探すのと同じ事をやるのが

分子生物学だっていう事に
気付かれた。

<昆虫少年から 遺伝子ハンターと
なった福岡ハカセは

90年代の初めに
新しい遺伝子を発見します。

「GP2」と名付けられた
この遺伝子。

しかし その役割が
全く分かりません。

役割を突き止めようと
壮大な研究が始まります>

<GP2を取り除いたマウスを
作り出し

何が起きるかを見ていくのです>

携帯電話とかコンピューターとか
何でもいいんですが

そういう機械を
思い出して下さい。

その中から 1つだけ部品を

ピュッと
ピンセットで引っこ抜いて

パッて捨ててしまったら
当然 機械は壊れますよね。

その壊れ方を調べる事によって

今 抜いた部品が何だったか
言い当てる事ができるわけです。

それと全く同じように GP2を
捨ててしまったマウスには

何か とんでもない異常が
起きるわけです。

その異常を調べる事によって

GP2が何をやっていたか
っていう事を

非常に明確に
言い当てる事ができる。

我々は苦労して 昼夜なく 必死に
ボロ雑巾のようになって働いて

このマウスを作り出した時には
3年の月日がかかって。

それから研究費も
すごく たくさんかかって

こんな小さな
マウスなんですけれども

このマウスの背中には
ポルシェの新車3台分ぐらい

軽く買える研究費が
投入されているんです。

このマウスに 一体どんな異常が
起きるのかというのを

固唾をのんで
見守っていたわけなんです。

どこにも異常が
見つからないんです。

いや そんなはずはないだろう。

GP2という大事な部品が
完全に欠落してるんです。

ちゃんと欠落してるかどうかも
調べました。

異常は きっと
隠れているに違いない。

血液を採って ありとあらゆる
パラメーターを測定してみました。

しかし どの値も全部
正常の範囲内に収まっていました。

ひょっとしたら
異常は もうちょっと

長い時間をかけて
出てくるのかもしれない。

マウスの寿命っていうのは
大体2年ぐらいなんです。

ですから2年間
このマウスを ずっと観察して。

でも このマウスは
寿命が短くなるわけでもないし

老化が早く起こるわけでもなく。

多大な研究費をかけて
長い時間をかけて

せっかく このマウスを作って

GP2の遺伝子の作用が
分かるに違いないという事で

行ったんですけれども

私たちは 非常に大きな研究の壁に
ぶつかってしまったわけですね。

そんな時にですね ふと昔読んだ
論文の一節を思い出しました。

その論文にはですね
こんな事が書いてありました。

なんか詩人の言葉みたいに
聞こえますけれども

科学者が言った言葉なんです。
この人でして。

ルドルフ・シェーンハイマー
という人でした。

70年前ぐらいに
活躍してた人なんですけれども

皆さんは
ほとんど知らないと思います。

しかも 43歳という若さで
謎の自殺を遂げてしまったんで

ますます科学史の中から
消えてしまった人なんですね。

<「生命は機械ではない」

ハカセは この言葉に
頭をガツンと殴られました。

「生命を機械のように扱った
浅はかな自分」。

それは 生命の美しさに感動し

この道に進んだ少年時代の
自分への裏切りでした>

<研究は
行き詰まってしまいました>

自分の子供時代というものに
気持ちを戻す事のできる人と

できない人といるような
気がするんですね。

福岡先生は もう即
戻りたい人ですね きっと。

<そもそも生物学は
生命を機械のように見る

「機械論」で発展してきました。

ヒトゲノム計画は
その最たるもの。

人間を解体し 更に分解して
細かな部品のように

ついに全ての遺伝子を
明らかにしました。

しかし それは映画の
エンドロールを見ているだけ。

登場人物は分かったけれど
肝心の内容は何も分からないと

ハカセは言うのです>

<生命にどんなドラマが
起きているのか?

シェーンハイマーは それを
解き明かそうとした一人でした>

シェーンハイマーの問いかけも
「生命とは何か?」という

非常に本質的な
問いかけだったんです。

でも 彼の問いは もう少し
シンプルなものに替えられていました。

生命は 毎日毎日

食べものを食べ続けなければ
いけない存在です。

そしたら どうして我々は

毎日 ご飯を食べ続けなければ
いけないんでしょうか?

