100分de名著 スピノザ“エチカ” 第3回「自由」 東京工業大学教授・國分功一郎、伊集院光、安部みちこ、白井晃



出典:『100分de名著 スピノザ“エチカ” 第3回「自由」』の番組情報(EPGから引用)


100分de名著 スピノザ“エチカ” 第3回「自由」[解][字]


人間が自由になるとは、何の制約もなくなることではなくその条件にうまく沿って生きることで活動能力を増大させることだと考えるスピノザは自由意志を否定。その真意とは?


詳細情報

番組内容

人間が自由になるとは、何の制約もなくなることではなくその条件にうまく沿って生きることで活動能力を増大させることだと考えるスピノザは、「自由意志」をも否定する。私たちが一つの行為を選ぶとき、実際には非常に複雑な要因がからまっているにもかかわらず、自由意志が唯一無二の原因で選んでいると単純化してとらえてしまっているという。第3回は、「自由」や「意志」の本来の意味を、スピノザの視点から照らし出す。

出演者

【講師】東京工業大学教授…國分功一郎,【司会】伊集院光,安部みちこ,【朗読】白井晃,【語り】加藤有生子




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100分de名著 スピノザ“エチカ” 第3回「自由」
  1. 自由
  2. スピノザ
  3. 自分
  4. 行為
  5. 原因
  6. 意志
  7. 何か
  8. カツアゲ
  9. 受動
  10. 能動


『100分de名著 スピノザ“エチカ” 第3回「自由」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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17世紀の哲学者 スピノザの代表作
「エチカ」。

その中で スピノザは
意外なことを語っています。

私たちが当然のように
「ある」と思っている「自由な意志」。

これを スピノザは否定しました。

スピノザが考える
「意志」とは?

そして 「自由」とは?

その独特の思想は 苦境に置かれた人を
「自己責任」と突き放すのではない

別の見方を気付かせてくれます。

スピノザが考える 「自由」の
本当の意味を探ります。

♬~
(テーマ音楽)

♬~

「100分de名著」 司会の…

今日も「エチカ」について教えて下さるのは
國分功一郎さんです。

(伊集院 安部)よろしくお願いします。
よろしくお願いします。

國分さん 今日は
どんなところを見ていきますか?

最終的に この「エチカ」っていう本が
目指していく 終着点っていうのは

実は 非常にシンプルなんですよね。

人間の自由ですね。 よく使う言葉です。

伊集院さんの素直な 「自由」って
どういうイメージですか?

