昭和偉人伝 #118「浜圭介」 「終着駅」「哀しみ本線日本海」「舟唄」「雨の慕情」など、数々の名曲を…作曲家人生とは?


出典:『昭和偉人伝 #118「浜圭介」』の番組情報(EPGから引用)


[字]昭和偉人伝 #118「浜圭介」


「終着駅」「哀しみ本線日本海」「舟唄」「雨の慕情」など、数々の名曲を生んだ作曲家・浜圭介。彼がヒットメーカーと呼ばれるまでの波乱の道のりと曲作りの秘密に迫る!


詳細情報

番組内容

終戦直後、旧満州の収容所で生まれ、幼少期は青森、北海道などを転々とする。15歳で始めたダンスホールのアルバイトで歌う喜びに目覚めた浜は、翌年、歌手を目指して上京。2年後、牧宏次の芸名でデビューするも、鳴かず飛ばず…。青森に戻って屋台で懸命に働く中、見知らぬ女性から聞いた身の上話に突き動かされ、「おんな道」を書き上げる。一度は捨てた歌手の道を再び歩み出し、「おんな道」は30万枚を超えるヒットに。

番組内容2

しかしその後ヒットから遠ざかり、またもや歌手を諦める。だが、漣健児に誘われて行ったアメリカで、大ヒット曲「終着駅」が誕生。後に妻となる奥村チヨが歌い、ミリオンセラーに!順調に作曲家の道を歩むが、スランプが訪れる。それを救ったのは阿久悠の詞だった。「舟唄」「雨の慕情」「哀しみ本線日本海」など、人々の心を捉える歌を連発する。試練続きの浜がたどり着いた“浜圭介メロディー”、そして、作曲家人生とは?

出演者

【語り】國村隼

初回放送日

2018/12/12

番組概要

国家壊滅の状態から未曾有の成長を遂げた時代・昭和。そこには、時代を先導したリーダーがいた。そんな偉人たちを、独自取材と真実のインタビュー、さらには貴重な映像を交じえてつづる、波乱万丈の偉人伝。

番組ホームページ

<番組ホームページはこちら!>www.bs-asahi.co.jp/ijinden/

制作

BS朝日、JCTV



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昭和偉人伝 #118「浜圭介」 「終着駅」「哀しみ本線日本海」「舟唄」「雨の慕情」
  1. 浜圭介
  2. 奥村
  3. 昭和
  4. メロディー
  5. 歌手
  6. チヨ
  7. 奥村チヨ
  8. 本当
  9. 出会
  10. 終着駅


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それは
日本が育ち盛りの時代でした。

明日は 今日より きっと良くなる。

誰もが そう思っていた。

キラキラと輝いていた彼らが
時を超えて語りかける。

♬~

達者でやってるかい?

八代亜紀にレコード大賞の
栄誉をもたらした『雨の慕情』。

そして…。

アイドル歌手から一転

奥村チヨが

正統派シンガーに生まれ変わった
『終着駅』。

今宵の偉人は

ポップスから演歌まで
幅広いジャンルで

人々の心に残る
名曲を生み出した

っていうような
気がしちゃって。

なんかね そんな気がします。

あんなにも
色んなタイプのメロディーって

生まれるもんですかね?