そんなのは
当たり前の事じゃないか。

それは シェーンハイマーが生きた
20世紀前半でも

そんな単純な事を 答えられない
人はいなかったんです。

食べものと
生物の関係というのは

自動車とガソリンの関係に
置き換えられて

説明されていました。

食べものと生物の関係も
全く同じで

食べものは
体の中で燃やされます。

その事によって
熱エネルギーが生み出され

それは 動物の体温になります。
でも それは全部

燃やされてしまうと
消費されてしまうので

新しいエネルギー源がいるんで
また食べなければならない。

でも シェーンハイマーは
その事を

もっとちゃんと確かめてみよう
というふうに考えたわけです。

で 結果を見てみると 非常に
意外な事が起きていました。

<私も ハカセから
この話を聞いた時は びっくり>

「自分が食べたものが 翌日
うんちとなって出ていくものは

これは何だか分かってますか?

食べたものが出るんじゃ
ないですよ」って言われて

へっ!? みたいな感じで
仰天しましたけれども。

<ガソリンのはずの食べものは
体の中で どうなるのか?

食べものを原子の単位で
マーキングし

体の中での行方を探りました>

食べた食べものの半分以上は
燃やされる事なく

ねずみの体の尻尾の先から 頭の中
体の中いろんな所に溶け込んで

ねずみの一部に なり代わって
いってしまったんです。

これって
ガソリンと車の例えで言うと

注ぎ込んだガソリンが
燃やされるだけじゃなくて

タイヤの一部になったり
座席の一部になったり

ハンドルの一部になったり

ネジの一部になったりする
っていう事なんです。

どんどん どんどん作り替えられて
交換されている。

爪とか髪の毛とか皮膚が
交換されてるっていうのは

なんか実感できると
思いますけれども

実は 体のあらゆる部分が

全く例外なく
入れ替わってるんです。

骨とか歯みたいに カチッとしている
ように見えるところでも

中身は 入れ替わって
いってしまっています。

脳細胞なんかでも 細胞の中身は
入れ替わっていってるんです。

ですから うんちの主成分
というのはですね

食べかすが
出てるんじゃないんです 実は。

自分自身の細胞が
どんどん どんどん

捨てられているのが
うんちの実体で。

その捨てられた分 食べものから
新しい細胞が作られているんです。

ですから 1年前の私と
今日の私では

ほぼ別人になってる。
物質レベルでは

ほとんどが入れ替わってると
言っても過言ではないぐらい

変わってしまっています。

だから 1年前の私が
言った事っていうのは

別人が言った事なので

本当は 約束なんか
守らなくてもいいんです。

ですから皆さん
自分の体っていうのは

個体だと思っているけれども

少し長い時間軸で見てみると
流体なわけです。

絶え間なく流れている。

じゃあ どうしてですね
我々の体というのは

去年の私と 今年の私では
物質レベルでは

全然 入れ替わっているにも
かかわらず

記憶が保存されてるかというのは
非常に不思議ですよね。

どんどん入れ替わってたら

いろんなものが
失われてしまうんじゃないか。

記憶っていうのは 脳の中に
ビデオテープみたいに保存されてて

それが
読みだされてるんじゃなくて

神経細胞 ニューロンの回路網
として記憶は保存されていて

そこに電気が通ると
ある記憶がよみがえるわけです。

だから 皆さん
山手線を思い出して下さい。

山手線は 今から100年ぐらい前に
つくられた路線ですけれども

駅も線路も どんどん どんどん
作り替えられているんです。

でも 山手線は山手線ですよね。

つまり 駅と駅の関係は
変わってないわけです。

渋谷の次が原宿で
原宿の次が代々木で。

ものは変わっているけれども
ものとものとの関係が変わらない。

だから 記憶は
そう簡単には消えない。

♬~

<2011年 ハカセは
理系の研究室を閉じました。

ミクロな世界での
生命の研究をやめ

文系の教授になったのです。

少年時代に心を躍らせた生命。

機械とは異なる
生命の本質を探求し

理系も文系も分け隔てなく
伝えようとしています>

<ハカセのキーワードは
