歴史秘話ヒストリア「“天皇の先生”になった男 小泉信三 「象徴」とは何か」 …波乱に富んだ生涯とその信念を描く。


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出典:『歴史秘話ヒストリア「“天皇の先生”になった男 小泉信三 「象徴」とは何か」』の番組情報(EPGから引用)


歴史秘話ヒストリア「“天皇の先生”になった男 小泉信三 「象徴」とは何か」[解][字]


天皇陛下の若き日、先生役を務めた小泉信三。戦後の新しい皇室のあり方に大きな影響を与え、ご成婚にも大きな役割を果たした人物の、波乱に富んだ生涯とその信念を描く。


詳細情報

番組内容

来年4月に退位が決まっている天皇陛下の若き日、先生役を担った男がいた。慶應義塾の塾長だった小泉信三だ。終戦後、皇太子殿下の教育を預かる実質的な責任者となった小泉は、世紀のイベントである「ご成婚」にも大きな役割を果たした。戦後、「日本国の象徴」と定められた新たな天皇像とは、どのようなものかを模索し、新しい皇室のあり方に大きな影響を与えた小泉信三。波乱に満ちた生涯と若き日の陛下と歩んだ日々を描く。

出演者

【キャスター】井上あさひ




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歴史秘話ヒストリア「“天皇の先生”になった男 小泉信三 「象徴」とは何か」
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「歴史秘話ヒストリア」。
今夜も どうぞ おつきあい下さい。

今日 ご紹介するのは
4月に退位が決まっている天皇陛下

若き日の明仁皇太子さま。

そして その先生役を務めた
小泉信三という人物です。

天皇陛下は 在位30年の間

時に 前例にとらわれず
国民に寄り添われてきました。

「平成流」とも呼ばれます。

一方の小泉信三は

そんな皇室の在り方に
大きな影響を与えた人物です。

若き陛下の 教育の責任者を務め

更には 世紀のイベント
「ご成婚」にも

特別な役割を果たしました。

戦後 生まれ変わった日本で

新しい天皇像を求めて 共に歩んだ
2人の「道のり」をたどります。

(玉音放送)

日本の敗戦を伝える
昭和天皇の玉音放送を

皇太子さまは
この建物で聞かれました。

当時11歳。

空襲を逃れるため

東京から 栃木の奥日光に

疎開されていました。

この部屋で 皇太子さまは
両手を握りしめ 涙を流されたといいます。

同じ時 小泉信三は
大やけどを負い 病院にいました。

廊下を伝って流れてくる
昭和天皇の声を

伏せったまま聞いていました。

2人の物語は
まさに どん底から始まったのです。

日本が 大陸での武力行使に踏み出した…

それから2年
戦争の足音が高鳴る時代。

今の
天皇陛下が誕生。

昭和天皇の 初めての男子でした。

当時 天皇は
大日本帝国憲法の下

大きな力を持つ存在でした。

国を統治する 「国家元首」。

陸海軍を統帥する 「大元帥」。

更には…

人の姿で
この世に現れた神とされました。

将来 その「天皇」となる運命を
背負われていた皇太子さま。

その5歳の頃の映像です。

見学のため
動物園では 人払いがされました。

特別な環境で育てられたのです。

皇太子さまが生まれたのと同じ 1933年。

私立学校の雄 慶應義塾に
新たな塾長が誕生します。

45歳の若さでした。

慶應義塾の創設者
福沢諭吉は

西洋の近代的な思想を
明治日本に広めた思想家

そして 教育者でした。

その後継者として期待され

後に 皇太子さまの先生となる小泉。

一体 どんな人物だったのでしょう。

次女の妙さんは 父・小泉との思い出を
今も大切にしています。

(取材者)えっ どれですか?