何度くじけても立ち上がり

常に 新たな歌を追い求めてきた

浜圭介。

今宵は その波乱の生涯に迫り

名曲誕生の裏側に迫る。

憂いを帯びた歌声が心に響く
三善英史の『雨』。

そして…。

淡い恋心を幼い頃の記憶に重ねた
千葉紘子の『折鶴』。

叙情的なヒット曲を
次々に生み出し

評価を確かなものにした
浜圭介。

10代で 歌手になるため上京。

何度も夢を諦めかけたが

その都度
人との出会いに救われた。

本当に貧しいというか
ハングリーというか…。

いや 今の浜さんは
想像できないぐらい

一番 だから大変な時…。

「絶対 作曲家になるんだから」
って。

「いい曲書くよ」っていうのを

僕は どのぐらい聞いたか
わかんないですよ。

魂の奥底を揺さぶる
北原ミレイの『石狩挽歌』。

作詞家 なかにし礼が

渾身の一作を
浜に託した訳とは…。

八代亜紀の歌手人生を変えた名曲
『舟唄』。

歌謡界に新しい風を吹き込んだ
作詞家 阿久悠。

浜圭介を含め

人生の修羅場をくぐり抜けた
3人が

共に目指した夢の形。

二十歳を過ぎた森昌子が
初めて歌った大人の恋

『哀しみ本線日本海』。

とにかくね
先生の歌というのは

幅広いんですよ。

本当にね 童謡のような
優しいメロディー

家族愛がテーマだったりとか…。

全ての歌に
その情景が浮かぶんですよ。

ちあきなおみの隠れた名曲
『役者』。

浜が ちあきなおみとの
出会いから得たもの

それは 新たな自分の発見。

迫りくる哀愁 切ない歌声。

高山厳の『心凍らせて』。

命を懸けて歌と向き合う
浜圭介の原点とは…。

思いやりと思いっきりっていう
言葉をおっしゃった

その理由が…。

だからね… でも こうやって
生きてるからね

僕は 好きに人生をね

思いっきり あの…
生きる事にしたっていう事を

おっしゃってましたね。

半世紀を超える音楽人生を

共に支え合った夫婦の愛。

そして 浜を慈しみ

何があっても味方になってくれた
母。

阿鼻叫喚の中国大陸で

固く結ばれた親子の絆。

子どもを5人連れて…。

あの状況の中での…。

私の母体に
入ってたんじゃないかというのを

つくづく感じる事がありますね。

人は誰しも
一人では生きていけない。

誰かを思う心が 優しさを生み
歌となる。

どん底の苦しみから立ち上がり

湧き上がる思いを
メロディーにのせ

人々の心に届け続けた 浜圭介。

学ぶべき世界が ここにある。

昭和45年に開かれた 大阪万博。

この世界的なイベントの成功で

戦後日本の高度経済成長は
ピークを迎えた。

しかし 翌 昭和46年

日本経済は陰りを見せ

国際競争の荒波が押し寄せる。

一方 歌謡界では
一人の女性歌手が

それまでのイメージを破り
大海原に漕ぎ出そうとしていた。

昭和46年
『終着駅』を歌った 奥村チヨ。

和製シルヴィ・バルタンと呼ばれた
元祖アイドル歌手。

だが 奥村本人は

小悪魔的な魅力を
アピールする路線が

本来の自分と かけ離れている事に
悩んでいた。

そんな時
『終着駅』と出会ったのである。

奥村チヨ本人に

初めて曲を聴いた時の

印象を尋ねた。

「落葉の…」って 出だしから

なんか フランス映画のような
映画音楽のような…。

って鳥肌立っちゃったんですね。

で 私 こういう歌を

大人の歌い手として歌いたい
って言って

すぐね ディレクターに
電話入れたんですね。

奥村チヨが
初対面で惚れ込んだ『終着駅』。

作詞は
のちに山口百恵の『青い果実』など

数多くのヒット曲を生む
千家和也。

作曲は これが
初めてのヒット曲となる浜圭介。

浜と千家は同い年で
当時25歳。

10代で歌手としてデビューした
浜圭介は

売れない歌手人生に終止符を打ち

作曲家一本で生きると決めた。

ようやく手応えを感じた
『終着駅』。

だが ヒットまでには
さらなるドラマがあった。

昭和40年代中頃。

まだ
駆け出しの作曲家だった浜は

所属する事務所の代表で

日本に洋楽の
カバー・ポップスを根付かせた

訳詞家 漣健児の
アメリカ旅行に参加。

最新ポップスを肌で体験した。

浜にとって 初めての海外旅行は

刺激に満ちたものだった。

その最終日
ニューヨークのホテルで

漣は 浜に声を掛けた。

その時の様子を浜圭介本人は…。

「う~ん…」と こう 悩んでね。

書けるかどうか
わかんないじゃないですか。

で ポッと こう
ビルの外を見ると

雨で ビルが もう
灰色になってるのね。

もう 空も見えないね。

それで こう…

こう 考えてるうちに

♬~「ティラ リラ リラ リラ」

って このメロディーが
こう 落ちてくるんですよ。

うん。 あの…
メロディーが落ちてくるって

この事を言うのかなって… ねえ。

帰国した浜は

飲み仲間で まだ無名だった
作詞家 千家和也に連絡。

お金がない時に
いつも たむろしてた

スナックがあるんですよ。

で そこのマスターは いつも…

「出世払い 出世払い」って
言ってくれて…。

いつも タダ酒 飲んだんだけどね。

そこでね ギターでね…。

♬~「タリリラ リラリラ リラリラ
リリラリラリ」

って 言うんですよ。

メロディーを受け取った千家は
早速 詞を書き上げてきた。

その時 千家の付けたタイトルが
『終着駅』。

♬~「落葉の舞い散る 停車場は」

♬~「悲しい女の 吹きだまり」

♬~「だから今日もひとり
明日もひとり」

♬~「過去から逃げてくる」

というね…。 僕はね これを

ギターで弾いて
歌詞を歌って…。

もう 鳥肌が立っちゃったの。

こういう歌謡曲って
なかったの 今まで。

絶対の自信を持ち

曲の売り込みを始めた
浜圭介だったが

レコード会社の反応は鈍い。

浜は 諦めずに
売り込みを続けたが

他のレコード会社も
同じような対応だった。

思い余った浜は

事務所の代表である
漣健児に相談すると…。

彼の弟は 東芝レコードの
ディレクターだった 草野浩二。

草野は 坂本九や森山加代子
奥村チヨら

ポップス系の
人気歌手を担当する

第一線の花形ディレクター。

その草野浩二に
当時の話を聞いた。

奥村チヨは すでに決まっていた
新曲と差し替えてまで

『終着駅』を歌いたいと訴えた。

レコード会社 行って

ちょうど 宣伝会議
やってらっしゃってて…。

「えー」って言われたんですけど…。

これを出してくださらなかったら
私 歌い手 辞めます

って言ったら みんな また
「えー」ってなっちゃって…。

作り手と歌い手の熱意が重なった
『終着駅』。

レコードが売り出され

すさまじい勢いで
ヒットチャートを駆け上がり

程なく ベスト10入りした。

ベスト10に入った時は

「えー ウソ ウソ ウソ」って
