ファミリーヒストリー「三木谷浩史~経営者の原点 戦国武将の魂~」 楽天社長・三木谷浩史さんの祖母は、家康の…


出典:『ファミリーヒストリー「三木谷浩史~経営者の原点 戦国武将の魂~」』の番組情報(EPGから引用)


ファミリーヒストリー「三木谷浩史~経営者の原点 戦国武将の魂~」[解][字]


楽天社長・三木谷浩史さんの祖母は、家康の側近・本多忠勝の子孫。一家は明治になり華族となるが没落していく。さらに夫を失った祖母は、煙草屋を営み、息子を育てあげた。


詳細情報

番組内容

楽天社長・三木谷浩史さんの祖母は、徳川家康の側近・本多忠勝の子孫。一家は明治になると華族となるが没落する。そんな家に生まれた祖母は16歳で結婚、18歳で夫を亡くす。たばこ屋を営み、息子を育てあげた。一方、母方は商才に富んだ家系の出身。親戚にはミノルタカメラの創業者がいる。祖父はニューヨークや上海で活躍した商社マンだった。そして、テレビ初登場の母が語る、息子の素顔が明らかになる。激動の歳月。

出演者

【ゲスト】三木谷浩史,【司会】今田耕司,池田伸子,【語り】余貴美子



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ファミリーヒストリー「三木谷浩史~経営者の原点 戦国武将の魂~」
  1. 良一
  2. 昌子
  3. 三木谷
  4. 節子
  5. 当時
  6. 昭和
  7. 忠銓
  8. 浩史
  9. 神戸
  10. 清三


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Good afternoon, 
ladies and gentlemen….

今年5月 楽天社長
三木谷浩史さんは

ある記者会見に臨みました。

オーナーを務める
サッカーJ1 ヴィッセル神戸が

スペイン出身のスーパースター
イニエスタの獲得を発表したのです。

21年前 三木谷さんは
31歳で ネット通販事業を創業。

金融業や旅行業など
さまざまな分野に挑戦を続けています。

OK, thank you.
Thank you.

今や 世界29か国で事業を展開。

従業員数は 1万4, 000人を超えます。

そんな三木谷さんには

驚きの先祖がいます。

それは 父方の祖母
昌子さんのルーツ。

徳川家康の側近だった
戦国武将 本多忠勝です。

しかし 明治になり
本多家は苦境に立たされ

祖母は たばこ屋で家計を支えます。

番組では 三木谷さんに代わり
家族の歴史を追いました。

浮かび上がったのは
江戸時代 神戸で

大きな米問屋を営んでいた
三木谷家。

しかし ある事件で店が傾きます。

そして父方の祖母の家 本多家。

明治時代
子爵の称号を与えられた華族でした。

曽祖父が 学習院で一緒だったのは…。

そして テレビ初登場の母・節子さん。

European history…
very important city.

幼い頃の三木谷さんの

驚きのエピソードを語ってくれました。

今回のゲストは 三木谷浩史さんです。

どうぞ。
(拍手)

こちらの方へ。
ありがとうございます。

いや~ よろしくお願いします。
よろしくお願いします。

いや~…

いかがですか? 今の気持ちは。

♬~

今年8月 三木谷浩史さんのふるさと
神戸で行われた ヴィッセル神戸の試合。

スペインから移籍した イニエスタが
Jリーグでの初ゴールを決めた日。

(歓声)