え~ 誰にも止められない
何にも制約されない。

割と それ 一般的なイメージだと
思うんですよね。
はい。

で そこら辺をね ちょっとスピノザは
疑っていくんですよね。

あるいは スピノザを読むと その…

どんななんでしょうね。
はい。

さあ スピノザは どんなふうに
自由を言ってるでしょうか。

見てみましょう。

私たちは あれをしよう これをしようと
自分で自由に決める

「自由な意志」を持っていると
思っています。

しかし スピノザは
それをはっきりと否定しています。

人が 何かをしようという意志を持った
背後には

その人を その行動に導いた
何らかの原因がある。

例えば ラーメンを食べようと
「意志」を持ったのは

その人の「自由な意志」が
そうさせたのではなく

その意志を持つように導いた
さまざまな原因があるはずだ。

そう スピノザは考えるのです。

僕が 自由に選んでると
思ってるけども

その もともと その更に奥には
原因があるじゃない。

それに従わされてるじゃないというか。
そういうことですよね。

だから 「よ~し 今日はラーメンだ」って
僕がラーメンを選んだ時に

僕は もちろん自分で自由にラーメンを
選んだと思ってるわけですよね。

でも もちろん その決定には
いろんな原因があって

多分 僕の血糖値の状態だとか
朝 どんな匂いを嗅いだとか

いろんなことが原因となって

僕の ラーメンを食べようという決定が
決まるわけですね。

けれども ラーメンを食べたいって
思った時に

なぜ 自分は ラーメンを食べたいと
思ったのかってことは

なかなか意識できないですよね。
はい はい。

はい はい。
僕の心の中には

ラーメン食べたいっていう結果は
あるわけですから。

…ということが
出発点となるポイントですね。

で 僕らね 何か行為する時に
自分の意志だけで行為してるって

思い込んじゃってんですよね。

まあ 習慣だとか無意識だとか
横にいる人の影響だとか

その人が持ってきた自分の性格だとか…

意志だけじゃないんですよ。

ところが…

ちょっと難しい言葉で言えば…

今日のテーマは 「自由」ですよね。
はい 自由。

これは僕らの癖なんだけれども…

だから これを一回 疑ってほしい
というのが

スピノザも書いていることだし

僕も このシリーズをやりながら
言いたいことなんですね。

さあ では スピノザは自由を
どのように捉えているんでしょうか。

ご覧下さい。

「エチカ」 第一部の冒頭。

スピノザは自由とは何かについて
こんな定義をしています。

必然を逃れることが自由と
思われるかもしれません。

しかし スピノザは
私たち一人一人の心と体には

固有の性質 本性があり
その本性の必然性に うまく従って

行為できた時に
人は自由なのだと言うのです。

逆に 自分の性質 本性を踏みにじられ
何かを強制されている時

人は 自由から
限りなく遠ざかっています。

ポイントは
「必然性」っていう言葉によって

自由って言葉が
定義されてることなんですね。
はい。

普通 必然性と自由って対立しますよね。
そうですね。

自由だったら必然じゃないし
必然だったら自由じゃないっていうかね。

でも スピノザは そうじゃなくて

自分の本性の中にある
自分の心と体を貫いている

法則とか 言いかえてもいいと
思うんですけれどもね

そういうものに うまく従って
生きている時に

人間は自由でしょうと言うわけなんです。

例えばね スピノザが
魚の話をしてるんですけど

「神学・政治論」って本の中で。

魚は 水の中で 泳いで暮らすことを
運命づけられてますよね。

魚にとっての制約ですよね。
条件ですよね 魚が生きていくうえで。

魚にとっては その制約を取り除くことが
自由になることではなくて…

自分の力を
最も発揮できているわけです。

あるいは 僕らの体っていうのは
複雑な骨格と関節と筋肉でできていて

こういうふうには動かせるけど

例えば これを真後ろに
これ以上 曲がんないとかね。

僕は 芸能事の中で
ダンスが すごい苦手なんですけど

石塚さんって ダンス得意じゃないですか。
ああ そうですね。

同じ体型なのに。
はい。

あの人に言わせると
「いや 体が動く方向が分かってる」。

要するに こういうふうに足ついたら

次 こういうふうに
もう動くように できてんだよという。

それに任せ続けていく限りは ダンスは
全然 こう楽しいって言うんです。

やっぱり
武道とかスポーツとか やってる人は

ある種の 体が持っている必然性
というものに非常に敏感で

そういったものに
どういうふうに利用すると

それが うまく力を発揮できるか
ということを

多分 よくご存じなんだと
思いますけど

それは 非常に
スピノザ的な自由の捉え方ですよね。

それに対して 自由の反対はというと
何に…?