幼い娘に 正しいボールの握り方から

投球フォームまで。

子供にも 真剣に向き合いました。

更に小泉は

家族そろっての
食事の場を

とても大切にしたと
いいます。

お父様。
(小泉)はい。

では 皆で楽しい夕げとまいろうか。

(一同)いただきます。

人と人が心を通わせるには

一緒に
食事をするのがよい。

それが
小泉の持論でした。

(信吉)僕も好きだよ
お母様の高野豆腐は。

食卓は いつもにぎやかでした。

ところが…。

日本は 昭和天皇の名の下に開戦。

太平洋戦争が始まりました。

海軍に入っていた 長男の信吉は

出征することになります。

小泉は
息子に宛て

手紙を したためました。

(小泉)「僕は 若しも生れ替って

妻をえらべと いわれたら

幾度でも
君のお母さまをえらぶ。

同様に 若しも

息子をえらぶことが
出来るとしたら

吾々 夫婦は
必ず君をえらぶ」。

しかし 開戦から1年後
信吉が戦死します。

24歳でした。

それから まだ間もない日の食卓で
小泉は…。

悲しい時でも
物は食べなければいけない。

一生懸命 自分から食べてみせました。

そして…。

これから… みんなで楽しく暮らそう。

しかし 試練は続きました。

戦局が悪化する中
学徒出陣が始まります。

慶應義塾塾長の小泉は

たくさんの教え子たちを
戦地に送り出しました。

そして 500人もの学生が
戻りませんでした。

そのころ 明仁皇太子さまは

空襲を避けて疎開。

千葉や沼津
日光などを

転々と
されていました。

空襲で 小泉の自宅が
全焼します。

顔や両手などに
大やけどを負った小泉は

生死の境を さまよいました。

(玉音放送)