すっごい嬉しかったですね。

それから
今日があるんですけれど…。

本当に この『終着駅』は
私にとっては

本当に大事な大事な宝物です。
はい。

「売れっこないじゃん」
って言った… ねえ。

そんな事ないよ。

だからね 人生って
わかんないもんですよね。

予想をはるかに超えた
『終着駅』の大ヒット。

これで周囲に認められるものだと
考えた。

ところが…。

落胆する浜に
一人の新人が紹介された。

「あんめにぃ~」って
こうくるわけです。

おっ…! 誰も教えてない
味みたいなのが入るわけ。

これは面白い。

浜は
三善の独特なこぶしを生かして

メロディーを書いた。

その曲が…。

昭和47年
三善英史のデビュー曲 『雨』。

この曲で 三善は
レコード大賞新人賞を獲得。

作詞は『終着駅』と同じく
千家和也。

続いて こちらのヒット曲も…。

内山田洋とクール・ファイブの
『そして、神戸』。

港町・神戸を舞台にした
出会いと別れ。

クール・ファイブの代表曲の一つ。

この曲の作詞も 千家和也。

当時の浜は

次々に あふれ出るメロディーを
書き留め 千家に送っていた。

時代っていうかな。

多かったでしょう。

だから やっぱり

そういう意味で ガムシャラに
いっぱい書きましたね。

でもね よくね

浜は 『終着駅』 『雨』
『そして、神戸』と

3曲連続でヒット曲を生み
結果を出した。

周囲も その実力を
認めざるを得なくなったのである。

浜を兄のように慕う
歌手 森昌子は…。

ご自分が
やはり 歌ってらっしゃるから

歌い手の気持ちがね
よくわかるんですよね。

とにかくね 先生の歌というのは
幅広いんですよ。

本当にね 童謡のような
優しいメロディー。

家族愛がテーマだったりとか。

全ての歌にね
その情景が浮かぶんですよ。

本当に やっぱり
当代一だと思いますね。

作曲家 浜圭介が歩んできた道。

それは 波瀾万丈を
絵に描いたようなもの。

さらに その道をさかのぼると

銃弾が飛び交う中国大陸の荒野で

命からがら逃げ惑った
母親と浜圭介。

大きな苦難が待ち受けていた。

昭和47年
千葉紘子が歌った『折鶴』は

今もファンに愛される
浜圭介の名曲。

作詞は
『わたしの城下町』の安井かずみ。

幼い頃の記憶が郷愁を誘う
叙情的な作品。

しかし 浜圭介の記憶に
ふるさとの情景は残っていない。

ただ 体の中に染みついた何かを
感じる事がある。

それは 母親の胎内にいた時に

母の目や耳を通じて
伝わったものかもしれない。

昭和21年4月

浜圭介 本名 金野孝は

旧満州 現在の中国東北部にある
林口で生まれた。

そこは 武装解除された日本兵や
民間人が集められた

捕虜収容所だった。

その8カ月前に
時計の針を巻き戻すと…。

昭和20年8月9日

日ソ中立条約を破棄して

ソ連軍が
日本の関東軍に攻撃を開始した。

浜の父親は 兵隊に取られて留守。

母 きみえは
幼子の手を引いて

山の中を逃げ回った。

もし ソ連兵に見つかったら

親子ともども自害する覚悟。

この時 母のお腹には
浜の命が宿っていた。

子どもを5人連れて…。

逃げ回って その…。

もしも
ロシアの軍に見つかったら

子どもたちを3人
自分でね 楽にさせて…。

そして おふくろ本人は

自分で自決しよう
という考えだったらしいですね。

親子が
山の中を逃げ回っていた時

運良く出くわした旧日本兵が

親子を
捕虜収容所に連れていってくれた。

浜は
そこで産声を上げたのである。

あの状況の中での…。

じゃないかというのを

つくづく感じる事がありますね。

昭和22年 浜親子は
引き揚げ船で舞鶴港に到着。

ソ連軍の侵攻で
山中に逃げ込んでから

2年がかりで
ようやく祖国の土を踏んだ。

一家は 友人を頼り
青森県 大鰐町に移り住む。

城下町 弘前に近く
雪深い山あいの町。

終戦で復員した父は

単身 北海道に渡り
札幌の町で働いた。

その間 母は

父からの
わずかな仕送りを頼りに

貧しい暮らしの中で
子どもたちを育てたのである。

本当に家族5人がね もう…

天井の低いね 確か お部屋に
住んでたと思うんですけど

子どもはね 歩けるんですけども

大人は… 中腰になって歩いてる姿
っていうのは

子ども心 覚えてますよね。

本当に もう…。

生きる事にね…。

のちに 浜圭介が作曲した
大鰐小学校の校歌。

浜は この小学校に
2年まで在籍していた。

作詞家 渡辺なつみは
浜と数多くの仕事を共にした仲。

浜に頼まれ 彼の母校に
校歌の詞を書いたという。

どれだけ大鰐の皆様が
浜さんとか お母様に

よくしてくだすったかという事を
すごく言われて。

恩返しをしたいっておっしゃる。

昭和29年
浜が 小学校2年の時

父親が
札幌に家族を呼び寄せた。

札幌の小学校に転校したあと
浜に友達はできなかった。

津軽弁のなまりを気にして

人と
しゃべりたくなかったのである。

そんな浜の人生を変えたのが
歌だった。

音楽の授業で歌った
『春の小川』。

ソプラノのような声質で
歌ったんだね あの頃。

透明感があって。

そしたらね 先生もびっくりするし
生徒もびっくりするし。

もう その辺から

歌の持つ力を実感した浜は
人前で歌う事が大好きになった。

当時 浜が よく歌っていたのは

三橋美智也や
春日八郎 美空ひばりなどの歌。

その後 中学に上がると
浜の興味は洋楽へ。

♬~「You are my destiny」

♬~「you are what
you are to me」

浜は 当時人気だった

ポール・アンカや
エルビス・プレスリーら

ロカビリー音楽のスターに夢中。

中学2年の途中から
札幌市内のダンスホールで

バンドボーイの
アルバイトを始めた。

時には 店のステージで歌う事も。

中学校に入って

自分自身は もう
高校 大学っていう事は

一切 考えてなかったですね。

というのは やっぱり
うちが 非常に苦しかったし。

っていうね
そういう思いが強かったですね。

浜は
母にだけ 夢を打ち明けていた。

ところが…。

バンドボーイのアルバイトを
始めた事は

父には内緒だった。

厳格な父は
浜が歌手を目指していると知り

すさまじい剣幕で怒った。

そういう世界は もう

ただ そういう意味では
おふくろはね

いつも後押ししてくれて。

母は 父との間を
取り持ってくれたが

歌手になりたい思いは

日増しに強くなる。

高校1年の時

テレビ番組の
コンテストに出て

優勝した事もある。

浜の夢は さらに膨らんだ。

コンテストの優勝をきっかけに

浜は 東京に出て
歌手になる決心をする。

父からは勘当され

見送ってくれたのは
母だけだった。

(汽笛)