客席で 声援を送っていたのが…

(取材者)ほとんど毎回?
はい。

5年前
83歳で亡くなった父・良一さんは

神戸大学経済学部の名誉教授でした。

兄の研一さんは 父から

三木谷家のルーツについて
聞いていることがあります。

父方 三木谷家のルーツ。

更には 戦国武将 本多忠勝との関わりに
迫っていきます。

神戸から 北に30キロ
兵庫県三木市。

こちらが その…

この石灯籠は 江戸時代 新田開発が

無事 終わった時に建てられたものでした。

当時 「三木屋」は ふるさと三木を離れ
神戸で米問屋を始めていました。

遠い親戚の家で 米問屋に関する
手がかりが見つかりました。

古い戸籍の写しが残っています。

こう書いてございます。

金場さんと三木谷さんは
5代前の先祖が同じ。

更に米問屋を始めた人物についても
記されていました。

米問屋 三木屋を始めたのは
江戸時代後期

三木谷さんの6代前の先祖
初代・治兵衛でした。

こんにちは~。

あっ 奥井さん 懐かしい。

奥井さんの母・はるは

三木谷さんの祖父
清三の妹にあたります。

江戸時代 三木屋は 幕府や藩と
直接 取り引きをする

御用商人でした。

そして明治になると 3代目・治兵衛が

「三木屋」の「屋」を 「谷」に変えて
三木谷と名乗ります。

明治初期の三木谷家に関する手がかりが
見つかりました。

(取材者)
あ 三木谷治兵衛さん ありました。

(高田)ここ ありますね。 で ここも
三木谷治兵衛さんですね。

ここも ここも ここもですね
三木谷治兵衛さん。

3代目 三木谷治兵衛は
成功した実業家などを紹介する

「日本紳士録」に 明治30年から
何度も その名を連ねました。

DNAが入ってますね。
(池田)ねえ 商才が。

しかし 大正7年。

三木谷さんの曽祖父
4代目 治兵衛の時

ある事件に巻き込まれます。

米の値上がりに反発して起きた暴動が
全国に広がった 「米騒動」。

各地の米屋や米問屋が 次々と襲われます。

江戸時代から続いた 三木谷家の米問屋も
ついに店を畳まざるをえなくなりました。

三木谷家は 食べるものにも困る生活に
追い込まれます。

当時 三木谷さんの
祖父・清三は

旧制中学に
進学するつもりでした。

「兄・清三は…」。

しかし 家計が苦しくなったため
進学を断念します。

やむなく清三は 六甲山の麓にあった

親戚が営む 綿工場で働き始めます。

働きだして 8年ほどたった頃でした。

近所にあった 小さな下駄屋。

ある日 立ち寄ってみると
母と三姉妹で暮らしていました。

聞けば
父親は 病気で亡くなったといいます。

その家の長女が 本多昌子 当時16歳。

後に三木谷さんの祖母となる女性でした。

そして 戦国武将 本多忠勝につながる
ルーツを持っていました。

いや~ いかがですか ここまでは。
まずは。

いや~ そうですね…

やっぱり その時の米騒動というのは
我々もね 学校で習うような

そこに やっぱり巻き込まれて…。
はい。

そういうことなんですよ。

米騒動さまさまかも分かりません。

三木谷さんの祖母
昌子さん。

10年前 95歳で
亡くなりました。

祖母・昌子の先祖と言われる
徳川家康の側近…

戦国時代を生き抜き 家康が信頼した
「徳川四天王」の一人です。

一大事でございます!