自由の反対というのは
強制っていうことになるんですね。

「一定の様式において存在し・
作用するように他から決定されるもの」。

自分たちが課せられている条件とか

僕らの心と体を貫いている
この必然的な法則が無視されて

それを踏みにじるような形で 何かを
やることを強制されたりしてる時が

僕らが不自由になっているっていう
状態なわけです。

例えばね 僕なんかも そうでしたけど

静かに 家で本とか読んでるのが好きな
子どもなのに

あなたは絶対 将来 スケート選手になるのよ
とか言ってね 押しつけたりしたら

その人の子どもの本性を
踏みにじってることになるでしょうね。

…ということを
押さえておく必要がある。

「エチカ」の中で スピノザは
「自殺」について語っています。

この「無力な精神の持ち主」とは

決して その人の精神が もともと弱かった
という意味ではありません。

生きようとする力を その人の本質と
相いれない さまざまなものによって

完全に征服されてしまった時
人は自殺してしまう。

そう スピノザは言っているのです。

ここでも 強制って言葉が
出てきましたね。

だから 自由の反対の強制ですよね。

何らかの外部の原因が
その人の本性を こう圧倒してしまう

踏みにじってしまった時に
とても コナトゥスに従って

自分を維持する状態に いられなくなって
しまったということですよね。

だから強制という 自由の正反対の状態の
ある意味では究極の状態。

だから 人は 自殺とはいっても
自分で死を選んだというよりは

死ぬことを選ばされている。

死ぬことを強制されているっていう
状態なんだと。

いや もう とても よく分かりますし

どっかで 多分
自分で選んだと思っちゃってますよね。

周りも そう思ってますよね。
ですよね。

だから 「周りも」というところが
非常に重要な問題ですよね。

だから それは やっぱり
外部にある原因によって

行われてるってことが重要なんですよね。
スピノザは そこに常に目を向けていて

スピノザは この「無力な精神の持ち主」
という言い方をしてますね。

これは 別に
非難してるわけじゃないわけです。

その人が持っている力と比べた時に

とても その人の力では
対応できないような大きな出来事や

何か原因によって
圧倒されちゃって 起こるわけですよね。

まあ ブラック企業で
自分が疲れているのかどうかすら

分からなくなってしまう。

過労死なんかで起こるのは
そういうことですよね。

それは その人が原因ではないですよね。
外部に原因があるわけです。

最後に目の前に残った どっち選んだかを
自由って言っちゃいがち。     ああ…。

で その自殺をするのか
苦しいけど 生き続けるのかの

自由な選択で 自分は自殺を取ったって
思っちゃいがちなんだけど

その前の 本来 楽しく生きたい
普通に生きたいということの

選択肢があったこととか
例えば 学校が どうしても嫌な時に

ここには やめる方の選択肢もあって
みたいのを

「エチカ」読んでると 考え直せる人が
いるような気がするんです。

今 伊集院さん おっしゃったこと 非常に
スピノザ的だなと思うんだけれども

誰かにね ちょっと その
自殺したくなっている人の気持ちを

突然 なしにすることは
できないわけですよね。

だけれども例えば こういう もしかしたら
人が自殺と呼んでる現象は

外部にある原因によって
引き起こされてるのかもしれない

ということを知っていたら 何かに
気付けるかもしれないわけですね。

何かを知ることによって 人間の気持ちに
何か変化が訪れるというのが

スピノザが とっても
大事にしてたところなんですけれども

この 自殺についての考え方も

広く 多くの人に知ってもらいたい
考え方だなと思うんですよね。

人間の「自由」について 考えを巡らせた
スピノザ。

その中で 彼が考察していくのは

「受動」 そして「能動」という概念です。

スピノザは その人の行為が外部の原因

つまり 自分以外のものの力ばかりを
表現している時

「受動」の状態にあると言いました。

自殺というのは その意味で
究極の受動状態であると言えるでしょう。

それに対し 行為が その人の力を
十分に表現している時

その人は 「能動」にあるのだといいます。

能動と受動って
どういうふうに ふだん考えます?

平たい言葉にすると やっている
やらされているっていう感じです。

それですよね。 それです。

つまり やってるというのは
自分の行為の矢印が

自分から 外に向かってる
ということですよね。

自分から 何か矢印が
外側に向かってれば 能動である

自分が何かをこうむってる時
受動だと思いますけれども

行為が 自分に向かってると
受動であるというふうに

まあ 普通は定義するわけですね。
はい。

けれども これで うまく説明できない事例
というのが実は よくあるんですよ。
ほう。

ちょっと こういう謎のフリップを
用意して頂きました。

何ですか これ。

まさかの 事例をカツアゲで。 はい。

伊集院さん
カツアゲ遭ったこと ありますか?

あります。
ええっ!