浜は 2年生の途中で 高校を中退。

青函連絡船と汽車を乗り継ぎ

2日がかりで
東京にたどり着いた。

歌手を志望する
ティーンエージャーにとって

東京は まぶしい光を放つ夢の街。

しかし そのあと

数多くの試練が
待ち受けている事を

浜少年は
知る由もない。

『月影のナポリ』は
森山加代子のヒット曲。

同じ北海道育ちの森山に誘われ

浜圭介は
森山と同じ事務所に所属した。

昭和39年 浜は

「牧宏次」の芸名で
待望の歌手デビュー。

ところが 全く売れない。

つらい地方巡業を続けるうちに

熱かった歌への思いが
次第に冷めていく。

その後 事務所を辞め

アルバイトをしながら
悶々とした日々を過ごした。

思い出すのは 母の事。

母からは 励ましの手紙が
幾度となく届いた。

全て平仮名で
大きく書かれた文字。

「がんばっているかい」。

おふくろって
手紙書いた事がないんでね。

それで あの… 平仮名でね
びっしりと平仮名で書いてね

手紙を送ってきてね。
「がんばってやってる?」って。

それには感動しましたよね。
ええ。

ある時 浜は
母を思って こんな詞を書いた。

それから浜は 日記を書くように
歌作りを始める。

すると 浜の作った歌が認められ
「大木賢」の芸名で再デビューへ。

シンガーソングライターの
はしりであり

浜は 芸能雑誌に取り上げられ

ファンも つき始めた。

ところが 浜は 自らの手で
チャンスをふいにする。

新しい事務所との
契約トラブルから

浜は 決まっていた生番組の出演を
ボイコットし

穴を開けてしまったのである。

事務所との… 僕との折り合いが
ちょっと まずくなっちゃって。

結局はね 僕のわがままですよね。

もう 若気の至りじゃ
済まないですけど。

わがままで… 事務所とケンカして
事務所を離れるんです。

どんな事情があっても

仕事に穴を開ける事は
許されない。

総スカンを食った浜は

歌の世界で
居場所を失う。

昭和43年 まだ雪の舞う3月。

失意の浜は 汽車に揺られて
青森までたどり着いた。

連絡船に乗って津軽海峡を渡れば
家族が住む北海道に帰れる。

母に会いたい…。

みんなね
僕が東京に出てくる時に

「頑張れよ」って
言って…。

みんなが
僕に期待してくれた。

それがね ワーッと頭の中をね
やっぱり よぎるんですね。

それでね
津軽は もう渡れないなと。

結局 浜は

小学校時代の友人がいる
弘前に向かった。

部屋を開けたらね
まあ 布団が万年床で

ずっと敷いてあるんですね あれ。

いや もう ひっどい所でね。

着の身着のまま寝ました。

翌朝 パッと目が覚めたらね

ちょうど… ボロ屋ですから

窓の隙間からね
こう 粉雪がスーッとね

僕の ちょうど 枕元にね

粉雪が サーッと こうね…
あったんですね。

それを見た時にね…

初めて泣きましたね。
「おふくろ」っつって。

ええ… 本当に
俺は バカな事をしたなと。

弘前で暮らし始めた浜圭介。

この町は
東北随一の桜の名所。

さくらまつりの時期になり

屋台で食べ物を売る
アルバイトを始めた。

売れ残りが出ると

焼きそばや おでんを
使い捨て容器に詰め

花見客に売りさばいた。

浜は
屋台を仕切る的屋の人たちから

かわいがられた。

ある時 ふらりと入った居酒屋で

浜は 隣り合わせた
五十がらみの女性と話をした。

その女性は
花街で働く芸者だと言った。

泥水をすするような
彼女の身の上話に引き込まれ

気がつくと 浜は涙を流していた。

浜は たまたま隣り合わせた
女性の人生を

筆の赴くまま詞に書き起こし
曲を付けた。

タイトルは『おんな道』。

この歌をですね
全国から来てる

寅さんのような香具師の人たちに
聞かせたんですよ。

そしたらね…。

あの声がなかったら
僕は きっともって…

再度 東京に
戻ってこなかったですね。

もし 津軽海峡を渡っていたら
『おんな道』は生まれなかった。

回り道の末 浜圭介は
再び東京に出ると決めた。

その決断が 作曲家への道を
切り開いたのである。

夢をかなえるため

故郷を離れ 東京に出た浜圭介。

ふるさとを思い
家族の励ましに支えられながら

どん底で下積みの日々を送った。

のちに 浜と共に
ヒット曲『舟唄』作り上げた

作詞家 阿久悠と
歌手 八代亜紀。

この2人も
波乱の人生を生き抜いていた。

八代亜紀は 熊本県八代市出身。

駆け落ち同然で結婚した両親との

貧しい暮らし。

八代は
父のひざの上で浪曲を聴きながら

歌手を夢見る少女に育った。

働き者の両親は

仕事を掛け持ちして
懸命に働いたが

貧しさから抜け出せない。

正月用の餅が買えず

豆腐で間に合わせた事も。

八代は
高校進学を諦めて バスガイドに。

それでも 歌手になりたかった。

八代の訴えに 父は猛反対。

だが 彼女の本心は
別のところにあった。

年齢をごまかして
クラブ歌手となり

やがて
レコードデビューを果たす。

ところが マネジャーにだまされて
ギャラを持ち逃げされ

借金を返すために
地方のキャバレー回りへ。

八代が 出世作『なみだ恋』を
手にするまで

上京してから8年の歳月が
必要だった。

そして 浜圭介との出会いが

さらなるヒットを生む。

昭和54年の『舟唄』。

作詞を手掛けたのは

昭和歌謡に一時代を築いた
阿久悠。

阿久は輝かしい実績の反面

心の奥に
いつも負い目を抱えながら

人生を歩んできた。

阿久悠は 昭和12年
兵庫県 淡路島に生まれた。

のちに歌謡界に君臨する
女王 美空ひばりと同い年。

阿久は 大都会 東京への
強い憧れを抱きながら成長する。

子どもの頃
海で溺れかけた事がある。

その時
阿久の脳裏によぎった思い…。

そして もう一人

阿久悠の人生に
大きな影響を与えた父 友義。

警察官を務め上げ
厳格で実直な父と

気まぐれな大衆を相手に
一喜一憂する息子。

真っ当に生きた父の背中は
越えられない壁に見えた。

父上と美空ひばり
2人への強烈な負い目から

阿久は時代を動かす事で
存在を示そうとした。

阿久悠 八代亜紀 そして浜圭介

3人それぞれが人生を懸け
新しい歌作りに挑んだ。

八代亜紀は
出来上がった歌を聴いて

体が震えたという。

『舟唄』を違う人が歌ったら
いったかどうかって事は

また これは…
クエスチョンでしょうね。

クエスチョンマークですね。

やっぱり 八代さんの
あの世界でやったから

やっぱり収まったのかなと
私は思うね。

親の猛反対を振り切り

歌に人生を懸けた
浜圭介 八代亜紀。

故郷への複雑な思いと
コンプレックスをバネに

歌謡界を席巻した阿久悠。

3人の出会いが
『舟唄』という名曲に実を結んだ。

そして その『舟唄』が

3人の人生を
大きく変えたのである。

弘前で出会った女性の
身の上話から生まれた『おんな道』。

一度は夢破れ
どん底でもがいた浜圭介は

出会った人々の温もりに
背中を押され 再び上京した。

その行く手は 依然として
いばらの道が続いていた。

知り合いの家を転々としながら

レコード会社を回り
自作の曲を売り込む。

電車代を浮かすため
往復 数時間かけて歩いた。

だが 浜が作った歌に
興味を示す者は いない。

それでね

雨が降っていようもんだったらね

もう 靴底がね穴が空いててね

そこから入ってくるんですよ
雨がね。

この虚しさという…
もう これはね

何とも言えなかったね。

そんなある日 浜は
都内のスナックで

一人の若者と出会い
意気投合する。

彼の名は 北原照久。

現在 ブリキのおもちゃ博物館
館長を務め

世界的おもちゃコレクターの
北原が語る 浜との出会い。

初めて会っても気の合う人って
世の中にはいるんですよ。

浜さんがね いや 今 住む所をね…
探しているのかな…。

「住むとこ ないんだ」
みたいな感じなんですよ。

そんな話をしている時に

うちの母って
ものすごい面倒見がいいんです。

もう あの… 面倒見が良くて。

っていう事で。

それで 半年間
家に一緒にいたんです。

照ちゃんのお部屋で
半年間 ゆっくりと…。

そういう部分で…
あそこがあったからこそ

今の自分が
あるんじゃないですか?