8月15日 敗戦。

日本人だけで 300万人以上が亡くなった
戦争が終わります。

その日 小泉は病院のベッドにいました。

それから8か月後
小泉に ある「ご沙汰」がありました。

東宮 つまり皇太子の教育に
携わってほしいという

宮内大臣からの要請でした。

ヨーロッパへの留学経験もあり…

一方 皇太子さまは
12歳。

東京に戻り

学習院中等科に進学する
タイミングでした。

2人の「道のり」が
始まろうとしていました。

小泉が先生役を命じられ
2人が共に歩むことになった この時期

天皇制そのものが
問われていました。

当時 連合国の占領下にあった日本。

天皇は それまでの在り方から
大きく変わることを

余儀なくされていました。

そして 新たな憲法で

天皇は
「日本国の象徴」と
定められます。

しかし…。

「象徴」とは何なのか。

若き皇太子さまと
「先生」小泉の挑戦が始まります。

小泉家には
一冊のノートが大切に残されています。

タイトルは 「食卓の人々」。

戦後 小泉と妻 2人の娘が
日々の出来事や思いを記した

家族日記です。

そこに 小泉が
皇太子さまと初めて会った

お茶会の様子が記されています。

場所は 東京郊外にあった
仮の東宮御所でした。

(小泉)「殿下は ハッキリした御聲で

『どうぞ宜しく』とおっしゃる。

「そのあとに 『からだを御大事に』と
おっしゃって下さった。

僕の顔を御覧になって

痛そうだとでも
御同情下さったのであろう」。

小泉は 初対面の印象を
事細かに記しています。

(小泉)「失礼な申しようであるが
実に好少年である。

黒目がちで
何か 興味を お感じになったときに

生き生きと かがやく。

また 大きく手を振って
お歩きになると

お尻の肉が プリプリ動く」。

ただ このころ
皇室の存在が揺らいでいました。

GHQは

天皇を中心とした
国の在り方を変え

民主化を進めようと
していました。

連合国の中には 昭和天皇の処罰を
求める声もありました。

国内の学者からも

天皇は退位すべきだという意見が
唱えられます。

「過去の最高の責任者が
その責任をとろうとせず

国民も また
責任をとらせようとせず

たがいに あいまいのうちに

葬り去るならば

どうして 真の民主国家が
建設されようか」。

慶應義塾体育会庭球部の
テニスコートです。

学生時代 テニスの選手として活躍した
小泉は

皇太子さまの教育を
始めるにあたって

そのテニスを
積極的に取り入れました。

1回3時間を超える
激しい練習の中で

コートマナーも
厳しく教えていきました。

それまで 皇太子さまは
ボールを自ら拾おうとはされず

周囲の人が拾うのを
当然のこととされていたといいます。

それを小泉は
自ら拾われるまで待ちました。

やがて 皇太子さまは
変わられたといいます。

その成長ぶりを 小泉は喜びました。

皇太子さまの教育が始まった頃…

都倉武之さんは
この時 小泉が使った教科書に

福沢の著書「帝室論」があったと
考えています。

この中で 福沢はまず

皇室は 政治から
距離を置くべきだと主張。

その上で 皇室を
ある言葉で例えました。

「皇室は 万年の春であって

国民にとって 悠然として

和やかな気持ちになるような

存在であるべきだ」。

都倉さんは 小泉はここに

「象徴天皇」のヒントを
見いだしたと考えています。

(都倉)福沢の表現で言えば…

その後 小泉は皇太子さまにも
「帝室論」を講義しました。

しからば 皇室の御任務は
いずこに あるのであろうか。

それは実に

日本民心融和の中心と
ならせらるることだ

というのであります。

小泉は 「万年の春」を解釈し

天皇は 「民心融和の中心」

人々の心を穏やかにまとめる
「要」だと考えました。

小泉は 新たに

「東宮御教育常時参与」に就任。

将来 日本の象徴となる
皇太子さまの教育を預かる

責任者となりました。

小泉は 「倫理」や「経済」を講義する中で

自らの考え方や人生観を
積極的に伝えました。

小泉は 皇太子さまに
いかに情熱を注いでいたのか。

妙さんは 当時の様子を覚えています。

そう そういえば 何か1回
ある日でしたけど…

何があったのか尋ねると

ひと言 こう つぶやきました。

理由は言わず
ただ 泣いていたといいます。

近年 小泉の
皇太子さまへの講義の下書き

「御進講覚書」が
見つかりました。

小泉が 何を伝えようとしたか
具体的に分かる資料です。

敗戦から5年後の 1950年。

小泉は 天皇となる者の
心構えについて

激しい言葉を連ねます。

小泉は 日本の将来のため
天皇となる者は

ふさわしい教養や道徳を
身につけなければならないと

強調しました。

皇太子さまは 1時間数十分
姿勢を正して 話を聞かれ

こう 述べられたといいます。

私の責任が どれほど重いものか
改めて知ることができました。

どうも ありがとう。

…のようなものを
やはり 小泉信三という人は持っていて

それが ああいう言葉に
なってるんじゃないかと思います。

皇太子さまへの教育は
多岐にわたりました。

テニスの練習相手たちと共に
自宅に招くこともありました。

(一同)いただきます。

食事のメニューは カレー。

皇太子さまの大好物と聞いていたのです。

ありがとうございます。
僕は2セット目です。

いや~ 小泉先生のお宅のカレーライスは
実に おいしいです。

ありがとうございます。
僕も お代わり お願いします。

はい 喜んで。
これで 3セット目になります。

皇太子さまのお代わりは

4セットだったといいます。

小泉は 皇太子さまと共に

あるべき「象徴」の姿を
探していました。

ここで これまで
ほとんど知られていない写真を

ご紹介しましょう。

小泉が撮影した 皇太子さまです。

テニスの審判台に座られています。

テニスでは 試合に負けると

次の試合の
審判をすることがあります。

この時 皇太子さまは

当たり前のように
審判を買って出られました。

そんな皇太子さまに対して

小泉は どんな気持ちを
抱いていたのか。

長女の加代さんの証言です。

新しい天皇像を求めて
2人は模索を続けています。

そして 未来を共に切り開く
一人の女性との出会いが待っていました。

翌年 占領が終わり 独立を果たします。

その半年後
18歳となられた皇太子さまの

「立太子礼」が執り行われました。

万歳! 万歳!