大河ドラマ「真田丸」では
藤岡 弘、さんが演じています。

本日未明 織田信長公お泊まりの本能寺が
焼き打ちにあったとのこと。

本能寺の変のあと 家康を
本国・岡崎へ逃がすため

河内から 伊賀を越える

「伊賀越え」の立て役者としても
知られています。

その本多忠勝の ひ孫に当たるのが
本多忠英。

1679年 1万石を与えられ

播磨国 山崎
現在の兵庫県にやって来ました。

この忠英が 祖母・昌子さんに
つながっていきます。

姫路から 北に40キロほど…

藩の政治が行われた陣屋の跡地に
門だけが残されています。

(取材者)
あっ どうも おはようございます。

長年 山崎藩の歴史を調べてきました。

本多家は 幕末までの189年間
8代にわたり 山崎の地を治めました。

そして 時代は明治。

明治2年 新政府が発足する中で

山崎藩では 忠明が藩主となります。

三木谷さんの4代前の高祖父です。

しかし その2年後
廃藩置県が行われると 山崎本多家は

他の元大名たちと同様
東京への移住を命じられます。

当時の本多家の日誌に 東京にあった
屋敷の詳細が記されていました。

明治初期の地図です。

皇居近くの虎ノ門にあった本多家の敷地は
2, 000坪ありました。

そこは 現在の虎ノ門駅前
銀行が建っている一等地です。

明治9年。

忠明の五男・忠銓が生まれます。

三木谷さんの曽祖父です。

そして明治17年 「華族令」が出されると

本多家には 「子爵」の
称号が与えられます。

旧大名たちは 石高などによって

5段階に区分されました。

1万石だった山崎本多家は

4番目の子爵になったのです。

しかし そのころ 本多家の暮らしは
既に困窮していました。

生活費に事欠き 虎ノ門の屋敷も売り払い
親戚の世話になっていました。

明治17年。
「華族就学規則」が制定されると

8歳だった五男・忠銓は
学習院への入学を迫られます。

華族の子息たちは 小学校から 学習院に
通うことを義務づけられたのです。

しかし 家計が苦しかった本多家は

入学を遅らせてほしいと
猶予願いを出します。

これは その控えです。

数年後 親戚から援助を受け

忠銓は 14歳になって ようやく
学習院の初等学科4年に編入します。

学習院に 当時の記録が残されていました。

え~と こちらですね。

集合写真も残っていました。

残念ながら 忠銓を特定することは
できませんでした。

忠銓の孫…

三木谷さんの父・良一さんの
いとこにあたります

明治29年。

忠銓が二十歳になった頃 本多家の家計は
ますます厳しくなります。

そこで忠銓は 安定した収入を得るため
給料の良かった軍人になろうと考えます。

忠銓が書いた履歴書です。

下士官を養成するための 「陸軍教導団」の
試験を受け 合格しました。 しかし…。

「入団の際 脚気症にて
不採用」。

栄養不足が原因で
「脚気」と診断されたのです。

忠銓をはじめとした本多家の人々は
兵庫・山崎に戻ります。

ふるさとに戻れば
親戚や かつての家臣たちを

頼ることができました。

忠銓も 家計を支えるため
すぐに働きに出ます。

旧家臣の口利きで就いたのが
地元の尋常小学校の代用教員でした。

(取材者)
「代用教員 本多忠銓」。

小学校の代用教員してらしたんですね。

(小松)そうですねえ。

月7円の給料。

正式な教員の初任給の
ほぼ半額でした。

忠銓は あちこちの小学校を
転々としながら

12年間
代用教員を務めます。

しかし 30歳を過ぎても
一向に給料が上がらず

生活は ギリギリでした。

そんな ある日 神戸に嫁いでいた姉から
「こちらで働かないか」と誘われます。

忠銓は 34歳で神戸に出ました。

麻の袋を作る工場で
事務の仕事に就きます。

間もなく 工場で働いていた
一人の女性と親しくなりました。

鳥取出身で 10歳年下の伊吹くに。

後の三木谷さんの曽祖母です。

くにの写真は
50歳の頃のものしかありません。

一緒になることを決意した2人。

しかし くにの実家は猛反対します。

そんな2人の間に
大正元年に生まれたのが 長女・昌子。

後の三木谷さんの祖母です。

その後 7歳下と9歳下の
2人の妹が生まれます。

しかし 大正10年
忠銓は突然 亡くなります。

感染した皮膚病の悪化が原因でした。

45歳という若さでした。

この時 9歳だった昌子は

小学校で評判の優等生。

「学力優等 品行方正」。

学校を代表して 度々 表彰されました。

しかし 父が亡くなったため

女学校への進学を
諦めるしかありませんでした。

母・くには 3人の娘を育てるため
小さな家を借りて 下駄屋を始めます。

しばらくすると
近所の綿工場で働く青年が

頻繁に顔を見せるようになります。

それが 三木谷清三でした。

家庭の事情で 互いに進学できなかった
清三と昌子…。

似た境遇の2人は 昭和3年 結ばれます。

清三25歳 昌子16歳の時でした。

その翌年の昭和4年。

男の子が生まれます。

それが 良一。