もう ただ 鼻歌で

「ダンダンデッ」て…
メロディー書くんだけど

その時ね…。

って言うんですよ。

そこで 北原が5000円で
手に入れたのが このギター。

ギターで「トロロロン
トロントロン トロントン」って

こう なんか
「プルプルプル」って弾くと

そこに もう メロディーがあって

こんなにメロディーが
湧き出るように出てくる人って

世の中には いるんだなって…。

まあ
びっくりしたのを覚えてます。

半年後
浜は 北原家の居候を卒業し

原宿の外れに
狭いアパートを借りた。

部屋に電話はなく

売り込みに行った
レコード会社からの返事は

電報だった。

本当に 貧しいというか
ハングリーというか…。

いや 今の浜さんは
想像できないぐらい

一番 だから 大変な時…。

「絶対 作曲家になるんだから」
って。

「いい曲書くよ」っていうのを
もう 日常の言葉の中で

どれだけ
出てくるかっていうぐらい

浜さんは 作曲家になるという事を
言っていました。

ある時 いつものように
電報を受け取った浜は

そこに書いてある文字を見て
驚いた。

電報の差出人は…。

坂本九の はつらつとしたボーカル
『ステキなタイミング』。

この歌をプロデュースした

カバーポップスにパイオニア
漣健児が電報の主。

漣は 浜と専属契約を結び

さらに アメリカで

本場のジャズやロックを聴かせた。

その貴重な体験が

『終着駅』誕生に繋がったのである。

さらに 浜の生き方は
北原照久の人生も変えた。

浜との出会いがなければ

ブリキのおもちゃ博物館は
なかったと言う。

浜さんが
作曲家になりたいという…。

それを 全然ないところから
あるところに移行していった

それを
僕が見てるじゃないですか。

夢は実現していくんだっていう

もう 最高のお手本なんです
浜さんが。

だから 浜さんと
もし出会わなかったら

僕の人生は また 本当に

別なものに
なっていたかもわからないし…。

どん底で もがき苦しみ

歌を諦める
ギリギリまで追い詰められた

浜圭介。

人との出会いに恵まれ

作曲家として再出発を果たした。

ここから 浜の快進撃が始まる。

昭和48年
堺正章が歌った『街の灯り』は

テレビドラマの挿入歌。

浜圭介は 『街の灯り』と

前年のヒット曲
『そして、神戸』が評価され

日本レコード大賞 作曲賞を受賞。

音楽関係者に実力を認められ

その後の作曲家生活も
順風満帆に思えた。

ところが…。

レコード会場のパーティー会場で

浜は歌謡界の重鎮
古賀政男から声を掛けられた。

その言葉は
大きな自信になった一方

逆にプレッシャーにもなった。

そんな浜のもとに
一編の詞が届いた。

送り主は 作詞家 なかにし礼。

なかにしは 奥村チヨのヒット曲
『恋の奴隷』など

昭和歌謡の全盛期に
数多くの名曲を残した。

その なかにしが

浜を指名して 歌作りを始めた
真意をひも解いてみよう。

なかにし礼は
中国東北部の出身で

終戦直後 苦労の末
内地に引き揚げた経験など

生い立ちに 浜との共通点が多い。

なかにしから送られてきた詞には
すでにタイトルがついていた。

パッと こう 詞を見たら
『石狩挽歌』って…。

これは文学だと思ってね。

おい これ書くんだと思って…。

生半可な気持ちじゃ
これはね いけんなと思って…。

で 始めたの。

それでね
一生懸命やるんだけどね

なかなか出てこないの。

なかにしから託された詞は
1コーラスが長く

メロディーをつけるのに
大変な手間が掛かった。

何度やり直しても
うまくいかない。

気がつけば

浜が詞を受け取ってから
1カ月が過ぎていた。

書いては破り
書いては また破りを繰り返し

自問自答を重ねるうち
ふと ある音楽が浮かんできた。

それは…。

ここから来たんですよ。

「ヤーレン ソーラン」の続きが

「海猫が鳴くから」来たんですよ。

♬~「ヤーレン ソーラン ソーラン
海猫が鳴くから」

♬~「ニシンが来ると」

…って来ちゃったの。
これは 詞にピッタリだと。

それで一気に書いちゃった。

昭和50年 北原ミレイ 『石狩挽歌』。

普通のメロディーでいくと…。

♬~「あれから」

って こうやって4分音符を…
繋がる。 で あれは…。

♬~「あれからニシンは」

って あの 16分音符を
こう 繋げていく。

あれが16分音符。

こういう歌謡曲っつうのは
今まで なかった。

これから 自分が書く上においての
あのメロディーが

色んなメロディーを
生んでくれたんですね。

だから もう…。

同じような境遇を乗り越え
歌作りの世界に飛び込んだ

浜圭介と なかにし礼。

2人ががっぷり四つに組んだ
『石狩挽歌』は

過去の歌を捨て
ゼロからスタートした浜にとって

新境地を開いた作品となる。

16分音符を多用した『石狩挽歌』で

演歌の新たなスタイルを確立した
浜圭介。

そんな浜の創作意欲を

作詞家 阿久悠が さらに刺激する。

名曲『舟唄』に続き
八代亜紀に提供した作品が

浜に大きな栄誉をもたらした。

そもそも 『舟唄』を作る前に