「動的平衡」です>

シェーンハイマーのコンセプトを
日本語では

「動的平衡」というふうに呼んだら
いいんじゃないかというふうに。

「動的」というのは
常に動いているという事です。

「平衡」というのは
バランスという意味で

絶え間のない流れの中で
いつも合成と分解が

何とかバランスをとっている
というのが

我々の体の一番大事な特性で。

こういう 常に動的な平衡が
成り立っているからですね

私たちの体の中は
何かがなくても

他のものがピンチヒッターに
なって やってきたり

うまく平衡を
作り替える事ができるんで

GP2がなくてもですね
ないなりに

何か それを補うような仕組みで

生物は 新しいバランスを
作り直しているわけです。

<ノーベル賞を受賞した
大隈良典教授の研究をはじめ

21世紀に入ると

生命が分解される仕組みが
分かってきました。

分解 すなわち
「自分自身を壊す」仕組みです>

<でも どうして生命は 自分を壊す
必要があるのでしょうか?>

それは 「エントロピー増大の
法則」に闘うために。

エントロピー増大の法則
というのは

ちょっと難しく聞こえる
言葉ですけれども

宇宙の大原則として

秩序があるものは
秩序がない方向にしか動かない。

どんなに壮麗に
建築物をつくっても

月日とともに
だんだん風化していきます。

でも 生命だけは 38億年間も
ず~っと連綿として…。

なぜ 生命だけが

エントロピー増大の法則に逆らって
続いてるかっていうと

頑丈につくるという事を
最初から諦めて

ゆるゆる やわやわに
自分自身をつくっておいて

エントロピー増大の法則が
襲ってくるよりも先回りして

自分自身を壊して
積極的に壊して

長い時間 秩序を守り続けてる。

<ならば
なぜ老けるのでしょう?

しみは消えてもいいはずでしょ?>

我々の体っていうのは
リニューアルされてるはずですよね。

でも どうして老けていくのか。

それは 完全にリニューアルする
事はできないんです。

皆さんが掃除をしても

部屋の隅とかに ちょっとは
ゴミが残ってしまいますよね。

それと同じように
細胞の中を作り替えても

少しだけ酸化物が残ったり

ちょっとだけ老廃物が
残ったりしてしまいます。

それが ちょっとずつちょっとずつ
蓄積していくというのが

老化という事なんですね。

<生命は機械ではない。

ハカセがいくら訴えても
しかし なかなかどうして。

機械論的な生命観は 私たちに
しっかり染み込んでいるようです>

<こちらの絵は
小さい子供が描いた人間です>

驚くべき事はですね
たった4歳の子供でも

もう機械論的な生命観に

染まってしまっている
という事です。

つまり人間はパーツから
できているというふうに。

目 鼻 口と手足から
人間はできてるというふうな。

でも この考え方が間違いだ
というのは

次のような思考実験をしてみれば
明らかです。

天才外科医のブラックジャック
みたいな人がやって来て

AさんからBさんに 鼻を
移植しようと考えたとしましょう。

Aさんから どういうふうに
鼻を切り取れば

鼻という機能を取り外して
Bさんに移植する事ができるか。

鼻というのは 実は
鼻の穴の奥の方の天井には

嗅覚上皮細胞というのがあって
そこで におい物質を感知して

その信号を
ずっと脳の奥に運んでいって。

だから 嗅覚という機能を
鼻と考えると

結局 体全体を持ってこないと

鼻という機能を
取り出せないわけです。

つまり 部品で我々はできてると
思いますけれども

実は みんな それは
つながっていて

一つの体として
機能を持っているんで

全ての部品は 相補的な関係で

どっか一部を切り出してくる事は
できないわけです。

生命には部品がないと。
生命には部分がない。

<更に人間が生命を機械と捉えると
怖い事が起きる>

<ハカセは警告します。

生命が連鎖する地球環境から

人間がリベンジされた例が
あるそうです>

<狂牛病です>

<狂牛病とは
牛の脳がスポンジ状になり

牛が異常行動を起こす病気です。

1986年
イギリスで発生しました。

原因は 牛の餌でした>

牛の餌って 一体何ですか?