後の三木谷さんの父です。

でも ほんとに最後 出てきました…

ご苦労が。

そういう 心の内みたいなのは
きっと あったでしょうね。

きっと ご自身の中に。
絶対あったでしょうね。

はい そうですね。
芯みたいなものはね。       はい。

六甲山の麓にあった 綿工場。

経営者が亡くなり
親戚だった清三に任されていました。

清三は息子の良一に しっかりとした
教育を受けさせたいと願っていました。

妻・昌子は 夫を支え

良一の子育てに
明け暮れます。

ところが 清三が突然 体調を崩します。

肺結核でした。

清三は 当時 効果的とされていた
胸に空気を入れる治療を受けるため

香川・高松の病院に入院します。

昭和6年4月。

清三が 妹・はるに送った
葉書が残されていました。

「きっと治るような
気がいたします」。

しかし それから3か月後。

清三は 息を引き取ります。

28年の短い生涯でした。

この時 妻・昌子は 18歳。

まだ1歳7か月の良一を抱え
途方に暮れます。

昌子と良一は 実家の下駄屋に戻り

母・くにと 小学生だった2人の妹と一緒に
暮らし始めます。

昌子は 下駄屋の僅かな収入で

家族5人が暮らしていくのは
無理だと考えます。

思いついたのが 安定した収入が見込める
たばこ屋を始めることでした。

当時 専売制だった たばこを売るには
審査を受け 許可を得る必要がありました。

昌子は 夫を亡くし
幼い子どもを抱えた上に

母や妹たちがいることを
必死に訴えました。

昭和6年。

昌子は たばこ屋の開業にこぎつけます。

そのかたわら
呉服の仕立ての内職も始めました。

懸命に働く昌子でしたが
このころ あることで評判となります。

三木谷さんの母・節子さんは
若い頃の昌子の写真を持っています。

近所の美容院が 昌子の美しさにほれ込み
モデルを頼んだといいます。

そんな昌子には
何度も 再婚話が持ち上がりました。

しかし それを全て断りました。

そんな母のもと 良一は必死に勉強し
良い成績をおさめていきます。

母・昌子は 貧しさから 進学を諦める
という思いをさせたくありませんでした。

昌子は誓います。

「良一を 絶対に大学まで行かせる」。

晩年 昌子は 良一の妻・節子さんに
当時のことを語っています。

昌子は 10歳になった良一を
ある場所に連れていきます。

それは 昌子の先祖・本多家が
かつて治めていた 山崎の地でした。

その時のことが
本多家の日誌に記されています。

良一は 地元の名門
旧制・神戸市立神戸中学校に入学します。

当時 公立の中学でも 経済的に
余裕がなければ 行けない時代でした。

昌子は 必死に貯めてきた金で
それを賄います。

良一も 母の期待に応えようと
懸命に勉強し

成績は 常に学年で1番でした。

旧制中学で 1学年後輩の…

当時の名簿を持っていました。

ちなみに 良一の1学年下には
この人がいました。

直木賞作家…

小説「火垂るの墓」は
戦争中の神戸が舞台です。

昭和20年になると
神戸でも 空襲が激しくなります。

6月5日。

この日 良一は 母・昌子たちと
自宅の たばこ屋で過ごしていました。

すると 激しい爆撃が始まります。

神戸の空襲で焼失した地域を
赤く塗って示した地図です。

終戦までに 空襲は120回を超え
市街地の大半が焼け野原となりました。

ところが 自宅のたばこ屋があった場所は
奇跡的に焼失を免れました。

良一は 旧制の神戸経済大学
現在の神戸大学に

見事 合格を果たします。

成績が良かった良一は
当初 京都大学の受験も考えましたが

結局 自宅から通える
神戸大学を選びました。

母の経済的な負担を減らし
そばにいたいとの思いからでした。

当時の良一の日記です。

「良一を大学まで行かせる」。

昌子の夢が ついに かなったのです。

神戸大学に 良一の記録が残っています。

(野邑)こちらがですね…

良一は 2年生になると
金融論を学ぶゼミに入ります。

ゼミの同期だった…

良一は 優秀で
目立つ存在だったといいます。

(取材者)そうですね。

1年後。
ゼミに 一人の後輩が入ってきました。

それも 女性。

女性の大学進学が珍しかった当時
その姿は目を引きました。

その人こそ 浦嶋節子。

後に 三木谷さんの母となる女性でした。

上向きですけど
おばあさまですか。         そうですね。

侍。

そうでしょうね。

あっ そこの場所がですか。

だから そこに来て まあ うちの…

はい。 ああ そうそう あるんですよね
たばこ屋さんに。           はい。

ああ!

実際にやり取りを お客さんとの。

へ~!

でも その前に 一回 お母さんが

あのルーツの場所に
連れていくじゃないですか。 そうですね。

やっぱり そうですか。
はい。

お父さんに?
そうですね。

End of August or early
part of September….

So nobody was swimming.