阿久悠と浜圭介は

明確な目標を設定していた。

のちに 阿久が こう述べている。

当初 阿久と浜は
『舟唄』を手始めに

ホップ ステップ ジャンプ
のように

3作品かけて レコード大賞を狙う
もくろみだった。

ところが
『舟唄』の仕上がりが良く

続く第2弾も 大衆から
予想を超える人気を集めた。

その歌が

八代亜紀は
夕暮れ時の似合う女だなって

僕の中であったから

その夕暮れの感じで
ちょっとテンポアップしたら

どんなものかなって
あのメロディーのとこに…。

♬~「雨雨ふれふれ もっとふれ」

八代亜紀自身も この作品に
大きな手応えを感じていた。

リズムがね ちょうど…。

童謡の中に ちょうど
タントン トントン…。

ちょうど 雨降ると
こうするでしょ? みんな。

そう 自然と… 「ふれふれ」。

こんなジェスチャーに
なったんですよね。

で それが もう 本当に
ちっちゃい おチビさんまでが

色んな所で 砂場とかで遊んでて
あの…

こう ずっと これ… やってる。
よく見かけましたね。 はい。

八代亜紀オリジナルの
振り付け効果もあり

子どもから大人まで
幅広く愛された『雨の慕情』は

昭和55年度
日本レコード大賞を受賞。

八代はもちろん 浜にとっても
初のグランプリ獲得だった。

『石狩挽歌』を生んだ事によって
あの『舟唄』が生まれるわけです。

『舟唄』の次が『雨の慕情』なんです。

♬~「タラララ リラリラ」

あれも16分音符なんです。

名曲『舟唄』 『雨の慕情』
誕生の裏には

浜メロディーの原点である
『石狩挽歌』の存在があった。

そして 浜圭介の歌は

彼の世界を演じる歌い手の力で

さらに輝きを増していく。

浜の作品を
美空ひばりがカバーした

『ひとり旅』。

歌詞に出てくる
「リンゴ追分」の言葉が縁で

ひばりは
この曲をレパートリーに入れた。

ひばりが歌う場合は

本家本元
『リンゴ追分』も聴かせてくれる。

そして この大スターの歌も…。

昭和57年 石原裕次郎
『時間よお前は…』。

人気テレビドラマ
『西部警察 PART-Ⅱ』の

エンディングテーマ。

ある時 裕次郎は

なかにし礼を料亭に呼び出して
座敷の上座を譲り

両手をついて 頼んだという。

それが『西部警察』テーマ曲の
制作依頼だった。

なかにしは 『石狩挽歌』の成功で
信頼できる浜圭介に

曲作りを任せたのである。

浜圭介との出会いによって

歌手人生に影響を受けた
歌い手は多い。

森昌子も その一人。

昭和56年 『哀しみ本線日本海』。

作詞は『時の流れに身をまかせ』の
荒木とよひさ。

曲のコンセプトは
22歳の森昌子が

大人の恋の歌に挑戦する事。

当時のいきさつを
森昌子本人に聞いた。

私も 非常に やっぱり
その頃 歌に対して

悩んでたんですね。

学園ものからデビューして

青春歌謡を歌ったり。

この先 自分が
どういう方向性の歌を

歌っていったら
いいんだろうかと

一人で 悩んでいた時期でも
ありましたので。

あの歌を最初に聴いた時は
もう本当 非常に衝撃的でした。

♬~「ダララン ダラララン
ダラララ ラララン」

っていうメロディーが
入って来た時に…。

って思ったんですね。

大人の歌手へ
第一歩を踏み出した森昌子に

浜は 次なる作品を手渡す。

昭和57年 『立待岬』。

それまでは

歌わされているという自分が
いたんですね

色んな楽曲に…。

でも 浜先生の歌で

自分は 本当に
歌手としてやっていけるという

自信がつきましたね。

浜は 海を渡った韓国でも
印象に残る出会いを経験した。

昭和60年 『大阪暮色』。

作詞作曲を手掛けた浜は

韓国の人気歌手 桂銀淑を

日本に呼び寄せた。

大阪弁の入った歌っていうのは
あんまりないんで… 当時は。

誰に歌わそうかって…。

八代さんは もう
いい作品がいっぱいあるし…。

そうだ。

あのルックスで
あの かすれ声で 関西弁で…。

これは 今の歌謡界 誰もいないと。

そして 昭和63年

浜は 今や伝説となった
あの歌姫にメロディーを捧げた。

ちあきなおみの『役者』。

作詞は 荒木とよひさ。

レコーディングの時にね

ブースの中をね 全部
カーテンで仕切っちゃってね

歌ってる姿を
見せてくれなかったの。

ブースの中でね 彼女は
やっぱり 演技をしたんだろうな。

完璧な歌唱だったね。 うん。

ちあきさんのような人
もう出ないしね。

昭和が終わり 平成の時代へ。

常に新しい出会いを求めてきた

浜圭介は

40代を迎えて
大人の歌を書きたいと願っていた。

そこへ現れた歌手が 高山厳。

すんごい いい声してるんですよ
彼の声質が。

大体 作曲家ってね 一番最初に
何を惚れるかっていうと

声質なんですね。

浜は 高山の声に惚れ込み

メロディーを書き上げる。

平成4年 『心凍らせて』。

デビュー18年目

高山厳が やっとつかんだ
ヒット曲。

そして 平成30年

森昌子は
デビューして46年目を迎えた。

60歳… 還暦という事で
記念曲にしたい

恩返しがしたいという意味で

どなたに作って頂くのが