牛は草食動物なんで
牧場で草を こう

のどかに食べてると
みんな思いますよね。

狂牛病にかかった牛のほとんどは
ミルクを出す乳牛だったんです。

で 乳牛たちは どんどん どんどん
ミルクを搾り取られるから

たくさんの栄養を
食べさせないといけないんです。

しかし ミルクを搾り取るために
高い餌を与えてたんでは

ミルクは安く作れないんで
できるだけ安くて

栄養価のある食べものを
食べさせられていました。

それは草なんかではなくて

「肉骨粉」と呼ばれる
飼料だったんです。

肉骨粉というのは
何かっていうと

実は 他の家畜の死体。

つまり 草食動物である牛を
肉食動物に

人工的に変えてたわけですね。
その方が経済効率がいいから。

で 狂牛病というのは

羊の「スクレイピー病」っていう
病気が餌に入り込んで

その餌を食べた牛が たくさん
病気になったという事が

分かってきたんです。
そうこうしてると 今度は

病気になった牛を食べた「人」が
人版の狂牛病になってしまう。

それは「ヤコブ病」という名前が
付いてますけれども。

いずれも
人間が勝手な都合で

生物の本来の「動的平衡」を
切断して組みかえてるせいで

こういう事が
起きてきてしまったわけですね。

<食べものが体をつくるのに
牛を肉食動物に変えたせいで

牛の「動的平衡」が崩れました>

<バランスを失った牛を
今度は人間が食べ

人間もバランスを崩しました>

つまり 動的平衡は

必ずしも 一つの生命の中で
起こってるだけではなくて

地球全体の生態系の中でも

動的平衡というのは
成り立っている。

<更にです。 機械論的な生命観は

いよいよ 人間の命そのものを
揺るがしています>

<「脳死」の問題です>

<ハカセの人生は 今

この生命哲学の問題との
格闘です>

脳死問題というのは

死ぬ時点が一体いつか
っていう考え方なんです。

「死ぬ」っていうのは 実は

ある瞬間に
死ぬわけじゃないんです。

我々の体っていうのは
37兆個もの細胞が

集まって できているんで
心臓が止まったりしても

体の細胞は
まだ大半は生きています。

だから 「死」っていうのは
本当は

どっかで
一点で起きるわけじゃなくて

まあ徐々に こう…
消えていくわけですよね。

でも 法律が決められなかったり
いろんな不都合があるんで

一応 その「死」っていうのは
ここで起きますっていうふうに

まあ 勝手に
分節点をつくったわけですね。

で その
古典的な死の瞬間というのは

心臓が止まる事と…。

呼吸が止まる事と それから

瞳孔の反射が消えてしまう
っていう事をもって。

でも 最近では

この「死」の基準を
もっと遡って

脳が死ねば
それが死だっていうふうに…。

なぜ こういう考え方が
できてきたかっていうと

新しい産業が生まれるからです。

新しい医療が生まれ

お金をもうけられる人が
増えるからですよね。

脳死を この時点にすると

まだ体は生きているのに
その時点では

もう その身体は
死んでいると見なせるっていう。

つまり 脳死というのは
臓器移植のために

死の地点を前倒しした

そういう分節的な
機械論的な生命観に基づく

生命の分断なわけです。

で これと全く同じ事が
生きる方にも言える。

脳が始まるところが
人間が始まるところと考えても

いいんじゃないかなって。

臓器を移植する事によって
救われる生命というのがあれば

それは本当に
幸せな事かもしれないけれども

でも人間は 経済システム
っていうのが できてって

いろんなものを
取り引きするようになったと。

で 行き着くところが
生きている人間の臓器を交換する。

「脳死」を限定して
それができるようになると

「いつから生まれたか」という事も
限定するようになるだろう。

その前に できている内臓は

まだ生まれている範疇にならない
とすると

利用できるっていう考えを
する人が出てくるだろうと。

仰天ですよね。

生命がいつ始まるかっていうのは
これまた非常に難しい問題で

受精卵という新しい状態が
できたところが 新しい生命の

一応 暫定的な出発点
というふうに考えると

もう ここから
生命は出発してるわけです。

しかし この「脳が始まる」という
概念を持ちだすと

胎児の脳が機能し始めた時が
人間の始まりだっていうふうに

考える考え方だって
成り立つわけですよ。

その 人間の脳が始まる時
というのは

この全体の妊娠期間の
4分の3ぐらいが終わった

この辺が
ようやく脳が始まって…。

いろんな反応ができて

意識が立ち上がってくるところが
あります。

だから 脳死が人の死ならば

脳が始まるところが
人間の始まりならば

更に この期間も
使えるわけですよね。

「使える」っていうのは
医療上あるいは生物学上の

ツールとして…。

だから実際に胎児の細胞を使って
新たな再生細胞をつくるとか

いろんな事に
使える事になるわけです。

これまた
機械論的な生命観による

生命の操作という事に
つながっていくわけです。

だから この「脳死」も
脳が始まる方の「脳始」も

人工的な切れ目なんで

この考え方は
医療の進歩でも何でもなくて

両側から我々の生命の時間を
短縮してくれているわけなんです。

♬~

<学生たちから
多くの質問が寄せられました>

もう 研究って苦悩だらけです。

99%は
失望から成り立っています。

つまり 実験をして

これはこうなってるに
違いないなと思っても

絶対そうはならないんです。

1%ぐらいは 思ったとおりになる
事があるんです。 でも それは

たまたま現れてるにすぎない
ような事が たくさんあるんで

これは出来すぎてるんじゃないか
って考えないといけないんです。

それを
そのまま信じてしまうと

STAP細胞みたいな…。
(笑い)