幼少期を海外で過ごし 英語が堪能です。

そんな節子さんの実家
浦嶋家のルーツは

和歌山県海南市
黒江にあります。

漆器の産地として知られている土地です。

曽祖父の浦嶋茂十郎は
漆器の工場を営んでいました。

100年以上前 茂十郎が作った
お盆が残っています。

明治29年。

茂十郎は 隣町の娘
田嶋松ゑと結婚します。

実は 松ゑの実家・田嶋家も
数々の実業家を輩出しています。

明治32年
松ゑの兄弟たちがおこした

貿易会社 「田嶋商店」。

オーストラリアで
絹織物の販売に成功し

現在も 神戸で続いています。

更に 松ゑの甥が
昭和3年に創業したのが

ミノルタカメラです。

田嶋の「田」が 「実る田」で
ミノルタっていうんですよ。

漆器工場を営む 浦嶋家。

次男・秀雄が生まれます。

後の三木谷さんの祖父です。

秀雄は 神戸大学の前身である
神戸高等商業学校に入学します。

その後
東京商科大学

現在の一橋大学に
進みました。

卒業後 横浜にあった
日本生糸

後の三菱商事生糸部に
就職します。

そして 30歳の時に結婚。

後の三木谷さんの
母です。

父・秀雄は
ニューヨーク勤務を命じられます。

当時の渡航記録です。

豪華客船 鎌倉丸で
アメリカへ向かったと記されています。

(節子)
私は ここにいて 父は ここにいますね。

のぼってらっしゃる!

しかし 2年後の昭和16年5月。

会社から 帰国命令が出ます。

一家は 太平洋戦争開戦の直前
無事に帰国しました。

その翌年の昭和17年。

秀雄は 家族を連れて
今度は 上海支店に転勤します。

そして 一家は
そのまま 中国で終戦を迎え

昭和21年 日本に引き揚げました。

海外で働く父の姿を見て
育った節子。

ゆくゆくは
商社で働きたいと

思うようになります。

しかし 女性は家庭に入るのが
一般的な時代。

特に 母・光子から猛反対されます。

それでも 昭和25年。

商社で働くことを目指す節子は
神戸大学経済学部に合格します。

節子の大学の同級生…

そして 2年生になった節子は
金融論を学ぶゼミに入ります。

そこで出会った 1学年上の先輩が
三木谷良一でした。

やがて2人は 交際を始めます。

リーダーシップがあるんだなあ。

良一は 卒業したら
銀行への就職を考えていました。

一刻も早く 母・昌子を
楽にさせたいという思いからでした。

しかし その一方で
もっと学問を究めたいという思いも

くすぶっていました。

そんな良一の姿を見て
母・昌子が言いました。

「好きなことをやりなさい。
私は あなたの世話になるつもりはない」。

侍ですねえ。

昭和28年 良一は大学に残り
経済学者になる道を選びます。

一方 節子は その翌年
念願だった商社に 就職が決まりました。

総合商社…

節子の卒業式の日
良一は ついに決心します。

こうして2人は 将来を誓い合いました。

あら 初めての話でしたか? 三木谷さん。
そうですね そこの…

卒業式の日ですよ だから。
でも 節子さんが…

それね あの…

(笑い声)

楽しそうな方にと。
もう代々。

はい 忘れるっていう。 あれ? みたいな。
あっ そうなんですか。

じゃ ご自身は
ピンときた方に行くんですね。 はい。

なるほど~。

あの当時に
かなり珍しい お二人じゃないですか?