いいのかなって

スタッフと 色々 会議とか
話し合いをしたんですけれども

やっぱり 森昌子を

一番わかってくださっている
先生に頼むのが

一番だろうという事で

もう すぐ
浜先生のお名前が出て。

平成30年の新曲
『あなたの愛に包まれながら』は

浜圭介からのメッセージ。

僕とね なんか こう…
昌子さんっていうのはね

なんだろうな。

なんか 兄妹みたいな感じ
するんだよな。

作品においてね 僕の残せる範囲

ある範囲のね 新しいものを

作っていってあげたいなと
思いますね。

数多くの歌い手と共に

音楽人生を豊かなものにしてきた

浜圭介。

そして 浜にとって
なくてはならない表現者であり

生涯の伴侶 奥村チヨに
決断の時が近づいていた。

最高の伴侶は

歌のベストパートナーでもある。

浜圭介 奥村チヨの『北空港』。

今も 芸能界きっての
おしどり夫婦と呼ばれる

浜圭介と奥村チヨ。

ここで 2人の愛の軌跡を
たどってみよう。

初めて会った時って
なんて こう…

真面目な… 真面目すぎる。

おとなしい。

いつも スタジオの隅に
ちょんといて。

えっ
こんな人もいるんだと思って。

この人は
すごいクールだなと思って。

そんな印象でしたね。

昭和47年 『終着駅』で

『紅白歌合戦』出場を決めた
奥村チヨが

感謝の気持ちから
浜を自宅に招いた。

ところが 根がシャイな浜は

照れ隠しに 酒を飲みすぎて
具合が悪くなり…。

その時 奥村が 冷たいおしぼりを
浜の額にのせてくれた。

意外に家庭的な奥村に
浜は 一瞬で心を奪われた。

その後 浜は 猛アタックを開始。

奥村のスケジュールを調べて

地方に先回りし

偶然を装って声をかけた。

1回はね 博多なんですよ。

ホテルも どこ泊まってるかって
わかってるから

自分も そこに泊まって。

ばったり会う…。

と こう言って。

「いや まだですけど」って
言うから

「じゃあ みんな あれ」…。

もう スタンバイ
してるんだけどね。

また クリスマスには

函館に先回りして

浜自身が
部屋を飾って料理を作り

パーティーを開いた事も。

電飾がきれいで…。

ええ すごい人! と思って。

オードブルも きれいに並んで。

手作りですよ 全部。
要するに サプライズ。

すごい人だなと思って。

その時に やっぱり 異性として

なんて
あったかい人なんだろうと。

意識したのは その時ですね。

そして プロポーズの言葉は
ストレートに。

自信あふれる その言葉に

奥村は
思わず オーケーの返事をした。

って言われた時に

えっ? なんて
ずうずうしい人だろうと思って。

だって お付き合いしないと
性格わかんないじゃないですか。

それなのに そういうふうに
言い切っちゃったから…。

やっぱり
すごい人だなって。

ところが 当時の奥村チヨは

人気絶頂のスター歌手。

2人の願いが
やすやすと かなうはずもない。

それでも 浜と奥村は
周囲を根気よく説得し

昭和49年 結婚にこぎつける。

この時 新郎28歳 新婦27歳。

東芝レコードで 奥村チヨの
担当ディレクターだった

草野浩二は…。

結婚が決まると 浜は

奥村を 母 きみえに紹介した。

母は 2人の前で

こう話したという。

彼女は気さくですから。

すぐ中に入っていく。

だから

あんな喜んだ
おふくろの顔見たの初めて。

結婚後 互いに話し合った結果

奥村は 仕事を休み家庭に入った。

結婚したての時は どうしても

奥村チヨの夫 浜圭介って
なってたんで。

やっぱり… 浜圭介の奥さんは
奥村チヨってなりたかったんで。

家庭に入り 良き妻として
尽くしてくれた奥村に

浜は感謝しながら
仕事の幅をさらに広げていく。

結婚から数年経った ある日の事。

車の中から窓越しに
奥村の姿を見かけた。

妻は
買い物かごを提げて歩いていた。

やっぱり もったいないし

歌った方がいいじゃないのって
言ってくれて。

やはり そういう意味では
作家と歌手ですから

すごく わかりますからね
お互いに。

復帰後の奥村チヨは

しっとりとした大人の歌を

聴かせる歌手に成長した。

すると…。

平成の時代に巻き起こった
60年代ブームにより

『恋の奴隷』がリバイバルヒット。

変わらないスタイルの良さと
媚びない女らしさが

若い世代にアピールし
ファンの層が一気に広がった。

近年 浜圭介と
多くの歌作りをしている

作詞家 渡辺なつみが

若い世代から見た
奥村チヨの魅力を語る。

やっぱり あの 小悪魔的で

ちょっと
コケティッシュな感じですかね。

そして んー… やっぱり

かっこいい女性の
代表の方なのかなっていうふうに

思っていました。

クールビューティーというか…
はい。

そして デビュー以来 半世紀以上
歌い続けてきた奥村チヨが

平成30年に
年内の歌手引退を発表。

卒業アルバムの
タイトルにもなった

『サイレントムーン』は

浜圭介と渡辺なつみが手掛けた
作品である。

「この歌 ちょっと
聴いてみてくれる?」って

聴かされた時に…。