幻想に
とらわれてしまうんですね。

北里大学 獣医学部の
カガミと申します。

医学とか獣医学っていうのは
機械論的な生命観のもとで

発達してきた学問ですよね。

具体的に どういう考えを持って
日々の臨床にあたったりだとか…。

医学が学問であるためには
必ずエビデンスがいるし

でも 一人一人の人を
救うためにはですね

一人一人の人は それぞれ
固有の動的平衡状態を

保っているわけなので

エビデンスのような
平均化をしたり

標準的な治療で臨むと

一人一人の個別性っていうものは
消えてしまうわけですよね。

でも 医学や獣医学が有効なのは

結局 その
痛みを解放してあげるとか

問題を解決してあげる
っていう事が 実は

臨床の大事なポイントですよね。

で その時に
部品として見てしまうと

エビデンスや標準治療に
頼ってしまう

秀才型の医者に
なってしまうわけですよね。

膝が痛いっていう時に それは

膝という部品が悪いから
膝が痛いんじゃなくて

生命が動的平衡のバランスの上に
成り立っていて

そのアンバランスが病気となって
現れているっていう考え方を

いつも中心に置いて そっから
ものを考えるようにしたら

いいんじゃないかなと。
良い獣医さんになって下さい。

教養学部のカンダツと申します。

生物学を
学んでいるんですけれども

先生の考え方とかも
中学生の頃から

とても好きでした。
しかし 例えば

人がこうやって進化してきたのは
こういう意味があったのか

という話は ある意味
ひとつ説得力に欠けていて。

なぜなら それが 論証できない
サイエンスではないから。

疑念が残ってしまうところが
あると思うんですよ。

で 動的平衡の考え方も ある種
そのような類いのものに

属してしまうと
思っているんですけれども。

前半部分には
私も賛同します。

つまり生物の進化に関しては
実験できないし

その点では どうしても
生物学は物語になってしまう。

仮説になってしまう。

動的平衡も
ある種の見立てというか

それは どうしても検証する事は
なかなか難しいかもしれないです。

ただ 動的平衡を もうちょっと
皆さんに知って頂くためには

数学的なモデルを作る必要がある
というふうに考えて

他の文化圏の人にも
「動的平衡」というコンセプトを

伝えられるように
努力するようにしています。

私も 生命とは何なのかって
すごく疑問で

今日のお話を伺いに来たのですが
ただ お話の中で

「一つの生命の中だけでなく
生態系全体が

動的平衡を持っている」
という事でしたので

生命の定義というのは
見る視点によって

全然 変わってきて
考え方によっては

この地球全体 宇宙全体が
生命になるのかなと…。

お答えしましょう。 それは
まさに おっしゃるとおりで

「生命とは何か」っていう答えは

生命をどう定義するかによって
見方が変わってきます。

だから 「生命は動的平衡である」
っていう私の定義から見たら

細胞も生命だし

細胞と細胞の集合体である
我々も生命だし

個人が集まっている人間社会も
生命体だし

人間と他の生物との
地球全体も

一つの生命体だと
言う事ができると。

<顕微鏡を手にした瞬間から
始まった 福岡少年の冒険。

その問いに答えていた
人物がいます>

<ノーベル賞物理学者…>

<ハカセは 彼の日記に
引き寄せられました>

「物理学の自然というのは

自然をたわめた
不自然な作りものだ」。