中学校2年生の時 池袋の西口ですね。
やっぱり よく覚えてるんですね。

覚えてます。
つらかったんですね。

その道を通る度に ああ
ここで カツアゲされたと思い出します。

僕も柏の駅の近くで カツアゲ遭いまして。
すごい確率で カツアゲされてますね。

それが僕も ずっと心に残っていたから

これを 例を思いついたんじゃないかなと
ちょっと思うんですけど

カツアゲって
彼が カツアゲしてるとしてですね

この被害者をぶん殴って 動けなくして
お金を奪うんじゃないですよね。

そうですね。 それは強盗ですもんね。
そうなんです。

カツアゲというのは 何かというと
「おい お前 金よこせよ」って言って

言われた方は お金を出して
自分で手渡すんです。

行為の矢印は…。
する ですね。

外。
そう。

一般的な能動・受動の定義でいうと

これは もしかしたら能動じゃないか
ってことになっちゃうわけです。

お前 自分でお金
ポケットから 出したじゃん。

お前が手渡したんだろ? って言われても
しかたがなくなってしまうわけです。

けど もちろん納得いかないですよね。
カツアゲされた身としてはね。
はい。

じゃあ スピノザだったら
どう考えるかっていうことです。

こうやって
僕が お金を渡している時にね

僕の行為は 誰の力を
最も よく表現してるかというと

明らかに カツアゲしてる人物の力を
表現してるわけです。

つまり このカツアゲしてる人物は

僕に ポケットから
お金を引っ張り出させて

渡させるという力を持ってるわけですね。
なるほど。

僕の行為なんだけど 彼の力を
より多く表現してるわけです。

ということは
僕が行為の原因になってないんですよ。

ああ なるほど。

彼の力が
僕の行為の原因になってるわけです。

だから 僕は受動なんです。

自分以外の力を より多く
表現しているから 受動。      そうです。

例えば じゃあ逆の例
どういうの考えられるかな。

道にね 困った人が倒れている。
この人を助けてあげたいと思う。

どうか このお金 使って下さいって言って
お金を手渡したとする。

その時は 僕が そういう何か
義の心を感じる能力を持っている

更には その相手に共感する能力を
持っている そういう僕の力が

僕の本性が そこで表現されてる
というふうに考えることができますよね。

ほうほう。
僕自身が 僕の行為の原因になっている。

そうするとね お金を渡すっていう行為を
見た時には

行為の矢印だけに注目する定義だと
全部 能動になっちゃうんですよ。

スピノザだったら 原因となっているのは
何か 更に その結果である行為は

一体 どの力を 誰の力を表現しているのか
そこに注目するんですね。

まとめると こういうことに。

スピノザは こうやって
能動的であるということをね

人間にとって
とっても大切なことだ。

だけれども どうしても社会の中で人間は
受動的にならざるをえないということも

何度も何度も 繰り返し書いてますね。

だから そこをスピノザは どういうふうに
乗り越えようとしたのかってことを

考えなきゃいけない体に
なってくるわけですね。

スピノザは
「受動」の状態から脱する方法を

感情を論じた定理で語っています。

感情を 明瞭判然と認識するといっても

スピノザの言うとおり 確かに
絶対的に認識することはできません。

しかし それを部分的には
認識することができます。

そうすることで 私たちは
受動の感情から働きを受けることを

より少なくすることができる
というのです。

そのようにして
強制される部分を減らし

少しずつ
自分の力を表現できるようになる。

自分の心と体を貫く必然性に
うまく従って 行為できるようになる。

それが スピノザの考える「自由」なのです。

今 僕は 何で
こんな気持ちなんだっていうことを

ちゃんと いろいろ分けて考えていくと
少しは楽になるでしょっていう。   はい。

楽になる上に
自分の力も表現できるようになる?

完全に自由で 完全に能動なのは
神だけなんですよね。

必ず 他から影響を受ける我々は
完全な能動にはなれないわけですね。

だから 完全に自由にも
なれないってことです。

でも 受動的な部分をちょこっと減らして
能動的な部分をちょこっと増やすとか

いわば 自分のコナトゥス 本性に従って
自分の力を発揮するように

少しずつ なってくことができますよね。

それは
スピノザの その実践的なところが

あらわれてる考えだと
思いますけれどもね。 はい。

一般の我々が これを知ることの

まず 分かりやすいプラスは何かって
思った時に

「私は今 自由なはずなのに 何だろう
この居心地の悪さは」ってことって

起こるじゃないですか。 それのヒントって
ここにあるような気がして。

今日は冒頭で 自由との関連で
意志の話をしましたけれども…

選択の自由があって
で あなたが選んで下さい。

ああ 選んだんですね
あなたの自由意志で選んだんですね

だから
あなたの責任ですよねっていうような

そういう考え方が非常に強いんですよね。

だから 僕らは 自由っていう言葉も
選択の自由とか

自由意志っていう形でしか
もう理解できなくなっちゃっていて

スピノザみたいに
自分を貫いている必然性とか

僕が置かれてる条件というのは
どういうものだろうとか

そういうことを認識して 行為するという
考え方に とてもいかないですよね。

例えば この前 僕 不登校の子どもの
新聞の取材を受けたんですけど

彼らもね 意志が弱いんじゃないかとか
って よく言われるんですよね。

でも本人としても まず逆に行きたくない
っていう意志が強くあるのか

それとも どうしても行けない
状況があるのか

それも分からないっていうんですよね。

それ 本当に
正直な表明だと思うんですよね。

自分の この欲望の原因を
人間が理解できないのだとしたらね

今 自分が どうしても学校に向かって
歩きだせないっていうのが

その理由が分からないっていうのも
別に不思議なことじゃないんですよね。

ところが 現代社会っていうのは
何でも意志のせいにしてね

「それは 君の意志が弱いからだ」
っていうふうに説明しちゃう。

人間 そんな単純なわけないでしょって
ことなんですよ。

僕は 今回 聞いてて
すごく ほっとするというか

やっぱり この難しい文章の中に
優しさがあるなって思うのは

完全な自由 完全な能動みたいなことは
ありませんっていう。

相対的なものだったり
ケースバイケースだったりすることも

考えて 書いてくれるというのは

僕にとっては
とても ありがたいし 優しいことですね。

難しい文章の中にある優しさっていうのが
とっても いい言葉ですね。

最終回も よろしくお願いします。
よろしくお願いします。

(伊集院 安部)
ありがとうございました。


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