『サイレントムーン』
っていう歌なんですけど。

もう やはり『終着駅』と同じぐらい
鳥肌が立っちゃって。

これを最後にしたいな
これ 最後に歌って終わりたい

っていう気持ちが
強くなっちゃったんです。

僕も 彼女のファンであったし。

本当に… やっぱり
僕としてはね

もっと長くね
歌ってほしいけども。

でも これは彼女が考えた事だし

俺自身も何も言えないし…。

ただ 一つは ファンの事だけは
忘れないでっていうふうに…。

歌で出会い
歌で絆を強くした2人。

これからも歌を大切にし

音楽に寄り添い
生きていくに違いない。

浜圭介が

作曲家生活
50周年を迎えた

平成27年。

松坂慶子との
デュエット曲

『哀愁の札幌』。

作詞は 渡辺なつみ。

浜が少年時代を過ごした
札幌を舞台に

大人の恋の物語を
しっとりと歌い上げた。

『哀愁の札幌』という

松坂慶子さんと浜さんが
デュエットされた楽曲も

電話を頂いた時に

やっぱり お母様からの愛情

それを見ていた浜さん。

そういう中で
少年だった浜さんが

何を感じ 何を思い
どういう事を夢に描いたか。

それが今の浜さんを
お作りなんだというふうに

私は実感しました。

半世紀を超える音楽活動の中で

特に思い出深い曲となったのが

平成11年

実は この作品

作詞家 阿久悠に 浜から頼んで
書いてもらったもの。

その時のやり取り。

後日 阿久悠から届いた詞には

こんなメッセージが添えてあった。

あの詞を読んだ時に

阿久さんも 100パーセント
あの世界だったと思うし。

ああ 僕の若き日の頃の
4畳半の西日の当たる部屋で…

ねっ そのものだなと
思いましたよね。

森進一のたっての願いで
レコーディングが行われ

のちに
浜本人もセルフカバーした。

浜圭介が 50年余りかけて
たどり着いた境地。

朝起きて 窓を開けると
天気がいい…。

そんな ごく当たり前の日常に
感動する心を持つ事。

それが
人の心を動かす歌作りに繋がる。

その豊かな感性を

浜に与えてくれたのは

母 きみえである。

浜が まだ30代半ばの頃

父 甚太郎を
大病の末に天国へ見送ってから

母は
看病疲れがもとで倒れてしまう。

それ以来

母は寝たきりの生活になった。

ある日の事。

母を見舞った折に

なんとなく
その手を握ってみた。

ザラザラして
ゴツゴツと節のある手。

子どもたちのため

ずっと働き続けてきた
母の人生を思い

浜は涙を抑えきれなかった。

久々に… 久々っていうか
もう何十年ぶりかな

おふくろの手を こう握った時
びっくりしたね。

もう ザラザラしててね

それでね 皮膚が硬いんだね あれ。

その時は ちょっとね
ほろっときたね。

やっぱり おふくろって

子どもたちのために 一生懸命
働いたんだなっていうね。

晩年の母は 「機嫌がいい時には
鼻歌を歌っている」

ケアをする看護師から
そんな話を聞いた。

お義母さんは

本当に 多くを語らない
おとなしい人なんですよ。

それしか言わない。

だから主人が
「大丈夫だよ 母さん」

「仲いいよ 僕たちは」って
主人 言ってますよ。

ああいう親子の姿を見てると

やっぱり 涙がウルウルしますね。
いいなと思いますね。

平成26年 母 きみえは

家族に看取られて
静かに息を引き取った。

大往生だった。

僕のベッドのとこにね ちゃんと
おふくろの写真が置いてあるし。

そこへ しょちゅう話してるから…
下らない話をしてね。

なんて おふくろにお願いして

作品を書く事もありますね。

僕にとって 憧れであり

夢の実現者として

僕を その… 導いてくれた
最高の恩人ですね。

私を こっちだよ こっちだよ
っていうふうに

誘導して頂きたいですし

びっくりするような楽曲を

私にも 皆様にも
ぜひ届けて頂きたいと思います。

もう まさに
これからだと思います。

本当に 私の 心から頼れる
お兄ちゃんです。

先生に対して
失礼かもしれませんけど

お兄ちゃんです。

これからも
「昌子ちゃん」と呼んでください。

見守ってください。

私にとって 歌の先生であり…

うーん…
歌いの理解者であり

あったかい優しい旦那様。
アハハハ…。

いっぱいですね。 アハハハハ…。

♬~「落ち葉の舞い散る
停車場は…」

戦後ね… 日本が もう
大変な時代だった時に

僕たちの先輩はね
いい作品を書いてね

そして
国民は それを聴きながらね

よし 明日 頑張ろう
という意味で 奮起した。

先輩が作った その大衆歌謡をね
やっぱり 大事にしてね

これからもね やっていこうと。

いい新人を探してね。

今の若い子たちも
好きになれるようなね

歌謡曲をね
書いていきたいなと思いますよね。

気がつけば
ずっと旅を続けてきた。

ひと所に
じっとしていられないのは

いつも
新しい自分を探しているから。

明日は どんな出会いが
待っているのだろう。

その答えは
きっと 歌が教えてくれる。


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