この時 小泉は 新聞に

「これからの皇太子殿下」と
題する文章を発表。

そこで やがて「象徴」となる
皇太子さまに

ある言葉を託しました。

人が悩み 苦しむという意味です。

「世の君主や 皇子たる者の
第一の義務が

人の疾苦を思うことである」。

このころから
皇太子さまに まつわることが

世間を にぎわすようになります。

「ご結婚」です。

当時
皇太子さまは

お相手について

小泉に
こう述べられた
といいます。

世の中のことを よく知り
思いやりのある女性を伴侶としたい。

同じように考えた小泉は
早速 動き始めます。

いくつもの学校に打診し
女子学生の推薦を依頼したといいます。

1957年 夏。

避暑客の間で開かれていた
テニストーナメント。

小泉と一緒に観戦していた
次女の妙さんは

一枚の写真を撮影しました。

写っているのは
ダブルスの試合に臨む 皇太子さま。

相手は 正田美智子さん。

実業家の娘で
大学を卒業したばかりでした。

お上手でしたね どちらも。

美智子さまが
恐縮してらっしゃるようでもなく

ポンポン打ってらっしゃるし
いいなと思って。

試合は
美智子さんのペアが勝利します。

相手が 皇太子さまにもかかわらず
堂々とプレーをする様子を

小泉も注目していました。

その年の暮れ 皇太子さまは

東宮御所で開かれた写真展に
一枚の写真を出展されます。

正田美智子さんでした。

軽井沢での出会いのあと
東京でテニスに誘い 撮影されたのです。

翌年になると 小泉たちは

美智子さんを 皇太子妃の第一候補と
考えるようになりました。

小泉は マスコミ十数社を訪ね回り

候補者の名を 先回りして報道しないよう
頼んだといいます。

(小泉)「しかし…」。

何とか 2人の結婚を実現させたい。

努力は実り マスコミ各社は
予測報道をしないと約束してくれました。

けれども 何より大切なのは
美智子さん自身の気持ち。

小泉は 水面下で説得を続けます。

そして 1958年 秋。
正田家に向かいました。

皇太子さまを見守り続けてきた 小泉。

美智子さんに語りかけました。

これだけは
よく ご承知になって頂きたい。

一連のいきさつについて

昭和天皇の生涯をまとめた
「昭和天皇実録」には こうあります。

2週間後 婚約が発表されました。

「ラジオやテレビから 御婚約者発表の
臨時ニュースが流れますと

新聞社から 号外売りが
一斉に 街に飛び出しました。

皇太子殿下に
御婚約者が決まったというので

まるで奪い合いです」。

小泉は 事実上の仲人役として

注目を浴びます。

「新しい皇室のプロデューサー」と
報じる雑誌もありました。

年が明けると
美智子さんへの講義が始まります。

小泉も
「お心得」を担当。

皇太子さまだけでなく

美智子さんの先生にも
なりました。

小泉の言葉を 大切なものとして
受け止めた美智子さんは

結婚を前に
こう語ったといいます。

お二人は ご結婚。

多くの国民が祝福しました。

皇太子さまは それに先立ち
歌を詠まれていました。

皇太子さまの心に 「窓」を開いたのは
美智子さん。

そして 小泉だったのかもしれません。

ご成婚の後 小泉に贈られた写真には

共に歩くことを誓った

お二人の署名が
ありました。

小泉は その後も

皇太子さまと美智子さまの
傍らにあって

その歩みを見守り続けました。

そして 7年後の5月11日
心筋梗塞で亡くなります。

78年の生涯でした。

その日 突然の知らせにもかかわらず
お二人は弔問されました。

そして 歌を詠まれました。

皇太子さまは天皇に

そして 美智子さまは
皇后になられました。

新たな時代が始まります。

共に日本各地を訪ねられ

たくさんの人々と

多くの時間を過ごされました。

どうぞ 体 大事にして下さいね。

(女性)ありがとうございます。

お二人で それまでにはなかった

皇室の在り方を

築かれて
いきました。

≪じゃんけん ぽい!

あっ 勝っちゃった!

「象徴」として

時に 前例にとらわれず進む

お二人の姿。

それは 長い道のりの末
生まれたものでした。

天皇陛下が かつて記者会見の席で

好きな言葉として挙げられた
言葉があります。

それは…

小泉に教わり
心に刻みつけられたとされたうえで

こう 述べられました。

♬~


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