これは 生物学に置き換える事が
できるんですね。

「生物学の自然」っていうのは
つまり 機械論的な自然観です。

でも その事によって
初めて見えてくる

ミクロな世界というのも
もちろん あるんです。

でも そこで終わってしまわずに
朝永先生は

「一度この作りものを通って

それからまた
本来の自然にもどるのが

学問の本質そのものだろう」
というふうに言ってるわけです。

これを
私に引き寄せて考えてみると

機械論的な自然というのは
「自然をたわめて」 つまり

人工的に作り替えて
不自然な状態として

整理して見てるわけです。
分節したり 部品化したりして。

でも 一度 そういうふうな見方を
通した上で 本来の自然に戻る。

つまり 本来の自然は
動的平衡としてあるんで

そこに戻るのが
学問の本質だろうと。

それから
彼は こんな事も言ってます。

「活動しゃしんで運動を見る方法が
つまり学問の方法だろう。

無限の連続を有限のコマに
かたづけてしまう」。

つまり 時間を止めて見てるんで
どうしても

一枚一枚の絵っていうのは
静止画像になってしまうわけです。

その静止画像を連続して
パラパラ漫画みたいにして

自然が動いてるっていうふうな
人工的な見方で

自然を見てしまってるわけですね。
でも本当は それは

もっと滑らかな時間として
連続しているものが

生命の本質だし…。

で 最後にですね 彼は

「絵描きは もっと他の方法で
運動をあらわしている」

というふうに書いています。

これを読んで「なるほど そうか」と
思った事がありまして。

私の趣味の話なんで
少しリラックスして

聞いて頂けたらと
思うんですけれども

この「真珠の耳飾りの少女」
っていうのは…。

<オランダの画家
フェルメールの作品。

実はフェルメールは

顕微鏡を発明した
レーウェンフックと同じ時代

同じ街で暮らした人物。

もしかしたら顕微鏡を
のぞいていたかもしれない。

そのフェルメールと自分が
重なるのだそうです>

少女が… 振り向きざまの一瞬を
描いているわけなんです。

絵というのは写真みたいに 時間が
止まってるようですけれども

画家は また違う形で
動き 時間を描いてると。

確かに この絵を見ると
彼女が次に何かをささやくのか

ここに至った時間と
こっから出発する時間が

この絵の中に 動きとして
込められてるわけですよね。

先人が既に
気が付いていた事なんで

それを私が言い直してるに
すぎないなというふうに思って

この文章を読みました。

♬~

どうもありがとうございました。

(拍手)

もちろん 動的平衡の生命観が
完璧だとは 僕は全く

思っていないんですけれども
それでも 一つ

生物学が
より 人間が問題に対して

的確なアプローチをするための
方法として動的平衡というのは

とても役に立つ
考え方なんだろうなと。

これからの時代って AIとか
コンピューターの発達によって

より 機械的に物事を考える
っていう人が

増えていくと思うんですね。
でも その中で

その動的平衡の感覚を
忘れないでいる事が

すごく大事なのかな
という事を考えました。

一人一人に 個別の動的平衡がある
っておっしゃってたのが

すごい印象に残って 私自身も
自分自身の動的平衡を

考えたいなと思いましたし
自分が接してる人にも

そういうものがあるんだな
っていう事を大切にして

生きていきたいな
というふうに…。

♬~


関連記事