そうですね まあ…

結構 何ていうんですかね…

昭和29年 総合商社・兼松で
正社員として働き始めた節子。

当時の記録が残っていました。

1人だけ。

節子が働きだして
しばらくたった ある日。

良一は 節子の実家・浦嶋家に
結婚の申し込みに行きます。

ところが
節子の両親から反対されたのです。

それを聞いた 良一の母・昌子は
すぐに 浦嶋家に向かいます。

かっこいい! かっこよすぎ。

節子の弟・久義さんは
この時のことを覚えていました。

「貧しくても 息子には
しっかり教育を受けさせました」。

昌子は 頭を下げました。

新生活が始まりました。

間もなく 良一は
神戸商科大学の講師になります。

その後 職場に復帰しようとしたところ
会社側が戸惑いました。

仕事と子育ての両立に
まだ理解のない時代でした。

節子は やむなく
退職することに
なりました。

そして 昭和40年3月。

その後 父・良一は
神戸大学の教授になり

家族で明石に暮らしました。

3人の子供の中で
節子が 最も手を焼いたのが

末っ子の浩史でした。

そんな浩史を心配して

父・良一は 岡山県にある私立中学に入れ
寮生活を送らせます。

中学時代の同級生たちです。

当時の浩史の
個性的な姿を覚えています。

しかし 浩史は 徐々に校則や寮生活に
なじめなくなっていきます。

気が付けば 成績は
クラスで 下から2番目でした。

2年生の6月。 週末 実家に戻った浩史は
両親に打ち明けます。

すると良一は すぐ学校に連絡しました。

浩史の兄・研一さんも
当時の父の思いを聞いています。

浩史は 地元・明石の中学に転校。
すると 明るさを取り戻していきます。

そして 県立高校に進学。

テニスに熱中するかたわら

徐々に 成績も伸びていきます。

一浪後 一橋大学に合格します。

すごい。

浩史が働きだして5年後の 平成5年。

父・良一は 神戸大学を定年で退官し
名誉教授になります。

そんな良一の活躍を
見守ってきた 母・昌子。

80歳を過ぎても ひとり

たばこ屋を守り続けていました。

そんな母のために 良一は
たばこ屋の建物の補強工事をします。

空襲も くぐり抜け
60年以上 住み続けてきた実家。

平成6年 1月のことでした。

それから ちょうど1年後の…

浩史も すぐに東京から駆けつけました。

明石の実家は 被害を受けましたが
幸い 良一と節子は 無事でした。

そして 祖母・昌子が
ひとり 暮らしていた たばこ屋。

補強工事のおかげで 倒壊を免れ
1階に寝ていた 祖母・昌子も無事でした。

しかし
母・節子の妹夫婦が 亡くなりました。

浩史に ある思いが込み上げてきます。

10か月後 銀行を退職。

そして 2年後 ネット通販サイト
「楽天市場」を立ち上げます。

すると そのサービスが評判を呼び
会社は 急成長していきます。

更に プロ野球に参入するなど
さまざまな分野に 進出していきました。

母・節子さんが
大切に取っていたものがあります。

それは 浩史が
明石の中学時代に書いた作文でした。

中学時代… ちょっと…。
へえ~。

「人生の価値」。

節子さんは 「息子の原点が
ここにあるのでは」と言います。

「人生の価値
それは どういうことで決まるか。

ぼくは 時々 これを考える。

しかし 結論は いつも 『一生の間に
どれだけ多くのことをやるか』であった」。

そんなことを書いてますね。

いや~ いかがでしたでしょうか?
いや~ そうですね 今の…

ねえ。 でも やっぱり お母様って
取ってあるんですね。 そうですね。

まあ 母親も強くね 覚えてんのは…

でも その時に 三木谷さんの中で
何か 一つ変わったんですよね。

そうですね。 だから まあ…

はい そうですね。

いや でも 今日 ご自身のファミリーヒストリー
ご覧になって いかがでしたか?

もっと しっかり やるんですか?
これ以上ですか?

(笑い声)

昌子さんが 生前 引き出しの奥に
ずっと保管してきたものがあります。

これが 「大切」といって書いて…。

それは 「大切」と書かれ
しまわれていました。

良一さんが 地元の名門

旧制・市立神戸中学校に入学した時の
身分証明書です。

「息子を 大学まで行かせる」と誓った
昌子さんにとって

第一関門通過の証しでした。

そして 昌子さんが 60年以上
守り続けてきた たばこ屋。

震災後に建て直したあとも

昌子さんは 90歳まで
店先に立ち続けました。

ここは 家族にとって
何よりも大切な場所です。

父・良一さんは 神戸大学を退官したあと

日本金融学会の会長なども 務めました。

晩年は 妻の節子さんと
ドライブするのが楽しみでした。

このころ知り合った 山本さん夫妻。

良一さんが 浩史さんについて
漏らした言葉を 覚えています。

父・良一さんは 膵臓がんと診断され

闘病生活に入ります。

その翌年の9月。

プロ野球・楽天が 創設9年目で
初のリーグ優勝を飾りました。

それから 2か月後

家族に見守られながら

良一さんは
83年の人生を閉じました。

良一さんが大切にしていた
一枚の写真があります。

そこに 自ら
ある言葉を書き込んでいます。

その15年間とは

良一さんの父が亡くなり

自分が 大学に入るまでの歳月。

母が中心となって たばこ屋を営み
家族が頑張ってくれた日々でした。

三木谷浩史さんの ファミリーヒストリー。

どんな困難にも屈せず

支え合って生き抜いた

家族の歳月が
ありました。

感謝の言葉しかないですよね。

やっぱり こう 自分が
ここにいるのも そうですし

生まれてきたのも そうですし

まあ いかに こう自分が恵まれてたか
ということを思いますよね。


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